ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「SING/シング ネクストステージ」

「SING/シング ネクストステージ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220420074754j:image

潰れる寸前だった『ニュー・ムーン・シアター』。起死回生のオーディションを経て、すっかり地元で人気の劇場となった。

しかし。ムーンシアターの支配人、バスター(コアラ)にはまだ夢の続きがあった。

それは、エンターテイメントの聖地であるレッド・ジョア・シティーにある『クリスタル・タワー・シアター』でショーをすること。

お馴染みの仲間たちと向かったクリスタル・タワー・シアターのオーディション。そこで経営者のジミー・クリスタル(ライオン)の気を引くため、とっさに「隠遁生活を送っている大御所ロック歌手、グレイ・キャロウウェイ(ライオン)との共演」をにおわせてしまう。

全く興味を示していなかったジミーの態度が一変。ノリノリでショーの契約が成立してしまった。

ノープランの状態から。はたしてバスターたちは、夢の舞台で面識のないロック歌手との共演ショーを成功させることができるのか。

 

潰れる目前だった古びた劇場の、起死回生のオーディションからの復活劇。を描いた前作。

色んな動物が混在して暮らす世界。小柄なコアラの支配人バスターとジョシュのカメレオン、ミス・グローリーで虎視奮闘し仲間を集めた。

見た目に反してシャイな象のミーナ。ダメな彼氏のせいで魅力が発揮できていなかったハリネズミのロック少女アッシュ。アウトロー家族の中で歌手の夢が捨てられなかったゴリラのジョニー。そして…当方大好き、豚のロジータ&グンター!

25匹もの子供を持つママ、ロジータ。時々「私なんて…」と悩むけれど基本的には前向きで頑張り屋さん。そして「どこまでもとにかく明るいグンター!」

個性豊かな面々がうまいこと化学変化を起こし、最高の一座が生まれた。

(あれ?ネズミのマイクは…?続投していない…)

 

地元では知らない者がいない。そんな人気劇場になった。けれど…物足りない。

潜入記者にも指摘されてしまった「あなたたちの出し物は子供向けよ」。

それは悪いことではないけれど。もっと。もっと色んな人に見てほしい、自分たちのショーを。

そうなると。この田舎町にある劇場では役不足。もっと大きな舞台でやりたい。そう『クリスタル・タワー・シアター』で。

 

全年齢鑑賞可。歌って踊って、誰が観ても楽しめる。くじけてしまう時もあるけれど…頑張れば報われる!

苦しいこともあるだろさ。悲しいこともあるだろさ。だけど僕らはくじけない~泣くのは嫌だ!笑っちゃおう!進め~(ひょっこりひょうたん島

という、まっすぐすぎるくらいにまっすぐ。すっかり汚れちまつた悲しい中年当方ですが…嫌いじゃない。

なんというか。ここまでエンターテイメント全開でこられるともう…笑顔になるしかない。

今回使用された劇中歌が40曲以上?!「知ってる~」となるような曲も多く終始ノリノリ。

 

お馴染みの面々にも新しい悩みが生まれる。ダンスが苦手なジョニー。ダンスレッスンに参加するけれど、どうも講師とウマが合わなくて。

恋愛経験がないミーナは恋する女性を演じることができない。そして練習中突然襲われた高所恐怖症で配役交代することになったロジータ

各々「自信がない」「自信を失った」自分にしょんぼりしてしまうけれど。

ふと見かけたストリートダンサーからダンスの楽しさを学んだ。

窓の外でアイスを売っている青年に恋をした。

自分の代わりに主役になったジミーの娘、ポーシャが憎たらしかった。けれど…彼女には彼女の悩みがあった。そしてやっぱりこの役は…私にしかできない!

 

あまり使いたくない言葉なのですが。まさに「神は超えられる試練しか与えない」世界。

 

はったりをかませて勝ち取った夢の舞台。成功するには主催者であるバスターの努力は当然、面識のないロック歌手クレイの共演許可を得なければならない。

 

愛する妻を亡くし、すっかり厭世的になっていたクレイ。北風と太陽みたく。大声張り上げて「出演してください!」と騒がれるよりも、ロック少女アッシュがしんみり寄り添うことで心の扉が開いた。

 

とまあ。とにかく「開けない夜はない」という調子で畳みかけてくる。

 

誰もが、つまずいてもがいて…と苦しむなか。今回も頼もしかった「どこまでもとにかく明るいグンター!」グンターだけ一切のブレがなく陽気一辺倒。最高!

 

そしてクライマックス。たった一度の『クリスタル・タワー・シアターでのショー』。

満面の笑み。こんなんもう見たらたまりませんわ。

 

エンターテイメントの聖地、レッド・ジョア・シティー。ここで自分たちのショーをするのが夢だった。そしてその夢はかなえられた。けれど。ここで終わりではない。

 

自分たちのショーは一流の舞台ではどこまで通用するのか。一人で挑戦するのは怖い。けれど皆で一緒に乗り込んで、はったりかませてチャンスをつかんだ。

なれない環境に怖気ついて、自信が持てなくて押しつぶされそうになったけれど…見渡してみたら、周りにいるのは敵ではなかった。

確かに相容れない者もいる。けれど誰もがそうではない。自分がきちんと向き合えば答えてくれる者もいる。

 

