ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「泥の河」

「午前十時の映画祭 泥の河」観ました。

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1981年公開。小栗康平監督作品。1977年の宮本輝による、同名小説の映画化。

 

「最早戦後では無い」高度経済成長の兆しを見せ始めた昭和30年代。

大阪安治川(旧淀川の分流。中の島西端~大阪湾)の川沿いでうどん屋(定食屋)を営む板倉夫妻とその一人息子信雄。

物語はその9歳である信雄(ノブちゃん)視点で描かれる。

 

「大阪。戦後十年の大阪…それは観ないとな」

 

当方も一応、同郷の者として押さえておこうと。「何か聞いた事あるけれど、正直観ていない」この作品を、午前十時の映画祭上映の機会を得て。映画館で観る事が出来ました。

 

余談ですが。

「これ。大阪のどこなん?!いくら36年前とは言え、全く思い当たる風景が無いけれど(天神祭りとかのシーンは別として)」映画鑑賞中戸惑う当方。

後で調べて「名古屋市中川運河にて撮影された」の一文に納得した当方。

 

これまた余談ですが。

「東洋のベニス」「水の都」と呼ばれた大阪。豊臣秀吉の都市開発によって一時は15本の堀が作られた大阪は、江戸時代水路に依って運搬や観光が栄えた。

「確かに今でも川には屋形船や観光船、何かを運搬する船が行きかっている。」「天神祭りもお金がある人達は船から花火を見るからなあ」毎日の通勤風景を思う当方。

「まあ。全然綺麗な川では無いけれどな。」

 

そんな河沿いに建つ、お世辞にも綺麗では無い板倉夫妻が営むうどん屋。

昼時には、近くで働く労働者が。夜にはまた彼らの胃袋を満たす。結構繁盛している店。そこの一人息子信雄(ノブちゃん)。

ある日。店の常連のおっちゃんが事故で亡くなる。そのおっちゃんの荷物がまだ往来に残されたままの雨の日。ノブちゃんは「この鉄売れるで」と覗いていた同い年の少年、松本喜一(きっちゃん)と出会う。

ノブちゃんは河を挟んだ向こうに、つい最近現れた船(また絶妙なボロ船)に住んでいるという。

数日後。きっちゃんの船に遊びに行ったノブちゃんは、2つ年上のきっちゃんの姉、銀子(銀子ちゃん)と、扉越しにきっちゃん達の母親と対面する。きっちゃんの母親はノブちゃんに「あんまりここ(船)には来ない方がいい」と釘を刺す。

同じ頃。板倉夫妻は、向かいに泊まる船が『廓船(売春船)』だと客から知らされる。

 

ノブちゃん、きっちゃん、銀子ちゃん。この子役三者の絶妙な演技。

始めこそ「棒読みやなあ~」と思うけれど。次第にこの世界に己が順応するのか、それともこの子供達が上手くなっていくのか。どんどん引き込まれていくんですよね。

特に当方が堪らなくなったのが「銀子ちゃん」。

「こんな11歳…あかん!!」

きっちゃんとは2つしか変わらないのに。何もかも悟ったていの銀子ちゃん。「親父さんは腕の良い船乗りやったみたいやで」でもその父親が死んで。美しい母親が子供二人を養っていくには体を売るしか無かったという事。
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加賀まりこの美しさよ‼)
学校にも行かず、家事全般を自分が全てこなしている事。幼い弟は、今はこの生活がどういうことか分かっていないけれど、いつかは全て理解する事。周りの人たちが自分たち家族をどういう風に見ているのかという事。…誰にも期待してはいけない事。

 

対して、このノブちゃんの両親。板倉夫妻の良心。

息子が連れてきた「友達」は向かいの廓船の子供。やっぱり初めは一瞬「アイター」と思ってしまいますよ。正直な所。でも。

「子供は親を選ばれへんからな」「いつでも遊びにおいで」

田村高廣藤田弓子。どちらも最高でしたが、特に父親役の田村高廣。ベストアクト。

歳を取ってから生まれたのもあって。ノブちゃんが可愛くて仕方ない。でも彼は自分の子供だけが大切な親ではない。

祖母が母に語った様に。「子供は皆のもんや。あんたも皆に育てて貰ったやろ」そういう考え方の人物。素晴らしい。

見た目もいかにも汚らしくて。どんな子供か分からない。…でも両親はノブちゃんに「きっちゃん達とは付き合うな」とは言わなかった。家に招いて。ご飯を一緒に食べた。

 

またねえ。きっちゃんが歌うシーンからの。不意にやって来た常連客に傷つけられたきっちゃんに手品をして笑顔を取り戻させる、ノブちゃんの父親
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「そりゃあ、お母ちゃん惚れてまうわ」しみじみノブちゃんに語り掛ける当方。あんた最高の父親を持っているよと。

 

けれど。そんなささやかで幸せな日々は続かなくて。

 

円満に見えた板倉夫妻の過去。そこに揺らいだ一家

 

そして。悪夢の様な『天神祭りの夜』

 

またもや余談ですが。天神祭りを知る当方としては「その店絶対その日忙しいんやから、お父ちゃんも舞鶴とか行ってる場合ちゃうで。猫の手も借りたい騒ぎちゃうの。ノブちゃん遊びには行かせられへんで」と思ってしまいました。

