ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

2018年 映画部ワタナベアカデミー賞

昭:ようこそ。『智の部屋(サロン)』へ。

和:気持ち悪う。何その出だし。

昭:2018年も後わずか。たった二人の映画部が現実世界でほぼ消滅しかかっている事態の中。何とか明るく今年の活動を振り返ってみたい。そう思って、初めて当方の心に住む男女キャラクター『昭(あきら)と和(かず)』がプレゼンターとして起用されました!

和:平成が終わると言われる昨今に我々昭和キャラクターを召喚て。お蔭で暇が無くなっておせちの黒豆担当を妹に明け渡すしか無くなったんやけれど。

昭:まあまあ。ぶつぶつ言わんと。サクサク進めていきますよ。因みに前もってお断りしますが、この選考内容はあくまで個人の好みで判断しており、高尚だとか世間の評価とか技術がどうとか。そういうのは一切考慮されていません。…年末映画好きあるある『年間ベストランキング』に対し「順番なんて付けられないよ!」という優柔不断振りを見せながら、ジャンル別ベストを叩き出す(時に複数出ます)という『アカデミー賞方式』を採用しています。

 

和:今年の劇場鑑賞作品数は104本。内旧作は5本(午前十時の映画祭2本)でした。

昭:一応100本は越えたのか。今年は地震とか台風とか家族の手術とかあって、特に後半以降出足が延びなかったんやけれど。

和:まあその話はおいおいやれたら。じゃあ、何処からやりますか?

 

『ファミリー映画部門』

万引き家族 デットプール2
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昭:『万引き家族』は無視出来ないな、やっぱり。あの寄せ集めのスイミー一家が醸し出す危なっかしい温かさと、そのハリボテが崩れていく様。

和:『デットプール2』。前作を越えてくる続編ってやっぱりなかなか無いから。前作が実は恋愛映画で、今回は家族映画だった。そう思ったら今の家族映画って世界各国「血の繋がりより精神的な繋がりを家族とする」みたいな流れがあるのかもね。

 

『カーチェイス部門』
 レディプレイヤー1  タクシー運転手
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昭:『レディー・プレイヤー1』は冒頭オープニングからワクワクしたけれど。やっぱりあのカーチェイスシーンの高揚感。

和:これはクリアできへんやろう~と唸るしかなった。だからこそああいうクリアの仕方はずるいと思ったな。正統派で突破してくれよと。

昭:『タクシー運転手』ラスト広州から脱出する時のタクシー集団‼

和:脳内で中島みゆきの音楽が流れた瞬間やったね。

昭:え?

 

『オープニング部門』

デッドプール2 レディー・プレイヤー1

昭:あ。『レディ・プレイヤー1』はさっき言っちゃった。

和:(無視)『デッドプール2』最大の悲劇から始まるという…デップ―の元々のキャラクターが陽気やから、深刻な事態なのにどこか明るくて。あの不謹慎なのに憎めない感じはデッドプールしか出せないと思ったな。

 

『エンディング部門』

君の名前で僕をよんで
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和:お話自体には言いたい事も一杯あったんですがね。兎に角エンディングが最高。ティモシー・シャラメが暖炉の前でひたすら泣いている画なんですが…ぞくぞくしてまうの!!

昭:それって…。

 

『胸糞部門』

デトロイト
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昭:部門名で誤解を招きそうやけれど。この中の「白人警官に依る、40分に渡る拷問シーン」ホンマに嫌やった。

和:けれど。史実に沿っている事件やし「何が彼をそうさせたのか」を考えざるを得ない。そして黒人たちは本当に完全な被害者なのか。デトロイトという町の治安の悪さなんかもあったやろうし…。

 

韓国映画部門』

V.I.P.修羅の獣たち
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昭:今年公開された韓国映画は『タクシー運転手』や『1987、ある闘いの真実』に描かれた、光州事件や韓国民主化運動を題材にした作品。『悪女/AKUJO』や『the Witch 魔女』の女性アサシン覚醒モノ(しかも最早笑うしかないアクション)。その他「また新たな扉が開かれたよ…」というジャンル飽和状態。「最早日本にノワール作品など存在しない」「韓国映画に持って行かれている」という当映画部共通認識の中で。何故この作品がベストなんですか?

和:オイタが過ぎた北のボンボンに最終食らわす制裁の仕方が堪らんかったから。

昭:それアンタの性癖なだけやんかあああ。

 

『アニメ映画部門』

若おかみは小学生!
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昭:完全に舐めてた。観るまでは。

和:絵柄も正直苦手な感じやったしね。でも始まってしまえば全然気にならない。

昭:悪者が居ない世界。そして何より主人公おっこちゃんが滅茶滅茶いい子なんよな。

和:愛されて大切に育てられた子。でもふんわり優しいだけの話じゃない。不意に締め付けてくる喪失感とか、別れとか。でもどうやって前を向くか、みたいな事を無理なく描いていた。最後の辺りなんてずっと泣いていたし。あれは子供に連れられて行ったら親の方が号泣しちゃうよ。

 

『変態映画部門』

恐怖の報酬
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昭:一体誰があんな嵐の中の吊り橋を見て「行ける!」って判断したんだ。何故「せめて雨がやんでから」と提案しなかったんだ。

和:40年前やから、当然CG技術だって無かったやろうし。たとえセットとは言え、あんなの命がけ。命がけで映画を撮るなんて狂気の沙汰。絶対けが人出てるよなああれ。

昭:「どんなに苦しい仕事だって、ダイナマイトを運ぶ仕事よりはましだ。」っていう感想を見て大きく頷いたよ。せめてさあ、もう一回り小さな車無かったん?

和:緊張感で体が強ばって…見終わったら全身の筋肉がおかしくなってた。劇場の一体感も半端なかったよ。

 

『助演俳優部門』
男性 サム・ロックウェル/ディクソン スリー・ビルボード

女性 柳ゆり菜/加奈 純平、考え直せ
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昭:『スリー、ビルボード』の警察官ディクソン。始めは凄い嫌な奴で。差別主義者で態度も横柄。けれど彼もまた人から偏見の目で見られている。全然好きになれないキャラクターやと思っていたのに。途中の事件からどんどん変わっていって。「人を初めから決めつけてはいけない」件の彼の態度は何処から来ていたのか。それがほどかれていったら。不器用で、最終的には憎めない、魅力的なキャラクターになっていたな。

和:メインの女性キャラは彼女なんやから、助演、とするべきか分からなかったけれど。柳ゆり菜は今年注目せざるを得なくなった女優やった。お話自体は「う~ん」と思う所もあったけれど。彼女が演じた『加奈』というキャラクターが余りにもイキイキしていて、加奈そのものにしか見えなかった。バッサリ脱いで、エロも厭わない。あのレイプシーンなんて息を呑む迫力だったけれど、だからと言って脱いだから彼女が凄かった訳じゃ無い。加奈の表情で〆たラスト。あの顔は…今年の邦画ベストショットやったかもしれない。それくらい良かった。

