ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ジュディ 虹の彼方に」

「ジュディ 虹の彼方に」観ました。
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 1969年6月22日。鎮静剤の過剰摂取によって亡くなった、フランセス・エセル・ガム。

彼女の芸名はジュディ・ガーランド。誰もが知っている『オズの魔法使』のドロシー。47歳だった。

 

1939年公開『オズの魔法使』(MGM)。

両親が共働きで鍵っ子だった当方と妹。二人で留守番する時、擦り切れるほど見た『オズの魔法使』。

おそらくNHKとかで流していたものを親がビデオテープに録画した代物。昔の作品故、ただでさえ粗い映像だったけれど…幼かった我々の心を掴んで離さなかった。

カンザスの田舎で叔父夫婦に育てられているドロシー。ある日竜巻に飲み込まれ、家ごと飛ばされた先は…オズの国。

カンザスでの生活はセピア色。けれどオズの国に着いた途端、ドアを開けると世界はカラーに包まれる。この時の高揚感。 f:id:watanabeseijin:20200316200956j:image

もうこの『オズの魔法使』だけでいくらでも感想が書けてしまう位、思い入れが深い作品。ですが…泣く泣くそこは割愛して。先に進みますが。

 

今回、この感想文を書くにあたって久しぶりにDVD(大人になってから購入した)を見ましたが。「やっぱり全部歌歌えるな。」「ああもうみんな良い。凄く良い。」相変わらず夢中になって見た半面、『この時ジュディ・ガーランドは映画会社に薬漬けにされていた』という事実に胸が痛んだ当方。(ジュディ・ガーランドが初めて薬物を投与されたのは『オズの魔法使』撮影当時の16歳。)

 

大人になってからも。時々『オズの魔法使』を一緒に見たり、話しに上がるたびに妹が言う言葉。「でも、ドロシーの人って薬物中毒になって、それで若くに亡くなったんよな。」(後もう一つ。「戦争中にこんな映画が作れた国に、そりゃあ日本が勝てる訳が無い。」)

ドロシーはキュートでちょっと勝気。そんな彼女が薬物?そんなの信じたくない。知りたくない。長らくそう思ってきましたが。

 

第92回米アカデミー賞授賞式。今作品のジュディ役で主演女優賞を受賞した、レネー・ゼルウィガー。彼女を見て「ああ。いよいよジュディ・ガーランドの物語が来るか。これは観ないと。」溜息を付いた当方。

1968~1969年。ロンドンのナイトクラブ『トーク・オブ・ザ・タウン』でのコンサート。晩年の彼女を描いた作品。どんなに寂しい気持ちになるだろうかと、覚悟して映画館に向かった当方。

 

結論から言うと。寂しくもなったけれど、それだけでは無かった。

太く短く生きた人生。薬物とアルコールに依存し精神的にも不安定。金銭感覚が疎いため生活は度々困窮。計5回結婚し3人の子供を授かった。兎に角破天荒。けれどそれは「とことん自分に正直な女性だった」とも言える。

上手く自分を繕っている人たちが沢山居る中で。不器用で、ボロボロで、泥臭い。それでもずっとパフォーマンスを辞めなかった。

なぜなら彼女は生粋のエンターテイナーだったから。

 

思春期にMGMから投与された興奮剤と睡眠薬は、結局彼女を生涯薬物から抜け出せなくした。

加えて上層部からの、パワハラとも取れる圧力。「お前なんか大した役者じゃない。容姿が秀でている訳でもない。いつだって出て行ってくれていいんだぞ(言いまわし省略)。」ジュディが少しでも弱音を吐くと、この手の言葉で押さえつける。

「こんなの…確かにおかしくなる。」震える当方。

大人になっても尚、時折ジュディを襲うフラッシュバック。過去のトラウマ。

 

「けれど。この作品は、決してジュディを悲劇の被害者一辺倒としては描いていない。」

 

確かに子役時代の出来事は、ジュディの人生に影響を与えた。けれど、ジュディの人生は彼女が選択した事で構成されている。

映画会社は解雇されたけれど。持ち前の歌唱力とパフォーマンスを磨いて『ミス・ショウビジネス』と呼ばれるまでになった。

生活力が無さすぎて、元夫に愛する我が子を預けるしかなかった。けれど、決して愛情も手放した訳では無い。我が子の幸せを願った決断をした。

かつての会社やしがらみ。いわゆる『育ってきた環境』。そういったものに大いに振り回されていたけれど、それでも結局生涯辞めなかった『表現者』としての人生。

 

また、ジュディを演じたレニー・ゼルウィガーの絶妙さ。

ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)。公開当時大ブームになりましたし、流石に当方も知ってはいますが(観ていない)。あの当時のレニーから約20年…激太りしたり、何だかエライ事になっている彼女のビジュアルを時々見かけては胸をざわつかせていましたが。もう今回のレニーに関しては「年取り過ぎているやろう。」というのが率直な第一印象。

47歳の女性って、ここまで老けるもん?貧相で厚化粧なビジュアルで、ジリ貧のジュディを演じているレニーの姿は、とても切ない。

宿泊費未納でホテルを追い出され。子供たちを元夫に預け、ギャラ目当てで引き受けたロンドンのナイトクラブでの仕事。

クラブの楽団との事前練習もほぼ参加せず、当日も不安から自室に籠って。自分よりずっと若いマネージャーに無理やり引きずられて舞台に立ったジュディ。「これはあかんのやろうな…」と溜息付こうとしたら…まさかの。圧巻のパフォーマンスが始まった。

「嘘やん!」さっきまで貧相にしか見えなかったジュディが。生き生きと歌い上げる。またその歌の上手い事。レニー、やるなあ~。沸き立つ当方。

生前のジュディ・ガーランド、それこそ『オズの魔法使』しか知らないけれど。

切れ切れのエピソードでしか知らなかったジュディ・ガーランドに血が通っている。レニーが己の全てで体現している。こんなに迫力のある役者だったなんて(失礼)。

そして、ジュディ・ガーランドがこんなに泥臭く。必死に生きた女性だったとは。

 

