ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「薬の神じゃない!」

「薬の神じゃない!」観ました。
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2014年に中国で起きた『陸勇事件』を基にして映画化された作品。

2018年に中国で公開されるやいなや500億円の大ヒットを記録。社会論争を巻き起こし、中国医療保険制度の見直しまにで発展した。

 

中国、上海。男性向けの強壮剤を細々と販売していた、いわゆるあかひげ薬局店長のチョン・ユン(程男)。店は儲からず。愛想を尽かされた妻には息子を連れて逃げられ。店の家賃も滞納し大家をかわす日々。

そんな時。慢性骨髄性白血病患者の青年、リュ・シュウィー(呂受益)が店を訪れてくる。

強壮剤をインドから仕入れるツテがあったチョンに持ち込まれた話。それは「白血病治療薬のジェネリック(インド製)薬品の密輸転売」だった。

中国国内で正規採用されている白血病治療薬は高額でしかも保険適応外。患者らは命の綱となる薬に依って生活が困窮し、治療を諦めている状態であった。

無事密売ルートを確保したチョン。ジェネリック薬品を希望する患者は無数に存在しており。インターネットを利用し拡散すべく、宣伝役としてポールダンサーのリウ・スーフェイ(娘が白血病のシングルマザー)の起用や、インドとの国際交渉の為に英語が話せるリウ牧師も仲間に引き入れた。途中白血病患者の不良オン・フンオも合流し。

初めこそ金儲けの為に薬を密売していたチョン達だったが…。

 

2014年に中国で起きた『陸勇事件』。ざっくり言うと、自身も白血病患者であった陸勇という男が。国内では高額故に継続困難だった治療薬のジェネリック薬品をインターネット経由で海外から入手。自身に投与した所症状は改善。そこで同じ病に苦しむ人々にも同じ薬を密売したというもの。

陸男は偽薬販売で逮捕、収監されたが。中国内で大紛争が勃発。一年後に彼は釈放された。

 

「これは…中国版『ダラス・バイヤーズクラブ』だな」。

2013年にマシュー・マコノヒー主演で公開されたアメリカ映画。あれはHIV患者の話でしたが。

 

この作品の内容や構成。一時は金儲けに走ったチョンが、貧しい白血病患者たちに触れるにつれ芽生えていく人情物語。背後に病の影をちらつかせながらもワクワクするチームの一体感。終盤私財を投げうってまでこの事業を継続していく様とその顛末。当方も胸を打たれましたが。

 

「おそらく何も考えなくても楽しめる様に作られているけれど…けれど考えないわけにはいかない。当時の中国は一体どういう医療制度だったのか」。

 

(苦しい言い訳)決して詳しくはないんですが…おおもとの事件が2014年?そして中国医療保険制度の重大疾病の見直しが2018年??結構最近の話じゃないですか。

 

どんな言い方をしてもアレですが。白血病って滅茶苦茶患者数の多い昔からある疾患(血液の癌)で、治療方法は数多ある…そんな疾患の治療および治療薬が最近まで保険適応外だったなんて。

最終のテロップの「かつて中国の白血病患者の生存率は(言い回しうろ覚え)~」のあまりの低さに内心驚きが隠せなかった当方。そんな馬鹿な。こんな時代にそんな。

 

例えば。日本で初めてジェネリック薬品がお目見えしたのは大体1960年代(ブスコパン)。1990年代後半~2000年前半にはいわゆる『ゾロ』と呼ばれるジェネリック薬品は医療業界に続々投入され始めた。

かつて恐れられた「ジェネリック薬品って元々ある薬の後発品で、限りなく似せてはいるけれどいつか何かが起きるか分かんない薬でしょう!安さと引き換えに安全性を売ってさあ!ニセ薬!」。

そこまで深刻な副作用があった薬品は…結局あまり無かったまま。現在ジェネリック薬品は世界中でどんどん取り入れられている。だって、生きていくために薬を飲み続けなければいけない人はごまんと居るから。

 

けれど。この作品の問題点はジェネリック薬品ではないと思う当方。

 

「本来医師薬剤師が関わるはずの投薬が。しかも抗がん剤が。素人の手に依って扱われた」。

 

慢性骨髄性白血病とその治療薬。その構図が全ての患者に当てはまるわけが無い。

その患者の個性。患者の年齢、体格、他の疾患の有無。これまでの経過。患者は何のために定期的に医療機関に掛かって検査をしているんだ。何のために痛い思いをして採血されているんだ。

癌を殺すような強い薬が効くという事は、その代わり体のどこかに負担を掛けるという事。

「15歳以上なら一日3錠」そんなドラッグストアで手に入る整腸剤やビタミン剤みたいなノリで重大疾病の治療薬を呑むんじゃない。

誰が貴方の体を守ってくれるんだ。誰が貴方の体の状態を正しく把握して適切な治療をしてくれるんだ。勝手に自己判断するんじゃない。ちゃんと専門知識を持った誰かに。誰かに委ねて…。

 

「その誰か=医療機関にかかる事が出来ないんだ」。

 

これは一見「高額な薬を飲み続けることが出来ないから」違法なルートでほぼ正規の治療薬と同じジェネリック薬を密輸した事で罪に問われた事件を描いていたけれど。

 

本来病気の治療は投薬だけにはとどまらない。治療はただ薬を飲めばいいという訳では無い。けれどここで描かれていた人たちは安心して体を診てもらう事が出来なかった。なぜならお金がかかるから。

それが問題。

 

2018年に公開されたこの作品。元となった事件が起きたのが2014年。

中国で公開されて直ぐから話題となり大ヒット。世論に押された形で癌治療薬の価格引き下げや各種疾患の保険適応が見直された。あの社会主義で謎の紅い国がこんな迅速な動きを見せたなんて…そう純粋に驚くけれど。当時の季克強首相が元々推していた方針を知ると「あれこれもしかしてプロパガン…」といけないパンダも連想してしまった当方。悲しきうがった精神の持ち主。

