ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「フェアウェル」

「フェアウェル」観ました。
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『親族総出でついた、優しい嘘』

 

アメリカ。NYで一人暮らしのビリー・ワン(オークワフィナ)。物書きを目指すけれど一向に芽が出ず。生活はぎりぎり。

ある日。両親から、日本に住むいとこのハオハオが中国長春で結婚式を挙げると知らされたビリー。「まだ付き合ったばかりじゃなかった?デキちゃったの?」そうはやし立てるけれど。両親の表情は暗く、しかもビリーは結婚式に参加するなと釘を刺される。

理解できずに父親を問い詰めると…中国長春に住む祖母のナイナイが肺癌で余命3か月である事と、直ぐに感情を顔に出してしまうビリーは中国に行くべきではないと告げられた。

暫くして。ハオハオの結婚式の為、25年ぶりに長春に親族が集まった。そこに強引に合流したビリー。

「癌そのものではなく、癌に侵されている恐怖が人を殺してしまう」。ナイナイに告知しないように接する親族と、「真実を告げるべきだ」。と対抗するビリー。

西洋と東洋の思想の違い。家族の在り方や死生観をぶつけ合う彼らは…。

 

「監督のルル・ワンの実体験に基づいた話」

 

おそらくこの作品の感想はやや厳しい内容になる。けれど、当方は…この作品を決して否定はしていません。

ルル・ワン監督が実際に体験した事が基盤となったこの作品。主人公のビリー=ルル・ワン監督なのだろうと思いますし、彼女がこういった場面で見たものやそこで受けた感情が率直に描かれた内容なのだと感じた当方。

物語は得てして誰かの視点で成り立つ。なのでこれはこれで「分からなくはない」のですが。ならば当方もまた、正直に感想を書いてみたいと思います。

 

人が生を終える。身内以外のその時に立ちあった事は何度かありました。

今はそういう現場には居ないので、古い話になりますが。「普段関わっていない家族ほど大きく悲観する」という印象を持った事は複数あります。

亡くなった方に常に寄り添っていた人。その人は大抵、よく頑張ったなと静かに故人を撫でさすっている。

 

中国とアメリカ。距離的に会う事がままならない祖母と孫娘。互いに好意的でしょっちゅう連絡を取り合って。その仲の良さを当方は何も否定しない。否定しないから…だから貴方も否定はしてはいけない。大好きな祖母が住む国の考え方。彼らの死生観を。

 

アメリカではこんなの違法よ」「どうして自分の体の状態を正しく教えてあげないの」。

体調不良を自覚し受診した病院で。「肺癌の末期で治療は難しく予後3か月」けれどそう医師から告知されたのはナイナイの妹、リトルナイナイ。

本人には「良性の腫瘍だって」と告げ。親族に連絡し、何とか自然に一同がナイナイに会えるようにとハオハオの結婚式が急遽決定した(ハオハオと彼女のアイコはぎこちないながらもちゃんと恋人同士。良かった)。

 

「ナイナイに本当の事を言うのは誰も喜ばない」

 

「中国ではこうだ」。「東洋ってやつの死生観はな」。そういう事情は流石に詳しくないので。ナイナイの息子(ビリーの父親と叔父)がやや感傷的にそう言うのも「そうですか」と無機質に聞き流してしまった当方。

 

25年ぶりに集まった連中が。次々勝手な事を言う。「癌だと告知しないのが本人の為だ」「これが中国のやり方だ」「そんなのアメリカでは人権侵害だ」。

 

彼らを見て呟く当方。

「ナイナイは一体どうしたいんだ」。

 

当方が唯一聞くに値すると思った親族。ナイナイのそばにずっと居たナイナイの妹、リトルナイナイ。そして同居している男性、ミスター・リー。

ナイナイと生活を共にして。そしてこれからも彼らがナイナイに寄り添う。リトルナイナイの語った言葉。「ナイナイならこうすると思うわ。何故なら彼女は~」。

 

これが彼女にとってベストアンサーだと主張し合うのは不毛。そもそも自分以外の人生においてベストなどという定義はない。それを決めるのは当人だけ。

 

「子供の頃。中国を出て、両親しか知り合いの居ないアメリカで過ごすのはとても不安だった」「その間に住んでいた家も無くなっていた」「離れている間にナイナイも居なくなってしまう。もうそんなのは嫌。中国でナイナイと一緒に暮らす」。

終盤。そういって親に泣きついていたビリーに「それは…貴方が今、アメリカでの生活が上手くいっていないから」。「それはナイナイの余生の為ではなくて、あなたの逃げでしょう」。ひどく厳しい言葉が浮かんだ当方。

当方は誰の親でもありませんが。未来ある自身の子や孫が、夢や希望を捨てて、朽ちていく自分に寄り添う事を望む親は…いないのではないか。

 

これはあくまでも推測ですが。肺癌の末期の患者がいつまでも「これは良性の腫瘍のせいで、風邪が長引いているようなもんだ」とは思わないのではないか。

どれほど家族や医療者が嘘をついたとしても、どこかで本人は分かっているのではないか。

嘘をつき、そして騙されているフリをする。それが優しさである…正直な所、当方もそうは思いたくないけれど。

 

不器用で言葉足らず。そんないとこ、ハオハオが終盤ひたすら泣き続けた結婚披露宴。一生に一度しかない結婚式に付加価値を付けられて。それでも何も言わずにきちんと宴を上げた。彼の優しさよ。

 

「あくまでもこれはハオハオとアイコの結婚式で。だから25年ぶりに家族が揃った。」

結局親族でつきとおした嘘。あくまで推測ですが…ナイナイも含めて。

 