イカップルとの交流。偏見の目が絶えなかったあの時代に。あくまでも『古くから自分を愛してくれている大切なファン』として真っ当な反応をしたジュディ。人の痛みが分かって寄り添える。。こういう所が、どんな彼女でもずっと好きだと思える部分。

 

最後の。『オーバー・ザ・レインボー/虹の彼方に』で怒涛の涙腺決壊。声が漏れそうになって、タオルを口に当てて泣いた当方。(そもそも、冒頭のシーンで既に「オズの国!」と泣いていたけれど)

大変だった子役時代。そこからの波乱万丈な人生。目の前の女性がどれほどのものを抱えて生きてきたのか。感極まって動けない彼女は痛々しい。けれどそんな彼女に声を掛けたい。何故なら彼女はドロシーだから。

子供のころ。擦り切れるまで何度も何度も見た『オズの魔法使』。不思議な魔法の国で、おかしな仲間と一緒に旅をした。子供向けのミュージカル映画。作中の歌は全部歌える。

劇場に居た、誰もが同じ映画を夢中で観た。誰もが知っている。目の前に居るドロシーは友達。

あの劇場で起きたラストシーン。思い出しただけでまた泣いている当方。

 

昔の事とはいえ。未成年に非人道的な扱いをした当時の映画会社には闇を感じますが。それ一辺倒ではない。(実在する映画会社やし、これ以上子役時代のエピソードが増え過ぎたら話のバランスが崩れるんだろうな。と推測。)

これは泥臭く、一生懸命に生きた一人のエンターテイナーの物語。

 

そしてできれば『オズの魔法使』の鑑賞もお勧めしたい当方。

たまたまですが…子供時分にこの作品に触れられた事、親に感謝して止まないです。

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映画部活動報告「スウィング・キッズ」

「スウィング・キッズ」観ました。
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韓国。『サニー 永遠の仲間たち』のカン・ヒョンチョル監督最新作。

 

1951年。朝鮮戦争当時、最大規模だった巨済捕虜収容所。新しく赴任してきた所長による、対外的なイメージメイキングの為に、捕虜たちによるダンスチームが結成された。元ブロードウェイタップダンサーで現在は米兵のジャクソンが率いるのは、それぞれ異なる事情を抱えた4人。国籍や思想が違う彼らを繋いだのは『タップ・ダンス』だった。

 

『巨済捕虜収容所とは』『朝鮮戦争とは』というレクチャー、冒頭でありましたが。

韓国の人たちには当たり前の知識なんでしょうが。今回感想文を書くにあたって、ちょっとおさらいした当方。(当方お馴染み雑まとめ。「おいおいこれ!」という部分がありましたら…「バーカバーカ」と笑ってください。)

 

1950年に勃発した朝鮮戦争。同じ朝鮮民族から分断し、1948年に成立したばかりであった大韓民国南朝鮮/韓国)と朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の間で起きた、朝鮮半島の主権をめぐる国際紛争

1950年6月25日。金日成率いる北朝鮮側が国境線としていた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けた事で勃発した。

アメリカが背後に付いた韓国(国連軍)と、中国が背後に付いた北朝鮮(共産軍)。

国慶尚南道最南端にある、巨済島。国連軍によって作られた、当時最大規模の巨済捕虜収容所。そこには朝鮮人民捕虜と中国人捕虜が、最大で17万人収容されていた。

この収容所では、北朝鮮支持の『親共捕虜』と社会思想を変えた『反共捕虜』との間で、共産主義と民主主義という理念を意とした捕虜同士の争いが絶えなかった。

(1952年には米軍司令官が捕虜に拉致されるなどの事件も発生した。)

1953年7月。南北が停戦協定に合意したことで、収容所は閉鎖された。

現在は『巨済捕虜収容所遺跡公園』として残されている。

 

~という下り。あまりにもさらっとしていた気がしたので。「ここに収容されている人たちって、北朝鮮と中国の兵士やんな?」「そもそもは同士だったのに。何故捕虜同士で憎み合い、紛争を起こしているのか(それを言ったら朝鮮戦争そのものだって…)。」「主人公ロ・ギスの苦悩の背景は?」

…正直フィーリングで消化できますが。おさらいしてみると話がしっかり頭に入ってくる。だって(小声)そういう史実は基礎知識やからな!進めるぞ!感が否めなくて。(あくまで当方の主観)

 

巨大捕虜収容所。アメリカ軍が取り仕切るけれど、そこまで厳しく規律を敷いている訳でもなく。捕虜たちはアメリカ文化に触れる機会もあり、民主主義に憧れる者も現れた。しかし、元々の共産主義を信念として崩さぬ者もあって。捕虜同士でのいざこざも絶えなかった。

1951年。国連軍メディアに『開かれた収容所』というイメージで報道してもらいたいという新任所長の希望で、捕虜たちによるダンスチームを結成、披露するプロジェクトが立ち上がる。

そこで、米軍下士官のジャクソン(ジャレッド・グライム)。元ブロードウェイタップダンサーの腕を買われ、ダンスプロジェクトのリーダーに指名された。

初めこそ気乗りしなかったけれど。結果メンバーとして残ったのは、収容所で一番のトラブルメーカー、ロ・ギス(D.O.)。4か国語を話せる無認可通訳士、ヤン・パンネ(パク・ヘス)。不幸にも収容所に迷い込んでしまった民間人、カン・ビョンサム(オ・ジュンセ)。中国人振付師シャオパン(キム・ミノ)。

国籍や思想の違い。人種差別。メンバーが各々抱える事情。けれど結局彼らを一つに繋いだのはダンス。

 

「何かのため。誰かのため。体裁。そんなの結局関係ない。踊りたいから踊る。楽しいから踊る。」「音が。音楽が。聞こえたら胸が熱くなって、体が自然に動く。」「一人でもできる。けれど誰かと一緒に踊るともっと楽しい。」

