ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「死刑にいたる病」

「死刑にいたる病」観ました。
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「初めてお手紙を出します。僕のことを覚えていますか。」

元優等生で受験に失敗したことから殻に閉じこもり、さえない大学生活を送っていた筧井雅也(岡田健史)。

祖母の葬儀で帰郷した雅也は、自分宛ての手紙を見つける。差出人は棒村大和(阿部サダヲ)ー日本中を震撼させた連続殺人犯だった。

 

櫛木理宇の同名小説の映画化。脚本・高田亮白石和彌監督作品。

 

棒村大和。

昼間はパン屋の店主。棒村の手作りパンは人気があり、併設しているカフェスペースは学校帰りの中高生でいつもにぎわっていた。

夜は殺人犯。店に通う中高生の中から目を付けた相手と距離を縮め。自宅に監禁し、じわじわといたぶった挙句殺害し埋めていた。被害者の数24件。うち9件が立件・起訴となり第一審で死刑判決が確定。現在は刑務所に収監されている。

 

棒村と雅也の接点。それは「雅也が棒村の店のお客さんだった」こと。

 

当時は中学生だった雅也。塾に行く前に時々通っていたパン屋。カウンターで食べるパンとドリンクが美味しくて。棒村が親身に話を聞いてくれるひと時が大好きだった。

 

「会いに来て欲しい」

棒村からの誘いに、思わず刑務所へ向かった雅也。数年ぶりに会った棒村はあの頃と変わりがなくて…けれど、屈託のない棒村から出たのは「冤罪証明」の依頼だった。

 

24件の殺人容疑…そのうち9件が立証されたが、どうしても1件だけは自分の犯行ではない。あれだけは違う。

「まだ本当の犯人は、あの街にいるかもしれない。今それを知っているのは、君と僕だけだ」

 

一件の冤罪をめぐり過去を調べていくうちに、事実は何度も姿を変え…遂には雅也の立っている場所も揺らいでいく…。

 

人当たりがよく誰からも信頼される好人物の反面、息をするように殺人を繰り返した。そんなシリアルキラー・棒村を演じた阿部サダヲ。どちらかというと陽な雰囲気のキャラクターを演じることが多い印象の彼が、その明るさを不気味さに転換させながら演じきった。一切の光を感じないその黒目に狂気を感じる。さすがの手練れ…けれど受け手役の岡田健史もまた、見事だったなと感じた当方(何様だ)。

 

筧井雅也。

子どもの頃は優等生だった。けれど結局は井の中の蛙で、大学受験に失敗しFランクの大学に在籍している。友達も恋人もいない。孤独でさえない学生生活(一回しかない人生の、はっちゃけたらいい大学生生活が…もったいない)。

元教師の祖母や堅物の父親に失望されたと思うと、地元には帰ることができなかった。今回帰省したのも祖母が亡くなったから。

こんなはずじゃない。俺はこんな場所にいるはずじゃなかった。コミュニケーションをとらず壁を作り、面と向かって口には出さないけれど周囲にいる者を見下している。

一見おとなしいけど、鬱屈した感情が渦巻いて爆発しそうな危うさもある。

そんなアンバランスな主人公を見事に体現していた。

 

お話は…「刑務所に収監されたシリアルキラーによる、あくなきマインドコントロール欲」だったと感じた当方。

 

連続殺人の被害者に共通していたのは、おとなしく真面目な高校生の男女だったこと。

棒村が冤罪だという被害者は、成人している大人の女性であり、殺害方法も他とは違う…棒村のいたぶるお作法「生爪を剥いだ」跡がなく、死体処理も森の中に打ち捨てられるという雑さだった。

 

「その事件が冤罪であるとして、何故雅也に真相究明を依頼したのだろう?」

 

持ち前の真面目さと興味も相まってどんどんのめりこんでいく雅也。かつての事件たちを洗い出すうちに、自分自身の出目についても揺らぐ羽目になる。

棒村と、雅也の母親・怜子(中山美穂)とのいにしえの縁。何の因果か。棒村と雅也の関係はただのパン屋の店主と客ではなかったのか。

 

雅也の行く先々に現れる長髪男性・金山(岩田剛典)。いかにも真犯人ぽい、挙動不審な謎の男の正体は。

 

「その事件が冤罪であるとして、何故雅也に真相究明を依頼したのだろう?」

あくまで当方の持論ですが。「雅也君。あ~そ~ぼ~」だったんじゃないかと。

 

かつて仲良くしていた幼い兄弟に「今日は何して遊ぶ?」「どうやってボクを楽しませてくれる?(言い回しうろ覚え)」追い詰めて、兄弟を互いに傷つけ合わせた棒村。

 

自分の置かれている場所に納得できない。しっくりこない。けれどどうしたらいいのかわからない。なんだかイライラする。どうしたらいい?

