ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「くれなずめ」

「くれなずめ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210713180042j:image

ある日突然、友人が死んだ。僕らはそれを認めなかった。

 

松居大悟監督・脚本作品。

心優しい美化委員の吉尾(成田凌)。劇団主宰の鉄一(高良健吾)と役者の明石(若葉竜也)。いつの間にやら妻帯者になっていたソース(浜野謙太)。会社員の大成(藤原季節)。地元のネジ工場で働くネジ(目次立樹)。

高校時代に帰宅部繋がりで知り合い。何だかんだ腐れ縁で繋がってきた6人組。

すっかりアラサーになった彼らが久しぶりに再会することになった、友人の結婚式。

披露宴で余興を頼まれた彼らは、かつて文化祭で披露したダンスを披露することで満場一致。それはウルフルズの曲『それが答えだ!』に合わせ、赤ふんどし一丁で踊るというもの。

前もって集まり。かといって大した打ち合わせもせずに、ただただカラオケで盛り上がる。皆が会うのは久しぶり。なのに直ぐに意気投合して盛り上がれる。やっぱりこいつらと一緒に居るのは最高。

「どうする?これもう大爆笑だぜ!」

 

…当日。披露宴終幕の後、式場を後にする6人。

終わった。痛い。ダダすべりし過ぎて居たたまれない…なのに二次会までは3時間ある。

 

「どうしますか?これから。」

二次会なんてバックレたい。でも折角誘ってくれているし…居酒屋で時間を潰すにも昼間すぎて店がやっていない、近くの喫茶店も披露宴帰りの奴らで一杯。

とぼとぼ二次会会場へと歩きながら。各々の頭に浮かぶのは、他愛もない過去の出来事たち。

 

「随分とエモーショナルな作品が公開されるな…。」

劇場予告編で見かけた時から『脳内観たい作品リスト』に挙げていたのに。

公開初日だった4月29日。当方の住む地域では映画館自体が営業休止の事態…でしたが結果的にはジューンブライドの6月に。無事この作品を観る事が出来ました。

 

高校の頃に知り合った6人。帰宅部同士で集まって、文化祭でコントをやった。

卒業して各々の進路は違ったけれど、時々集まった。

歳を重ねるにつれ。大切にするものが変わっていく。一緒に居ると楽しい。けれど楽しいばかりじゃない。互いの価値観が変わる。けれど…お前が信じている道なんだからちゃんとやれ。そういって厳しい言い方をした時もあった。だけど。嫌いになんてならなかった。

 

5年前。決定的な出来事が起きた。どうしようもない…信じられない出来事が。

俺たちは今だにそれを受け入れていない。

 

話がずれますが。当方の実家で18年一緒に暮らした白猫。

当方が高校生の時に、友達が拾ってきた5匹の子猫の内の一匹。もうこれは運命だと、出会ったその日に引き取ってそれから18年。息絶えるまで終始、我々家族を骨抜きにし、目の中に入れても痛くなかった白猫が逝ってしまって直ぐの頃を思い出した当方。

「何故こんなに想っているのに会えないんやろう。」

それが『他界する』ということなんですが。それでもそう思ってしまう位、日常に白猫が居ることが当たり前すぎて…ちゃんと息を引き取る瞬間も骨になったのも見届けたのに、不在である事に違和感を感じた日々。

18年。明らかに老衰でしたし、天寿を全うした。白猫との関りは、最後に体が弱っていく姿は辛かったけれど…何故か「こうしてやれば良かった」と思う所がない。白猫との思い出は、全て柔らかくて暖かい。

だから。いつも白猫を思い出すと、笑えて、懐かしくて…もう会えない事に寂しくなる。

 

5年前。6人の中の一人が死んだ。

ところで。予告編から既に「死んでるって誰が?!」とかを一切隠していない感じではありましたが。一応明示せずに進めていきたいと思います。

 

友人の結婚式の披露宴に呼ばれた。しかもこのメンバーで余興を頼まれている。

(あの。これって寧ろ「彼らに余興を頼んだ新郎新婦と会場に居た同級生たちは全力で盛り上げるべきでしょうが‼」と憤慨する案件だと思うんですがねえ。だって6人全員を呼ぶ共通の友人ってのが新郎新婦で、なおかつこのメンバーに余興を頼むって、やる内容をリクエストしているようなもんでしょうが。)

案の定。色んな世代と立場の人が集う社交場=披露宴で、成人男性の低クオリティの赤ふんダンスが盛り上がる訳もなく。泥水飲んだみたいな気持ちで終了した結婚式披露宴。

 

二次会までの空白の時間。けれど苦々しい気持ちだったからこそ、しけた感じの思い出がぽろぽろしたんだろうなと思った当方。

 

中盤以降。吉尾がかつて片思いしていた同級生(前田敦子)と再会した所から、物語の歯車の回転速度が上がっていく。

 

一緒に歳を重ねていくと思っていた。住む世界も場所も随分離れてしまって。家族が増えたり社会生活も違う。けれど、流れる時は同じ。またいつだって会える。

 

6人が最後に過ごした夜。その別れが余りにもあっさりしていて。どうしてもそこから起きた事が飲み込めなかった。

『訃報』を聞いた時の5人の姿が余りにも辛くて…ただボロボロと涙を流した当方。

 

飲み込めない。どうしても信じられない。アイツが逝くなんて。あの別れ…まさかあれっきりなんて。

 

正直、そこからの展開に関して若干取っ散らかっているなと思ってしまっている当方。あの畑のシーンに至っては「う~ん」と唸ってしまうくらい。ですが。

 

「おそらく。優柔不断なアイツだからこそ。5人の気持ちがちゃんと整理出来るまで付き合ってくれていたんだろうな。」無理やりそう思考を着地させた当方。

 

「アイツは逝ってしまった。会えないのが寂しいけれど…楽しかったよな。」

彼らがそう思えるまでの。披露宴から二次会までの弔いの時間。きちんと別れを告げた。暮れなずめ。

 