 

ジャクソン役のジャレッド・クライム。世界最高峰のタップダンサーであり俳優。「うわコレ、ホンマもんですわ。」すっげええしか語彙を見つけられない。そんな彼と、主人公ロ・ギスを演じたD.O.。当方はアイドル事情には全包囲疎いんで…アイドルの彼は存じ上げませんが。「こんなに動けるモンなの!」と脱帽。この二人のダンスシーンだけでも十分に気持ちが上がる。

けれど。他のメンバーも決して引けを取らない。紅一点のヤン・パンネ。収容所に出入りしている賑やかしお姉ちゃんたちの末っ子的存在かと思いきや。実際にペラペラ英語を話せるし、自分を売り込む度胸もある。総じてキュート。

不幸の民間人、カン・ビョンサム。生き別れてしまった妻を探したい一心で、ダンスチームに志願。

そして中国人捕虜、シャオパン。

当方はねえ。こういうキャラクターは大好きなんですよ。どう見ても肥満体型なのに「栄養失調なんだ。」そして心臓に持病があり、ひとしきり激しく踊った後はぶっ倒れてしまう。そんな彼は元振付師で、見た目からは想像もつかない柔らかなダンスを披露する。

彼らだって、結構なタップダンスを披露する。つまりは見ていて楽しい。

 

北朝鮮支持の親共捕虜のロ・ギス。兄は北朝鮮軍の英雄とも目される人物で、自身も共産主義である事に揺らぎはない。なのに…体が反応してしまう。アメリカの音楽に。アメリカのダンスに。

他のメンバーは、屈託もなくダンスの練習に参加出来るけれど、ロ・ギスはなかなか参加出来ない。参加しても、今度は同士の目が気になってしまう。

誰よりもダンスの才能とセンスがあって。無意識に体が動く。練習してしまう。憎むべき米兵なのに、ジャクソンのダンスに堪らなく惹かれている。見たい。知りたい。そして一緒に踊りたい。

 

タップダンスチーム結成に集ったメンバー各々が抱える事情。ダンスをする理由。指揮をとるジャクソンですら、やらざるを得ない状態にあるから始めた。

けれど…結局は皆「踊りたい」が原動力になっていたと思う当方。

 

戦争中。巨大な捕虜施設。元々は同じ民族であったけれど、思想が変わっていくことで分かり合えなくなってしまう。そして憎んで殺し合う。

ただシンプルに踊りたい。その気持ちすら…誰かに利用される。

 

まあ。随分と堅苦しく綴ってしまいましたが。基本的にはライトでコミカルに展開していくので。時に笑って、かと思えば鼻がツンと来たりしながら観られるのですが。

 

最終。約束のクリスマスコンサート。遂にダンスが披露された時。その圧倒的なパフォーマンスに胸が高鳴って、満面の笑みだった当方(あの楽団も良い)。

 

なので。声にならない幕引き。寧ろ呆然。

 

1951年。韓国で。クリスマスの夜に夢のようなダンスを披露したチームが居た。そこは捕虜施設で、メンバーは国籍も思想も立場もバラバラ。けれど彼らは一つだった。

 

彼らの友情、高揚した気持ち、一体感。けれどその背景は。

あまりにも内包されている事柄が多すぎて。未だ纏まらず、グルグルしている当方。

けれど。振り返るとまず、あの楽しそうに踊っている彼らが脳内に浮かぶ。

「何かのため。誰かのため。体裁。そんなの結局関係ない。踊りたいから踊る。楽しいから踊る。」

 

…いつだってそうであれと。

そういう解釈をして、強引に幕を下ろしたいと思います。

映画部活動報告「音楽」

「音楽」観ました。
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大橋裕之原作漫画『音楽と漫画』のアニメ映画化。

岩井澤健治監督が7年の月日を掛け、40000枚超の作画を全て手書きで製作した。71分。

 

「何だか凄いやつが来るなこれ。」

劇場予告編で観て気になって。「ヴィレッジヴァンガードとかのオサレブックショップで置かれている、サブカル大好きな人たちに支持される系の。」という先入観はありましたが。でもまあ「気になったら、観ない後悔より観る後悔!」という主義ですので。いそいそと映画館に向かった当方。

 

昨今の疫病の関係で「観たくても映画館に行けない。」という方も多く居られると思いますが…「これは映画館で観るべき作品だ。」と大きくない声で叫ぶ当方。(そもそもどんな作品だって、映画は映画館で観るのがベストだとは思いますが。)

 

研二(坂本慎太郎)。朝倉(芹澤興人)。太田(前野朋哉)。三人の不良高校生が。リーダーである研二の「おい。バンド組もうぜ。」の一言でバンドを結成。何も分からない彼らは、学校の音楽室からベース2本とドラムを持ち出し、研二の家で練習を始める。「何か良かったから。」と語感で決めたバンド名『古武術』。練習を重ねるにつれ、バンドが楽しくなってきた三人。

ある日。同じ校内に『古美術』というバンドが存在すると知り、会いに行く三人。そうして知り合った森田(平岩紙)との交流から、ますます音楽の世界にはまり出す太田と朝倉。

「今度、坂本町ロックフェスティバルがあるんだ。参加しない?」森田に誘われ、地元のフェスに参加する事になったが。

 

絵柄もさることながら。ストーリーもすこぶるシンプル。楽器なんて触った事も無かった不良三人組が、思い付きでバンドを組んで。楽しくなっていくという。

 

当方はこの原作漫画を未読なんでアレですが。漫画を読んでいる側の、脳内で再生されていた世界をはるかに超えた映像化だったんだろうなと推測。

「好きすぎる漫画が映画化されると聞くと、期待する半面それよりももっと不安が大きい。」「おかしな感じにならんやろうか。」当方はそう心配する人種で。(実際に残念な結果に終わる事は往々にしてある)因みに、そんな当方にとって最も良かったマンガからの映画化作品は松本大洋の『ピンポン』(2002年/曽利文彦監督)。(松本大洋作品は『青い春』『鉄コン筋クリート』も良かった。)

