ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「アルプススタンドのはしの方」

「アルプススタンドのはしの方」観ました。
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2016年、第63回全国高校演劇大会最優秀賞(文部科学大臣賞)受賞作品。

兵庫県東播磨高校演劇部が上演。以降全国の高校で上演され続け、浅草九劇での舞台化を経て同キャストで映画化された。原作藪博晶(東播磨高校演劇部顧問)。脚本奥村徹也。監督城定秀夫。

 

完全にノーマークだった今作品。なのに…「面白い」「これは面白い」「胸が熱すぎて痛い」先だって鑑賞した人たちからの、息もだえだえな絶賛の嵐。

一体これは何事かと。当方も鑑賞し。

「青春モノにめっぽう弱い当方には堪らんクリティカルヒットでした」。御多分に漏れず、勢い勇んで映画部部長に報告した次第。

 

「どうしようもない事ってある。仕方ない。こういう運命だったんだ。そう言い聞かせて無理やり納得させてきた」。ところがところが。

「仕方ないなんて言うな!」

バットを持っているのなら精一杯振れ!何を諦めているんだ!

誰かに認めてもらうために努力しているんじゃない。けれど…いつかその努力は必ず報われる。無駄な練習なんてない。

何もせずにこの位置にいると思っているの?真ん中だってそれなりに頑張っているんだよ。

あの先生ってさあ。実は一生懸命で良い先生だよね。

 

心のバッティングセンターで。何も考えずにバッターボックスに立ってみたら。全部が全部本意気の剛速球で向かってきた。碌に構えても居なかった当方は、ただ全身にボールを受けるばかり。

(この例えからもお察しの通り。当方は野球どころかほとんどのスポーツに対し無知及び鑑賞する趣味を持ちません)。

 

高校の野球部の県大会初戦。優勝すれば夏の甲子園出場!…だけれど。そんなの夢もまた夢。こちとら弱小チームな上に対戦相手は強豪校。

負けるに決まっている。なのに学校を挙げて応援せよとのお達しに、アルプススタンドのはしの方で渋々ゲームを見届けている、三年の安田あすは(小野真莉奈)と田宮ひかる(西本まりん)。演劇部の二人は野球にはとんと疎く。今がどういう戦局なのかは、ちんぷんかんぷん。

二人の近くに元野球部の同級生、藤野富士夫(平井亜門)が遅れて座ってきた。野球部を辞め、けれど何だか未練のありそうな富士夫とぽつぽつ言葉を交わす二人。

そして。暑いのに、頑なにベンチに座らずじっと背後に立ち尽くす、同じく同級生の優等生、宮下恵(中村守里)。

普段交わる事の無かった四人が。野球部の県大会初戦、5回表~9回裏の応援を通じて、互いの想いをぶつけ、盛り上がっていく様。

 

「それが全部ストレートなんですわ(当方心のバッティングセンターより)」。

 

このままでは、概ねべた褒めしてしまう事になるので。一応「いやいやいや」と思った点を先に書いてしまおうと思いますが。

 

元々が演劇なので。登場人物たちの会話劇で構成される事には、大して違和感はありませんでした。ですが…これだけは「ああ。文化部には分からんのやな」。と思った事。

 

夏の甲子園を目指す県大会って、何月にやってんの?早くても6月…か7月やんな。そんな時期の晴れているアルプススタンドってかなり暑いで」。

学生時代。弱小な上にサボりまくっていましたが陸上部だった当方。陸上の競技大会は野球場では無いけれど(大体サッカーのスタジアムが兼任していた)大体どんなもんか分かる。

アルプススタンドのはしの方…って当然屋根も無いし、座っているベンチはお尻が焼けんばかりに熱くなる。

つまり当方が何を言いたいのかというと…「登場人物たちが余りにも涼しそうでリアリティがない」。

汗だく。当然Tシャツ。タオルを首に巻いて、下手したら頭にもかぶって(それか帽子着用。頭が焼ける)。団扇か下敷きでパタパタしながらずっとお茶かスポーツドリンクを飲んでいる(スポーツドリンクを飲まんとやられるぞ!)。そして会話の出だしの半分以上は「暑い」。

ブラスバンド部が「どこのポカリスウェットだよ!」と目がくらみそうな位の爽やかさを醸し出していましたが。

汗を流しながら、時には涙を浮かべて演奏&大声で応援。終いにはドロドロで、もう己が何に泣いているのか分からないけれど胸が一杯で号泣。そんな夏の日の1993がない(これは違う)。

 

「きっと冷夏だったんだ。梅雨が長引けば初夏は涼しい日もあるから…」。そう言い聞かせる当方。まあ、つまらぬ茶々は程々にしますが。

 

高校最後の夏。とはいえ所属している演劇部の活動はほぼ終了している。それも不本意な形で…その事が仲良しだったはずの、あすはとひかるの関係をギクシャクさせていた。

半強制だった野球部の応援。ここでは自分は輝けないと野球部を退部したけれど、何だか割り切れなくて。ひっそりスタンドのはしで鑑賞していた藤野。

孤高の才女、宮下。「友達って必要なんですか?」きっと来ない。誰もがそう思っていたのに。一人でじっと試合の行方を見つめている。

 

物語の前半。不本意に高校演劇生活を終えてしまったあすはと元野球部藤野の「仕方ない事ってあるよな」「諦めるしかない」の応戦。けれど、あまりにも言葉に出し過ぎる事で却って「納得してないんやろうなあ。一生懸命言い聞かせて」。と感じていた当方。