ところで。アラサー男性が高校生時代にウルフルズの『それが答えだ!』で文化祭の出し物ってちょっと渋いな~。いい歌ではあるけれど…。

(当方のベストウルフルズは『きみだけを』ですがね)

 

「あ~なかなか暮れないな~。」

やっと区切りをつけられた6人に、優しい夜が訪れますように。

…そして。二次会では振り切った『それが答えだ!』を踊れますように。

映画部活動報告「クローブヒッチ・キラー」

クローブヒッチ・キラー」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210708181147j:image

「もし、自分の父親が未解決猟奇的連続殺人犯だったとしたら…。」

 

アメリカ。ケンタッキー州の片田舎に住む4人家族。ボーイスカウトの団長を務め、信仰心も厚く町の名士。そんな父親ドン(ディラン・マクダ―モット)と専業主婦の母親。そして16歳の主人公タイラー(チャーリー・プラマー)と10歳の妹。

とあるきっかけで、ふと父親ドンの性癖を疑う事になったタイラー。けれど町の誰からも愛され、信頼の厚いドンにそんな事は言い出せなくて…。同じ頃、同級生で変わり者だとされている女子、カッシ(マディセン・ベイティ)がとある事件を調べている事を知り、その事件の内容に惹きつけられるタイラー。

それは『クローブヒッチ(巻き結び)』事件。

この町で10年前に起きた、未解決猟奇的連続殺人事件。知れば知るほど、犯人が父親のドンではないかと疑心暗鬼になっていくタイラーだったが…。

 

当方的にはリドリー・スコット監督作品『ゲティ家の身代金』での不憫な孫息子役が記憶に新しい、チャーリー・プラマー。

「ホンマあんた、家族に恵まれへんな~」。思わずそう言ってしまいたくなるくらい。またもや『ひょっとしたら加虐性癖が過ぎた殺人犯の父親を持ってしまった思春期の息子』という不憫な息子を演じておられました。

 

一応「完全ネタバレはしない様にしよう」とは思っているのですが…予告編で受けた印象的から既に「父親以外の真犯人が現れ…」という風には見せておらず。

そういった「犯人は…お前だ!」という特殊なマイクが仕込まれた蝶ネクタイでお話する少年が出てくる系のお話ではないと判断。

寧ろ。『町の名士と呼ばれ、誰からも信頼される父親の本当の顔』『それを知った時、身内はどう動くのか』『ましてや同性。息子の立場ならば』。そう言った葛藤を描いていた作品だと感じましたので…はっきりした明言はしないまでも、匂わせながら進めていきたいと思います。

 

『特殊性癖』…詳しくありませんが。当方の持論は「パートナーとの相互理解と合意があればなんであれ成立するが、もしそのバランスが崩れたものであればそれは一気に暴力と化す」。あと「安全第一」。

いかに世間から眉を顰められる性癖でも。双方で合意しているのならばそれはそれで良し。ただ…片方が全く納得していなかったとしたら…それどころか双方の関係性すら成立していなかったとしたら。それは暴力であり、恐怖でしかない。(でもそういう一報的な関係性に萌える輩も存在するんよな。げに性癖というのは厄介なものよ)。

 

片田舎で10年前に起きた『クローブヒッチ事件』。

狙われたのは全て女性。連れ去られた彼女達を待っているのは、『ギッチギチに縛られた上に窒息させられ死に至る』という最悪の末路。

綿密に計画を練り、警察を挑発し犯行に及ぶ。10年前にピタリとその犯行が止まり、現在に至るけれど…虚栄心の強い犯人は同じ事件をまた起こす。そう思い、事件を調べるカッシ。

 

ガールフレンドとの逢瀬。夜の車中デートで盛り上がっていたのに。何故か出てきたSM写真のせいで、おかしな性癖があると誤解されたタイラー。

「いやいや。こんなの知らないって」何とか誤解を解きたいのに…閉塞的なコミュニティでは一気に噂話が駆け巡り。変態野郎という不本意なレッテルを貼られる目にあってしまった。

友達から白い目で見られる事も耐え難いけれど…気になる…だって、これは父親ドンの車だから。

 

家族が買い出しで不在の間。ドンが作業場として使っている小屋に忍び込んだタイラー。そこで見つけたモノは…大量の、加虐的な嗜好を示す不穏な資料だった。

 

『父親の性癖』この世に数多ある情報の中でもトップクラスに、知りたくない/知らなくていい情報。しかもそれが特殊性癖なんて。

これまで信じてきた父親像との乖離。混乱する気持ちにどう落としどころを付けたらいいのか迷うタイラーが出会ったのが、奇しくも同じ人物に行きつくこととなる事件を調べていた同級生の女子、カッシ。

 

カッシは何故クローブヒッチ事件を調べているのか。それは後々明かされるのですが。それもまた「捻らんな~」という「そりゃあこの事件を調べるわ」という動機。故に彼女の行動は「現在のうのうと暮らしている犯人をあぶり出し、社会的制裁を加え、罪を償わせたい」という正義の信念に基づいている。

けれど。カッシと共に行動しているタイラーは、どこかで「犯人があぶり出される」事を恐れている。それは犯人だけでなく、家族=自分もこの町での居場所を失うから。

 

父親のドン。『善い人』を演じる事が多い俳優、ディラン・マクダ―モットを起用しているのもあってか、序盤の「頼りになる大人」「物分かりの良い父親」感が半端なく…だからこそメッキが剥がれていって、その場その場の付け焼刃で取り繕う様に幻滅感が増していく。

そこには「息子の前では恰好を付けたい」という虚栄心と「息子にはこの言い訳で丸め込めるだろう」という欺瞞が満ちているから。つまりは言い逃れ。

騙されてあげたい。そう思うけれど…残念ながら16歳はもう子供じゃない。

 

結局、取り繕っている内に秘めていた欲望が再び頭をもたげてしまって…10年の時を経ての再犯。

終盤の、グッダグダな『現在のクローブヒッチ・キラー』犯行手際。そしてばれて取った行動も…何もかものあまりの無様さに溜息が尽きなかった当方。

 

