ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「キネマの神様」

「キネマの神様」観ました。
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松竹映画100周年記念作品。原作は原田マハの同名小説。監督山田洋次(89)作品。

 

ギャンブルと酒に溺れ。借金まみれの不良老人・丸山郷直(ゴウ)。妻と娘に見放される寸前の彼には、1950~60年代の若かりし頃に『活動屋』として映画監督を目指していた助監督時代があった。

若かりし頃のゴウを菅田将暉、年老いたゴウを沢田研二。後にゴウの妻となった、定食屋の淑子ちゃんを永野芽郁宮本信子が演じた。

 

当方は原作小説未読でして。なので「元々の小説がどういう内容だったのか」という比較はできません。また、かなりのネタバレを絡めながらの内容になる事を先んじてお詫びします。

 

2020年の幕開けすぐ。年老いたゴウを志村けんで撮り進めていたこと。その最中で新型コロナ肺炎に罹患し死去されたこと。緊急事態宣言が発令され、撮影が一時中断を余儀なくされたこと。志村けんの友人である沢田研二が遺稿を継いだこと(今回全員継承略で統一しています)。

未だ出口の見えない疫病の、さわりの頃に紆余曲折があった作品だと見聞きしていたのもあって。久しぶりに山田洋次監督作品を観に行こうかと映画館で鑑賞してきました。

 

鑑賞後の率直な感想を言えば「いやいやいや」と突っ込みたい部分が有り余るほどにあるのですが。いきなりそれらに触れるのはよろしくないと思うので…ひとまずは「89歳の御大の新作が映画館で拝めたこと」に感謝したいと思います。

 

酒とギャンブルに溺れ、ゴウの借金に家族も巻き添えを食らう…そんな円山家。ゴウと妻淑子。そしてシングルマザーの娘の渉(寺島しのぶ)と孫の勇太。

業を煮やした渉に、銀行口座のカードを取り上げられた。喧嘩した挙句「お父さんには映画があるじゃないの!」とどやされ、行き場を無くし馴染みの映画館『テアトル銀幕』に向かうゴウ。そこはかつて撮影所で共に働いた友人、テラシンこと寺林新太郎(小林稔侍)が営む名画座だった。

1950年代。撮影所で助監督として働いていたゴウ。よく一緒に仕事をしていたのは『出水組』を率いていた出水宏監督(リリーフランキー)や彼の作品に出ていた女優、桂園子(北川景子)。そして出来上がったフイルムを撮影所内で試写する際の技師がテラシン(野田洋次郎)だった。

映画漬けの日々。撮影所の近くにある定食屋の看板娘淑子も交えての映画談義。共に青春を駆け抜けた。恋と友情。

そして「皆が見たことがない映画を作りたい」と熱く語っていたゴウの初監督作品『キネマの神様』の撮影中に起きたトラブル。そこで挫折し、映画監督は夢半ばで諦めてしまった。

 

現代パートからスタートする本編。見た目からなにから全てだらしないゴウに「これは好きになれない主人公かな…」と険しい表情を崩せなかった当方が「おや?」となったのが若かりし頃のゴウ。まるで別人。

というか。早くもグチグチ言い始めますがねえ…どう考えても「過去と未来のゴウが繋がらない。いくらなんでも説明不足過ぎる」と思うんですわ。

 

若かりし頃のゴウが余りにも映画に向かって一生懸命な好青年なんで。「ここからどうなったら博打に溺れるのかね?」過去と現在を繋ぐ描写が皆無な上に、エピソードもほぼなし(無くはない)。夢と希望が折られてからの現在、円山家は一体どうやって暮らしてここまできたんだ。

 

現代。出版社に勤める派遣社員の渉。離婚し一人息子を育てているが、どうやら息子は引きこもりがち(ここの事情もイマイチ明かされない。この孫、一体幾つなんだ)。

最終的には見放さないけれど、両親への当たりがヒステリックな渉(当方はヒステリックで直ぐに大声を出す人物は男女を問わず苦手)。けれど最もアカンのは妻淑子。「お父さんには私しかいないから」とどこまでもゴウを甘やかす。