一流のエンターテイメントシティでの経験は絶対に無駄ではない。けれど、自分たちには帰るべき劇場がある。そこが夢の続きの場所。

 

「こういう作品には子どもの頃に出会いたかった…」

まっすぐなまでにまっすぐな世界観。そして飽きる暇のないエンターテイメントの大波小波。泣いて笑って歌って踊って。どれだけわくわくしただろう。

(中年の当方は日本語字幕版一択でしたが。子どもだったら日本語吹き替え版を観たんですかね。)

 

正直、どんな作品でも続編は期待しないのですが。このクオリティの続編は大満足(何様だ)。

あとは…多分グンターが大好きすぎるのも大きい。突き抜けて明るいキャラクターは元気がでる(現実ではさておき)。

何年かおきにシリーズ化しそうな予感。今のところはついていく所存です。

 

映画部活動報告「スターフィシュ」

「スターフィシュ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220417184844j:image

「このミックステープが世界を救う」

 

親友グレイスを失ったオーブリー(ヴァージニア・ガードナー)。

葬儀に参列したけれど受け入れられない。グレイスの家に忍び込んだら彼女がまだいるような気がして…カセットテープを聞きながらいつしか眠りに落ちた。

 

そして目覚めたら。世界は一変していた。

 

「『実話に基づいた物語』ってどこがだ!」

 

親友を亡くし喪失感を抱えるオーブリー。親友の家で眠り、目が覚めたら町は雪に覆われ静寂に包まれていた。

人気を感じない。何故?そう思いながらも外に出たオーブリーは見るからに邪悪そうな怪物が町を徘徊する姿を目にする。

これは人を襲うやつだ!オーブリーの存在を察知し案の定追いかけてくる怪物。何とか室内に逃げ込めた。このままやり過ごしたいけれど、相手はドアを破って入ってこようとしている。危機一髪!

その時。室内にあったトランシーバーから聞こえた男性の声。その人物がオーブリーを救ってくれた。

その人物はグレイスと知り合いであり「最後の信号が昨夜どこからか送信されてこういう事態がおきた」「グレイスは終末が訪れた世界を救う方法の最初の部分をオーブリーに託した」と告げてくる。

 

「グレイスが私に託したもの?」ふと棚の上に封筒があると気づいたオーブリー。その中には「このミックステープが世界を救う」と書かれたカセットテープが入っていた。

 

何らかの信号を見つけた。その信号に乗って現れた何者かが災いを引き起こしている。その信号に不足しているものが7つあると知った。それをバラバラの信号にしてテープに収めて私たちの思い出の場所に隠した。オーブリーならわかるよね?

 

怪獣が跋扈する世界から元いた世界に戻るべく、残りのカセットテープを探し始めたオーブリーだったが。

 

大体こういう掴みだったと思うのですが。ストーリーは支離滅裂で意味不明。基本的には美少女をエモーショナルに撮っているけれど、人を襲う怪物や顔面がえぐられた人物などのえげつないシーンがあったと思えば突然アニメパートが始まったり…全体的な画的バランスも不安定。とまあ歪な印象が強かったのですが…嫌いじゃない。

 

「これはあれこれ突っ込みを入れずにシンプルに感じたらエエんちゃうやろうか」

 

A.T.ホワイト監督。「for Sayoko Grace Robinson(1987~2014)」と捧げていたように、友人を癌で失った経験があったとのこと。先述した「実話に基づいた物語」とは「大切な人を失った」ということだろうと推測できる。

 

精神科医のキュブラー・ロス。彼女が書いた『死ぬ瞬間』から、有名すぎる「死の需要過程」とされる5段階のプロセス「否認/怒り/取引き/抑うつ/受容」。

 

親友グレイスの死。喪失感が大きく受け入れられないオーブリーは異世界へと自身を飛ばしてしまった。そこでは得体のしれない怪物が跋扈しており、人を襲い、食い散らしている。

グレイスとの思い出の場所をめぐり、カセットテープを手にすることでまた元の世界に戻れると知ったけれど、その過程は危険かつ気が滅入ることばかり。そしてその先には…。

 

どうしてグレイスは亡くなったのか。話が進むにつれ、オーブリーにはエドワードという恋人がいたとわかるけれど。オーブリーとエドワード、そしてグレイスに何かがあったのか?いかにも何かがあったかのように見せつつも、具体的なことは提示されない。

 

ネタバレになっていそうで気が引けますが。7つのカセットを集めたときに見つけたメッセージ。『FORGIVE+FORGET(許す+忘れる)』これをどうとらえるべきなのか。

 

おそらくA.T.ホワイト監督はこの作品の解釈を個々人にゆだねている。そう思う当方。

だからガチガチに設定を決めていない。主人公と親友と。そして主人公の恋人との間にどういうやり取りがあったのかは想像に任せている。それどころか親友の死に恋人は関係ない可能性だっておおいにある。

 

「もうこれは当方の見解だけれど。『許す』とはかつて二人の間にあった何かを指しているんじゃなくて。『忘れる』ことを『許す』ということなんじゃないかな」

 

二人は親友。私たちは若くて、これからまだまだ楽しいことが沢山起きる。けれどどんな時だって一緒。そう思っていたのに、こんなに早く別れが訪れてしまった。

信じられない。嘘だと言って。おかしくなりそうで…もう何も考えたくない!!

