映画部活動報告「菊とギロチン」
「菊とギロチン」観ました。
瀬々敬久監督作品。189分。
大正末期。関東大震災の頃。実在した女相撲と、大阪発祥のアナーキー集団「ギロチン社」との出会いと交流を描いた作品。
瀬々監督が『女相撲』と『ギロチン社』をテーマに練った構想30年の渾身の作品云々。
「こいつは重たい奴が来るぞ」と腹を括ったつもりでしたが。想像以上にヘビー級の作品でした。
『女相撲』。確か女人禁制のはずの日本の国技『相撲』に於いて。実際に『女相撲』という興行が存在していたという事に唸った当方。山形県発祥。(全てがそうでも無かっただろうけれど。)裸に褌巻いて、みたいなお色気おふざけ集団ではなく。あくまでも大真面目に女同士で相撲を取っていた。
「土俵に女を上げると神様が怒る」その言葉を逆手に取って。彼女らの興行は『雨ごい』として農村地域で人気があり。日本全国を廻っていた。
「強くなりたい」「強くなれば何かが変わる」
この物語で描かれた『女相撲玉岩興行』の面々。しかし彼女らはただの見世物として相撲を取っていた訳では無かった。
主人公の新人力士『花菊』(木竜麻生)は田舎で愛が無く結婚し、夫の暴力から逃げ出して入門した。同じように夫から逃げた者、置屋から逃げ出した朝鮮籍の女性等、個人個人の背景は複雑で。共通しているのは「かつて虐げられていた女達」だったという事。
そんな彼女達の「強くなれば」の切実さ。
同じ頃。大阪で活動していたアナキスト集団『ギロチン社』。
「社会を変えたい。自由で誰もが平等だと思える社会にしたい」と夢だけは大層だけれど結局は口先だけで。金持ちにたかりに行っては得た金で女や博打につぎ込んでいた。
そんな彼らもオイタが過ぎて(と言うか人殺してますからな)一斉摘発。からがら逃げたギロチン者のリーダー中濱鐵(東出昌大)と古田大次郎(寛一郎)。
そこで初めて見た『女相撲』。
境遇も立場も全く違う。なのに。互いに惹かれていく彼ら。男達の持っていた、小難しい思想。机上の空論は彼女達の存在に依って次第に血の通ったものとなっていく。
「自由な世界で生きたい」これこそが彼らの共通認識。
大体そういう感じの事を、非常に丁寧に描いておられました。
当方は哀しくつまらない大人ですので。こういう『アナーキー』を気取る連中にふんと笑ってしまう所があり…「心身共に健康な成人でありながら定職にも就かず。金持ちや親兄弟の脛を齧っていながら…何が社会にモノ申すだ。」「やる事(学業や勤労)を全うしてから偉そうな事を言え」と思ってしまうんですよ。ですので。実在したという『ギロチン社』の事を調べもせずにうがった見方をしてはいけないのは重々承知では居りつつも『お子様』としか思えなくて。
けれど。そんな彼らが出会った『女相撲玉岩興行』。
初めこそ「おっぱいポロリしてんじゃねえの」なんて。イロモノ扱いで見に行ったけれど。
思った以上に迫力のある取り組み。盛り上がる会場。引き込まれ。
「俺たちは文筆業だ。取材させてくれ。」始めはそういって強引に彼女達の所に押しかけた。そこから次第に知っていった、彼女達の背景。
「これは『弱い人達』の話だ…」
女達は暴力を受けていた。それは配偶者あったり恋人であったり。相手は余りにも身勝手。「あいつは俺のもんだ」「だから何をしても良いんだ」そして余りにも彼女達を『モノ扱い』し過ぎていた。
加えて『日本人じゃないから』という暴力。「災いが起きたのはあいつらのせいだ」「あいつらが集団で何かを企んでいる」いわれのない言いがかりが、今暮らしている国も、生まれた国も愛せなくなってしまう。では一体自分は今何人なのか。アイデンティティの崩壊。
しかし。彼女達は甘んじてその状況を受け入れていた訳じゃない。
「強くあれば」
たまたま女相撲を見た。その時感じた衝撃。「強くなりたい」それは腕力としてだけの問題では無く。
兎に角変わりたい。今の自分から変わりたい。
その気持ちは『ギロチン社』の残党中濱と古田も同じ。だから猛烈に惹かれた。
とは言え。一見暴力を振るっている側もまた、一概に悪と叩ききる事は出来ず。
例えば玉岩興行の力士、十勝川(韓英恵)に集団リンチを加えた自警団の面々。
戦争があった。ロシアに行った。お国の為。そう信じて。けれどそれは何度も何度も言い聞かせなければ、自我が崩壊寸前の地獄だった。
戦争当時。どうして俺はここにいる?ここで何をしている?沸き起こる疑問は「お国の為だから」というフレーズで覆わなければ気が狂いそうだった。けれど。ここにいる。戦地にいる。その方がまし。まし?戦地が?なぜなら『お国』で小作農をしている方が辛かった。なのに。
戦争が終わって帰ってみたら。『お国』には居場所がない。俺たちは一体何をしてきたんだ。「お国の為」に。
そこで目に付くイロモノ興行。そこに在籍する、朝鮮人。何だこれ。
当然いわれのない暴力に正当性なんて無い。けれど。全体に流れる『弱い人達』の抱える悲しみ。何故暴力が生まれるのかという背景。けれど。
決して『弱い人達』全てがやられっぱなしな訳では無い。