 

色々勝手に書きましたが。心配しなくても「考えなくて十分楽しめる作品」。

面白エンターテイメント系かと思いきやぐっと人情モノへと切り替え。最後車窓からチョンが見た景色には涙が浮かぶ…そんな作品。必見です。

映画部活動報告「星の子」

「星の子」観ました。
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今村夏子原作の同名小説の映画化。芦田愛菜主演。大森立嗣監督作品。

 

15歳。中学三年生のちひろ(芦田愛菜)。

未熟児で生まれ、病弱だったちひろを案じた結果『金星のめぐみ』という水に出会った両親(永瀬正敏原田知世)。以降、その水をきっかけに販売母体であった新興宗教にのめり込んでいった。

時が経つにつれ。自宅は貧乏になっていき、小五の時に姉が突然蒸発した。

 

「ああこれは…どうしようもない…」。

どこまでも優しく。そして物哀しい。そんな世界観に溜息が止まらなかった当方。

 

この世に生を受け。幼い頃は多少親に心配を掛けるような体ではありましたが…学校に上がる頃にはすっかり健康体。以降はふてぶてしい心身に育ってしまった当方。

今や滅多に風邪すら引きませんが(丈夫な体に産んでもらって、親に感謝です)。

 

この作品の冒頭。未熟児で生まれ、皮膚がボロボロだったちひろに、藁をも掴む気持ちで怪しげな水にすがったちひろの両親。

 

アトピーには良質な水がきく」。専門学生だった時。小児科医がふとそう言った言葉。当方ですら何となく覚えていたその言葉にすがって、社会人になって直ぐに浄水器を買ったアトピー肌に悩んでいた友人(案の定、それはネズミ講の入り口で。友人にとって泥沼の借金&人間関係崩壊の始まりだった)。

小学生の時。近所にあった宗教施設の子供たちが数名同じ小学校に居た。集団生活をするその子たちは、子供であった当方の目には特に異質なものには見えなかったけれど…。

 

「思っているより身近に『そういう人たち』は居る」。

 

当方のこれまでの半生で。『そういう人たち』はいくらか存在した。何かを盲目的に信じている彼らは雄弁で、けれど当方は両手に鉛筆を持って片目をつぶりながら芯を合わせようとするくらい、彼らと交わる事がなかった。

やたら猜疑心が強い当方はそういった「いかにも胡散臭いやつ」とか「お金をふんだくろうとするやつ」にはそもそも聞く耳が持てなかった。けれど。

そういった『胡散臭いやつ』にはまり込んだ友人を。近所に住むその子供たちを。おかしいとは思わなかった

 

ある程度生活能力のある成人が。他人に(当方に)迷惑を掛けないのならば、多少相入れない所があっても構わない。

真っ当な社会生活を営めて。納税の義務を果たし。他人を不快にさせないのならば、己の心の拠り所を異質な場所においてもいいじゃないか。

強引な話、そう思わなくもない当方。だって昼間のパパはちょっと違う~という人はこの世にどれだけいる事か(この歌詞の本来の意味合いは全く無関係)。勝手にすればいい。

 

「違う。大人はそれでいいんですよ。好きなモノを信じて、堕ちたとしても自分のせいに出来る。今回の問題はそんな大人に振り回される子供だ」。

 

15歳。多感な中学三年生のちひろ

未熟児で病弱だった自分のせいで両親は新興宗教にはまった。水を始め、家じゅうにその宗教のグッズが溢れ。どんどん生活水準は落ちているのに両親の信仰心は止まらない。

歳の離れた姉はこの家に耐えられずに出て行った。叔父も両親の元に居ては危ないと、高校進学をきっかけに叔父の家に呼び寄せようとしている。

 

ちひろのためを思っている」。

 

両親は心の拠り所を見つけた。そこに居る事が何よりも安心で、最早抜け出そうとも思わない。けれど。

年齢的に両親と一緒に居るしかないちひろにとって、果たしてこの場所は安心できる場所なのか。自分で選んでいないのに。

ちひろの未来はどうなる。まだ中学生で。まだなんにでもなれるのに。

 

当方は悲しいかな大人なので。どうしても大人目線でみてしまうのですが。

ちょうど高校進学という節目を前に「ちひろはどうしたいのか」という…シンプルで重大な判断を身近な大人たちはちひろにさせようとしているのだなと。そう思った当方。

 

両親に愛され、素直に育った。目の前で変化していく両親に耐えられなかった姉に対し、どうしても同じようには切り捨てられなかったちひろ

両親の信じているモノをまるきり同じ様には思えない。けれど全く否定もしていない。だってあながち間違ってもいないから。

 

幼馴染で同級生のなべちゃん。彼女に「その水なんなの」と茶化されても、一緒に否定はしきれないちひろ。「だってこれは有名な大学教授も認めていて…」。

 

春に赴任してきた、数学担当の南先生(岡田将生)。若くてハンサムでテニス部の顧問。女子生徒がこぞってきゃあきゃあ言う中で。面食いのちひろも一目ぼれ。

授業中は内容そっちのけで先生の似顔絵を描き続けた。

 

天然コケッコー』くらいから岡田将生さんは知ってますがね。彼は素晴らしい。あんなに爽やかなイケメンでありながら、毎度性根の腐った教師役を引き受けてくる…良い役者だなあと思う当方(褒めています)。今回も「おいおいお前」という最低を具現化した南先生を熱演。

一見爽やかなイケメン教師。そんな彼に惹かれ。ふいに訪れた自宅に送ってもらうというチャンスに舞い上がっていたら…自宅裏の公園で儀式をしている両親の姿を見られた。

「いくら何でもその情報を知らないのはおかしい。教員内でのちひろの個人情報申し送りでトップに上がるやつやろう」と思いますが…しかも加えて後日、南先生の取った行動の無神経…というよりも意識的な言葉の暴力。あまりにもひどすぎる。

