「永い言い訳」観ました。
西川美和監督作品。本木雅弘主演。竹原ピストル、深津絵里、黒木華、池松壮亮などが脇を固め。
小説家の主人公。美容師の妻と二人暮らし。冷めつつある夫婦の関係性。
ある日。妻が友達と旅行で不在なのを良い事に、不倫相手の若い女を自宅に連れ込み。散々楽しんでいた主人公。そこに舞い込む、妻の訃報。
世間的には悲劇の夫。何となくそれを演じながらも、全くピンと来ていない主人公。
そんな主人公の前に現れる「妻の友達の夫」同じ事故で同じく伴侶を失った男。
その男と彼の子供達と触れ合うことで、主人公は人間らしさを得ていくのだが。
「これは…是枝監督作品ですか?」
思わずそう言ってしまいそうな是枝感。子供の描き方が…。何というか「作っていない、上手くない(けれども結果的には上手すぎる)子供」が。そのリアリティーが。
エンドロールで。是枝監督の名前のクレジットに「だろうよ!」と頷く当方。
ただ。全く是枝監督にならった訳では無い。うかうかしていたら、鋭い刃物でしっかり刺してくる(勿論比喩)のが西川美和監督作品で。
この作品に於いての主人公、本木雅弘演じる「衣笠幸夫」の恰好悪さ。竹原ピストル演じる「陽一」の女々しさ。
二人の男の子供っぽさ。単純さ。
子供の時。「これをしてはいけません」「こういうことは、人様に迷惑を掛けます」「こんなことをするのは恥ずかしい事だ」何かにつけ親に言われた言葉。別に当方の親だって、偉人聖人ではありませんが。そうやって社会の規範みたいな事は散々吹き込まれてきた。
だから。大人になって驚いたのは「あれ。やっている人いるぞ。」という事実。
親から躾けられた基盤は、決して世間と同じでは無い。おかしな事をする人は沢山居るけれど。
かと言って、当方は完璧な人間ではありませんので。人様から見たら当方も「非常識だ」と思われる所は多分にあって。
(当方がよく言われるのは「貴方は酒さえ飲まなければまともなのに」ですが…ですがね。違うんですよ。平素まともそうに振舞っているから、酒で壊れるんですよ)
ただ。誰から見ても、明らかに「これは…」と思う欠点というものも存在する。
幸夫の子供っぽさ。自己愛しか無くて、周りが見えていない感じ。
「これは…奥さんよく結婚生活維持出来たなあ。仙人か。」
物語の初めで退場してしまうので。正に死人に口無しですが。
「最も聞きたいのは、この奥さんの言い訳だよ。どういう気持ちでいたのかという」…当方はそう思いますが。まあ、もしそんなのあったら蛇足になりますがね。
妻が突然他界。ぽかんとするばかり。逢引きしていた不倫相手は、後ろめたくてその気持ちを共有しようと幸夫に会いに来るけれど。
「妻に死なれた俺を慰めろ」と強引にセックス。引く不倫相手。
誰も面と向かって大して幸夫を責めはしないけれども。(そして、責めても全然分かっていないという残念さ)離れていく人々。
そんな折。現れた「陽一」と二人の子供。トラック運転手で家を不在にしがちの陽一に、成り行きで提案した二人の子守り。
そこから暫くは、すったもんだの幸夫と子供達の奮闘劇が描かれるわけですが。
「本木雅弘の新境地云々」近年クールでしっとりした役を演じる事が多かったモッくん。…当方は忘れてはいませんよ。
「シコふんじゃった」等のコメディー作品を。「ギャッツビーつっけて~恰好つっけて~」とはじけまくっていたモッくんを。そもそもジャニーズで「スシくいねえ!」とかやっていたじゃないの。(これはリアルでは知りませんが)当方は忘れてはいませんよ!
