ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ドライブ・マイ・カー」

「ドライブ・マイ・カー」観ました。
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村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』に納められている同名小説『ドライブ・マイ・カー』の映画化。濱口竜介監督作品。

2021年11月公開。公開当初から「これは凄い!」という大絶賛を見かけていましたが。(まことに勝手なアレですが)濱口監督作品は大体鑑賞していながら、時に少し肌が合わない感じがすることもあって…様子を見ている内に年の瀬。でしたが。

行きつけの映画館が再上映するという流れに乗って。2022年の映画はじめとして鑑賞してきました(長い前置き)。

 

鑑賞してまず思ったのは「濱口監督と村上春樹作品の相性の良さ」「あまりにも端正な顔立ちと話し方故、時に棒読みだなと感じていた西島秀俊が役柄にがっつり嵌っていた(褒めています)」

村上春樹作品…食わず嫌いの先入観でぽつぽつとしか読んでおらず。正直この作品も未読。原作ファンや所謂ハルキストの皆さまがどう思っているのかは分かりません(『バーニング』は至高の出来だと勝手に思っている所はあります)。

 

決してくさしているわけでは無い。それを前もってお断りしたいのですが。

濱口監督作品。一言で言ってしまうと結構な長尺で、所々間延びしたシーンがあるように見える。「ここを削ればもっとすっきりしそうなのに…」思わずそう言いかねないけれど…慣れてくると「いるんだなこれが」とじわじわ効いてくる。

 

舞台俳優で脚本家の家福(西島秀俊)。随分前に幼かった一人娘を無くし、妻の音(霧島れいか)と二人暮らし。

テレビドラマの脚本家である音は、セックスの際トランス状態に陥って奇妙な物語を紡ぐことがあり。けれど、正気になった時に音はその内容を覚えておらず、後に家福から内容を聞いて脚本のアイデアとして生かしていた。

一方。家福は愛車を運転しながら、音が吹き込んだ戯曲のテープを使い台詞を暗唱するのが日課。夫婦だけで生きていくと決めた二人は、互いを必要としながら満ち足りた生活を送っていた。

 

ふいに音の秘密を知ってしまった。けれどそのことは音に知らせずにこれまで通り過ごそうとしていたのに…ある日神妙な表情の音に宣告される。

「ねえ。今夜帰ったら話したいことがあるの」

けれど。音から話を聞くことは出来なかった。

 

2年後。広島で行われる国際演劇祭に招待された家福。彼が依頼されたのはチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の舞台演出だった。

まずは役者選考から。そう思い、資料を片手に宿に移動しようとした家福は主催者から映画祭の規定で、自己での運転は禁止しており専属ドライバーを付ける方針を告げられる。

相当年期の入った愛車。誰にも触らせたくないと渋る家福にあてがわれたのは、まだ若い、23歳のドライバーみさき(三浦透子)だった。

 

チェーホフの戯曲。一体当方は何の分野ならば「これは分かります」と言えるのか…己の無知さにうんざりしますが。流石にこの作品に於いて『ワーニャ伯父さん』という映画内演劇が、家福の心情に沿う内容であることは分かる。

 

家福の演劇スタイルは「多国籍な役者を起用するが言語は統一しない」というもの。各々役者自身の母国語で役を演じ、背景に置かれたスクリーンに台詞が浮かぶという手法。

今回のオーディションに参加した役者たちの国籍も様々…けれどその多国籍言語の中に『手話』が存在したことに「ああ。2021年に手話を取り入れた作品が日本にもあったんだな」と胸が熱くなった当方(その登場人物と周りの存在全てが温かかった)。

 

そして。そのオーディション以降全く目が離せなくなった、岡田将生が演じていた高槻という俳優。

かつて音が可愛がっていた若手俳優。しかしトラブルを起こし今はフリー。家福の広島での舞台を聞きつけてオーディションに参加した。

無事オーディションに合格したけれど。希望した役ではなく、主人公ではあるものの年齢が明らかに合っていない配役。当然困惑。そして練習が始まったと思ったら、単調な棒読みを交わすだけの台本読みばかり。

 