そして後半。ある想いから、意気投合し一気に距離が縮まったひかると恵の「仕方ないとか言わないで!」「頑張っているんだ!」という怒涛の打ち返し。

 

「元々上演されていた高校の演劇部の正規部員が四人だった」。どこかで読んだ記事。なので登場人物のメインは殆どこの四人。肝心の野球部は一切カメラに映らない。

試合進行を知るのはあくまでもキャラクター達の会話とアナウンスと声援のみから。

けれどそのそぎ落とされた無駄の無さが、かえって『高校球児たちの熱い戦い』という全員がスポットを当てている場所のはしっこで『…とは別の何かが起きている』という演出を成功させている。

けれども。彼らはあくまでも『野球部の応援』という使命も忘れてはいない。野球部の試合進行と想いのぶつかりに合わせ、感情を高ぶられていく四人のボルテージにつられて。観ている側には言葉でしか語られないピッチャー園田や矢野に声援を送ってしまう当方。目に見えない白球を追おうとしたラスト。

 

また、ブラスバンド部部長も、「大声だせ!」と熱血の厚木先生も。「ここには悪い人なんて居ません」。という…どこまでも優しい世界で出来ている。

 

後日談…個人的には蛇足かなあという気もしましたが。

 

全弾ストレートの剛速球を放ってくる青春映画。けれどやっぱり心地良い。当てられてなんぼ。

一生懸命で何が悪い。仕方がない事なんてない。

 

特に元気を無くしがちなこの夏に。観られるのならば万人にお勧めです。

映画部活動報告「はちどり」

「はちどり」観ました。
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1994年、韓国ソウル。14歳の少女ウニ。

餅屋を営む両親。兄と姉の5人家族。

女子校に通い。いつもつるんでいる他校の親友。淡くときめくボーイフレンド。

一見キラキラした毎日だけれど。

 

実は両親の見えない所で兄から暴力を受け。理不尽で歪な現実に折り合いを付けながら生きてきた。

 

キム・ボラ監督。自身の経験も反映させて作られたという今作。長編デビュー作でありながら非常に評価が高く。

昨今の事情に依って、なかなか満席続きで観られませんでしたが。ようやく鑑賞。そして当方がふと感じたこと。

 

「この気持ち。『1980アイコ十六歳』を読んだ時の感じに似ている」。

1981年に当時高校生で小説家デビューした、堀田あけみの『1980アイコ十六歳』。

(後1983年に『アイコ十六歳』今西まさよし監督で映画化。富田靖子のデビュー作になった)。

リアルタイムでは無いし、この小説を読んだのも随分昔。あらすじをかろうじて覚えている程度なのですが。

 

思春期の少女の日常が視点。恋人もいて友達にも恵まれて。一見充実した学生生活を送っているように見えるけれど。実は本人にとっては窮屈でやるせない出来事の連続。

小さないざこざ。気にくわない相手もいる。大切だと思っている人も…。けれどその価値観は小さな事でひっくり返される。そうやってわちゃわちゃ過ごしている毎日。

何故か永遠だと思っていた。なのに…ある日突然、毎日が続くことが当たり前ではないと気づかされる。そうして疾走するラスト。

 

うろ覚えなので、これ以上は書きませんが。『はちどり』を観ていて妙に思い出してしまった作品。

 

1994年の韓国で起きた事件『ソンス大橋崩落事件』。北朝鮮危機。その辺りの歴史にトンと疎い当方はこれらを絡めて語る事は出来ませんが。

同じ時代に同じ世代であった当方にとって、生まれて初めて「当たり前に同じ日々が続くわけではない」「人はある日突然命を奪われる」と実感したのは1995年、阪神淡路大震災だった。(以降も地下鉄サリン事件とかがあってなかなか物騒な年だった)。

 

「青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの」。先人の歌はよく言ったもの。

モテるわけでない。華々しい中学生生活を送るわけでない。といっても自ら積極的に何かに取り組んでいたわけでもない。なのに自分には人により特化した何かがあるのではないかとうぬぼれ。それを突然誰かが見つけてくれないかと棚ぼたを待っていた、そんな中学生時代。

今から思えば、中学校だって高校だって、たった三年間しかないのに。何故かその渦中に於いてはその三年間が永遠に続くのではないかと思い、うんざりしていた。

 

14歳のウニ。餅屋を営む両親はいつだって忙しく、子供たちに構う暇がない。兄はソウル大学を目指して勉強に励む日々で苛々しており、その苛立ちをウニにぶつけてくる。

姉は高校受験に失敗した引け目もあってか、卑屈で投げやりで、両親の目を盗んでは彼氏と遊びに出かけていている。

そんな家族に孤独やすれ違う気持ちも過るが、ウニはウニで初々しいボーイフレンドとの逢瀬に夢中。誰かに好かれ、好きだと思うのは嬉しい。二人で初めての事をするのはワクワクする。

 

ウニを演じた、パク・ジフが…瑞々しいと言えばそうなんですが…なんだかその一言で片付けるのは安っぽい。兎に角「ウニそのものだった。」としか言えなかった。

ボーイフレンドと下校デートでは初々しいキュートさを見せ。なのに親友とクラブに行ってみたり悪い事をするときのはすっぱな態度。可愛く見えたり憎たらしく見えたり。かと思えばどこかに吸い込まれそうな儚い表情をする。

 