どうすれば『強く』なれるのか。『強さ』とは何か。
如何せん189分の大作。登場人物もエピソードも多く。全体が混沌としていますので観ているだけであわあわ。正直とても消化しきれませんでしたが。
「後単純に俳優陣が充実しすぎやろ。」
川瀬陽太。宇野祥平。渋川清彦。「ありがとうございまっす!!」と大声で敬礼しても良い位の当方の『脇役三つ巴』勢ぞろいの布陣。その他もうれしくなっちゃう面々が参加。それだけでお腹一杯胸いっぱい。
平成が終わろうとしている今。この混沌とした大正時代後期の。飾らなくて、みっともなくて、けれど一生懸命に生きようとした若者達の話を。
こんなに泥臭く叩きつけた瀬々監督と。そしてこの作品を世に出そうとした人たちの熱意を感じながら。
すんなりスマートな解釈を今は出せませんが。こうやって心に受けたヘビー級の衝撃と、その正体を。これからゆっくり紐解いていきたいと思います。
映画部活動報告「君が君で君だ」
「君が君で君だ」観ました。
松居大悟監督オリジナル作品。
好きで好きで好きで仕方ない。そんな相手が出来た。だから俺は彼女が好きなモノになる。
彼女が好きな音楽は尾崎豊。だから俺は尾崎(池松壮亮)。彼女が好きな俳優はブラッド・ピット。だから俺はブラピ(満島真之助)。彼女が好きな思想家は坂本龍馬。だから俺は坂本(大倉孝二)。
ある日。恋人に振られたと落ち込む友達と二人で行ったカラオケボックスで彼女に出会った。
片言の日本語を話す店員。カラオケボックスを出たところで輩な連中に絡まれていた彼女。駄目元で助けに行ったら案の定返り討ち。結局連中は逃げていったけれど…どこまでも格好悪い俺達。でも。
彼女はケガをしている、とハンカチをくれた。
俺達は恋に落ちた。
~からの10年。
彼女を『姫』と崇め。姫の住むマンションの部屋が見えるボロアパートの一室を借りて。
俺達は常に姫を見守り。姫の生活の全てを把握し、シンクロする事で精神を保っていた。
「怖えええ。完全にストーカー案件やないか…。」
互いを『尾崎』『ブラピ』と呼び合い。いつのまにやら増えた『坂本』(姫の元彼)との三人の。気持ち悪い共同生活。
盗聴、盗撮は当然。姫の出したゴミを回収しコレクション。姫がいつも食べるカップ麺やジュースを常備し。姫が食べるのに合わせて自分達も食事。
そんな生活が。ずっと続くと思っていた(狂気)。けれど。
姫の彼氏が作った借金。その取り立て連中が、ふとした拍子に俺達に気付いてしまった。そして俺達の国に乗り込んできた。
元々は純粋な恋心だったのに。どうしょうもなく狂っていった俺達と。そして決して踏み込めなかった姫の世界が初めて交わった。そんな数日を描いた作品。
「いやあ~。当方はこういう突き抜けた馬鹿は大好きですよ。実際に居たら引きますけれど。」
姫が大好き‼とは言っても、彼らは決して姫に手出しはしない。ずっと姫を観察して、そして三人で盛り上がっているだけ。
当方はこれまでの人生で『ファンクラブ』に属する程入れ込んだアイドルやら俳優は居ないんですが。何て言うか、そういう人達の中でも一際コアな…熱狂的ファン?彼らを例えるならばそういう感じ。
「というか。最早これは恋では無いな…。」
何だか部活みたい。勿論姫に対する好意がベースなんやろうけれど。同じベースを共有する三人が集まってキャッキャ騒いでいる感じ。そりゃあ楽しかろう。(にしても10年は長いけれどな)見ているだけなら傷付きもしないし。
けれど。そうやってただただ『姫を見守っていただけ』の彼らの国が打ち破られ。そして崩壊する。
「借金取りの女社長がYOUってのも良かったけれど、手下が向井理ってのが良かった。」爽やかキャラの印象がある向井理を。あんな眉毛無しでチンピラファッションて。当方の向井理に対する好感度が上昇。
しかも、誰一人マトモな人間が居ない中で唯一のマトモな人間。ジャストな人選。
出会った当初はカラオケボックスの店員だった姫。祖国(韓国)で暮らす母親の為収入の安定した日本語教師になりたいという夢があった。そうやって頑張っていたけれど。坂本と別れた後に出来た彼氏の宗太(高杉真宙)。
元々は夢を持ったバンドマンだった。けれど。「私が働くから。宗太は音楽に集中して」(どこの『南瓜とマヨネーズ』の世界やねん‼)案の定、墜ちていく宗太と姫。
いつのまにやら。宗太の借金返済の為、風俗にまで足を突っ込んでしまった。
そして今日。姫の部屋に借金取りがやって来て。斜め向かいに住む俺達に気付いてしまった。
だらだら話をなぞっていくのもアレなんで。
当方の感想を書いていきますが。
「この支配からの。卒業。」
尾崎豊について。当方は全く語る術を持ちませんし、彼の人となりや人生もテレビ等から得た知識程度。歌も全部は知りません。ですが。
この作品を一言で言うならば(何故⁉)これしか無い。
彼らが一体何に支配されていたのか。
『姫』は確かに彼らにとって、この10年のシンボル。元々は恋心だった。でも。恋を伝える努力はしなかった。関わる事もしなかった。