(大阪人にのみ通じる会話:天神祭りって有名な天満の界隈でやる奴とほぼ同日に福島でもやるんですね。こちらはこじんまりとしているみたいですが。「九条に住んでいる子供が天満まで歩いて行くって遠いなあ~。って福島神社?そういえばお母ちゃんも「天満までは行きなや」と言って小遣い渡していたなあと)

 

「ああ。優しい世界では終われなかった…」

 

「夜にはあの船には行きなや」そうやんわり言われていたノブちゃんが『廓船』に行ってしまった夜。そこで見た衝撃。

 

「きっちゃん…」きっちゃんがそういう時、どうやって自分の気持ちを紛らわせていたのか。その「サイコパスかお前」という闇に震える当方。

そして。動揺して駆け出すノブちゃんを見る、銀子ちゃんの表情。

 

「最早戦後ではない」そういう時代だと。皆が前へ前へと向かい始めた時代。

ノブちゃんの父親が何度も言った「絶対戦争から帰ったるんや。生きて帰るんや思うてたけれどな。あのおっちゃん(初めに事故死した常連客)やきっちゃんの親父とかみたいにあっけなく犬死するのんを思うとな。一体俺らは何の為に生き残ったんかと。」

 

言い回しは違いますが。大方こういう事をノブちゃんの父親は何回か口にする。

あの幸せな夜、きっちゃんが歌った軍歌に涙ぐんだ父親

妻に語った「俺はな。信雄がおらんかったらどうしてたか分からんで」(言い回しうろ覚え)

 

「そうやと思う。貴方には家族が居るから。妻が居て、息子が居るから。だから今生きている。」そう思う当方。

一体俺は何だ。俺の人生は何だ。そういう逡巡も構わない。存分にしたらいい。でも。貴方には今、もっと大切にする相手がいる。それが分かっているから、過去ばかりを振り返ってはいられない…正に「最早戦後では無い」。

当時。そうやって気持ちを無理矢理切り換えた大人が沢山居たのではないかと。そう思う当方。

 

ノブちゃんときっちゃんが出会った雨の日。きっちゃんが言った「この河には大きなお化け鯉が居るんやで」

あの鯉の下りは、作中ではあんまり以降触れられていませんでしたが。

一体お化け鯉とはなんだったのか。時代の流れに乗れない人々を飲み込んでしまう、そういうメタ的な存在なのか。それともあの船自体を指すのか。ぼんやり思う当方。

 

河をまた流れて行く、あの船を見ながら。少しでも澄んだ場所へ。お化け鯉などいない場所へと行ってくれと。

 

ノブちゃんの声とは裏腹に「これで良いんや」と言い聞かせる。そんなラストでした。

映画部活動報告「オン・ザ・ミルキー・ロード」

オン・ザ・ミルキー・ロード」観ました。
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エミール・クリストリッツア監督、主演作品。ヒロインはモニカ・ベルッチ

 

とある、戦争中の国。

絶え間無い砲火。緊張感と、どこか間延びした時が交差する、小さな山間の村。

そこの牛乳配達人、コスタ(エミール・クリストリッツア)。

ロバに乗って移動する彼の肩には、いつも相棒のハヤブサが乗っている。

大きな時計が目印の牛乳屋の娘、ミレナ(スロボダ・ミチャログッチ)。明るくてエキセントリック、そして美人の彼女はコスタが大好き。いつもコスタに猛アプローチを掛けるけれど。のらりくらりとかわされるばかり。

ある時。戦争から帰ってくる兄の為、兄の花嫁を斡旋屋から調達してくるミレナ。

戦争が終わったら、コスタとミレナ、兄と花嫁のW結婚式をするとはしゃぐミレナ。なのに。

花嫁(モニカ・ベルッチ)を一目見た途端、恋に落ちてしまうコスタ。同じく満更でも無い花嫁。

そして。戦争は終わりを告げる。

 

なんとまあ。贅沢な映画だろうかと。

エミール・クリストリッツア監督9年ぶりの映画。寧ろ歳を重ねる事で魅力が上がっていくエミール・クリストリッツアとモニカ・ベルッチって。その二人の愛の逃避行って。
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戦争中。なのにどこかほのぼのしていた前半。太っちょ3人の料理番の元、牛乳を運ぶコスタ。「あいつ、変わってるよな」「仕方ない。親父が目の前で斬首されれば誰だっておかしくなるさ」そんな過去故か。浮世離れしたコスタ。

次々と爆発する最中。飄々とロバに乗って牛乳を運ぶ。そんな毎日。

でも変わってしまった。そんなふんわりした日々は。だって、花嫁に恋をしてしまったから。

 

牛乳屋の娘ミレナ。戦争に行っている兄の為に、斡旋屋に頼んで連れてきて貰った花嫁。(凄い設定やなあと。お金で花嫁を連れてくるという事も。それをすんなり受け入れる花嫁も。だって、下手したらマッドマックスの世界に発展しますよ)

いつ帰ってくるのかも分からない兄を待ちながら。牛の乳を搾り、家の事をする花嫁。

いつものように牛乳を運ぶ為、ミレナの家に行って。互いに一目ぼれする二人。

 