(「そういう風に見る人が居たのか」。先述の様に現実に同じ校内に宗教関係の子供たちが居たからといって、そんな活動をしている姿を見た事も想像したことも無かった当方にとってもショックだった瞬間)。

 

そう思うと、ちひろの親友のなべちゃんとその彼氏の新村君。あの二人の距離感の真っ当な感じよ。特に新村君…アンタ良い男だよ。

 

最終。件の新興宗教泊りがけの会合。「結構大掛かりな宗教なんやな…」と何度目かの溜息を付いた当方でしたが。最後怒涛の畳みかけ。

タイトル通りの星の下、空を見上げる両親とちひろを見て。「ああ。両親はちひろを送り出そうとしているんだな」と感じた当方。

 

きっかけは末の娘ちひろだった。藁をもすがる気持ちでのめり込んだ宗教。上の娘は自分たちの元を去った。そして今、ちひろにも決断の時が来ている。

自分たちはもうこの世界から出られない。けれど…ちひろには自分で住む世界を見つけて欲しい。

ちひろを愛している様に、ちひろも自分たちを愛してくれている。けれどその愛でちひろの未来を縛ってしまいたくはない。

上の娘は自分たちの元を去った…けれど。彼女は家族の縁を完全に絶ったわけではない。家族の縁は容易く切れるものではない。

 

想像以上に丁寧に丁寧に。愛を込められて作られた作品。バッサリ善悪で切り捨てられる人物も一部存在したけれど…人間って、元々そんな簡単には決めつけられないよな。寧ろ誰も悪くないからこそ、気持ちをすっきりとは落とせなくて…もやもやする。

とんだ良作。迂闊に見逃しては後悔してしまうやつです。

映画部活動報告「スタートアップ!」

「スタートアップ!」観ました。
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勉強は嫌だ、ましてや学校なんて大嫌いだ。高校を中退し遊び惚ける主人公のテギル(パク・ジョンミン)と親友のサンピル(チョン・ヘイン)。やんちゃをしては元バレーボール選手の母親(ヨム・ジョンア)から鉄拳制裁を食らう日々だったが。

不遇で貧乏な一家を支えるべくサンピルは社会に飛び込み。そしていつも通りの母親との喧嘩の末、家出したテギルが行き着いた先…そこは『チャンプン飯店』。

住み込みで働けるからと、腰を据えたテギルを待っていたのは…おかっぱの厨房長、コソク(マ・ドンソク)だった。

 

韓国が生んだ、アジア版ハルクことマ・ドンソク。

「マブリーことマ・ドンソクの新作?それは是非とも観に行かないと」。

アジア人ではおよそ不可能と思われるムキムキな体躯と強面な表情。なのに口を開けば…どこかオドオドしいていてチャーミング。森のくまさん。そんな、ラブリーと掛け合わせてマブリーと呼ばれるマ・ドンソク。

 

10月23日の公開初日。しとしとと雨が降っていた金曜日の朝、初日初回の映画館のロビー(この日は当方は泊まり勤務明け。よく泊まり勤務明けで映画館に向かう当方からしたら通常運行)で。

「あら~。何某さんお久しぶり」。

「お久しぶりですう」。

「これ、先日宮島に行った時のお土産です。何だか素敵なご利益があるらしいの」。

「誰某さん、遅いわねえ。もしかしたら間違えて鶴橋に行ってないかしら?ふふふ」。

韓流マダム御一行様ご健在。朝9時台の映画にきっちり待ち合わせてご鑑賞。売店でしこたま韓流ドラマ&映画DVDを購入?したのか荷物多めでロビーに集まっておられる。

(数年前、手作りのお揃い韓国俳優プリントTシャツを着用されているご婦人を見掛けた事もあった)

幾つになっても推しの存在は女性を輝かせることよ。泊まり勤務明けでボロボロの風貌の当方、遠いまなざし。

「とは言え…誰もマブリーを推している訳じゃないんやろうな…」。

 

若き主人公テギルとその親友サンピル。彼らを演じた二人の俳優さん、非常に人気のある俳優さんなんですね。当方はどうもそちら側の事情には疎いもんで…。

 

ラブラブファンタジーな韓流ドラマに嵌る人たちとは、無縁な様で時々映画館で交差する当方。けれど当方のテリトリーでの韓国作品は基本的に『バイオレンス、アクション、グロ、エロ、不条理』等々…彼女達にとって厳しい内容では無いかと勝手に案じていたのですが。

「いやあ今回の作品の明るい事よ!」「笑いと感動の痛快コメディ!」

 

韓流マダム御一行と当方がまさかの同じ笑顔。いや~兎に角明るいは正義。

一部悪の存在もあるにはあるのですが。『誰も悪い人なんて居ない』の世界線で。『頑張ればいつかいい方向に向かう』という安心感。

 

主人公のテギル。母一人子一人の家庭で。高校中退し、毎日遊び惚けている日々。そんなある日、母親と喧嘩し家出。挙句中華飯店に住み込みで働く事になった。

そこに元から住み込みで働いていた従業員の一人が、強烈なキャラクターの厨房長コソクだった訳ですが。

おっかないんだか面白いんだか判定しかねる独特な風貌。けれどやっぱりコソクが繰り出す張り手は気絶してしまうくらいの超人級。なのにテレビに映されたアイドルにはぞっこんというアンバランスさ。かと思えば、いざおっかない人たちを前にしたら逃げ出す…そんなちぐはぐなコソクに反発しながらも、生活を共にしていく事で成長していくテギル。

偶然知り合った、ボクシングを嗜む赤髪の女子との甘酸っぱい恋なんかも絡め。何だかキャッキャしたチャンプン飯店。

引き換え。やや認知症のある祖母との家計を助けようと取り立て屋稼業に足を突っ込んでしまったサンピル。

確かに収入は良いけれど…血も涙もない取り立ての現場に、次第についていけなくなるサンピル。胸が苦しくて。

 