「もし世間に犯人だと知れたら」そう思った息子が父親に下した制裁。

タイラーは確かにドンを守った行動を取ったとは思うけれど…もう一生答えを反芻しながら生きていくしかないし、息子にそんな業を負わせる親なんてと思うと…「ホンマあんた、家族に恵まれへんな~」としか言いようがない。

 

ところで。終盤の言葉から「母親はおそらく全てを知っていた」と感じ、空恐ろしさに震えた当方。彼女の精神構造が最も闇が深い。

 

大体の流れが読み通りに進みながらも。ずっとまとわりついてくる「ああ嫌やな~。」「どうするかね。こういう状況やったら」という感じ。鬱々としながらも目が離せない。鑑賞後も地味に後味が悪い。これは素直に良作。見逃さなくて良かったです。

映画部活動報告「愛のコリーダ (2K修復版)」

愛のコリーダ(2K修復版)」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210702005804j:image

「愛か。猥褻か。」

 

昭和11年(1936年)に起きた『阿部定事件』。

阿部定に依る、情夫の殺害、及び男性器を切り取り持ち去ったといった、日本の犯罪史上でも突き抜けてトリッキーな事件を題材に製作された日本初のハードコア・ポルノ映画。

本番行為ありき。大胆な性描写が多く、日本では表現に限界があった1970年代。大島渚監督が当時ハードコアが解禁されたばかりだったフランスの製作者アナトール・ドーマンから打診されたこともあり、日仏合作での製作に至った作品。

阿部定役に新人の松田英子(当時24歳!)。そして情夫役の吉蔵を藤竜也(当時35歳)が演じた。

 

昭:はいどうも。当方の心に住む男女キャラ『昭と和(あきらとかず)』です。

和:THE棒読み。昭さんよ…頑張っていこう!

昭:男女の各々の立場から考察する。男女の心の機微…俺、こういうエロ案件語れる引き出し一切無いんで。そこの所よろしくお願いします。

和:ドンマイ。同じ人間の心から派生しているんやから、そこはお互い様。どんどん無い引き出し空けて、机上の空論広げていこう。しまっていこうぜ!

 

昭:『愛のコリーダ』。1976年公開で題材は『阿部定事件』。それは知っていたけれど…思っていた以上に元の『阿部定事件』を知らなかったな。

和:「惚れた相手を殺して、その上男性器を切り落とした女性」それだけでお腹いっぱいで詳しく調べた事が無かった。料亭の旦那と住み込み女中の恋…つまりは不倫関係で、その不毛な関係性に絶望した女性側が凶行に至った…と思い込んでいたけれど。まさかの「プレイの果て」の情死。

昭:まあ…生きながら男性器切られて…とかじゃなかったのは幸い(何が?)。ところでさあ、今回『男性器』でいくの?

和:え?…この呼称、多分今後それなりに出てくるよ。劇中にならった方がいい?子供っぽくした方がいいの?

昭:やめてくれ。このデバイスにそういう言葉を打ち込みたくないからさ…『おんどりゃあ』でもいい?

和:それ、当方が中学生の頃に聞いていたAMラジオで決めていた男性器呼称やん…まあなんでもいいよ。

 

昭:東京中野にある料亭、吉田屋。住み込みで働いていた女中の定と、主人の吉蔵が出会ったのは1936年の2月。河岸に出かける前に女将のトク(中島葵)と交わる姿を見て、吉蔵に一目ぼれした定にちょっかいを出したのが運のつき。トクの目を盗みながら散々体を重ね。案の定トクにばれてしまい、吉田屋を辞めた定と吉蔵は駆け落ち。待合宿で祝言をあげ。以降は昼夜を問わずにただひたすらまぐわう日々。

和:次第に尽きてくる軍資金。二人で過ごす生活を維持するため、名古屋に居るパトロンに金の無心に行く定。嫌々吉蔵と離れたら。もう…一人で居るのは無理。吉っちゃんと一緒じゃないと定は無理。

昭:いくら何でも家を空けすぎているからと、一旦吉田屋に帰った吉蔵。直ぐに定の元に戻ったのに…「今度離れたら殺してやる」と嫉妬に狂い、刃物をちらつかせる定。以降退廃的な日々。そして破滅に向かう同年5月。正味3か月のジェットコースター・ロマンス

 

和:ええと。「刃物をちらつかせてくる女性」について昭さんはどう…(食い気味で)昭:無理。

和:そうよなあ…我々は同じ人間から派生しているから(段々小声)。

 

昭:そもそも『メンヘラ系女子』が苦手なんで。定はブラック案件もいいところ。性欲旺盛な若い女性にベッタベタに惚れられたといい気になって嵌ったら最後、精根尽きるまでしゃぶり尽くされて廃人になる未来しか見えない。

和:ワンフレーズで言い切ったな。確かにそういう事なんやけれどさあ。でも私、定が吉っちゃんに惚れる気持ち、分かるよ。

昭:おっと。お聞かせいただこうか。

 

和:俳優藤竜也の魅力も相まっているとは思うけれど。兎に角、吉っちゃんは「断らない人」なんよな。元々、雇っている女中に手を出すなんて日常茶飯事なんやろうと思ったけれど。遊び人ながら釣った魚にとことん優しい。嫌なプレイも「俺は嫌だけれど定が良いんなら良いよ」と受け入れてくれる。「お前が気持ちい良いんなら俺はなんでも付き合う」。断らない。(また声が優しい)。

昭:さぞかしモテてきたんでしょうな~という余裕。

和:遊び人な吉っちゃんに対し。とことんとんとん圧力で詰め寄った定。けれど定も初心なわけじゃない。序盤で一瞬現れた浮浪者が定に言ったように、「お前とは昔まぐわった覚えがあるが、お前の事が忘れられなくて」という…床上手?(下品)。

昭:とはいえ。結果命を落とすことになった件のプレイ以外は、そんなに特殊性癖でもないと思ったぞ。ひたすら定が吉っちゃんのおんどりゃあを褒めまくり、あがめ奉る。そりゃあ吉っちゃん的に悪い気はしないけれど。一辺倒で段々疲れてくるよな。