不安定で、けれど自分では結論を出せずにもがいている人間(えてしてそれは思春期の少年少女だった)を見つけ出すのが上手くて…見つけたらわくわくする。

楽しませて。少年少女を手なずけ、安心して心を預けてきたところで捕食する。棒村のお楽しみルーティーンは一時殺人行為に向かった。けれど刑務所に収監された今、殺人は不可能。己のフラストレーションは満たされない。

 

ならば。かつて縁があった子供たちに手紙を出せば…面白い行動をしてくれるんじゃないか。殺すことはできないけれど。マインドコントロールする楽しみが忘れられなくて(それを『大人』には向けないところが棒村のよわっちい、卑怯なところですよ)。

 

「それが、棒村が雅也に手紙を出した理由」

当方はそう思ったんですが。

 

自分の中に潜む危うさ。獄中にいるシリアルキラーに踊らされていたけれど…「こうであってほしい」というご都合主義には逃げなかった。自分の置かれている場所をきちんと見据えた。陳腐な言葉ですが…物語の終わりには雅也の『成長』を感じた。

そして最後の最後「やっぱり気持ち悪いわ棒村」をたたきつけてくる描写。

 

事件の真相究明に至る過程、主人公雅也の家族関係なども絡まり二転三転しながら進む展開もテンポが良く飽きさせない。

しいて言えば「言論の自由とはいえ、刑務所からこんな内容の手紙が出せるものなのかね?」「棒村はどうやってターゲットの住所を調べているんだ」という疑問はありましたが。まあそれはお話ですから…。

 

冒頭の美しく見えたあのシーンの禍々しさ(褒めています)。

これが病ならば確かに『死刑にいたる病』。決して再び世に放たれない。はずなのにまだくすぶっている…。

129分がノンストップ。飽きることなく疾走する、見ごたえのある作品でした。

映画部活動報告「カモンカモン」

「カモンカモン」観ました。
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マイク・ミルズ監督・脚本。主演、ホアキン・フェニックス

 

ニューヨークに住む、ラジオジャーナリストのジョニー(ホアキン・フェニックス)。

ロサンゼルスに住む、妹・ヴィヴ(ギャビー・ホフマン)から突然来た電話。それは「数日の間、息子のジェシー(ウディ・ノーマン)を預かってほしい」という依頼だった。

 

ジェシーの父親であるポール(スクート・マクネイリー)。才能豊かで期待されている音楽家であり、家族と離れて大きな楽団に所属しているが、精神的に不安定な部分がある。

楽団からの連絡で駆け付けたが深刻な状態であり、ポールの傍を離れるわけにはいかない。なので不在の間息子の面倒を見てくれないかというもの。

独身。仕事の性質からも自由が利く身であるジョニーは快諾。そうしてジェシーとの生活が始まった。

 

『おじさんとボク』

さんざん見たことがある気がする『独り者の中年男性と子供のほのぼのとした日常を描いた作品』いわゆる子育て映画。今作も御多分に漏れず、そういった内容なのですが。

 

どこに出しても間違いようがない、そんな立派な独身中年。子を持たない当方はどうしても「子供あるある~」はわからない。わからないけれど。

「いくら何でもジェシー幼くないか?」

9歳児の発達段階、知る由もありませんが。それにしてもジェシーが幼い気がする(例えば。9歳の子ってカラクリがある歯ブラシとか欲しがるもんなんですか?)

朝から爆音でレコードをかける。大人を巻き込んでの「孤児院の子ごっこ」(おままごと)。スキンシップ大好き。すねたらフラッと姿をくらませる。

学校に通っている描写もぼぼなかった。つまりは…「変わっている」だけではない。集団生活が辛いタイプなのかなあと思った当方。

 

数日だけだと思っていたジョニーとジェシーの共同生活。けれど、ポールが膠着状態でヴィヴは家に戻れない。いつまでもロサンゼルスに滞在するわけにもいかず、二人はジョニーの家があるニューヨークへ移動した。

 

デトロイトニューオーリンズ。そこに住む少年少女にマイクを向け、心のうちを語ってもらう。

「自分の住む町をどう思う?」「自分がもし自分の親だったら何を伝えたい?(言い回しうろ覚え)」時にはそんな質問を出す。インタビュー番組制作がジョニーの仕事。

(これ、一体どこが母体になっているんだ…NPO団体?ニューヨークで独り暮らしができるくらいには稼げているみたいやけれど。まあ大きなお世話でしょうが)

少数精鋭のクルー。都市を飛び回る彼らにジェシーも加わった。

 

「普段少年少女と対話をしているんだから、子供の相手はできるだろう」

ところが。そんな甘い話じゃなかった。ジェシーの行動は予見できないことばかりで、うろたえるばかり。毎日のヴィヴとの電話でジェシーの扱いや普段の奮闘ぶりを聞くことになった。そしてポールの状態に対し真剣にアドバイスをするジョニー。

 

以前、兄妹の関係性は決して良好なものではなかった。

 

かつて母親の介護をしていた二人。認知症が進む母親に向き合うのが怖くて、きちんと関われなかったジョニーとがっつり面倒を看る羽目になったヴィヴ。発生するフラストレーション。言い合い。母親が他界した後、二人は疎遠になりつつあった。

 

けれど。9歳のジェシーを通じて、ぎくしゃくしていた兄妹の関係性も徐々に再構築されていく。

 

「大人はきちんとしている」

当方は子供のころそう思っていた。学校を卒業し職に就く。結婚し子供を産み親になる。大人は人の嫌がることはしない。しっかりしていて分別がある。漠然とした大人像があった。

 

「ところがどっこい。きちんとした大人なんて…下手したら存在しないぞ」

生活する手段は得ておきたいけれど。結婚して子をなさないと大人じゃないなんてことはない。意地悪な人もいるし、だらしない気持ちに負けるときはおおいにある。

つまりは「完璧な人なんていない」「人は人。自分は自分」。

 

これからの成長過程で、ほかの人より辛かったり気になることが多いかもしれない。けれど、そんなジェシーに「だから何だ」と言ってあげれられる。

ジェシーの周りにいる大人たちを見てごらんと。

 

精神的に不安定であったり。誰かと暮らしていなくてひとり。でも…だからなんだ。

いくつになっても不安を感じたり憤ったりする。感情に任せてしまう時もある。恥ずかしい思いをする。くよくよする。そういうことはなくならない。

 