終盤の別れのシーン。

田舎のおばあちゃん。幼かった頃の、家族で帰省した最終日。出発する車を泣きながら追ってきたおばあちゃんを思い出し、一気に涙腺崩壊した当方。

 

ところで。最後の最後のシーンに「そうか…」と思いながらも当方が思ったこと。

 

この作品が生まれる実体験は少なくとも6年以上前。中国の医療現場の実体は知りませんが…その時ルル・ワン監督が感じた死生観は今でも中国で続いているのかは分からない。

日本も同じようにかつては『告知』という決定権が家族に委ねられていたケースは往々にしてあった。けれど今は…本人にダイレクトに告知するケースが多い。

昨今挙げられているように「もし自分に大病が見つかったらどうしたいか」「どういう最後を迎えたいか」という話は時々…大げさでなくていいからしておいた方がいいのだと思う。そうすれば、こういった時の感情の揺さぶりは少し緩和される。もっと有意義に時間が使える…かもしれない。

その人にとってより良い人生は、本人にしか判断出来ない。

本人の体調が悪い時に周りが動揺してかき乱すのは、おそらく気づかれるし負担になる。それこそ「誰も喜ばない」。

 

若かったビリー=ルル・ワン監督が実際に感じた事。けれどこれは歳を重ね、人間関係が変化し大切な人の存在や家族形態の変化を経ると、全く違う側面も見えてくるだろう。そう思う当方。

かつて否定した考えが全く違って響いてくる。けれどこれはどれも悪い事ではない。

繰り返すがベストアンサーはない。

 

悪いものは気をためこんで「はあっ!」と吹き飛ばす。

随分モダモダしたけれど。誰もがナイナイを想って集まって、一緒に嘘をつけたのならば。茶番では無くそれは確かに優しい嘘だった。

そして夢を抱いた場所にまた散り散りに戻って、各々の場所で咲けばいい。心はどうやら通じているようだと確認できた。それは嘘じゃない。

 

フェアウェル=さようなら。

映画部活動報告「マティアス&マキシム」

「マティアス&マキシム」観ました。
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友達の妹から頼まれた、短編映画出演の依頼。それは幼馴染とのキスシーンだった。

半分嫌々。けれど実際にキスをしてみたら。唐突に想いが溢れだしてきた。

今までそういう風に感じた事が無かったのに。子供の頃から一緒に居て、心地いい相手。なのに…どうして?この感情は?

 

グザヴィエ・ドラン。まだ30歳?!」

子役から俳優へ。そして2009年から脚本、監督として作品を続々製作し発表。毎回圧倒的センスを見せつけてくるドランの若いこと。

けれど。今回の『マティアス&マキシム』を観て。「確かにこの瑞々しさは若い彼ならではかもしれない」と感じた当方。

 

というのも。これは「ぎりぎり大人になる手前の二人のロマンス」だから。

 

30歳のマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)とマキシム(グザヴィエ・ドラン)は5歳の頃からの幼馴染。

マティアスはスーツに身を包みエリートコースを歩んでいる。美しい婚約者も居て、順風満帆の人生。

比較してマキシムは実家で荒れくれた母親と二人暮らし。バーテンダーを生業としているが生活は貧しい。近々オーストラリアへ旅立つ予定。

ある日、気の置けない仲間が開いたパーティに参加した二人は、友達の妹から自主製作の短編映画に出演して欲しいとお願いされる。

 

この作品は主にマティアス視点で進められる。幼馴染とキスをした事で沸き起こる感情。戸惑い。これを恋だと認めたくなくて。

 

確かに二人は同性同士だけれど、それはあまりハードルとして重視されてはいなかったと思った当方。加えて言えば、二人は住む世界も随分違うけれど。そこも大きな問題ではない。(全くスルーされている訳ではない)

 

『友情』が『恋愛感情』になる事への戸惑い。大切だと思っていた相手の『大切』の意味合いの変化。相手を性的に求めた事なんて無かったのに…無かった?本当に?

 

仲間たちの間では有名だった。「二人は高校の時もキスした事あったよな」。けれど、マティアスは断固として認めない。

 

「いやいやいや~」当方の中に住む、おばちゃん当方(声大きめ)が堪えられなくなって立ち上がる。

「とりあえずマティアスそこに正座!アンタ往生際が悪すぎるって!」

 

高校生の時に交わしたキス。おそらくその時も同じ様な感情が過った(はず)。けれど即座に蓋をして。変わらぬ友情を貫いてきた。

気持ちに蓋をして無かった事にできたマティアスと、蓋をした事を忘れなかったマキシム。何故当方がそう思うのかですか?マティアスを見るマキシムの表情が終始『憂い』に満ちていたからですよ。

随分時が経って。またキスをした。相手に触れた事で、おもむろに蓋が外れた。

 

おかしな例えですが。当方の妹は大きめのモノを購入する時なんかによく「これを買って、いつか捨てる時にどう捨てたらいいんやろうかって思う」と言うのですが。その度「買う前から壊れるとか捨てる事なんて考えたらあかん」と答える当方。

 

子供の時から一緒だった。最早兄弟みたいな気ごころの知れた関係。そんな相手が『恋人』になる。これまでの二人ではない、新しい関係になる。

けれどもし新しい関係が心地よいものじゃなかったら?もし破たんしたら?

もう今の状態にすら戻れなくなってしまうんじゃないか?