和:小説『ミスターエロチスト:梶山秀之著』の刷り込みが過ぎる。特殊性癖フルコンボで描いたりしたら、本当にこの作品の真意が問われるでしょうが。『ハードコア・ポルノ』とは言ってもエロに完全に振りきるつもりは無かったんでしょうから。

 

昭:1976年公開時も大騒ぎになった「愛か。猥褻か。」確かに全編の9割はセックスがらみのシーン。恋愛初期の盛り上がりというには執拗な「ヤッテヤッテヤッテヤッテヤリまくって」のミルフィーユ。

和:初めこそ、力関係(あくまでも社会的地位や性的な意味で)で優位だった吉蔵。けれど次第に定と形成逆転。そうなると「吉っちゃんのおんどりゃあが大好き」「ずっと繋がっていたい」「一瞬たりとも離したくない」「二人きりでいたい」と定の勢いに押し潰されていく。終盤の吉っちゃん、生気が抜けて泣いていたもんな。

昭:言っといていい?俺さあ。ホンマにアカンのが「食べ物で遊ぶプレイ」と「刃物プレイ」なんやと再確認した。ゆで卵を膣内に入れて「産め」ってやってたやつには憤りを感じたし…それにどんなに盛り上がっていても口に包丁咥えて赤襦袢脱いでくる女性には恐怖しか感じない。しおしおのぱ~。

 

和:あの、肉切り包丁咥えて貝印のロゴみたいなマークが入った赤襦袢脱ぐシーン。滅茶苦茶画になるんよな。ああいうセンスがこの作品をエロ映画とは呼びきれない境界線。吉っちゃんを殺めてしまう「も~いいかい」のシーンなんてアートさながら。センスが飛び抜けている。

昭:個人的には、海外版で観られるらしい無修正版には興味が無い。特段おんどりゃあを見たくもないし、二人のセックスシーンの生々しさはこれ以上要らない。その具体的な情報が無くても十分「行きつく先には死しかない」という二人の未来は感じられる。俺には理解出来ないけれど定吉カップルの「ふ~たりの~た~め~。せ~かいはあるの~」という世界観。さながらカマキリの性交。メスに捕食されながら果てるオス(きちんと調べずに書いています)。メンヘラカップルの幸せな着地。いいんじゃないの。俺は絶対に関わりたくないけれど。

 

和:『大島渚監督祭り』勝手に銘打って『戦場のメリークリスマス』と『愛のコリーダ』二本立てで鑑賞した6月のあの日。どちらも40年くらい前の作品。けれど大島渚監督の代表作にふさわしい問題作。帰宅途中、脳が痺れてパンパンやった。

昭:「大島渚監督作品は2023年に国立機関に収蔵される予定で、大規模公開はこれが最後になる。」パンフレットに書いてあった一文を読んで「滑り込みセーフ」と思ったな。

和:百聞は一見に如かず。観ない事には分からない。「愛か。猥褻か。」我々は「愛」を取りますよ。f:id:watanabeseijin:20210707003242j:image

 

映画部活動報告「戦場のメリークリスマス(4K修復版)」

戦場のメリークリスマス(4K修復版)」観ました。f:id:watanabeseijin:20210630203403j:image

大島渚監督伝説の話題作。『戦場のメリークリスマス』と『愛のコリーダ』がスクリーンに蘇る‼」

2021年。年明け。テアトル映画館で大体的に宣伝された日から。「うわあああ~何となく知っているけれどちゃんとは分かってないやつ!映画館で観られる日が来るとは‼」

これは絶対に観に行かなければと思いながらも。段々とまたもや疫病の影が忍び寄り。当方の住む地域は(当時)日本中で最も危ないパンデミックエリアとして多くの商業施設と共に映画館も休業。

約一か月の映画館休業の中。他県に行けば映画を観られる環境をグッと我慢。そうしてやっと映画館の平日時短営業再開の後、公開初日を迎えた2021年6月11日。

「仕事が終わらん。」当日怒涛の緊急案件で初日鑑賞ならず。上映時間には間に合わないけれど、映画館が閉まる時間には間に合う…滑り込み、お目当ての物販(マグカップ。パンフレット。思わずキーホルダーも)を購入。

まだ休日は映画館は休館を強いられていたため。当方がやっと本編を観る事が出来たのは一週間後の6月18日。満を持しての鑑賞となりました。

 

戦場のメリークリスマス』1983年公開作品。

終戦間近の1942年のジャワ島。日本軍捕虜収容所を舞台に、極限状態にあった男たちの友情と愛を描いた作品。陸軍大尉ヨノイを坂本龍一。不思議な魅力を持つイギリス人捕虜陸軍少佐セリアズをデヴィッド・ボウイ。粗暴なハラ軍曹をビートたけし。イギリス人捕虜ロレンス陸軍中尉をトム・コンティが演じた。

ミュージシャンやコメディアンなど演技経験のない者達も加えた配役。自ら志願したという坂本龍一のサントラ。加えてグランプリ確定と思われたその年のカンヌ国際映画祭の受賞を逃すなど、何かと話題が欠かせなかった作品(受賞したのは『楢山節考』)。

 

「こういう作品やったか。なるほど。」

 

当方の実家にあるVHSビデオたち。何曜日かのロードショーでテレビ放送されたものを録画した古いやつ。他『戦場にかける橋』『ビルマの竪琴』など、正直印象が混在していた当方(流石に『ビルマの竪琴』はインパクトが強くて独立してますけれど)。

余談ですが。当方の母親は、1983年の公開当時映画館に観に行ったらしく。今回購入したパンフレットを興味深く読んでいました。

 

まあ。だらだらとした前置きはいい加減にして。本編の感想文に入ろうと思いますが。

 

英国作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポストが書いた「影の獄にて」が原作。

第二次世界大戦中日本軍捕虜であった自身の経験を書いた小説で、彼とハラ軍曹との友情もセリアズとヨノイ大尉との様子もまま描かれていると(当方未読)。

 