誰かと一緒に生きていなくても。かつての恋人が忘れられなくても。恋ができなくても。これが自分だ。

完璧じゃないけれど、それなりに整った風に見られたくて。大人になると周囲に対して着飾る知恵がつくから、一見落ち着いて見えるけれど…内心ひやひやしているときだってある。

 

ジェシーとの共同生活は、蓋をしていた自分自身を見つめなおす機会になった。もういい歳、思えば遠くへきたもんだ。そう思っていたけれど…同じような場所でいまだにもがいていた自分がいた。

 

でも。そんな不格好な自分や大人たちを見たらいい。ジェシーが「大人はきちんとしていなければならない」とがんじがらめにならずに済むように。

 

大丈夫。大丈夫じゃなくても大丈夫。

 

全編モノクロ作品。確かにカラーだと情報量が飽和しそう(…と思う反面、ラスト周辺は色彩豊かに観たかった気もする)。

「君は幼いから。きっと忘れるよ」「そんなことない。絶対に覚えている」(言い回しうろ覚え)ベットでジョニーとジェシーが交わした会話。

 

てんてこまいだった日々も、後になったらふんわりとした記憶にしなからない。色褪せた…モノクロの…けれど確かにそんな日々は存在した。決して楽しいことばかりじゃなかったけれど。長い目で見たら一瞬で、けれど濃密だった。

 

お話もモノクロ映像も。そしてサントラも良かった。穏やかで心が満たされていく作品。思いがけず出会えた良作でした。

映画部活動報告「ハッチング 孵化」

「ハッチング 孵化」観ました。
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第38回サンダンス映画祭でプレミアム上映された、フィンランド発のホラー作品。

監督はハンナ・ベルイホルム。原案・脚本はイリヤ・ラウツイ。主人公ティンヤは1200人のオーディションから選ばれたシーリ・ソラリンナが演じた。

 

12歳のティンヤ。両親と弟の4人暮らし。母親は動画SNSサイトの『素敵な毎日』というブログで日々の生活を世界に発信するのに夢中。

 

「包容力があって優しい夫と、可愛くて素直な娘と息子」「幸せな家族」「ハイセンスな生活?ううんこれが私たちにとっては当たり前なの」

 

母親の幸せ自慢動画撮影から幕が上がったと思いきや~窓からガラスをぶち破って入ってきた闖入者。

室内を飛び回り、物をなぎ倒し、装飾品を割る。家族の阿鼻叫喚の中、捕まったソイツ…鳥を外に放つのかと思いきや。首をへし折り、ゴミ箱に捨てる母親。

「こいつはなかなか不穏な…」のっけから闇全開。これは…期待できる。

 

その夜、鳥のうめき声が聞こえた気がして、家を出てふらふら森へ歩き出したティンヤは、奇妙な卵を見つけた。

思わず自宅まで持ち帰ったけれど。家族に見せるわけにはいかない。

自分のベットで温めることにしたティンヤ。次第に卵は大きくなっていって、ついに孵化し現れたソレ=アッリ(水鳥)は幸せな家族の虚構をはぎ取ってく…。

 

とにかく母親がうっとうしい。自己顕示欲が強く、その矛先がおおむねティンヤに向けられている。

「うちの娘ティンヤ。可愛くて、体操選手としても優秀なの。」

母親は元体操選手だったらしいが、怪我で選手生命を絶たれた過去があるらしく。ティンヤを体操教室に通わせ、過剰なプレッシャーをかけている。

 

もっと。今のままじゃダメ。もっと頑張らないと。ママをがっかりさせちゃう。

 

手に血をにじませて練習に励むティンヤ。実際には大会メンバーに入れるかも微妙なラインだけれど、ママに認めてもらうには大会優勝を目指さないと。

 

「よくないな~こういうの」

眉を顰める当方。こういう調子で終始『娘を私物化して自己顕示欲を満たそうとする母親』と『母親に認めてほしくて自分を押し殺し我慢を重ねる娘』の構造を見せつけられる。この二人に共通しているのは『承認欲求』。

 

かつて体操選手だったが選手生命を絶たれ、自分をアピールするポイントを失った。けれど…私の魅力が失われたわけじゃない。

「素敵な家族とハイソな生活」「見て。私はこんなに生き生きして暮らしている」「何ら不自由のない、満ち足りた毎日」

そのためにはティンヤが『成功品=よくできた子』じゃないと。

 

12歳。身も心も成長段階で不安定な時なのに。大好きな母親をがっかりさせたくなくて頑張っているティンヤ。けれどうまくいかない…体操だって、もっと上手な子が現れた。

 

ふつふつと湧いてくるフラストレーション。けれどその理由は考えたくない。

そんなころ…遂に巨大化した卵からアッリが孵化した。

 

ある日。母親の浮気現場に遭遇してしまった。出入りの修理屋テロ。動揺しているティンヤに母親が言った言葉が「ママね、恋してるの(言い回しうろ覚え)」。

 

普通は言い逃れをする案件。けれど「ティンヤも女の子ならわかるでしょう?」「女子同士の秘密ね」とさながらティーンエイジャーの恋バナ感覚にすり替える。挙句「週末にテロの家に一緒に行かない?」と持ち掛けてくる。正直神経を疑う。

 

ところが。まさかの不倫相手・テロが滅茶苦茶いい人なんですわ。

「何故あなたのような好人物があんな女と?(下品な言い方)」そう思わざるを得ない。恋人が娘を連れて遊びに来ても嫌な顔一つしない。

そして。ティンヤが無理をしていることをすぐに見抜いて的確に対応できる。

「すきなことをしたらいい」体操は母親のためじゃない、楽しんでするものだと諭す。

 