 

ドランの実際の友人達をキャスティングしたという、二人を見守る仲間たち。

リラックスした雰囲気で和気あいあいとつるむ彼らは、おそらく誰も二人の関係がどう変化しようと偏見の目は向けないだろう。

マキシムの顔にある大きな痣を仲間の誰も触れないように。確かにそれは一瞬目を奪われるけれど、マキシムの体の一部であってどうこう言うものではない。

なのに。終盤マティアスがマキシムの痣の事を触れた事で仲間の雰囲気がガラッと変わる…あんなに最悪な状態から、よくあの展開まで持っていけたよなと思いましたが…つまりは「逃げるな」という事だったのだろうと。あのままマティアスが戻ってこなかったらそこで全て終わりだったろうから。

 

30歳。順風満帆に思える人生。出世や結婚も視野にある。もう立派な大人なんだ。そう思うのに、知らず知らず蓋をしてきた気持ちに今になって気づいてしまった。昔はやり過ごせたのに…今度はそれが出来ない。

怖い。これまでの関係が変わる事が怖い。けれど抑える事が出来ない。

マキシムはずっと自分のそばに居た。『憂い』を持って。なのに今、去ろうとしている。

 

「逃げるな」というのは、マティアス自身が己に最終下した判断。

 

「あんなにがっつり相手を求めておきながら、何言ってんだマティアス!白々しい!」

再びおばちゃん当方がいきり立つ。「正直になりなさいよ!」そこからのカウンターパンチ。

 

マキシムがドアを開けた時に、目の前に居たもの。

これは『友情が終わった』わけでも『恋が始まった』わけでもない。『一旦気持ちを確認して、これからも二人は続いていく』話。

 

繊細でしなやか。そんな「ぎりぎり大人になる手前の二人のロマンス」を真正面から食らってしまって…おばちゃん当方はもう息も絶え絶え。

人恋しさが募ってギブミーブランケット状態です。

映画部活動報告「鵞鳥湖の夜」

「鵞鳥湖の夜」観ました。
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2012年、中国南部。再開発から取り残された鵞鳥湖の周辺地域。

ギャング達の縄張り争いが激化。そしてリゾート地となっている湖畔では『水浴嬢』と呼ばれる風俗嬢が大流行していた。

刑務所から出所帰りのチョウ(フー・ゴー)は、古巣であるバイク窃盗団へ舞い戻ったばかりであったが、グループ内での対立から勃発したもめごとに巻き込まれる。挙句誤って警察官を射殺してしまった。

たちまち全国に指名手配。しかも30万元の報奨金付き。

血眼になって捜索してくる警察とかつての仲間たち。チョウは己に掛けられた報奨金を妻と我が子に残そうと画策するが…待ち合わせに現れたのは、リウ・アイアイ(グイ・ルンメイ)と名乗る見知らぬ女だった。

 

昭:カッコイイとは、こういうことさ。

和:どこの紅い豚だよ。あ、どうも。当方の心の中に住む男女キャラ『昭と和(あきらとかず)』です。今回は我々が司会進行を務めさせて頂きます。

昭:前作『薄氷の殺人』も痺れたけれど。ディアオ・イーナン監督のセンスよ!

和:お話の進め方とか繋ぎ方とか、そういう点はかなりブツ切れ感が否めないんやけれど…もう圧倒的画力で押し切ってくる。

昭:途中の光る靴底でダンスとか、見世物小屋とか。もう何あれ?!

和:早い早い。その話早い。

 

昭:2012年の中国南部が舞台。そこで起きた、チンケなバイク窃盗団の仲間割れから暴動。盗んだバイクで走り回って互いに傷付け合って。それを抑えにきた警察官を間違って射殺してしまったチョウ。

和:チョウってどう見ても40代前後にしか見えないのに、なんか窃盗団のメンツが明らかに若いんよな~。

昭:某グループのリーダーって書いてあったぞ。つまりはリーダーが刑務所から帰還したけれど、今の窃盗団は血気盛んな若造ばっかりで。チョウのメンツを尊重した縄張り発表をしたら他の奴らが騒ぎ出したと。

和:しかもその中に銃とか持っている奴がいたから事は大事になってしまった。案の定ぶっ放すわ、撃たれた側はいきり立つわ。

昭:とりあえず銃を取り上げて話をしたホテルの一室。あれ何?スクリーン全体にセロファン貼ったみたいなピンク色。

和:この作品から感じる色気みたいなのは、独特な色彩とか光と影から感じるなあと思った。緑や黄土色や青。

昭:雨の降る夜。妻に自分を通報させようと向かった駅で。現れた女。

和:真っ赤な服に身を包んだショートカットの痩せた女性。妻の代理でやって来たというアイアイと行動を共にする事になったチョウ。

昭:二言目には「私を好きにしていいのよ。満足させられると思うわ(言い回しうろ覚え)」。と言ってくるアイアイ…好みは千差万別だけれどさあ。アンタは抱けないよ。

和:知らないよ!アイアイだっておたくには言ってないよ!

昭:何というかさあ。受ける印象が硬質すぎて、エロさを感じないんよな(小声)。

 

和:(無視)アイアイと行動を共にすれば妻の所に行けるのか?そう思うけれど、警察の包囲網や仲間の追跡が行く手を阻んでどうにも進めない。追いつめられていくチョウ。

昭:アイアイは一体何者なのか。身元は鵞鳥湖でリゾート客相手の売春をしている『水浴嬢』の一人だけれど、彼女が属している風俗商売を取り仕切っている男はチョウの妻から報奨金を横取りしようと企んでいる。彼女は本当に妻の代理なのか?それとも男の手先なのか?