「寂れた中華飯店の、ただの太っちょおかっぱ厨房長?マブリーが?そんな訳ないやんか」。

マブリー推しの当方がこれまで観てきた、マブリー主体の作品。アウトローな世界で名を馳せた暴れ熊、それがマブリー。ただ今は…その姿を隠しているだけ。

まあ今回も正直、そんな王道のマブリーだった訳ですが。

 

当方がこの作品に対し好感が持てたのは、あくまでも「自分のピンチは自分でどうにかしろ」という方向性だったこと。

 

いつも喧嘩していた母親。でも本当に嫌いなわけじゃない。

気になって。「母さんが言うとおりに学業は続けられないけれど、俺は俺で働き口も見つけて頑張っているよ」。なかなか言えなかったけれど…それでも初任給を握りしめて母親に会いに行った。母親はこれまでの夢だった自分の店を持った所だったけれど…それはいわくつきの物件だった。

案の定、身に覚えのない取り立て屋が乗り込んできた。そんな時、実は無敵なアウトローだったコソクが蹴散らかしてくれれば一発。なのに。

 

自分が苦しかった時、一緒に居た仲間がずっと同じ場所に居るとは限らない。皆それぞれ事情を抱えている。元々居た場所に戻らなければいけない者も居る。先に進まないといけない者も居る。寄り添う相手を再確認する者も居る。

一緒に過ごした日々は無駄ではない。けれど。

自分が大切にしたい相手は。大切にしたい場所は。自分がしたいことは。

誰かに助けてもらう日々はもう終わり。誰かにすがるな。自分で決めろ。

 

「何しろ若いからな~。何とでもなるよ」。誰も悪い人なんて居ない世界観で。各々くすぶった日々を経て、やっと意地を張らずに大切にしたいものを見つけたテギルとサンピルにエールを送りつつ。

 

ところで。マブリーが中華鍋を振るってくれるチャンプン飯店は一体どこにあるんですかね。メニューの上から下まで全部頼む気合で臨みたい当方なんですけれども。

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映画部活動報告「スパイの妻」

「スパイの妻」観ました。
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1940年、太平洋戦争間近の日本。

神戸で貿易商を営む福原優作(高橋一生)は、仕事で赴いた満州で恐るべき国家機密を知ってしまう。このことを世に知らしめようとする優作と、彼をマークする憲兵たち。

信頼し、生涯愛しぬくと誓っていた夫の別の顔。

思わぬ優作の素顔に一時は戸惑うが、どこまでも付いていく妻の聡子(蒼井優)。

国が戦争に向かって不穏な空気に包まれる中。

正義を貫くためには誰かを犠牲にしなければならず、けれど崇高な精神の前ではその愛すらも手放さなければならない。

第77回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞。黒沢清監督作品。

 

「これは…参ったな」。

劇場公開初日の10月16日金曜日。仕事終わりに鑑賞し、もやもやした気持ちを抱えて帰宅した当方。

 

先だってお断りしておきますが。これは当方の個人的な感想文であり、映画作品を鑑賞した率直な気持ちをそのまま書いています。嘘をついたりはしたくない。

一つの映画作品に対して、これが傑作だと思う人も居ればそうではないと感じる人も居る。この作品に感動した人を決して馬鹿にしている訳では無い。という事をあしからず書いておいて。

何を言い訳しているのかというと…当方が鑑賞後率直に感じたのが…「チープだな」という印象だったから。

 

1940年代の神戸。確かに古い建物を使い、役者は当時の雰囲気にスタイリングされた風貌。話し言葉も往年の俳優みたいな言葉遣い。なのに…なんだか空々しい。

「ていうかどこの放送局のセットだよ!」感が否めなくて。いやまあこれ実際に今年6月NHKのBSで放送されたテレビドラマなんですけれど。どうもテレビドラマにしか見えない。自宅のテレビサイズならば感じないのであろう違和感が…スクリーンに映されるとチープに見える。

 

脚本も滝口竜介、野原位、黒沢清とそうそうたる面々。黒沢監督単体ならば「ここの船のシーン、誰かがそこの階段から転げ落ちるぞ」なんて事もありそうでしたがそれもなく。兎に角終始メロドラマ調。

 

この作品は、太平洋戦争直前のピリピリした日本が舞台で。皆が質素な和装に切り替えていく中。貿易商を営み洋装を纏い…そのままでも周囲から異分子になりつつあった福原夫婦が、国家の機密を知り正義の行動を取ろうと奔走した姿を描いたのですが。

当時の日本の雰囲気を、勿論知る由もないのですが…正直「優作が見てしまった機密が他国に知られた所で日本国家にはどの程度のダメージがあるのだろうか。確かに非人道的だけれど…国家を転覆させるほどではないような…」なんて思ってしまった当方。

「ならば何も見なかったという事にしていいのか!」「お前の中の正義は何処だ!」

そんなお怒りの声が上がるのかもしれませんが…「ではその機密と引き換えに奪われた命や精神の重さはどう思うんだ」。苦々しく答える当方。

仕事で満州に向かい。そこで見てしまった日本国家の悪行。証拠を掴み、これを世界に吐露してやろうと画策する優作や、満州に同行していた甥の竹下文雄(坂東龍汰)や現地で働いていた看護婦。帰国後すぐに「こいつらはスパイだ」と憲兵に目を付けられ、追いつめられていくけれど。有事の前には末端の彼らの命など軽い事よ。

 

多分…当方の中で苦々しい感想が止められないのは、主人公の福原夫妻がどうも好きになれないから。

「僕はねえ。コスモポリタンなんだ」(コスモポリタン=コスモポリタニズム(世界主義)に賛同する者の集まり、世界主義者。/Wikipedia先生より)