そうやって殻にこもって。わざと心をずたずたに傷つけた。けれど少しづつ思い出を巡るうちに…親友と再会して、メッセージを受け取った。

 

「忘れることを許す」何もかもじゃない。かつて二人の間で起きたことは、次第に薄れていって、記憶に残るものだけになっていく。けれどそれは仕方がないこと。

この異世界ならば、二人で過ごせるのかもしれないけれど…ここは怪物が跋扈し秩序が崩壊した終末の世界。命があるものは元の世界で生きていかないと。

 

そういうメッセージかなあと感じた当方。センチメンタルがすぎますか。

 

最後にぐっと幻想的な映像で締めた…それは「死の受容過程」を経て訪れる…希望だと思いたいです。

 

映画部活動報告「MEMORIA メモリア」

MEMORIA メモリア」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220414115855j:image

タイのアピチャッポン・ウィーラセクタン監督最新作。舞台は南米コロンビア。主演はティルダ・スウィントン

 

それは突然はじまった。

とある明け方。地球が爆発したかのような爆発音で目が覚めた。けれどもどこも爆発などしていなくて。どうやらこれは自分の頭の中でおきた現象らしい。

それ以降、唐突に訪れる爆発音に眠れなくなっていくジェシカ(ディルダ・スウィントン)

「一体この音は何なのか」音を再現すべく音響技師のエルナンに依頼しそれらしい音源を入手できるかと思ったら、突如エルナンが消えた。入院中の姉を見舞った病院で知り合った考古学者のアグネスを訪ね。人骨の発掘現場などを巡るうちに、川沿いで魚の鱗とり職人エルナンと出会う。

 

「これは…なんか凄いもんをみせられた感じがする…わけがわからんけれど」

鑑賞直後の率直な感想。ストーリーの整合性なんてない。ちぐは…おおらかすぎて、けれど圧倒的な世界観で有無を言わせない。すっかり飲み込まれている。

 

『頭内爆発音症候群=寝入りばなに頭の中で大きな音が鳴り、目覚めてしまう睡眠の病気/平均発症年齢58歳』

アピチャッポン監督自身が患ったという睡眠障害から着想を経たと。そんな病気初めて知りましたけれど…当方も今回「寝入りばなに爆発音」という体験をしました。この作品で。

 

とにかくまったり。終始おかしなことが起きているにも関わらず、段々と襲われる睡魔。淡々とした会話と絵画みたいな(当方の語彙力のなさよ)画面にまどろんでいく意識…あかんあかんこれは寝てしまう…と力尽きてしまうタイミングでの爆発音。飛び上がる当方。

 

順を追ってストーリーを理解している気がしない…いつにも増してふんわりした感想文になる予感しかしません。あしからず。

 

子供のころ。「生きている」という実感があまりなかった。

ぼんやり夢見がちだったということもあって、目の前に見えている景色も出来事にも現実感がなかった。ただただ現象として受け入れていたのだと思う。

けれどそれらは次第に経験として記憶に取り込まれていく。蓄積された記憶から同じような出来事にはよいとする選択枝が生まれるようになり、判断力が培われていく。積み重なって思想と思考が確立していく。世界が鮮明になっていく。そうしていくつもの月日をかけて「当方」というオリジナルの人格が出来上がった。

 

学生のころ。哲学者プラトンイデア論「あらゆるものの『本質』はこの世の中にはいない。異世界イデア)にある」に膝を打つほど合点がいった当方。

 

例えば、花を見て美しいと感じる。けれどそれは誰かに教わった感情ではない。元々頭の中に「花=美しい」というイメージ(当方の語彙力よ…)があるから。そこにこれまでの経験から「香りが」「色が」「形が」と感情に肉付けがされていく。

 

この作品を鑑賞していて思ったこと。

主人公はジェシカという女性で、「ある日を境に始まった頭内の爆発音の原因を探す物語」だけれど。ジェシカの視点で物語を追うとちぐはぐになってしまう。

けれど、視点を「地球上に生きてきた、生きている人たちの記憶をジェシカが行く先々で拾っていく物語」と変えるとしっくりしてくる。

 

終盤に川沿いで出会った、鱗とり職人エルナンの「俺はハードディスクで、君はアンテナだ」という言葉。地球上にあるすべての記憶を持つエルナンと記憶を拾い上げるジェシカ。

(初めに出てくる音響技師もエルナン。最後の鱗とり職人もエルナン。さまようジェシカを誘導する役割=エルナンだと後から気づいた当方)

 

ジェシカの能力が覚醒したときに、頭内の爆発音が始まったということか。二人が遭遇し、互いの力が合流した。地球が持つ記憶。けれどそれは個人の記憶の積み重ねでもある。マクロの中に見え隠れするミクロ。誰もが持っている記憶と、個人だけが持っている記憶。記憶の融合が起きるとき…濁流のような映像と音と爆発…結局これらの正体とは。

 

「まさかのSF展開!」

 

「これは…なんか凄いもんをみせられた感じがする…わけがわからんけれど」

とても言葉では説明できない。けれど実際に映画を鑑賞してもわかるとはいいがたい。きっと眠たくなる。下手したらがっつり寝てしまう。けれどできれば観てほしい。

 