和:警察のなりふり構わない強制捜査。血気盛んなバイク窃盗団。復讐や報奨金目当てでチョウを追う者たち。正直ここゴチャゴチャしてるんですわ。

昭:ただ。そこの不満を遥かに超えてくる圧倒的画力。

和:予告でもあったけれど。あの傘のシーンとか、反則ちゃうの?っていう美しさ。追いつめられた二人が延々街中を歩きまわる、入り組んでくたびれた街並み。堪らん。

昭:途中負傷したチョウが自分で包帯を巻くシーンとかも。何あれ。あんなややこしい事しなくても、着物の袖を紐で括るみたいに出来るんじゃ…とは思うけれど。恰好良いんよな。

和:この作品はかねてから当方が口にする『オサレバー映画案件』かなと。

昭:ああ。あの「オサレなバーで無音で延々流れている映画」ですか。確かにこれが薄暗いバーで無音で流れていたら滅茶苦茶サマになるな。

 

和:後、食べ物が美味そうなのは正義。

昭:間違いない。饅頭とか水餃子とか麺とか。美味そうで美味そうで。ただ最後のアレは、俺の中の北の国からが「まだ食べてる途中でしょうが!」と立ち上がってキレたけれどね。

 

和:男たちがもみ合った、幻想的にも見えたセロファンの夜を経て。女たちが手に入れたもの。

昭:これまでと打って変わって現実的な色調の中。彼女たちの表情。あのオチはなんと言うか…小気味が良かった。男なんて所詮愚かな生き物よ。

和:何だかポエムっぽい言い回しで己に酔ってきた所で。そろそろお開きとしますか。

ってああもう。黙って親指立ててるんじゃない。そして帽子を渡してこないで!やらない!やらないよ!紅い豚は!

昭:カッコイイとは…。

映画部活動報告「プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵」

「プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵」観ました。
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1978年、アパルトヘイト政権下の南アフリカ。白人でありながら、アパルトヘイトに反対する『アフリカ民族会議(ANC)』の隠密作戦を行い、同胞のスティーブン・リーとテロリストとしてプレトリア刑務所に収監された人物~ティム・ジェンキン。

当時難攻不落と言われた、最高警備を誇るプレトリア刑務所を脱獄した実話を元にした作品。

 

「ハーリハリハリハリポタ~」。

ハリーポッターシリーズの主人公でお馴染みのダニエル・ラドクリフ…って個人的にはそんなにお馴染みではない(一応原作は全て読みましたし、多分何曜日かのロードショーで映画も見たとは思いますが)ダニエル・ラドクリフ

良くも悪くも。彼には子役時代の尾を引いていた暗黒時代もあったようですが。当方からしたら、近年の振り切れた彼が選んでいる作品のチョイス。そのマニアック路線。今のラドクリフの方がかなり面白い。今なら推せる。

前作の『スイス・アーミー・マン』に至っては映画館に三回通い。Blu-rayも発売初日購入。当然その年の『ワタナベアカデミー賞最優秀作品賞』を贈らせて頂いたほどのお気に入り。まあ余談ですが。

 

そんなラドクリフが今回演じたのが、1979年に実際にプレトリア刑務所を脱獄したティム・ジェンキン。

白人でありながら、黒人解放運動に関わり投獄された。ティムに課せられた刑期は12年。スティーブンは8年。

「刑期を全うするつもりなどない」。収監当初から脱獄する気満々のティム。とはいえ最高警備を誇るプレトリア刑務所。強行突破は不可能。穴を掘るのも無理。

そこでティムが選択した手段。それは『鍵を開けて出る』だった。

自分たちを閉じ込める10の扉。看守が腰に付けている鍵束を凝視し、形を記憶して作業で使用している木材の切れ端から鍵を作る。

約一年半の期間。来る日も来る日も鍵製作に明け暮れて精度を磨き。看守たちの行動を観察し、予行練習を積み重ねた。

そして遂に。自由への扉を開ける日がやって来た。

 

刑務所脱獄。当方はどうしても『昭和の脱獄王』こと白鳥由栄(4回脱獄)を思い浮かべるのですが。

鉄格子を抜けられるような柔軟な関節を持つわけでもなく。毎日こつこつ味噌汁をかけて鉄を錆びさせるわけでもなく。また、脱獄モノでありがちな穴掘り系でもなく。

「お手製の鍵を使ってドアを開ける」。

シンプルかつ大胆。それも『木製の鍵』で。

「木!そんなの折れるんちゃうの~?!」木の節を使えばいけるんだと。もうこの作品に関しては『実話ベース』という強固な後ろ盾故に、いかなる「そんなわけないやろ~」をも打ち砕いてくる。黙るしかない。

 

1970年代の南アフリカ情勢。アパルトヘイト。黒人たちがいわれのない差別をされ迫害された。当方は社会科で習った程度の知識しか持ち合わせておりませんので、何も語れません。

ティムが何故ネルソン・マンデラ率いる『アフリカ民族会議(ANC)』に賛同していたのか。元々公平な思想の持主だったのか、恋人が黒人女性だった事も関係しているのか。そういった事も…どこかにしっかり描かれていたのかもしれませんが…ちょっと彼の信念的な所は棚に上げられた様に見えた。

兎に角この作品のテーマは「いかに木の鍵を使って脱獄するか」。(まあ間違っちゃいませんよ)

 

