ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「リトル・ジョー」

「リトル・ジョー」観ました。
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「その花は人を幸福にする」。

 

とあるバイオ植物研究所。新種の花の開発に携わる研究者アリス。一人息子のジョーと暮らすシングルマザーの彼女が現在開発に取り組んでいるのは『持ち主に幸福をもたらす花』。

その深紅の花は持ち主に幸せをもたらす…三つの条件を守れば。

それは「暖かい場所で育てる事」「毎日水を与える事」「何よりも愛する事」だった。

 

女性監督、ジェシカ・ハウスナー監督作品。主人公アリス役は第72回カンヌ国際映画祭女優賞受賞、エミリー・ビーチャム。助手のクリスをベン・ウィショーが演じた。

 

モノ言わぬ存在。ただ静かにそこに咲いている。その花の禍々しい事よ。

 

音楽が日本人作曲家の故・伊藤貞司(1935~1982)。

ハウスナー監督が最も影響を受けたと映画作家と公言しているらしい、マヤ・デレン監督の音楽を担当し、デレンの三番目の夫でもあったという氏の音楽は和太鼓や和楽器と西洋のクラッシックを融合させたものであったらしい(公式ホームページより一部抜粋)…今作で使われていたのは多分尺八などの笛、管楽器音楽。

残念なまでに音楽に疎い当方にとってはつまり「正月の神社とかで聞くヤツ」。

 

詳しく調べた訳でもない、浅瀬な場所からの感想で恐縮ですが。ハウスナー監督、日本好きですよね。それも結構。

 

物語の序盤。「あまり料理しないの」。と語っていたアリスが、一人息子のジョーと夕食で食べていたデリバリーが寿司。自宅のしつらいが何だか和風。音楽が正月。

そして極めつけが…「あの花…ケシか彼岸花っぽい」。

 

あくまで私的な印象ですが。幸せをもたらすという花=リトル・ジョー。そのケシっぽい見た目よ。ひょろひょろとした茎に、葉っぱは殆ど無くていきなりボール状の花。

調べてみたら、しばしば取り締まりの対象となる『赤八重』なんてまさにこのビジュアル。

そんな紅い花がバイオ温室で一斉に咲き誇る様は、何だか秋口に突然田んぼの畔に現れる彼岸花さながら。決して悪い花では無いのに。何故赤一辺倒の花の軍団は禍々しく見えてしまうのか。一言で言ってしまうと不気味。

 

シングルマザーのアリスは、現在の職場で満足して研究に打ち込めている反面、一人息子のジョーとの時間が取れない事に後ろめたさを感じている。

そこで会社の規定を犯し、息子の為に開発中の花を持ちかえり息子にプレゼントする。名前を息子にちなんで『リトル・ジョー』と名付け。件の「幸せになるための条件」を教えて。

 

「この花が育つにつれて。どうやら花を育ててきた人間が変化していくようだ」。

かすかな異変。けれど前とは明らかに違う。心が通わない。

 

一緒に研究を進めてきた助手のクリス。どうやらアリスに好意を寄せているらしく、それを悪くは思っていなかったけれど。何だか最近接し方が違う。

花を育ててもらったてモニター達。都合の良い意見を編集された画像を見ていたけれど。異変を訴えてきた意見もあった。「娘は前と変わってしまった」。そう言って怒りをぶつけてくる母親。

そして何よりも、息子のジョーが変わってしまった。

思春期?それとも違う。息子がよそよそしい。別れた父親と暮らしたいと言い出し、突然彼女を連れてきた。何だか違う。この変化は急すぎる。

 

同じ研究所の同僚、ベラ。心が繊細な彼女は誰よりも早く『リトル・ジョー』のせいだと気が付いた。「この花の花粉を嗅ぐと脳に悪影響を与える」。

けれど。彼女もまたリトル・ジョーに取り込まれ…取り込まれずに追い込まれてしまった。

 

「結局リトル・ジョーという花は何なのか」。

その問いに対して当方が導き出したのは、「幸せになれる花」。元々のコンセプト通りの回答。

そうなると「幸せってなんだ」。という非常にややこしい禅問答になってしまいますが。

つまりは「幸せ=何も考えずに済む」。という事なのかと。

 

リトル・ジョーは、子孫を残さないプログラムを組んでいるのでより人の心に寄生する性質を持つんだ。そういった理屈もこねていましたが。

 

シングルマザーで、仕事と子育ての両立に悩んでいたアリス。母親に甘えたいけれど、学校生活や同級生との時間も持っている息子のジョー。アリスの助手で、アリスに好意を寄せていたクリス。

この関係性を合理的に割り切るには?

 

余計な事を考えない。ふと湧き上がる感情や断ち切れない未練、そういうものはいらない。シンプルに今一番欲しいものだけを選択する。

 

茎とガクと花。ただそれだけのシンプルな花は、育てる人間の心から余計な感情をそぎ落とす。暖かく見守って、水をやり愛でる。その過程で花は人間から迷いを奪う。

 

「どうもこれ。花に依存して離れられなくなるヤツでは無いな」。当方がそう思ったのは、息子のジョーが「母親とは離れて父親と暮らしたい」。と言ったことから。

離婚して山で一人暮らしをしている父親の元には、リトル・ジョーは無い。

 

変わっていく人を前に、取り残されてしまった者は戸惑い混乱するけれど、本人は至って平気。寧ろさっぱりと前に進める。振り返る事も無い。

 

果たしてそれが幸せなのかというと、「幸せかもしれない」。と答えてしまう当方。

 

人一人が生きてく中で。大切にしたい人間関係や感情。繋がり。社会生活。けれど「大切にしたい」ものばかりでは日々は構成されない。断ち切れない繋がりだって、ルーティンワークだってある。でも…それらを絶ち切れたら?

 

監督がこの作品を通じて見せたかった世界。それは当方が感じたものとは全く違うのかもしれないけれど。この作品の持つ余白。「リトル・ジョーとは何だったのか」の回答は、随分観ている側に解釈の自由があるなと感じた当方。

 

最後に。当方はリトル・ジョーが存在したとしたら、欲しいかどうか。

 

「こんな気持ち悪い花はいりません」。