かと言って。花嫁は兄の花嫁。互いに抑え込む、相手を欲する気持ち。でも抑えきれなくて。

そんな時。戦争が終わりを告げる。

浮かれ、歌い、騒ぐ村の人々。そして兄の帰還。

「明日は兄と花嫁。そして私とコスタの結婚式」はしゃぐミレナ。でも。

 

美しい花嫁。実は彼女はいわくつきの花嫁。

ローマから、セルビア人の父親を捜しに来て戦争に巻き込まれた。彼女を狂信的に愛した多国籍軍の英国将校。法に触れ、投獄されていた将校がこのタイミングで釈放される。

 

皆に祝福される、その日に村にやってきた多国籍軍。一網打尽に襲われる村の住民達。

そして。コスタと花嫁の逃避行が始まる。

 

結構流れを書いてしまいました。これは自重しないと…。

 

「ああ。男のロマン。愛した人は愛してはいけない人。でも。愛し合う二人。そして彼女と手に手を取り合っての逃避行…でも。でも」

 

「当方はミレナの方が好きなんだな」

 

そりゃあモニカ・ベルッチをキャスティングすりゃあ、ああなるしか無いでしょうけれども!けれども!

 

村で指折りの美人。勝気で明るくて。サバサバして。そしてエキセントリック。
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いきなり銃をぶっ放したり。

そしてあの「戦争が終わった!」と村人総出でどんちゃん騒ぎのシーン。

あれは当方の中での今作ベストシーンですが。村人達で楽器を弾いて。その中で踊って歌いまくるミレナ。ピアノを弾くコスタの、そのピアノに寝そべって歌うミレナ。
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また酒の飲み方も頼もしい。小さなショットグラス2,3本一気に口に咥えて、ぐっと顔を上に向けて飲むという、むせないのが不思議な飲み方。

そんないかれたミレナに胸が熱くなる当方。楽しい。これは酔っていたら相当意気投合出来るタイプ。(当方は酒の前には無力な愚か者です)

そんなミレナが自分に夢中。「コスタは私と結婚するの!」

 

「してやれよ!!」心の中で叫ぶ当方。

ミレナ…何だかメンヘラっぽい予感しかしないけれど。でもいい女やぞ!コスタ!

 

なのにねえ~。結局は美しい花嫁に心が向くんよねえ~。(おばちゃん当方)

 

後半。逃避行はどうなってしまうのか。そこまではネタバレしないようにしますが。

 

「こんなに切ないエンディングを迎えるとは…」溜息を付く当方。

 

羊飼いのおっちゃんのセリフ。あの『THE 男のロマン』余りのセンチメンタルに、むせかえる当方。(分かりにくいんですが。褒めていますよ)

 

そして、ハヤブサ、蛇の涙ぐましい協力と、なんだか犬死感が否めなかったロバ。

 

技術に走って。やれ美しい映像だ。込み入った構成だ。そんな作品が増えていく昨今。そうなると観ている側もやれ整合性がどうだとか、そんな揚げ足を取ってしまう。そんな中で。

 

「ガタガタ言うな。これが俺のロマンだ」

 

そんな、無骨で。シンプルに美しくて、そして哀しい。そんな作品を久しぶりに観た感じがしました。


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映画部活動報告「プラネタリウム」

プラネタリウム」観ました。
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ナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップが姉妹設定の作品。

 

1930年代。フランス。降霊会が出来る事を売りに、ヨーロッパ公演をしていたアメリカ人のバーロウ姉妹。

姉のローラが会を取り仕切り。そして妹のケイトが霊を下ろす。

その降霊会を目の当たりにして。姉妹に惹かれる映画プロデユーサーのコルベン。

姉妹を自身の屋敷に住まわせて。その力を映画に撮れないかと画策する。

姉ローラをナタリー・ポートマン。妹ケイトをリリー=ローズ・デップが演じた。

 

フランスの女性監督。レベッカ・ズロトウスキ監督作品。

 

まあ~エレガントな映画でした。

 

以上!で終わっても良い位なんですが。それもちょっとどうかと思いますんで。

 

お話し自体は結構分かりやすくて。

本当なのか、ただの詐欺師なのかさっぱり分からない美しい外国人姉妹。姉は何処までも登り詰めてやろうという野心家。でも本当にスピリチュアルな力を持っているのは妹。でも何だかふわふわして掴みどころのない妹は、何を聞いても具体的な事は答えられない。

姉妹を見出した映画プロデユーサー。この奇跡を映画にしたいと燃えるけれど。カメラの前では何も出来ない妹。呆れ、お手上げになる製作陣。

姉の飲み込みの良さ、何よりもその美貌に、姉をメインに切り替えて映画を撮ろうと舵を切りなおす製作陣。そうしていつも一緒に居た姉妹に少しずつ離れる時間が出来始める。

その間。映画プロデューサーは妹と距離を詰めて…妹の能力について詮索していた。

 

全てをネタバレするつもりはありませんので。ここであらすじは止めますが。

 

「ただこれ…語り口がかったるいんよなあ~」(当方の勝手な暴言)

当方は乙女心を一切理解していない、NOエレガント体質なんでね…言いにくいんですがね…画的に綺麗な事を優先しすぎている感じがして。いや、実際綺麗なんですが…如何せんそこに気を取られてしまうというか。(歯切れ悪し)

 

