ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「この世界の片隅に」

この世界の片隅に」観ました。


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こうの史代の同名漫画の映画化。

第二次世界大戦末期の広島。呉。

18歳で広島から呉に嫁いだ「すず」という女性を通して。

すずの。当時では普遍的であった「あまり知らない男性の元に嫁いでいく」「そしてそこでの生活」という日常と。そして「背景にある、戦争」の姿を描いたアニメ作品。

戦争映画。特にアニメには生理的な恐怖のあった当方。かつての戦争アニメ映画は、どうしても鑑賞した時期が子供であった事。その…(子供目線では)はっきり言うとグロでしかなかった事からのトラウマから。どうしても避けがちなジャンルでしたが。

ですが。「のん」こと能年玲奈が何やら芸能界でややこしい塩梅になっている(らしい)からか?大きな宣伝が出来ない、というその嘆き?みたいなものが当方の映画情報収集ツールに映画公開間際に溢れだし。

「それでも観て欲しい!」「これは後世に伝えるべき名作だ」云々。余りにもしつこくて。何だか気になって。初日初回から観に行ってしまいました。

それから一週間経って。

あれこれと脳内で反芻し。色んな思いを泳がせ。脳内で組み立てようとしても。全く纏まらず。

「もうええわ。いける所までただ書いてみよう」そう思って。今駄文を打ち始めている訳ですが。

多分オチは付かない。ですが。当方の過去感想文「マッドマックス」「七人の侍」方式で書いてみたいと思います。
(話の内容にはガンガン触れてしまうと思います。ご了承ください)

☆戦争映画
当方の身近な教育者が語った言葉なのですが。(ちなみに、その人物には左右の思想的な偏りはありません)

「日本の戦後教育に於いて、最も成功したのは『戦争は悪だ』という考え方の定着だ」

色んな考え方がありますから。それは全てではありません。
当方もまた、戦争というものに対して、ポジティブな考えはありません。ですが。
例えば自分の大切な人を傷つけたり、命を脅かし、奪った者が居たら…それには牙をむくでしょう。でもそれは、あくまでも個人規模であって。
そこまでの嫌悪や憎しみを、多くの民に向けなければいけない思想や、団体、国は当方には無い。

「命の重み」それは如何なるものよりも貴いと学んだ。そしてそれを奪う事の無意味さ。そして奪われる事の理不尽さも。

戦争に付いての映画のイメージは「戦争は愚かだ」「間違いだ」「悲しい」そして「怖い」

「戦争なんて絶対嫌だ。誰かをこの手で殺してこいなんて絶対に嫌だ」「食べ物や物資が無くなり。人々の心にゆとりが無くなる。その時の本性の醜さ。浅ましさ。かなしさ」「暴力では物事は解決しない」良くも悪くも「過ちは二度と繰り返しませんから」

大人になるにつれて。かつての戦争映画から冷静に物事をみれたらなと当方は思うのですが。つまりは「リアルな当時の人達の姿。考え方。日常」

戦争の。そして原爆について。如何なる言葉でも表す事など出来ない悲惨さ。ですが。

その「悲惨さ」ばかりが目に付いて。ショックで。どうしても幼かった当方には戦争映画は「怖いから嫌だ」というシャッターでしかなかった。
「怖い」「だから戦争はいけない事だ」

今。歳を重ねた時。「その当時の人たちがどう思っていたのか」という事を、きちんと知りたいと思う訳ですよ。だって。もしも当時の人たち皆が「戦争は悪だ」と思っていたのなら…でもそんな事はないと当方は思うから。

戦争が悪で愚かであったとしても。あの時代の人たちが悪であった訳でも、愚かであった訳でもない。

戦争時代。もしかしたら、今日明日死ぬかもしれない。そんな気持ちでピリピリして毎日を送っていたとは…やっぱり思えなくて。

どこかでのんびりとした営みがあって。今の我々と同じような生活もあって。でもどこかで。「戦争が起きている」という異質な日常がある。その時代の人達はそれとどう折り合いを付けていたのか。


戦後70年。直にその時代を聞けなっていく当方達が。必死になって全てを聞いていかなければ。悲しいかな、恐らくラストチャンスの当方達が。


☆すずさん
「のん」こと能年玲奈のヒット作「あまちゃん」を、当方は見れませんでしたが。(と言うか、普通の社会人は朝ドラを見る余裕なんてありませんよ)
彼女が「憑依型の天才」である事は、今回当方もしみじみと実感しました。

「ああ。天然女子」

リアルに身近に居たら、当方はすずさんを長らく受け入れられないだろう。こういう、ヘラヘラして頼りなくて、一見流されっぱなしの女子は。

当方が終始共感していたのは、すずが嫁いだ北條家の姉。径子。常に自分で物事を決めて。でも心が折れて出戻った。
すずにとっておっかない小姑。てきぱきして。言葉も態度も厳しくて。

弟が見つけてきた、どこの誰とも付かない、ふわふわとした小娘。そりゃあ、気に食わんな。

幼い頃から絵を描くことが大好きで。夢見がちで。不思議な体験もしたんだかしてないんだか自分でも分からない。足元の定まらないすずさん。

そんな彼女が。名前も住所も分からない所に嫁に来て。

「本当に…ええ所に嫁に行ったなあ」径子が怖い?ええやないの。別に大した事は無い。径子かて結局はええ人なんやし。周作は間違いなく「運命の人」やし、北條家の両親も良心的。


後でパンフレットを読んだのですが。これ、嫁に行って1年の話なんですね。何だか、嫁に行って何年も経った様な感じがしていましたが。

そう思うと。たった1年の間が怒涛の1年だったんだなと思いますね。

北條の家で。可愛がられ。食糧難もどこか明るくこなそうとする。夫の周作とも「初めて出会った見知らぬ人」(そんな事無いけどな)から。結婚してから恋をしていく。それを可愛く思ったり。色っぽく思ったり。

「この世界の片隅で」すずさんはふわふわと漂っていた。彼女を見つけた周作によって。彼女は地に足を付ける事が出来た。でも。

軍港を持っていた呉の、度重なる空襲。始め、それはどこか現実離れしたものだった。



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(と言うか。確かに「こんな時に‼」と思う発想ってあるよなあ~と思った当方。)

