ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ある少年の告白」

「ある少年の告白」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190507182149j:image

同性愛など。性的志向に於いて『ジェンダーアイデンティティー』と呼ばれる人たち。そんな性的マイノリティを対象とした『矯正施設』がアメリカには存在する。

「同性愛は病気だ。」「生まれた時からの同性愛者は居ない。同性愛は後天的であり、ならばその要因を取り除く事で矯正できる。」

多くの専門家から「非科学的。根拠が無い。」と疑問、否定、問題視されていたにも関わらず件の施設運営及び矯正治療は後を絶たず。

2014年。矯正治療経験者から17歳の自殺者が発生。オバマ大統領(当時)から「矯正治療をやめよ。」という声明が発表された。それを受け、一部の州ではこれらの『矯正治療行為』を禁止する法律が成立した。

しかし、未だ34の州ではその法律は整備されておらず。現在までに約70万人が矯正プログラムを受けたと言われている。

(今回の感想文を書くにあたり、『アメリカのジェンダーアイデンティティー矯正施設云々』について当方が調べた内容を要約)

 

2016年。ガラルド・コンリーにて書かれた自伝的小説『BOY ERASED』の映画化。

ジョエル・エドガードン監督。主人公の少年ジャレッドをルーカス・ヘッシズ。ジャレッドの父親をラッセル・クロウ。母親をニコール・キッドマンが演じた。

 

「同性愛は病気だ。」

主人公のジャレッド。大学生。

アメリカの片田舎。一人息子の彼は、牧師の父親と美容師の母親に大切に育てられた。高校時代はバスケットボール部に所属。両親にも公認のチアリーディング部の彼女も居た。誰もがうらやむ輝かしい青春。何の不自由もない生活。けれど。

何かが引っかかる。何が?

魅力的な彼女と二人っきりのデート。彼女を可愛いし好きだとは思うけれど。積極的にスキンシップを図ってくる彼女に対し、どうしてもキス以上の行為が出来なかった。

「結婚するまでお預けなの?」そういうつもりでは無いけれど…結局大学進学も相まって彼女とは破局。心機一転、実家を出て寮での大学生活が始まった。

そこで出会った友人。彼を通じて「自分は男性に好意を持つタイプなんだ。」と自覚。

けれどそれは悲惨な結末を迎え。挙句実家に帰省中、不本意な形で両親に暴露されてしまう。

両親に自分に起きた事を説明し、自身のセクシャリティを告白した時。両親から薦められたのは『ジェンダーアイデンティティー矯正施設でのプログラム参加』だった。

 

「何これ…。」

映画鑑賞中。終始険しい表情が崩せなかった当方。「よくもまあ、こんな非人道的な事が出来たものよ。」「何が自由の国だ。」「訴訟案件。」「そしてよくこんな茶番に付き合えるな。」心中、ありとあらゆる悪態の暴風雨。

 

実家から程遠い施設のある町まで、母親の運転する車で移動。

矯正プログラムを受けている間は二人でホテルに仮住まい。昼間は母の車で矯正施設に通い、夜にはホテルに戻る。

 

「ここで行われている事は一切口外してはならない。」

大体がジャレッドと同世代の男女が集う(一部中年の姿もありましたが)矯正施設で行われていたプログラム内容。もう何だか馬鹿馬鹿しすぎて…書くのもしんどいですが。

入口で携帯電話を初めとする、一切の私物を没収。男女混合でプログラムは施行されるが、決して同性とは接触しない。女子は必ず下着を付ける。トイレに行く時は施設職員が同行する。

家系図を書いて、そこに問題人物がいないかピックアップろ。」という失礼極まりない課題。

「男らしさを学べ!」という唐突なブートキャンプ。最早暴力。

挙句、受講生皆の前で「自分がどうして同性愛に目覚めたか。この施設に来るに至った経緯。」を語らされる。

(これに関しては依存症患者に対する更正プログラムに準じているつもりなんですね。あのシステムもよく分からないんですが。)

 