刑務所の木工作業。そこで出た木くずを自室に持ち帰り、よなよな鍵を作る。看守が腰から下げている鍵の束を凝視して形を脳内に落とし込み、図に起こして製作する。

「すげえな。アンタ職人やないか」。

ティムの手先の器用さありきでしか実現しない戦法。きっとあれですわ。木から仏像とか彫れるレベルなんでしょうな。

 

106分と割合コンパクトな作品なんですが。終始地味に手に汗握り続ける。「やばいやばい。看守が来ちゃう!」「鍵が!ばれちゃう!」「外から解錠する手段が無いかやってみたら廊下に鍵を落としちゃった!早く取らないと足音が!」なんて。ドキドキが止まらない。

 

外に出るために必要な10個の鍵の製作。脱獄ルート。どういうタイミングで決行するか。作戦を練り予行練習。時々挟み込まれる「ガサ入れ」や「同胞であるはずの受刑者との対立」なんかにヤキモキしたりもしましたが。遂に決行の日。

 

「あの。40年前とはいえ、ちょっとプレトリア刑務所側お粗末すぎやしませんか」。

ぼそっと声に出してしまったが最後、心に滓の様に積み重なっていたもやもやが溢れだして止まらなくなる当方。

「どこが『最高警備』なんですか?」「どうして夜間の看守の数が1~2人なんですか?」「全体的に警備が手薄過ぎませんか?」「ちょっと管理がザル過ぎませんか?」「手作りで複製されてしまうレベルの鍵を運用しているってどうなんですか?」「そもそも何故同じ組織に属していて同じテロの実行をした犯人たちを同じ刑務所に収監するんですか?」

あまりにもずさん。おおらかな時代であったと言えばそれまでかもしれませんが…荒唐無稽な脱獄を遂行されてしまったプレトリア刑務所側に突っ込みが止まらなくて。

何?人手不足なの?働きにくい職場?言いたい事も言えない?オー人事案件?

 

しかも、散々お手製の鍵にこだわりまくっていたティムたちの最終突破もまた…まあこれ実話ベースなんで文句は言えないですけれども。

(最終。本当の人物達の映像を見て、役者たちが随分見た目を寄せていた事に感心)。

 

(こう言っていいのかは分かりませんが)難しい事は考えず、『脱獄モノ』としてみる分には十分。終始地味にドキドキしっぱなしで手に汗握る…けれどどうしてもこの描き方だとプレトリア刑務所側が間抜けにみえてしまうかなあ~という点は気になりますが。

 

近年のラドクリフがチョイスしてくる作品。その癖のある面白さは健在。まだ当方は振り落とされはしませんよ。

映画部活動報告「行き止まりの世界に生まれて」

「行き止まりの世界に生まれて」観ました。
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アメリカで最も惨めな町」イリノイ州ロックフォード。

ラストベルトー鋼鉄や石炭、自動車などの産業が衰退した「錆びついた工業地帯」。

そこに住む白人のザック、黒人のキアー、アジア系のビンの3人は幼い頃からのスケートボード仲間。

貧しく暴力的な家庭。閉塞感で息が詰まりそうな故郷で、スケートボード仲間との時間こそが唯一の居場所だった。

10代。いつだって一緒に居た3人も、少しずつ各々の人生を歩みだした。

父親になったザック。低賃金の仕事を見つけたキアー。そして映画監督になったビン。

これはビンが撮りためた12年のストリートビデオと、そして3人の生い立ち、悩み、葛藤、失望…希望。3人がもがいて、そして今立っている軌跡を映したドキュメンタリー作品。

 

「これは…凄い」「良作」「シンプルに響いてくる」「監督の彼、いい顔になったな」「いやいや。3人共最後は良い顔していたよ」

当方の属する、たった二人しかいない映画部でも大絶賛。

 

作品が始まってしばらく。素人の当方ですら「滅茶滅茶スケボー上手いなこの3人」「スケボーをしながら撮ってんの?」という凄いなあ~の連発。まだ10代の3人がひたすらスケートボード技術を見せつけてくる。すっかりこれはスケートボードがメインの展開になるのかと思いましたが。あくまでもスケートボードは軸。

 

「大人になんてなりたくない」。治安が悪く、街は低所得者で溢れ。学校なんて辞めた。親は直ぐに暴力でねじ伏せてくる。家は安心出来る場所じゃない。

けれど。一緒にスケートボードで町を駆け抜ける時の最高な気持ち。こいつらと一緒に居ると楽しい。安心する。こいつらこそが仲間であり家族。仲間と居る場所こそが自分の居場所。

少年らしく、屈託のない笑顔。失敗を励まし合い。技を決めて称賛し合い。互いに高め合う。

 

けれど。時は彼らをいつまでも少年のままではおかない。

ザックと彼女のニーナの間に子供が出来た。どちらもまだ20歳を過ぎたばかり。二人は結婚し、可愛い赤ちゃんが生まれた。やんちゃだったザックが恐る恐るおむつを替える日が来るなんて。

愛する家族を養う為に屋根職人の仕事にも就いた。こうして一見幸せな家庭を築いていこうとした二人の気持ちは、悲しくも早い時点ですれ違い初め、軋んでいく。

「どうしてお前は夜に出ていくんだ。順番に息子をみると決めたじゃないか!」

「今日は私の日よ!」

互いに募る「どうして自分ばかりが」という気持ち。子供を押し付けて相手は自由。苛立ちが抑えられず互いに大声を上げてしまう。話にならない。

 