しかし。どんどん現実のものとなっていく空襲。日に何度も防空壕に避難。昼も夜も関係なし。疲弊していく神経。そして爆撃を受けて。

あの。のんびりふんわりしたアニメの絵面が。どんどんと変化し。ぐにゃぐにゃになっていって。

「うちはぼんやりしたままでいたかった‼」「ぼんやりしたまま死にたかった‼」その叫びに。涙腺が崩壊した当方。

絵を描くことが大好きで。優しい家族に迎い入れられて。ちょっとおっかない姉は居ても。皆で仲良く生きていくはずだった。なのに。

どうして。どうしてこんな事になった。何故大切なものを奪い去られた。何が悪かった。自分が何をした。


折角見つけたはずの居場所は。自分が居て良い場所では無い。

空襲の最中。空を舞う鳥に「そっちに行っては駄目」と追いかけていくすずさんにこそ、こちらは「あんたがそっちに行くんじゃない」と心の中で叫び。

「ここには居場所が無いから、広島の実家に帰らせてくれ」という、その日にちが8月6日という絶対に行ってはいけない日で。

先だっての事で辛く当たっていた径子も、その他北條家の誰もが「ここがお前の家だ」と認めていたことで、すずさんは舞っては行かなかった。

戦争が終わった日。すずさんは頭を地面に付けて泣き、径子は物陰に隠れて泣いた。

でも。北條の母、サンはとっておきの白米を炊いた。

失ったものは戻らない。心の隙間も完全には埋まらない。でも、いつまでも泣いてはおれない。女は強い。

すずさんの実家の浦野家の壊滅状態。いつも恋をのろけていた妹の、これから迎えるのであろう「黒い雨」案件。語られないけれど。後世の当方達には見える、彼女の絶望的な顛末。

この映画のテーマソングであった、コトリンゴの「悲しくてやりきれない」サトウハチローの。昔から知っているこの曲が。女性ボーカルでふんわりと流れる。本当にこの作品に。すずさんのイメージに合っているなと思いました。

ふわふわ。ヘラヘラして。何事にも流されているように見えて。でも、彼女は流されている訳では無い。彼女は強い。


エンドロールも含めての作品。世界は厳しくて。でも優しい所もある。

☆今思う事
当方はこの作品を公開初日の初回に観に行きました。
ただでさえ涙脆い当方ですので案の定ボロボロ泣いて。「これは凄い作品が出たな」と思いました。ですが。
当方が映画館で体験した「上映終了後、拍手が起きた」という現象。(何年か前の映画「レ・ミゼラブル」でもありました)
単純に「凄いものを観た!有難う!」という気持ちなのは勿論分かっています。分かっていますが。

この作品が公開されて、色んな感想を目にしているのですが。例えば前述した「映画館で鑑賞した後の場内の拍手」その伝播と拡散。最早儀式。
この作品に対する、余りにも諸手を挙げての大絶賛に、少し座りの悪さを感じ出した天邪鬼な当方。

いや。「暗い。怖い。どんよりする」というイメージのかつての戦争映画とは全く違う、新しいアプローチだとは思いますし。確かに名作だと思うんですが。ですがですが。

余りにも称賛の声が画一的すぎて。「プロパガンダ映画に落とし込まれないか。」という不安が過るんですよ。勝手ながら。

映画の訴えるテーマがあまりにもすんなり受けれられる感じだったからか。当方も含め、戦後生まれの世代の語る感想が偏ってくる。

これは名作だとは思うけれど。でもこれは。どんなに取材をして、土台を固めたとしても結局はフィクションで。

この作品の原作者のこうの史代さんも。映画製作に関わった人達も、恐らく当方の想像なんてはるかに超える情報収集をした上でこの作品を作られた。その事は当方も分かります。そうして作られた作品なのだと。

だからこそ。簡単にこの作品を消化して、簡単に「感動した」「拍手の嵐」「戦争って嫌だな」と流してはいけないのだと思いますね。

当方が思ったのは「自分の祖父母は、この作品を観たとしたらなんと言うのだろう」です。

まさにすずさん世代であった彼らが。フィリピンに出兵したという祖父が。鹿児島県の知覧にある特攻隊基地跡の展示施設で泣いた祖母が。一体何と言うのかと。

決して聞く事の出来ない、逝ってしまった祖父母を思い。近くに戦争体験者が居ないので、何も聞けない切なさに。また泣けて。

かと言って。彼らは生きている時も戦争の事など語らなかった。戦争の事…言いたくない、話したくない事で。忘れたかったのかもしれない。話さない自由もある。…ただ、意外とあっけらかんと話しそうな気もするけれども。



「これはとある広島の呉のすずさんの話」そして身近な誰かの話。そして誰かの。話が紡がれていって。

そうやって肉付けされていく。そしてリアルな当時の人たちの姿。考え方。日常を知っていって。そして彼らにとっての「戦争」が浮かび上がってきたら。


これはそのきっかけになる作品なのだと、当方は思います。


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映画部活動報告「男と女」

「男と女」観ました。


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「ダバダバダ ダバダバダ」の音楽でお馴染み。1966年のフランス映画。

「50年の時を経て。デジタルリマスターでスクリーンに蘇る!!」そんな宣伝を受けて。観に行ってきました。


いやあ~。素敵でしたね。

「日本人よ。これがエレガントの極みだ」

豚になった男が。飛行機に乗って。そう語ってきそうな粋作品。

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当方のようなしがない酔っ払いが。50年前の、散々語りつくされた名作に何を言う事が出来るのか。…何もありませんけれども。
(「彼は酒に酔っているのではない。自分に酔っているのだ:カラマーゾフの兄弟」そんなテンションで書き出す当方)