「姫っていうのがまた。滅茶苦茶美人な訳でない。夢があったのに諦めてしまった。駄目な彼氏に貢いで堕ちてしまっている。姫自体もイケてないんよな…。」
姫は彼らにとっての自己投影。姫を好きな気持ちもあるけれど。何をやっても駄目な姫と自分が重なって見えて。だからずっと見ていた。姫が好きなモノになって。彼らは見ていた。姫=俺達の構図。
「いやいや。お前ら何も知らないじゃん。何もしてねぇじゃん。」
クズにしか見えない彼氏の宗太。けれど。三人どころか、誰も知らない。姫と彼氏だけのやりとりがあった。きちんと積み重ねた甘い日々。
そして。姫。
「何となく。見ている奴が要るな~。と思っていた日々。でも何かをしてくる訳じゃないし、自分が落ち込んでいるときに励まそうとする気配を感じたりもした。だからあまりどうこう思ってはいなかった。」様に見えましたが。
流石にあの部屋を見たら…そりゃあ発狂しますわ。
どんなに純粋な気持ちだ。何もしないだと言っても。あの部屋とあの連中はあかん。絶対あかん。
「まあ結局。あの国(部屋)が崩壊した事で。現実に行き詰まっていた姫も解放されたんやな。」
夢から覚めた。もう俺止める。
そうやって仲間は去っていった。姫も去って行こうとしている。
「でもさあ。やっぱりこれ。元々は恋なんですけれど。」
尾崎豊を捨てて走り出す池松壮亮。その姿に気持ち悪さと、やっとなりふり構わず動き出したなと思った当方。
正直。辻褄が合わない、強引、どういう事だよと思う所も幾つも有りましたので。腑に落ちない、定まらない気持ちにも所々なりましたが。
最後。主要メンバーが楽しそうに歌う『僕が僕であるために』。
聞いていたら何だか急に吹っ切れて…良いエンドロールだなと思いました。
映画部活動報告「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」
「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」観ました。
1973年。当時の女子テニス女王ビリー・ジーン・キング29歳と、1938年に年間グランドスラムを達成し国際テニス殿堂入りのボビー・リッグス55歳による『バトル・オブ・ザ・セクシーズ=テニス男女対抗戦』が行われた。
女子テニス選手が男子と比べ1/8のギャラしか支払われない事に憤り。ビリー・ジーン・キングはテニス協会を脱退。仲間の女子選手達と『女子テニス協会』を立ち上げた。
スポンサーを見つけ。徐々に興行を伸ばしいつつあった女子テニス協会。そんなある夜、ビリーにボビーから男女対抗試合の申し込みの電話が掛かってくる。
「男性優位主義対フェミニストのバトルはどうだ!」
馬鹿らしい。そんな茶番に付き合えるかと一旦は断るが。
当時『テニス界の最も有名な母』と呼ばれたマーガレットが試合を承諾。そして母の日にボビーに惨敗した事で、ビリーはボビーとの試合を受けて立つ事を決心する。
『ラ・ラ・ランドで米アカデミー賞主演女優賞を受賞したエマ・ストーン最新作』
元々正統派美人というよりコロコロ変わる表情で輝く彼女。…にしても、髪を黒く染めて70年代眼鏡を掛けただけでこんなに野暮ったくなるなんて。(という事は漫画王道の「眼鏡を外したらあの子は美人パターン」ってある…って事ですかね?当方は男女問わず眼鏡っ子が大好きなんで認めたくないんですが…)
まあ。ともあれ。実際の『ビリー・ジーン』を画像で見たら。凄く忠実な再現でした。
そして『ボビー・リッグス』を演じたスティーブ・カレル。
エマ・ストーンも良かったですが、この役をスティーブ・カレルが好演した事も非常に良かった。このペアだから成り立った作品だと思う当方。
(当方がスティーブ・カレルが純粋に好きだというのもあります。『フォックス・キャッチャー』のあの悲しすぎる『ママの前での茶番稽古』のシーンは映画部の中でも「泣くしかない」と話題に上がった、切ないシーンでした)
「女性がコートに立つ事は必要だ。球拾いが要るからな。」「女は台所と寝室に居たらいい。」言葉だけ聞いたら何て嫌な奴なんだと憤りを感じますが。ボビーを見ていてそこまで憎たらしいとは思わなかった。
「と言うのもボビーは完全な道化だからだ。」(当方の印象)
元テニス王者。殿堂入りした伝説の選手。そんな大層な肩書きを持つけれど。
ギャンブル依存症。強制的にカウンセリングにも通わされているけれど。家族に隠れて隙あらば賭け事に興じ。妻からは呆れられ。三下り半を突きつけられる。
妻を愛している。別れたくない。けれど…ギャンブルも止められない。
「俺は根っからの勝負師だ。」
お金の問題。ギャンブル仲間との関係性。テニス界に対するもやもや。最近調子に乗っているビリー・ジーン。女子テニス協会の存在。…けれど。当方にはボビーがそれらをまともに考察して出した挑戦状には見えなかった。
「どう思う?男子と女子がテニスで戦う。本来ならば実現しないけれど、今のテニス協会のゴタゴタにかこつければやってやれない事は無い。現世界王者だけれど男子に比べれば非力な女子選手と、元世界王者だけれどシニアの俺。これ、面白くない?」