一見上手くいっているようでウニの毎日は不安定。

ボーイフレンドとの仲に暗雲が立ち込め出した。兄はちょっとしたことで殴ってくるし、両親はその事を言おうにも取り合ってくれない。耳の後ろのしこりも気になるし、親友との関係もおかしくなり始めた。

どこに突破口があるのか。自分を慕ってくれる後輩に良い顔をしてみたけれど。それもお互いの感情にずれがある。挙句見限られた。

 

「ウニって時々、とっても自分勝手」(言い回しうろ覚え)。

親友の許せない裏切り。後から仲直りしたけれど、その親友がウニに行った言葉。

(…「アンタ達も大概勝手やけれどなあ。」呟く当方)。

 

どこにも居場所が無くて。この行き場のない気持ちをどうしたらいいのか。そんな時に出会った漢詩塾の講師。ソウル大学の生徒で年上の女性ヨンジに救われる。

 

羨ましい。こういう迷える子羊時代に、年上の話を聞いてくれる人物が現れるなんて。

飄々としていて、けれどウニの気持ちをきちんと聞いてくれて、真摯に答えてくれる。

けれど。物語的に、こういった人物の運命は大体然るべき所に収まってしまう。

 

1994年と現在の韓国。一体どういう世代交代をして、家族形態が今はどうなっているのか。知る由も無いのでアレですが。作品を観る限り「随分家長制度が生きていたんだな」。と感じた当方。

一家の中で父親が一番偉く、次いで長男。女たちは発言を抑え、男たちに殴られる事は当たり前にあった。

 

とはいえ、父も兄も決してどうしようもない暴君では無い。そう思う当方。

耳裏のしこりでウニが手術を受ける事になった時、心配で大声を上げて泣いた父親(唾石…ですか?そして頭頸部の手術ってああいう事は必ず言うんですよ)。橋の崩落事故を聴いて泣いた兄。勿論彼らも血の通った人間で、決して家族の女たちを馬鹿にしている訳では無い。彼らなりに愛している。けれど。

 

「ねえ。誰かに殴られたら黙っていてはダメ」。

 

ヨンジがウニの手を取って伝えた言葉。親だから。兄だから。家族だから。

誰からであろうと、理不尽に殴られていいわけが無い。いい加減に扱われていいわけじゃない。おかしいと思った事を貯めこまないで。自分を大切にして。

(余談ですが、あの耳鼻科の町医者にもグッときた当方。あの人は誠実で偉いよ…。)

 

そういうメッセージをくれた人を、最も理不尽な現実が奪い去ってしまう。

 

何でもないような毎日が、ある日突然奪われる。

何故かその感情を当方も知っている。だからこそ、一日一日を悔いることなく生きなければいけないと初めて思った。同じ日は二度と来ない。

 

はちどり=ハミングバード。メキシコでは霊力のある鳥で、愛を受けるとされた。

一旦は傷ついただろうけれど。世界を見る目の変わったウニは、広い世界へ飛び立っているのだろう。かつて貰った暖かい言葉は、今は掛ける側にいるのだろう。

場所は違うけれど。時間だけは同じだけ経た当方は、現在ウニはそういう女性になっているのだろうと、そう思っています。

映画部活動報告「リトル・ジョー」

「リトル・ジョー」観ました。
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「その花は人を幸福にする」。

 

とあるバイオ植物研究所。新種の花の開発に携わる研究者アリス。一人息子のジョーと暮らすシングルマザーの彼女が現在開発に取り組んでいるのは『持ち主に幸福をもたらす花』。

その深紅の花は持ち主に幸せをもたらす…三つの条件を守れば。

それは「暖かい場所で育てる事」「毎日水を与える事」「何よりも愛する事」だった。

 

女性監督、ジェシカ・ハウスナー監督作品。主人公アリス役は第72回カンヌ国際映画祭女優賞受賞、エミリー・ビーチャム。助手のクリスをベン・ウィショーが演じた。

 

モノ言わぬ存在。ただ静かにそこに咲いている。その花の禍々しい事よ。

 

音楽が日本人作曲家の故・伊藤貞司(1935~1982)。

ハウスナー監督が最も影響を受けたと映画作家と公言しているらしい、マヤ・デレン監督の音楽を担当し、デレンの三番目の夫でもあったという氏の音楽は和太鼓や和楽器と西洋のクラッシックを融合させたものであったらしい(公式ホームページより一部抜粋)…今作で使われていたのは多分尺八などの笛、管楽器音楽。

残念なまでに音楽に疎い当方にとってはつまり「正月の神社とかで聞くヤツ」。

 

詳しく調べた訳でもない、浅瀬な場所からの感想で恐縮ですが。ハウスナー監督、日本好きですよね。それも結構。

 

物語の序盤。「あまり料理しないの」。と語っていたアリスが、一人息子のジョーと夕食で食べていたデリバリーが寿司。自宅のしつらいが何だか和風。音楽が正月。

そして極めつけが…「あの花…ケシか彼岸花っぽい」。

 

あくまで私的な印象ですが。幸せをもたらすという花=リトル・ジョー。そのケシっぽい見た目よ。ひょろひょろとした茎に、葉っぱは殆ど無くていきなりボール状の花。

調べてみたら、しばしば取り締まりの対象となる『赤八重』なんてまさにこのビジュアル。

そんな紅い花がバイオ温室で一斉に咲き誇る様は、何だか秋口に突然田んぼの畔に現れる彼岸花さながら。決して悪い花では無いのに。何故赤一辺倒の花の軍団は禍々しく見えてしまうのか。一言で言ってしまうと不気味。