休日の昼下がり。いつの間にかうとうとしてしまって、目が覚めた時一瞬、どこにいるのか、今が朝か夜なのかもわからない。ああまだ夕方か…なんか眠っちゃたな。何だか壮大な夢を見た気がしてあんまりすっきりしない…でももう起きないと。そんな気持ちになる作品。

 

確かに唯一無二。こんな映像体験はそうそうないです。

映画部活動報告「THE BATMANーザ・バットマンー」

「THE BATMANザ・バットマンー」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220411203904j:image

「嘘はもう沢山だよ」

 

2022年3月11日劇場公開。かねてより「当方はバットマンが好きでねえ」と地味に周囲に公言していた当方。ちょっと真顔になってしまうほど切羽詰まった勤務状況の中、それでもしれっと有給休暇を取って初日初回鑑賞…から早一か月。

さすがに…さすがに映画部活動報告をため込みすぎている。けれど全然たどり着かない。現実世界と趣味に費やす自由時間の乖離が…なんてやきもきしている間になんと一か月…ちょっと薄れた部分もありますが覚えているうちに備忘録として残しておきたい。そう思って書いていきます。

 

社会に出てもはや何十年。これまでの人生の半分は社会人として生きてきた。そんな当方が今回のバットマンを見て感じたのは「若っけええ~」ということ。

 

青年ブルース・ウェインロバート・パティンソン)。悪党どもが跋扈するゴッサム・シティで『バットマン』を開業して2年目。

両親を殺害された復讐を誓い、悪党どもを根こそぎ始末するべく夜な夜な街を徘徊する。全身黒ずくめの蝙蝠スーツに身を包んで自らを『バットマン』と名乗る。そんな「お前こそが不審者だ」と言わんばかりの彼を、何故だか警察官のゴードン(ジェフリー・ライト)だけは正義の味方だと理解してくれていて、有事の際はバットマンを呼び出しともに捜査に当たる。

ある時から、ゴッサムシティの有識者が次々と何者かに殺害される事件が始まった。しかもその傍らには明らかにバットマンにあてた、挑戦状ともとれる「なぞなぞ」が添えられる。

史上最狂の知能犯『リドラー』。一体何故犯行を繰り返しているのか。その目的は?

 

1990年代後半。当時中高生だったかぎっ子当方は、帰宅してすぐにローカルテレビ局でやっていた、古いバットマンの再放送を妹と見るのが大好きだった。爆発とともに「BOMB!」とか文字が入ってくるようなギリギリカラー放送、みたいなやつで全身タイツのバットマンとロビンがあたふたするショート物語。それが当方のバットマンの原風景。

公開は1992年だけれど。当方が見たのは多分1995年くらいのテレビ放送。ティム・バートン監督の『バットマン・リターンズ』。

バットマンキャットウーマン、ペンギン、ジョーカー。豪華メンバーで大暴れしたこの作品が、当方的にはいまだに一番好きなバットマン映画。

その後、『ダークナイト』で一躍有名となったノーラン監督の三部作。ホアキン・フェニックスの怪演が記憶に新しい『ジョーカー』。

思いっきり雑にバットマンについて振り返ってみましたが…これらのシリーズに関して共通しているのは「バットマンの精神面は確立していた」ということ。

 

「金持ちの変態コスプレ野郎」怪人や異星人じゃない。超能力も持ち合わせていない。ただただ金持ちなだけ。「親の仇をとりたい」という執念がイコール正義の味方としての立ち位置を保つ、どこまで行ってもホモサピエンス。人間。

体を鍛え。己の持つ財力を武装につぎ込む。そのアイテムはどこか少年の夢を結晶化させたものばかり。飛べるコスチューム、派手で爆音を鳴らし、自由自在に姿を変えるバットモービル

けれど「癖が強い、自分の好みで固めたアイテムを真顔で使いこなす中年男性」と揶揄されたとしても「だから何だ。俺は俺だ」とどっしり構えている。そんな貫禄を見せていた。それが当方が感じていた歴代の『バットマン像』。そこが今回根底から覆った「中2系男子バットマン」。とにかく闇属性。

 

バットマン2年目。活動こそは「正義の味方」のつもりだけれど。鬱屈した気持ちが抑え込めない。ゴードンは仲間だと思っているけれど、ほかの警察官たちとはぎくしゃくしている。

「会社人ブルースって世渡りうまいイメージだけれど…」もう全然。執事のアルフレッド(アンディ・サーキス)にべったりで家からほとんど出ない、夜になって初めてコスプレ姿(バットマン)でうろつきだす。

 

そんなころ。なぞなぞ大好き怪人・リドラーが活動を始める。街の有識者を時に中継しながら無残に殺害し、その傍らにバットマンへの挑発メッセージ=なぞなぞを残す。

…またねえ。そのなぞなぞを間髪入れずに回答するバットマン。あれ、なぞなぞ王者決定戦でも連想しにくいタイプのやつだと思うんですけれどねえ。そこで「リドラーバットマンって世代が同じとか思考が共有できる環境にあったんだな」と思わせる。

 

相棒のゴードンと途中から仲間になったキャット・ウーマン(ゾーイ・クラヴィッツ)のコンパクトなチームでリドラーに挑むけれど…どんどん孤立していく。何しろ周囲こそが腐敗しまくっっていたから…(しっかし、ゴッサムシティの治安とモラルの低さよ)。