という事で。いつものようにだらだらと書かずに。シュッと駄文を書いて寝ようと思いますが。

寄宿学校に子供を預ける、とある父兄。子供が居るけれど。互いに伴侶を無くし。今はシングル。

ある週末の夜。子供と過ごし、学校に送り届けた後。帰る電車を失った女を車に乗せる男。
車の中で。かつての伴侶との甘い生活を語りながらも。惹かれていく二人。そして。

何だかんだ断ったりしている様で、とんとん拍子にデートを重ねる二人。子供達も馴染んでくれて。

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この出会いは運命。相手に堪らなく惹かれていく。きっと大切な人になる。私たちは幸せになれる。

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なのに。そこで過る、「かつて愛した人」

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50年前。当方の両親よりも年上のあの俳優が。そして女優が。


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「何て美しいんだ…」


うっとり。そして、元々の造形の美しさはもとより、メイク及びスタイリング、服装に至るまでが全く古くない。

「それが『パリジャンヌ』ってやつですか?!」


またねえ。「映画関係の職業の女」と「レーサー系の職業の男」って。どんなハイクラスの男女よ。

「当方の想像する、シングルで働きながら子供を育てている男女…」内容を書いたが最後、とんでもない事になりかねないので省略しますが。
まあ…男や女を捨てずに恋をして。しかもこんなハイスペック同士でなんて。夢のまた夢ですね。生活の不安が無いなんて。(リアルな意見)

でも。そんな夢を見せてくれる。だってそれこそが映画だから。

デジタルリマスター版以前を。当方は恥ずかしながらあんまり知りませんが。

兎に角絵面が美しいんですよ。

二人で居る時のモノトーン。かつての相手といる時のほのぼのとしたシーン。そして海に行くシーン。

船に乗っている時なんて、もう女優さん(アヌーク・エーメ)の表情全てに釘付け。こりゃあ、当方だって好きになっちゃうよ。太陽の光を浴びてきらきらして。

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とある自動車耐久レースを経て。ピークに盛り上がる二人。そして…なのに。


「それはあかああああん!」心の中で叫んだ当方。それはあかん。絶対にあかん。

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こんなにやりきれない出来事はない。当方なら…一人になった途端、やるせなくて、大人やけれど泣いてのたうち回るかもしれません。でも。


「これがエレガンスの極みだ」

まったくだよ!まったく…パリジャンヌって奴は…小粋で憎たらしいんやから。

流石の名作。50年の時などものともせず。ガンガン観る者を振り回してくる。


そして。

同時上映であった「ランデブー」

早朝のパリの街を。アクセル全開で。ノンステップで疾走する、ただそれだけの8分48秒。

シンプルでありながら。「あっぶねえ!」と思いながらも。いつの間にかワクワクが止まらなくて。いつの間にかニヤついて。

個人的にはかなり好きなショートムービーでした。

もう。大満足。


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映画部活動報告「PK」

「PK」観ました。


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インド映画。

「きっと、うまくいく」の監督と主演が再びタッグを組んで。新しい作品の主人公は…なんと宇宙人?!何にも知らない。常識なんて関係無い。皆からは「PK(酔っぱらい)」と言われる。そんな型破りなPKが探すのは…まさかの神様‼

映画館で、そんな予告を目にして。

「きっと、うまくいく」良かったからなあ~と思い、観に行きました。

そして観賞後。

「これ。本国インドではどういった反応やったんやろう?」

当方にとって、基本的に明るくて、おおらかな印象のインド映画。歌って踊って結果ハッピーなイメージ。それが。

「こんなにスケールアップして。宗教に対してややこしそうなインドで、真っ正面から宗教に切り込んで。かと思ったら、お決まりの歌とダンスもあって。恋もして。全部盛り込んでるのに、全部ケリが付いている‼」

宇宙から(何故かインドに)降り立った宇宙人。
全裸に首から光るでっかい首飾りを下げて。
でも、初めて出会ったインド人に首飾りを盗られ。(全裸で棒立ち。無防備ならそりゃあ盗られますよ。だってインドやで(失言))
その首飾り。実は宇宙船を呼び出すリモコンで。それが無くては、宇宙人は星に帰ることが出来ない。
慌てて追いかけるも、その盗人には逃げられ。

紆余曲折ありつつも、やっと言語を取得した宇宙人。そしてその盗人が逃げたと思われる、人が沢山集まる町へやって来た。

盗られたリモコンを探す宇宙人。人々にリモコンの事を訪ねまくる宇宙人。人々は戸惑うばかりで。

「おかしな事ばっかり言って。お前はPK(酔っぱらい)か」
「こんな大都市で探し物が見つかるか。神様にお願いしたら?」

神様?神様に頼めばいいの?そしたらリモコンは返ってくるの?

で、具体的に神様って何処の誰なの?

PKと名乗る事にした宇宙人は、インドにある有象無象の宗教に片っ端から飛び込む事で「神様」に出会おうとするが。

この、PKだけの主観で話が進むと、ただただややこしい話になってしまうのですが。

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ヒロインのジャグー。

インド人って、はっとする程美しい男女が居ますね。ジャグーの美しさ。ソー・キュート。

留学先のベルギーで恋に落ちたジャグー。相手はパキスタン男性。

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ラブラブな二人。でもその恋は悲しい結末を迎え。

失意を抱え。祖国インドに戻り、テレビ局に就職したジャグー。

お茶の間ニュースのリポーターを担当。しかし、下らないニュースを読む毎日にうんざりしていたある日。奇抜な格好をしたPKに出会う。

初めはわくわくしてPKに近づくジャグー。でも。二人っきりになって話を聞いて。「こいつ…やべえな」引くジャグー。けれど。とある出来事を目にして、PKが本当の事を言っていると知って。

153分。やっぱり長いインド映画。

もし他国の映画だったら「このエピソードには時間を取るけれど、こっちのエピソードははしょり気味でいこう」(そんな話があるのかは知りませんよ)と、緩急を付けて展開するのでしょうが。

きっちりどのパートにも時間を掛けてくる。そしてそれを飽きさせない歌とダンス。

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「神様って何処の誰?」「こんなに多方面からアプローチしているけれど、神様からのレスポンス無し」「神様って…どこに居るの?」