「何故この役回りを父親ができないんだ」

この作品における父親の無能さ。(やんちゃな弟はいかんせん幼いし「役立たず!」とは思わない。むしろ「お前殺されるぞ」という危うさがあった)。

とかくこの家族において男性陣の活躍がなさすぎる。

 

ティンヤのフラストレーションの権化としか思えなかったアッリ。不気味でどこにも愛嬌を見いだせないビジュアル。ティンヤの吐しゃ物しか食べないという(当方は)生理的に嫌悪してしまう光景(鳥って、母鳥がかみ砕いたモノを吐いて与えるらしいので、生態的には正解みたいですが)。

母親と認識しているティンヤ以外には凶暴で、口に出していないのにティンヤの心を乱す相手に対して凶行に及ぶ。(その描写がまた結構エグイ。隣の家に住むレータの不憫さよ…なまじ体操が上手かったゆえに)

 

不気味で凶暴。そんなアッリを何度も突き放そうとしたけれど、結局見捨てたり殺すことができなかったティンヤ。

成長し姿を変えていくアッリをついに隠し切れなくなったその時。

家族と…母親と対峙したとき。母親、ティンヤ、アッリに何が起きたのか。

 

「うわこの終わり方。個人的には嫌いじゃないけれど後味悪う~」

『承認欲求』でがんじがらめになっていた母親とティンヤ。そこに新たに加わったアッリ。

誰もが「これなら愛してもらえる?」という負のスパイラルから抜け出せない。そして結果…。

 

ハイブリットの誕生ととらえるべきなのか。ヒエラルキーの逆転を示すのか。それとも…。

 

もっと早くにただ一言「ありのままでいいんだよ」と言ってあげたら。母娘がその通りだと気持ちが落ち着いたら。本物の『素敵な毎日』が訪れただろうに…。

 

ただただ不穏で禍々しい。一見可愛いようでグロテスク。北欧の国フィンランドが放つホラーは、一筋縄でいかないおぞましい作品でした(褒めています)。

映画部活動報告「ドント・ルック・アップ」

「ドント・ルック・アップ」観ました。
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アダム・マッケイ監督。NETFLIX作品。

 

アメリカ。ミシガン州立大学天文学教室。地味に活動していた彼らが「半年後の確実に地球に衝突する巨大彗星」を発見してしまったからさあ大変、というお話。

天文学教授のランドール・ミンディをレオナルド・ディカプリオ。博士課程の学生ケイト・ディビアンスキーをジェニファー・ローレンスが演じた。

 

「あと半年後に巨大彗星が地球に衝突し人類は絶滅する。」

もしそんなニュースを目にしたら。当方はどういう行動をとるのだろう。

 

「もう無理して生きる意味なんてないな」即座に仕事を辞め。貯金を下ろし。好き勝手暴飲暴食して何も我慢なんかしない。だって「確実に衝突するし人類は絶対に死ぬ」と言っているから…なぜだろう。むしろ、最後の最後まで仕事を辞めずにできる限り普段通りに生活していそうな当方の方が想像がつく。

 

ミシガン州立大学天文学教授とその学生が、ある日「6か月後に地球に衝突する巨大彗星」を発見してしまった。何度軌道を計算しなおしても結果は同じ。彼らはNASAへ連絡。事実と認定され、NASAの惑星防衛調整室長のテディ・オグルソープ博士(モブ・ローガン)が出動する事態となった。

 

「これは大変だ」ホワイトハウスに有事を報告すべく向かった一同。しかし事の重大性は全く伝わらず暖簾に腕押し。問題を打破させるべく人気報道番組(という名のワイドショー番組)『デイリーリップ』の出演を果たすが。世間は「世界の終わり」よりも「歌姫と有名ラッパーとの破局」の方に興味津々で。

 

「世界の終わりに向けて」という一見シリアスなテーマを扱っているようで、この作品はあくまでコメディ。それもブラックユーモア路線。

 

「ありそう~」「こういう世論の雰囲気ありそう~」「有事に乗じて金儲けする奴いてそう~」毎度展開に苦笑い。

 

とにかく「ここで手を打っていればまだ人類は救われたかもしれないのに」の連続。

着々とタイムリミットは近づいているのに、ことごとく事の重大性が伝わらない。

 

女性大統領ジャニー・オーリアン(メリル・ストリープ)。初見では「とりあえず様子見」の軽い扱い。なのに、自身の政治家生命を問われるスキャンダルをうやむやにするために突然方向転換。真面目に事態に取り組む姿勢を見せた…と思いきや、肝心な時に大手企業CEOの口車に乗っておかしな方向に舵を切ってしまう。まさに風見鶏。

 

大手企業バッシュ社のCEOピーター・イッシャ-ウェル(マーク・ライアンス)。

胡散臭そうなスピリチュアル系コンテンツが盛り込まれたスマートフォン販売などをこなす…なんだかよくわからないけれどお金と権力はやたら持っているIT企業を率いるピーターは、人類の希望を託した『巨大惑星にスペースシャトルで体当たり作戦』を土壇場で強制的に中止させる。理由は「この彗星に貴重な物質レアアースが含まれており、人類の発展と生活の向上のためにはこれを利用しない手はない。」という理屈。

 

『デイリー・リップ』の女性キャスター、ブリー・エヴァティーケイト・ブランシェット)。緊張感をみなぎらせて現れたミンディとケイトに、初めは茶化した態度をとっていた。しかし、大統領の手のひら返しを目にするやミンディたちへの対応を一変。