ああ。悲しい。

早熟だった二人が親になってしまう。勿論愛し愛されていたからこそ、子供が出来て産む選択をした。なのに。育てる事が出来ない。

「これは…行政の福祉介入とかが無いんやろうな…アメリカの制度って全然分からんけれども。産んだら産みっぱなしか…(溜息)」。

感情がぶつかり合い大げんか。いつだって酒が手放せないザックは、どうやら酔うとニーナに暴力を振るうようで…遂に子供を連れて家を出ていかれてしまった。

 

キアー。実家で母親と甥っ子たちと暮らしている。何をしたいのかが分からない。ふらふらしていたけれどやっとレストランの雑用係の職に就いた。

重労働の割に低賃金。なんだこの仕事はと思うけれど…それでも頑張って続けていたら、認められて厨房の中も任される様になった。

 

「大人になるということとは」

ゆっくりゆっくりと、足場を見つけて。真っ当に働くという楽しみ。けれどここに留まっていては自分のやりたい事が出来ないと、外の世界に目を向け始めたキアー。

幸せになりたい。愛する家族が出来て、家族も幸せにしたい。そう思うのに上手くいかなくて。その苦しみを酒にぶつけてしまうザック。

 

彼らに寄り添い、淡々とカメラを回していたビンが己にもカメラを向けた時。傍観者の立場だったビンがザックとキアーの隣に並ぶ。ぐっと作品世界の奥行が変わる…何というか3人の生きざまがシンクロし、絡みついてくる。

 

「この地域での暴力犯罪の4割は家庭内で発生したものである(言い回しうろ覚え)」

 

閉塞したラストベルト地域。住民達の生活水準は低く、およそ町に活気が無い。

3人とも、親からの…主に父親からの暴力を受けて育ってきた。

そんな現実から何とか逃げ出して、やっと見つけた居場所。なのにいつまでもそこには居れない。大人になんかなりたくなかったのに。

あんな親にはなりたくない。自分の子供に幸せになって欲しい。そう思うのに上手くいかない。

親に言った「大嫌いだ」という言葉。それがまさか最後の言葉になってしまったなんて。

母親の再婚相手から暴力を受けていた。「母さんはそれをどう思う?」

 

ザックの妻ニーナ、そして監督ビンの母親にもカメラを向けている事で「暴力を振るうような奴は最低だ」とは一刀両断出来なくなる当方。

「あの人を愛している。嫌いにはなれない」「今は凄く良好な関係だから」「一人は寂しい」

暴力を受けている子供側からすれば、それはただただ理不尽で苦痛でしかない。けれど、その相手が家族である時。そこに下手に愛情がある事が却ってややこしい。

父親を愛している。けれど暴力を振るわれて納得出来ない部分もある。痛みは単純に辛い。なのに母親は自分を救ってくれない。何故なら父親を愛しているから。

大人になって。子供の為に良い父親になりたかった。なのに「ぎゃあぎゃあ騒ぐような女は黙らせないといけない」と思ってしまう。どうして抜け出せない。自分も同じ事をしてしまうなんて。「今が最低なのは自分のせいだなんて(言い回しうろ覚え)」。涙。

 

「このカメラはどういう存在?」そうビンが問うた時に返ってきた言葉。「これは無料のカウンセリングみたいなもんだ」。

荒んだ町で、スケートボードを通じて知り合った。初めはただストリートを駆け抜ける自分たちを撮っているのが楽しかった。けれど。時が経つにつれて、カメラはその先にある、3人の生きざまを撮り始めた。出会うまでの、そして出会ってからの彼らを。

親友二人にカメラを向け続けたビンはカウンセラーではない。ビンもまた、二人を絡めながら自分自身を振り返る事になった。この作品はビンの超個人的な記録でもある。

 

紆余曲折あった3人の、現時点での状況が暖かいものであったことに安堵した当方。そしてニーナの強さにも。エールを送る。

 

最後に大人になった彼らが。体型も変わったし、激しい技なんて出来ないけれど。それでもスケートボードに乗って笑っている彼らに、こんなにも己を見せてくれてありがとうと思うのと同時に、何が何でも幸せになってくれよなと。そう願っています。

映画部活動報告「TENET テネット」

「TENET テネット」観ました。
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「今日は絶対に定時で帰ります。どうしても観たい映画がありますので」。

『TENET テネット』公開初日の金曜日。朝からそう宣言し。言葉通りに定時で仕事を終え、走って映画館へ向かった当方。

「やっと。ノーラン(以降も敬称略)の新作が観られる!」胸が躍る。そうしてDolbyシネマの座席に座った当方。そうして150分後。

 

「訳わからん…けれどなんか凄いモンを観てもうた」。

 

それから4日後。世間は4連休。何となく流行りものに乗っかってみたかった妹と一緒に再びDolbyシネマへ。

2回目の鑑賞を経て。「初見も大体楽しめるけれど、2回目を観たら理解度が確実に上がる」。「実は誰も無意味な言葉なんて発していなかった」。「うわあいつ、ここで既に現れていた!」(一時売り切れていたパンフレットを昨日購入。それを読むことで再び訳が分からん状態になってしまった)。

 

「物理好きな俺でもちょっと難しいわ」。なんて、映画部長からすかした活動報告が来ていましたが…「当方なんて、高校でも物理なんて選択してないしな!(生物選択)」。知ったかぶりをして恥をかくのはまっぴら。餅は餅屋、物理に詳しい人たちのご説明は是非そこの餅屋でやって頂くとして。当方はただただ率直な感想を並べていきたいと思います。

 

CIAのエージェントである、名もなき男(ジョン・デイビット・ワシントン)。キエフオペラ劇場での武装集団によるテロに対し出撃。観客の命は救えたものの、自身は敵に捕らえられる。内部情報を漏らすくらいならばと自死しようとしたが…。意識を取り戻し、男は謎の組織に命を救われたと知る。

