映画部活動報告「おっさんのケーフェイ」
「おっさんのケーフェイ」観ました。
谷口恒平監督作品。川瀬陽太主演。
大阪。河川敷の土手に佇む小学生三人組。彼らがぼんやり見つめる先は、対岸でダッチワイフ相手にひたすらプロレス技をかますおっさん。
「あのおっさん、毎日何してんのやろ。」「楽しいんかな。」
特に秀でた特技がある訳じゃ無い。楽しいと思える事も無い。何ともぱっとしない彼ら。その中のヒロトが主観として進行。
ある日出会った道頓堀プロレス。そこで行われていた『ダイヤモンドウルフ引退試合』。瞬く間にアマチュアプロレスに惹かれていくヒロト。
興奮冷めやらぬまま。プロレス雑誌を購入し浮かれていたヒロトを襲った、中学生からのカツアゲ。大ピンチ。そこを助けてくれた例の『河川敷のおっさん』。
その時。おっさんがダイヤモンドウルフのマスクを持っている事に気づいたヒロト。
「おっさんがダイヤモンドウルフなの‼」「お願い!僕にプロレスを教えて!」
こうして『おっさん=坂田』とヒロトを初めとする小学生三人の、プロレス特訓の日々が始まった。
「川瀬陽太主演作!」(呼び捨てで申し訳ありません)
世の中で。名脇役と言えば、という俳優さんは何人も挙げられていますが。その中の一人、川瀬陽太さん。
どうしようもないクズや、一風変わった変人、いやらしい役、こせこせした小悪党、そう思えば人情味あふれるお父さん等。本当に引き出しの多い役者さんだなあ~と。彼の姿をスクリーンで見つけると感心と安心に包まれる当方。という贔屓の役者さんなんですが。
「川瀬陽太がどうしようもないおっさんの役!それは観に行かんと!」
映画鑑賞後。「何やろう。このぬるい感じ。」「ベッタベタの人情劇。」「最後の茶番もうちょっと見せ方あったんちゃうんか。」そう思う反面、「くっそ…こういうの…嫌いじゃない。」という当方も居る。
正直、奇抜な展開やスペクタクルは起きない。冴えない小学生と、冴えないおっさんの交流の日々。(当方はこういうアマチュアプロレス…と言うかプロレス自体に疎いのですが、流石におっさんが全然現役の選手に見えないことは分かる。ヒロトよ!何故鬼殺しを常飲しているアンタッチャブルな中年男性を現役プロレスラーだと思ったんだ!)
まあ。はっきりネタバレすると「おっさんはダイヤモンドウルフでは無い」んですよ。
とはいえ無関係ではない。ではおっさんとダイヤモンドウルフは一体どういう関係なのか。(流石にそこまでネタバレしませんよ)
プロレスに対する愛や情熱は本物。けれど何もかもが中途半端で、結局自分で自分を『偽物』という立ち位置に追い込んでしまった。
けれど。そこから虎視奮闘して這い出す努力も、見切りをつけて出ていく事もずっと出来なかった。そうして燻っていたおっさんを、見つけ出して、引っ張り出して、背中を押したのは子供達だった。
冴えない。学校で配られた『自分の特技を発表する会』というプリントにも、書き込むべき特技なんて思い付かない。(というかなんだその公開処刑は!)
小学生なんて、可能性に満ち溢れているはずなのに…ただただ平凡でぱっとしない。そう思っていたのに。初めて興味を持って飛び込めるものを見つけた。
「当方にとってそれは本だったと思う。」新しい世界。見た事も無い世界が広がるワクワク感。分かる。当方のそれとヒロトのプロレスはジャンルは全く違うけれど、そうやって、自分の前にキラキラした世界が現れた時の高揚感。
その時。毎日ただ景色として認識していただけのおっさんが、全く意味を違えて現れた。
おっさんが?こんなに近くに自分の想いを共有出来る大人が居た⁈凄い。凄い凄い。
「大丈夫なのか?」正直、初め少しハラハラしてしまった子役達の演技。けれど。あのヒロトの「うわああああ~」というプロレスに魅せられた表情を見てから、何だか力が抜けた当方。(そして安定の川瀬陽太さんが引き上げてくる)これは大丈夫だと。
(そしてあのおっさんのオカン。同じく素人ギリギリの雰囲気を漂わせながら…子供達と話しているシーンで何だか泣きそうになった当方)
おっさんは本物じゃない。偽物。でもプロレスに対する愛や情熱は嘘じゃない。じゃあ、本物になればいい。
勝ち負けじゃない。中途半端からの脱却。
あの体育館での茶番に対しては、もっと尺を取って盛り上げたら…とやっぱり勝手ながらに思ったりもしているんですが。
「『おっさんのケーフェイ』って。そもそもケーフェイってどういう意味だ。」
作中の子供同様、当方もあっさりスマートフォンで調べてしまい。(おっさんにスマートフォン投げられる案件)そうか、そういう意味だったかと画面を閉じて。
「それなら。これがベストアンサーなのか。」
偽物に対する本物からの回答。それはやはり辛辣で、でも優しさでもある。何より茶番に付き合ってくれた。きちんとリングに上がってくれた。
そこに、大仰な音楽や演出は野暮なのかもしれない。
「後、夕暮れが堪らなく綺麗。」
おっさんが。子供たちが。夕暮れに染まるシーンが一々綺麗で。何故かそれだけで泣きそうになった当方。
あの子供達。これから大人になっていく彼らには、色んな出来事が起きるだろう。そうして経験を積むことで世界は段々馴染みの色になっていく。些細な事は忘れていく。けれど。大人になった彼らがふと、このおっさんとの日々を思い出した時。
「それはきっと馬鹿馬鹿しくて、恰好悪すぎて、恥ずかしくて…でも甘い気持ちで胸が一杯になってしまう…当方なら…泣く。」
(またねえ。主題歌の『メタルディスコ/チッツ』が最高なんですよ!)