ジャワ島日本軍捕虜収容所で日々起きる出来事に対処すべく奔走するハラ軍曹。一見粗暴なハラと温厚なロレンスの奇妙な友情。

 

日本軍の輸送隊を襲撃し捕虜となったセリアズを預かる事になったヨノイ大尉。

軍事裁判で初めてセリアズを見たその時から、目が離せなかった。

ジャワ島の捕虜施設に収容した後も、体調を崩し療養中のセリアズを夜間にそっと見に来るなど、明らかに他の捕虜たちへの対応と違う。かと思えば、たちが怯えるほどの気合を込めて日本刀の稽古をするなど…明らかに様子がおかしいヨノイ大尉。

 

「恋をしなすったんだな…。」溜息交じりの当方(誰だよ)。

 

自身を「満州に居ながら二・二六事件に参加出来なかった自分は死に遅れた身なのだ」と厭世的に語る一方、それでもストイックに生きようとするヨノイ大尉の…おそらく一目ぼれ。その相手は敵国の捕虜。

 

物語の幕開け。オランダ人捕虜を朝鮮人軍属が犯すという事件から始まり。そしてその人物に下った処罰からも、同性愛に対する理解は一切無かった時代背景。

(問題は同性愛云々というより「同意の無いセックスを強要した」事の方に重きを置いて欲しいよ。)

自身がセリアズに抱く感情が一体何なのか。それにヨノイ大尉が気づくのはもう取り返しがつかなくなった後半も後半。

そして。一見飄々と掴み所のないセリアズもまた、幼い弟への後悔を引きずり「俺は裏切り者だ」という思いが経ち切れないでいた。

 

ヨノイ大尉とセリアズ。そしてハラ軍曹とロレンス。

この二組の男たち。後者がブロマンス的な…相棒の様相を呈してくる中、前者たちの息が詰まる感じ。というかどんどんヨノイ大尉が支離滅裂になっていく(当方の印象です)。

 

一本筋が通った日本男児に見えたのにな~。段々ヒステリックで横暴になってきている…誰か。誰かちょっとバシッと言ったって!そう思っていたら…セリアズの抱擁とキス。お前…モテる奴やな。そんなの、日本男児がやられたら…そりゃあ腰抜かすわ。(後ねえ。やっぱり抑えられないから言っといていいですか。「ヨノイ大尉。メイク濃過ぎ」。)

 

戦闘シーンの無い戦争映画。残酷描写も「お国の為云々」も無い。押しつけがましい教訓めいたメッセージは一切無いからこそ、しんみりと寂しい気持ちに包まれる。

 

晩年のハラに「貴方は過去の犠牲者だ」と声を掛けたロレンス。

戦時中。「死に損ないは恥ずかしい」「生き恥を晒すくらいなら死ね」という考えを持っていた日本人と「今の自分は時の運。生き延びるのは恥ではない」と答えたイギリス人。

同じ時代。同じ場所で。けれど置かれた環境が全く違った。もし戦争が無ければ…互いに良い理解者になれたのかもしれない。けれど。戦争が無ければ出会う事は無かった。

 

想像以上に散漫になってしまった感想文に、当方自身が驚いていますが。公開から38年経って。ようやくしっかり鑑賞する事が出来たこの作品が、想像以上に不格好(褒めています)で純度の高いものだったことに、消化しきれていないのが正直な感想。

 

そして。お馴染みなはずなのに…最後の、ハラの屈託のない「メリークリスマス。ミスターロレンス。」に案の定グッと涙が込み上げた当方。

 

ところで。公開初日に映画館で購入したマグカップ。意外としっかりとした作りの、いい大きさで重宝。パンフレットは『愛のコリーダ』も同時収録で読み応えあり。キーホルダーは職場のロッカーキー専用としちょいちょい自慢している当方。

 

此処まできちんと日常で役に立っている物販は初めてかもしれません。
f:id:watanabeseijin:20210701233919j:image

映画部活動報告「ダーティー・ダンシング」

「ダーティー・ダンシング」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210629181505j:image

「これは私がベイビーと呼ばれていた頃。1963年の夏だった。」

 

17歳。夏季休暇明けには大学進学が控えていた。そんな、家族で過ごす恒例の避暑地で出会った恋とダンスが…私を大人にした。

 

1987 年公開。80年代ダンス映画ブーム。『フラッシュ・ダンス』『フットルース』と並ぶヒット作であり、1987年米アカデミー賞の主演歌賞受賞作品。

 

ティーンの頃に観たかった…。」

 

何だか凄いダンス映画がリバイバル上映されるらしいぞと。前知識も全く持たずにフラっと鑑賞したこの作品。そうして、むせかえるようなみずみずしさと少女漫画的世界観に酔いしれながらつくづく感じたのは当方自身の「汚れちまった悲しみに…」。

歳を取り、分別のついてしまった今よりも。純粋に観る事が出来たであろうティーン時代にこの作品を浴びたかった。(勿論今出会えた事自体には大いに感謝)。

なので。今回の感想文は、17歳の主人公ベイビーの恋にキュンキュンしながらも、終始しがない中年当方の突っ込みか絡んでしまう事を先んじてお詫びしておきたいと思います。

 

1963年夏。フランシス(ジェニファー・グレイ)17歳。裕福な医師家庭に育ち、両親からは今でも『ベイビー』と呼ばれている箱入り娘。

両親と姉のリサとで訪れたケラーマン山荘。家族で過ごす恒例の夏季休暇。そこで出会った、不良っぽいダンスインストラクター、ジョニー(パトリック・キャッスル)。

始めて目にした『ダーティ・ダンス』=マンボ。その激しさ、妖艶さに魅入られ、惹きつけられていくベイビー。

ジョニーのダンス・パートナー、ペニー(シンシア・ローズ)の予期せぬ事態をきっかけに、ジョニーのパートナーとしてダンスを踊る事になったベイビー。

二人の秘密のダンスレッスンは親密さを増していって…。

 

もう一つ先んじてお詫び「今回結構ネタバレします」。

 