 

『主演俳優部門』

男性 ソン・ガンホ/マンソプ タクシー運転手

女性 フランシス・マクドーマンド/ミルドレッド スリー・ビルボード

 安藤サクラ/柴田信代 万引き家族


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昭:マンソプはソウルのタクシー運転手で。娘と二人暮らしのシングルファーザー。どうしても娘に靴を買ってあげたくて、もぎ取ってきた仕事から『光州事件』を知ってしまう。

和:マンソプが初めから物わかりの良い奴では無い所が良かった。なんだこれと逃げ出そうとして、娘の元に帰りたいと泣いて。けれど同業者を初めとする広州の人達を見てしまったら捨て置けなくて。あのうどん屋からのUターン以降、号泣。

昭:『スリー・ビルボード』は本当に人間の多面性をどこまでも追及してくる作品で。正に「罪を憎んで人を憎まず」ミルドレッドの怒りは当然だけれど、その怒りの方向性は苦しいけれど違う。

和:でもそれ、分かってるんよな。だからビル署長に怒りをぶつけても彼が病気で倒れれば取り乱すし。ずっともがいている。ただ闇雲に怒っている人、では済ませなかった。

昭:また、良い終わり方をしたよね。あの作品は。

和:安藤サクラは化け物。そんなの『愛のむきだし』から分かっていました。

昭:こういうお母さん、苦手やなあ~って思っていたけれどね。終盤の取調室でのあの表情。あれは…あかん。完全に打ちのめされた。

 

『ワタナベアカデミー大賞』

該当作品なし

昭:うわあああああ。

和:ここ何年かは出たんですがね。今年は該当作品なし。こればっかりは仕方ないです。

昭:どういう基準なの、これ。

和:大賞って、もう観ている時から「これはベストだ。年間ベスト作品だ。」って実感するねん。もうこれはホンマに直感でしかない。それが今年は走らなかった。

 

『佳作部門』(公開順)

ガーディアンズ/スリー・ビルボード/ピンカートンに会いに行く/アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル/心と体と/ブリグズビー・ベア/志乃ちゃんは自分の名前が言えない


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昭:好きな作品は多かった。まず「ロシアを舐めたらあかんで!」という『ガーディアンズ』上半身が熊!という愛すべきビジュアルとか。展開も早い早い。

和:『スリー・ビルボード』が米アカデミー賞を取れなかった時。昼休憩中やったけれど、早退したくなったよ。本当に好きな作品。

昭:『ピンカートンに会いに行く』ああいうもがいて、恰好悪くて、っていう作品は堪らんよな。

和:『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』は作品自体がトーニャハーディングそのもの。無様で恰好悪くて。でもしたたかでがむしゃら。当時をおぼろげに知っている者からしたら「あれってこういう事やったんか」の答え合わせ。テンポも良かった。

昭:『心と体と』不器用の一言では済まされない女性と。もう恋なんて何度も繰り返してきたはずの男性の全然上手くいかないモダモダ感。なのに夢の中での彼らは美しいつがいの鹿。兎に角全編美しい。

和:『ブリグズビー・ベア』誘拐・監禁。幾らでも湿っぽく出来る題材なのにああいう持って行き方が出来るなんて。誰も悪い人なんていないし、ブリグズビー・ベアを馬鹿にしたりしない。最高なのに泣けて仕方なかった。

昭:『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』志乃の歌声。打ち解け合って、奇跡みたいな毎日やったのに。あっという間に崩壊してしまう悲しさ。どうしても変化を受け入れられない。けれど現実は確かにそうだなと。「あの素晴らしい愛をもう一度」でも、どこまでも心は通わない。切ない。

 

ラズベリー部門』

キングスマン ゴールデン・サークル
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昭:2018年の映画初め作品でした。

和:二人で失恋レストランに行ったんですよ。(当ブログ談)本当に。本当に辛かった。

昭:前作が好きすぎたから。だからおのずとハードルが上がり過ぎていた。その結果、ハードルを飛ぶ事無くなぎ倒しての暴走に我慢が出来なかった。

和:お願い。お願いですからこれ以上続編は作らないでください。

 

昭:いやあ~。お疲れ様でした。

和:一つずつコメントしていくのは初めてだったんで。随分長くなりましたね。お疲れ様でした。

昭:『カメラを止めるな!』案件とか。『ちはやふる 結び』とかも喋りたかったね。

和:話題になり過ぎて…同じような事しか話せない気がしたんでスルーしました。

昭:今年はどうしても下半期の活動が鈍ってしまった。結果振り返ったら上半期の作品が多く選出された気がする。

和:これまで経験した事が無かったレベルの地震を体験して実家が壊れたり。台風が来たり。家族が入院したり。そのせいで気持ちが落ちてしまったし、実際映画館に行く事が出来なかった(交通の関係で)のも大きかったかな。

昭:映画に元気づけられたり、逆に引きずったり。映画って喜怒哀楽が発生するし、それが己の精神状態にとって良い感じのカンフル剤になる、それが映画を好きな理由の一つでもあるんやけれど。けれど映画館に向かう気力も沸かない。それどころか布団から出る気もしない。そんな日もあった。

和:それでもやっぱりふっと映画が観たくなって。結局観たら楽しくて。別にそれでお金を貰っている訳じゃ無いし、無理矢理映画を観る必要なんて無い。なのに…観たくなるんよな。

昭:この映画感想文も。「どんどん長くなっているな~」「メリハリが無いな~」と思う事ばっかり。「スパンと短く要点を!」と思うのに。常に抱える問題点。

和:ただ。一つだけ褒めるとしたら『観た映画全ての感想文を書く(飛ばさない)』『観た順番を入れ替えない』のルールは今年も無事守れた。それはよく頑張ったなと。

 

和:今年の映画部長との年間総括で。「もし映画を一つ撮れたら、どんな作品にしたいですか?」というお題を出そうとしていましたが。一体何て言うつもりだったんですか?