根っからの勝負師ボビー(しかもメンタルは無敵な少年)のワクワク案件。加えてボビー、盛り上げ上手。
けれど。そんな挑戦状。受ける訳にはいかない。
「どうして女子は男子に比べて劣っていると思うの。」「私たちのやっていることだってテニスよ。」テニス協会は馬鹿だと息巻いて。付いてきてくれた女子選手たちと立ち上げた『女子テニス協会』。潰す訳にはいかないと必死で興行する日々。
そんなある日。お調子者ボビーからのバカげた挑戦状。
「そんな事をやっている暇は無い。」という気持ちと平行して「もし負けてしまったら…。」という不安。
「年齢的にはこちらが優位かもしれない。けれど相手はシニアとはいえ男子選手。負けてしまったら?もし世界王者の自分が男子選手に負けたら。まさに『女子は男子に劣っている』という偏見に屈してしまう事になる。」
そんな戦い、受ける訳にはいかない。
なのに。同じ女子テニス協会のマーガレットがボビーの挑戦状を受けてしまった。
しかも惨敗。
これは自分が出るしかない。出ないと…。
この世紀の対決に至るまでと、最終の大会までがメインストーリーとなる訳ですが。
「おお。これそういう話やったのか。」
あまり劇場で予告編を見る機会が無かったのもあって。ほぼまっさらな状態で観に行った当方。(テニス事情も全く通じていない)
『ビリー・ジーン・キング』という女性の人となり。どういう活躍をした人物なのか。そして彼女のセクシャルティ。今回初めて知りました。
女子テニス協会を立ち上げた当時。ビリー・ジーン・キング。つまりはキング夫人。
結婚していたビリー・ジーン。優しくてハンサムな夫とは、遠征が多い事もあってほぼ別居状態。けれど互いに愛し合っている。そう思っていた。けれど。
女子テニス協会の設立広報の準備で知り合った美容師のマリリン。彼女に惹かれてしまった。
「女性を好きになった事は無い」「私には夫がいる」そう思っていたのに。(またねえ。マリリン役の女優さんがまた…なんかエロいんですよ)互いに求め合って。盛り上がって。止められなくて。
時代は1970年代。色んな価値観が変わっていくけれど。如何せん同性愛に対する理解などまだまだ厳しかったのであろう時代。
恋人が出来た。そうは言えなくて。(まあ…結婚しているって言うのもありますし)この感情を誰かには言えない。自分でもどうしていいのか分からない。集中できない。そんな精神状態のブレは案の定テニスにも影響してしまって。
そうやってもがいていた中での『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』。
結局ビリー・ジーンがどういう選択をしたのかは後日談のテロップと、当方が後から調べた情報から知りましたが。
「男だとか女だとか。そこに優劣を付ける事は出来ない。個人を見る時、性別は関係ない。男だから。女だから。そんな『だから』は存在しない。人を枠にはめて判断してはいけない。なぜなら誰もが自由だから。」(当方の解釈)
今日。皆が注目するような世紀の試合をした。試合の結果は出た。けれど。それはテニスの試合にはとどまらない。
最後。歓声に沸くコートに向かうビリー・ジーンに。ずっと一緒にやってきた衣装担当のスタッフが掛けた言葉。頷いて後歩きだした彼女の。その決心。
「いやあこれ。こういう話だとは思いませんでしたよ…。」「後。正直あのテニスシーンは何処まで凄いのか…誰かテニス経験者の方教えて欲しい。」「事実は小説よりも奇なり。」
実話ベースの深みに唸りましたが…出来ればテニス経験者か詳しい人に色々聞きたいとも思う当方です。
映画部活動報告「マッド・ダディ」
「マッド・ダディ」観ました。
それは突然始まった。
ニコラス・ケイジ主演。
アメリカ郊外。一軒家に住むブレント一家。サラリーマンの父。専業主婦の母。生意気な女子高生の姉。こまっしゃくれた未就学児童の弟。四人家族。
取り立てて問題がある訳じゃ無い、けれど特に特徴もない。どこにでもいる平凡でさえない一家。
今日だってそうだった。何てことない平凡な一日になるはずだった。
各々仕事や学校に行き。残された者もスポーツクラブに行ったり友人に会ったり。夜からはブレントの両親も遊びに来る。皆で一緒に夕飯を囲む。その日に起きた、他愛もない事を話合う。そんな一日になるはずだった。なのに。
今日は何故か陰鬱な気分になるニュースばかりが流れる。「親が突然我が子を殺した」何故?何故今日はそんなニュースばかり?何だか街の様子もおかしいし…胸騒ぎ。
どうしても気になって。仕事を早退し帰宅。そして我が子の姿を見た途端…ブレントの中の何かがはじけ飛んだ。
…という事を、主に姉弟視点多めでやっておられました。
「いやあ~これ…何て言うか…中途半端というか…。」歯切れが悪くもごもご言う当方。「オープニングが一番良かった。そこで終了しちゃった…というか…。」