映画鑑賞後。「何やろう。このぬるい感じ。」「ベッタベタの人情劇。」「最後の茶番もうちょっと見せ方あったんちゃうんか。」そう思いながらも「くっそ…こういうの…嫌いじゃない。」今では「嫌いじゃない。寧ろ好きに…。」
そう思って。悶えるばかりです。
映画部活動報告「ブラック・クランズマン」
「ブラック・クランズマン」観ました。
1979年。アメリカコロラド州。黒人初の警察官として採用されたロン(ジョン・デヴィット・ワシントン)。希望を胸に飛び込んだ仕事。しかし配属された資料課では黒人であることから、同僚達より不当な扱いを散々受ける。腐るロン。
上司に掛け合い、潜入捜査課に異動になったロンは、新聞広告欄に白人至上主義:KKK(クー・クラックス・クラン)の会員募集広告を見つける。
思い付きでKKKに電話。そこで白人に成りすまし、黒人差別発言を連発。組織に気に入られたロンはKKK加入にこぎつけるが、黒人である彼は組織に出向く事は出来ない。
そこで、『電話で白人のフリをしている黒人の代わりに白人としてKKKに会う要員』として同僚のフィリップが抜擢。
電話ではロン。実際に会うのはフィリップ。かくして二人の潜入捜査が始まった。
スパイク・リー監督の怒り、現在のアメリカに対する警鐘、叫び。それらが迸る、非常に力強い作品。
この作品の根底にあるテーマは『差別』。(あくまでも私見です。合っていると思いますが。)
非常に繊細で、万人が納得する答えの出ない問題に、きちんと向き合った。監督の姿勢を見せた。そう思った当方。
1979年当時のアメリカ。たった40年前。奴隷制度なんてとっくに廃止されている。人類皆兄弟。人の上に人を作らず。人の下にも人を作らない…そんな時代のはずなのに…。白人と黒人の間の溝は埋まらず。「アメリカは終わった。」「何故猿と一緒に居ないといけない?野蛮な下等と。」「あいつらを追い出して。白人の、白人による、白人の為のアメリカを取り戻して。」そういう思考を持つ白人たちと、「俺たちは虐げられた。」「あいつらは血も涙もない豚だ。」「俺たちに人権は無かった。そして今も無いのと同じ。」「立ち上がれ。俺たちは白人と戦うべきだ。」そう決意を固めていく黒人たち。
「何故肌の色でそんなに…元々のルーツに依る思想の違いだって、まずは話をしたらええやん。それで合わないんやったらそこで初めて離れたらええんとちゃうの?あくまでも人間は中身やろう。」
そう思ってしまう当方は恐らく甘ちゃんで世間知らず。「お前に何が分かるのか!多民族国家出身じゃない癖に!」(厳密に言えばもう他民族じゃない国なんて存在しませんが)もしそう言われたら、黙ってすごすごと踵を返すしかありません。ですが。
本当に、当方の基本理念はこの通り。「一個人と対峙する時。特に初対面に於いて見た目でフィルターを掛けるな。個人を形成する背景が数多ある中で、最も分かり易くて本人が変えられない部分で判断するな。」
まあ。当方も人の子なんで。初対面から「な~んか嫌やな~この人」と思う事は往々にしてありますが。
話がズレたので戻しますが。
「立ち上がれ!白人との戦争は目の前だ!」「ブラック・パワー!」そう言って集う黒人大学生達の決起集会に、潜入課の指令で参加したロン。けれどそこで活動家クワメ・トゥーレ(コリー・ホーキンズ)のスピーチ(圧巻)を聞いて感銘を受け、思わず一緒にシュプレヒコールを上げるロン。会の主催者パトリスとも親交を深め。
つまり、地元警察としては「危ない事をするんじゃ無いだろうな~」と黒人活動グループをマークしていた。その潜入に黒人であるロンはうってつけ。そう思っていたけれど。
KKKが出していた新聞広告をロンが見つけたのがきっかけで。同時に白人至上主義団体までマークしなければいけなくなった。ロンがそのトリガーを押したけれど、彼には潜入出来ない。なのでフィリップに白羽の矢が立った。
どちらかと言うとKKKの滑稽さが細かく描かれているけれど。この黒人活動集団も「やられたからやり返せ!」がスローガン。どちらも自分のテリトリーにしか目がいってない様に見える。そして憎むべき相手はいつまで経っても変わっていない、話す必要なんて無い。だってあいつらはああいう奴だから。の聞き耳持たないスタンス。
(ばっさりネタバレします)
この作品に於いて、重要だったのが『フィリップ=ユダヤ人』設定。
肌の色は白く、ユダヤ人だなんて自己申告でもしない限り思われない。普段の生活にも支障はない。けれど。KKKに潜入するならば絶対にばれてはいけない。『白人至上主義』は黒人排除だけではない。ユダヤ人も(そして恐らくアジア人だって)含まれる。
「おれはアメリカ人だ。」「普段ユダヤ人だという事を意識した事は無かった。」けれど。KKKに潜入し、相棒であるロンの誇りある姿に次第に自己のアイデンティティを見つめていくフィリップ。「俺はユダヤ人だけれど、伝統や儀式など何も知らない。」「少しは興味を持つべきだったな。」
電話越しで調子のよい事ばかり言うロン。(本当に…声も喋り方も全然違うのによくKKKは別人だと思わないもんだと。頭の回転も違うし。実際に接触しているフィリップのスペックが高い(=銃さばきとか)からですか?総合して優秀な人材だと?)
KKKのトップ、デ-ヴィット・デュークの目にも止まり、気に入られ。一気に幹部候補生までのし上がる。そしてロンの洗礼の日が最終決戦。
流石にこれ以上細かくネタバレはしませんが。この、KKKの馬鹿げたどんちゃん騒ぎと、同時に描かれた黒人集会。会合の内容については全く方向性は違いましたが…やはり当方にはどちらも『自分たちの於かれた場所を確認して、相手を貶める会』にしか見えず。(黒人男性のエピソードは大変痛ましかったですが。)
けれど、一方が一方を攻撃開始した所でやっと、二人の『警官として』の任務が遂行される。
スパイク・リー監督が伝えたかった事。それはあやふやにせず、最後にしっかり映し出されますので。「これは過去の出来事では無い。」「現在進行形だ。」というメッセージはしっかりと受け止めた当方。
(ですが、正直、作品の余韻も雰囲気もごっそり持って行くこの演出について当方は否定的です。)
黒人は虐げられた?白人は非道?そういう単純なフォーマットの話ではない。「かつてそういう時代があった。それは決して互いに忘れてはいけない。けれどそこで思考停止して相手を否定し続け、受け入れないでいること=相手を差別していることになる。」「何のための他民族国家だ。此処は俺たち皆のアメリカじゃないか。互いに対立しあっている場合か。」
そういう話であったと。そしてそれをスパイク・リー監督が撮ったということ。そしてこんなに込み入った重たい内容を、あくまでもエンターテイメントとして作り上げたこと。全てひっくるめて、これは凄いものを観たなと。打たれている当方です。
映画部活動報告「えいがのおそ松さん」
「えいがのおそ松さん」観ました。
3月某日。赤塚高校同窓会に参加した松野家の六つ子達。素敵な出会いを夢見ていたのに、「成人過ぎても、六人揃って実家住みのニート。童貞」と同級生達に露呈。
散々な気持ちで会場を後にして。馴染みのチビ太のおでん屋台でくだを巻いて。飲み足りず、帰宅してからも六つ子で酒盛り。
翌朝目覚めたら…いつもの我が家じゃない。
18歳の頃にタイムスリップ?でもちょっと記憶とは違う。
デカパン博士の所に駆け込んだ六つ子。かくかくしかじかとわけを話したら。
「ここは君たち誰かの意識の中ダス。六人の内の誰かがこの時代に後悔を残しているからこの世界に来たダス。元に戻るにはその後悔を払拭しないと駄目ダス。」と言われる。
「後悔?」この中の一体誰が?…って俺たち高校の時一体どんなだったっけ?