疲弊していたPK。出会ったジャグー。

ジャグーもまた「神様」にはうんざりしていて。

と言っても、ジャグーが本当にうんざりしていたのは「神様」をネタにして胡散臭い活動をしている「宗教家」達。

家族は「教祖様」に心酔し。彼が言うことは絶対。明らかに怪しいのに。

なのに。ジャグーはどこかで彼らを切って捨てる事が出来ない。

インドとパキスタンというややこしい国の問題。そんな相手と恋に落ちるなんて。父親は即座に教祖様の元に走り。

教祖様の予言に動揺して。かなり強引な展開を繰り広げようとしたジャグー。(本当に、驚きですがね。あれ、大抵の男性はああいう行動を取るだろう。それでも仕方が無いよと当方は思いましたがね)そして案の定心はズタズタに切り裂かれ。結果は予言通りに嵌まってしまった…でも。

「やっぱり、あんなの。おかしいじゃないの」

自分の心の痛みには蓋をして。でもやっぱり切り込みたい。
おかしいものにはおかしいと言いたい。


当方は如何なる宗教にも通じていませんし。何の学もありません。

明日天気になあれと神様に祈り。いただきます、ご馳走様でしたと自然に手を合わせ。ピンチには神様お願いしますとお願いする。そんなレベルの当方。

そこに訴える「神様」は…正直、何も実体は無い。思い描くものも無い。

逝ってしまった白猫を思い、酔って泣いて。動物霊園で猫とその仲間達に手を合わせ。猫の写真に行ってきます、ただいまと挨拶する当方。いつかは会おうぜと語り掛ける当方。

ただの酔っ払いのおいちゃんですが。

「何を信じようが自由。ただ。それは皆の幸せを祈るものであって。誰の事も、傷つけたり、強要するものでもないはず」

「宗教。政党。思想。高すぎる化粧品。下着。布団。浄水器」当方の中で「信じるのは勝手だが、他人に強要するな、されるな」案件。

「日本人は無宗教」御多分に漏れず。なんら確固たる信仰を持ち合わせない当方にとって「神様」というのはぼんやりとした存在。

「インド」という国に当方は触れた事はありませんが。

「色んな宗教が乱立している国」「信仰というポリシー」「時には相容れず。対立し、争いの起きる国」そんなイメージ。

だからこそ。まさかのインドで真っ向勝負の「神様って誰?」「皆の言う信仰って何?」「その宗教の儀式の意味と有効性は?」その直球すぎるPKの疑問に震えた当方。

(余談ですが。確かに学生とか新人の「素朴な疑問」って奴ほど答えられない難題は無かったりしますね。物事って、慣れると全体が見えなくなりますから)

ただ。当方が「インドなのかなあ~」と思った事。


「神様は、居ない」このベクトルには向かわなかった事。


あくまでも「神様」という存在は居るという前提は崩さず。

PKが迷宮入りしようとも、大体が「神様はどこに居る」「どうしたら思いは伝わるのか」に焦点は当てられ。

一瞬「神様って、なあ~いさ。神様ってう~そさ」という思いに傾きそうになっても「神様にアクセスするポイントが宗教であり、そのツールが儀式だ!でもそれ…おかしなやつがあるぞ!これじゃあ、神様には届かないな!」という発想に切り替え。

ジャグ―がテレビリポーターであったことも幸い。その発想と視点は一気にインド中を掛け巡り。


前述していますがね。この作品の凄い所は「神様と宗教」だけにテーマを絞った訳では無かった。「恋」もがっつり絡むあたり。


紆余曲折ありながらも~なんて超簡単にまとめてしまっていましたが。あの、言葉を取得するまで世話をしてくれた兄貴。その懐の深さ。情。

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(そしてさらっと語られたインド風俗。あれが本当にある事なら…夢がありますね)


「えええ…兄貴~~~」という爆発を食らった衝撃の展開。その直後の「PK VS 宗教家」というデスマッチ討論会。

絶対に「兄貴カード」を切ると思っていたPKが繰り出したのは「まさかのそっち?!」という思いがけないパンチ。あれよあれよと公共の電波で繰り広げられるジャグ―旋風のドミノ倒し。

当方はねえ。泣きましたよ。涙が止まりませんでしたよ。

そして。PKの。「自分を殺して試合に勝った」PKのスピーチ。「神様は…」この理論の染み渡る感じ。

(これ。一応はあくまでもネタバレしないようにオブラートに行こうとしているんですが…そしたら何かもう。何があったのか全く分かりませんね)


そうですね。神様との距離感は当方も全く同意です。

「宇宙人は嘘を付かない」

PKは地球で多くを学んだ。痛い目には沢山あった。良い事もあったけれど。…そして嘘を付く事も。でも嘘は絶対にいけない事では無い。

それが時には優しさになる事も。

胸の痛みを伴うけれど。


当方にとって、明るくておおらかなインド映画。

それが繊細で。緻密な面も見せて…でもやっぱり楽しい。

新しいインド映画を観た。やっぱりインド映画は見逃せない。そんな作品でした。

(写真は初日初回のノベルティーティッシュ。勿体無くて、ただ眺めるばかり)


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映画部活動報告「ダゲレオタイプの女」

「ダゲレオタイプの女」観ました。


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黒沢清監督のフランス映画。

フランス発の写真撮影技術「ダゲレオタイプ」長時間の露光を利用し、水銀版にその唯一の姿を刻み込む。
その技法を生業とする写真家の助手になる主人公。彼がその写真家の住む屋敷に向かい、面接を受ける所から物語は始まり。

思いがけない規模のお屋敷(最早城)そこに住む、写真家とうら若き一人娘。

そして「青いドレスの女」

「写真学校の学生とかの、下手に知識がある奴は駄目なんだ」面接は速攻通過。早速見せられる「ダゲレオタイプ」撮影。その壮大なアナログ感。
結局は家族操業。美しく、若い娘。いわくありげなこの世のモノでは無い青いドレスの女。でも。自分には危害を加える訳でもないし。


「まさか、年に2回も黒沢清監督作品が観られるとはなあ~。」

昨年。カンヌでも高評価を得た「岸辺の旅」当方の拙い映画感想文も書かせて頂きました。そして「クリーピー」。
「あんたこそが「クリーピー」だよ」竹内結子にそう言って。いつ「ラ王食べたい」と言い出さないかと西島秀俊を揶揄し。