不条理劇なんですよ。そりゃあ、『親が我が子を殺す』というセンセーショナルな内容なんですから当然ですけれど。
けれどこういうのって、大体『実は訳の分からない未確認生物に依って突如人類の思考に変調がもたらされ云々』とか『未知のウイルスに依って人間凶器と化してしまった大人達!さあ!子供達よ立ち上がれ!』みたいな…みたいなこじつけ(例題が凄いチープ)があるじゃないですか。でもこの作品には『親がどうしてこうなったのか』という説明は一切ない。(最後それっぽいフレーズがかすめましたけれど)
なので始まりは唐突だし、「これってどう落とし込むつもりなんやろう…まさか投げっぱなすとか…」という不安も心の中でどんどん膨らむ上に、まあ正直そういう感じに…(小声)。
「ここ十数年の出演作の中で一番気に入ってる作品さ!」-ニコラス・ケイジー
ちょっと待て。ちょっと待てケイジ。あんた何言ってんだ。それを言うなら『俺の獲物はビンラディン』やろう。どういう意味でそれ言ってんだ。
後。今回は当方もとことん褒めない感じで突っ走っていますが。「音楽がうるさい」という不満も…。いかにも「出るで出るで~」「ジャーン!」みたいな音。やかましい。
「何やろうなあ~この感じ」そう思ってモヤモヤしていましたが。先ほど当方の脳内に唐突に降りてきた答え。「これあれですわ。『キングスマン』の『教会のシーン』。又は『キャビン』のラスト。」
『キングスマン』先日公開された駄…じゃなくて、初期の方。あの最高だったキングスマンの中でも。やっぱり評価が高いのって『教会のシーン』じゃないですか。音楽に乗ってコリン・ファースがガンガンに信者たちを殺していくという。あのシーン。
そして『キャビン』。あんなに上手く出来たホラー…が一転してウィットの効いたコメディ作品に切り変わった瞬間。「ジャーン。チャンチャラチャンチャラ~」という音楽が聞こえて来そうな程のドリフ感。
どちらも見ている側のテンションを一気に爆上げしたシーンでしたが。
あれって。そのシーン自体は確かに異質だけれど。大元のストーリーがしっかりあるからこその切り替えの妙じゃないですか。
それがこの作品の場合、さっき例えた作品達の所謂『異質なシーン』のみで構成しようとするから。何だか落ち着かない。緩急が無いから。うーん。
「後単純に『サバ―・ビコン』を最近観てしまっているのもあって。何だか既視感もある。今思えば同じく『我が子を殺そうとする』行動もマッド・デイモンの方に軍配が…。」まあこれは言ってはいけない事ですが。
まあでも。ニコラス・ケイジのハイテンションジェットコースター演技を楽しむ。そういう観点で観るのならば…後、オープニングのセンスは絶妙な感じで当方は好きでした。
映画部活動報告「V.I.P.修羅の獣たち」
「V.I.P.修羅の獣たち」観ました。
韓国映画。「もし北から亡命させた最重要人物(V.I.P.)が殺人事件の容疑者だったら?」
北朝鮮と韓国。先ずは北朝鮮で起きた猟奇殺人とその容疑者。しかし彼は北朝鮮の金庫番の息子(V.I.P.)。彼は北では裁けないと。CIAと韓国の国家情報院に依って韓国に亡命させた。
しかし彼は韓国でもその性癖(最早猟奇殺人は性癖)を抑える事が出来ず。同じような殺人事件を繰り返してしまう。
利害など関係ないと犯人を追う韓国地元警察。犯人を守ろうとする国家情報院。犯人を守ろうとしているのは彼が北朝鮮の金庫番の息子だから…という下心があるCIA。執念深く犯人を追っていた北朝鮮からの工作員。そして。
絶対に自分には誰も手出しが出来ないと高をくくっているV.I.P.。
「つまりはまあ…オイタがすぎた北のボンボンを誰もが憎たらしいと思いながらも手が出せなくて。結局誰が鉄拳制裁を食らわせたかという話。」
…凄いですね。こう書いてみたら、本当にこの一文が全てでした。となると…あんまりこれ以上つらつら書けなくなってしまうのですが。
北からのサイコパスに対し、工作員、国家情報院、地元警察。そしてCIAと。四つ巴の攻防。互いの立場があれど。それは時に自身の行動理念の足かせとなって。
またこの犯人であるキム・グァンイル。(凄い名前)彼の圧倒的な悪役感。強い。
しれっとした佇まいから漏れるサイコパス臭。常にニヤニヤ笑い。そして毎度窮地に立たされながらもちゃっかり助かる悪運の強さ。彼に対して当方が納得できないのはヘアスタイル位でしたよ。
だって…。北朝鮮の金庫番、№2、3を誇る人物の息子にしてはラフすぎ。確か北朝鮮のトレンドは受話器ヘアスタイルなはず。角刈り上等。そこはきっちりして頂きたい。
そんなへらへらしたサイコパスに『喧嘩上等』と殴りかかっていく韓国地元警察。
「もしやこの中に韓国随一の上腕刑事が?」なんて探してしまいましたが。兎に角被害者の事を思うと犯罪者憎しと暴力も厭わない地元警察。
警察と気持ちは同じだけれど。CIA…ひいては韓国国家の犬故に手出しが出来ない国家情報院。THE板挟みの中間管理職。
そして。なにもかを捨てて復讐に燃える、北の工作員。
当方ですか?この中の誰に特別思い入れがあったかと?