彼らは「現代人を残滅する為、未来人が時間を逆行してくる」「未来からの敵と戦い世界を救ってくれ」。という。にわかに信じがたいが、彼らの施設である現象を見せられた男は飲み込むしかない。

任務の相棒となったニール(ロバート・パティンソン)と行動を共にする男。

 

未来人とのやり取りを仲介している…そう目されたロシアの武器商人、セイタ―(ケネス・ブラナー)。

彼に接近する為、まずはセイタ―の妻、キャット(エリザベス・デビッキ)に近づく男。独占欲が強く傲慢な夫。美しき絵画鑑定士のキャットのセイターに対する愛情はとうに尽きているが、彼女がセイタ―の束縛から抜け出せない理由はひとえに一人息子の存在だった。

 

とりあえず人物紹介。ストーリーについて、「クルーズ船の豪華さと、いかにも金持ちの道楽っぽいヨット遊びがさあ!」とか「あの空港のさあ!」とか「とんでもカーチェイスがさあ!」とか「採石場のさあ!」とか。さあさあ言いたいのは山々ではありますが…キリがないんで。そしてそれもまたどこかの餅屋がやっておられると思いますし。

 

「昨日の私はもういない。明日の私はまだいない」。最近通りがかったお寺の前にあった貼り紙。

今。いつだって今しか自分の前には存在しない。そして時間軸というものはあくまでも過去から現在、未来へというベクトルにしか進まない。それがこの作品では未来から過去へという逆のベクトルが存在する。

 

ビデオテープ世代を体験している当方が思い出した現象『巻き戻し』。

映像を普通に再生し一旦停止、そこから巻き戻しボタンを押すと、画面に映し出されているものは逆に動く。そうやって逆再生されたまま、自分の戻りたかった所でボタンを解除すると、再び映像は普通に再生される。

「これは挟み撃ち作戦だ(言い回しうろ覚え)」。

狙い撃ちしたい相手と、然るべき有事が起きるポイント。日時。過去に居る者たちはこれから何が起きるのか分からないけれど、未来に居る者には分かる。

時間を逆再生出来る装置を使って、過去と未来から相手を挟み撃ちする。

この挟み撃ちは一つに留まらない。大枠の他にも幾つもの小さな挟み撃ち現象が交差する為、結果作中では時に同じ時間に『順行』と『逆行』が混在する。

 

書けば書くほど何を言っているのかが分かりにくい文章になってきたので…お茶を濁して…まあ、当方はそう解釈したんですわ。

 

「ノーラン、やりたい事をやったんやろうなあ~」「CG嫌いとは聞いていたけれど、実際の飛行機持ってきて大爆発とか。どれだけだよ」「逆行を再現する為に後ろ歩きとか車を逆走とか。大変ですわこれは」。

物理学的にはどうこう、逆行ってこういう動きになるはずだ。そういうガッチガチの理屈を何とかデジタル使用を最小限にして見せたい。『ノーラン劇場』。ノーランの映画はどの登場人物よりも映像よりも「これが俺の見せたい世界だ!」というノーランの姿が見え隠れする。まあ好きなんですけれども。

 

そこまで映像にこだわっているのに。芯として描かれる登場人物達の『中二病感』。

世界を滅亡させようとしているセイタ―の動機も言ってしまえば「みんな!道連れだあ!」という超個人的な事情。

(そしてあの生い立ちならば放射線由来の疾患の方が…そしてこれは深掘りしませんが…プルトニウムって。海外の皆様、軽々しく扱いすぎですよ)。

事態に翻弄されつつ、事態を飲み込んでいく名もなき男はまあ…ある意味映画を観ている観客に近い存在ではありましたが。

「そして何より。ニールよ!」

ロバート・パティンソンって。変態じみた役とかが印象的でしたが。今回は圧倒的男前。しかも最終はもう…「ニール!」「ニール!」当方の胸の中で止まないシュプレヒコール

 

散々ややこしい事をしておきながら。これはある一つの家族の物語であり。そしてある友情の始まりと終わりの話でもある。ノーランよ、中二病か。センチメンタルが過ぎるわ。

 

ところで。初見は兎に角付いていくのに必死だったので、あまり気にしていませんでしたが。2回目に気になった点「音がデカすぎる」。

人並に映画を観る程度の妹を隣にして。「怖がっていないか?」が気になって仕方なかった。Dolbyシネマという特異性もありますが、見えないリモコンで音量をもう少し下げたかった当方。(案の定「音が爆音すぎた。頭の中がごちゃごちゃする。あれ、でもニールってつまりは~やんな?」と意外と鋭い感想を述べていた妹)。

 

そしてもう一つ。「ノーラン、戦闘シーンごちゃちつき過ぎ」。

最終決戦。日本の特撮ヒーロー達も伸び伸び戦えそうな採石場…みたいな廃都市での順行と逆行が入り混じっての戦闘シーン。

理屈を再現したらこういう現象が起きる。そう言いたい、やりたい、そのお気持ちは溢れんばかりに伝わりましたけれど。いかんせん絵面としてごちゃつきつき過ぎ。とっちらかってる。

 

長々と取り留めもない感想を並べてしまいましたが。キリが無いのでここいらで幕引きを。

何だこれはという前半の問いを怒涛の打ち返しで見せてくる後半。「考えないで。感じて」。それでも十分に面白いけれど、もし余裕があったら2回目鑑賞がお勧め。今度は冒頭から答え合わせ開始。にやつきと頷きが止まらなくなる。