 

シングルマザーのアリスは、現在の職場で満足して研究に打ち込めている反面、一人息子のジョーとの時間が取れない事に後ろめたさを感じている。

そこで会社の規定を犯し、息子の為に開発中の花を持ちかえり息子にプレゼントする。名前を息子にちなんで『リトル・ジョー』と名付け。件の「幸せになるための条件」を教えて。

 

「この花が育つにつれて。どうやら花を育ててきた人間が変化していくようだ」。

かすかな異変。けれど前とは明らかに違う。心が通わない。

 

一緒に研究を進めてきた助手のクリス。どうやらアリスに好意を寄せているらしく、それを悪くは思っていなかったけれど。何だか最近接し方が違う。

花を育ててもらったてモニター達。都合の良い意見を編集された画像を見ていたけれど。異変を訴えてきた意見もあった。「娘は前と変わってしまった」。そう言って怒りをぶつけてくる母親。

そして何よりも、息子のジョーが変わってしまった。

思春期?それとも違う。息子がよそよそしい。別れた父親と暮らしたいと言い出し、突然彼女を連れてきた。何だか違う。この変化は急すぎる。

 

同じ研究所の同僚、ベラ。心が繊細な彼女は誰よりも早く『リトル・ジョー』のせいだと気が付いた。「この花の花粉を嗅ぐと脳に悪影響を与える」。

けれど。彼女もまたリトル・ジョーに取り込まれ…取り込まれずに追い込まれてしまった。

 

「結局リトル・ジョーという花は何なのか」。

その問いに対して当方が導き出したのは、「幸せになれる花」。元々のコンセプト通りの回答。

そうなると「幸せってなんだ」。という非常にややこしい禅問答になってしまいますが。

つまりは「幸せ=何も考えずに済む」。という事なのかと。

 

リトル・ジョーは、子孫を残さないプログラムを組んでいるのでより人の心に寄生する性質を持つんだ。そういった理屈もこねていましたが。

 

シングルマザーで、仕事と子育ての両立に悩んでいたアリス。母親に甘えたいけれど、学校生活や同級生との時間も持っている息子のジョー。アリスの助手で、アリスに好意を寄せていたクリス。

この関係性を合理的に割り切るには?

 

余計な事を考えない。ふと湧き上がる感情や断ち切れない未練、そういうものはいらない。シンプルに今一番欲しいものだけを選択する。

 

茎とガクと花。ただそれだけのシンプルな花は、育てる人間の心から余計な感情をそぎ落とす。暖かく見守って、水をやり愛でる。その過程で花は人間から迷いを奪う。

 

「どうもこれ。花に依存して離れられなくなるヤツでは無いな」。当方がそう思ったのは、息子のジョーが「母親とは離れて父親と暮らしたい」。と言ったことから。

離婚して山で一人暮らしをしている父親の元には、リトル・ジョーは無い。

 

変わっていく人を前に、取り残されてしまった者は戸惑い混乱するけれど、本人は至って平気。寧ろさっぱりと前に進める。振り返る事も無い。

 

果たしてそれが幸せなのかというと、「幸せかもしれない」。と答えてしまう当方。

 

人一人が生きてく中で。大切にしたい人間関係や感情。繋がり。社会生活。けれど「大切にしたい」ものばかりでは日々は構成されない。断ち切れない繋がりだって、ルーティンワークだってある。でも…それらを絶ち切れたら?

 

監督がこの作品を通じて見せたかった世界。それは当方が感じたものとは全く違うのかもしれないけれど。この作品の持つ余白。「リトル・ジョーとは何だったのか」の回答は、随分観ている側に解釈の自由があるなと感じた当方。

 

最後に。当方はリトル・ジョーが存在したとしたら、欲しいかどうか。

 

「こんな気持ち悪い花はいりません」。

映画部活動報告「悪人伝」

「悪人伝」観ました。
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「極悪組長×暴力刑事×無差別殺人鬼」

 

韓国が生んだ、新しいタイプのアイドル(当方しか言ってない)マ・ドンソク。

「アジア版ハルク」と言わしめた(誰に?)、鍛え上げた重厚な体格。アンタッチャブルなビジュアル…なのに何故かキュート。

くしゃっと顔を崩して見せる笑顔が何だか可愛くて。大きな体をすぼめて、すごすごとしている姿のコミカルさ。そんな、見た目がおっかないのに何故だか可愛い森のくまさんキャラクター…かと思えば。きっちり見た目通りの怪力を見せつけてくる。

マ・ドンソク×ラブリー=通称マブリー。(当方は時にマブ兄呼称)。

 

「マブリーの出てくる作品は一通りチェックせねば」。そんな使命を受けて。今作も公開後直ぐにいそいそと映画館に向かった当方。

 

韓国。街を牛耳るヤクザのボス、チャン・ドンス(マ・ドンソク)がある雨の夜、何者かに依ってメッタ刺しにされた。何とか一命を取り留めたのち。一体どこのどいつの仕業かと手下を使い血眼になって犯人を捜すドンス。

時を同じくして。荒くれもののチョン刑事(キム・ムヨル)は最近立て続けに起きている殺傷事件が同一犯による無差別殺人事件ではないかと睨んでいた。

上司にかけ合うも取り合ってもらえず、腐っていた所に起きたドンスの襲撃事件。

これは関係があるに違いないとドンスに近寄るチョン刑事。

すったもんだした挙句手を組む事に決めた二人。互いに約束した「その代わり、俺が先にそいつを見つけたら…」。

極悪組長×暴力刑事×無差別殺人犯。勝つのは法かアウトローか。

抜け駆け必須の鬼ごっこが始まる。

 