「いや…話が進むにつれてこのボンボンに対するフラストレーションが募りすぎて。お仕置き出来る立場なら誰でもいいと思いましたよ。」
何だか変態っぽい言い回しをしてしまいましたが。まんまとストーリー展開に飲み込まれる当方。
「ただし!このCIA職員ポールはごめんだ!何なん終始クチャクチャガム噛んで!あんた昔のプロ野球選手か!人様とお話する時はガムを噛むな!」
いかに頭が切れようとも、対人関係に於いて口をクチャクチャさせる米国人…万死に値する生理的嫌悪感。お前は道端の空き缶蹴っ飛ばし。そのまま退場願いたい。
そして…悲しいかな。以外にも強かったV.I.Pの前に。哀しくも倒れていった者達。
ところで。唐突に話をぐっと変えますが。
今現在は退職してしまったので不在なのですが。当方には非常~に合わない同僚がかつて職場に居ました。 場違いですので具体的な内容は割愛しますが。
「あの人を思い出すと、当方の暴力性が引き起こされてしまって…」
どういうことですかと笑う後輩に対し、淡々と答えた当方。
「もし当方に『撃って良い銃』が与えられたらあの人を撃つ。まずは馬乗りになって撃つ。全弾使う。もう息をしていなくても最後まで撃つ。最後立ち上がって、亡骸に空の銃を投げつける。」
あははやばいですね~。ていうかそういうの見すぎですよ~。そういって笑った後輩の前で、最後飲み込んだ言葉。
「先ずは肩越しとかに撃って黙らせる。そして最後、銃を口に咥えるかそれともデコに当てるかは選ばせてあげる」
何だかヤバそうな性癖を露呈してしまいそうな気がしたので…この一文は飲み込みましたが。
何故当方がこのエピソードをこのタイミングで持ってきたのか。お察し頂きたい次第ですが。
ままこの通りでなくとも…思いがけないカタルシスに、溜息ついて、座席に深く沈みこんだ当方。
(また…あいつの表情がまた…(変態的発言))
「もし北から亡命させた最重要人物(V.I.P.)が殺人事件の容疑者だったら?」
そしてこの四つ巴なら?この作品の回答は至極真っ当でスタンダードでしたが。
「溜まらん…。」
思いがけず。その最後は、当方の柔らかい所を今でも締め付け続けています。
映画部活動報告「ブリグズビー・ベア」
「ブリグズビー・ベア」観ました。
アメリカ。コメディユニット『GOOD NEIGHBOR』のメンバーが監督・脚本・主演。
両親と三人。シェルターで暮らすジェームズ。25歳。
最早この世は世紀末。汚染された地球から守られた我が家で。時々外をぼんやり眺める以外は全く自宅から出た事の無かったジェームズ。
幼い頃から毎週ポストに届けられる教育番組『ブリグズビー・ベア』のビデオ。
それこそ擦りきれる程繰り返し見て。ブリグズビー・ベアはジェームズの全てだった。
ある日。そんな日常が食い破られる。
警察隊が突入。両親だと思っていたのは、実は赤の他人。彼らは25年前に生まれて間もなかったジェームズを誘拐した犯罪者だった。
保護され。実の家族の元に戻されたジェームズ。新しい両親と高校生の妹との再会。
大感動で胸が一杯の両親と、どこかぎこちない妹。
新たな場所で。ジェームズは衝撃の事実を告げられる。
「『ブリグズビー・ベア』は偽の父親がジェームズの為だけに作った作品であった。」「自分にとっての全ては、自分だけの全てだった。」
あのシェルター生活で。ブリグズビー・ベアグッズに囲まれて。見知らぬ誰かと夜な夜なコンピューター(ワープロ)で回線越しに文字で熱く語った。それもまた、偽の両親がジェームズの居ない間に誰かになりすまし返答していたと。
普通に考えれば狂気。けれど。
「ブリグズビー・ベアは素晴らしい。それを伝えることは自分にしか出来ない。」「ブリグズビー・ベアの新作を作れるのは自分だけだ。」「ブリグズビー・ベアの映画を作る」
そうして。ジェームズと妹。妹の友人達との映画製作の日々が始まった。
「結論から言うと、最高でした。」
悪い人が居ない世界。勿論、生後間もない赤ん坊を誘拐し、幽閉するのは犯罪。しかし彼らなりの最大限の愛情を余す事無く注がれたジェームズの、一転の曇りもない純粋さ。
閉鎖的な生活をしていたとはいえ。読み書きも出来るし、日常生活も普通に送れる。けれど。
「食事の前のお祈り…長いな」「性器を触るのは一日二回まで」ふとした瞬間で以前の生活の片鱗を見せるジェームズ。
「25年間で出来なかった事をしよう!そのリストは無限にあるぞ!」新たな両親は兎に角ジェームズとの日々を新しい事で埋めようとする。なのにジェームズの口から出るのは「ブリグズビー・ベア」の話ばかり。
けれど。それは決してジェームズが現在の両親を認めていないとか、育ててくれた両親を盲目的に崇拝している様でなくて。