 

リドラーとは一体何者だ。正義の味方と犯罪者。互いにそういう立ち位置にいるけれど。正義とはなんだ。嘘をつき、人々をだまして私腹を肥やした奴らを一掃する。立場とやり方が違うだけで、実はリドラーバットマンは表裏一体じゃないのか。

「育ってきた環境が 違うから~ 好き嫌いはいいなめない~」

愛情に飢えた幼少期があった…ここでまさかのキャット・ウーマンも合流。「愛されたかったときに周りがどう見えたのか」「その思いを原動力にしている!」

 

「若いな~」歳をとった当方がぽつり。「育ってきた環境は選べないけれど、今の自分を作り上げたのは環境だけじゃない。自分が選択して自分を作ってきたんやって」「裏切られた、だからやり返してやる、という思考は何も生まない」「幼い」

 

「憎い」そう思う相手に家族や大切な人がいたら?鉄拳制裁は、自分と同じ思いをする人間を増やすだけじゃないのか?理不尽に理不尽で対抗することは、同じ土俵に降りるだけで何も生まないんじゃないのか?

 

リドラーバットマンのキャット・ウーマンも。同じような場所にとどまって、大人になり切れずに苦しんでうごめいて周りを傷つけている…けれどこの流れを経て、やっと自分が目指すべき道が見えた。そして各々信念と思える道に進みだした…という風にみえた(気がした)当方。

 

荒い部分もちらほら。リドラーの最終目的は「ん?」と意味不明だったし、そこで急に「エエやつ」に全振りしたバットマンにも「急にそんな」と思ったし…(これ、観ていない人にはちんぷんかんぷんだと思いますけれど…ぶっちゃると「あの水害のシーン、要る?」と思っています)

キャット・ウーマンのコスチュームはもっと凝ってほしかったな~。ゾーイ・クラヴィッツは滅茶苦茶キュートに演じていたんやしやし…とか。

 

まあでも。バットマンVSペンギンのカーチェイスとか。「もう何が何だか…」つい声を殺して笑ってしまうほどのわくわく無茶レース。あんなんみてしまったら、もう文句は言えませんわ。

 

主演のロバート・パティンソンの他。「え!ここでポール・ダノ!」「コリン・ファレルがこんな!」事前情報を随分シャットアウトして望んでいたので…うれしい悲鳴もあり。

 

ところで…最後のあの幕の閉じ方…続編ありってことなんですかねえ…当方は何であれ基本的に続編は希望しない派なんで…中2系男子編はもう…おなか一杯…ごちそうさまです。
f:id:watanabeseijin:20220411233818j:image

映画部活動報告「ちょっと思い出しただけ」

「ちょっと思い出しただけ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220406215044j:image

6年の歳月を遡る、とある男女の7月26日。

 

2021年。舞台の照明係の照生(池松壮亮)。起床して、体操して、猫に餌をやり観葉植物に水をやる。出勤途中の公園には随分長い間帰らぬ妻を待つ男性(永瀬正敏)がいる。お地蔵さんに手を合わせる。職場では一人前と認めて打ち解けてくれた先輩と一緒に、かつて自分に憧れていた後輩の舞台に光を当てる。

同じく2021年。コロナ渦で客足が伸びないタクシー業界。タクシー運転手の葉(伊藤紗莉)はあるミュージシャンを乗せていたが、途中でトイレに行きたいと言われ、ある劇場に一旦駐車する。

客を待つ間、ふとタクシーから降りて劇場に吸い寄せられた葉。そこで見たものは…。

 

昭:はいどうも。当方の心に住む、男女キャラ「昭と和(あきらとかず)」です。

和:おっと。我々は解散して各々の故郷に帰ったんじゃなかったの?

昭:各々ってどこだよ!俺たちは当方から派生した架空キャラクターなんやから、帰るところなんてここしかないんだよ。

和:怖い…自ら架空とか言うの…とかいう茶番で無駄に文字数増やしたくないから、とっとと進めてもいい?

昭:お前のそういう切り替えの早いところ、嫌いじゃないけれど…ただ俺は…一先んじてお断りしておきたい。

和:なになに~?そもそもの当方に語れるほどの恋愛体験がないこと~?男女の機微を語るキャラでありながら、ここからは終始机上の空論で繰り広げること~?

昭:お前の、致死ポイントにしか弾を打ち込んでこないところどうにかしてほしい…まあそういうことで。始めていきますよ。

 

和:7月26日っていうのは、照生の誕生日なんよな。

昭:また一つ歳をとった。今日自分はこう過ごした…それを一年ずつ遡っていく物語。2020年。思い出のバレッタを止められないくらいに、長かった髪を切った。

和:なにもかもつまんない。可もなく不可もなく過ごしていた。友達に誘われた合コンもつまらなくて。タバコを吸うために店の外に出たら、たまたま同じくタバコを吸っていた男性にナンパされた。

 

昭:2019年。足を怪我してしまった。ダンサー生命にとって致命的な負傷。ずっとダンスで生きていくと思っていた自分にとって、急激な転換期。どういう選択をするべきなのかわかっているけれど認めたくなくて混乱していて…恋人のことを思いやる余裕などない。

和:どうして私に何も言ってくれないの。辛いときはちゃんと寄り添うのに。

 