一部の女性監督にありがちな『綺麗な女優を兎に角綺麗に撮りたい』『着飾らせて。そして画になるポーズやら。綺麗なショットを撮りたい』そういう香りを感じてしまって。

 

ナタリー・ポートマンと。そして映画プロデュサーコルベンを演じたエマニュエル・サンジュの頑張りは物凄く伝わった」そうなんですが。

 

疑わしい降霊会を売りに。ドサ廻りをしていた時の姉妹。貧しくとも身なりは美しく。そしてコルベン邸に迎えられてからはもうどこのセレブかと思う出で立ち。

「無駄だ…」こういう、女性誌がこぞって飛びつきそうな目の保養は要らない。

 

「何より、リリー=ローズ・デップ演じるケイトにもっと重心を置くべきではないか」

精神年齢と実際の年齢が一致していない。いつもふんわりと掴み所が無くて。でも時々鋭くて。ケイトには本当に見えているのか。だとしたら、一体何が。

 

リリー=ローズ・デップ。この作品が映画出演二作目だったと何かでちらっと見ましたが。

「ケイトという、未熟で未完成という役とリリー=ローズ・デップというシンクロキャスティングは合っていたと思うけれど…元々持っている引き出しの数もあるんやろうけれど…魅力が引き出せていたとは…正直…」(歯切れ悪し)

 

あんまりにもケイトに血が通っていなさ過ぎて。ケイトのミステリアスさに厚みが無い。ケイトには意志があるのか。何をどう感じているのか。そして自身と姉の事をどう見ているのか。伝わらない。分からない。何だか、恐ろしく綺麗な不思議ちゃんにしか見えない。そう感じて。(それが狙いであるなら成功ですけれど)

 

「そしてコルベンの顛末よ」

 

実際。あの時代にそういう人が居た。(映画関係者では無いけれど)それを描きたかったと。監督のインタビューに乗っていましたが。

 

「じゃあそこに話を絞れ!」ああいう時代に起きた悲劇について。勿論否定はしませんけれど。やるならきちんとやれ!遂に頑固爺当方の出現。

 

そういうオカルトにどっぷり嵌っていって。そうして周りの人達が居なくなっていった。そういう話やないかと。時代は関係ない。誰にも理解されない狂気と、そして彼に残されたのは二人の姉妹。それで良いじゃないかと。

 

ラストは非常に「エレガントな映画やなあ~」という着地。

「これはあれだな。当方の中での『オサレバー映画枠』⦅訳:薄暗いオサレなバーで無音で流れていたら絵になる映画。⦆やな」そう降り立った当方。

 

ただねえ。これだけ好き勝手言ってしまいましたが。あの雪のシーンの美しさは、確かに夢のようでした。

 
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映画部活動報告「スイス・アーミー・マン」

スイス・アーミー・マン」観ました。
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とある無人島。船で海に出て。そして難破。一人辿り着いた無人島。

恐らく幾つかの時を経て。孤独さ故に自殺しようとしていた青年ハンク(ポール・ダノ)その時。彼の目に飛び込んできた、死体のメニ―(ダニエル・ラドクリフ)。

自殺するムードぶち壊し。死体から絶えることなく聞こえるオナラ(腐敗ガス)。

でも…もしかして。もしかしてそのオナラ…。またがってみたら発進。ジェットスキーよろしく、無人島を脱出したハンク。そして現れるタイトル『スイス・アーミー・マン

 

「悪くなるはずがない」映画館の暗闇の中で。一人満面の笑みの当方。絶対これは好きな映画。間違いない。

 

ハリー・ポッターシリーズの主演。ダニエル・ラドクリフが死体役』そんな売り文句で。イロモノ面白枠。当方もその気持ちで観に行った輩でしたが。

 

「くそ…涙が」ぶっ飛んだ設定。中学生並みの下ネタ連発。なのになのに。

「孤独とは」「恥ずかしいとは」「対人関係における信頼とは」「愛とは」何だかとんでもないテーマの応酬に、自身のパラメーターをどう置いて良いのか定まらず。下手したら自身のやらかい所を無茶苦茶に押されて。どうしょうもない位に打たれてしまいました。

 

どこまでネタバレせずに行けるのか…。超個人的な備忘録とは言え、ネタバレ上等とは思っていないので…最小限で頑張ってみたいのですが。

 

「まあ。やっぱり言うとしたら役者チョイスの成功」

死体のメニーこと、ダニエル・ラドクリフ

言わずと知れたハリポタ。でも…多分彼はハリポタの印象を払拭すべく、近年敢えて変な役にチャレンジしている。当方が観たのは『ホーンズ』位でしたが。

当方はハリポタに関しては原作を義理的に全巻読みましたが。別にポッター映画は興味が無く。『何曜日かのロードショー』で観た程度。なので当時の彼の演技云々についても一切語る事は出来ません。出来ませんが。

 

「悪いけれど。ラドクリフは今の方が絶対好きだ」

 

今回。改めてそう思った当方。あいつ…あんな演技が出来るなんて。死んでいるとしか思えなかった。全然生きている時の想像が出来なかった。それは『まばたきをしない』『常に片目が半目』とかそういう技術的な事じゃない。顔色不良のゾンビメイク故じゃ無い。ハード面では無くて。あの喋り方。動き方。「いっそ動いてくれ」と思う程に、死体としての線引きがなされていた(変な言い回し)、メニ―。メニーそのものだった。