おそ松の ズボンをカラ松がはいて チョロ松のシューズを一松 取っ替えて
トド松の眉毛を 十四松に描いても シェー! やっぱり同じ六つ子さ
1988年 『おそ松くん音頭』 歌:細川たかし
『おそ松くん』言わずと知れた、『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』に並ぶ、漫画家赤塚不二夫の代表作。全31巻(+番外編2巻)。
1962年に漫画発表。アニメ番組として1966年(56話)、1988年(86話)にテレビ放映。赤塚不二夫生誕80周年を記念して2015年『おそ松さん』として製作放映。2017年に2期放映。
『おそ松くん』で10歳だった六つ子が成人した世界。しかし、揃って定職にも就かず、実家に寄生。パチンコなどで日銭を稼ぐ「クズニート」としてブラブラする毎日。彼らが仲良くつるんでいる様は大反響を呼び。『松子』と呼ばれるファンたち等も生まれ、社会現象と呼ばれた。
先だって2点。お断りしたいと思いますが。
1)当方は『おそ松さん』というアニメをテレビ放映で一回も見た事がありません。(おそ松くんは子供の頃にぼんやり見た事があります。)
2)今回の感想文は結構な長文になると思います。(だらだら纏まりが無い上にまあまあ本編に踏み込んだ内容になります。)
映画部部員として。一応は新作映画情報にはアンテナを張っているつもりの当方。このアニメの制作、公開情報も早いうちから耳にはしていました。そして、普段行きつけの映画館で。何度か見掛けた予告編。
初めは、当該ブログ冒頭の内容が流れていたと記憶。ですが。公開日が迫るにつれ、段々予告編の内容が意味不明になってくる。
終始六つ子の着ぐるみがわちゃわちゃしながら小突きあっている絵面。「笑いあり!涙あり!爆発あり!」それを真顔で見ながら「何も伝わらないぞ。」と思っていた当方。
若干の『内輪受け感』も感じながら。「だけど 気になる 昨日よりも ずっと」
公開日が3月15日金曜日。何となく頭に留めていた公開日。
職場勤務表が発表された時。思わず確認。「3月15日は泊まり勤務明けだ。」
つまりは。「映画公開初日初回にやってくる『ガチのファン』が見られるという事だ。」
この流れに、非常に気分を害されている方が居るのは承知。ですが。当方はこの作品の映画公開初日初回(平日の朝一番)に合わせて「わざわざ会社を休んでまで観に来る人達」を見てみたかった。そして、大の大人にそこまでの熱意を持たせる作品を観てみたかった。(学生は除外。この作品の支える世代は恐らく20代後半~30代女性と推測)
「1962年に作られた原作。最早古典で誰もが知っている。そのコンテンツが現代風にアレンジされ、受け入れられた。コアなファンが居る。テレビ放映だけでは飽き足らず、グッズや二次創作まで貪るファンたち。しかし、そこまでして愛される作品とは一体どういうものだ。」
1962年に生まれた六つ子。長らく『おそ松が長男でトド松が末っ子』という順番しか決まっていなかった。彼らの序列が決まったのは先述の『おそ松くん音頭』が出来た1988年。
イヤミ。チビ太。デカパン。ハタ坊。トト子ちゃん。脇役はキャラが立っていたけれど、正直肝心の六つ子がぼんやりしていた。そんな印象。彼らはいつも『ラッツ&スター』の物まね人形みたいに横に並んで同じ動きをしている。そんな印象だった。
けれど。判別不能と思っていた六つ子には元から各々キャラクター設定があった。
『おそ松さん』トウの立った脇役では無い。シンプルに『松野家の六つ子』にスポットを当てて掘り下げた。それが愛される六つ子の誕生だった。(今回調べて分かった事。結構初期設定に合わせた性格付け。そして『スタジオぴえろ』って1988年からおそ松くん製作しているんですね。)
今回。この作品を観るに当たって、流石に手ぶらで行ってはいけないと思い。
『兄弟の順番・顔・キャラクター設定・テーマカラー』は散々調べ、頭に叩き込んだ当方。(これは当方の様にアニメを見ていない者には必須。)
そうして。満を持して3月15日を迎えた訳ですが。
行きつけの映画館。初回は8時40分(就業終了時刻8時30分では鑑賞不可能)であった為、少し離れた別の映画館で鑑賞。
映画館に向かうエレベーターが『えいがのおそ松さん』ラッピング。当方と一緒に乗り合わせた女子二人がおもむろに「ありがたい~」と言いながらスマホ撮影。閉ざされた箱の中、一体どこに身を置くべきかおどおどする当方。
映画館到着。確かカウンターでスタッフに声を掛けるタイプの発券であったと記憶。張りつめた緊張感で向かった当方。「発券機導入されていた!ありがとう!」Majiでホットする当方。ですが。
「結構座席埋まってるんやな…。」平日朝9時半。そんな時間に8割以上が埋まっている。すげえな。息を呑む当方。
そして。「フード売り場に長蛇の列。何故?10分後には予告編始まるのに…。朝一はご飯食べてこないのかな?」なあんて無邪気の極みだった当方。鑑賞前にトイレへ…と向かう際、映画館のポスターやデットスペースに群がって何かをしている女子を見かけて理解。
「ホップコーンと何かを撮影!」「ホップコーンの容器が六つ子の絵!そして何やら特典プレゼントが付いていたらしい!」
思えば遠くに来たもんだ。どうやら当方は随分舐めた気持ちでここに来てしまった。そう思って肝を冷やす当方。館内を見渡し、一人で座っている男性等を目視で確認し勝手にアウェイ感を共有。(やはりほとんどが女性客。たま~に見掛ける単独男性。そしてカップル?男女で座る勝ち組もチラホラ)一刻も早く照明よ落ちてくれと祈るばかり。
とまあ。普段の感想文一本分で『えいがのおそ松さん』初日初回劇場レポートをしてしまいました。いい加減本編の感想に突入しなければと。ぐっと舵を切り替えたいと思いますが。最後に一つ。
「ここに居る人たちは本当に『おそ松さん』が好きなんやなあ~。」
劇場全体を包む『大好き!』。その圧倒的な波に飲まれた当方。こんなに皆が笑って(手を叩いて笑っている人も居た)、最後にしんみりする雰囲気…。
けれど。当方はこの雰囲気を知っている…それは往年の『松竹映画』(分かりやすく言うと『寅さん』シリーズとか)。結構ベタでちょっと説教臭くて。でもそれを分かって観に行っている客層なのですっぽり嵌る。そんな感じ。
(前説で「松竹が配給なんだよ!」と言っていたのですが。鑑賞してみると確かに松竹映画っぽいなあ~と思いました。)
まあでも。そうやって観客に愛されて観られる作品って良いですね。
随分遠回りしましたが。
話としては正直「ヌルい!設定がヌルい!」と思う所もありました。
「パラレルワールド…とも若干違う。精神世界の話。六つ子の中の誰かが実際にあった過去の中で後悔を残している事から出来た世界。」「あくまでもそいつの記憶でしか構成されないので、見ていない事は描かれない。」なるほど。と思いきや「アレ?それはいいの?」という破綻しまくった後半の展開。まあそのレギュレーションに囚われたら何も進展しないのは確かですが。
まあ「ギャグ漫画の世界って便利だよな」六つ子の一人にそう言わせている様に。重箱の隅をつつくような真似は野暮。ガッチガチのSF作品を作りかたかった訳では無いんでしょうし。
「寧ろ描きたかったのは、高校生の六つ子から成人した六つ子へ通じる話。」
「え!お前ら六つ子なの⁉」そう驚かれた入学式。仲の良い六つ子。けれど次第に「あいつらの独特の雰囲気、入れないよな。」そう陰で言われて。次第に六人で一緒には居れなくなった。
「俺たち高校の時どんなだったっけ?」
誰かの精神世界に入ってしまった。この時代に後悔がある?誰が?どういう風に?