話が脱線しましたが。要は映画製作をした側の、原作に対する溢れんばかりの愛情。そういうのが伝わってくるのが当方の考える『良い映画化』。(例外もありますが。)

 

原作漫画を読んで感じた世界観を。岩井澤監督が持てるだけの技術と熱量で映画として昇華した。そいう印象。

 

楽器を持って、研二の家に向かう三人。

「いくら何でも、いきなりそんなセッション出来へんやろう~。」「そもそもどうやったら音が出るのか。音程すらも分からんぞ。」本当に楽器に疎い当方の、無粋な茶々は横に置いておいて。

初めてなのに。「せーの」でめいめいが好きに音を出してみたら上手く噛み合った。「俺たち、いいんじゃねえ?」淡々とした口調ながらも、ワクワクしている気持ちが伝わってくる。

 

「似たような名前のバンドが居る。」同じ校内に前から存在していたバンド『古美術』。

 

「というかねえ。森田!…森田よ‼」 
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 「この作品には悪い人は居ません。」研二を敵対視する他校の不良、大場(竹中直人)だって。結局おとぼけで憎めない。誰しもが愛すべきキャラクターだけれど。

 

「でも違う。森田は他とは違う…(震え声)。」

 

初見からぶっちぎりの存在感だった森田。森田から目が離せない…なにこれ、恋ですか?

地味なビジュアル。「絶対に潰される。」と突然現れた不良たちに震えたけれど。

「お前らの曲を聞かせてくれ。」と乞われて歌ったフォークソングがもう…1960年代にタイムスリップかと思う位の渋さ。

そして「俺たちの曲はこんなだ。」と不良たちが奏でた音楽には「ミスター味っ子か!」というほど表現豊かに感動する。

不良と地味系。決して交わるはずが無かった彼らが、音楽を通じて友情を深めていく下り。しかもきちんと互いにリスペクトしている感じ。好感が持てる。

「そして。フォークソング一辺倒かと思いきや。根底に流れるロック魂。堪らん。」

おそらく金持ち。そんな森田の自宅。アンタ、滅茶苦茶音楽好きやんか…。

件のフェスのチラシ配りで見せた、森田の変貌。そして何より、フェス当日のあの森田…(胸熱)。

 

古武術』の三人。練習風景ではベース二人+ドラムという、流石に音楽に疎い当方でも「ドドドみたいなリズムばっかりになってないか。」と思っていたけれど。

最終のフェスで『古美術』が交わった事で生まれた、曲としてのクオリティ。爆上がり。

 

研二の…唐突なあの心変わりは「ん?」と違和感を感じましたし、最後にあの楽器を持ったのも、正直唐突さは否めませんでしたが。

 

「ああでも。結果が良ければいいじゃない。」

そうやって強引にねじ伏せてくる。だって。演奏が最高やったから。

 

フェスのシーン。実際に実写で撮影したモノをアニメーション化したというだけあって、見ごたえのあるライブたち。こんなにシンプルなのに。何だか涙が出てきた当方。

「畜生。これが音楽の力だ。」

 

岡村靖幸がどこかで出演している…ってここか!」岡村ちゃん大好きな当方が。無言で頷いた瞬間。最高やな。

 

奇跡のステージを経て。きっと彼らはこれからも音楽を続ける。

「だって…バンド=女子にモテたい。亜矢(駒井蓮)が居る限り、研二は音楽から足を洗えない。」

 

確かに「オサレサブカル系の人たちに支持される作品」ではありますが。音楽にも楽器にもバンドにも詳しくなくても大丈夫(詳しいに越したことはなさそうですが)。

「あ。これ、好きやわ。」という思える何かを見つけた高校生のお話。何となくつるんでいた友達が同じ趣味を共有出来る仲間になる。一緒に居たら楽しい。

「彼らにとっては、それが『音楽』だったという話。」

 

微笑ましいし羨ましい、胸が熱くなる。そして圧巻のライブシーン。これはねえ、本当に映画館で…(段々小声でフェードアウト)。
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映画部活動報告「ミッドサマー」

「ミッドサマー」観ました。
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「ようこそ!私たちの祝祭へ!」

 

2018年の長編映画へレディタリー/継承』が高く評価された、アリ・アスター監督の最新作は"フェスティバル・スリラー”。

 

2020年2月21日日本公開。少し経った現在、色んな人が考察を述べている中。

ルーン文字、知らない。北欧の宗教行事や言い伝え、知らない。民俗学、知らない。タペストリーやモチーフ、知らない。」分析すべき教養を何も持たない当方。

TRICK…堤監督の…滅茶苦茶知っている。深夜ドラマからゴールデンへ。有名になって劇場版も公開された。そんなの、初期も初期、山田奈緒子がサスペンダー姿だった頃から知っているぞ。でも山田奈緒子上田次郎出してこの作品茶化すのは反則な気がする。」自主規制。

オズの魔法使いからなら、ちょっと切り込めるかもしれない。」

(両親が共働きだった当方宅。妹と二人で擦り切れるほど繰り返し見た『オズの魔法使』(1939年公開)。全てのシーンを思い出し、歌えるほど記憶している。)

 

「だって。スウェーデン到着後。例のカルト集団が暮らす村、ホルガへと続く道は黄色の花で描かれていた。「オズの魔法使いが住む『エメラルド・シティ』へ向かうには黄色いレンガの道を進めばいい。」つまりはホルガ=オズの国(エメラルド・シティ)やないか。」

 

主人公のダニー、大学生。メンヘラ系女子。妹の自宅での自死に両親も巻き込まれ。(一家心中)一気に家族を失った。

ダニーの恋人クリスチャン。同じく大学生。精神的に依存してくるダニーに息苦しさを感じつつも、突き放す事はしない。別れるでもなく、かといって向き合うでもない。ギクシャクした関係の二人。