 

「そんな事が出来るなんて。ラドクリフ…」

 

そして。完全に同じく彼無しでは語れない、ハンク役ポール・ダノ

プライベートとオフィシャルでは充実してそうですが。如何せん、いつも何だかさえないボンクラ役。
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 今回もハンクという『引っ込み思案故に孤独な青年』をこちらが苦しくなる位リアルに演じておられました。

 

ジェットスキーさながら。無人島とはまた違う大陸にたどり着いたハンクとメニ―。不法投棄されているごみから見ても、以前居た無人島よりは文明の香りがする。…香りだけ。

「死にたくない」「生きたい」「助かりたい」「でも一人はもう嫌だ」と。放っておいて良さそうなのに。死体を担いで移動し始めるハンク。

寂しさ故に。語りかけていた死体が。思いがけずメニ―という名前であると分かり(無理やり)そして話出した事で。一気に加速するメニ―の万能性能。

 

『スイス・アーミー・ナイフ』=十徳ナイフ。滅茶苦茶便利なサバイバルナイフ。
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さながら。『オナラはジェット噴射』『斧』『バーナー』エトセトラと。メニ―の活用方法を見出すハンク。(にしても、当方はその水、躊躇してしまいますがね)

何よりも有難いのは『話してくれること』

 

でも。その内容は当初何故?何故?の説明。

君はメニ―で。死体だけれど天使。いつかは土に帰るウンコとは違う。嬉しいの表情とは。

もっと生きている時の記憶を持っているのかと思いきや。殆ど何も持ち合わせていないメニ―。それを埋め合わせしたくて。色々聞くメニ―に手取り足取り教えるハンク。

(またハンクの奴。驚くほどのDIY精神の持ち主な上に凄いクリエイティブですからね。そしてこのミシェル・ゴンドリー監督作品を彷彿とさせるテイストよ)
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そして。『愛について』を話す話す羽目になるハンク。

とんだ体内コンパスを持つメニ―。その生理現象について、出来る限り誠実に答えたハンク(泣ける)。そして。ちょっとした事で、メニ―に想い人の画像(スマートフォンの待ち受け画像)を見られてしまい。

メニ―の「あれは俺の愛する人だ」「彼女の事を思い出せば何かミラクルな力が出せるかもしれない」どうすればそういう思考回路になるのか。でも。その可能性に掛けて協力するハンク。

 

「あのバスのシーンの美しさよ」

あの…バスの…もうこのフレーズで泣きそうな当方。あのポール・ダノの美しさにも。あんなに泣ける『ジェラシック・パーク』にも。

「帰ったら毎日バスに乗ろう」にも。

 

そうなると。抑えられなくて。

あの夜のパーティー。そして川に落ちたシーン。最高過ぎて。
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当方は別にBL萌えは全く無い。と思っていましたがね。あれだけいちゃつかれたたら…まあ。如何ともしがたいですよ。

 

ところで。メニ―って何だったんでしょうね。

 

現実社会では居場所が見つけられなくて。そんな青年ハンクが一人旅にでて。遭難して。そこで絶望の末出会う『生きる希望』メニ―。

 

『死体とのバディモノ』って。江戸川乱歩の『蟲』しかり。イライジャ・ウッド主演の『マニアック』しかり。当方の大好きな『ハッピー・キラー・ボイス』しかり。死体はどんどん腐敗して、もう生きている時の面影は一切無い。それは主人公に対しての反抗的な態度も。これら作品に於いての死体は兎に角主人公である狂人にとって都合の良い対象でしかない。

 

ある意味。ハンクにとってのメニ―も。始めこそ奇抜な登場をするけれど。子供の様に色んな事に教えを請いて。そして感情のままに発言する。

 

「僕の口を君の口に押し当てたくなった」「僕のペニスを入れさせて」「先っちょだけ」「女の子って素晴らしいんだろうな」一見下ネタだけれど。それはハンクが絶対に女の子に言えなかった言葉。

 

「オナラを人前でするのは恥ずかしい」「そういう事はもっと親しくなってから」そうやってメニ―と自身を律するけれど。

 

段々。ハンクとの会話と、『サラ(女装したハンク)』に恋する事で無邪気さを失っていくメニ―。そうしてどんどんハンクの核心に迫っていく。もうそれは『都合の良い死体』では無い。

 

「オナラは恥ずかしい事なのかな?」「マスターベーションって悪い事じゃない」「誰だって少しは醜い。でもいいじゃないか。一人がそれを受け入れたのなら」(当方意訳)

 

ずっと自信が持てなかった。低能だと思っていて。イケていない自分が。恋をして。その相手を求める気持ちも押し込めた。いけない事だと。自分が恥ずかしくて。馬鹿にされるんじゃないかと。勇気が持てなかった。

 

「もしメニ―に出会えなかったら。無人島に行って帰って来た経験も意味が無い」

冷たいかな、そう思う当方。

 

メニ―は。物理的な意味で万能だった。でも。それだけじゃない。…でも。

 

「十徳ナイフって。サバイバルでしか使わないんですよ…。」

涙を浮かべ。そう思う当方。

 

ハンクとメニ―の出した結論。そこに行きつくまで。そのハンクの痛みしか伴わない成長と…その痛みにひたすら涙が出た当方。

 