昭:『注文の多い料理店』みたいな話。薄暗い部屋でドレスを着た女性がテーブルについていて。その正面画でカメラ固定。クラッシック音楽が流れる中、出て来る食事を彼女が淡々と食べる、ずっとそれが続くの。

和:それ…寝てまうやつちゃうん。

昭:段々照明が落とされていくから、彼女が一体何を食べているのかがよく見えない。でも新しく料理が出される度に彼女の状態も変わっていくの。あれ?眼帯してる。何か赤ワイン濃いな~とか。食事を食べさせて貰ってる?手は何処に行った?とか。

和:怖。アンタ散々私に言うけれど。アンタこそ変態やないの。

昭:仕方無いよな~だって俺たち、得意分野が『変態映画部門』やもん。因みにこの女性役はダコダ・ファニングでお願いします。

和:『ブリムストーン』から着想を得てるやないの‼
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昭:因みに部屋はここ。

和:『血の部屋(サロン)!』

 

…長かった。長い長い文章にお付き合い頂きましてありがとうございました。

2018年もいつの間にやら最終日。確かに当方にとっても『災』であった一年でした。

けれど。大きな目で見たら、大病をした訳でも家や家族を無くした訳でも無い。何も失っていない。気落ちする事はあっても基本的には元気じゃないか。そう振り返る大晦日です。

 

最後に。このような個人の備忘録映画感想文に、少しでもお付き合い頂いた方。

貴重なお時間頂きましてありがとうございました。

 

来年も、(当方も含め)楽しい映画ライフになりますように。

映画部活動報告「斬、」

「斬、」観ました。
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塚本晋也監督作品。池松壮亮蒼井優出演の時代劇。

 

江戸時代末期。のどかな片田舎の農村で村人たちの手伝いをしながらのんびり暮らしていた、浪人・都築杢之進(池松壮亮)。侍に憧れて。都築を慕い、日々木刀で剣の稽古を付けてもらう隣人宅の息子市助(前田隆成)。「うちは百姓なのに。」そんな弟にヤキモキしながらも、都築に想いを寄せ、付きまとう市助の姉、ゆう(蒼井優

ある日。剣の達人という澤村(塚本晋也)という男が都築を訪ねてくる。

「お国の為。京都の動乱に参加しないか。」

都築の腕を見込んで、一緒に徒党を組まないかという誘い。浪人と言えど武士の端くれ。承諾し、いざ出発直前。農村に無頓者(中村達也)達が流れてきた。

 

「人を斬るとはどういう事か。」「刀を持っていたとて、果たして人を斬る事が出来るのか。」

 

80分の作品。コンパクトでありながら、非常に重苦しい作品。

 

冒頭。都築と市助の稽古のシーンから幕開け。その「時代劇で手持ちカメラ?」という動きまくりの画に生々しさを感じた当方。そしてこの作品を通じて予感は実感となった。と言うのも。

「時代劇での殺陣って、基本的に定点カメラかお決まりの角度から、型に嵌りながらキメキメに撮るイメージがある。けれどこの作品の殺陣は早いし、カッコよさも無い。ブレブレやし、時に画面は暗いし正直どうなったのかよく分からない。けれど。実際、人が武器(ここでは刀)を持って相手に立ち向かう時、恰好なんて付けている余裕なんて無いし、剣術の型もあるんやろうけれど…そこに収まらないなりふり構わなさだってあるはず。というリアル。」

 

ド田舎の農村で。「国の有事のお直しに向かう為、腕の立つ侍を集めている。」と現れる澤村。まさしく『七人の侍』。(あれは村の用心棒でしたが)しかも静の印象を持つ剣豪という都築や、百姓出身でメンバーにスカウトされる市助なんて。もうそのままなぞっているじゃないか。となると村の娘ゆうななんて出発の前の晩、都築と結ばれる…とかそういう話なのかと思いましたが。

 

「まさかのそれ以前の話。」

 

澤村に誘われて。侍であるならば当然と快諾しながらも。覚悟が付かない都築。日々剣の鍛錬は怠らなかった。遂にその腕が試される時が来た。なのに。

一人で何度も剣を抜き、納め。そして剣を振って。なのに神経が昂る。集中出来ない。

そして出発の日。いざ行かん、としたのもつかの間、熱発し倒れる都築。

出発を翌日に倒し、臥せる都築。しかし。たったその一日の間に、状況は一変してしまう。

 

勿体ぶっていたらいつまでも話が進みませんので。あっさり核心に進みますが。

 

「俺は人を斬れない」

 

侍という肩書きを持ち。刀を持ち。剣の訓練を積み。鍛錬を怠らず。所謂武士道をしっかり学んできた(と思われる)。そんな都築であるけれど。その刀を人には向けられない。

穏やかな生活。そこで百姓の息子相手に木刀で練習する程度なら出来る。しかし、実際の果し合いの現場に出会っても見ていられない。と言うのも。

 

彼には「話せばわかる。」という考えが根底にあるから。THE平和主義者。

 

京都に出発する寸前、農村に現れた無頓者(と言うか野武士ってやつですよね)。村の皆は彼らの風貌や柄の悪さや悪い噂に怯え、都築に「やっつけて」と泣きつく。しかし都築は一人彼等の元に向かい。そして最終的には酒を酌み交わし、コミュニケーションを取る事に成功する。「彼らは決して悪い人ではありませんよ。」

 

けれど。村人の無頓者に対する恐怖は拭えず。都築が臥せっている間に勃発してしまった小競り合いから結果、最悪の殺戮へ発展。そして「やられたらやり返せ」のどぶ板合戦が始まってしまう。

 

「お前は侍じゃないか。」「その刀は何のためにある。」「京都に人を殺しに行くつもりだったんでしょう?」「貴方が敵討ちをしてください。」「殺して。」「殺せ。」「剣を抜け。」「戦え。」「立ち向かえ。」

 

俺は侍だけれど、人を殺める事は出来ない。そう気づいてしまった都築に、どんどん追い打ちを掛けていく澤村とゆう。

 

またねえ~。ゆうが…『近年の蒼井優お得意のタイプ』なんですわ。つまりは情緒不安定で危なっかしくて、直ぐキイキイ金切り声張り上げて、変にエロくて、人の触れて欲しくない所にぐんぐん踏み込んで騒ぐキャラクター。

そりゃあ、弟があんな目に合ったらおかしくもなりますがね。もうその範疇が無制限過ぎる。

「危ないから付いてくるな!」山の中でも、暗くなっても。ずっと髪を振り乱しながら後ろを付いてくる。絶対にごまかされない。この目で見届けるんだという執念。

(もう…メンヘラ女子が大っ嫌いな当方にとって『思わず抜けない刀で切りかかりたくなる』相手。)

それで案の定危ない目に合ってりゃ、世話無いですよ。(心の声)

 

話がズレました。

兎に角、そんな「俺は人を斬れない。だからもう放っておいてくれ。」となっていく都築をどこまでも追いかけてくる澤村とゆう。

「お前は侍だろう。人斬りだろう。斬れないというならどこまでも追いかけてやる。それが嫌なら俺を斬れ。」

 

(現代に生きる当方の目からしたら『転職』の二文字しかありませんが。)

 

侍という肩書きの重さ。刀を持つ立場。刀の意味。人を斬る為にある武器を持って。一体俺は何の為なら人を斬れる?