そしてクリスチャンの大学の友人、マーク。ジョシュ。ペレ。男友達は気ごころが知れているから楽しい。

友達は口を揃えてクリスチャンに言う。「あんな辛気臭い彼女とはとっとと別れちまえよ。」

けれど。今はダニーの精神的ダメージが余りにも大きすぎる。とても別れを切り出す事なんて出来ない。

スウェーデンからの留学生、ペレの「俺の出身地の村では夏至に珍しい祭りがあるんだ。一緒に来ないか?」というお誘いにノリノリな男たち。どうやらエロが期待できる旅になるらしい。

「男たちだけ。スウェーデンに着いたら早速エロい所に行こうぜ!」

なのに。「一応ダニーにスウェーデン旅行の件、誘ってみる。だって言わないのおかしいだろう?大丈夫、行かないって言うさ。」

クリスチャンのバカ!男たちの声にならない怒号。そして、まさかのダニーが俺たちの旅行に付いてきた!

 

さあそして。スウェーデンへ。奇祭祭りの始まり始まり。という。

 

5月。スウェーデン奥地の秘境、ホルガ(勿論架空の村)。白夜の季節であるそこでは太陽が完全には沈まず、夜が訪れない。一体今はいつなのか?昨日?今日?次第に失っていく日付の感覚。

どこまでも明るいその村に住む人たちは皆、白っぽい服装に身を包み花を纏う。

どこそこに散らばる、意味ありげなモチーフ。タペストリー。美しい花が咲き誇り、村人は皆笑顔で陽気に歌い踊る。

「こんな場所があったのか!」戸惑う一行。ここは楽園か。

けれど。村人らにのみ通じている祝祭を目の当たりにして。次第に不安が隠せなくなってくる一行。笑顔で執り行われる儀式の禍々しく、不気味なこと。

 

目の前で起きている出来事。笑顔の人々。咲き誇る花々。これは果たして現実か幻覚か。自分は今正気なのか、狂気の中なのか。ここは天国なのか地獄なのか。

一体、自分たちは何のためにこの場所に呼ばれたのか。

 

ホルガで執り行われていた、祝祭の儀式。それらを事細かく分析出来るオタク的教養を当方は持ちませんし、ネタバレもアレなんで煙に巻きますが。まあ…「イカれていたな!」という映画部長の一言で代用。

「意外と分かりやすい展開で進んだかなあ~。」と思った当方。村に到着後すぐ見たタペストリーで「ああ。この村の女子は恋をしたらこんな気持ち悪いおまじないで進めるのか~。」と思っていたら…まさに!とか。人生72歳までトークとか。あのテトラポット型ハウスの顛末とか。初見で見た当方の印象を、最後にそうだと答え合わせされる。そういう感じ。人から悪趣味と言われるセンスがアリ・アスター監督と一致していたという事か…。

 

当方の無理やり『オズの魔法使』理論で行くと、主人公ダニー=ドロシー。クリスチャン=弱虫のライオン。ぶっきらぼうでガサツなマーク=脳みそがないカカシ。直ぐにスマホで映像を撮りたがるジョシュ=心がないブリキの木こり。そして彼らをホルガに連れてきたペレ=ドロシーの愛犬トト。になる。

 

「虹の彼方には此処よりもいい所がある。」と夢見ながらも、実際に竜巻に飛ばされてオズの国にやって来たら終始「カンザスに帰りたい。」と言い続けたドロシー。

ダニーだって。暫くはアメリカに帰ると騒いでいたけれど。結局ダニーはドロシーとは真逆の選択をした。

トトはドロシーの愛犬。いつだって一緒。ダニーはクリスチャンと恋人同士だけれど、ダニーの心に寄り添えるのはペレ。「同じ痛みを経験したから分かるんだ。」「ここでは皆で共有して生きていける(言い回しうろ覚え)。僕たちは家族だ。」

 

メンヘラ系女子が大の苦手な当方からしたら、鳥肌モンのダニー。終始ウジウジして、言いたいことありげな表情を見せながらもはっきり言わなくて。なのに「察して構ってよ!」とか「ああもういいですよ。分かってくれなくても。どうせ私なんか。」という気持ちを押し付けてくる。妙に物分かりの良さそうな言い回しをして、なのに明らかに本意じゃない。終始便意を我慢しているみたいな表情。

「うぜええええええええ。」ああもう本当に苦手。こういう奴。

当方からしたら「何がクリスチャン=弱虫のライオンだ!」ダニーから心が離れつつあって、寧ろ鬱陶しくも思っているけれど。どっちつかずな態度を取っているからって弱虫呼ばわりされる覚えなんかない。自分の事を棚に上げて何言ってんだ。

そしてこの作品での「カカシ」と「木こり」の扱いのぞんざいな事よ…。アイツら、とことん人数合わせ要因でしか無かったんやな…。

 

オズの魔法使』で出てきた、ケシの花畑。この作品でも随所で使用されたオクスリたち。

得体の知れない何か…植物由来のオクスリでトリップする。ゆらゆらと揺らめく花々に覆われて夢を見る。思考を鈍らせて、目の前にあるもの、それだけを肌で感じる。何も考えない。

「当方が声を殺して笑った、クリスチャンのセックスシーン。」

近年稀に見るインパクト。心の中で当方大爆笑。クリスチャン凄い。オクスリの力とは言え、あんな状況で。アイツは漢だよ…。

 

"フェスティバル・スリラー”。今回、なんやそれなジャンルを持ち出してきましたが。当方の受けた印象としては「これはコメディ映画だ。」

「とりあえず、アリ・アスター監督が色んなオタク分野に教養のある人物であるという事は分かった。」「1986年生まれかあ~。まだ30代。若い。」

 