伴侶の死。それを乗り越える幼い男というキャラクターを。度量が狭い男を。非常に生き生きと演じておられましたし、下手したらウエットになりそうな話を、ぐっと見やすくしたのは「コメディエンヌピエロ」の役割をしっかり果たしたモッくんの存在ありき。
だから、対極に存在した「陽一」が重すぎず生きてくる。
二人の子供と関わる事で目覚めていく幸夫(の母性)。
今までは自分の事しか見えていなかった。それが。守るものの存在によって広がる視野。責任感。
ですが。
そうやって「俺にも出来る」「俺には守るべきものがある」と浮かれていた幸夫に。ある意味、的確に、冷静に分析し語り掛けられる男。
マネージャーの池松壮亮。
「男にとって子育てって、免罪符なんですよね。自分がどんなに最低な奴でも、許されるじゃないですか。」
幸夫が求めた「俺はひどくない」「薄っぺらくない」「誰かを愛せる自分」そう思える相手。でもそれは…結局は他人の子供で。楽しく、良い顔をして付き合える相手で。
勿論この兄妹の間に生まれた絆は嘘ではない。でも。
「正直、あいつらが居なかったらなって。思ったりもしたよ。」
夏。陽一がぽつりと語った言葉。絶対にそれは思うであろう事。これは責められない。誰も責めたりしない…だって。だって、結局彼は決して子供達を捨てたりはしなかったし、これからもそうであろうから。良い事ばかりじゃない。みっともない事も沢山あって。嫌にもなる。でも切れたりはしない。本物の絆。家族だから。
この「本当の家族の絆」に。つい最近関わりだしたばかりの人間が勝てる要素など、何も無い。
結局は、自分の振り返りを、他人への代償行為なんかですり替える事なんて出来なくて。
「もしかしたら。もし妻が生きていたら。そしてこんな時間を持てたら。今の自分のような気持ちで、そこに妻が居たら。何かが違っていたのだろうか。」
一瞬。妻の遺品から見つけた、自分へのメッセージ。動揺するけれども。
送られなかったメッセージ。それは本意なのか。取りあえず文字化しただけなのか。でも。もうそれは二度と確認は出来ない。
一番話をしたい相手が。一時でも自分を愛してくれていた相手が。時間を掛ければまた分かり合えたかもしれない相手が。二度とそのチャンスは与えられない。
そしてそういう状況を作っていたのは、誰でもない自分であるという、間違いのない事実。
でも。都合の良い子育てに免罪符を得ていないで。これにきちんと向かい合わなければ。
どんどん深みに嵌ってい幸夫とは裏腹に、ベタベタに落ちていた陽一の判断。
「ああ。この鍋パーティーは最悪だ」震える当方。
誰もが不快になるしかない場面で。己も自覚しているクズ発言を繰り返すしかないシーン。このいたたまれなさ。そして、もう絶対に美味しくなくなっている、グタグタに煮詰まった鍋。ストロングゼロ。(当方も毎日の晩酌に飲んでいますがね。あの状況でストロングゼロ×2本位で、完全に悪酔いし始めますよ)こんな最低な誕生日会はない。
「もう駄目。何もかも終わった。家族ごっこは終わった」
そして。物語は佳境を迎える訳ですが。
この作品に於いて、誰しもが思う事。そして作中で語られる事。
「何で俺が生きているんだ」
主人公幸夫が。こんな子供な自分では無く、皆から愛された妻に生きていて欲しかったと思い。
陽一が。自分では無く、子供にとっては妻が生きていて欲しかったと思い。
「死ぬなら俺だろう」そう思った事を。決して、自分の口に出した訳ではないけれども。
立場も環境も全く違うけれど。同じことを思って。恐らく同じ答えを導き出した。その解答を言えるのはこの二人しか居ない。
陽一の小学生の息子は、出会った初めから一見大人だった。でも一見だった。
「大人っぽい」は「大人」では無い。
しっかりしなければと自分に言い聞かせ。疲れて涙した事を誰にも言わないで欲しいと懇願し。でも彼は大人では無い。
彼には、きちんとした「子供」の時間が必要だった。何故自分は母親の死に対して泣けなかったのか。父親にうんざりする気持ち。幼すぎる妹に対する怒り。疲れ。上手く言えなくてもいい。きちんと誰かに吐き出せる時間。
彼の前に居た、二人の男。それは年を重ねただけの。子供っぽい大人。
でも。結局彼らは大人。子供っぽいだけの、大人。子供では無い。
彼らは想像した様な、シュッとした大人では無い。スタイルに一貫性も無いし、すぐに弱い所も見せてくる。泣き事も言ってみっともない。でも。
「どんなにぼろぼろになっていても、彼らは自分に寄り添っている。」
母親のように、柔らかく抱きしめてくれるのとは違う。でもずっと、前に、後ろに付いていて。振り返ったり、見上げたら頷いてくれる。手を伸ばしたら、時々そっと握ってくれる。
どんなに頼りなく見えても。それが大人の男たちのやり方なのだと。そう学んで、自らも大人になっていく。
「西川美和監督作品でこういう事を思うとはなあ。」
公開初日の夜。仕事終わりに。一人で観た当方でしたが。
何故か周りは二人連れが多い中。
「誰かとの関係性や、家族との繋がりって」と、机上の空論を巡らせた帰宅でした。