何も思わず刀を人に向けられたら。けれど俺には出来ない。出来ないと言ってるのに。

どこまでもどこまでも山の中。出口なんかない。疲れ果てているのに。なのにいつまでも俺を追ってくる。

 

当方の勝手な解釈ですが。都築の心の中で葛藤する想い。澤村とゆうは実体を伴うけれど都築の矛盾する想いの権化でもある。だから彼等は都築を諦めない。しつこく絡みついてくる。

 

「となると。このラストのその先は。」

 

あの暗い森をどう解釈するのか。

まだ答えは出ないです。

映画部活動報告「メアリーの総て」

「メアリーの総て」観ました。
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1818年に発表された英国ゴシック文学『フランケンシュタイン』。

200年を経てなお愛される、哀しき怪物を産み出したのは18歳の女性だった。

 

フランケンシュタイン』の作者、メアリー・シェリー。彼女の人生の内、少女時代から激動の恋、別れ。そして名作が産まれるまで。

メアリー役をエル・ファニング。『少女は自転車にのって』のハイファ・アル=マンスール監督が描いた。

 

「何だかんだ言って、当方はエル・ファニングが好きなんですわ。」

 

フランケンシュタインの原作…何となく知ってはいるけれど未読。ましてや作者が女性、しかも18歳の若さ。この作品を観るまで全く知りませんでした。

兎に角エル・ファニングが観たい。定期的に彼女を愛でて血中濃度を一定にしておきたい。(我ながら気持ち悪い言い回し)そう思って、ふらっと観に行った塩梅でしたが。

 

「ううう~ん。流れをなぞり過ぎてのっぺりとした作品になっちゃってるなあ~。」

 

サウジアラビア出身のハイファ監督。前作の『少女は自転車にのって』はサウジアラビア女性の立場や苦悩、そして希望の持てるラストと非常に考えさせられ唸った、印象的な作品でした。

 

映画作品を語るとき、余り監督の性別「男だから」「女だから」は考えたくないと思っているふしが当方にはあるのですが…それでもやっぱりこの見解を持たざるを得ない。

 

「メアリー・シェリーの人生を女性視点(一人称)で描こうとした作品。」

 

けれど。ハイファ監督らしさ、みたいなモノとこの題材がバシッと嵌まらなかった…そんな印象。

 

この作品を観るまでメアリー・シェリーという女性を知らなかった当方が偉そうに言うのはあれですが…メアリーが幾多の試練に耐えに耐え、男なんてあてにならないという決断に至り。そしてこの作品は産まれた。という浪花節と、ハイファ監督が持つ、困難な状態にある女性が打ちのめされながらも希望を探すという作風が…似ている様で微妙に被らない。

 

「第三者視点ではどう見えるんだ、これは。」訝しく呟く当方。

 

メアリー。どちらも作家の両親の元に産まれ。しかし母親は産後の調子が良くなく他界。そもそも父親には家族があり、両親は不倫状態であった。しかし私生児にしない様、メアリーは父親の家庭に組み込まれた。

本屋を営む実家。父親と継母妹弟と貧しいながらも暮らす日々。家族の中で浮いているメアリーの憩いの場は、母親が眠る墓地。

そこで一人、怪奇小説を読み耽り、文章をしたためていた少女時代。

義母との折り合いが悪く、父親の知り合いの所で過ごした日々。そこで出会った詩人のパーシー・シェリー。

又も家族の元に戻った後、再会したパーシーとの燃え上がる恋。けれど彼は妻帯者で。

それでも互いへの気持ちが止められなかった二人は駆け落ち。そして授かった子供。

幸せな日々もつかの間。失ってしまった命。

失意と絶望の中。メアリーの中で息ずいていった物語ー。

 

拙い文章をつらつら書きましたが。まあこの通りの流れを121分に渡って追っていくんですよ。緩急無く淡々と。

 

「可憐で聡明なメアリーは…」みたいな文言、トレイラーやチラシでも散々観ましたが…当方は『早熟な女の子』という印象。(そりゃあエル・ファニングなんやから可憐ではありますよ)

 

19世紀というご時勢とはいえ。16、17の女の子が妻帯者と恋に落ちて(またパーシーも若い!)駆け落ち。妊娠、出産、死別を経て18歳て。人生早回し過ぎる。

 

大体、本屋の実家。義母の事イケずなおばちゃん扱いしてましたがね。そりゃあ自分の産んだ子供よりずっと美しい娘が居て、しかもそいつは自分には全く懐かなくて、屁理屈ばっかり言って、挙句店番も手伝いもせずに外をほっつき回っていたら…そりゃあ嫌味も言いたくなりますよ。働かざる者食うべからずやのに。衣食住を確保してやっているだけでも上等やないかと。で案の定、夫の弟子と駆け落ちって。

 

また、メアリーと人生を歩んで行く事になるパーシーのあかんたれ感。

人と人が恋に落ちる。それはどうしようも無い事なんやろうけれど…既婚者である事を隠し、そしてバレたらバレたで開き直り。周りから否定されれば燃え上がって駆け落ち。結果家族から絶縁された。そうすると一転、借金まみれ。よく分からない事で一山当ててはまた転落。借金取りに追われ、落ちぶれて酒をあおって。大体、二人の子供が死んだのも豪雨の中借金取りから逃げたからですからね。なにそれ。

 

「駄目駄目!何でメアリーこの男が好きなん?」絶叫するおばちゃん当方。「はよ別れてまい!こんな男とずるずる居ったら腐ってまうで!」

 

本当にねえ~。パーシー&メアリーカップル、全然感情移入出来ないんですよ。

 

駆け落ちする時に付いてきた、メアリーの妹のつてで詩人のバイロン卿の屋敷に転がり込む二人。またこのバイロン卿という人物が気持ち悪い。

バイセクシャルで手癖が悪い。そしてエキセントリック。そういう人物像なんでしょうけれど。何だか悪意すら感じる、生理的に無理な気持ち悪さ。

その屋敷で行われた『ディオダディ荘の怪奇談義』。後に『フランケンシュタイン』『吸血鬼』を産み出すきっかけとなったそれ。そういうのをしっかり深めたら良いのに。そこもフラットに流れてしまう。

 

バイロン卿の屋敷から出て。怒涛の創作意欲に憑かれたメアリーが一気に執筆した『フランケンシュタイン』。なのに。「女性で、しかも若い女性が書く作風じゃない。」「これは貴方が書いたんですか?(パーシーじゃなくて?)。」と門前払いを食らい、憤るメアリー。結局匿名扱いでの出版。

「これこそハイファ監督が得意とする視点じゃないか!」と思うのに…これもまた何となく「でも世に出したらヒットしたから。」「第二版からはメアリーの名前が付きました。」でおざなりに収束。おいおいおい。置いてきぼりを食らってぽかんとする当方。

 