特にミンディに対し色目を使いだし、妻子がいるミンディと不倫関係に発展する。

 

「みんな。真面目にやって!」

事の重大性に危機感を持ち、声を上げ続けたのはケイトくらい。けれど、不安を強くにじませた彼女の態度は世間からは「ヒステリック」「頭がおかしい」と避難されてしまう。(ミンディだって同じスタンスで訴え続けていたのに…悲しいかな男女の差なのか…)

 

こうなればバッシュ社の打ち出した『巨大彗星からレアアースを抜き出して衝突回避作戦』にすがりたいけれど…いかんせん、器械が計算しただけの計画で、有識者たちの査読が一切入っていない。博打にもほどがある。

 

繰り返しますが。とにかく「ここで手を打っていればまだ人類は救われたかもしれないのに」の連続。

 

イムリミットは近づいている。いよいよ肉眼で見えるくらいに彗星が近づいてきた。

そこでタイトルの「ドント・ルック・アップ」と「ルック・アップ」の水かけ論争が繰り広げられていく…もう…どうしようもないのに。

 

巨大彗星衝突による地球の終焉。それを事前に知っていたのに。くだらない見栄や欲が絡んで手が打てない。新しい意見が出るたびに人々は翻弄され、救われたい一心で縋り付く。結局終わりの日を迎えることになってしまう。因果応報とはこのことか。

 

「なんか…昨今の社会情勢やご時世が頭をよぎるな…」おそらく。今の時代にこの作品が作られたことのメッセージをふんだんに詰め込んでいる。

 

「ドント・ルック・アップ」空を見上げるな。都合の悪いことは見るな。そう叫んでも…実際に空を見上げればそこには例の彗星が存在している。確実に人類を追わらせることができるらしいそいつが。

 

「ルック・アップ」見るしかない。この世に生を受けたからにはいつかは死ぬ。そうわかっているからこそ、もう打つ手がないのならば自らの命を奪う相手をしっかり見なけば。未曽有の事態にどういう態度をとるべきか、見極めたい。悔いなく人生を終わらせるために。

 

世界の終わる日。もし確実にこの日だとわかったら。その日をどう過ごすのだろう。この作品の主要人物たちのラストはとても理想的だと思った当方。これがいい。これがいいな(映画『エンド・オブ・ザ・ワールド/2012年公開作品』も好きな終末)。

 

最後に。地球が崩壊した後の未来が映し出されたとき。「お前たち…そういうあさましさ!」「人類は繁栄しないぞ!」どこまでも皮肉な展開に突っ込まざるを得なかった当方。

 

テンポよく突き抜けたブラックコメディ映画…と見せかけて盛り込まれたメッセージは盛りだくさん。

果たしてそれを「ルック・アップ」か「ドント・ルック・アップ」とするか。

映画部活動報告「アネット」

「アネット」観ました
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バンド・スパークス(ロン&ラッセルのメイル兄弟)のオリジナルストーリーを基に作られたロックミュージカル。レオス・カラックス監督作品。

 

前衛的コメディアンのヘンリー(アダム・ドライバー)と死のオペラを歌うソプラノ歌手アン(マリオン・コティヤール)。挑発的なコメディアンと人気歌姫が恋に落ちた。

誰もがうらやむセレブカップル。美女と野獣。世間の注目を浴び、メディアに追い回される。ラブラブな二人。二人のため世界はあるの。けれどそんな日は長くは続かなかった。

娘のアネットを授かった。なのに次第に冷え込む夫婦の絆。アンは相変わらずの人気歌手。けれど、前衛的すぎるヘンリーの芸風は次第にコメディアンとしての人気を落としていく。

どんどん落ち目になり闇に落ちていくヘンリー。そんな時、家族の船旅で嵐に巻き込まれ船は難破。アンを失ってしまった。

 

「カラックス監督作品が!」「スパークスが!」…当方は「何となく映画館で流れていた予告で気になったから」「アダム・ドライバーが観たくて」という鑑賞動機しか持ち合わせておらず。彼らについて何ら語るすべを持っていません。あしからず。

 

「いやあ~今回とことん『悪いやつ』やったな~アダム・ドライバー

今作ではプロデユーサーも兼ねていたんですね。監督とスパークスにほれ込んでいるから。でも役柄はとことん『悪い父親』。

 

アダム・ドライバー演じるヘンリー。スタンダップ・コメディアン。舞台でマイク片手に客いじり。芸風は「俺様が低能なお前たちに会いにきてやったぜ 系」で、正直当方は全然好きじゃないタイプのやつ。

けれど、そんなヘンリーに大切な恋人ができた。オペラ歌手のアン。

 

「マリオン・コヤール滅茶苦茶歌上手い」

アカデミー主演女優賞『エディット・ピアフ~愛の賛歌~』があるし歌が上手いのは当然なのか。なんにしろ「人気ソプラノ歌手」の説得力が強い。

 

アンはオペラの中で何度も死ぬ。悲劇的な死の歌を歌うアンと、挑発的な芸風のヘンリー。さながら美女と野獣。世間は注目しマスコミに追いかけられ。羨望のまなざしを向けられた。二人は結婚し。そして、娘のアネットを授かった。

 

誰もがうらやむ幸福な生活。そうとしか見えなかった二人の関係が…次第に歪なものになっていく。

 

「ヘンリーよ。どうして満足しない」

 

いま居る場所を安住の地としたら幸せになれるのに。そう思うのは当方が歳を取ったからなんですかねえ。

かつてヘンリーと交際していた女性たちの告発によって知ってしまった、ヘンリーの暴力的な一面。不安になりおびえるようになっていくアンと、挑発的な芸風があだとなり落ち目になっていくヘンリー。文字通りの嵐の夜に船上で起きた悲劇。