確か「これは史実に基づいている云々」的なテロップがあった事から、一体この作品のどの部分が事実にシンクロしているのかと終始気になった当方。

ヤクザと刑事が手を組んでいたこと?ヤクザのボスを襲撃してしまった殺人鬼?それとも…ラスト?きちんと調べていないので真実は闇の中ですが。

 

見るたびに磨きが掛かっていく力士体型。しかも裸には勇ましいペインティング(入れ墨)。アンタッチャブルな人たち御用達のファッション。それらが惚れ惚れするほどにお似合いなマブリー。対立する組織の手下をサウンドバックに詰め込んで半殺しに殴り倒すなど、最近の映画作品で見せた「可愛い」部分を一掃させたTHEボス。

「マブリーが出ているのならば、本編110分の内100分はマブリーを映してくれ」。「マブリーを観たい。もっともっと観たい」。

うっかりそんな気持ちににもなりましたが。ヤクザと手を組むチョン刑事も負けてはいない。

 

出勤途中。無理やりな違法カジノのガサ入れ上等。そこは上司とお友達のドンスがバックに付いている店だけれど。そんなの関係ない。

市民の安全を守れというけれど。じゃあ何故上司は俺の話を聞かない。最近この街で起きている殺傷事件は同じ犯人の仕業に違いないっていうのに。

取り合ってもらえず。ならば俺は勝手に捜査してやると、どうやら最近襲撃されたというドンスの元に向かったチョン刑事。

「お互い同じ犯人を捜しているんだから、手を組もうぜ」。

 

…ところで。韓国刑事モノをいくつか観て、当方に刷り込まれた『韓国刑事=沸点が低くて暴力的』というイメージ。流石に韓国警察はいい加減怒ってもいいような気がしますけれど。

御多分に漏れず、暴力的なチョン刑事。最終的な所では「法を守る」という職業倫理を守っていましたが。そこに至るまでは割とやりたい放題。

勿論正義感もあると思いますが。「悪党を捕まえて出世したい」。と語っていたのもあながち嘘ではないだろう。

 

そんな「どっちが警察でどっちがヤクザか分かったもんじゃない」。という様相で。しかも終盤ではがっつりタッグを組んで犯人を追いつめていく。

 

お話自体は割と王道な展開で進むので。「まさかのあの人が!」とか「裏切りやがったな!」とか「俺…この戦いが終わったら田舎に帰って幼馴染と結婚するんだ」。なんて茶番は一切無し。

「2005年が舞台とは言え。流石に防犯カメラとかが普及していたと思うんだが」。「着々と犯人が犯行を重ねているな。ていうか、大型免許も持ってんの?」「何だかんだ言って、ステレオタイプな犯人やなあ」。比較的のんびりと突っ込みながら鑑賞していた当方。

 

「だってさあ…そもそもマブリーのビジュアルを見て、いつも通り刺し殺そうだなんて思う事があり得ないけどな。犯人は猟友会か。相手は手負いの熊並みやぞ。」(チョン刑事も言ってましたけれどね「お前を殺そうとするなんて犯人は異常だ(言い回しうろ覚え)」。)

 

刑事とヤクザ。どうして当方は悪そうな連中が隊を成して歩いている姿をスローモーションで流されたらこんなに高まってしまうんやろう。そして、韓国映画のカーチェイスは飛び抜けているな~。迫力が違うと惚れ惚れする当方。

 

終盤の裁判シーンでは、流石にそれは強引かなとは思いましたが。

 

「ああそうか。ここで落としまえを…」。

 

目には目を。歯には歯を。幕が降りた後、一体彼らはどうなったのか。

マブリーファンの当方の脳内では、人間の仕業とは思えない惨状が繰り広げられていて…観なくても十分満足です。

映画部活動報告「アングスト/不安」

「アングスト/不安」観ました。
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「本物の《異常》が今、放たれる。」

 

1983年オーストラリア公開。1980年にオーストリアで殺人鬼ヴェルナー・クニ―セクが起こした一家殺人事件を題材にした作品。本国ではわずか上映一週間で打ち切り。その他の国でも上映禁止などが相次ぎ、監督であったジュラルド・ガーグルは今作が唯一の映画監督作品となった。

37年の時を経て。今スクリーンに蘇る。

 

2020年7月3日公開開始。でしたが。

昨今のコロナ禍以降の映画館の取り組みにより、座席が半分しか座れない事も相まって。連日満員で長らく映画鑑賞することもままならず。(後は日常生活との折り合いも付かなくて)。

「一体どんないかれた作品なんやろう~。」不謹慎ながらも若干ワクワクしながら映画館に向かってしまった当方。

 

まあ。率直な感想から言うと「思っていたんとは違った。」(えげつないモノを想像し過ぎていた)。

一体どんなに身勝手で残虐な狂人が解き放たれたのかと。勝手に妄想を膨らませてしまったいたから…いやいや、主人公K.は正にそういう人物であったのだけれども。

目を背けたくなるようなグロ映像や阿鼻叫喚(見る人によってはそう思えなくもないシーンはありましたが)、「うわああなんやねんこいつ。」という憎々しい相手でもなくとは言え「そりゃあ仕方ないよ。」という同情が芽生える相手でもなく。

 