優作があのエエ声でそう放った時。思わずクッと笑いがこみあげてしまった当方(いや…なんていうか…高橋一生って無駄にエエ声なんですよね)。

どこかの国に属したスパイなんかじゃない。世界平和の思想のもと、いけない事には蓋をしない、そういう主義だと。

その言葉を聞くまでは、疑心暗鬼にもなったけれど。「私は優作さんにどこまでも付いていくわ!」心を決めたが最後、べったりくっついてくる聡子。

 

「うぜえええええええええええ~」。

メンヘラ系女子が大の苦手。依存されたくない。自由を奪われると殺意すら感じる。そんな当方はこういう聡子みたいなタイプは滅茶苦茶苦手。

「優作さんと一瞬でも離れたくない!」「聡子はずっと一緒!」「私にはあなただけ!」ああもう鬱陶しい。

 

盲目的に自分についてくる事で、自身の人生を生きる事が出来なくなるであろう聡子をああいう形で切った優作は確かにお見事。愛ゆえの行動。まあ、分かり易過ぎでしたけれど(だって…ねえ…あの問題映像を見た時から似ているなと思いましたよね)。

あの「お見事!」の所で終わったらいいような気がしましたけれど。

 

散々好き勝手書いてしまいましたが。そもそも何故当方がこの作品を観ようかと思ったのかというと「黒沢清監督が好きだから」。

どことなく歪で滑稽。どこかに綻びがある。けれど何だか惹かれて仕方がない。

当方が勝手に『光と影の魔術師』と呼んでいる黒沢清監督。今回も、まさかの「感情やその場の雰囲気を照明で演出する」という誰にも真似できない演出をしておられました(『クリーピー 偽りの隣人』の冒頭、玄関前のシーンなんて鳥肌モノ)。

宇宙人俳優、東出昌大の扱いは、黒沢清監督が一番上手いんじゃないかと思っている当方。今回の憲兵の役も惚れ惚れ。

 

いわくありそうな時代背景や設定。構えて映画館に向かった結果、何だか壮大なメロドラマを観せられた感じが未だに抜けませんが。

まあ…何だかんだ毎回黒沢清監督作品には茶々を入れてしまうから…けれど結局次回作も観るのだろうなと。そう思う当方です。

映画部活動報告「シカゴ7裁判」

「シカゴ7裁判」観ました。
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アメリカ史上最悪の裁判」と言われた『シカゴ7裁判』。

NETFLIX作品で10月16日から公開されたけれど。その少し前から細々とした規模で劇場公開も行われた。公開されるやいなや、ぶっちぎりの高評価に思わず映画館に向かった当方。

鑑賞後。当方を含めたった二人の映画部の部長に即メール。「これは面白い」「絶対に観るべき」「観ないのはモグリだ」「さもなくばNETFLIXに加入せよ」。

一体何の騒ぎかと。お忙しい映画部長も直ぐに鑑賞していましたが。

 

1968年8月。アメリイリノイ州シカゴ。民主党の全国大会が行われた。

時はベトナム戦争真っただ中で、当然のことながら党内でも議論が交わされていた。

その会場の直ぐ近く、グランド・パークに集まった1万5千人以上の群衆。彼らはベトナム戦争反対を掲げる市民や活動家達であった。

熱く盛り上がるうちに、一部が暴徒化。党大会に押し寄せようとし、警察などに取り押さえられ、数名の逮捕者が出た。

これは、暴動を扇動したとされるデモ参加者の7名(初めは8名であったが、1名は無関係とされ早期に容疑者から外された為シカゴ7と呼ばれる)に対する、あまりにも理不尽な…けれど素晴らしい着地を見せた裁判~の映画化作品。

 

ソーシャル・ネットワーク』などの監督、アーロン・ソーキン。相変わらずテンポの良さと構成の巧みさに飽きる暇も、ましてや眠たくなる隙間もない。

そして高評価の中に多く見られた様に、兎に角役者が豪華。

7人の被告の中でも有名なアビー・ホフマンがサシャ・バロ・コーエン、同じく被告の中のトム・ヘイデンがエディ・レッドメインだったり。

傍若無人で兎に角憎たらしかったジュリアス・ホフマン裁判官がフランク・ランジュラ。検察側でありながらそんな裁判官に引いた目を向けていたシュルツ検察官にジョゼフ・ゴードン・レイヴィッド。

そして当方が好きだった、熱いクンスラ―弁護士をマーク・ライランス等々…兎に角見た事ある俳優たちがひしめき合っている。それだけでも眼福。

 

ところで。「一体当方は何の分野ならば胸を張って知っていると言えるのだろうか?」と恥ずかしくなるくらい、多方面に対し無知な当方。案の定『シカゴ7裁判』についてもまっさら。流石にあの時代にベトナム戦争があった事や、それに若者たちが声を上げていた事は知っていたけれど…その程度。

しかも敢えて予習も一切せずに作品鑑賞に至ったのですが…まあ先入観の無さが却って世界観にのめり込めた所以かもしれません。

 

冒頭。当時の政局やベトナム戦争の事、強制的に戦地に駆り出された若者たちについてが描かれ。そして検察官の任命のシーンの後、裁判の幕が上がる。

 

「結局の所、あの日一体何が起きたのか」。

7人の容疑者達。学生代表や若い活動家も居れば、ボーイスカウトに関わる、優しい父親も居る。と思えばほとんどその場に居なかった若者も居る。彼らは『ベトナム戦争反対』という信条は同じく顔なじみで共に活動することもあるが、普段から行動を共にしていたわけではない。

けれど。集会参加者が一部暴走しそうになった時。確かに彼らはそこに居た。

ならば一体。その時何が起きたのか。

 