 

オペラでは何度も死んだ。そして現実でも命を奪われた。生霊となり、娘のアネットにとりついたアン。なのに。

ある日聴いた、アネットの歌声がアンと同じと知ったヘンリーは『見世物』として世間に売り出すことを思いつき、実行する。

 

オペラでアンが歌っていた時にピアノ伴奏していた彼は、夢見ていた楽団の指揮者になった。そんなかつてのアンの仲間を引き込み、アネットのツアーを組むヘンリー。

 

「この指揮者がまた…いい奴なんですわ。そして彼が指揮者として登場するシーンが滅茶苦茶いい」。

ロックミュージカル映画なんで、随所に歌うシーンがあるんですが。指揮者の彼が歌いながら登場するシーンはかなり好み。

 

アンと結婚したけれど。安定した家庭を築けず崩壊した。残された娘のアネットを愛してはいるけれど、アンの歌声を持っていると気づいた途端、金になると判断し見世物にした。

 

「なんでかなあ。せめてここで止まっておけば、幸せになれるチャンスは残っていたような気がするのに」

 

もう誰もヘンリーのネタでは笑えない。コメディアン人生は終わった。けれど。アネットに才能があると知れば、今度はアネットのプロデユーサーとして世間に姿を見せる。

「お前はすごい」と言われたい承認欲求。はてない自己顕示欲の強さ。

 

そして。「余計なことを言うやつは消えろ」という、ヘンリーの抑えきれない暴力的な一面がさらなる悲劇を生んだ。

 

コメディアンとしての生命を絶たれ。それでもどうにかあがき続け。アネットの才能を見つけてからは野心と枯渇さを持って再びのし上がっていく。けれどその頂点にたどりつたと思ったとき。アンとアネットはヘンリーの罪を世間に暴露した。

 

アネットが人形、というのは斬新ではあるけれど「アンの歌声を持つ子ども」という設定を考えるとなるほどと思っていた当方。

けれど。最後の最後…姿を変えたアネットを目にしたとき「やっとアネットは両親から解き放たれたんだな」と感じた当方。

 

両親から課せられた呪縛。父親のヘンリーは自分を利用した。けれど…逝ってしまった母親のアンもまた、ヘンリーに復讐するためにアネットにとりついた。

まさに両親にとってアネットはお人形。己の欲望を満たすためにいいように扱える道具(ひどい言いかた…)。

 

けれど。両親には手の届かない場所に身を置けたとき…アネットに命が吹き込まれた。まあ…当方の勝手な解釈ですが。

 

この作品で、当方が最も好きだったのがオープニングとエンディング。特にオープニングシーンは当方指折りの名シーン(あくまで当社比)。

「今からなんかわくわくすることが始まるぞ!」という期待でいっぱいになる。

そして息つく間もなく一気に鑑賞してしまう。

最後のさみしくやるせない気持ちを撫でるように締めたエンディング。うっとりしてして…ためていた息を吐く。そんな余韻がたまらない作品でした。

 

 

映画部活動報告「TITANE/チタン」

「TITANE/チタン」観ました。

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第74回カンヌ国際映画祭最高賞受賞。主役のアレクシアを演じたアガト・ルセルは今作が長編デビュー。ジュリア・デユクルノー脚本・監督作品。

 

おなじみ「カンヌ騒然!」の文言。けれど『RAW~少女のめざめ~(2016年)』の監督作品と知って。「相当胸糞悪い思いをするだろうな(褒めています)」と思いながら鑑賞に至りましたが。

「一体何をみせられたのか」

街で見かけた、不思議な看板の店にふと興味を持って暖簾をくぐったが最後…無理やり引きずり込まれて、奇天烈な出し物を見せつけられた挙句その建物ごと爆発した、みたいな衝撃(何このたとえ)呆然自失。

 

幼いころに自動車事故で開頭手術を受けた主人公のアレクシアが成人し車とセックスして妊娠し出産する。

…ひとことでいえばそういうお話なんですけれども。

 

車に異常な興味と執着を持つ少女、アレクシア。自動車事故にあって開頭手術を受け、頭蓋骨を固定するために側頭部にチタンプレートを使用している。(「う~ん。子供の手術にあんまりチタンプレートは使わないけれどねえ(脳外科医談)」)

側頭部の傷跡が独特。そんなビジュアルを持つアレクシアは、成人した現在も車への執着が冷めやらず。モーターショーでショーガールとして生計を立てている。

日々モーターショーでセクシーなダンスを披露し観客を翻弄させてきたアレクシアは、ある夜車と情熱的なセックスをし、じきに妊娠したとわかる。

動揺し暴走した結果、連続殺人と放火を犯し、指名手配される羽目になったアレクシアはふと見かけた捜索願から『10年前に7歳で失踪した少年エイドリアン』に成りすますことを思いつく。

 

(今のところストーリーを順当に追っているんですがねえ。もうすでに「何て?」の連続)

 

顔面を自ら洗面台に打ち付け、鼻を骨折させて様相を変え。女性、ましてや妊娠中とばれないように胸とおなかにさらしを巻いて、エイドリアンの父親ヴァンサンと対面する。

 

とにかく暴力的で衝動に突き動かされるアレクシア。なれなれしく近づいてくるファンは容赦なく殺害。爆音とライトで煽ってくる大型車とセックス。ショーで知り合ったダンサーとイチャイチャしていたかと思うと殺害。同じ家にいた仲間も皆殺しと、とにかく容赦がなくてやりだしたら止まらない。