昭:遡り映画『ペパーミント・キャンディー』方式で、この作品は一年ずつ遡るんやけれど。順当に内容をつらつら書くのはどうかと思うんでここでストップ。以降はふんわりした内容にしていくよ。

 

和:まあ…つまりは『あの素晴らしい愛をもう一度』ですよね。

昭:あの時 同じ花を見て 美しいといった二人の 心と心が 今はもう通わない。

和:遡って初めてわかる「ああだからあんなに固執したんだ」という決別のシーン。一年前。ラブラブだった時。生涯をともにしようかと思っているといわれていた。その思いを告げられるはずだった日に、不毛すぎる喧嘩。

昭:でもあの状況って、自分が一生を掛けようと思っていた夢を打ち砕かれて必死に整理をつけようとしている最中なんよな。そりゃあ自分の中で答えが出るまで待ってくれよと思う。

和:辛いときは支えるから!だから一人にならないで。ちゃんとそばにいるから。思っていることを言って。

昭:それはありがたいけれど…ならばなおさら今はそっとしてしてほしい。いずれかは伝えるから。

和:何なのよもう!私たちって結局本当のことなんて話してなんてなかったのよ!もう降りて!さようなら!

 

昭:あくまで俺たちは当方の心から派生しているので(今回何回目)こういう解釈になってしまうけれど。俺は結局照生と葉がうまくいく世界線はなかったんやと思っている。

和:2016年。友達が出演していて誘われた舞台。その後にあった打ち上げで知り合った。初めてだけれど引き寄せられるのに違和感がなかった。水族館で告白。二人で過ごす日々はとにかく楽しくてキラキラして。長い髪に似合うからと誕生日にバレッタを贈った。ずっとこんな日が続くのかって思っていた。

 

昭:そういう、うれしいたのしい大好きなことばかりじゃない。だって恋愛だけで生活しているんじゃない。生きていくために生業としていること、そこに対する自分のスタンス。恋愛も大切だけれどそれとは別に大切にしてきたことがある。そこに対する考え方が共有できない相手とは…いつかどこかで衝突してしまう。あの、人生の転機としか言いようのなかった照生の心情に、性急すぎて寄り添えなかった葉とは…そこを乗り越えたとしてもうまく行かなったと思う。

 

和:葉だって悪気はないし一生懸命だったんやと思う。昭:それはわかってる。

 

和:2021年の夜。一瞬再会した。言葉を交わしたわけでない、見かけただけ。今ではお互い環境も変わった。けれど…思い出してしまう。あの時、あの場所。あの感情。

昭:相手を失ったばかりの時は、痛みしか感じなかった。ぽっかり空いた心の空間、いつも通りの生活なのに肝心な相手がいないことが苦しかった。けれど二人はあの公園で待ち続ける男性とは違う道をゆっくり歩んだ。少しづつ心の隙間を埋めていって、かつての生活を馴染みのものにしながら、外に意識を向けていく。そうやって心の痛みは感じなくなった。けれどふいに実物を目にしてしまったら…一瞬にしてあふれかえってしまう。

 

昭:終わった恋は美しく思えるんですわ。苦しかったことは薄らいで…美しい部分だけが光を持つ。

和:何か…ヤッてるんですか?ちょっとポエムが過ぎませんか?

昭:お前…まあでも2021年の葉の実生活が明かされたときは「ああ~こういう~」って思ったな~小気味が良かったというか。

和:運命って、つまりはそういうことですよ。

 

昭:ここ最近見る、センチメンタルに胸をかきむしられる作品。「ああ~」と自分の過去にシンクロさせてはもだえる…そこに毎度存在する伊藤紗莉…俺たちの青春時代に輝きをくれた花束みたいな元彼女…また君に恋してる

和:そんなもだえるような経験はないんですがね。でもイマジネーションでも十分理解できる。胸が痛くなるような気持になる。かつてそんな恋をしたような…そう思える…今後もそういう作品はちょくちょくかみしめたいです。

映画部活動報告「ウエスト・サイド・ストーリー」

「ウエスト・サイド・ストーリー」観ました。
f:id:watanabeseijin:20220316181334j:image

「1957年にブェローム・ロビンズの原作・演出で生まれたブロードウェイミュージカル。1961年にロバート・ワイズ監督で映画化。以降も数多上演され続けている往年の名作を、スティーブン・スピルバーグ監督が今映画化!」

…みたいな煽り文句にホイホイ吸い寄せられた当方。

「確かに名作やけれど『~曜日のロードショー』で絶対に見たことあると思うけれど…全然思い出せない」「確かニューヨーク版ロミオとジュリエットよな?」

せっかくですから。これは観ておかないと。

 

結局、記憶の引き出しが開く事はなく。新鮮な気持ちで鑑賞。そして真っ先に思ったのは「人様に多大な迷惑をかけるような恋をしてはいかんよ…」

つまらん。つまらん大人になってしまったものよ。

 

1950年代後半のニューヨーク、ウエスト・サイド。これから開発が進む寸前の雑然とした街。

以前から住んでいた、ヨーロッパ系移民の不良チーム・ジャッツ。対するのは最近増えてきたプエルトリコ系移民の不良チーム・シャークス。

顔を合わせれば一触即発。そんな犬猿の仲なのに。ジャッツの元リーダ・トニー(アンセル・エルゴート)とシャークスのリーダの妹・マリア(レイチェル・ゼグラー)が恋に落ちてしまった。

 

「これはあくまでもミュージカル映画なんやから。話の整合性にひっかかってはいけない」

鑑賞中、何回も何回も己に言い聞かせた当方。何故なら…まともにストーリーと登場人物の心の機微を考えたらおかしなことだらけだから。けれどこれはミュージカル映画…歌とダンスがメインでストーリーは脳内補正…ツッコミは即補正せよ!