1960年代のアメリカ。詳しくはありませんが。どことなく身分制度意識は残っていて、富裕層と労働者階級との差分がある。

この『ケラーマン山荘』という富裕層向けのホテル。湖畔にある大型ホテルで、富裕層家族が長期休暇を過ごす目的で使用される事が多く、大人には大人の社交場。そして子供たちには色んなお楽しみプログラムがある(仮装大会やダンスパーティ、最終日の出し物発表会など)。

従業員の中でも、宿泊客の相手をする給仕などには医学生などのエリート学生バイトたちを付け「娘たちをナンパしろ」とたきつける。

そして、お楽しみ要因(楽団やダンサー)などは労働者階級があてがわれている。

 

そういう環境で。医者の娘のベイビーと従業員のダンサー、ジョニーが恋に落ちる。

 

「とは言え。ベイビー自身はまだ何者でもないんだがな。」早速老いたる当方がぶつぶつ言ってしまう点ですが。

ベイビーは、大学で発展途上国の経済学を学び、平和部隊でボランティアに取り組むつもり…という真面目に誰かの役に立ちたいと望んでいる少女で。およそ嫌味な部分がない。

ホテルの支配人から甥を紹介され。乗り気でないけれど参加したダンスパーティで、けた外れのダンスパフォーマンスを目の当たりにする。

ダンス講師のペニーと、パートナーのジョニー。プロの二人の圧倒的なダンス。

その夜。ふとしたきっかけで従業員宿泊棟に紛れ込んだベイビーは、彼らのダンスパーティの様子に衝撃を受ける。

 

この作品の魅力はやはりダンスシーンの迫力。ケニー・オルテガの振り付け。

ジョニー役のパトリック・キャッスル(元バレエ劇団員)。基礎がしっかりしまくっている彼と、ダンスパートナーのペニー役のシンシア・ローズ(元ダンサー)のキレッキレなダンスシーンは「そりゃあベイビーじゃなくても惹かれるわ」という至福のダンスシーン。

 

「二人…恋人なの?」「それがさあ。違うんだな。」てっきり恋仲だと思っていたのに。ペニーの妊娠が発覚。しかも相手は給仕の医大生、ロビーだという。

所詮はあばずれ。まともな恋人だと思うはずが無いだろうがと随分な言い草のロビーと、早く中絶しなければと泣くペニー。

ベイビーが父親からお金を借り、そのお金で非合法に堕胎手術を受ける事になったペニー。しかしその日がダンスユニットの他ホテルでのダンスショーの日であったことから、ベイビーがペニーの代わりにジョニーのパートナーとして踊る事になった。

 

「待て待て待て。これまでダンスをしたことが無かった女子が超短期間でプロダンサーレベルまで持っていけるもんかね?」

 

まあねえ…そこはファンタジーなんで。ジョニーとペニーの猛特訓でそこそこまで踊れるようになっていくんですわ。

またその練習風景がエモい。二人が絡むシーンの手の動きがこそばゆくて笑ってしまうベイビー。雨の中車に乗り込んで二人で向かった森で練習する様。丸太の上に立つジョニーにつくづく「体幹がしっかりしてるんやなあ~」とほれぼれする当方。

そして…鑑賞した人の多くの記憶に残ったであろう、湖でのリフト練習。水に濡れてスケスケの上着…じゃない。二人のにじみ出る高揚感に釘付け。

 

運命のダンスショーの夜。イマイチな出来でケラーマン山荘に戻った二人を待ち構えていたのは、非合法な堕胎手術で止血処置が不十分だったために大出血を起こして衰弱していたペニー。

おろおろする仲間たちを尻目に。一目散に父親の元へ走り、ペニーの処置を依頼したベイビー。職業意識の高さから、階級などに構わず即座に適切な処置を施した父親だったが。窓口に立って対応したジョニーがペニーの相手だと勘違いする。

 

ここまではジョニーは大人だなと感じていたんですが…突然グイグイ押してくるベイビー(当方個人の感想です)に押し切られるジョニー。

「おいおいお前。子供じゃないか。」そう思っていたら…ジョニーの部屋に押し掛けてくるベイビー。そして二人で熱く踊り…結ばれる。

 

「お前ら!ペニーが生死を彷徨った後によくそんな気持ちになれるよな!生まれなかった命の事も思ったら、今日は悼む夜じゃないの?」老いたる当方が吠えるのを尻目に。どんどん盛り上がっていく二人。

「う~。体の関係を持ったら一気に彼女面するっていう女子ってセリフが初めて脳裏に浮かぶ…」ジョニーに対する扱いがどんどんこなれていくベイビーに「夢見る少女じゃいられない」が流れる脳内(何この文章)。

 

結局二人の関係は父親に知られる事となってしまい。そして唐突に発生した事件の濡れ衣を着せられ、解雇に至ったジョニー。(あの事件の蛇足感よ…と思っていたら、しっかり伏線があった事にやや驚いた当方。)

 

傷心で迎えた最終日の出し物発表会。そこに、もう二度と会えないと思っていたジョニーが現れた。

 

出し物発表会が始まり、その様子を舞台袖から見ていた支配人が「今ではもうこういったホテルはすっかり古くなってしまった」と涙ぐんでいた時点から既に極まっていた当方。

最後のダンスシーン。主人公二人は勿論、ダンス仲間たち。そしてつられて皆が立ち上がり踊り始める…その姿にいよいよ涙が溢れた当方。

 

「何よりも怖いのは、この部屋を出たら、これからの人生であなたと一緒だった時のような思いをする事は二度とないことよ。」17歳。ベイビーと呼ばれていた、フランシスの言葉。

 

「客と従業員の恋愛は即解雇よ(言い回しうろ覚え)!」ベイビーとの関係を知ったジョニーに忠告したペニーの言葉に、ごもっともだと頷く当方。客は家族つれ。大人ならまだしも、子供は…おそらく未成年だろうし、責任持てない。(でもエリート学生はいいんよな。格差時代…。)そりゃあホテルはそう言うだろうよと思っていたら、ジョニーの年齢21歳!若っか。未成年ではないけれどジョニーも若い…ジョニー老けすぎやろう。

 

