ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」

「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」観ました。


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1920年台。NY。37歳でこの世を去った小説家トマス・ウルフ。彼を見出し、世に売り出した敏腕編集者マックスウェル・パーキンズ。
その二人のなれそめや。有名作品を生み出した経緯。手にした栄光と失ったのもの。
時には熱く。時には戦い。そんな二人の姿を描いた。地味ながらも熱い作品。

編集者パーキンズにコリン・ファース。トマス・ウルフにジュード・ロウを。トマスのパトロンニコール・キッドマンを。まあ、当方は完全に「コリン・ファース血中濃度」を上げようとしたからの鑑賞でしたが。

今回、あらかじめお断りさせて頂きますが。

「当方が今まさに書いているこの映画感想文。これまでも、そしてこれからのもの全てのクオリティーを棚に上げて書かせて頂きます」「『あんた何様だ』というクレームは聞き流します」「どう脳内で組み立てても、これからの文章はとっ散らかる事になっていますから。あしからず。」

これはあくまでも「個人の映画備忘録」なんで。大体、当方は文章でご飯を食べている訳じゃ無いし。これまでの感想文達も8割方はアルコールを摂取しながら一筆書き状態で書いてきた訳やし。

まあ。何を見苦しくいつまでも言い訳しているのかと言いますと。


「人様の文章をいじくるという事」に、当方も苦しさを感じているから。この編集者の気持ちが分かるような気がしたんですよ。


非常に専門性の高い職業に付いてもう随分経って。ここ数年は、教育的立場で後輩に関わる事も多い当方。(具体的にその職業は何なのかは言いませんけれども)

学生指導から。卒後研修の幾つかを担当。研修レポートやら、~論やら、ケースレポートやらは沢山読んできました。

こんな酔いどれお楽しみ感想文とは全く違う。がっちがちにフォーマットの決定している文章達。

と言っても、当方が研修生という立場であった時は。結局その決まりきった形式の中で、いかに自分の言いたい事を書くか、自分が楽しめるか、分かりやすく書くかを面白可笑しくやっていた訳ですが。(大体、素案とか草稿は自宅で夜に酒を飲みながら書くのがスタイル)

幾らでも固く仕上げる事の出来る文章で。ここぞという大切な所で専門用語やら引用やらを用いて己の主張を代弁させて。訳の分からない言葉で飾り立てて煙に巻く連中の腹立たしさ。

「文章はシンプルに。分かりやすい言葉で。」当方のポリシーですが。

時が流れ。当方が指導する側に回った昨今。

「今日日の若者は、そもそも自分の文章が書けない」

(まあ。確かに当方の職業は文章を書く事はメインでは無いんですが。ですが。毎日の観察ややったことをきちんと記録する事で、情報を共有し、振り返り、分析するのが日常なんで。決してこれらの研修は無駄な事では無いと当方は思いますがね)

小学生の方がもっとましだろうという、稚拙な文章。険しい表情で読み進めるも、結論には導かれず。兎に角広大な野っ原を連れまわされた挙句、いつの間にか一人にされたかの様に途方に暮れて。連れてきた奴を探そうとも、どこにもその姿は無くて。そんな絶望感で一杯になるような訳の分からない文章。

それでも「この学年のこの研修で学んで欲しい事」という研修テーマなんぞを思い浮かべながら、若者と向き合う訳ですよ。

「何でこのテーマを選んだのかな」「どういう関わりをしようと思ったのかな」「プランは」「そして実際は」「その相違は何故起きたのかな」「そこから何を学んで、どう今後活かせると思うかな」延々。手を変え品を変え。これ。実務とは全く別の時間でやるんですよ。時には残業して。

なのに。時に感じる研修生からの「結局、どう書いたらあんたは気が済むんだ」という空気。

あくまでも相手にその答えを導き出して欲しい。だからこんなに根気強く、回りまわって話をしているのに。答えが欲しい。すぐさま欲しい、という姿勢。

「知らんがな!これはあくまでもあんたの研修だろうが!こっちは確かに「これがウケる」という流れは分かっているけれど。あんたの名義であんたが選んだ題材と取り組んだ内容をベースにしているんやから。それを発表するのはあんたなんやから!あんたが納得できるものにならんといかんでしょうが!」

研究で得て欲しいテーマ。職業人として学んでほしい事。あるある。でも。もっと大切なのは「自分の言いたい事」それがあるなら、核となっているのならば。

「今回の取り組みで得た事はこれだ」「これを学んだ」「こういう発見があった」そこがはっきりしていれば。一応はそこをメインにした構成を。どうすればその主張が生きるのかを、共に考える訳ですよ。(あまりにも当たり前ですが。これが分かっていない事は多々あります)


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(何だか話が映画内容とはどんどん離れていってますが。申し訳ありませんが、今回はもうこいういう感じでいきますよ。)

300万語あったと言われる原本。幾つもの出版社から断れたその超大作。諦めがちに持ち込まれたそれ。そこに可能性を見出したパーキンズ。

「これを世に出すために」作者と編集者との死闘が始まる。

かつて。当方が研修生であった時。「ここはこう書いたら」とコメントを貰い。ある時はなるほどなと思いながら訂正し。ある時は「どうしてもここは削れない。これは言いたい事だから」と頑として譲らなかったりした。

そうやって。一応全ての研修を修了した訳ですが。これまでの当方の発表したモノの中で「あれは無かったことにしたい」と思うモノは、成程確かに一つもない。

まあ、自分が書いた何かに対して誰かが真っすぐに向き合ってくれて、きちんと意見してくれる機会なんて。あんまり無いですし。その時はいらいらしたりもしますが。今思い返したら機長な体験ですね。けれど。

研修生と関わり指導する立場となった今。

「当方が研修生の文章をコントロールしているのではないか」「これは本当にこの研修生の言いたい事なのだろうか」不安になる当方。

勝手に「文章が拙い」「こう書いたら分かりやすい」そう思って。確かに初めに読んだ時より、内容は読み手にとってシンプルで明瞭になった。でも。そこには、いい意味でも悪い意味でも元々あったその研修生の個性は奪われてしまっている。
(だから。いつもコメントをした後で当方は「言いたい事が変わっていないか」と研修生に確認するんですが)

そうやって、当方は研修生の個性を潰したのではないか。だとしたら。そんなの、指導じゃない。


パーキンズが言った「偉大なる才能を潰しているんじゃないか」という感じの言葉。

ジャンルもスケールも違う世界に住む当方ですが。「分かるわ~」と太ももを叩く当方。



小説家トマス・ウルフは37歳でこの世を去ってしまった。
脳腫瘍。湧き出る、彼の文章の力強さ。でも。その反面。デリカシーに掛ける発言。態度。これは天才故か。頭の腫瘍も関係したのか。

小説家と編集者、二人三脚で世に生み出したベストセラー。良い時ばかりではない。苦しくて、傷付いて。憎たらしくて。

「あいつが居なければ。もっと自由に書けたら。未知なる作品が生まれるのではないか」でも。どうなったかは、もう永遠に分からない。


終始きちんとした態度で。真面目でお堅いパーキンズが。あの帽子を脱いだその時。



「あの時。貴方を思いながら。ここでこの本を書いた」
それがやっぱり楽しかったと。これが自分の原点であったと。

そう語って二人で見た夕日は。二人共にとって同じ景色であったと。そう思うと羨ましくて。熱いものが胸に込み上げて仕方ありませんでした。

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