 

この作品に対して「なんか凄いもん観たけれど、一回観たらもう十分です」と言ってしまうのは間違いなく「痛い表現が多すぎる」から。

当方と、一つ空いて隣に座っていた見知らぬ男性。何度も「うっ」と息をのみ、体をすくめた。痛い。実際には感じていない痛覚が反応する。

アレクシアの長い髪をまとめる、金属の長いかんざし。おもむろにそれを引き抜き、相手に突き刺して殺害する。そのかんざしを自身に突き刺し堕胎を試みる。口の中に椅子の足を突っ込んでその椅子に座る。顔面を自ら洗面台に打ち付けて鼻を折る。

「いってえええ~」

序盤のシャワールームでのシーンで。イチャイチャしていた相手の乳首ピアスに濡れた髪の毛がからまったとき、力ずくで髪を引っ張った時点でのけぞった当方と男性。

 

「出会ったやつは必ず殺す!」そんな、やりたい放題の殺人鬼アレクシア。

なのに。17歳の少年エイドリアンに成りすべく、エイドリアンの父親ヴァンサンと体面したところからガラッと話は変わる。

そもそも。23歳の女性が何故17歳の少年に化けられると思うのか。(そこまで顔が似ているとも思わなかった)性別が違う。ましてやアレクシアは妊娠中で体も日々変わっていくのに…。

「まあ…トラブルが起きたらすぐ殺せばいいやと思ってたんやろうな」

 

エイドリアンの父親、ヴァンサン・消防署長。

7歳で失踪した息子を想って10年。警察署で薦められたDNA鑑定も拒否し、目の前に現れた人物を『俺の息子エイドリアン』と認定した。

消防署に隣接する宿舎兼自宅にアレクシアを連れ帰り、隊員たちにも「息子」と紹介し消防隊に入隊させた。

消防署長。体を鍛えてはいるけれど、ステロイドを筋肉注射しても加齢には勝てない。そんなヴァンサンを見ていると始めは「いつ寝首をかかれるか」とハラハラしてしまったけれど。

 

「お前が誰であろうがお前は俺の息子だ」

どう考えても17歳の息子じゃない。今同じ家で暮らしている相手は赤の他人で、しかも女性だ。けれどかたくなに「俺の息子だ」と譲らないヴァンサン。

それは…10年前に失ったエイドリアンへの贖罪。償うチャンスをもらえている事がたまらなくて。もう二度と離したくない。

(奇人変人が跋扈していた世界観で、唯一まともだったヴァンサンの元妻。あの人がいたからヴァンサンの異常性に背景が生まれたよ…)

 

圧倒的な狂気をはらむ相手。とまどい毒気を抜かれているうちに、次第にヴァンサンの大きすぎる愛情に包み込まれてしまったアレクシア。

 

(とはいえ。アレクシア決して両親から愛されていないようには見えなかった。自動車事故は不幸だったけれど。両親と実家に住んで、不遇な扱いなんて受けていなかった。勝手にアレクシアが道を外れていっただけで。)

 

暴力的で衝動に駆られて刹那的に生きてきたアレクシア。思いもよらない命を授かり戸惑っていた渦中で、圧倒的でゆるぎないな愛情をもつヴァンサンに出会い、そしてやっと安心できる居場所を見つけた…けれど。

 

「ああそうやった。チタンプレートが体内にある云々っていう設定があったな」「金属と人とが融合した赤子の誕生…それは怪物の誕生ととるべきか、それとも…」

 

「結局いったい何をみせられていたんだ」

 

 

こじつけて解釈するのは本意ではありませんので。観て感じたまま。とっ散らかったままに書いてみましたが。これは…想像以上にまとまらない…。

 

万人受けはしない。痛い描写が多くて再見したくない。けれど、たった一回観たその作品は頭と心を大混乱させ挙句爆発させる。壮大な何かを見せつけられた、そんな気持ちで呆然自失に至ってしまう。なのに。

エンドロールが流れるなか。マスクの下で満面の笑みを浮かべてしまった当方。

こういう作品に出会ってしまうんでねえ。映画はやめられないんですよ。

映画部活動報告「ナイトメア・アリー」

「ナイトメア・アリー」観ました。
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1946年に発表された、ウィリアム・リンゼイ・グレシャス著『ナイトメア・アリー 悪夢小路』。1947年に映画化された作品を、ギレルモ・デル・トロ監督が現代に蘇らせた。

 

主人公の青年スタン(ブラッドリー・クーパー)。

迷い込むようにたどり着いた奇妙なカーニバル『10フリーク・ショー』。そこは人間や人間ならざる者などが集まる、いわゆる見世物小屋だった。

なかでもジョーの気を引いたのが読心術。その技術を身に着けたスタンは、ショービジネス界での成功を夢見てトップに上りつめようとするが。

 

みんなが大好き、ギレルモ・デル・トロ監督。

シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー賞作品賞を受賞したことですっかり大御所入り。『パシフィック・リム』大好きおじさんこと当方が所属する映画部の部長は「パシリムはなあ~」とうかつに話題に出そうものならば延々語ってしまう。

 

全ての作品を観たわけではありませんが、当方が一番好きなのは『パンズ・ラビリンス』。

2006年公開。当時の職場同僚女子が「なんかかわいい雰囲気やったから彼氏と観に行ったら最悪やった」とキレていたくらいの「入口と中身が全然違う」「下手したらトラウマになるキッツイ」作品。そういうの大好物。

 

独特のキャラクターデザイン。美術。かつてのティム・バートン監督を少し思わせる、キモかわいい(いやいや。どちらもかわいくはないな…)世界観。

 