「この後二人はどうなるのだろう…」その想像がどうも現実的になってしまう悲しさ。「高校の卒業式に告白して、当時の数学の先生と付き合ったんですが。進学したらすぐ別れてしまいました。」何故か昔飲みの席で聞いた女子の過去の恋愛トークが脳内を過ってしまって…おそらく、ベイビーには素敵な恋の思い出になる。でもジョニーは?切ない思いをしそうな予感がするぞ…。

 

ティーンの時に出会いたかった。」

そう思う当方も居るけれど。それは仕方がない事で。それよりも1987年公開作品を34年後の今、映画館で鑑賞出来たのが感動。良い映画はどれだけ時が経っても色あせないもんなんだな。

諸般の事情もあるんでしょうが。30~40年前の映画を今映画館でリバイバル上映する流れのありがたさ。やはり名作と呼ばれる作品は見ごたえがあるし面白い。

 

またふらっと。こういう作品に出会えますように。

映画部活動報告「クルエラ」

「クルエラ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210615064300j:image

「ディズニー史上最もファッショナブルで悪名高きヴィラン(悪役)」

 

101匹わんちゃん(1961)の悪役、クルエラ。常に毛皮を身にまとう有名なデザイナーであり、かつ冷酷非道な悪女。一体彼女はどうして『クルエラ(残酷・残忍)』になったのか。

 

1970年代。少女の名前はエステラ・ミラー。生まれながら左右で白黒に分かれた髪色を持つ。母のキャサリンと二人暮らし。ずば抜けたファッションセンスがあるが、生来の気性の荒さから学校でも喧嘩ばかり。素行の悪さから学校を退学になったエステラを連れ、ロンドンへと移住することにしたキャサリンは生計を立てるべく、道中の屋敷に立ち寄る。

そこでは家主のバロネス・フォン・ヘルマンが主宰するパーティの真っ最中。バロネスに資金援助を求めていたキャサリンは、不幸な事故に依って命を落とす羽目になってしまった。

孤児となってしまったエステラ。なんとかロンドンまでたどり着いた彼女は、ホームレスの孤児ジャスパーとホーレスという少年たちと行動を共にすることになった。

 

目立つ髪色を赤く染め。生きていくために3人で盗みを繰り返し10年が経った。

泥棒として生計を立て、変装の為に衣装を仕立てる。めきめきとファッションスキルを磨いていったエステラは、遂に念願のリバティ百貨店での職を得る事になった。

心を躍らせて仕事に向かうも、任された仕事は雑用ばかり。クビ寸前まで陥ったエステラだったが、オートクチュールデザイナー、バロネスに才能を見出されて彼女のオフィスに雇われることとなった。

 

「これはディズニー版『ジョーカー』だ。」

 

その触れ込みに、一気に興味が沸いた作品。主演をエマ・ストーンが演じる事からも既に注目はしていたのですが。あの、一昨年に多くの人の心を揺さぶった「哀しきピエロが悪役へと変貌する様」を描いた作品を持ち出されては…これは観るしかない。

 

まあ。確かに「悪役がいかにして悪役となったのか」を描いていた作品でしたし、その一つに「母親との関係」が影響していたのは共通項ではありましたが。

「いや。これはこれ、それはそれ。」そっと溜息を付く当方。「ディズニーとDCじゃ、クラス内カーストでもトップクラスの一軍モテキャラと賢いけれど陰気な拗らせキャラくらいの違いがある。そんな双方が同じ作風になる訳がない。」

何をうじうじしているのかというと…つまりは「これめっちゃガールズムービーやし堂々とそういう売り方をすればいいやん」と思ったから。

 

監督がクレイグ・ギレスビー。前作が『アイ・トーニャ 史上最大のスキャンダル』(2017)。1990年代に起きたフィギア・スケート界を揺るがせたスキャンダルを描いた作品。主人公のトーニャ・ハーディングを生き生きと演じたマーゴット・ロビーの姿が記憶に新しい。

「そういう、ポリシーを持って我が道を進まんとする女性を主人公にしたお話が得意なんだな。」

 

主人公エステラがクルエラになるまでの半生。少女時代に母親と生き別れ、孤児として逞しく育った。やっとの思いで飛び込んだファッションの世界で。色々教えてくれた師匠のデザイナーを敵だとみなした途端、彼女の復讐劇が始まる。

 

エマ・ストーンという女優。大きな目と口。見た目のチャーミングさもさながら、彼女の圧倒的な武器はその表情の豊かさ。すっかり大女優なのに、気取っていないコミカルな演技。

今作は兎に角「エマ・ストーンを楽しむ映画」で。音楽、美術、衣装…そこにノリノリなエマ・ストーンを置くと、こんなにも画が映えるのかとワクワクするばかり。(そこに加えて。終盤はマーク・ストロングを愛でるという要素も加わる)

 

舞台は1970年代のイギリス。パンクスタイル全盛。オートクチュールドレスが段々と古びていくなか、既存のスタイルをぶち壊したセンスをぶつける事で大御所デザイナー・バロネス潰しを図るエステラ。

 

「うん。そういう事やと思っていました。」

エステラとバロネスの関係。その真実が明かされたけれど…まあそうだろうなと思っていた当方。だって。敵が突き抜けて悪い奴じゃないと、こちらの正当性が無くなってしまうから(現実では100%悪人なんて存在しませんけれど)。

 

エステラとバロネスの対決ばかりでは無く。昔からの仲間、ジャスパーとホーレスにも目配りをする。流石ディズニー、友情の大切さを語る事もお忘れではない。

 

「これ、どうやって風呂敷を畳むつもりなんやろう。」

そう思っていたので。あそこが最終決戦の場になった事は納得。けれど「その細工は無理があり過ぎる」「超人か」「ご都合主義」と冷ややかな当方。

 

結局は。そもそもの『101匹わんちゃん』に対しての記憶があやふやな事が最大の乗り切れなかった理由だったのだろうと思う当方。実も蓋もないですが。なぜなら。

「どうして後のクルエラが、犬の毛皮でコートを作ろうとするのか」

今回の作品を経て、エステラからクルエラとなった彼女の行動にイマイチ整合性が見当たらない。改めて1961年製作の映画を観てみたらしっくりくるんですかね。

 