スウェーデンの奥地にある、ホルガ(勿論架空の村)。そこで行われる、狂った祝祭。

祭りの目的。それは「村を存続させること」。

小さなコミュニティでの交配ではいずれ血を絶やす。けれど新しい種をよそから持ち込み、新しい花を咲かせれば尽きる事は無い。生贄と言う名の間引きを行う。老いた命は腐る前に土に帰り、新しい命を生む。そうやって、いつまでも強くて美しいオズの国=ホルガを保ち続ける。

そう考えると、あの村の住民の表情にも合点がいく。彼らに悪意は無い。けれど善意も無い。あるのは「これが当たり前だ。」という価値観。つまりは土着信仰。

 

ホルガからやって来たトト=ペレに連れられて。思いがけず居場所を見つけたダニー。感情を皆で共有する事が当然なホルガならば。どんなに大声で泣いても、誰も迷惑だなんて思わない。寧ろ一緒に泣いてくれる。(後。赤と青の刺繍服について。こだわりの意味合いがあるとは思いますが。ダニーが青なのはドロシーの服も青だったのもあるんじゃないかと想像する当方。はい蛇足。)

 

「とりあえず。スウェーデンは怒ってもいい気がするな。」(日本ならば「黄金の国ジパング」と誤解されるやつ)ニヤニヤ笑っていたけれど。

ふと見かけた「脚本を執筆中、恋人との破局を迎えていたアリ・アスター監督は…。」という文章に、思わず表情を一転させた当方。

「え。じゃあこれって…。」

 

映画部活動報告「スピリッツ・オブ・ジ・エア」

「スピリッツ・オブ・ジ・エア」観ました。
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1988年公開。アレックス・プロヤス監督伝説のデビュー作品。

製作に4年半。公開された年のオーストラリア・アカデミー賞で最優秀美術賞、最優秀衣装賞にノミネート。第一回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭では審査員特別賞を受賞。91年に日本の劇場公開が開始されると、レイトショーで12週間のロングランとなった。

しかし、ヒット上映記録を持ちながらもディスク化がなされなかったため、長らく『失われた作品』と呼ばれていた。

今回、監督自身の手によるデジタルリマスター版として再び劇場公開された。

(劇場チラシから所々抜粋)

 

荒廃した砂漠のぽつんと一軒家。そこには、足の不自由な兄フェリックスと妹ベティが二人で暮らしていた。

「この土地から一生離れるな。」今は亡き父親の遺言に固執する妹と、手作りの飛行機でここから飛び立つ事を夢見る兄。

ある日。兄妹の前に、何者かに追われているという男、スミスが現れる。

 

フェリックス。ベティ。スミス。綺麗なまでにこの3人しか登場しない(スミスを追う追っ手?らしき影は時々出てきましたが)。そして物語の構成も非常にシンプル。

「ここを出ていきたい」兄と「ここから離れたくない」妹。そして「早くここから逃げだしたい」逃亡者。

男たちは空を飛んで脱出する方法に希望を抱き燃え上がり。女は一緒に留まれと騒ぎ立てる。

「ねえ。兄の足を見た?空を飛ぶんだって、飛行機を作っては失敗して。落ちた時に足を怪我して歩けなくなったのよ。」「兄は頭がおかしいの。」(言い回しうろ覚え)

 

「製作過程、そして試作品の飛行練習。一々半狂乱。フェリックスは確かにイカれているけれど…ベティよ。アンタはもっとヤバいで。」

ベティを見ていて、終始険しい表情。当方が最も苦手とする『メンヘラ系女子』。それも相当振り切れている。

「大体あんなメイクって。」おっとこれはいかん。人を見た目で判断してはいかん。(なんて言うか…ティム・バートン監督が好きそうな造形。『アリス・イン・ワンダーランド』の赤の女王なんてまさにこれ)

日替わりで変わる、奇抜な衣装。男二人が薄汚れた同じ服をずっと着ているのに対し、随分と…オシャレ(当方なりの気遣い)なベティ。

そういう、いかにもオサレ系女子に支持されそうなベティだけれど。当方はあかん。こういうギャアギャア大声出したり叫んで自分の主張を通そうとする奴はどうもあかん。

 

情緒不安定な妹と二人。いつかはここを飛び出したい。まだ見ぬ場所に行きたい。そう思って、何回も飛行機を作ってきた兄。失敗続き。けれど、思いがけず現れた男に夢の後押しをされる。「行ける。ここから飛び出そう。」(言い回しうろ覚え)

 

スミスが一体何に追われているのか。何をやらかしたのか。全然分かりませんでしたが。まあ…男前なんですわ。

ヤバい兄妹を前にして。若干の不安を感じながらも、何度も何度も飛行訓練を繰り返す。おかしな妹にはヒステリックに当たりちらされるけれど。それでも「いつか飛べるはず」と兄と行動を共にする。

「そもそも、奇抜な出で立ちをした女性にヒステリックに悪意を向けられた時に。その相手にキスして黙らせるって。スミス、アンタどんなスケコマシだよ!」(当方心の声)

 

何度も失敗を繰り返し。次第に完成度が上がってきた手作り飛行機。そして遂に…。

 

「これ。そもそも二人はどうやって生活してたんだ。」「荒野に一軒家って。食事は?水道は?電気は?」「ベティの衣装の出どころは?」そういう事は考えてはいけない。

この作品に生活感や常識を当てはめてはいけない。だってこれは『おとぎ話』だから。

おとぎ話=比喩的に、空想的で現実離れした話。まさにそう。

一つの場所から飛び立ちたいと夢見る者とずっと居続けたい者。相反するのに、二人には切っても切れない絆があり、それ故に留まるしかなくなっている。そこに現れたのは二人にとっての希望であり、絶望。

 

またねえ。映像がもう…言葉にならない美しさ。どこまでも続く大地。地平線を隔てた空が青く、日が沈む時オレンジに染まり、そしてまた蒼い。

そこに佇む、オモチャみたいな一軒家。かつて宗教家だったという父親の影響から、所々キリスト教を連想させるモチーフに彩られ。この家は可愛くもあるけれど、不気味でもある。