この作品の秀逸な点として、先ほども挙げた構成の巧みさがあると感じた当方。

この作品は確かに法廷劇。

「一体正義とは何かね?」。当方の心に住む、北の国から菅原文太がかぼちゃを撫でながら「誠意って何だね」と問うてしまいたい位の最悪な裁判官と茶番劇。

「ここは私の法廷だ」。と権限を振り回し、まともな裁判が行われない。(そもそも無関係に同席させられた黒人男性に対する狼藉の数々と彼の不憫さよ!人権侵害も甚だしい)。加えて何の為の裁判員制度なのかと溜息を付きたくなるような工作や嫌がらせ。

そういった『裁く側=悪』で『裁かれる側=善』とする構図で一見進められる。

まともに相手にするのも嫌になる奴を延々対峙する。検察官ですら「この程度で10年の実刑はおかしい」と感じているのに。兎に角、国家は見せしめのために被告人達に過剰な刑期を課せようとする。

この法廷劇そのものが十分に面白いのですが。一見、一蓮托生のはずである7人の関係性が浮き彫りになるにつれ…事件は全く違う側面を見せてくる。

 

「結局の所、あの日一体何が起きたのか」。

確かに一部の参加者が暴走した。けれど彼らは警察たちに依って抑えられた。負傷者は出ただろうけれど、結局の所は死者が出た訳でも党大会に影響が出た訳でもない(ですよね?)

「でも、一部の参加者が暴走した」。その事実は変わりがなく、そして確かに被告人達はそこに居た。たまたまそこに居たのか?ならば何故逮捕された。

 

被告人らはあの日何を感じ、どう行動したのか。作品の終盤にそれを見せられた時、溜息が止まらなくなった当方。

裁判中。7人の中に居た「彼は虫も殺さないよ」と言われていた温厚な父親が、あまりに理不尽に体を押さえつけてくる裁判所職員を「私に触らないでくれ!」ととっさに振り払ってしまった時の彼の表情。絶望感。

あの日起きた事は、ある意味同じこと。

こんな事したくなかった。まさか自分が。こんなはずじゃなかったのに。

『戦争』という暴力に対し、あくまでも冷静に対峙したかった。殴ってくる相手には論理的な言葉で理解を得たいと考えていた。なのに。

 

「彼らは10年は長すぎるにしても、無罪にはなりたくなかったんじゃないだろうか」。まっさらな当方の勝手な推測。平和を祈る為に集まった参加者を、怒りに任せて暴徒化させた。それは否定出来ない。

余りにお粗末な裁判劇に目を囚われるけれど。逮捕されてからの日々。互いがどういう人間なのか。元々どうしてこういった信条を持ち合わせるに至ったのか。自分の行動は浅はかなのか。よくよく見れば7人の葛藤が見え隠れする。

 

くたびれきった裁判の判決の日。最後の最後、7人を代表したトム・ヘイデンの言葉。

これまで終始「気の利いた事を言うか合戦」な裁判だったけれど、このシンプルでストレートな行動で一気に涙腺が崩壊した当方。

「育ってきた環境も背景も皆違う。けれど7人がそもそも訴えていた事はこれだ」。

そして検察官の行動に一層胸が熱くなった当方。素晴らしい。(実際には立っていないけど)スタンディングオベーション

 

それにしてもNETFLIXの映画作品のレベルの高さよ。折に触れ話題に聞くし、確かにこれは…力作。そして今の時期のアメリカでこういった作品が製作公開される事にも意味がありそうだし…NETFLIX生活に全く興味が無い訳では無いのですが。

「どうしてもなあ~こういう作品は映画館で観たいんよなあ~」。

加入していればテレビ画面で観られるのでしょうが…正直スクリーンで上映しているのならば当方は映画館での鑑賞を。激推しです。

映画部活動報告「エマ、愛の罠」

「エマ、愛の罠」観ました。
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若く美しいダンサーのエマ(マリアーナ・ディ・ジローラモ)と、年上で振付師の夫がストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)との結婚生活はとある事件をきっかけに破たんした。

家庭も仕事も失ったエマ。ある思惑を持って中年女性弁護士ラケルに近づき、親密な関係になっていく。さらにラケルの夫で消防士のアニバルも誘惑。そして別居中の夫、ガストンも挑発し始める。

エマを巡り、廻りまわる不穏な愛の渦…一体エマの目的は何なのか。

 

(とある場末のバーにて。カランコロンカランの入店を知らせる鐘から開始)。

昭:マスター!即座に脳を溶かす強い酒をください。

和:荒れてんな~。大丈夫かね。(昭の隣に座る)あ。マスター隣と同じものを。

昭:だって。だってこの作品の感想を当方の心に住む男女キャラ『昭と和(あきらとかず)』でって…あ、どうもマスター。てコレ、ストロングゼロですか。バーなのに。

和:せめてグラスを…(乾杯の音)。そうやねえ。嫌いやもんね、メンヘラ系女子。

昭:色んな嗜好の人が居る。色んな事情を抱える人が居る。精神状態がどうあろうと他人にとやかく言われる筋合いはない。そう理解しているつもりやけれど…どうしてもアカンねん。こういうタイプは!

和:まあまあまあ。ストゼロ飲みなよ。私だって同じ人間の脳内に住むキャラクターなんやから、根底は同じ思いですよ。脳が溶けきる前に語りきろう。明日も仕事やし。

 

昭:振付師のガストンとダンサーのエマ。二人の間に子供は生まれず。養子に迎えて一緒に暮らしていた息子のポロ。どうやら彼は取り返しのつかないオイタをして二人の手元から奪われてしまった。

和:金髪で派手派手しい母親。こんな事をしでかす様になったのは家庭の環境が悪かったから。そう行政に判断されてポロは夫婦から取り上げられた。抗議を唱えてポロの居場所を聞きに行くも、けんもほろろに追い返されるばかり。

昭:加えて夫は味方になってくれない。本当の親子でもないのに、ぎょっとするようなスキンシップを取っていたと非難されて…そもそもアンタが不能だから私たちの間には子供が居なかったんじゃないの。…って!それ、傷つくと思わんのかね?