公開初日。何となく観て泣いて。パンフレットを買って。翌日にサントラを購入して(またこのサントラが至高)。4日後にはまた映画館に足を運んでいる。

 

「くそ。涙が…」完全にやられている当方。

 

きっとメニ―はまた、無人島で一人震えている孤独な奴を救いに行ったんだろうと。

そう思うと希望が持てる。

とんでもない怪作が出ました。


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映画部活動報告「あさがくるまえに」

あさがくるまえに」観ました。


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フランス映画。

夜明け前。まだ寝ている恋人をベットに残し。友人たちと車で海へ。サーフィンを楽しんだ帰り道に遭遇した事故。そのまま帰らぬ人となってしまった17歳の少年。

病院から連絡を受け、駆けつける両親。そこで告げられる『脳死』の判定と臓器移植、所謂ドナー(提供者)になる事の勧め。

憤り、混乱する家族に説明する医師。「申し訳ないが時間は限られている」そして「決して『モノ』扱いはしないと保障する」と。

場面は変わって。ある女性音楽家。二人の息子を持つ彼女。現在は重度の心臓病の為、音楽活動はおろか日常生活もままならない。

命を受け渡す。そのバトンを。そして引き継ぐ者の姿を描いた作品。

 

カテル・キレヴェレ監督。女性で37歳?!またとんでもない逸材がでたものよ!」驚く当方。

 

今思うと何故この作品を観ようと思ったのか。当方が事前に持っていた情報は「脳死判定からのドナーになる選択を強いられた家族の話」映画館で何となく手に取ったチラシのみ。(それもきちんと読んではおらず)ほぼ真っ白な状態。

まあ正直、今映画を観たい!という気持ちと上映時間が上手く合ったから。…でしたが。

 

「『朝のリレー』(谷川俊太郎)だ」

ぼくらは朝をリレーするのだ 

 

確かに脳死判定を受けた家族の話ではある。でも。受け取る側の登録者を。そして彼らを繋ぐ医療者を。この三者を描いた作品だとは思いませんでした。

 

「また海の。波の画の使い方が上手い」

始め。海でサーフィンをしていた少年達の。楽しそうなのに…途中から何だか不吉な波。そして帰宅する車が事故に遭う時の。あの波に飲み込まれるシーン。

 

17歳で命を終えるという事。その残念さは言葉では言い尽くせないけれど。でもそこに唯一の希望を持たせるとしたら。「彼がどこかで誰の一部となって生きていく事」

 

日本でこの題材で作品を作ったら。間違いなくこの少年と家族、恋人に焦点を当てまくって。もうそれだけで一本出来上がってしまう。それもお涙頂戴エピソード満載にして。

でも違う。この作品でも少年と彼女のエピソードは語られたけれど…恋する二人の高揚感に満ちたエピソード。

 

この、各パートの登場人物のエピソードの切り取り方。見せ方が丁度良いなあと思った当方。つまりは「何でもないような事が 幸せだったと思う」そういう日常の一コマ。

 

登録者の音楽家女性。どうやら夫は居らず。家族は一緒に住む長男と、離れた場所に住む次男

重度の心筋症故に末期の心不全状態。少しの運動でも息が切れて。階段の昇降も出来ない状態。

愛する息子達と恋人。大切にしたい。でも。蝕まれて、尽きてしまいそうな体。

何となく。主治医に勧められて心臓移植の登録者リストに登録した。けれど、若くも無い自分が登録した事、『移植が出来る』=『誰かの死』という構造に戸惑いを隠せない。でも。

 

ある夜。舞い込む『移植するドナーが見つかった』と言う知らせ。

 

「心臓移植?!これそういう話なの!」と思わず映画館の椅子を座りなおした当方。

そこからは興味津々の目で観てしまいましたが。

 

「思ったよりも、まともな医療監修が入ったようだ…」

 

凄い水圧の低い手洗いの水。あ。こんなカニューレ達もちゃんとそれらしい所に入ってる。と言うか何科の生物から取ったのか、それとも作ったのかは分からんけれどちゃんと心臓っぽい。(にしても流石17歳。綺麗な心臓)。人工心肺?血では無いにしてもそれ一回回すのに凄くお金が掛かったやろうに…。ちゃんと大動脈を遮断解除したら不整脈が起きている!等々。

 

俄然楽しくなる当方。いや~えてしてこういうシーンってチープになりがちなんで。

後日。心臓移植の手術について知っている人に聞きまくる当方。「意外と手術時間は短いんですよ」「主要な血管を吻合するだけなんで」「ドナーの臓器が今どこを通過しているとかの連絡を常にタイムリーに受け取りながら、こちらも手術が進行するんです」成程成程。

(でも。一晩でドナーから心臓を貰って、それを朝が来るまでに移植終了は流石にお話しの世界かな~とは思いましたが)

 

少年の両親に医者が言った「決してモノ扱いはしません」

ある臓器だけは取らないでと言った家族。話の焦点を散漫にさせない為にも「心臓移植」にポイントは絞られていましたが。

「恐らく、その他の臓器も誰かの体の一部になったのだろう」

そう思わせた、少年の体にメスを入れた時にちらっと移った腹部あたり。ましてや健康な17歳。肝臓だって。腎臓だって。その臓器を必死で待つ人達が居る。

でも。最後の。『心臓』が少年の体を離れる時。少年に本当の死が訪れる。そこで止めた、両親に移植を勧めた医者の行為。

 