そしてパーシー。最終一体何が彼をそうさせたのかさっぱり分からないけれど、一言で要約すると「今までごめんね」で済ませ。そしてそれを受け入れるメアリー。

分からん。恋愛の機微が理解出来ない当方にはこの二人の神経は全く分からん。(後半、メアリーのパーシーに対する感情は…史実と違っても、盛ってでも何かしら描くべきやったと思う当方)

 

「ああもう全然しっくりしない!不完全燃焼過ぎる!」

一人の女性、しかも実在した人物の半生を描くにあたって。チョイスするエピソード満載だったんでしょうけれど。結局それらを強弱付けずに並べてしまっては…最早フラストレーションすら感じてしまう。

 

「ただ。エル・ファニング血中濃度を上げるという目的では達成したと言える。何しろ彼女出ずっぱりやからな。」

 

エル・ファニングの美しさ。美術や衣装、絵面の綺麗さは 確かに目の保養になった。という事は。

「これはあれですわ。『オサレなバーで無音で流れていたら気持ち良い映像作品。」

 

ところで。最後テロップで語られた、メアリーに纏わる男性陣の余りの短命さに「‼」と震えた当方。

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映画部活動報告「来る」

「来る」観ました。

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澤村伊智原作小説「ぼぎわんが、来る」の映画化。中島哲也監督作品。

 

「もうすぐアレが来んねん。でも秀樹の所にも来るで。だってアンタ、嘘つきやもん。」

 

幼い頃の記憶。一緒にお山で遊んでいた女の子。ある日突然居なくなった。『アレ』に連れていかれたあの子。

親からの虐待だ。あの子は殺されたんだ。大人たちは好き勝手な事を言ったけれど。結局誰も、真相もあの子も見つけることは出来なかった。

何故かあの子との思い出は断片的で禍々しくて…なのにあの子の名前も思出せない。なのに。何故かこれだけははっきり覚えている。

「秀樹の所にも来るで。だってアンタ、嘘つきやもん。」

 

田原秀樹(妻夫木聡)、やり手営業マン。出入りのスーパー店員の香奈(黒木華)に一目ぼれ。猛アタックの後結婚。娘知沙の誕生に合わせマンションも購入。日々イクメンぶりを描いたブログを更新。幸せ一杯の生活を演じていた。…演じていた。

薄っぺらい幸せを公開する裏で。乖離していく夫婦の気持ち。確かに妻子を愛する気持ちはあるものの、子育てに対し具体的な協力など一切無い秀樹に疲労し愛想を尽かしていく香奈。

 

そして。『アレ』がやってきた。

 

オカルトライター、野崎和浩(岡田准一)。知り合いの民族学者、津田大吾(青木崇高)の親友田原が怪奇現象に悩まされているという相談を受け、元彼女でキャバクラ嬢霊媒師の比嘉真琴(小松奈々)を紹介する。メンヘラで言葉足らずな真琴に始めこそ憤ていた田原。けれど「どうしても気になる」と田原家に押しかける真琴。付いて行く野崎。そこで二人が見たのは、想像以上の相手であった。

 

『アレ』に依って次第に崩壊していく田原家。その威力で死傷者が続出する事体となって。

遂に真琴の姉、日本最強の霊媒師琴子(松たか子)が立ち上がった。そして琴子の呼びかけで日本中の霊媒師が田原家に集結。

大規模『祓いの儀式』。それでアレを止める事は出来るのか_。

 

「入口と出口の印象が随分違う作品。」当方の鑑賞後第一印象。

 

前半の田原家エピソードと、後半のお祓いエンターテイメント。

 

まあ…結構公開から時間も経っていますので。ぽつりとバラしてしましますが。これ、結局『アレ』って一体何なのか?という明確な回答がある作品じゃないんですね。

なので。几帳面に謎解きをしてすっきりさせたい派の人には全然腑に落ちない作品だろうと思う当方。「何この最後のどんちゃん騒ぎ。」

 

当方ですか?…まあ当方も基本的にはすっきりさせたい派なんですがね。正直、去年観た韓国映画『哭声/コクソン』のお祓い合戦の面白さを思い起こさせたあのシーン、寧ろ「韓国のあの人、それっぽい人が居るのを確認。後は國村隼を召喚せよ!」なんて思っていた次第でしたし。…嫌いじゃ無かったです。

 

ただ。確かにお話の終わらせ方としてはすっきりしなかった。ですが。

 

この作品の肝となる前半の田原ファミリー物語。『嘘つき』の秀樹が香奈と一緒になって、知沙が産まれて。そして崩壊。この流れが余りにも秀逸。怒涛の畳みかけ。

 

序盤のシーン。田原一族の法事という『地方都市の旧家あるある』。

「今はまだお嫁さんちゃうねんから~。」「お手伝いとかいらんて。お客さんやねんで。」「もう。秀樹。香奈さん邪魔。」親戚一同が集う酒宴。やれアイツは負け犬だ、その点秀樹は優秀や。そんな余計な言葉を発端に起きる喧嘩。走り回る子供。女同士のマウントとしきたり。(また効果的(=イケズ)に使われる関西弁よ)観ている一部の人間を震えさせるジャパニーズホラーでどんよりとさせ。

結婚式。幸せな二人を冷ややかに見る客人。(今日日引き出物が新郎新婦の顔入りプレートって。そもそも食事を盛り付ける皿に人の顔って。使いにくいし捨てにくいし…)

新居でのパーティ。あんなにお腹の大きな妻に大勢の客人をもてなさせるなんて…。

 

「そもそも秀樹は何故あそこまで虚栄心が強いんやろう?」

 

お話の中で特に言及されませんし。「アンタ、嘘つきやから」の言葉からも元々見栄っ張りな性格なんだろうと。それが行き過ぎた結果なんやろうと思いますが。

 

「あの法事後の酒宴から当方が思い至った事。つまり秀樹は骨の髄まで『田原家』の人間なんやなあという印象。」

 

地方出身で。東京で就職して成績の良い営業マン。可愛い妻子に恵まれて。一等地で子育てを考慮したマンション購入。幸せな成り上がり。けれどそれはナチュラルな流れ。

俺は田原家の中の勝ち組。都会でも通用するし、それどころか元から都会に住む人間よりずっと成功している。でもそれは打算じゃない。俺は自然にそうなった。

愛する妻子。そして妻子も俺を愛している。笑顔の絶えない家庭。俺のサクセス人生、最高じゃない?