「ここが一番。」と離れる事を拒否する妹は最早この家と同化していて、兄をとことん拘束する。

 

「一体スミスって何だったんだろうな。」

兄妹にとって希望であり絶望だった。スミスと行動を共にする事と、スミスに背を向ける事、どちらをとっても兄妹片方しか幸せになれない。

足が不自由という現実に加え、文字通り足かせになっている妹。どちらにせよ自分一人では飛び立てない兄に一縷の希望を見せた…それがスミス。

 

結局兄が下した判断に。「うわあああああ。」と心の中で叫んだ当方。これはあかん。こんなのあかん。もう、そこからは声にならず地団太。

「そして。これは兄が作った、最後の飛行機になったんだろうな。」

 

「『スピリッツ・オブ・ジ・エア』は目の前に立ちはだかる、時には馬鹿げているとさえ思えるような障害物と戦いながらも、夢を実現させようとする者たちの物語である。」アレックス・プロヤス(劇場チラシから抜粋)

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」松尾芭蕉の引用になってしまいましたが。

公開から30年経った今。あの荒野の一軒家を思うけれど…辿り着いたとしても、もう誰も居ない気がする。朽ちて、面影だけを残す家。何があったのかは誰も知らない。

 

シンプルな登場人物とストーリー。けれど映像は何処までも幻想的。いくらでも想像を膨らませる事が出来る。こんなおとぎ話が30年前にあったなんて。

 

ところで。流石に今回のデジタルリマスター版はディスク化されるんでしょうかね。まあ、されなかったらされなかったでまた『失われた作品』となる。残るのは個人の記憶の中のみ。夢か幻か…けれどそれもアリかなと思う当方。実にお似合いですよ。

映画部活動報告「彼らは生きていた」

「彼らは生きていた」観ました。
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2018年。第一次世界大戦終結100周年を記念とした事業として、2018年10月のBFIロンドン映画祭での上映を目的として制作された作品。

イギリス帝国戦争博物館に所蔵されていた、第一次世界大戦中の西部戦線で撮影された膨大なモノクロ映像資料から抜粋し、現代の技術を駆使して3D制作に成功。

退役軍人たちの肉声インタビューや、訛り英語を話せる人間たちからセリフを収集し、ナレーションや兵士の音声を再現。また風や馬の蹄などの音も重ねた。

ピーター・ジャクソン監督作品。

(パンフレットから抜粋)

 

1914年。第一次世界大戦勃発。その当時のイギリス国内風潮。年齢を偽り自ら志願兵となった若者たち。訓練の様子。そして西部戦線へ。

第一次世界大戦を知ったのは、教科書で。物語で。映画で…確かにモノクロの映像も観た事はあった。けれど、粗い解像度とカクカクした動き。音声もマッチしていなくてどことなく素っ頓狂。リアルを切り取っているはずなのに、リアルさを感じない。

今回、ピーター・ジャクソン監督を初め、多くの技術者が各々の分野の全てを駆使して作り上げた…人類初の世界大戦前線のドキュメンタリーが上映される。これは観ておかないと。こんなの観られる機会はそうそう無いぞ。

 

結果から言うと「とんでもないモン観てしまった」。これまで観てきたようなカクカクのモノクロ映像からカラーに切り替わる瞬間。思わず鳥肌。

とは言え。残念ながら当方は映像や音楽の技術者では無いので「これがどれだけ凄いのか」については全く語れないのですが。

 

戦争映画について感想を書く度、同じ事を書いてしまう。けれどやっぱり言いたい。

当方が知りたい事は「その時生きていた人たちはどう感じていたのか」。

特に敗戦国である日本は「あれはいけない事だった」「過ちは二度と繰り返しませんから」「辛い。何も良い事などない」と描きがちで。

戦後に生まれて教育を受けた当方だって、当然そういう思想に落ち着いている。竹やり持って誰かを殺してこいなんて絶対に嫌だし、戦争なんて体験したくない。けれど。

「戦争時代に生きた人たちはどう考えていたのか」「どういう生活を送っていたのか」24時間全てを憎悪に費やしたとは思えない。一体どんな日々を暮らし、戦時中である事をどう感じていたのか。それを知りたい。後付けの倫理観で覆っては、実際が見えなくなる。戦争は愚かな事かもしれないけれど、彼らが愚かであった訳では無い。

せいぜい2,3世代しか変わらない彼らが、今を生きる世代と地続きでないはずが無い。

 

戦争が始まって。「男子たるもの!」といった内容の募兵ポスターがイギリス国中に張られた。「愛国心故!」とかつての軍人たちは再び集い。

そして19歳~35歳が志願兵資格であったが、年齢を偽った十代の若者たちも多く志願した。けれどそれは「周りが志願していたから。自分も行かなければと思った。」「働きたくなかった。」等。異様な興奮状態にあった国の雰囲気に、訳が分からないまま飲み込まれた者も沢山存在した。

彼らは一律に錬兵場へ移動、厳しい訓練の日々が始まる。まだあどけなかった彼らも一か月もすれば立派なイギリス兵。

 

カラー映像に切り替わり。動きも滑らかになって。何よりカメラに向ける彼らの表情に息を呑んでしまう。血が通っている。

歯並びが無茶苦茶なあどけない顔もある。ふと過る真顔。けれど彼らは概ねカメラに笑顔を見せおどけてみせる。隣の兵士と小突き合い。肩を寄せ合う。

 

最前線に送られる。そこは西部戦線。直ぐそこにドイツ軍がいる。

塹壕で監視と穴掘りを交代で行う日々。いつドイツ軍から攻撃されるか分からない緊張状態の中。横穴で倒れるように眠り、紅茶を飲む。目の前には腐敗して片付けられていない死体。不衛生かつ冬場の冷え込みで凍傷を負う者。当方からしたらトラウマレベルの非常事態連発だけれど、これが彼らの日常。