「まだだ」「最後に彼に聞かせたいものがある」

 

ポスターやチラシに使われたシーン。此処で一気に涙腺が崩壊した当方。

 

確かに。少年は臓器を皆にプレゼントする「モノ」では無い。

家族が居た。恋人が居た。友達が居た。少年には未知数の可能性があった。

 

夜明け前。恋人に挨拶もせずに。そのまま別れてしまった少年。

少年を想う人達からの、最後のメッセージ。

 

まあ…これは確かに医療者として最大の誠意の見せ方かなと当方は思いましたけれど。

 

いつもどこかで朝がはじまっている

それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ

(『朝のリレー』谷川俊太郎

 

『命を受け渡す』ともすれば幾らでも重たく出来た話を。何だか爽やかな目覚めの様に描いた。貴重な作品でした。

 

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映画部活動報告「ナインイレヴン 運命を分けた日」

ナインイレヴン 運命を分けた日」観ました。
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2001年。9月11日。WTC世界貿易センター)ビル。ハイジャックされた二機の旅客機がビルに突撃。そこから始まった、近年に於ける中でも大きい、最悪のテロ事件。

その日。その時。たまたまエレベーターに居合わせた5人。テロ事件に依って停止したその密室で起きた事…。

90分のフィクション作品。

 

911の映画を。9月11日に観に行く事が出来ました。

 

「今生きている事が奇跡だなんて。そう思う事なんて。普通に生活している中ではそうそうあり得ない」ですが。

 

当方が生きてきたこれまでで。物心付いて初めて感じた有事は『1995年1月17日。阪神淡路大震災』でした。

それまでも自然災害はあったけれど。それはいつもテレビの向こうでの出来事で。

それが。実際に自らも叩き起こされた朝。テレビで見た「知っている場所」の無残な姿。

 

「当たり前の毎日は、決して当たり前に続く訳では無い」そう初めて実感した朝。

 

それから。また幾つもの災害で胸を痛め。そして、2011年。3月11日の東北地方太平洋沖地震

「お願いですから。助かって下さい。波よ。彼らを飲み込まないで」「せめて。雪よ止んで下さい」「お願い」

テレビの前で。会った事の無い人達を想って。祈った日。

 

一体どういう世界になってしまったのか。頻発する自然災害。最早無事で暮らせる場所なんて無いのかもしれない。そう思うと「悔いの無い毎日を送るしかない」と己に言い聞かせる当方。ですが。

 

『人災』で命を脅かされる。その虚しさ。憤り。結果憎しみしか生まれない。そんな負の連鎖。

 

当方が初めて衝撃を受けた人為的有事は、『1995年3月20日。地下鉄サリン事件』。そして次が2001年の、この『米同時多発テロ』。

実体験では無く。どちらもテレビで見た惨事でしたが。

 

「どんな主義思想があったとて、一般市民の生活を突然脅かしてまで。彼らは一体何を得ようとしているのか」「ただの暴力。暴力からは何も生れない」「誰も賛同する訳が無い」ぞっとする、目を疑うばかりの。信じられない光景。

 

無学で浅瀬に住む当方は、ひたすら非難の声を上げるばかり。でも。彼等の思想を学んだとしても。それにどこか共感出来る部分があったとしても。テロ行為そのものには絶対に賛同できない。冷静に話が出来ない奴は愚。それを暴力にして。ましてや関係の無い者にぶつけるのは…万死に値する。それは今でも絶対に揺るがない、当方の理念。

 

この作品について。どうしても「もっと悲惨な事態が起きたのだろう」「非情な判断をせざるを得ない場面があっただろう」「その事でずっと心を痛めている人がいるのだろう」等々。この作品を通した『実際の人たち』に思いを馳せてしまって。

 

「恐らくの低予算での秀作」「コンパクトに纏まったヒューマンストーリー」「あの小さな箱の中で。夫婦が居て。孤独な女性が居て。黒人が居て。富裕層が居て。貧しい人が居て。色んな象徴の塊で。始めはぎくしゃくしていたけれど。次第に団結し、友情が。愛情が築かれてゆく」「破壊と再生の物語」それらしい感想は上げられなくはないはずなんですが。なんだかそれでは終われなくて。

 

「多分。当方の記憶にきちんと残っているからだ」

 

16年経った今。知らない世代だっている。それは日本の東北地震にも。そしてこれまでの『忘れてはいけない出来事』全てに通ずる課題。

 

知っている者にとっては。「恐らくこんなものでは無かったはず」又は「実際はこんなものでは無かった」のかもしれない。それとも「ああ…そうだった」と思うのかもしれない。

でも。知っている者は時が流れると減っていく。

 

この作品を観て。そして今後こういう作品を観て。「こんなものでは無かった」でも「そうだった」でも。想いを口にして。伝えていく事の大切さ。…それは「物事は暴力では解決しない」という事も含め。そう思った当方。

 

「この手の作品はちゃんと押さえていかんとな」

しみじみと。映画館を後にした当方。

 