じゃあとりあえず見に行こうぜ。高校時代の自分たちの姿を見に行く六つ子。
今と180°違った者。全く変わらない者。「恥ずかしい。」「アイツを殺して俺も死ぬ。」そう言って取り乱す者も居たけれど。けれど、恥ずかしがる彼等は兄弟を精神世界に閉じ込める程後悔している訳ではなかった。
「後悔している事」それは事象として解決していない出来事がベースにあったけれど。「あのギクシャクしていた時の事をちゃんと振り返りたい」という、六つ子の中の一人が上げた叫び。けれどそれは決してあの一人だけが思っていたことじゃない。だから六つ子全員が一緒にトリップした。そう思う当方。(まあ、一人だけトリップしたら話の内容が変わるがな…そして誰の?って大抵こういうのはあの順番で目が覚めた奴の精神世界(夢)なんですよ!デフォルト!SF界では!)
「今の自分はこれで良いのかな?」
中高生の時誰もが思った事。学校という集団生活の中でサバイブする為には、時には自分では無いような自分を演じる時がある。でもそれ。どうなの?
逆に。自分に嘘が無い自分。ナチュラルで居れる自分。でもそれは良い事?もっとしっかりしないと駄目?それともつまんない?
アイデンティティが確立していない年頃。大人が知ったような事を言ったってそんなの説教臭い。聞いてられない。でも一人だけ。一人だけからなら聞ける。未来の自分なら。
「大丈夫。」「よく頑張ってる。」「でも無理しなくて良いよ。」「こういう役割の奴も必要なんだって。」「難しく考えずにドンと構えてろって。」「笑っていろって。」
未来の自分からの、溶けてしまいそうな自己肯定の嵐。これは泣く。18歳の当方なら。
そして『事象として解決していない事』の結論。正直この見え見えなエエ話オチに『THE松竹映画』を感じてしまった当方。(すみません)
あのキャラクターの存在は『六つ子をフィルター無しで見続けた人』。
明るくてわちゃわちゃして。そんな六つ子をずっと俯瞰で見ていた人。
苦しんでもがいて。そんな時代も含めて。ずっと六つ子を好きで居続けた人。
(これは劇場まで足を運んだファンを暗喩しているんでしょうかね。)
ところで。事前に『兄弟の順番・顔・キャラクター設定・テーマカラー』は散々調べ、頭に叩き込んでいざ鑑賞に挑んだ当方。
初めの同窓会のシーン。「あ。これ無理。同じ服着て動かれると厳しい。」静止画なら見分けられるんですが。六人で同じような表情をされると厳しい。アニメを見ていないし、声優さんとか分からないので声で聴き分けるのも無理(一松の声が低い。それくらい)。髪の毛のツヤ?部分にテーマカラーが配色されているけれど目が追い付かない。ちょっと困ったな~。そう思いましたが。
その後おでん屋台シーンでお揃いのスーツを着崩したあたりから判別可能。後は着用しているテーマカラー別のパーカーと、流石に顔と声とキャラクターが一致してきたので混乱する事は無く完走。
そして。恐らく全ての人が聞かれるであろう質問。「六つ子の中で好きなのは誰ですか?」
皆可愛かったですね。クールにそう言いたい所ですが。
事前に調べた時点から、第一子の当方には『長男おそ松は別格』として。
好きなキャラクターは『三男チョロ松』。何?「しっかり者で真面目ぶっているけれど人一倍エロい事を考えている」って。そういうの…大好きなんですよ。
イマイチノリについていけなくて。映画開始から暫く怪訝な表情をしていた当方の表情が思わず崩れた。それは高校生チョロ松が手を挙げて「テンテイ!(先生)」と言った瞬間。(その直後の末っ子トド松とチョロ松の可愛さも当方心のやらかい所を締め付けてきました。)
「まあこれは確かにテレビ放映だけでは飽き足らず、グッズや二次創作まで貪るファンが出てくるよ。恐ろしい。」震える当方。嵌るとやばい。これはやばい。
這う這うの体で映画館を後にした当方。これはミイラ取りがミイラになる。嵌ると抜け出せなくなる。おっかない。
帰宅後。劇場鑑賞記念に貰ったコースターの袋を、何だかドキドキしながら開けてしまった。そんな当方が何だか堪らなかったです。
映画部活動報告「ウトヤ島、7月22日」
「ウトヤ島、7月22日」観ました。
2011年7月22日。ノルウェーで起きた連続テロ事件。
首都オスロで起きた政府庁舎爆破事件。死者8名を出したテロが起きて約二時間後。オスロから40キロ離れたウトヤ島で銃乱射事件が発生。そこではノルウェー労働党青年部のキャンプが行われており。参加していた十代の若者達が犠牲に遭った。死者69名。
この二つの犯罪を犯したのは、当時32歳のノルウェー人、アンネシュ・ベーリング・ブレイビク。極右思想を持つキリスト教原理主義者。事件の動機は「イスラム、IS乗っ取りから西欧を守る為。」ウトヤ島には警官に成りすまし上陸。捜査の一環だと若者を集め、銃を発砲。その後島中を歩き回り、次々と少年少女達を銃殺した。
ノルウェーに於ける戦後最悪の事件。単独犯としては最多となる77人もの命を奪ったテロ事件。