皆大好き。黒沢清作品。

「岸辺の旅」が余りにもまともだったせいで。(勿論名作ですよ)却って混乱してしまった、古くからの清ファン。

「突然階段から日本兵が落ちてくる」「突然部屋の隅にゴスロリのおねいちゃんがうずくまっている」「中谷美紀が無意味にウイスパーボイスで語りかけてくる」「首長竜が側溝から首を出してくる」「不安を語りだすと自然と照明が暗くなる」云々。こんな事が起きないかとはらはらどきどきしてしまい、集中出来ない。

全く…憎めないですよ。清ってやつは(ちなみに。下手に他の真面目な監督でそんな事をしたらキレると思いますね)

フィールドをフランスに移動しつつも。その「憎めない清」っぷり、満載。

と言うよりも。「清、フランスの方が合ってるやん」思わず敬語を忘れて(今さら)つぶやく当方。

映像の美しさ。フランス人やその生活基盤を映しているので絵面も美しい。何より「ダゲレオタイプ」の美しさ。はかなげで、どこか冷たく硬質な感じもする印象を的確に表すフランス人。(やっぱり、アジア人では無理)
城という非日常感。女子の可愛さ。男子のむさくるしさのソフトフォーカス効果。(だってあいつ。何で赤の他人があそこまで入り込んでくるのか)

そして。フランス映画なら許される。整合性の無さ。

途中までは、何とか辻褄を合わせながら鑑賞した。でも。

「何であの時。彼女があそこに居た」

そこからの怒涛の階段落ち。そして強引な畳みかけ。勢いだけは半端なくて。愛する彼女の扱いは雑で。そんなのあり得なくて。

でも。「そんな不条理が起きそう」という印象で。納得出来る、フランス映画。

だって。こういうフランス映画。観たような気もするもの。

不条理。辻褄は合わない。でもお洒落で美しい。そんなフランス映画。観た事あるもの。(女子口調)


そこからはぐっと「岸辺の旅」に近づいて。あり得ないのに、何だか泣けてきたりもする訳ですが。

まあ。現実的な意見を述べさせてもらいますと。

「筋弛緩薬のあんな大瓶は無い。」「筋弛緩薬を少しでも投与したら。あんなしょうもない機械なんかで体位を保持なんて出来る訳が無いし。」「そもそも、息が止まるぞ。」筋弛緩剤というのは、文字通りだらんと全身の力を脱力させますのでね。立位保持も無理ですよ。

そして一人娘のキュートさ。そして温室の立派さ。

あの主人公の頑なな行動に。やっぱり付いていけない気持ちにはなりましたが。

怒涛の畳みかけに。無理やり引きずりまわされて。


「彼女は。もしかしたら、元々夢だったのではないか。長くて一瞬の水銀板に焼き付けられた…」


気づいたら一人。夢の跡。

「やっぱり、こんな気持ちになるなんて…嫌いになれない…」


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嫌いになれない黒沢清監督作品。必見です。

映画部活動報告「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」

「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」観ました。


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1920年台。NY。37歳でこの世を去った小説家トマス・ウルフ。彼を見出し、世に売り出した敏腕編集者マックスウェル・パーキンズ。
その二人のなれそめや。有名作品を生み出した経緯。手にした栄光と失ったのもの。
時には熱く。時には戦い。そんな二人の姿を描いた。地味ながらも熱い作品。

編集者パーキンズにコリン・ファース。トマス・ウルフにジュード・ロウを。トマスのパトロンニコール・キッドマンを。まあ、当方は完全に「コリン・ファース血中濃度」を上げようとしたからの鑑賞でしたが。

今回、あらかじめお断りさせて頂きますが。

「当方が今まさに書いているこの映画感想文。これまでも、そしてこれからのもの全てのクオリティーを棚に上げて書かせて頂きます」「『あんた何様だ』というクレームは聞き流します」「どう脳内で組み立てても、これからの文章はとっ散らかる事になっていますから。あしからず。」

これはあくまでも「個人の映画備忘録」なんで。大体、当方は文章でご飯を食べている訳じゃ無いし。これまでの感想文達も8割方はアルコールを摂取しながら一筆書き状態で書いてきた訳やし。

まあ。何を見苦しくいつまでも言い訳しているのかと言いますと。


「人様の文章をいじくるという事」に、当方も苦しさを感じているから。この編集者の気持ちが分かるような気がしたんですよ。


非常に専門性の高い職業に付いてもう随分経って。ここ数年は、教育的立場で後輩に関わる事も多い当方。(具体的にその職業は何なのかは言いませんけれども)

学生指導から。卒後研修の幾つかを担当。研修レポートやら、~論やら、ケースレポートやらは沢山読んできました。

こんな酔いどれお楽しみ感想文とは全く違う。がっちがちにフォーマットの決定している文章達。

と言っても、当方が研修生という立場であった時は。結局その決まりきった形式の中で、いかに自分の言いたい事を書くか、自分が楽しめるか、分かりやすく書くかを面白可笑しくやっていた訳ですが。(大体、素案とか草稿は自宅で夜に酒を飲みながら書くのがスタイル)

幾らでも固く仕上げる事の出来る文章で。ここぞという大切な所で専門用語やら引用やらを用いて己の主張を代弁させて。訳の分からない言葉で飾り立てて煙に巻く連中の腹立たしさ。

「文章はシンプルに。分かりやすい言葉で。」当方のポリシーですが。

時が流れ。当方が指導する側に回った昨今。

「今日日の若者は、そもそも自分の文章が書けない」

(まあ。確かに当方の職業は文章を書く事はメインでは無いんですが。ですが。毎日の観察ややったことをきちんと記録する事で、情報を共有し、振り返り、分析するのが日常なんで。決してこれらの研修は無駄な事では無いと当方は思いますがね)

小学生の方がもっとましだろうという、稚拙な文章。険しい表情で読み進めるも、結論には導かれず。兎に角広大な野っ原を連れまわされた挙句、いつの間にか一人にされたかの様に途方に暮れて。連れてきた奴を探そうとも、どこにもその姿は無くて。そんな絶望感で一杯になるような訳の分からない文章。