和:『恋愛睡眠のススメ』ではあんなに可愛かったのに…ガエル・ガルシア・ベルナルがこんなくたびれた役をねえ。一回り位歳の離れた夫婦。夫はとある後遺症で性的に不能。ってこんなセンシティブな事を割とずけずけ言っちゃうんですよね。エマって奴は。

昭:ガストンに聞きたい!お前はマゾなのかと?まあ…そうなんだろうな。じゃないとこんなの耐えられるわけが無いよ。

 

和:公私ともにパートナーだったのに。私生活が破たんした上に、一緒に作り上げてきたダンスまで文句を付けられ始めた。とはいえ。それはおそらく、突然降って沸いたんじゃなくて滓の様に積み重なってきたモノが隠せなくなっていたんやろうけれど。

昭:「私たちがやってきたのは観光客相手の見世物よ(言い回しうろ覚え)」。これまで一緒にやって来たダンサーたちとのすれ違い。苛々した気持ちは互いに良いモノを生み出せず。

和:しかもエマは先頭切ってガストンを否定、ダンスグループから脱退する。仲間意識が強くてエマひいきのメンバー達は一斉にエマについていく。

昭:すみません!ストゼロお代わりください!…本当にねえ俺がエマに対して腹立たしいのはこういう所ですよ!

和:落ち着いて。マスター、私もお代わりを。チェイサーの水?要りませんよ頭が濁りますから。

昭:言いたいことがあれば面と向かって言えばいい。ちゃんと一人で言いに来い。何年夫婦をやってきたんだ。何年公私ともにパートナーをやって来たんだ。確かにポロが引き起こした事件は取り返しが付かないものだった。結果愛していたポロは取り上げられたけれど。何故その話がすっきりしなくて宙に浮いているからってこういうぶっ飛んだ行動に出るんだ。

和:含みを持たせた表情浮かべて、仲間たちを精神的に盛り上げて夫に歯向かわせて。そして己は虎視耽々と一組の夫婦を狙う。

 

昭:弁護士の妻と消防士の夫。何故この二人に取り入って関係を持っているのか。何だか廻りまわった描き方をしているので思わず「ただの暴走淫乱ビッチか~」なんて思ってしまったけれど。

和:何て品の無い言い方…まあ、確かに男女問わず。そして夫も仲間も他人夫婦も。ありとあらゆる人とまぐわうエマ。みたいなシーン、あったもんな。

昭:けれど。結局蓋を空けてみれば。至極分かりやすいエマの目的。強制的な「皆で幸せにくらしましたとさ」。やってられんわ。

 

和:エマが持つ魅力に見せられて、浮かれて行動した。けれど結局自分は持ち駒でしかなった。エマがどうしても手に入れたいモノ、そして手に入れた後逃げ出せなくなる環境を整えるための駒。って人を何だと思っているんだ。

昭:自分が何かを心底欲しいと思っても、誰かを利用するようなやり方は嫌いだ。その人にだって心があるんやからな。だから俺はエマを好きになれない。

和:予告編が随分扇情的やったからなあ~。ここまで気持ちの折り合いが付けられないとは思わなかったね。

 

昭:美しくてミステリアス。中性的で何だかエロい。全身を使って表現する妖艶なエマ。何を考えているのか分からない。けれどその内情は…愛する者を必ず手放さない。何が何でも捕まえに行く。そんな捕食者エマを…俺はどうしても好きになれなかった。

和:大丈夫。エマ側もYOUは眼中にないから。

昭:ナヌ。

和:「あなたが好まない美しきメンヘラ女子もまた、あなたを好まないのだ」。何様のつもりだ。身の程を知らんといかんよ。棚ぼた式にエロが降りかかる事なんてYOUにはこれからもずっと…。

昭:おいおいおい。何だなんだ。ちょっと…ちょっと!気づけばストゼロめっちゃ空いてない?足元にいくつも空き缶が!マスター!水!

和:水は頭が濁るから…。正気では居れないのなら…なりふり構わず何かを手に入れたいのならば…これぐらい狂った世界がお似合いなんですよ。

昭:ああもう。だから和とこういう話するのしんどいんやんか。ああ〜飲むな飲むな〜。

映画部活動報告「フェアウェル」

「フェアウェル」観ました。
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『親族総出でついた、優しい嘘』

 

アメリカ。NYで一人暮らしのビリー・ワン(オークワフィナ)。物書きを目指すけれど一向に芽が出ず。生活はぎりぎり。

ある日。両親から、日本に住むいとこのハオハオが中国長春で結婚式を挙げると知らされたビリー。「まだ付き合ったばかりじゃなかった?デキちゃったの?」そうはやし立てるけれど。両親の表情は暗く、しかもビリーは結婚式に参加するなと釘を刺される。

理解できずに父親を問い詰めると…中国長春に住む祖母のナイナイが肺癌で余命3か月である事と、直ぐに感情を顔に出してしまうビリーは中国に行くべきではないと告げられた。

暫くして。ハオハオの結婚式の為、25年ぶりに長春に親族が集まった。そこに強引に合流したビリー。

「癌そのものではなく、癌に侵されている恐怖が人を殺してしまう」。ナイナイに告知しないように接する親族と、「真実を告げるべきだ」。と対抗するビリー。

西洋と東洋の思想の違い。家族の在り方や死生観をぶつけ合う彼らは…。

 

「監督のルル・ワンの実体験に基づいた話」

 

おそらくこの作品の感想はやや厳しい内容になる。けれど、当方は…この作品を決して否定はしていません。

ルル・ワン監督が実際に体験した事が基盤となったこの作品。主人公のビリー=ルル・ワン監督なのだろうと思いますし、彼女がこういった場面で見たものやそこで受けた感情が率直に描かれた内容なのだと感じた当方。

物語は得てして誰かの視点で成り立つ。なのでこれはこれで「分からなくはない」のですが。ならば当方もまた、正直に感想を書いてみたいと思います。

 

