ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「バハールの涙」

「バハールの涙」観ました。
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イラク。2014年の夏。クルド人自治区ヤスディ部族が暮らす地域はIS(イスラミックテート)からの奇襲攻撃を受けた。

大量虐殺の後。ヤスディ教徒、クルド人武装勢力クルド自治政府軍は抵抗部隊を組

織。女性だけで構成された武装部隊も前線に立った。

 

2018年。ノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラド。彼女もまたヤスディ教徒であり、ISと戦う女性として名乗りを上げた。

 

この作品のカメラとなる女性ジャーナリスト、マチルド。

彼女もまた、片目を失いながらも活動し続ける実在の女性戦場カメラマンをモデルとしていて。

 

クルド人自治区。そこで女性だけで構成された武装組織『太陽の女たち』と、そのリーダーであるバハールを、彼女達と行動を共にしながら取材をするマチルドの目を通して描いたフィクション作品。

 

無知の知』。イスラム教。イスラム原理主義クルド人クルド人自治区。浅瀬に住む当方はこれらに対して全く語れる知識も思想もありません。

付け焼刃でそれらしい情報を得る事も考えなくはありませんでしたが…如何せん、ボロが出やすく、また「知ったかぶりをしたくない」という考えもありますので…「バーカバーカ」「もっと根が深い問題なんだよ!」という点は大いにあると思いますが。拙いながらも感想を書いていきたいと思います。

 

愛する夫と子供に恵まれながら、女弁護士として充実した日々を送っていたバハール。しかし突然現れたISに依って日常は食い破られた。

夫を初め、男達は皆殺しにされ。息子も奪われた。女たちはタコ部屋に追いやれられ、武器を持つ男達に犯された。身分を奪われ、体を売られた。

いつ殺されるか分からない。そうやって怯えながらも、何とか男達から逃げ出した。

そして今。私たちは女だけで部隊を組み、ISに立ち向かっている。

 

「これは…当方は諸手を挙げて賛同も否定も出来ない。」

 

この作品を観て一週間近く経ちますが。未だと当方の中で堂々巡り。全く思考の着地を見せない。

 

バハールの行動意識の根源。それは「息子を取り戻したい」。

 

理不尽に奪われた日常。永遠に会えなくなった夫。そして奪われた息子。息子に会いたい。どこかで生きていると信じている息子に。その為には武器を取らざるを得なかった。

 

「その武器を向ける相手もまた、誰かの息子では無いのか。」

 

戦争と言う有事。誰かを殺したいと思うほどの感情を有した事の無い当方がなにを、と言われるのでしょうが。

 

「戦争というものの発端は、誰も気付かないほどの綻び。それは宗教や部族間での違和感、そういったものかもしれない。けれど、そこから誰かの命が奪われた時、物事は収束の出来ない憎しみで加速していく。」

誰の言葉ですか?…って当方なんですがね。

 

愛する者を奪われた。だからこちらも全力で奪いに行く。例えばそれが決まった個人であれば怒りをぶつける事が出来る。けれどそれを団体に向ける事は出来ない。当方は。

 

『女に殺されると天国に行けない』

宗教観が分からないのであくまで推測ですが。ISの男性達が信じるというこの言葉から察するに『女=母親』だと思う当方。「母親に殺されるような事をした息子は地獄に落ちる」。

それを逆手に取って、女性部隊を組んだバハール達。

 

「女たちは大人しく男の帰って来るのを待て」「でしゃばるな」そんな事は全く思っていませんが。

 

「どうして彼女達が前線に出なければならない」「女だから、を逆に売りにして捨て鉢な行動を取らなければならない。」上手く言えませんが。

 

そして。「母親だから、女だからという立場=強いとするな」という独身者当方の弱弱しい声。

 

母親で無くて。子をなしていなくて。女で無くて。例えばそういう立場の人間である者が、立ち上がらなかった時は。

 

「私は立ち上がっている。でも貴方は戦わないの?いつも一緒に前線に居るのに。」

 

物語の中で。ジャーナリストマチルダがバハールに言われた言葉。それは決して「お前も武器を取れ。」とか「お前は戦わないのか。」と非難する声でない。単純な疑問の言葉だったけれども。

 

「私は伝える事が仕事だから。」「私は娘の為に生きなければいけないから。」「死ぬわけにはいかない。」

 

たらればの繰り返しをして。でもやっぱり当方はあの現場でも人を殺す選択は出来ない。それはどんなパラレルワールドに於いても同じで、当方の今の思想思考では、当方は武器を取って人に向けられない。

当方は母では無い。けれど万が一母親でこの状況でも誰かの子供に武器を向けられない。

立ち上がった者だけが強い人間じゃない。立ち上がらなかった人も久しく人間である。

 

あの作品のスポットはあくまでも女武装部隊であり、リーダーであるバハール。けれど立ち上がることが出来なかった女性達も、あっという間に殺された男性達も、連れ去られた子供達も…大勢の人が居る。

何も出来なかった人も当然居る。

 

けれど。実際に誰かの息子に武器を向ける選択をした女性たちが居た。

 

それはそれで非難は出来ない。あくまでも『蚊帳の外』に居る当方がどんな平和面して彼女らを否定できるというのか…ただ「それは終わらない憎しみの輪を作るんじゃないですか」という言葉を飲み込みますが。

 

昨日までの生活を奪われる。性を軽んじられ、傷ついて泣いても誰も助けてはくれない。出産すらもままならない。けれど私たちは泣き寝入りをしない。私たちは無駄な血を流さない。私達の地は大地を産む。

 

正直、映画作品としては緩急の付け方なんかも…みにくい作品だとは思いましたが。

 

「今。こういう事が起きている現場がある。」「事件は現場で起き…(自主規制)。」「見なければ見えないし、考えたくなければ考えなくてもいいのかもしれない。けれどこういう事実がある。」

 

作品としてはあくまでもフィクションの呈でしたが。これは数多の現地取材をしたエヴァ・ウッソン監督が投げかけた実態と問い。

 

正解なんか無いけれど。見ないふりをしない、正直にどう思うのかから逃げない。

そしてこのままにせず現在進行形の、実際の展開を見る。

 

ただ…銃を握らず、ふかふかの暖かい寝具できちんと朝まで眠れる夜を。誰もが平等に与えられるを世界であれと。そう思った作品でした。