 

余りにも『形から入る』タイプの秀樹。秀樹自身は自身に言い聞かせる事であたかもそれが真実であると錯覚出来る。けれどそれは秀樹にとってのみ都合の良い夢。

身近な人間にとっての『秀樹の夢』は『嘘』でしかない。あくまでも主人公は秀樹で。周りは皆脇役で、秀樹の嘘を演出するただの駒。

 

けれど。本当は秀樹だって分かっている。けれどこの虚構が崩れるのは怖い。

 

『アレ』の正体は結局明かされない。けれど禍々しく凶悪な威力を持つ『アレ』は追われる者が抱える「見ない事にした恐怖」の権化。

 

結局飲み込まれ。喰い潰される田原ファミリー。

 

化け物である『アレ』を呼び寄せていく田原ファミリーのヒストリー。そのノンストップな展開。この前半が余りにも完璧すぎて。だから後半とのバランスに若干違和感を感じようと構わない。「おかしな所は当方の脳内引き出しで補てんします。」そう言ってしまう。

 

(それにしても前作『渇き。』と言い、中島監督作品の妻夫木聡は本当に良い。今回も薄っぺらい秀樹の役、最高でした(褒めています)。)

 

全体的に振り返ると、どうしても雑な点や投げっぱなしも気になる。この終わり方はしっくり来ない。けれど。良くも悪くもテンポがよくて…禍々しくて、なんやこれの連続だけれど。流石中島作品、絵面のインパクトが強くて、目が離せない。

 

「まあ。総じて言うと十分楽しんだ感じか…。」

 

ただ。鑑賞中体の力みが凄くて。終わった後どっと疲労。脳が痺れ。そして全身の脱力感。…非常に気力体力を使う作品でした。

映画部活動報告「ハード・コア」

「ハード・コア」観ました。
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いましろたかし原作『ハード・コア 平成地獄ブラザーズ』の映画化。監督山下敦弘

主演兼プロデューサー山田孝之。その他荒川良々佐藤健

 

社会になじめない。自分に嘘を付きたくない。そんな真っすぐ過ぎる権藤右近(山田孝之)。「最底辺の時に救ってくれた」所謂極右勢力の金城に忠誠を誓っているが。

弟で真っ当な社会人の左近(佐藤健)はそんな兄をふがいないとイライラしながら見ている。

「徳川の埋蔵金が埋まっている。」という金城の言葉に沿って、月給7万円で日々群馬の山奥で穴掘りをする日々。

そこで同じく穴掘りをする仲間の牛山(荒川良々)。どこか足りない、あやういそいつとつるむ日々。

ある日。廃工場で寝泊まりする牛山の元にブリキのロボットが現れた。いかにもポンコツな出で立ちのそいつー『ロボ男』は実は超高性能なロボットで…。

 

「まずはいましろたかし氏の原作ありき。だが当方は未読。」

 

2000年初頭。松本大洋原作の『ピンポン』『青い春』映画化を思い出した当方。

20代前半。まだまだモラトリアム全盛だった当方。映画を観た時は原作未読。けれど映画を観て居ても経っても居れなくて。即日本屋に原作漫画を買いに行った。そんな思い出。

 

いましろたかし氏の原作未読。ただこの作品を観て感じた事。山下監督、山田孝之。間違いなくこの原作を愛していて、この世界観を壊したくないと思っている。そういう原作ラブな人たちが作り上げた作品。」

 

昨今よく観る(主に)少女漫画原作の映画化。男女アイドルを起用し、やれ部活だ三角関係だクラスの人気者に見初められるだ記憶喪失だ難病だと。そんな予告編観てきましたが。

 

「漫画原作ではあるが。明らかに無骨系。けれどロボットとか出てくる。何これ。」

そう思って。観に行ったのですが。

 

「ところで。権藤の父と母は前世で何の得を積んだらこんな兄弟を授かったのだろう。」

 

キャスティングの妙だとは分かっていますがね。やっぱり、山田孝之佐藤健が兄弟って。全然血の繋がりを感じない、ジャンル違いの男前。

近年ずば抜けて面白い事になっている松坂桃李(褒めてます)と同じく爽やかイケメン枠で二番手の佐藤健(あくまで当方比)。

今作ではやり手営業マン左近として。兄の右近の思想を何となく理解しながらも「そんな綺麗事で食っていけるか。上手くやれよ兄貴。」と叱咤する役割。けれどドライに徹する事出来なくて。結局同じ穴のムジナになってしまう。

 

そして主人公右近の同僚、牛山(荒川良々)。

荒川良々の、あの朴訥とした見た目と喋り方。それを真正面から起用した感じの牛山像。かつては神童と呼ばれた、壊れた大人。

廃工場にこっそり寝泊まりし。おどおどとした喋り方と、どんくささから馬鹿にされがち。当然童貞。

そんな牛山と何となくつるむ右近。

 

正直、原作未読の当方からしたら一番キャラクター説明が無かった権藤右近(山田孝之)。

 

無骨。曲がった事が大嫌い。周りに居る、ちょっと危ない奴が放っておけなくて。こんな奴、俺だって面倒だって思っているのに。

なのにその心の声を他人が口に出してそいつをののしっていたら堪らなくて。だってこいつにだって生きている価値はあるんだから。心があるんだから。何でも言っていい訳ない。だからこいつには俺しか居なくて。面倒なんだけれど。放っておけない。

左近は上手くやれって言うけれど。こんな救い様がない奴らと底辺で遊んでいないでさあ兄貴。こんなの人助けじゃないんだから。兄貴のやっている事は偽善なんだから。

だって兄貴は心底こいつの事を思っている?結局こいつの事、馬鹿にしてるじゃないの。こいつにあれこれ言う奴らに牙を剥くけれど。兄貴だって同じ事、思っているじゃないの。それって言ってることとやってる事が違うじゃないの。そう言って追い詰めてくるけれど。俺だって分かってるんだよ。

 

本当はそれ、逃げたらいい。都合の悪い事、辻褄の合わない事。考えても分かんない事に囚われていても時間の無駄。悩んでいる事が正義だなんて欺瞞だよ。

 

~という、居酒屋で左近が右近に放った言葉に過剰に追加して右近を追い込んでみましたが。概ね当方から見たらこういう事を延々こじらせている主人公に見えました。

 

曲がった事が大嫌い。けれどその曲がった事とは何か。一体自分は何の思想に基づいて、一体何を守っているのか。そう悶々としている青年。

 

「俺が底辺に居た時救ってくれた~」どういう?語られない、金城と右近の絆。

どういういきさつで極右勢力の活動グループがどういう状態だった右近を救ったのか?…まあ、それは当方の脳内引き出しで補てんしますけれど。

 

とは言え。全編に渡って漂う哀愁。そしてコメディ感。湿っぽいけれど、何だかおかしい。

 

「また出てくる女性キャラが軒並み絶妙。」

 

初めのエピソードの松たか子は置いておいて。牛山が童貞を捨てようとしたデリヘル嬢。金城のNO2 水島の愛人。そして水島の娘、多恵子。

 

全然美人じゃない。スタイルが良い訳でも無い。なのにそそられる。何この軒並場末感シスターズ。

多恵子に至っては「駄目。絶対嵌りこんでしまうセックスする人で、こちらの生活をガタガタに崩してきた挙句駆け落ちか心中に追い込んでくるキャラクターやん。」というホラー案件。震える当方。

 

この作品の主軸となり。一見淡々とした口調で無表情に何とか世界と辻褄を合わせようと努力し続けた右近。(しかし山田孝之は本当に良い役者になりましたね。何様発言ですが)けれど。

 

結局右近の住む世界に、右近の思想の落としどころを付けられる場所は無かったんですかね。

 

最終。ああいう終わりを見せた事に、どこかホッとしましたが。けれど同時に「元々居た場所は彼の正義が通用する所ではなかったんだな」とも思えて。

でもそれをきちんと証明するには行き詰まり過ぎて…だからああいう…一足飛びな展開を持ってきたんですかね?