「上手く言える気がしないので誤解を招きそうやけれど…ジェームズにとっては両親は二組居て。悪者とかそういう概念は無くて…これまで育ててくれた人と産んでくれた人。みたいな…。もし偽物の両親が今後出所したら(両親同士ではモヤモヤするやろうけれど)どちらとも上手く付き合っていきそうな…可能なら皆で会ったりもしそうな…そんな気がする。」
自身に十分な愛情を注いでくれた両親。それを信じてきた。だからそれが他人から見たら異常であっても。自分がそう感じないのだからどうでもいい。そんなことより。
そんなことより。あのブリグズビー・ベアを。
誰も知らなかった。あの名作を。
ジェームズにはその事の方が一大事。物心ついた時から今まで送られてきたあいつが。もう新作を見られない上に、自分しか知らなかったと。…自分しか知らない。ブリグズビー・ベアを⁉
10近く年上の兄の出現に戸惑う妹。噂には聞いていたけれど…どう接して良いのか分からなくて。けれどある日。同級生のパーティに連れて行ったら。同級生と意気投合。
「この『ブリグズビー・ベア』って。すげえクールだな!最高!」
件の教育ビデオ。『ブリグズビー・ベア』シリーズ。1980~1090年代のNHK教育テレビを妹と見まくっていた元鍵っ子当方としては「懐かしい…」と郷愁を感じる雰囲気の番組。(作中映像では幼い感じ。『お~いはに丸』とか『できるかな』みたいな印象。幼い時はそういうバージョンで徐々に対象年齢を上げていったのか)
それは誰もが同じく懐かしいと思えるものだった。
そしてジェームズの「ブリグズビー・ベアの映画を作りたい!」という勢いにも「俺。映像を作る練習をしているんだ。」と一緒に走り出してくれる妹の同級生。最高。
同級生が動画サイトにブリグズビー・ベアの動画を流した事で世間からも注目され始めた。ジェームズを保護し、始めはジェームズを可哀想だと思っていた刑事も。ジェームズの純粋さ、そして件のビデオから。次第に自身が忘れていた『役者になりたかった夢』を思い出し。ジェームズに協力していく。
勿論。なにもかもが順風満帆に進んだ訳では無い。ジェームズの無知と暴走故の犯罪すれすれの行動。案の定警察沙汰。そして現在の両親の存在。
産まれて直ぐ奪われた息子。そして25年ぶりに再会した息子。健康で素直な青年に育った事は喜ばしいけれど。息子から感じる『他人に育てられた25年の歳月』。
息子が『ブリグズビー・ベア』を口にする度正直虫唾が走る。だって。それは世間に存在しない。息子にだけに作られ続けた、あの犯罪者の愛情の証。
「やめて。」「お願いだから忘れて。」「実際に存在するもので頭を埋め尽くして。」
けれど。息子ジェームズにとっても。この25年をリセットする事なんて出来なくて。
(でも。結局はきちんと今の両親は分かってくれるんですよね…。(涙声))
この25年を。自分のこれまでの人生を。可哀想なんて言われたくない。そうじゃない。自分には(偽物だったかもしれないけれど)両親との生活があって。そしてブリグズビー・ベアがあった。
誰も知らないなんて言わないで。皆に知って欲しい。こんなに素晴らしい世界を。
これを伝える事が出来るのは自分だけ。そしてこのチャンスも一度だけ。
ブリグズビー・ベアを終わらせるのも。出来るのは自分だけ。
終盤。ジェームズが偽物の父親に会いに行くシーン。全当方が「マーク・ハミル!」と泣いた瞬間。
「何なん。このポップでキッチュな予告に惹かれてふんわり映画館に来たら、とんでもない名作に膝付き合わされる感じ。最高過ぎて胸が一杯なんですけれど。」
思いがけないホームランに。戸惑いながら泣いて。
久しぶりに不意打ち食らったなと笑いながら泣く当方です。
映画部活動報告「告白小説、その結末」
「告白小説、その結末」観ました。
フランス。デルフィーヌ・ド・ヴィガン著『デルフィーヌの友情』を。巨匠ロマン・ポランスキー監督が映画化。
私小説で人気をはくしたが、現在絶賛スランプ中の女流作家デルフィーヌをエマニュエル・セニエが。デルフィーヌに近づく謎に満ちた女性エルをエヴァ・グリーンが演じた。
人気女流作家デルフィーヌ。自身の母親を題材にした私小説にて有名になった彼女。「大感動」「勇気付けられた」「これは私に向けられた物語」読者からの絶賛の嵐。
しかしその反面「実の母親を食い物にして」と揶揄、中傷される事もある。というのも、小説の内容は精神を病み、最後には自身で命を絶った母親との生活を赤裸々に描いた告白本だったから。
件の本をきっかけに有名になったデルフィーヌであったが。それから数年。現在は絶賛スランプ中で、ひたすら『資料集め』『準備中』の日々。
子供達は独立し。恋人も居るけれど、互いの生活を尊重し別々に住居を構え。一見不満はないけれど…兎に角書けない。全く書けない。そんな状態にジレンマを抱え、そして疲れ果てていた。そんな時。