「実際の事件で、発生から収束に至ったまでと同じ72分。(事件で発砲された数と同じ銃声数を使用)ノンストップ、ワンカット撮影。」
正直あまり知らなかった事件。どういう事が起きていたのか。そう思ってふらりと観に行きました。
当方はこれまで、色んなジャンルの映画を気の向くまま雑多に観てきました。正直苦手なタイプのジャンルもあるにはあるのですが、そこには余り踏み込まない様にすればいい話。とは言え、万が一目にしたとしても、本気で気分が悪くなったりしたことはありませんでした。でしたが。
「これは怖い。ほんとうに怖い。」
どんな話なのか分かっていたはずなのに。銃声が数発鳴って。主人公たちが「何?今の。」と言葉を交わした後。近づいてくる悲鳴と、全速力で走って来る少年少女が見えた時、得も言われぬ緊張感と禍々しさに…座席に座っているのに、体がせり上がって息が苦しくなり。そこから画面は怒涛の阿鼻叫喚。
全身が粟立って強張って。思わずマスクを外して深呼吸。持っていたミルクティーを摂取。深呼吸し、我に返った当方。これは怖い。堪らない。
悪夢の72分。主人公の少女カヤを追うカメラ視点で話は進行する。
しっかり者のカヤ。妹のエミリアとキャンプに参加した。けれど。
2時間前にオスロで起きた爆発事件を知って、陰鬱なムードが漂っていた仲間達をよそに、海水浴を楽しんできた妹と喧嘩。「不謹慎じゃないの、馬鹿!」そうして喧嘩別れしていた所に、件の銃乱射事件が勃発。
逃げないと。でも…どうしよう。エミリアと一緒じゃない。どこに行ったのか分からない。
「人は有事が起きた時、どう行動するのだろう。」「そして当方なら?」
この作品について。「あくまでも、事件に遭遇した少年少女の体験談から構成したフィクション。」「ドキュメンタリーでは無い。」つまり。この作品の主人公であるカヤは実在しない。「こういうエピソードがあった。」「少年少女はこう行動した。」その集合体。それがカヤ。
そして。「何だこのカメラワークは。」というご意見。「手持ちカメラが一人の少女を追いかける。その揺れるカメラこそが一人格に見える。いっそ逃げ惑うカヤの視点でカメラを動かしては云々。」
「FPS!(主人公の視点で世界を移動する3Dアクションゲーム)そんな手法で撮られる悪夢の72分って!それ最早一体何を見せたいっていう話やし。悪趣味。本気で気分不良に陥るぞ!」叫ぶ当方。
忌まわしいテロ事件。それを後世に伝えたい。その気持ちを作品に落とし込むには、確かに粗削りな作品。けれど。これはただ受け止めるだけの作品では無いと思う当方。
「この現場に居合わせたら。当方はどうなるのか。」
犯人から銃を奪う?仲間同士で結託して立ち向かう?そんなの、絵空事でしかない。
俺は人を殺す。皆殺しだ。そんな確固たる意思を持って、確実に人を殺せる凶器を携えて闊歩する相手。何も伝わらない。話なんて出来ない。そもそも対峙するなんて無理。
ただただ逃げ惑う。声を上げ、やみくもに、何度も足を取られながら。又は足がすくんで動けなくて。結果大人しく殺されるか。
怖い怖い怖い。もう何も考えたくない。誰か助けて。誰か嘘だと言って。もしくは今すぐ殺して。
第一子の当方。当方にも妹が居る。もしカヤの様に、こんな有事に妹とはぐれたら?
考えただけで泣きながら大声上げて走り回りそうになる。堪らない。耐えられない。
皆が逃げ出したテントの傍ら。「お兄ちゃんがここで待っとけって…。」『IT/イット』みたいな黄色のレインコートを着て、蹲っていた小さな少年。「頼むから森に逃げて!そしてそのレインコートは脱いで!目立つから!」カヤと一緒に叫ぶ当方。
「もし妹が一緒にいたら。誰か守るべき相手が一緒だったら。」そう思う当方。
全てがたらればですが。恐らく「しっかりしなければ」という気持ちで行動出来る。
寧ろ、怖いのは「一人だったら。」
恐怖が膨れ上がって。当方は恐らく精神的に自爆する。
ウトヤ島を逃げ回るカヤ。そこで出会う少年少女達。けれど、カヤも含め彼ら全ての行動に正解は無い。何をしたら救われるかなんて無い。ただただ運。
逃げられた。そう思った途端、近くで響く銃声。さっきは遠かったのに。
(カヤの取った色んな行動について、批判するのは勝手。ですが…極限状態で人って冷静な判断なんて出来ないですよ。)
おかしな思想を持つたった一人の人間の前に、圧倒的な無力感を叩きつけられる。
何故?政治に興味があって、夏休みに同年代の仲間とディスカッションがしたかった。それだけ。それどころか「兄姉が参加するから。夏休みの思い出に付いてきた幼い弟妹。」「ナンパ目的。」それでも何も悪く無い。殺されるような事は誰もしていない。
「もし帰れたら何がしたい?」何故。何故「もし」と仮定しないといけなくなった。まだまだこれから。まだ何にでもなれるはずなのに。どうして「死ぬかもしれない」なんて思わないといけなくなった?
どうして?どうしてこんな事に?