それでも「この学年のこの研修で学んで欲しい事」という研修テーマなんぞを思い浮かべながら、若者と向き合う訳ですよ。

「何でこのテーマを選んだのかな」「どういう関わりをしようと思ったのかな」「プランは」「そして実際は」「その相違は何故起きたのかな」「そこから何を学んで、どう今後活かせると思うかな」延々。手を変え品を変え。これ。実務とは全く別の時間でやるんですよ。時には残業して。

なのに。時に感じる研修生からの「結局、どう書いたらあんたは気が済むんだ」という空気。

あくまでも相手にその答えを導き出して欲しい。だからこんなに根気強く、回りまわって話をしているのに。答えが欲しい。すぐさま欲しい、という姿勢。

「知らんがな!これはあくまでもあんたの研修だろうが!こっちは確かに「これがウケる」という流れは分かっているけれど。あんたの名義であんたが選んだ題材と取り組んだ内容をベースにしているんやから。それを発表するのはあんたなんやから!あんたが納得できるものにならんといかんでしょうが!」

研究で得て欲しいテーマ。職業人として学んでほしい事。あるある。でも。もっと大切なのは「自分の言いたい事」それがあるなら、核となっているのならば。

「今回の取り組みで得た事はこれだ」「これを学んだ」「こういう発見があった」そこがはっきりしていれば。一応はそこをメインにした構成を。どうすればその主張が生きるのかを、共に考える訳ですよ。(あまりにも当たり前ですが。これが分かっていない事は多々あります)


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(何だか話が映画内容とはどんどん離れていってますが。申し訳ありませんが、今回はもうこいういう感じでいきますよ。)

300万語あったと言われる原本。幾つもの出版社から断れたその超大作。諦めがちに持ち込まれたそれ。そこに可能性を見出したパーキンズ。

「これを世に出すために」作者と編集者との死闘が始まる。

かつて。当方が研修生であった時。「ここはこう書いたら」とコメントを貰い。ある時はなるほどなと思いながら訂正し。ある時は「どうしてもここは削れない。これは言いたい事だから」と頑として譲らなかったりした。

そうやって。一応全ての研修を修了した訳ですが。これまでの当方の発表したモノの中で「あれは無かったことにしたい」と思うモノは、成程確かに一つもない。

まあ、自分が書いた何かに対して誰かが真っすぐに向き合ってくれて、きちんと意見してくれる機会なんて。あんまり無いですし。その時はいらいらしたりもしますが。今思い返したら機長な体験ですね。けれど。

研修生と関わり指導する立場となった今。

「当方が研修生の文章をコントロールしているのではないか」「これは本当にこの研修生の言いたい事なのだろうか」不安になる当方。

勝手に「文章が拙い」「こう書いたら分かりやすい」そう思って。確かに初めに読んだ時より、内容は読み手にとってシンプルで明瞭になった。でも。そこには、いい意味でも悪い意味でも元々あったその研修生の個性は奪われてしまっている。
(だから。いつもコメントをした後で当方は「言いたい事が変わっていないか」と研修生に確認するんですが)

そうやって、当方は研修生の個性を潰したのではないか。だとしたら。そんなの、指導じゃない。


パーキンズが言った「偉大なる才能を潰しているんじゃないか」という感じの言葉。

ジャンルもスケールも違う世界に住む当方ですが。「分かるわ~」と太ももを叩く当方。



小説家トマス・ウルフは37歳でこの世を去ってしまった。
脳腫瘍。湧き出る、彼の文章の力強さ。でも。その反面。デリカシーに掛ける発言。態度。これは天才故か。頭の腫瘍も関係したのか。

小説家と編集者、二人三脚で世に生み出したベストセラー。良い時ばかりではない。苦しくて、傷付いて。憎たらしくて。

「あいつが居なければ。もっと自由に書けたら。未知なる作品が生まれるのではないか」でも。どうなったかは、もう永遠に分からない。


終始きちんとした態度で。真面目でお堅いパーキンズが。あの帽子を脱いだその時。



「あの時。貴方を思いながら。ここでこの本を書いた」
それがやっぱり楽しかったと。これが自分の原点であったと。

そう語って二人で見た夕日は。二人共にとって同じ景色であったと。そう思うと羨ましくて。熱いものが胸に込み上げて仕方ありませんでした。

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映画部活動報告「永い言い訳」

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永い言い訳」観ました。

西川美和監督作品。本木雅弘主演。竹原ピストル、深津絵里黒木華池松壮亮などが脇を固め。

小説家の主人公。美容師の妻と二人暮らし。冷めつつある夫婦の関係性。

ある日。妻が友達と旅行で不在なのを良い事に、不倫相手の若い女を自宅に連れ込み。散々楽しんでいた主人公。そこに舞い込む、妻の訃報。
世間的には悲劇の夫。何となくそれを演じながらも、全くピンと来ていない主人公。

そんな主人公の前に現れる「妻の友達の夫」同じ事故で同じく伴侶を失った男。
その男と彼の子供達と触れ合うことで、主人公は人間らしさを得ていくのだが。

「これは…是枝監督作品ですか?」

思わずそう言ってしまいそうな是枝感。子供の描き方が…。何というか「作っていない、上手くない(けれども結果的には上手すぎる)子供」が。そのリアリティーが。

エンドロールで。是枝監督の名前のクレジットに「だろうよ!」と頷く当方。

ただ。全く是枝監督にならった訳では無い。うかうかしていたら、鋭い刃物でしっかり刺してくる(勿論比喩)のが西川美和監督作品で。


この作品に於いての主人公、本木雅弘演じる「衣笠幸夫」の恰好悪さ。竹原ピストル演じる「陽一」の女々しさ。

二人の男の子供っぽさ。単純さ。


子供の時。「これをしてはいけません」「こういうことは、人様に迷惑を掛けます」「こんなことをするのは恥ずかしい事だ」何かにつけ親に言われた言葉。別に当方の親だって、偉人聖人ではありませんが。そうやって社会の規範みたいな事は散々吹き込まれてきた。
だから。大人になって驚いたのは「あれ。やっている人いるぞ。」という事実。