よく言えば西島秀俊の抑えた演技。悪く言えば…淡々とした家福の佇まい、感情があるのだろうけれど…読み取れない。そこで当方の脳裏に過ったのが、かつて音が紡いだ「恋している同級生男子の家に忍び込む女子高生の話」。

 

同級生ヤマガの自宅に堂々と忍び込み。彼の自室で一人私物を触り彼を感じる。そしてこっそり自分の痕跡を残す。けれどそれは次第にエスカレートしていき…そしてある日、決定的な出来事がおきてしまう。

冒頭から語られたこの物語。気持ち悪い。けれどその気持ち悪さの視点は次第にヤマガの方に移っていく…。

 

何回も繰り返される単調な読み合わせ。「台詞を頭に入れるために必要だ」と方法を変えない家福にフラストレーションが募っていく役者たち。その最たるものが高槻で、元々彼は感情をうまくコントロールできない。直ぐに爆発してしまう。

 

しかし。その単調さを繰り返すことで芽生えていく信頼関係もある。専属ドライバーみさきは、なるほど確かな運転で安心して愛車を任せられる相手だった。

毎日同じ。寡黙なみさきは自ら家福に話しかけることは無く、しかし音と家福の台詞確認を心地よく聞いている。そのことを知り、次第にみさきに話し始める家福。そしてぽつぽつ自分のことを語り始めるみさき。

 

「こういう下りを丁寧に描くことが出来るのが濱口監督やな…(何様だ)」もっと気の利いた、メリハリのある演出やらカット割りで、話はもっと時間短縮してサクサク動くのかもしれない。けれど…人間の気持ちって実際にもそんな分かりやすく切り替えられるもんじゃない。

 

単調な読み合わせから動きを付けたワークショップへ。作品に命が吹き込まれていく。そんな手ごたえを皆が感じ始めたとき。事態が急転直下する。

 

この直前。夜道を走行する車内で高槻が家福に語ったシーン。

あの岡田将生の表情。瞳。言い回し。高槻に当たるライト…すべてが「神ががっている」としか思えなかった。作品の中の言葉を借りるのならは「何が起きているのか説明できないけれど何かが起こている」。鳥肌もの。

ネタバレを良しとはしませんのでふんわりしてしまいますが…高槻もまた「同級生ヤマガの家に忍び込んでいた女子高生の話」を音から聞いていた。しかも家福が知らない物語の顛末を知っていた。

 

ヤマガの「見ないふりをする」という行為。ヤマガに分かるように痕跡を残しているのに、しかも決定的な出来事もあったのに。それを徹底的に「なかったことにする」という不気味さ。どうして。どうして。これは確かにあったことなのに。

一見気色の悪い話だけれど…これは間違いなく音から家福へのメッセージ。それを高槻が時を超えて運んできた。

「他人の心をのぞき込むのは難しい。本当に他人を見たいのならば自身を真っすぐ見つめるしかない」

もう残された時間が無かった高槻が、渾身の力を込めて家福に送ったメッセージ。

(これは当方の勝手な解釈ですが…音は紡いだ物語を忘れてはいなかったんじゃないですかね。あくまで物語を家福に語らせることが大切やったんじゃないかと)

 

急転直下の後。広島から急遽みさきの生まれた町のある北海道へ車で向かう二人。

「え。その車、スノータイヤなんですか?」思わず…どうしても感傷的になれずに突っ込んでしまった当方。「超年期の入ったその車は雪の北海道大丈夫なんですか?」気が散って仕方がない。だって…ねえ?

 

大切な者を失った。けれどその相手に対して不誠実であった自分がいたことで折り合いが付けられなくて。ずっとその気持ちを持て余してきた。そんな家福とみさきの弔いの旅。

 

最後。何とか上演された『ワーニャ伯父さん』でソーニャが語った「私たちは生きていきましょう」という言葉に「そういうことだな…」と無事物語の着地を見た当方。

 

179分。確かに長尺。けれど気になっていているのならば鑑賞するのがお勧め。濱口竜介監督と村上春樹作品の食い合わせ…キャスティング。絶品だったと思います。