「辛い。」
この作品はあくまでもフィクションで。主人公は実在の人物では無いけれど…けれど数多の少年少女に起きた出来事の集合体。痛ましい。
この作品から考える事。「色んな主義主張があって、それを関係の無い無抵抗な相手に突然武力行使してくる輩。それは確実に存在する。」「ある日突然圧倒的無力感に陥れられる恐怖。」「その時自分はどうなるのか。(どうするのかではない)。」
「テロとはこういう事だ。」「突然自分自身の基盤を。足元を完全に掬ってくる。」けれど。起きた事を知らんふりしてはいけない。考えなくてはいけない。「何故こんな事が起きた?何故?」
何だかんだ平和ボケしている国に住む当方。有難い事でもあるけれど、こういった有事は決して無縁では無い。
「一体テロとは何なのか。」「何故起こるのか。」「どういう事が起きるのか。」
無慈悲にも奪われた77人の命を。無駄にしてはいけない。
本当に観る人を選ぶ(体調的に厳しい)作品だと思いますが…観られるのであれば…観る価値のある作品だと思います。
映画部活動報告「スパイダーマン:スパイダーバース」
「スパイダーマン:スパイダーバース」観ました。
「OK。一度しか言わないから聞いて。俺の名前は…。」
2019年米アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞作品で、尚且『スパイダーマンシリーズ初のアニメ作品』
アメリカ。ブルックリンに住むマイルス。地元から離れた全寮制の進学校に通う高校生。警察官の父親と看護師の母親を持ち。所謂優等生。
頭は良くても余所余所しい同級生達。実はマイルスはストリートグラフィティに夢中だけれど…その趣味を共有できる仲間は居らず。馴染めなくて。
父方の叔父、アーロンがマイルスの心の友。ある夜、二人は秘密の場所でグラフィティに興じ。そこで得体の知れない蜘蛛に刺されたアーロンは不思議な力を手に入れる。
驚く程の躍動感。手から出てくるベタベタした物体。何かに触れるとくっ付いて取れなくない。何これ。
一人秘密の場所に戻ったアーロンが見たもの。それはスパイダーマンの最後だった。
「13歳の少年。新しいスパイダーマンの誕生」
あれ?スパイダーマンって確か成人男性じゃ無かったっけ?そして見た目も全然違う。確かすらっとした白人の…少なくとも黒人のひょろっとした少年じゃない。
「スパイダーマンが存在する世界が幾つも連なって。決して交わる事が無いはずの平行世界に横穴が空いた。その元凶となったのが、マイルスが住む世界だった。」
「秘密の場所のすぐ近くで。キングピン(悪者)が異次元の扉を開くため、加速器という装置を使って実験を行っていた。けれどその装置の負荷が掛かってブルックリンの一部の次元が歪み。各々の世界に居たはずのスパイダーマンがマイルスの世界に飛ばされてきた。」
「まさかのパラレルワールド案件!」
パラレルワールド:ある世界から分岐し、それに平行して存在する別の世界を指す。(中略)パラレルワールドとは我々の宇宙と同一の次元を持つ。(ウィキペディア先生より抜粋)
筒井康隆著『時をかける少女』。あの文庫本に同時収録されていた『果てしなき多元宇宙』。(余談ですが『悪夢の真相』も面白かったです)
当時中学生だった当方の、初めてのパラレルワールド作品。「本来交わるはずのない縦軸の世界。そこに横軸が掛かる事に依る、取返しの付かない悪夢。」…今現在該当小説が手元に無いのでうろ覚えのままですが。以降SFの中でもタイムリープ、リターンと並ぶメジャーでワクワクする題材。
13歳のマイルス。ある日突然おかしな力を手に入れてしまった。それが何なのか、答えをくれたのはピーター・ベーカー=スパイダーマン。
「君は僕と同じだ。スパイダーマンになったんだ。」「戸惑うよね。でも大丈夫。僕がどうしたらいいか教えてあげる」「取りあえず、この場を切り抜けてから。」
先述の、加速器実験を行っていたキングピン。それを阻止すべく戦っていた。そんな有事の最中に出会ったマイルスとスパイダーマン。
先導者が居る。ホッとしたのもつかの間。キングピンの前に敗れたスパーダ―マン。
「スパイダーマンこと、ピーター・パーカー氏が死亡しました。」
悲壮な雰囲気で包まれるブルックリン。スパイダーマンの最後を思い。彼に託された加速器を阻止できるアイテムを握りしめ、一人佇むマイルス。
「僕には力がある。けれど…それを上手く使う事が出来ない。」
そんな時。異世界に住むピーター・パーカー(ピーターB/くたびれた中年)が現れた。
一応ネタバレはここまで。後はふんわりしていこうと思いますが。
「つまりは『スパイダーマン誕生物語』なんですな。」
不思議な力を手に入れた少年。とは言えいきなりその力を活用できるはずが無い。なのに。その力を得た事で突然訪れた理不尽な別れ。無力な自分。
「この力があれば、彼を救えたんじゃないか。」「こんな思いをしなくてよかったんじゃないか。」
また、13歳という『子供から大人へ』変化していく年頃。父親とのわだかまり。距離感。
どう考えても自分には合っていない学校での、気詰まりな日常。本当にしたいことはここには無い。学校を辞めたい。でも父親は「選択肢が広がるじゃないか」とマイルスの主張を聞き入れない。(選択肢云々に関して、つまらない大人になってしまった当方はこの父親の考え方が非常によく分かります。勉強が出来なかった当方からしたら、勉強が出来るのなら、色んな未来を選べる所に居たらいいじゃないかと。まあ…無理強いはしませんけれど)
自分に厳しい父親と、何でも話せて親友みたいな叔父のアーロン。
「でもねえ。自分にとって都合の良い人が必ずしも良い人とは限らんし。」ポツリと当方。
色んな考えを持つ人が居る。人は皆事情や背景を持つ。そんな中で自分が芯を持ち続けなければならない事は何処か。大切な人とは誰か。そしてそんな人を失った時、自分はどうするべきなのか。誰と諦めずに分かり合える努力をするべきなのか。
異世界から飛ばされてきたスパイダーマン達。彼らは『おかしな蜘蛛に刺されて後天的に不思議な力を得た』という共通点こそあれ、誰一人として同じ人物ではない。人種や性別、果ては動物までいたけれど…けれど彼らは皆『スパイダーマン』として同じような苦悩を通過してきた。
「分かるわ。私の場合は誰だれだった。」「救えない時はあるさ。」そうやって。マイルスに寄り添うスパイダーマン達。
~なんて。しんみりしたトーンで書いてしましましたが。
117分。冒頭から最後までノンストップの超特急。全編に於いてテンポが速い早い。しかもリズミカル。緩急の感覚も早いので、主人公マイルスは殆どもがいて苦しんでいるけれど、観ていて同調している暇など無い。
「そして異世界からやってきた、ピーター・パーカー(ピーターB)。最高。」
中年太り。スパイダーマンの全身スーツを着てはいるけれど、お腹は弛み、それを隠すため暫くは下だけスエットを着ていた。
なにもかもが上手くいかなくなった40代中年男性。もう感情移入しすぎて他人事には見えなかった当方。
「僕に何でも教えて!」食らい付いてくるマイルスを初めは適当にあしらっていたけれど。やっぱりそこは人情派、放っておけない。
他のスパイダーマンも良い味出していましたが。やはり彼との掛け合い、動くさまも観ていてワクワクして。スパイダーマンの中で一番好きなキャラクターでした。