親から躾けられた基盤は、決して世間と同じでは無い。おかしな事をする人は沢山居るけれど。
かと言って、当方は完璧な人間ではありませんので。人様から見たら当方も「非常識だ」と思われる所は多分にあって。
(当方がよく言われるのは「貴方は酒さえ飲まなければまともなのに」ですが…ですがね。違うんですよ。平素まともそうに振舞っているから、酒で壊れるんですよ)

ただ。誰から見ても、明らかに「これは…」と思う欠点というものも存在する。

幸夫の子供っぽさ。自己愛しか無くて、周りが見えていない感じ。

「これは…奥さんよく結婚生活維持出来たなあ。仙人か。」

物語の初めで退場してしまうので。正に死人に口無しですが。
「最も聞きたいのは、この奥さんの言い訳だよ。どういう気持ちでいたのかという」…当方はそう思いますが。まあ、もしそんなのあったら蛇足になりますがね。

妻が突然他界。ぽかんとするばかり。逢引きしていた不倫相手は、後ろめたくてその気持ちを共有しようと幸夫に会いに来るけれど。

「妻に死なれた俺を慰めろ」と強引にセックス。引く不倫相手。

誰も面と向かって大して幸夫を責めはしないけれども。(そして、責めても全然分かっていないという残念さ)離れていく人々。

そんな折。現れた「陽一」と二人の子供。トラック運転手で家を不在にしがちの陽一に、成り行きで提案した二人の子守り。

そこから暫くは、すったもんだの幸夫と子供達の奮闘劇が描かれるわけですが。


本木雅弘の新境地云々」近年クールでしっとりした役を演じる事が多かったモッくん。…当方は忘れてはいませんよ。

シコふんじゃった」等のコメディー作品を。「ギャッツビーつっけて~恰好つっけて~」とはじけまくっていたモッくんを。そもそもジャニーズで「スシくいねえ!」とかやっていたじゃないの。(これはリアルでは知りませんが)当方は忘れてはいませんよ!

伴侶の死。それを乗り越える幼い男というキャラクターを。度量が狭い男を。非常に生き生きと演じておられましたし、下手したらウエットになりそうな話を、ぐっと見やすくしたのは「コメディエンヌピエロ」の役割をしっかり果たしたモッくんの存在ありき。

だから、対極に存在した「陽一」が重すぎず生きてくる。

二人の子供と関わる事で目覚めていく幸夫(の母性)。
今までは自分の事しか見えていなかった。それが。守るものの存在によって広がる視野。責任感。
ですが。

そうやって「俺にも出来る」「俺には守るべきものがある」と浮かれていた幸夫に。ある意味、的確に、冷静に分析し語り掛けられる男。
マネージャーの池松壮亮

「男にとって子育てって、免罪符なんですよね。自分がどんなに最低な奴でも、許されるじゃないですか。」

幸夫が求めた「俺はひどくない」「薄っぺらくない」「誰かを愛せる自分」そう思える相手。でもそれは…結局は他人の子供で。楽しく、良い顔をして付き合える相手で。

勿論この兄妹の間に生まれた絆は嘘ではない。でも。

「正直、あいつらが居なかったらなって。思ったりもしたよ。」

夏。陽一がぽつりと語った言葉。絶対にそれは思うであろう事。これは責められない。誰も責めたりしない…だって。だって、結局彼は決して子供達を捨てたりはしなかったし、これからもそうであろうから。良い事ばかりじゃない。みっともない事も沢山あって。嫌にもなる。でも切れたりはしない。本物の絆。家族だから。

この「本当の家族の絆」に。つい最近関わりだしたばかりの人間が勝てる要素など、何も無い。


結局は、自分の振り返りを、他人への代償行為なんかですり替える事なんて出来なくて。


「もしかしたら。もし妻が生きていたら。そしてこんな時間を持てたら。今の自分のような気持ちで、そこに妻が居たら。何かが違っていたのだろうか。」

一瞬。妻の遺品から見つけた、自分へのメッセージ。動揺するけれども。

送られなかったメッセージ。それは本意なのか。取りあえず文字化しただけなのか。でも。もうそれは二度と確認は出来ない。

一番話をしたい相手が。一時でも自分を愛してくれていた相手が。時間を掛ければまた分かり合えたかもしれない相手が。二度とそのチャンスは与えられない。

そしてそういう状況を作っていたのは、誰でもない自分であるという、間違いのない事実。

でも。都合の良い子育てに免罪符を得ていないで。これにきちんと向かい合わなければ。

どんどん深みに嵌ってい幸夫とは裏腹に、ベタベタに落ちていた陽一の判断。


「ああ。この鍋パーティーは最悪だ」震える当方。

誰もが不快になるしかない場面で。己も自覚しているクズ発言を繰り返すしかないシーン。このいたたまれなさ。そして、もう絶対に美味しくなくなっている、グタグタに煮詰まった鍋。ストロングゼロ。(当方も毎日の晩酌に飲んでいますがね。あの状況でストロングゼロ×2本位で、完全に悪酔いし始めますよ)こんな最低な誕生日会はない。

「もう駄目。何もかも終わった。家族ごっこは終わった」


そして。物語は佳境を迎える訳ですが。

この作品に於いて、誰しもが思う事。そして作中で語られる事。

「何で俺が生きているんだ」

主人公幸夫が。こんな子供な自分では無く、皆から愛された妻に生きていて欲しかったと思い。
陽一が。自分では無く、子供にとっては妻が生きていて欲しかったと思い。

「死ぬなら俺だろう」そう思った事を。決して、自分の口に出した訳ではないけれども。

立場も環境も全く違うけれど。同じことを思って。恐らく同じ答えを導き出した。その解答を言えるのはこの二人しか居ない。


陽一の小学生の息子は、出会った初めから一見大人だった。でも一見だった。
「大人っぽい」は「大人」では無い。
しっかりしなければと自分に言い聞かせ。疲れて涙した事を誰にも言わないで欲しいと懇願し。でも彼は大人では無い。