「主人公凶悪犯K.が長らくの刑期を終え娑婆に出た。その日に起こした一家殺人事件。その全貌を描いた」。そうとしか言えない内容。

 

冒頭からしばらく語られる『K.』という人物の背景。

愛されずに育った幼少期。常に暴力を受け。家族から見放され、どこに行っても厳しく理不尽に躾けられた。恋愛遍歴も独特で加虐性癖が伸ばされる。

16歳で母親をナイフで複数回刺し刑務所へ。26歳で出所してすぐに見知らぬ73歳の老婆を射殺し再び収監。自身の精神異常を訴えたが、認められず精神科病院では無く刑務所に収監された。

 

絵にかいたような不幸の連鎖。だからといってK.が犯罪を犯して良い訳にはならないけれど…そして8年強経って。遂に何の罪の呵責にも犯されていなかった男が世に放たれた。

 

この作品は終始主人公K.のナレーション付きでお届けされていて。

世に放たれたK.が「KILL!KILL!」という沸き起こる脳内シュプレヒコールにワクワクしながら己を満たす為に標的を探す様。そして遂にうってつけの豪邸を発見して侵入。自宅にいた車いすで心身ともに不自由な男性に遭遇。その後買い物から気楽した初老の夫人とその娘も含めた家族3人を次々襲って殺す…を煩いまでに実況。

 

「俺は何故こういう事をしているのか」。

丁寧に。やかましいほどに説明してくれているんですがねえ…「うるせえな」。と苦々しく腕組みをして最後までほどけなかった当方。

 

やたらガクガク揺れるカメラワーク。かと思えば引き。けれど当方がもっと気になったのは独特過ぎる音楽の使い方。

いかにも「でるででるで~」。みたいな。主人公K.の心情が揺れている時に流れるわざとらしい音楽。(誤解されそうですが。褒めています。)

どこまでも晴れない、薄暗い絵面。そのせいなのか、何故か生々しさを感じない。どこまでも硬質で…最早突き抜けて滑稽で、シュールにさえ感じる。ここでは殺人が行われているのに。(繰り返しますが。褒めています)。

 

実在の殺人鬼を題材にした作品となると、どうしても真相心理とした「どうしてそんな事をしたのか」。が知りたくなってしまう。

人を殺める理由。「たとえそれが理不尽なモノであっても…」。そう続けたいと、そう思っていたけれども。この作品を通じて当方がつくづく感じたのは「どこまで行っても決して分かり合えない人物は居る」。という再確認だった。

 

ノリノリで繰り広げられる「こうしなければいけないと思った」。というK.のオレ理論。けれど実際に見せられているのは行き当たりばったりの殺人事件。理想のスマートな展開もなく、息を荒げて、手際も悪い。

そうなるとどこまも不幸なのは標的となってしまった家族で…本当にねえ。辛い。

 

「もういっそ殺してくれ!」当方ならばそう言いたい。一体彼らが何をした。

 

この作品タイトル、『アングスト/不安』。

どこかを探せば監督の語るベストアンサーがあるのだろう。そう思うと浅瀬に住む当方の浅瀬な感想で恥ずかしくなりますが。

「異常な加虐的性癖を持つ凶悪犯の不安衝動を満たす様を描いた」。という内容であるとは思いますが。

その視点があくまでも主人公に固定されているにも関わらず、その相手をどこまでも理解出来ず相容れない。観ている側の気持ちの落としどころが見つからない。

「何なんだこいつ」「やばいな。気持ち悪い」。見ているだけで不快に…まさに『アングスト/不安』を感じる。

K.は食事をしていただけだけれど。あのガソリンスタンド横のカフェに居合わせた店員を客が浮かべた表情。同じ顔をしてまった当方。

理解が出来ないのもは気持ちが悪い。落ち着かない。

 

後はやはり…あの家族が飼っていた犬の人懐っこさよ。

撮影監督の飼い犬で名前はクバ。愛らしさゆえに急遽採用されたという「『ゴッドファーザー』の猫か!」と言わんばかりのキュートなダックスフンド

殺人が行われているその現場においても自由気ままに振舞い、愛する家族の命を理不尽に奪った殺人犯K.にも懐いて付いていく…まさかのワンちゃん映画な側面も持ち合わせる。

 

何だか歪なバランスだった作品。「ジュラルド・ガーグル監督は映画作品は本作のみで、以降はドキュメンタリー作品や教育映画製作を続けた」。という記載にほうと目を奪われた当方。

そして続けて読んだK.のモデルとなったヴェルナー・クニーセクの事件。

「55歳の母親と26歳の息子と24歳の娘、そして彼らが飼っていた猫も殺した」。

「猫を…」。

映画の犬は無事でも、現実の猫は…猫は…。

「こいつは万死に値する(真顔)」。

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映画部活動報告「サンダーロード」

「サンダーロード」観ました。
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テキサス州。警察官ジムの愛する母親が亡くなった。葬儀で母が好きだったブルース・スプリングスティーンの『涙のサンダーロード』を流そうとするが、持参した娘のラジカセの調子が悪く、再生することが出来ない。

無言のままではいけないと母親との思い出を語ろうとするジム。しかしそれはすぐに支離滅裂なものとなっていって。終いには涙ながらに踊りだし…。

 

「うわあああ。これ誰か止めてやれよ~。」

冒頭12分ワンカット。あまりにも痛々しいジムの姿に、共感性羞恥で居たたまれなくなる当方。

「教会にだってカセットテープ再生出来るツールあるやろうに。」「ちょっとその司会女性よ!もう止めて止めて!」「そこの男よ!スマホで音楽流してやるのかと思ったら…何画像撮ってんだ!」