観たら観たで文句も言うのですが。当方もまた『ノーラン劇場』には魅せられているので…やっぱり次回もワクワクして映画館に向かうと思うし。

なのでまた。ノーランパイセンよろしくお願いします。

映画部活動報告「ようこそ映画音響の世界へ」

「ようこそ映画音響の世界へ」観ました。
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「何年か前(2016年)に公開された『すばらしき映画音楽たち』。あのドキュメンタリー映画、凄く良かったんよな~。何となく似た感じの題名…同じ感じなのかな~」。

 

そんな風に思って、公開から少し二の足踏んでいた己を叱咤したい。確かに『映画音楽』に携わる人々を題材にはしているけれど。前述作品とは全く違う(どちらも良い)。

 

視覚から得られる情報。それは多くを占める。こと映画というジャンルに於いての画力は圧倒的。けれど。感情を持っていかれる時、それは音楽の力に導かれている場合は大いにある。

 

近年新しく誕生していく映画館。それらの謳い文句は概ね『大迫力の大画面』『体験型映画館』『高画質は当たり前』。けれど、実際にそういう映画館での映画鑑賞体験を経た当方がまず感動するのは大抵「音が凄い」。

座っている座席が揺れる振動。四方八方から湧き出る音。当方にとって、目の前にある世界とシンクロする為には音と音楽は必須。

 

この作品は1877年、トーマス・エジソンが蓄音機を発明した所から現代までの映画音響の移り変わりを描いていく。

映画の歴史というと、白黒のサイレント映画からトーキー、そしてカラーへと想像していた。サイレント時代を愛していた人々や、映像に声を当てていた活動弁士、楽団などの映像や映画も観た事がある。時代の流れなんだ、俺たちはじき不要になる。映画は映画だけで完結する時代が来る。そう彼らは語っていた。

 

そういった、出来上がったサイレント作品に後から命を吹き込んでいた人たちの悲喜こもごもは…話が脱線しますので割愛させて頂きますが。

 

映画に音を付ける。自然のまま、撮影したままの映像では迫力が足りない。そこで付け足される臨場感。戦場で大勢の兵士が行き交う様。ジェット機のモーター音。しかもそれには元々無い音をドレッシングし味を足す。その技術の進化と、実は変わっていない部分。

「私たちに作れない音は無いわ」。そう技術者は語っていたけれど。当方が「なるほど」と思ったのは『音を消す』という技術。

屋外で撮影する時、必ず入ってくる風の音。近くにある何らかの施設や交通機関から聞こえてくる音。そんな『ノイズ』を先ずは消す。それから映画作品の世界観に沿った音で整えていく。

 

映画を撮る現場なんてそうそうお目にかかった事はないので想像ですが。監督の頭の中に描かれている世界をそこに居る皆で体現して。そこから持ち帰えって音や画像編集を付けて仕上げていく。

ド素人故、幼い言い回しで恐縮ですが。数々の監督たちが音響技師に「音で助けて欲しい」というように、監督たちは音や音楽が映画作品を盛り上げる大きな要素であると知っている。

「~監督の最新作」「俳優の何某氏が出ている話題作」それらは映画館に足を運ぶきっかけにはなるけれど。その映画に映らぬ、多くの職人めいたスタッフ達の力の偉大さ。

そして彼らのワクワクした表情。

 

「子供の頃、録音したカセットテープを切り刻んで後ろから再生したんだ」何その面白いやつ。どうしたら音が作り出せるのか。それをずっとワクワクしながら探している。

 

またもや脱線してしまいますが。三谷幸喜映画作品の『ラチ”オの時間』。

生放送のラジオドラマなのに、大物女優の我儘でどんどん内容が変更されてしまい製作スタッフが四苦八苦する内容(うろ覚えな挙句雑)でしたが。確か夜警のおじさん(おヒョイさん)が実は元音響製作の人で。終いには彼も駆り出されて、小豆の入った箱を揺らして海の音を再現する。

時代は変化し、最早「作れない音はない」と言っていたけれど。それでも水中のじゃぶじゃぶという音を足すのに、実際に水に布を浸して動かしてる技師たちを観た時。ラチ”ヲの時間を思い出した当方。結局、どれだけ技術が進化しても廃れない分野ってあるんだな。

 

最後の最後。お馴染み映画音楽作曲家のハンス・ジマー登場で「出た出た」とにやつく当方。彼を初めとする作曲家たちの物語は、冒頭に既出した『すばらしき映画音楽たち』で散々見せつけられている(当時、鑑賞後思わずハンス・ジマー作品のCDを借りたくらい)。彼らのうんちくは幾らでも聞いていられる。

 

一つの映画作品を観る時。その監督の世界観や好きな俳優。映像の美しさやスケール、迫力。色んな楽しみ方がある中の一つ、音響。そこを切り取って観せてくれた。

勿論衣装や道具など…他にも多くの人たちの手で作品は出来上がっているんだなと、当たり前だけれどあまり考えない事を改めて実感した当方。

 

映画が観られている事に感謝。作っている人たちに感謝。「映画が観たい」のほほんと映画を観ているけれど。全力で作っている人たちがいる。映画を観る環境を作ってくれている人たちがいる。何だか全てに感謝してしまう…このご時世も相まって。

 

ともあれ映画好きなら観て損はしない。それどころかこれからの映画鑑賞に大いに影響を与えそうな作品。

今後もこういった映画関連お仕事作品はチェックしていこう。そう思っています。