彼には、きちんとした「子供」の時間が必要だった。何故自分は母親の死に対して泣けなかったのか。父親にうんざりする気持ち。幼すぎる妹に対する怒り。疲れ。上手く言えなくてもいい。きちんと誰かに吐き出せる時間。

彼の前に居た、二人の男。それは年を重ねただけの。子供っぽい大人。

でも。結局彼らは大人。子供っぽいだけの、大人。子供では無い。

彼らは想像した様な、シュッとした大人では無い。スタイルに一貫性も無いし、すぐに弱い所も見せてくる。泣き事も言ってみっともない。でも。

「どんなにぼろぼろになっていても、彼らは自分に寄り添っている。」

母親のように、柔らかく抱きしめてくれるのとは違う。でもずっと、前に、後ろに付いていて。振り返ったり、見上げたら頷いてくれる。手を伸ばしたら、時々そっと握ってくれる。

どんなに頼りなく見えても。それが大人の男たちのやり方なのだと。そう学んで、自らも大人になっていく。

西川美和監督作品でこういう事を思うとはなあ。」


公開初日の夜。仕事終わりに。一人で観た当方でしたが。

何故か周りは二人連れが多い中。

「誰かとの関係性や、家族との繋がりって」と、机上の空論を巡らせた帰宅でした。

映画部活動報告「淵に立つ」

「淵に立つ」観ました。

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深田晃司監督作品。
昨年年末の「さようなら」は、正直当方はいまいちでしたが。

町工場を営む夫婦と、その一人娘。
ギクシャクしながらも、かろうじて家族という形態を保っていた三人。
そこに現れた、一人の男。
夫の古い知り合いだというその男は。家族にとんでもない爪痕を残し。

そして8年後。

「ああこれは。当方の大好きな奴です。不穏な。」

不穏な作品。

一見、怪しいのは浅野忠信

お久しぶりに現れた腐れ縁。犯罪を犯し。罪を償い、出所したばかり。どこかで働くつてはあるみたいだけれど。「それまでの間、働かせてもらえないか?」断れない主人公。何故?何故断れないのか?

また…それが聞けない、壊れた夫婦。

「何でいきなりこの人を雇う事になってんの?」「誰?」

それが聞けない。冷めた夫婦。

不穏で、怪しくて、壊れそうなのはこの夫婦。

いきなり見知らぬ男が。夫が「俺の古い知り合いだから。住み込みでよろしく」と言って、それが成立する家庭。

夫婦は余所余所しく敬語で会話し。同じ職場でありながら必要最低限しか話さない。夫婦を繋ぐのは一人の娘だけ。正に「子はかすがい」

思いがけなく、家族に潜り込んだ男は家族を侵食し。そして壊していく。


「本当に、彼が家族を壊したんだろうか」

8年後。かろうじて家族の形態を保っていた、その家族。その「絆」の実態。

かつて。二人の間に交わされたのであろう愛情。実際に、愛故にセックスして産まれたはずの娘。でも二人の間に最早愛情は無い。

子はかすがい。冷めきった二人を、かろうじて繋げたのであろう幼い娘。

とある不幸な事件をきっかけに、ある意味「永遠に幼い娘」になってしまった娘。


「もしかしたら。彼は壊したのでは無く。家族を再生したのではないか」


恐らく一生。誰かの世話になるしかない娘。今時分は、自分たちが。というか自分が世話をするしかない娘。

「病は何かの罰ですか」という系統の考え方に触れた事は。当方は何回もありますが。

「所謂、かつての成人病のように、生活習慣故になる病気も数多あるけれども。例えば先天性は、例えば癌と言われる悪性疾患は。それに罹患する人は、何かの得を積まなかった人だと言えるのですか?」

「私は。癌になった」「ダウン症だ」「白血病だ」「精神を病んだ」「糖尿病だ」「膠原病だ」「腎臓病だ」「心臓が止まった」「胃に」「腸に」「穴が開いた」「失明した」「突然難聴になった」「何もかも怖くなった」「花粉症になった」「水虫になった」まだまだある。まだまだある、数多の病気は。何かの罰ですか?

当方ははっきり言える。「病は何かの罰ではない」絶対に無い。絶対に無い。そう言ってきた。


でも。誰かがきちんと「管理」しなければ。死んでしまう病もある。

それを。恐らくこんな御託をこねる暇など無く。人から見たらいくらでも突っ込まれながら、それでも頑張ってきた母が居る。

「俺たちはこういう状態を経て夫婦になった」

何らかの病を間にして。そうして成立したのだと。
どんなに死んだ夫婦間であろうと、絶対に言われたくない言葉。

加えて知りたくもなかった過去。こんな奴とは一緒の空気も吸いたくない。なのに。

結局は同じ目的には向かわざるを得ない…だって腹立たしいけれども「家族」だったから。


「淵に立つ」という題名がそのまままの意味合いであるのならば、確かにどこかの崖ぷっちに立ちっぱなしであったこの家族。

家族という形態から。

夫婦という形態から。

愛し合う二人という形態から。

そして。誰も他人がジャッジ出来ない「家族」という形態から。


同じ目標に対して走るのは。最早何の答え合わせなのか。


最後に。当方からのしょうもないチャチャ。

「本当の潔癖性は、固形石鹸を使わないぜ」おそらく。


夫の古館寛治がねえ。大好きなんですよ。「受難」も凄く良くて。でも筒井真理子が。凄い良かったですね。

「あのむしゃぶりつきたくなるビジュアルから。しっかりおばちゃんのお尻に仕上げた、そのリアリティー」

馬鹿言ってんじゃないの。ふざけんなと思いながら。どこかで不安になる、己の罪。そのせいだと言われたら怖くて。そしてその甘さも忘れられなくて。

キリスト教徒だとか。プロテスタントだとか。その詳細は当方は全く分かりませんが。

「この事態が己の罪」と思う事と、夫がぬけぬけとそれを言った事と。これから抜け出せない永遠と。突き詰めたい原因と。

「恐らくこのままなら幸せ」

8年前と比較して。全く様相の変わった、そのビジュアルに。

多分誰も目を覚まさなければ幸せなのにと、切なくなった当方…。