バレエ教室を営んでいた母親への想い。それだけをシンプルに伝えればいいのに「それ、言わん方がいいって」という自爆ネタを連発。グダグダな雰囲気。挙句収拾がつかずに『母親へ捧げるダンス』を始める。

 

主人公ジムを紹介するのに過不足無い滑り出し。

キレ易く協調性が無いジムは職場でも浮いた存在。

別居中の妻との間には一人娘のクリスタルが居るが、現在親権争いの渦中にある。

 

何もかも上手くいかない。けれどその理由のほとんどがどうもジム自身にありそうに見える。中盤位まで「ジムの事、好きになれんなあ~」。と苛々していた当方。

 

沸点が低く直ぐにキレる。大声を出して騒ぐ。しかもしつこい。

「もういい。お前どっかいけ。」これ以上醜い言い争いをしたくないから追い払いたいのに、歩き出したと思っても何度も振り返って大声で喚いてくる。

けれど。どうしてもジムを嫌いにはなれない。

 

すぐにキレて喚くけれど。決して相手の事を全否定はしない。どこかしら良い所も見つける。時間がかかるけれど、悪いと思ったら謝る。

クリスタルの親権争い。件の葬式での『奇行』(あの動画撮影していた奴…ネットに上げるなんて…)まで持ち出して「こんなヤバい父親にクリスタルは任せられない」と言わんばかりの周囲。裁判所でも上手く立ち回れず。

けれど、ジムの主張はあくまでも「娘には両親が必要なんだ」。と今まで通りの共同親権。クリスタルを愛しているけれど、ひとり占めにしようとは思わない。

 

またねえ。このクリスタルも絶妙なキャラクターで。

9歳。健康的な体型で、どこかしらもっさりしている。「新学期だから目立ちたい」とメイクをしてみたり(勿論ジムに見つかって落とす羽目になる)。

決まった友達とべったり付き合って内弁慶。かと思っていたら最近ではクラスの中で悪目立ちするような事ばかりしているらしい。

(そしてクリステルとジムに共通した問題…遺伝?するもんなんですかね。どちらにせよ、確かに早いところ対処してあげた方がよさそう。)

 

つまりは「この親にしてこの子あり」。ジムとクリステルはよく似ている。

『不器用』の一言では片づけられない…何事にも一生懸命で頑張ってはいるけれど、その方向性が人とは違う。結果ぎこちない動きだけが目に映って、何だか痛々しい。

 

中盤に起きた「ホンマにこれはあかん」出来事。

唯一と言っても過言ではない、同僚で友人のネイトに対し八つ当たりしてからの大げんかでジムがとっさに取ってしまった行動。

失職寸前の状態にまで陥って。自業自得とは言え四面楚歌。どうにもこうにもならなくなった…という所からの逆風。

 

「見てくれている人は居るんだな。」

一見、扱いにくくて厄介者のジムがどういう人物なのか。付き合いが長くならないと分からないけれど。決して悪い奴じゃない。

相手の良い所を探す。何事にも一生懸命。そして守るべき相手をとことん愛する。

そして。ジムの周りだって…誰もが完璧な人間なんて居ない。

冒頭の葬式。どうしてジム以外の兄妹は葬儀に参加しなかったのか。その答えが明かされた後のジムの優しさよ。

 

最終。「そんな落とし方…。」という事件。

こんなのクリスタルにとっては一生モノのトラウマやないか。そう思うけれど「誰がこの子にとって良い親なのか。なんて一部の面では判断出来ないな」。と溜息を付いた当方。(またジムの言葉が素晴らしい)

危なっかしい、似た者親子。前途多難な予感はプンプンするけれど…きっと彼らを見守って差し伸べてくれる手は存在する。

 

帰宅後。改めて『涙のサンダーロード』を聴いて歌詞を読んで。「こんなに良い曲だったのか」と泣きそうになった当方。

あの葬式に参列した人もこうやって調べて聴いて欲しい。そうすれば、ジムが母親に贈った音楽もダンスも…決して痛々しくは無い。

 

監督、脚本、編集、音楽、主演の5役を務めたジム・カミングス。切なくて優しくて愛おしい。次回作が楽しみです。

映画部活動報告「その手に触れるまで」

「その手に触れるまで」観ました。
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ベルギー。主人公アメッドはつい最近までゲームに夢中だった13歳の少年。

しかし、近所の食品店を営むイスラム教の導師に出会ってからはすっかり教えに感化され。兄と共に足しげくモスクに通っていた。

次第に思考が過激になっていくアメッド。遂にその矛先は放課後教室の女性教師、イエネ先生に向けられた。

「日常会話としてのアラビア語を学ぶ為に、歌の授業を取り入れたい。」

イエネ先生の提案は保護者の中でも賛否両論。「アラビア語はあくまでもコーランで学ぶべきだ。」そういう反対意見も溢れた中「聖なる言葉を歌で学ぶなど冒涜だ。あの教師は背教者だ。彼女は聖戦の標的だな。」という導師の言葉を受け、恩師であったイエネ先生を排除すべく殺害しようとしたアメッド。

殺人は未遂に終わり。少年院に収監されたアメッド。

イスラム教の教えに理解があり。農業体験を経験することでアメッドの更生を図る施設の意向に、初めこそ居心地の悪さを感じていたが。

果たして、狂信的な思考に囚われた少年は変わる事が出来るのか。

 