この作品の予告編の塩梅が随分よさげだったので。どんな見世物小屋だろうかと期待して鑑賞に至りました。

 

で。率直な感想をまず言うと「因果応報」「それにしても、きれいにまとまっていたな~ちょっとなんというか…デルトロ監督らしくない」。

 

あくまでも持論ですが。デルトロ監督の作品っていわゆる「ジャイアンリサイタル」の印象なんですよね。「俺が好きな歌を俺の好きなように構成して魅せつける」という。超強引マイペースなストロングスタイル。

「ボエ~」にはじめこそおののき、合わない人はとことん合わない。けれどどこかはまる所が見つかったら一気に取り込まれてしまう。

知名度が上がりファンが増えてきたところで「新しいリサイタルだ!」とわくわくして参加したら、まさかの「きれいなジャイアン」が万人受けする上手な歌謡ショーを魅せてきた。そんな感じ(どんな感じだ)。

 

主人公のスタン。裸一貫から始まった彼が、さまよいながら辿り着いた、『10フリーク・ショー』古めかしいカーニバルには、様々な奇形を持つ、人なのか人ならざるものがよくわからない者たちが芸を見せる。

そこでスタンが興味を持ったのが『千里眼』という出し物。つまりは読心術で、初対面の観客の悩みなどを言い当ててしまう。舞台に立つジーナの家に居候し、彼女の夫で本物の読心術師ピートからノウハウを教わるスタン。

ピートは技術こそ一流でありながら、酒に溺れていてとても舞台に立てる状態ではなかった。

読心術の技術を身に着けたスタンは、カーニバルで恋に落ちた女芸人モリールーニー・マーラ)とカーニバルを後にする。

 

時は流れて。人を惹きつける天性の魅力。そこに読心術という武器が加わったスタンは、すっかり一流の興行師になっていた。

しかしさらに上り詰めたいと野心をもつスタンにとっては現状は飽き足らない。そんな時、ショーを見に来ていた女性精神科医リリスケイト・ブランシェット)と出会う。

 

読心術。相手の見た目やしぐさ、そして仕込みと時には度胸。ピートの手引書や経験を重ねることで技をブラッシュアップしてていたスタンに、リリスはとある提案をする。

それはリリスの悩める特別な顧客(=患者)相手に偽降霊を行うという詐欺行為だった。

 

カーニバルにいた頃。ピートが禁じていた「霊には手をだすな(言い回しうろ覚え)」。

読心術とは相手を観察し対話していくことで相手の背景を読んでいく技術。何も知らない相手は「なぜそんなことまで?!」「なんでも知っているんだね!」と心を委ねてしまう。けれど読心術を操れるということは全知全能ではない。

「俺はなんでも知っている」と勘違いするな。ましてや生きていない者には絶対に手を出してはいけない。

けれど。すっかり酒に飲まれていたピートの言葉などスタンには届いていなかった。

 

愛する者を失った痛みから立ち直ることができない。そんな悩める患者にリリスは「彼は霊と対話できる」とスタンを紹介しカウンセリングを行う。なぜそういう詐欺を行うのか。患者たちは揃って金持ちだから。スタンのカウンセリングに満足すれば患者はいくらでも金を払う。

 

電気モーター製造会社経営のエズラ・グリンドル。彼の機嫌を損ねる=死を覚悟しなければいけない。そんなアウトレイジすれすれの超大物。けれど彼は若いころに、恋人ドリーを中絶手術のあとに失ったことをずっと引きずっていた。

そんな怖い案件、絶対に踏み込んではいけないのに。手を出したが最後…やはり破滅へとまっしぐらとなったスタン。

 

正直、初めのカーニバルのシーンで『獣人』の出し物を観た時から。「これは…こういうお話になるんやろうな」と思っていた当方(ネタバレしないのでふんわり表記で進めます)。

母親に捨てられ酒に溺れた父親が嫌いだった。だから殺した。けれど父親が身に着けていた時計がずっと手放せなかった。

カーニバルで出会った読心術の師匠ピート。優れた才能と技術の持ち主なのに、彼もまた酒に溺れていた。

酒はだめだ。思考力を失わせ、人として堕ちていく。そういって酒を口にしないようにしていたのに…物語が進むにつれ、酒を飲み、酒量が増えていくスタン。

エディプスコンプレックス丸出しのスタンは行く先々で父親を殺し、そして自らも酒の力を借りながら底辺まで堕ちていく。そして堕ち切ったスタンが行きついた場所は。

 

スタンの急降下に胸を痛め「どこかで止まらんものか」と祈ったけれど…。

(あとねえ。酒飲みには辛い末路すぎる…作者のことを知った時も思ったけれど)

 

この作品のキャスティング。見ただけで「この人はこの役だ」とわかるくらいイメージ通りの配役だった。そして「ブラットリー・クーパーは大正解やったな」と思った当方(レオナルド・ディカプリオもそれはそれで違ったんやろうけれど)

人を惹きつける天性の魅力とカリスマ性を持つペテン師。そんなスタンを下品にならずに表現できる。そして何よりあのラストのシーンがもう…こんな表情ができるなんて。

 

勝手に期待した「ジャイアンリサイタル」が。きれいなジャイアンによる上手な歌謡ショーだった。起承転結が王道に収まったこの作品は決して良くなかったわけじゃない。ただちょっと…毒気がなくて拍子抜けしてしまっただけ。

 

今後のデル・トロ監督作品はどういう作風になっていくんですかね。

当方はまた「とんだトラウマ映画やったわ!」を観たいという気持ちが…あります。