とあるサイン会で。出会った美女。その後出版社の内輪なパーティーで再会した彼女はエルと名乗り。
デルフィーヌの熱狂的なファンだというエル。エルの魅惑的な風貌。そして会話してみて分かった、引き出しの多さ、聡明さ。すっかりエルに惹かれていくデルフィーヌ。
「このエヴァ・グリーン配置。大成功。アン・ハサウェイ系目と口が大きい女性が見せる百面相。THE ナイス サイコパス。そしてくたびれ女流作家がぴったりのエマニュエル・セニエ。ナイスキャスティング。」
加えて脚本が『アクトレス~女たちの舞台~』のオリヴィエ・アサイヤス監督とポランスキー監督との合同執筆。そりゃあ、女同士のひりひりしたいやらしさ、体現出来ますよ。
件の告白本から、(恐らく身内と思われる)不明人物から執拗に送られる嫌がらせの手紙。それもまたデルフィーヌの精神的負担となっていた。
そんな、兎に角お疲れのデルフィーヌにごくごく自然に。しかしゆっくりと忍び寄るエル。デルフィーヌの悩みを聞いて。献身的に支えになって。すっかりエルに心を許すデルフィーヌ。遂に二人は共同生活を送る事になる。
「一体エルはどういう人物なのか。どうしてデルフィーヌに近づいたのか。その目的は?」
順を追ってネタバレしていくのもアレなんで。私的な感想を書いていきますが。
映画部長と当方の。当方が属するたった二人の映画部で。「当方の得意なジャンルは変態映画です」と公表している当方。これは何だか…そんな予感がするなと思って鑑賞に向かったのですが。
「ややこしい考えに囚われていたんやなあ。」自身に溜息が出た当方。
と言うのも、当方の予想ではもっとえげつない事になると思っていたから。
スランプに陥り、お疲れの中年女性作家。そこに現れた、怪しい魅力に溢れた若い美女。
自称ゴーストライター。何だか文筆業ではあるようだけれど。結局何をしている人物なのか分からない。そいえば後からよく考えたら、彼女の言動も行動も何一つ信ぴょう性は無くて。でも…そんな事思いもよらなかった。だってエルと一緒に居ると楽しいから。安心出来たから。
「何故楽しいんですか?何故安心出来るんですか?」
夢の大先生。自分の書いたモノが売れて、世間から評価された。けれど…皆が皆好意的な感想を寄越す訳じゃ無い。(それはどんな作品でもそうでしょうが)
そして今。自分は何一つ書けない。月日が経つにつれ、焦り、そして疲労していく。
子供も近くに居ない。恋人もいつも一緒に居る訳じゃない。友達だって煩わしい時がある。誰にも話せない。自分のこの燻った感情を。
そんな時。エルが現れた。丁度自分の話を聞いてくれて。そして存分に甘やかしてくれる相手が。けれど。
「貴方は兎に角書いてくれたらいいの。」次第に言動や行動に異常性を見せ始めるエル。不意に現れる凶暴性。ヒステリックにモノに当たる姿。初めこそ親切に見えた行動が、デルフィーヌを社会から隔離している様にしか見えなくなっていって。
出会った頃見せていたのと同じ表情が。時が経つにつれ、何だか常軌を逸したモノに見えてくるエル。
…っていうエルの豹変、分かりやすく描き過ぎかなあと。もっと真綿で首を絞めるごとく、じわじわ見せていってはどうなんですかね?そしてぶっちゃけ「エロく出来たんじゃないの?」そう思う当方。
「だって。あんなにエロいエヴァ・グリーンを配置しているんなら。恋人は居るけれど孤独を感じている中年女性作家に、微妙なエロさも匂わせながら近づいてもいいんじゃないのかね?そして『こんなくたびれた私が…好きなの?エル』と困惑させてもいいんじゃないのかね?」「彼女がみせる執着は…私の作品に?それとも私自身?」とか。
実際の作品では中盤位から、エルのサイコパスっぷりは露呈し始めて。デルフィーヌはそこにちょいちょい気付きながらも「エルの事、面白いから小説にするわ!」とのんきにくっ付いている。そして案の定怒涛の畳みかけの結末。
「一体エルはどういう人物なのか。どうしてデルフィーヌに近づいたのか。その目的は?」
一応それらしい回答は見せていましたし、「げに恐ろしき熱狂的ファンのお話」とも取れなくもないのですが。
「結果的に出た本。これは誰が書いた本なのか」
「これはデルフィーヌが書いた本なのか。ゴーストライターエルが書いた本なのか。」
そして全てが終ろうとしている中。ふと思い立ち、問い続ける当方。
物語が入れ子になっているのではないかと。
この物語を書いたのは誰だ。これはデルフィーヌが書いたノンフィクションなのか。エルが書いたフィクションなのか。果たしてデルフィーヌは存在したのか。
そう考えると物語の見方はガラッと変わる。なかなか面白い…(けれど描写はちょっと物足りない。)不思議な作品でした。