確かにディズニー作品としては攻めていた映画。動き回るエマ・ストーンを観ているだけで元気が出る。勢いがある…お話は想像していたよりバタ臭かったけれど。

 

「もういっそ、この世界観で『101匹わんちゃん』を作ってくれ。」

滅多に続編を希望しない当方ですが。これに関しては説明責任を問いたい。あの話をクルエラ側から描いたら…どう整合性を保つのか。非常に興味深いです。

映画部活動報告「ファーザー」

「ファーザー」観ました。
f:id:watanabeseijin:20210603145401j:image

父と娘の物語。

 

「親が老いていくとはなんと切ないことなんやろう。」

現在83歳の俳優、アンソニー・ホプキンスが放った渾身の父親『アンソニー』。

イギリス、ロンドン。元エンジニアで引退し、今は娘のアン(オリヴィア・コールマン)と二人暮らし。

認知症の症状が進むアンソニーと、アン自身の人生の選択。父と娘が暮らした日々を、アンソニーの視点で描いていく作品。

 

「そうか。こういう風に見えているのだとしたら、それはそれは…不安で仕方がないだろうな。」

 

自分が昔から住んでいるアパートだと思っていたら「ここはアンの家ですよ」と言われる。随分前に離婚して独身のはずのなのに「私はアンの夫です」と名乗る男が目の前に現れる。かと思えば別の男に「私はアンのパートナーです」と名乗られる。挙句自分になれなれしく話す、見覚えのない女性が「何言ってるの。私がアンじゃないの」と言い切られる。

目の前でコロコロ変化する人物像や人間関係。誰が誰なのか確信が持てない。自分が今居る場所の不確かさ。記憶は前後し、次第に今が朝なのか夜なのかもよく分からない。何もかもが不確かで、父アンソニーが体感している世界はさながらサスペンスかホラーのよう。

 

「あれ?」と思っても、それを口に出すのが怖い。自分の記憶と目の前で起きている現象との乖離。それを認める事は自身が壊れている事を認めてしまうから…。

 

作品を観ていて、どうしても自身の親を連想せざるをえなかった。当方の父親は認知症ではないけれど、当方がそれなりに年を取ってきたという事は同じく親も老いているということで。それを最近とみに感じるから。

 

歩くのが速くて、子供の頃小走りで追いかけた。その父親を、今の当方は時々立ち止まって追いつくのを待っている。食べ物を食べる速さもしかり。何かもの動きが緩慢になってきていて、話し方にも理路整然さがなくなっている。

 

世代的には娘のアンの立場なので、アンの心情を思うと辛い。

この作品はアンソニーの視点で進められるが、そこで並行して浮き上がるアンの葛藤。

魅力的な父の変化へに対する戸惑い。不可逆的に進行するその病に希望はなく、ひたすら現状を受け入れるしかない。さっきまでご機嫌で話していたかと思えば急に怒り初め、悪態をついてくる。「下の娘ルーシーがどれだけ最高か」を語り、「アンがパートナーと結託して父親の家を乗っ取るつもりだ」と責めてくる。

 

嫌いになれたらいいのに。認知症で人が変わっていく父親を、別の人間だと区別して嫌いになれたらもっと楽になれるのに。いっそ死んでくれと思った夜もあった。

なのに、ふいに「ありがとう」と感謝を示してくれたり。不安に打ちひしがれている弱弱しい姿を見ると、抱きしめて守らなければと思ってしまう。

 

父アンソニーの、認知症によって混沌としていった世界に対し、娘アンに起きていた人生の転機。かつて結婚していた相手とは離婚し、その後パートナーが居た時期もあった。そして今、心から愛せる相手を見つけ、その相手の住むパリに移住するつもりである。

父と共に暮らしてきた日々。しかし新しい生活に父を連れていくわけにはいかない。

 

「父を捨てる」

誰かの助けがないと生活していく事が出来なくなった父を誰が面倒を見るのか。

出来れば家族である自分が見たい。そう思って一緒に住んできたけれど。果たしてそれが父にとっても自分にとっても幸せな事なのか。

 

「腕時計がない」

場面転換が起きるたび。父は自身の腕時計を無くしたと探しており、それは誰かの手によって探し出される。どんな格好をしている時でもその時計を腕に嵌めるとホッとして今が何時なのかを確かめる父。この「時を失う」という暗喩。しかし物語の終盤、もう父が腕時計を探していない、気にも留めていない姿が寂しくもあり…そして「ああもう違うステージに行ったんだな」と身に沁みた。あの最後のアンソニー・ホプキンスの演技には震えて泣くしかなかった当方。

 

久しぶりに感想文を書いてみたら。想像以上に散漫な文章になってきましたので。そろそろ〆ていこうと思いますが。

 

以前。当方が親に何かの話の流れで言われた言葉。

「親の為に子供が犠牲になるなんてことを、親は望んでいない。」

 

そして鑑賞中、何度も頭に過った「親の背中を見て子は育つ」という言葉。

常に自身の先を生きている親。愛情をもって大切に育ててくれた。そんな親の生きざま。年を重ねていくということ。円熟し、そして次第に朽ちていく様を見せてくれているのだから、子供はしっかり受け止めなければいけないのだということ。

そこでどうするのか。色んな家族の形があるし、幾つもの答えがある。そして確固たる正解などないけれど。その時とった行動はいつか…自分にも訪れるラストステージをどう生きるのに繋がる。

 

「それにしても凄まじいものを観せられたものよ。」

シンプルでありながらサスペンスさながらの展開。絶妙な構成と、何よりアンソニー・ホプキンスの怪演と見事なオリヴィア・コールマンの演技。

ハラハラして、ちょっとコミカルな部分もあって…でも最後にはホロホロと涙が落ちた。傑作。

 

日本の暦では父の日がある6月。長らく閉じていた、映画館再開初日に鑑賞出来て最高だった作品でした。