絵面に関しては「確かにこれは斬新なアニメだ。」「CGアニメはここまで動くのか。」「何だこの映像は。」流石賞レースを制した作品だと舌を巻いた当方。(でも…何故か最終決戦の雰囲気に、今敏監督作品『パプリカ』を思い出していた当方。)
「でも。どれだけ新しい事をして、斬新な映像で見せても結局着地はシンプル。『新しいスパイダーマンの誕生。』ぶれていない。」
「OK。一度しか言わないから聞いて。俺の名前は…。」
MARVELの作品全てを観た訳ではありませんし、正直スパイダーマンシリーズもコンプリートしていない。けれど。
「これは。スパーダ―マンシリーズどころか。これまで観てきたMARVEL作品の中で一番好きなんちゃうやろうか。」
とんでもないアニメ作品が出てきました。
映画部活動報告「ROMA/ローマ」
「ROMA/ローマ」観ました。
『ゼロ・グラヴィティ』等。メキシコ出身のアルフォンソ・キュアロン監督作品。
2019年度米アカデミー賞にて注目、話題となったNetflix公開作品。
「う~ん。どうする?入る?Netflix…でも普段殆どテレビを見なくなった当方としたら、月額おいくらか知らないけれど勿体ないとしか言えないし…。」
(今しがた調べてみたら、Netflixの月額プランは幾つかあって。でも正味1000~1500円台位なんですね。沢山番組を見るのならばお得。)
まあいつかはどこかの映画館が上映してくれるかな。そう思っていた矢先。「イオンシネマにて上映決定。」これは!と、公開初日の朝っぱらから近くのイオンシネマまで行ってきました。
当方の住む田園都市(田舎)から当該イオンモールまで、自転車でも電車・バスを乗り継いでも同じく30~40分。万が一間に合わなかったなんて失敗を避ける為、交通機関利用を選択。まあまあ満員なバスに揺られながら「どうしようこれが皆『ROMA/ローマ』目当ての客やったら。」とヤキモキしましたが。
イオンモール到着。バスから我先に降りる人たちが、流れるように吸い込まれていった『職員用出入口』。
「そうやな。まだ開店前やもんな。」呟いて。のんびり歩いてイオンシネマに到着。チケット買って座席に着いてみたら。「観客20人も居ない…。」
土曜日の朝9時台、郊外にある(車が無かったら不便な)ショッピングモールに入っている映画館。客の入りはこんなものなのかもしれませんが。
「あんなに『Netflixじゃなくて映画館で観たい!』と言ってた人たちは一体何処に居るんだ??結局はNetflixで観ているって事?」疑問で一杯になった当方。
…という所で。当方の『ROMA/ローマ』公開初日初回レポートは終了にしたいと思いますが。
「映像作品を楽しむ手段は数多あるし、選択できる時代が来ている事は間違いない。けれど…当方はこの作品を映画館で観られて良かった。出会いが映画館で良かった。」
1970年代のメキシコ。首都メキシコ・シティ近郊の町、コロニァ・ローマが舞台。
そこに住む、白人の中産階級の家族と先住民の使用人。彼らの一年を描いた作品。
医師のアントニオと妻ソフィア。祖母と子供達4人の計7人家族と、家族に使える使用人二人。そのうちの一人、クレアの視点がメイン。
ALWAYSの方じゃなくて。当方が子供の頃、テレビで放送していたアニメのやつ。独特な造形キャラクター達が織りなす小話。いい話もあれば、切なく終わる話、ズンとする話もあった。時系列はバラバラ。キャラクターに可愛さや格好よさも無かったし、子供受けするアニメでは無くて…結構すぐに終わってしまった。けれどもし今の当方が見たら、絶対号泣する。そんな作品。
「このアニメに共通するテーマ。それはノスタルジア。」(あくまで私見です)
子供の頃。夕日が見えたら、何だかお腹がムズムズして、叫びそうになった。それは「今日が終わる」という焦り。何故そう思っていたのか。歳を重ねた当方にはもう思い出せないけれど。
話が脱線しまくっていますが。この『ROMA/ローマ』を観ていて感じたのも、そういうノスタルジア。しかも何故か…当方はあの一番小さな子供が気になって。(あくまで私見です)「あの末っ子こそがキュアロン監督だろう。」
キュアロン監督が「これは私的な作品だ。」どこかしら自身の記憶に基づいていると語っていたのを読みました。同じように、自宅に自分を育ててくれた使用人が居たと。
小さな少年だった監督が。大人になって、そして円熟していく過程で。「こういう風景があった。」「それはこういう事だったんじゃないか。」と視点を変え、膨らませていった。そうやって生まれた作品なんじゃないか。そう思った当方。(あくまで私見です)
家族と使用人の物語。まったりと進行しますので。正直中盤まではぼんやりしてしまった瞬間もありましたが。
医師であるアントニオが単身赴任。けれどどうやらそれは嘘で。浮気の予感に気分が荒むソフィア。使用人仲間に紹介されて、初めて恋人が出来た。浮かれるけれど、妊娠を告げた途端、関係を絶たれてしまったクレア。
初めに提示された人間関係。家族構成。それらがうねり、揉まれて。もみくちゃになった挙句…新しく生まれ変わる。
物語の幕開け。画面いっぱいに映しだされた、水の映像。それはチョロチョロと地面を伝い。地面を水掃除するためのものだと分かる。そうやって穏やかに始まった水の登場。けれどそれは次第に窓を打つ雨となり、最後には子供達とクレアを飲み込まんばかりの荒波へと変化する。
光もそう。洗濯をするクレアの周りを子供達が遊ぶシーンなんかはまぶしい程に白いトーンなのに。怒涛の展開を見せていく病院でのシーンなんかは黒が多い。
「何故モノクロ作品なんだ。」「これがカラーだったら。」当方は専門家ではなく、平凡なイチ観客なんで。偉そうな解釈は出来ませんが。
「恐らく…カラーだったら陳腐になってしまうんじゃないかと。敢えてモノクロにすることで、心理描写がトーンで表せる。却って光を感じられる。音が生きてくる。目に見えるものの情報をシンプルにすることで、脳内にある己の記憶も引き出されて…懐かしいと感じるのではないか。」
「男ってアホな生き物よのう!」
豪勢な車に乗って。ウンコを踏みながらギリギリ収まるように駐車するアントニオ。なのに、彼が不在の時、代わりにソフィアが運転し、盛大にぶつけてボロボロにする。「あんな車、要らないわ。」
「なんだあの棒野郎!」クレアの彼氏。何一つ良い所なんて見つけられなかったアイツ。もう散々言われているでしょうが。「棒を振り回す前に、お前の棒をしまえ!」
(はっきりネタバレしますが。イオンシネマ、モザイク掛けませんでしたよ)
これはある中産家族と使用人を描いた作品。彼等の一年。それは始めこそゆっくりと。しかしその流れは加速し、怒涛の波が押し寄せ。そしてまた凪いでいく。
「映像作品を楽しむ手段は数多あるし、選択できる時代が来ている事は間違いない。けれど…当方はこの作品を映画館で観られて良かった。出会いが映画館で良かった。」(もし、手元で自力操作出来る環境でこの作品を観たら…正直ここまでぶっ通しで集中して観れなかった気がします。)
色んなご意見が存在する事は承知。けれど当方は大画面と音響設備のある映画館で。この作品の初見が出来た事を感謝しています。
映画部活動報告「グリーンブック」
「グリーンブック」観ました。