 

流石スピルバーグ監督。冒頭からのカメラワークやら歌とダンスシーンなんかは御大の力を見せつけてくる。「バシッと決まったミュージカルやダンスシーンを見ると泣いてしまう病」がある当方は所々涙。

特にシャークスのリーダ・ベルナルドの恋人であるアニータ(アリアナ・デボーズ)がとにかく最高で、ベルナルドとアニータの『America』は高揚感で座席からお尻が浮きそうになったほど。

 

ですがねえ…いかんせん、どれだけ脳内補正をかけても「主人公達の恋を応援出来ない」んですわ。

 

かつては荒れに荒れまくっていた、ジャッツの元リーダ・トニー。事件を起こし服役、出所した後は後見人となってくれたバレンティーナ(リタ・モレノ/1961年オリジナル版のアニータ役!)の営む雑貨屋にて住み込みで働いていた。

「もう暴力とは無縁だ」慎ましく生活しているトニーだったが。腐れ縁、ジャッツの現リーダ・リフ(マイクワェイスト)はしつこくトニーを誘ってくる。

散々リフの誘いを断ってきたけれど。ふと気が向いて参加したダンスパーティーで、運命の人マリアと出会ってしまった。

 

このダンスパーティー、ジャッツvsシャークスのダンスバトルの迫力が心地良すぎる。なのでこの後に、バックヤードで主人公二人が出会って〜からの『Maria』が来るんですが…すっかり賢者モードに陥ってしまった当方には「一目惚れ」という概念が理解できず。

「は~じめて会ったと~きから 違うもの感じてた」「あなたがそ〜だ!あなただ〜たんだ!うれしい!楽しい!大好き!」とはならない。

「一体あなた達、お互いのどこに魅力を感じたのか?」真顔で片言。

けれど盛り盛りに盛り上がる二人。「なんでも~できる強いパーワ~が」どんどん沸いたんでしょうな。夜中に大声あげてマリアの自宅アパートに押しかけ。バルコニーで二人で歌い上げる『Tonight』(超有名なシーンになんて言いぐさ)。どうしてこんな急に恋に落ちて酔っているのか?

結局、この違和感が最後の最後まで拭いきれなかった。これが当方の「主人公達の恋を応援出来なかった」所以。

 

ダンスパーティーは乱闘で中断。「この際、どちらがウエストサイドで生き残るのかをはっきりさせようぜ」と数日後に両チームの決闘が決まった。

「もう関わりたくない」トニーと「ケンカはやめて」というマリア。マリアに説得されたトニーはリフと話をするが事態は避けられず。いざ決闘の現場に向かったが…。

 

(この決闘からのトニーとマリアの判断と行動…何一つ好きになれなかった。自分たちさえ良けりゃあいいが過ぎる)

 

移民同士が争う。来た時は違えども、互いにアメリカという地に夢を見たからここにいるのに。移民同士で共存していくという選択肢はないのか。

結局争いは良い結果を生まない。取返しのつかない哀しみと憎しみ…「やられたからやり返す!」の不毛さ。

怒りと疲労がピークに達した集団が、一人の女性に向けた最悪な行動。憎い相手には何をしてもよいという感情からくる負のスパイラル。そこには正義などない。

 

物語の主軸となる恋愛には正直ノレなかったけれど…今の時代にスピルバーグ監督がこの作品を映画化した意味は何となく分かる。

1950年代から70年も経過しているけれど、今でも通じる問題がある。

 

恋愛ジャンルとしては脳内補正が追い付かなかったし、この作品が抱えるテーマにきちんと向き合おうとなると…中途半端な知識や思考では太刀打ちできない。

「でも。これはあくまでもミュージカル作品なんやから!」そう。難しく考えすぎなくても。圧倒的な歌とダンスに飲み込まれて泣いていたらいい。結局はそう着地してしまった当方。そういうのは後からゆっくり考えたらいいかと。

 

周囲を振り回すだけ振り回す恋。最後に当方はマリアに言いたい。「トニーより、兄ベルナルドが結婚相手候補として認めていたチノ(ジョシュ・アンドレ・リベラ)こそがあなたを一途に想ってくれた人なんじゃないのかね。」「こんな人、なかなか現れないぞ。」

若さゆえ…けれどこんな風に思う、つまんねえ大人になっちまった感…思えば遠くへきたもんだ。

 

「サントラ欲しいな。それよりまずは、1961年オリジナル版を見ないと」「1950年代後半のブロードウェイ事情…」ゆっくり考えるにあたって、みるべき資料が多そうです。

映画部活動報告「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊」

「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊」観ました。

f:id:watanabeseijin:20220307183831j:image

ウェス・アンダーソン監督作品。

 