 

原作未読。ひょっとしたら何らかの解釈があるのか。分かりませんが。

 

何故か松本大洋の時とは違って。すぐさま原作には走らずに「ああでもないこうでもない」と脳内で想像している当方です。

映画部活動報告「恐怖の報酬」

「恐怖の報酬」観ました。
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「密林の果てに地獄を見たー。」

 

フレンチ・コネクション』『エクソシスト』のウィリアム・フリードキン監督作品。

1977年公開。

 

南米奥地の油井で大火災発生‼収まらぬ噴煙。対策として『消火用ニトログリセリン』の使用を選択した担当者達。しかし倉庫に眠っていたニトログリセリンは保管状態が悪く一部液状化。ただでさえ危険な薬物なのに、とてもじゃないがヘリコプターでは運べない状態。急きょ陸路での運搬に切り替え。そこで一万ドルと新しい身分証明書を報酬として掲げ、住民達に募った『運転手募集』。

そこで選ばれた四人の男達。出発当日内一名が殺害され、殺害した殺し屋が新たに運転手として加えられた。とはいえ他三名も皆脛に傷のある者ばかり。

そうして。文字通り一触即発の『300キロニトログリセリンを運ぶデス・ロード』が始まった。

 

「遂に40年の封印が解かれた!」「伝説の超大作日本上陸!」「前回30分カットされた悲運の作品。今回オリジナル完全版として復活!」

 

全文語尾にビックリマークを付けんばかりの勢い。行きつけのシネマートにて最近感じていた「これは絶対に観ろ!」「絶対にだ!」という渦巻く熱い想い…そして張り出されていたポスターの絵面。

「これ…どういう事?」ボロボロの吊り橋に男が一人座り込んでいて、その先には今にも傾いて落ちそうなトラック。

 

気になって気になって。公開翌日(初日は仕事の為断念。でも初回満員御礼が出たと知って悔しくて地団駄踏んだ当方)観に行ってきました。

 

40年前。1977年。

1953年に公開されたH=G・クルーゾー監督作品、フランス映画『恐怖の報酬』。傑作と呼ばれたこの作品のリメイクとして製作された。しかし当時既に巨匠と呼ばれだしていたフリードキン監督は、ただのリメイク作品とは呼ばせまいと全精力をつぎ込んだ。

また大手二社の映画配給会社が多額の製作費を投入。実力派俳優陣を起用。ロケ地は五カ国にも渡り、二年を超える時を経て製作された。

しかし。1977年の悲劇。『スターウォーズ』公開。爆発的ヒットの影で、見どころだけを切り取った短縮版が監督のあずかり知らぬ所で編集され。その短縮版が公開された。

当然残念な評価と共に不本意な形で上映終了。二社の配給会社は失敗の責任を取りたくないと互いに権利を主張せず。長らくお蔵入り状態となっていた。

しかし。どうしても諦められなかった監督本人が執念深く戦い。2013年ようやく121分のオリジナル完全版を再編集。いくつかの映画祭で上映。再評価の上、今回二本上映にも至った。

~という紆余曲折。生まれる前の事ですし、当然知らず。「それはそれは…。」としか言いようがありませんが。

 

「30分削る?としたら…冒頭からの。あの四人の背景を描いたら速攻油井爆発が起きて、運転手テストの下りもカット。最終エピソードも切った…って事?」

(でもねえ。今回のオリジナル完全版を初めてで観ている当方からしたら、わざわざ

短縮版を観て確認する気なんてしませんよ。)

 

南米奥地の油井。何故そんな所に居た。どうして彼らは居合わせた。元居た国もバラバラで。なのに今はこんな地の果ての工場で働いている?そんな彼らの背景。

メキシコで殺し屋を営んでいた殺し屋。イスラエルのテロリスト。フランスの投資家。アメリカのマフィア。皆が何かをやらかして。祖国を追われてこの地に行きついた。(殺し屋は別に工場で働いていた訳じゃ無いですが)

一体どうするんだ。俺はこんな所でどうするんだ。そう思っていた矢先。思いもかけない『一万ドルと新しい身分証明書の報酬』につられて。飛びついた劇薬運搬のミッション。

冒頭の殺し屋のシーンから。テロ、投資失敗、マフィアの教会強盗。(ところであの時結婚式を挙げていたカップル。新婦の目の周り痣が出来ていましたけれど…不幸な予感しかしないなあ~と思いました)結構テンポよく話は進むのですが。…確かにそれ以降少し眠たくなってくるんですね。

 

ですが。いざ運転手が決まって。「よくこんなボロボロのとトラック見つけたなあ~」というトラックを、運転手自ら修理・整備しなおして。『マッドマックス仕様』に仕上げたフォルムを目の当たりにする辺りからおネムだった脳が再び覚醒。(またトラックの顔が冒頭の神仏像そのもの)

「いざ出発!」からは終始体に力が入り過ぎて…映画鑑賞後得体の知れない虚脱感と疲労で一杯になった当方。

 

もう悪路にも程がある。山道の細いヘアピンカーブ。しかも下り坂。当然ガードレール、カーブミラーなんて無し。橋は軒並崩れかかっていて。

「怖ええええ。」ペーパードライバーの当方、心の中で絶叫。脳内の「かもしれない運転」では絶望の未来しか見せない道を二人一組のトラック×二台で目的地まで進んでいく。

 

やはり一番の見どころであり、先述のポスターにもあった『吊り橋のシーン』。

徳島県にある吊り橋『かずら橋』を一切メンテナンスせずに人類は絶え…世紀末を迎えたーそんな雰囲気の吊り橋。あんなの、人間だって渡ろうとは思わんのに。まさかのトラックで渡るという暴挙。しかも天候は暴風雨。絵に描いた様な嵐。