人が生を終える。身内以外のその時に立ちあった事は何度もありました。

今はそういう現場には居ないので、古い話になりますが。「普段関わっていない家族ほど大きく悲観する」という印象を持った事は複数あります。

亡くなった方に常に寄り添っていた人。その人は大抵、よく頑張ったなと静かに故人を撫でさすっている。

 

中国とアメリカ。距離的に会う事がままならない祖母と孫娘。互いに好意的でしょっちゅう連絡を取り合って。その仲の良さを当方は何も否定しない。否定しないから…だから貴方も否定はしてはいけない。大好きな祖母が住む国の考え方。彼らの死生観を。

 

アメリカではこんなの違法よ」「どうして自分の体の状態を正しく教えてあげないの」。

体調不良を自覚し受診した病院で。「肺癌の末期で治療は難しく予後3か月」けれどそう医師から告知されたのはナイナイの妹、リトルナイナイ。

本人には「良性の腫瘍だって」と告げ。親族に連絡し、何とか自然に一同がナイナイに会えるようにとハオハオの結婚式が急遽決定した(ハオハオと彼女のアイコはぎこちないながらもちゃんと恋人同士。良かった)。

 

「ナイナイに本当の事を言うのは誰も喜ばない」

 

「中国ではこうだ」。「東洋ってやつの死生観はな」。そういう事情は流石に詳しくないので。ナイナイの息子(ビリーの父親と叔父)がやや感傷的にそう言うのも「そうですか」と無機質に聞き流してしまった当方。

 

25年ぶりに集まった連中が。次々勝手な事を言う。「癌だと告知しないのが本人の為だ」「これが中国のやり方だ」「そんなのアメリカでは人権侵害だ」。

 

彼らを見て呟く当方。

「ナイナイは一体どうしたいんだ」。

 

当方が唯一聞くに値すると思った親族。ナイナイのそばにずっと居たナイナイの妹、リトルナイナイ。そして同居している男性、ミスター・リー。

ナイナイと生活を共にして。そしてこれからも彼らがナイナイに寄り添う。リトルナイナイの語った言葉。「ナイナイならこうすると思うわ。何故なら彼女は~」。

 

これが彼女にとってベストアンサーだと主張し合うのは不毛。そもそも自分以外の人生においてベストなどという定義はない。それを決めるのは当人だけ。

 

「子供の頃。中国を出て、両親しか知り合いの居ないアメリカで過ごすのはとても不安だった」「その間に住んでいた家も無くなっていた」「離れている間にナイナイも居なくなってしまう。もうそんなのは嫌。中国でナイナイと一緒に暮らす」。

終盤。そういって親に泣きついていたビリーに「それは…貴方が今、アメリカでの生活が上手くいっていないから」。「それはナイナイの余生の為ではなくて、あなたの逃げでしょう」。ひどく厳しい言葉が浮かんだ当方。

当方は誰の親でもありませんが。未来ある自身の子や孫が、夢や希望を捨てて、朽ちていく自分に寄り添う事を望む親は…いないのではないか。

 

これはあくまでも推測ですが。肺癌の末期の患者がいつまでも「これは良性の腫瘍のせいで、風邪が長引いているようなもんだ」とは思わないのではないか。

どれほど家族や医療者が嘘をついたとしても、どこかで本人は分かっているのではないか。

嘘をつき、そして騙されているフリをする。それが優しさである…正直な所、当方もそうは思いたくないけれど。

 

不器用で言葉足らず。そんないとこ、ハオハオが終盤ひたすら泣き続けた結婚披露宴。一生に一度しかない結婚式に付加価値を付けられて。それでも何も言わずにきちんと宴を上げた。彼の優しさよ。

 

「あくまでもこれはハオハオとアイコの結婚式で。だから25年ぶりに家族が揃った。」

結局親族でつきとおした嘘。あくまで推測ですが…ナイナイも含めて。

 

終盤の別れのシーン。

田舎のおばあちゃん。幼かった頃の、家族で帰省した最終日。出発する車を泣きながら追ってきたおばあちゃんを思い出し、一気に涙腺崩壊した当方。

 

ところで。最後の最後のシーンに「そうか…」と思いながらも当方が思ったこと。

 

この作品が生まれる実体験は少なくとも6年以上前。中国の医療現場の実体は知りませんが…その時ルル・ワン監督が感じた死生観は今でも中国で続いているのかは分からない。

日本も同じようにかつては『告知』という決定権が家族に委ねられていたケースは往々にしてあった。けれど今は…本人にダイレクトに告知するケースが多い。

昨今挙げられているように「もし自分に大病が見つかったらどうしたいか」「どういう最後を迎えたいか」という話は時々…大げさでなくていいからしておいた方がいいのだと思う。そうすれば、こういった時の感情の揺さぶりは少し緩和される。もっと有意義に時間が使える…かもしれない。

その人にとってより良い人生は、本人にしか判断出来ない。

本人の体調が悪い時に周りが動揺してかき乱すのは、おそらく気づかれるし負担になる。それこそ「誰も喜ばない」。

 

若かったビリー=ルル・ワン監督が実際に感じた事。けれどこれは歳を重ね、人間関係が変化し大切な人の存在や家族形態の変化を経ると、全く違う側面も見えてくるだろう。そう思う当方。

かつて否定した考えが全く違って響いてくる。けれどこれはどれも悪い事ではない。

繰り返すがベストアンサーはない。

 

悪いものは気をためこんで「はあっ!」と吹き飛ばす。

随分モダモダしたけれど。誰もがナイナイを想って集まって、一緒に嘘をつけたのならば。茶番では無くそれは確かに優しい嘘だった。

そして夢を抱いた場所にまた散り散りに戻って、各々の場所で咲けばいい。心はどうやら通じているようだと確認できた。それは嘘じゃない。

 

フェアウェル=さようなら。