20世紀。とあるフランスの架空都市にある『フレンチ・ディスパッチ編集部』

米国新聞社支社発行で、全世界にファンを持つ雑誌『フレンチ・ディスパッチ』が最終刊を迎えた。というのも編集長が急死したため。以前から有事にはそうせよという取り決めがあった。

有終の美を飾るべく選ばれた4つの特集。それらをオムニバス形式で描いていく作品。

 

「雑誌かあ」

毎月本屋へ通い、何冊も雑誌を買い込んだ。情報誌、ファッション誌、生活誌エトセトラエトセトラ…今でも購読している雑誌はあるにはあるけれど、昔ほど雑誌を買わなくなった。

一冊の雑誌から、流行のファッションやドラマや音楽、食べ物。好きなコラムや連載小説や漫画。世界が広がった気がして楽しかった。

スマートフォンを当たり前に持ち、情報を選択してカスタムしてしまう現代において「一つにまとまっている」情報誌を読む機会の少なさ…けれど今でもそれを手に取ってみると…きっとわくわくするだろう。

 

この、架空の雑誌『フレンチ・ディスパッチ』は1925年刊行の『ニューヨーカー』をイメージしたらしい。それを当社比でもトップクラスの変態監督(褒めています)ウェス・アンダーソンの世界観に落としこめば…永遠に画面上を左から右に流れ続ける、手回しからくり映画になってしまう。気持ちいい。

(当方がウェス・アンダーソンを変態監督と称する所以。それはあの独特な几帳面さを持つ絵面と、淡々としたテンポに他ならないのですが。今作も当然健在。)

 

最終刊を飾ることになった4つの記事『自転車にのって(勝手に命名)』『確固たる名作』『宣言の改定』『警察署長の食事室』。

 

『自転車に乗って』自転車に乗って我が街を紹介。昼間は情緒のある美しい街。しかし夕方を過ぎれば売春婦や男娼が姿を現す。よく見ればネズミがウロチョロしていて、悪童にすぐしてやられる。

 

『確固たる名作』あるフレンチ・スプラッター派アクション画家(なにこの名称)の男。荒くれ者故投獄されたが、そこで出会った女性看守をミューズとして作品を残した。しかしその絵のありかは…。

 

『宣言の改定』女性ジャーナリストが見た、若き学生運動家の青春と刹那。

 

『警察署長の食事室』故郷を追われた記者が遭遇した「署長の息子誘拐事件」。

 

「…って、省略しすぎやろう!」とお怒りの声を受けそうですが。滅茶苦茶端折るとこれら4本立ての短編。それをまあ「ウェス・アンダーソン監督よ。あんたの人脈、三谷幸喜か」と言いたくなるくらいの手広すぎる豪華俳優陣でお届け。

 

当方としては「え、そんな潔い…」という驚きが隠せなかったレア・セドゥ。そしてただそこにいるだけで眼福のディルダ・スウィントン。ティモシー・シャラメってこういうモラトリアム青年枠からなかなか抜け出せないなあ~。ぱっと見ではわからなかったフランシス・マクドーマンド。他にも「あらこんなところに」と随所に豪華俳優陣を配置させている。

 

とまあ、こういう歯切れの悪い文章をつらつら書いていても先には進みませんので…ここからは当方の率直な感想を書いていきますが。

 

「単独では長編にならない物語を組み合わせたけれど…」

そりゃあそうやろう~。オムニバスやねんから。そうなんですけれどどうも当方的に「締めがしっくりこなかった」

 

冒頭の街の紹介が『起』としてサラッとしているのは自然。『承』の美術物語と『転』の活動家の話の盛り上げていく下りもリズムがいい。けれど…『結』のすわりが悪い。

 

『警察署長の食事室』記者の体験談。入り組んだ署内を迷子になりながらもたどり着いた署長室。そこでディナーをご馳走になる予定だったが、警察署長の一人息子が誘拐されてしまった。

犯人からの要求。犯人と息子を追う警察官たちの攻防。そして息子を救ったスペシャル料理とは…という、雑に書いただけでも楽しそうな内容なのに…これ、全編モノクロまたはアニメーション。

「何故!何故にアニメーション?この章こそウェス・アンダーソンならではのカラフルな色彩と左から右に流れる画面構成やろう!」食いしん坊万歳の当方は「食べ物」を扱っているのに「食べ物が全く美味しそうに見えない」という一点突破でこの章を「すわりが悪い」と言い切っているんですわ。

 

…一応しんみりとしたオチで締めるんですが。「バランス悪いなあ~」と感じてしまった当方。

 

急に息巻いてしまいましたが。ともあれこの『フレンチ・ディスパッチ』も最終刊。

どういうスパンで刊行されていた雑誌だったのかわかりませんが(というか架空の雑誌)こういうこじゃれた雑誌が世を去るのはさみしい。けれど去り際の美学という言葉もあるし…内容が低下していくのならば面白いうちに幕を閉じるのも美しいのかもしれない。

 

こういう雑誌が存在したら、手元に残しておいて、たまに読み返す…当方が一番繰り返すのは『自転車にのって』な気がする。どこかに連れて行ってくれる記事…。

 

ゆったりくつろいで雑誌を読みたい。ゆっくり…ちょっと今は夢のまた夢ですが…その時は探しに行きますので。よろしくお願いします。