「なんの羞恥プレイだよ…。」わななく当方。

「大体、同じ指向を持つマイノリティが一か所に集められている時点である意味出会いの場所では無いのか?そして互いの赤裸々な性体験の告白大会。これを聞いて…当方が同じ指向でもし同席していたら…内心興奮する事はあっても、反省はしないな。」

 

「どうして?どうして?」

けれど当方が思うその対象は寧ろ『受講生たち』。

「矯正の見込み無し。」施設からそう判断されてしまえば、隣接する入所施設に送られてしまう。けれど、現時点では所謂『通所』。朝から晩まで施設に居るけれど、夜には家族の元に戻れる。つまりは逃げ出せる。

「どうして逃げない?」この施設で行われている事には何の意味も無い。心身ともに疲弊してくだけなのに。

 

「何故なら…恐らく受講生たちは概ね真面目で。そして愛する家族をがっかりさせたくないと思っているからだ。」

 

この施設で行われている茶番が散々描かれるけれど。その滑稽さをあげつらう事がメインの作品では無いと思った当方。

 

「どうしてジャレッドの父親は同性愛をカミングアウトした息子に矯正施設を薦めたのか。」「息子がレイプ被害に遭ったと告白した時。どうして息子を辛かったなと抱きしめてあげなかったのか。」「聖職者なのに。」

あの父親の宗派。宗教観に疎いので…突っ込んだ事は語れませんが。寧ろ聖職者であるからこそ「ではどうすれば息子は救われるのか。」のポイントをこの父親は大きく誤ってしまった。そう思った当方。

 

「けれど。最も性質が悪いのは、あくまでも『息子を愛しているから』という態度と。それを息子も分かっていたから受け入れるしか無かったという悲劇だ。」

だから。ジャレッドは馬鹿馬鹿しい施設の矯正プログラムにも参加した。そして…おそらくあの施設に居た殆どの受講生の立場も同じようなものだったと推測。だから彼らは施設から逃げ出せなかった。

受講生を拘束していた檻は施設ではなく家族。

 

「頭を使え。ここでの役割を演じろ。」ある受講生がジャレッドに言った言葉。当方もそう思いますがねえ…真面目な受講生が潰れていく様が痛々しい。

 

「いつかお前に家族が出来て。子供が生まれる。その子供を抱く自分の姿が浮かんでしまうと…。」終盤そう語ったジャレッドの父親に。何だか泣きそうになった当方。

「何故なら。それは同性愛者という事とは関係無いからだ。」

 

私情も絡めながら。唐突に爆発しますが。

「誰かを好きになる。誰かを愛し、求め。人生を共にしたいと思う。そんな相手を見つけられない、なかなか人を愛する事が出来ない。そんな人間だってごまんといるこのご時世に。誰かを愛する事が出来るだけで奇跡じゃないか。それを何であんたの息子は性別一つで否定されなければいけないんだ。」

「あんたの息子が、誰かを愛せるのならば。男だろうが女だろうが何だっていいじゃないか。息子がそれで幸せなら。それでいいじゃないか。」

「あんたの手に孫が抱かれようが何だろうが知ったこっちゃない…どうしてそれが子育ての成功パターンなんだ。その思いを押し付けられた子供の気持ちを考えた事があるのか。(異性と結婚しても色んな事情で子供を授かる事が出来ない人だって居る)。親孝行の為に子供を産むんじゃないぞ。」

 

結局『マイノリティである我が子』に対し、受け入れるよりもまず、生じるであろう不具合ばかりを見てしまう。けれどそれを『矯正しよう』とする行為は果たして心からの思いやりなのか。親のエゴなのか。

 

起承転結。遂にジャレッドが爆発し、あらゆるしがらみから飛び出していく姿。「結局穏便に事は進まないのか。」

終盤が若干どたばたとした印象、特に母親の急転直下さは正直否めませんでしたが。

 

「何はともあれ。今現在原作者であるガラルド・コンリー氏がパートナーと幸せに暮らしているという事実が何よりも救われる。」

 

青臭い綺麗ごとだ。そう言われたとしても。『誰がどんな性別の人物を好きになったとしても、当たり前すぎて話題にもならない世界』が来ることを。

滅多に人を好きにならない当方は、陰ながら祈り、応援するばかりです。