映画部活動報告「三度目の殺人」

三度目の殺人」観ました。


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ある夜起きた殺人事件。工場経営社長山中が何者かによって殺害。その死体には火が放たれる。捕まったのは、殺人の前科がある元工員の三隅(役所広司)。

犯行を認めており、死刑はほぼ確実。しかし何とか無期懲役に持ち込みたい、弁護士の重盛(福山雅治)。

何てことのない裁判。ただ量刑を争うだけだったのに…三隅の供述は二転三転。振り回される法廷関係者の面々。

その時。山中の娘咲江(広瀬すず)が重盛達に衝撃の告白をしてきて…。

是枝監督最新作。今回はまさかの裁判劇。(法廷シーンは少なめ)

まさかの…は言い過ぎですかね。でも。是枝監督と法廷サスペンスモノって合わない印象がありましたから。それがそれが。きちんと。硬質で。哀しい話に仕上がっていました。

 

「藪の中だ…」

 

「何故山中を殺したのか」その動機に、初め全く焦点を合わせていなかった重盛達。

「工場を辞めさせられての腹いせだろう」「金品を奪いたかったんだろう」お決まりの動機を誰もが決めつけていた。なのに。

何だか定まらない三隅の供述。挙句「社長の奥さんに頼まれました」と委託殺人であったかの様な事を言い出して。

「真実なんてどうだっていいんだよ」そう言って。兎に角勝てれば良いんだという信念を持っていた重盛が。

何度も三隅と接見し。三隅の身辺を探るうちに、己の信念とも向き合っていく事になっていく。

 

「しっかし。これ、役所広司のイキイキとした感じ。楽しかったやろうなあ~。」振り返ってみて。ニヤニヤと思う当方。

ファンの皆様総立ちでお怒りになると思いますが…(小声で)福山雅治って、特に演技が上手い訳じゃ無いじゃないですか。でも。

役所広司起用の妙。この手練れの老練俳優が三隅という犯罪者を飄々と演じる事で。役所広司に引っ張られるようにして、高みに連れて行かれた福山雅治。そんな印象。

三隅の持つ「なんやねんこいつ」「なんやねんこいつ」その気持ち悪さ。

殺人犯とは思えない、一見穏やかな物腰。理性的(に見える)話し方。なのに。結局何を言っているのか分からない。何を信条としているのか分からない。

「あいつはねえ。『空っぽな器』ですよ」昔三隅を捕まえた警察官の言葉が良い得て妙。確かに三隅からは何も得られない。三隅には元からは何も盛られていない。そこに何かを盛るのはいつも他人。

 

「金品を目的にしていたのか」「怨恨か」それを焦点にしようとしていた矢先。降って沸いた「山中社長夫人が三隅に殺人を依頼した」週刊誌の独占スクープ。「何でだよ!」唐突すぎて。「そういうことは早く言ってよ!」と怒りながらも。「それ、使えるな」と飛びつく重盛達。

そして山中社長の家族を改めて見てみると。意外にも娘の咲江と三隅に交流があった事が判明する。

 

広瀬すず。完全に同世代の女優の中でも頭一つ飛び出したな…。今でも十分にアレやけれど。末恐ろし過ぎる」

元気一杯な役が多い印象やけれど。是枝監督作品「海街diary」でもそう思った。広瀬すずは、何処か影のある役にこそ未知数の役者だと。

 

生まれつき片足が悪く。いつも足を引きずっている咲江。でも幼い時「足が悪いのは工場の屋根から飛び降りたから」と周りに嘘を付いていた。

三隅と咲江が一体どう繋がっていたのか。30年前に犯罪を犯し、服役していた三隅には足の悪い娘がいた。その娘と咲江を重ねたのか。では咲江は三隅に何を求めたのか。

 

終盤。咲江が「法廷でお話ししたい」と重盛達に持ってきた告白。

咲江の告白を三隅に話し。憤る三隅。「あの子はねえ。嘘ばっかりつくんですよ!」そしてまた翻った供述。

 

「真実とは何か」

 

咲江の告白が本当であったとしたら。咲江の為に行われた殺人だったとしたら。でもそれすらも分からない。咲江は誰を救おうとしたのか?母親?三隅?…自分?

 

「真実とは何か」

 

法廷に真実など必要ない。ただただ量刑を決める場所であると息巻いていた重盛が。

「一体何が真実か」と追い求めていく様になる。

なのに。探しても探しても。相手は『空っぽな器』。

真実は「藪の中」。

 

「でもねえ。真実って果たして何なんんでしょうな」溜息を付きながら椅子に沈む当方。

 

一体誰にとっての真実なのか。誰にとって都合の良い真実なのか。どういう正義があったのか。無かったのか。

法廷とは、誰をどう裁く場所なのか。

 

三度目の殺人」なかなか意味深で秀逸なタイトル。

 

まあ無粋な事を言ってしまうと「法廷で争う時の状況証拠が犯人の供述だけって事は無いやろう。いくら何でも鑑識とかも何か掴んでいるやろうし。日本の国家権力の科学力を舐めてはいかんぜよ」とは思いましたが。(後。重盛の娘とか…扱いが中途半端かなあ)

 

とは言え。これまでで完成されていたと思っていたやり方を。がらっと変えた是枝監督には敬意を表しますし(何様だよ。そしてつい最近見た、当方のこのフレーズ)これからの作品も楽しみだなあと思った是枝監督作品でした。