1962 年。アメリカ。ジム・クロウ法(黒人差別が盛り込まれていた、当時のアメリカ南部州法)が施行されていたアメリカ南部で。コンサートツアーを決行した、黒人の天才ピアニスト、ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)とドン専属のがさつな白人ドライバー、トニー・リップ・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)の友情話。
2019年米アカデミー最優秀作品賞受賞作品。
年に一回、2月に行われる、アメリカ映画界の最大の祭=米アカデミー賞授賞式。
『アメリカで。今年一年で一番面白かった映画を決めようぜ!の会。』
同時期に行われる日本アカデミー賞授賞式よりよっぽど当方の関心度が高い祭典。とは言え仕事の合間に結果を確認し高まる程度。「授賞式までに大方の公開作品を観よう!」とか「授賞式の中継放送をするWOWWOWに加入しよう!」とまでは至っていないのですが。(去年、WOWWOWに加入していた職場後輩が居まして。あんまりにも当方が騒いだので授賞式をDVDに録画してくれた事がありました。大感動。「2019年は家に行かせて欲しい。ピザくらいは作るから!」と言ったのに…一身上の都合で退職し、地元沖縄に帰郷してしまった後輩。寂しい…。)
今年の作品賞。下馬評として挙げられていた『ROMA/ローマ』と『グリーンブック』。前者が映画館では無くNetflix公開作品だった事もあって大注目。結果蓋を開ければ『グリーンブック』に勝敗は上がり。
「結局アカデミー会員は古いんだよ。」そんな風に揶揄されていましたが。
当方は、近年の米アカデミー賞に関する『黒人映画問題』。ざっくり言うと「白人のみの受賞者、作品で埋め尽くされた年があり、差別だと批判された。以降、黒人の受賞者やかつての黒人問題などに絡めた作品が評価されている現状がある」という…非常に繊細な問題について、大した知見も無いのに知った顔して語る事は出来ません。
「と言うか。これって『アメリカで。今年一年で一番面白かった映画を決めようぜ!の会。』なんですよね?」
随分前置きが長くなってしまいましたが。当方は『グリーンブック』という作品が「2018年アメリカで(アカデミー会員的に)一番面白かった」という評価にいちおうには納得しました。
というのも「人と人との間に信頼関係、そして友情が芽生えるまで」を丁寧に、コミカルに、そして時にはぐっと胸を打つようにと、非常にテンポよく描いた秀作だったと思ったから。
1960年代のアメリカ。奴隷制度こそ無いけれど。未だ黒人に対し偏見、差別の目があった時代。
主人公のトニー。イタリア系。NYのナイトクラブで用心棒として働いていた。腕っぷしが強く、がさつで口八丁。けれど妻と二人の子供を愛してやまない一家の大黒柱でもある。
ある時。店が閉店し失職したトニーは「大劇場の上に住む金持ちがお前を運転手として探している。」という誘いを受け、面接に向かう。
しかしそこで会ったのは黒人ピアニスト、ドン。「君の腕っぷしの強さは知っている。君を雇いたい。」
黒人に対し差別的な感情のあるトニーはすぐさま踵を返すが。ドンはトニーの自宅に電話しトニーの妻を説得。そうして二人の、約2か月の南部の旅が始まった。
「何で俺が黒人野郎の下で働かないといけないんだ。」旅の初め。嫌々な態度を隠さなかったトニー。けれど。旅を続ける事で変わっていく気持ち。
「ドクター(ドク)が黒人差別の激しい南部地域を。北部よりもっと安いギャラで、敢えてコンサートツアーをするのは何故だと思う?」
ドクと同じバンドメンバーの一人がトニーに聞いた言葉。
知性と教養を兼ね備え。ピアノの才能と人を酔わせる演奏が出来る。そんなエレガントな男性が。たった一つ、肌の色が違うだけで貶められる。
コンサート会場に集まる紳士淑女の面々。そこで皆演奏される音楽に魅了されるけれど。それを奏でる人物に、同じ会場にあるトイレも使わせないし、同じ敷地にあるレストランで「前例がない」と食事もとらせない。まともな控室も与えない。
「黒人は夜出歩くな」「黒人はうちの服を買うな」理不尽で制限される事ばかり。
そんな中で。「いつもの事だ」「暴力を振るったら終わりだ」あくまでも誇り高くあろうとするドク。ドクにとってこのツアーは戦い。言葉や態度、時には暴力で差別を行使してくる相手に、暴力では無く。自分の音楽で戦う。音楽の力は無限なはずだから。
旅の初め。口には出さなかったけれど。「何だよ黒人野郎が」「偉そうに」「スカしやがって」「小さな事でガタガタ文句言いやがって」インテリで、とっつきにくいと思ってドクが好きになれなかった。けれど。実際にドクが演奏する所を聞いて「アイツ、すげえじゃないか」と感動するトニー。
そして。「黒人差別の激しい南部ツアーで、腕っぷしの強い白人用心棒が欲しかった」という理由でしかなかった…と当方が推測する『ドクがトニーを雇ったきっかけ』。
ドクだって初めは嫌だったはず。がさつで自分への嫌悪感を隠さないドライバー。トイレだって車を止めて道端でしてくる。ドライブインで土産物の小物を万引きしようとする。品が無い。およそ普段関わらないタイプ。なのに。
二人っきりの車中で。流れる流行りの曲。「こんなのも知らないの?」「これは…良いな。」ピアニストドクとナイトクラブで色んな音楽を聴いてきたトニーの打ち解けていくきっかけ。
「黒人ならこういうのが好きなんじないの?」「決めつけるな」けれど。
「手が…服が汚れる…」とドクが恐る恐る口にしたケンタッキー・フライド・チキン。最高に美味しくて。(最後最高のセッションをした店で自ら注文して食べていましたね)
誇り高きドクと豪胆なトニー。けれど、決してすべからくドクが聖人でトニーがだらしなかった訳じゃ無い。互いに危なっかしい所、恥ずかしくて知られたくなかった所もあったし、逆に互いに足りない部分を気付かせてくれる相手でもあった。
「何て手紙だ。綴りも間違っているし…いいか、手紙って言うのはこう書くんだ。」会えない妻子にとりとめもない日常をだらだら綴っていたトニーに、ロマンチックな手紙をアシストしたドク。(この手紙の最終形態。最高でした)
かと思えば、「兄が居るが連絡は取っていない。私の住所は知っているんだから云々。」と御託を並べるドクに「寂しい時は自分から言うもんだぜ。」ときっぱり答えるトニー。黒人だと見下していたのに。ドクが知られたくなかった事には「色々あるよな」と寛容な態度。
「悪い癖が出てきた。気が付けばだらだらとネタバレをしている。」はっとした当方。という事で、ここいらで風呂敷を畳んでいきたいと思いますが。
「まあ非常にテンポの良い、良く出来たヒューマンドラマやった。ただ…これがアカデミー作品賞を取った事の最大のひっかっかりはおそらく『よく出来すぎていた』という所。」
題材。二人のキャラクター。エピソードの数々と伏線回収。音楽家ならではの音楽シーンでの盛り上がり。起承転結に至るまで、文句が無い秀作。
「だからこそ文句を言いたくなる。出木杉君は、ドラえもんでも皆から距離を置かれているからな。あいつには一点の曇りもないのに。」
誰に薦めたとしても大丈夫な作品。老若男女問わず好かれる作品。そして。
「観終わった後、フライドチキンが食べたくなる作品。」
本当にねえ。スポンサー欄にKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)があってもおかしくなかったですよ。