 

「なんで?なんでそんな感じになっちゃうの?淑子そんなキャラクターじゃなかったやん。」

 

若かりし頃。撮影所の近くにある定食屋の看板娘で、しょっちゅう撮影所にも出前で足を踏み入れた。天真爛漫で皆に「淑子ちゃん」と可愛がられ、顔なじみだったゴウと後に恋人になった。けれど、その事でゴウとテラシンとの友情にヒビが入ってしまう。何故ならテラシンが淑子に恋心を抱いている事を見抜き、告白するように後押ししたのがゴウだったから。

 

「淑子ちゃんの気持ちを知っていたのに僕を焚きつけたのか!」失恋の悲しさ、ゴウの裏切り(テラシンの告白をきっかけに両想いと分かって付き合うこととなったゴウと淑子)に逆上し、絶交宣言をしたテラシン。

 

「以降の二人の友情、どうなったん?その後初監督作品が幻となって、挫折したゴウと淑子で駆け落ち同様にゴウの故郷岡山に向かった所で過去のパート終わってましたけれど。現在名画座のオーナーをしているテラシンの映画館に入り浸るゴウ…どういう和解をしたんだ。」

「岡山で所帯を持った?二人が再び東京で一軒家に娘と二世帯同居していて、お金が無いと言いながらどうやって生活しているのかもよく分からんけれど…淑子がふと求人を見かけてバイト面接に行った先がテラシンの映画館で、そこで50年以上ぶりに再会?ですか?」

 

止められない。観ていてもやもやしていたところがどんどん出てきてしまう。

 

「何よりも。現在のゴウ、映画が好きな人には見えないんよな。」

 

テラシンの映画館で。「明日から上映する作品のテストなんだ」と営業時間外にテスト上映していた古い作品を観るゴウ。「ああ。誰だれ監督が。俺、この女優の瞳に映っているんだぜ。」テラシンとそういういかにも業界人な会話をしたりもしていましたが。

 

「古い映画以外の話題が無い。多分観ていないな。」「映画館で映画を観る事が好きな人間は、上映開始から随分たった劇場に物音を立てて入らない(そもそも入れない)。」「映画上映中に大声で話さない。」「ゴウにとっては本望かもしれないけれど、最後の下りも周囲には大迷惑。」「本編上映中止案件やんか。」

 

 

撮影半ばで幻となってしまった『キネマの神様』。その脚本を引きこもりの孫が見つけた。ゴウを焚きつけ、二人三脚で現代風に作り直し。それをシナリオ大賞に応募したら見事大賞に輝いた。

そこからの、映画館オーナー、テラシンの『映画館の私物化行為』にも腹立たしさを感じた当方。

オーナーの知り合いか知らんけれど、上映を待つ間に「お客さん!聞いてください。この男が遂にやりました!」と大声を出しながらステージ前に見知らぬ年寄りを引っ張りだす。当方が客なら心底どうでもいい。

 

まあ、グダグダ書き連ねるのもアレなんで程々にしますが。兎に角「過去パートは結構いいのに現在パートは辻褄が合わないし雑なんですわ。」というのが当方の感想。

 

とはいえ、流石御大。俳優、特に女優陣を美しく撮っていたのには感服。

永野芽郁の愛らしさ。そして北川景子の大女優感。

北川景子ってこんなに綺麗だったのか…。」スクリーンに映える。

2020年、初回の緊急事態宣言下で映画館が休館を余儀なくされたことを嘆いていたシーンには思わず涙がでた当方。

等々、胸を打つ場面もあるにはあったのですが…どうもそれを超える「ん?ちょっと待って。」が多すぎた作品。

 

ですが。きっとこの作品は「世に送り出す」ことが大義だったのだろう。色んな事が未だ渦中な最中で紆余曲折を経て映画館に辿り着いた。

そう思うと『松竹映画100周年記念作品』の冠も感慨深いです。