「どうして!どうして誰も「せめて雨がやんでからトライしよう」と言わない!!」

積み荷はニトログリセリンなんでしょう⁈ちょっとした衝撃で爆発も辞さない代物何でしょう⁈そのグラングラン揺れている橋を振り子になりながら渡るってさあ‼

「俺が誘導するから!」一人が車外に出て橋に座りながら腕を振って。その誘導を基にトラックを進行って。

目の前に広がる、余りにも狂ったスクリーンの絵面に、観客の一体感を感じた当方。あるシーンでは「ああ」と思わず声に出してだしてしまった人に共感。張りつめた緊張感。

(パンフレットで『トラックは5回橋から落ちた』と書いてあったのを読んで、「だろうよ!」とつぶやいた当方)

 

その後も困難を乗り越えて。何となく芽生え始めた連帯感。「皆が幸せになったらいいな」と思いきやのぶった切り。「今パリは9時5分だ」

そんな甘くねえぞという、浮ついたこちらの顔をひっぱたく勢い。そして「ああ。もう結局こんな有様ですわ。」という最後。

誰かが勝ったとか負けたとか。そういう話では無い。そして最後ゴール出来た人間が新しい門出に立てるのかどうかも分からない。不穏で…個人的に非常に好みな幕の降り方。

 

今。お金と技術があれば迫力のある映像が作れる。けれど、お金も技術もこの映像は作れない。(お前は一体何様だというのは置いといて下さい)

衝突。爆発。噴煙。そしてあの狂った橋のシーン。あんなのを人力で作ったなんて。そして撮ったなんて。

「そりゃあフリードキン監督も執念深く戦うだろうよ。」

 

何はともあれ。今回映画館でオリジナル完成版を観られた幸せ。そして機会があるのならばぜひ映画館で観るべきだと。そう思う作品でした。
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映画部活動報告「ボヘミアン・ラプソディ」

ボヘミアン・ラプソディ」観ました。
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1970~1980年代。イギリスを代表したロックバンド『Queen/クイーン』。

バンド誕生から数々のヒット曲を生み出し。けれどそんな中進む、バンドメンバー内の関係性の乖離。そして1985年に行われたライブ・エイドでの伝説のパフォーマンス。

ボーカルのフレデリック・マーキュリーを主軸に描いた作品。

 

「そうか。クイーンってこういうバンドで、こういう背景があったのか。」

 

当方の移動必須アイテムであるiPod。そのミュージックライブラリーにも入っているクイーンのベストアルバム『Greatest Hits』。

特別クイーンに思い入れがある訳じゃ無い。でも、クイーンの曲は知っているものが多くて耳馴染みが良い。初めからトップギア、みたいな勢いのある曲はテンションを上げたい時に聞いたりもしていた。けれど。

 

CMなんかでもよく使われていた、耳馴染みのある曲たち。だからこそ聞き流していた。

脳内でヒアリングした英語を和訳する能力も、ホンヤクコンニャクも持っていない当方。

恥ずかしながら、今回この作品字幕で初めてそのメッセージを知った次第。

 

「そうか。こういう歌詞で。こういうメッセージだったのか。」

 

フレディ・マーキュリー。インド系イギリス人という出生。きっちりとした家族。

恋に落ちて。結婚したメアリー。けれど次第に自覚していく同性愛属性。人気と名声は手に入れたけれど、ぎくしゃくしていくバンド間。そんな時に囁かれる、ソロ活動。バンドメンバーとの決裂。孤独。~の復活。

 

概ねそういう流れを描いていましたが。如何せん流れが速い早い。

それこそ勢いのあるクイーンの楽曲のごとく…誤解を恐れずに言うならば『2時間13分のクイーン史ダイジェスト映画』。

「ん?」と深追いしたくなるような事も受け流して、サクサク物語は進む。

 

印象的過ぎる、フレディ・マーキュリーその人について。もっともっとスポット当てて掘り下げて、という作りだってありえたはず。ゾロアスター教の家族。息子を苦々しく観ていた父親との関係。どうしても俗っぽく語られてしまう、彼の同性愛。結果当時『ゲイの癌』(酷い言い方)と揶揄されていたAIDSに罹患してしまい、早すぎる死を迎えてしまった。

(本当にねえ。1980年~1990年代なんて十分に現代なのに。年端もいかなかった当方は当時の記憶が殆どありませんけれど。あの当時の性的マイノリティの人たちへの冷ややかな視線と、ただでさえ恐怖の病だったAIDSやHIVに罹患した患者たちへの容赦ない偏見。溜息しか出ないです。)

 

けれど。これはあくまでも『クイーンの映画』であろうとした。

 

クイーンを語る時。当然フレディ・マーキュリーの存在は外せない。けれど、彼がクイーンの全てでは無い。

クイーンは四人で構成されたロックバンド。そしてこれはクイーンの音楽を描いた作品。

 

ボヘミアン・ラプソディー』があんな牧場で合宿生活をしながら作られたなんて。曲が出来なくて。喧嘩して。けれどインスピレーションが降りて来た。そこからはもう皆が高揚しながら一緒に音楽を作っていく。

We Will Rock You』がああして作られた曲だったなんて。

音楽を作り出している時の彼らのワクワク感。
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そして最後の『ライブ・エイド』。

1985年。「一億人の飢餓を救う」をスローガンとしたアメリカ難民救済目的のチャリティーコンサート。アメリカとイギリス二国に会場を設けて行われた。

そこで最高のパフォーマンスを魅せた。その伝説のステージをほぼ完全コピーで再現した。ラスト20分強。

(この作品を観た後。ネットでライブ・エイドの画像を検索して見ましたが。再現度の高さと「これは当時現地に居たら…」とぞくぞくした当方。)

 

クイーンの実際を知っていて「時代考証がどうのこうの」と言われる方々は恐らくこのライブ近辺の流れについて言ってるのだろうなと思った当方。

フレディ・マーキュリーがAIDSと診断されたのは1987年だ。」「この頃クイーンの仲は最悪だった。」「ジム・ハットンと付き合いだしたのは1984年からだぞ。」

 

まあまあまあ。それはもう…いいじゃないですか。これはクイーン映画だけれど、実録じゃないんやから。

 

ただでさえ伝説と言われた『ライブ・エイド』が。こういう演出が加わる事で、映画として最高潮を迎え。その余韻のまま終わっていく。

 

(配役も絶妙。本人と比べたらそこまで似ていないのに、立ち居振る舞いで本人に見えてくる役者陣。でも…ももう散々言われていますが。ギターのブライアン・メイはもう、ブライアン・メイ本人にしか見えなかったです。)

 

元々涙もろいのもあって。ライブ・エイド界隈からぐずぐずに泣いていた当方。

物語が終わってエンドロール。そこで流れた『クイーン本人たちの映像』に。隣に座っていた人が突然顔を覆って泣き始めた時。

見知らぬ人につられてまた泣いた当方。