84分。ただひたすらに13歳の少年を追ったヒューマンドラマなのに…サスペンスドラマを観ているのかと紛うほどにハラハラする。一体アメッドがどう着地するのかと。

 

多くの日本人と同じく。無宗教信者という名の多宗教のいいとこどりをして。一つの信仰にどっぷり浸かっている訳ではない当方。

ざっくりと「あの宗教は確か…。」という程度には認識していますが。いかんせん「知ったかぶりはしない。」事をモットーにしていますので。今回の作品の中で取り上げられていたイスラム教云々については語る事は出来ません。(せいぜい印象程度)という事をあらかじめご提示して。

 

「13歳かあ。」

もうそんな歳はとっくの昔に過ぎ去ったけれど。それでも何だか懐かしく、そして苦々しい気持ちを思い出した当方。

「子供ではないけれど大人でもない。中途半端な自分。」

 

ちょっと前まで自分もあんなだった?たった一つ二つ年下の奴を見ると疑ってしまう。よくあんな幼稚な事で無邪気にわあわあ騒げるな。今の自分は違う。何というか…頭が冴えて、急に世界が見渡せるようになった。

今の世界はおかしい。偉そうにしてる奴が一握りで、周りは苦しい人ばかり。どうして?何かが間違っているんじゃないか?もしかして…そこに気づいたのはこの辺じゃ自分だけじゃないの?

そんな時に出会ってしまった、イスラム過激派思想。

やっぱり。自分と同じ疑問を持つ人たちが居た。それも、灯台下暗しとはこのことよ。身近に触れていたコーランを深く掘り下げれば、自分の求めていた答えばかり。

 

~というアメッドの前日談は一切描かれていませんので。ここまでの下りは完全な当方の妄想ですが。

 

当方も、歳を取ったからこそ言える事でしかないので。思春期の少年少女には相容れない言葉でしょうが。

「あなた達にとって、大人はくだらなくて、汚れ切ってくたびれている様に見えるのかもしれないけれど。誰もがいくつになっても実は一生懸命で、傷つきやすくて平気じゃない。ただ、そう見えない様に取り繕う事が上手くなっているだけだ。」

「13歳で開けた世界は全てじゃない。寧ろ初めて世界のはしきれを見たんだと言える。世界はずっとずっと広がっている。」

「何事も。決めつけるのは早計だ。この世は不確かなもので溢れている。」

 

もう自分は子供じゃない。そうやって立ち上がって世界を見渡したばかり。そんな鉄がまだ熱々な状態の少年に。過激派の極論を植え付けた輩が憎い。

 

そして多かれ少なかれある、少年時代の「俺が世界を変える。」というヒロイズム。

自分の思想を遂行するために死ぬのならばそれは名誉ある死。

世界は正義と悪に分けられる。善と悪…そんな、時代や思想、引いては流動的な価値観で容易くひっくり返される不確かなものを。二極に分ける。分けられる。

 

放課後教室のイエネ先生は、幼い頃の識字障害を克服出来た恩人であった。けれど、今の教えでは異性であるイエネ先生には触れる事は禁じられているし触れたくもない。

かつての恩人を不純な存在で背教者だと仕分け。挙句刃物を振りかざし命を狙う…イエネ先生の心中を察するだけで泣けてくる当方。それでもアメッドを見捨てない…彼女こそが本当の『先生』なのに。

 

アメッドの母親。父親と別れてからお酒の量が増えた。けれど懸命に働き、子供を育てている。自分のせいではないかと泣く母親の姿が辛い。

 

「え?ベルギーの少年院てこんなに寛容なの?それともお話やから?」

ちょっとその点はよく分かりませんでしたが。『過激派思想で殺人未遂犯』というかなりの重罪でありながら、わりとのんびり放牧的な扱い。

そこで出会った農場の娘、ルイーズ。

おそらくアメッドと同世代。彼女の正直なスタンスが非常に分かりやすく、好感が持てる。「何を信じようが、私にそれを押し付けないで(言い回しうろ覚え)」。

初めこそ家畜に触れる事を嫌がっていたアメッドだったけれど。何度も農場での作業を経験する内に頑なだった気持ちがほどけてくる。それはひとえにルイーズのおかげ。

互いに好意を持っている。一緒に居ると楽しい。けれど関係が一歩進もうとすると、急にアメッドは我に返る。「こういう事はしてはいけない。」「汚れた。」

 

『その手に触れるまで』というタイトル。『その手~』という相手と結末を一応は最終見せてはいましたが。その下りに関しては「臆面通りには受け取れない」と険しい表情を崩さない当方。どうも大風呂敷を突然畳んだ感が否めない。(それに…アメッド直前まであんな行動取っておいて。あの言葉は素直に聞けないな。)

 

『触れてはいけない。』がんじがらめな思想の檻に己を閉じ込めたアレッド。そんなアメッドに差し伸べられた手に、アメッドが安心して触れる事が出来るまで。

三歩進んで二歩下がる。それどころか進んでしまったと気付くと怯えてすぐに元凶を絶てとばかりの行動を取るアレッド。つくづく観てる方からしたら焦れったい。

 

狂信的な思考に囚われた少年アレッド。彼の気持ちがどう変化するのか。波は寄せては返し。すぐに答えは出ないし、どう転がるにしても想像以上に時間を要するのだろう…ただ。今すぐではなくていいから、アレッドが手を差し伸べてれていた人たちの事を想える大人になれますように。

そう願ってやまないです。