 

退役軍人たちのインタビューが作中のナレーションとなるので。観ている映像に「こういう事があってさあ~」と彼らの説明がついて進行していく仕様。ただ、それを観ていて当方が思ったのは「この人たちは生き残った人たちなんだな。」という事。

カメラを向けられると人は思わず笑顔を見せる。体力的にも精神的にも明らかに過酷な状況で、思わずおどけたり笑顔を見せた兵士たちの一体どれだけが生き残ったのか。

どうすれば生き残れるかなんてルールは無い。偉いとか偉くないとかも、おそらく関係ない。弾に当たれば死ぬ。爆破されれば死ぬ。けれどそれだけではない、ただ沼に落ちたとしても命を落としてしまう。兎に角運が悪ければ死ぬ。

戦場では誰の命も平等に軽く、誰が死んでもおかしくない。けれどそれは何の為に?

 

作中。ドイツ軍兵士を捕虜として捉えた場面があって。けれど言葉が通じるものを介して話をしてみると、憎むべき相手では無かった。ただ互いにひどく疲れていた。それだけ。負傷したイギリス兵を一緒に救護班まで運ぶドイツ兵。友情めいた絵面に「何をしているんだろうな」と思わずにいられない。だって。じゃあ一体何と戦っているのか。

 

突撃の日を迎えた時。これまでの朗らかだった彼らの表情ががらりと変わる。張りつめた緊張感。流れが変わった。息が詰まった後。ただただ溜息。

 

「イギリス帝国戦争博物館に所蔵されている膨大な映像資料。今回は西部戦線を切り取って編集した。けれど、その素材となった映像を撮っていた人…カメラマンはどう思っていたんやろう。誰に、最前線の何を届けたかったんやろう。」

当方は何者でもありませんが…おそらく「目に付いた全てをカメラに収めたかった」んだろうなと。カメラマンならば。記録に残せる立場に居る者ならば。きっとそう思う。

 

「俺たちにとって戦場とはこういう場所だった。」視覚的に理解しやすい映像と退役軍人たちが語った内容。実に頭に入りやすく説得力があった。

「こういう色んな立場の人たちの話を聞きたい。多分もうすぐ聞けなくなる。」そんな考え方は良いとか悪いとかは後からでいい。飾らない体験談を聞きたい。

なぜなら。色んな考え方を知らないと、同じことを繰り返してしまうから。例えば「戦争はいけない事だ」という考えを持つのならば、何を以てダメなのか、答えだけではなく、行きつくまできちんと考えなければならない。

そう思うと、こんな体験が映画館で出来たなんて本当にありがたい。そう思う当方。

 

(後余談ですが。パンフレットが400円だったのも驚き。ワンコインでおつりが来て読み応えもある。これはなかなか。)

 

感情が溢れるまま、纏まりもなく勢いよく書いてしまいましたが。別に気難しく構えなくても、単純に興味深い記録映画として楽しめる。不謹慎ですがちょっとコミカルな部分もある。99分があっという間。

そして最後の一言に「それは確かに無いわ。」と声にならない声で苦笑い。

これは観られる間に映画館で観た方が良いと。本当にそう思う作品。こんなの観られる機会はそうそう無いです。

映画部活動報告「殺人の追憶」

殺人の追憶」観ました。
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2003年公開。ポン・ジュノ監督作品。主演ソン・ガンホ

韓国。1980年代後半に実際に起きた『華城連続殺人事件』。

10~70代の女性10名が強姦殺害された事件。それを基に作られた戯曲。

 

第92回米アカデミー賞で快挙を成したポン・ジュノ監督。『パラサイト 半地下の家族』公開記念としてシネマートで企画・上映された『鬼才 ポン・ジュノの世界!』。

ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』『母なる証明』『スノーピアサー』これら四作品がスクリーンで再上映、というラインナップの中。「有名作品なのに実は観た事が無かった。」という理由から(他は鑑賞済み)。「しかもスクリーンで観られるなんて。」とホクホクしながら映画館へ向かったのですが。

 

「いやあこれ…ポン・ジュノ監督作品全てを観た訳じゃないからアレやけれど…マイベストポン・ジュノ監督作品かな(今までは『母なる証明』やった)。」

「寧ろなんでこれ観てなかったんだ当方よ!」と背中叩きたくなったくらい。このもやあ~っとした感じ、幕の閉じ方。物凄く当方の好み。堪らん。

 

公開から17年。しかも未解決事件のはずが昨年真犯人が特定された。もう星の数ほどこの作品についての紹介、考察はされているはずで。そんな中しれっと知ったような御託を並べるのは恥ずかしい…なので、さらっと感想を書いて収めようという魂胆で進めますが。

 

1980年代。ソウル郊外の農村で女性の変死体が発見された。地元警察のパク刑事(ソン・ガンホ)は弟分のチョ刑事と捜査に当たるが、第二、第三の類似事件が続くばかりで犯人の手がかりは見つからない。焦る中、恋人ソリュンから聞きつけた噂から焼肉屋の息子グァンホが浮上。

同じ頃、ソウル市警からソ刑事(キム・サンギョン)が派遣された。田舎警察の暴力的な取り調べ、犯人を捏造しようとする姿に軽蔑する態度を隠せないソ刑事。

典型的な体育会系、暴力的なパク刑事と知的で冷静なソ刑事。見えない犯人に振り回され、追いつめられ…次第に己の信念をも奪われんとする刑事たちを描いた作品。

 

2003年公開。「ソン・ガンホ若っか!」当時36歳位ですか?もうパツンパツン。加えてあの貫禄。もう見るからに『THE田舎の暴力刑事』。

汚い警察署館内で、散らばった事務机に足乗っけて。直ぐ大声出して。犯人だと思われる人物が現れたら、弟分のチョ刑事に暴力を振るわせて犯人だと自白させようとする。

「ああもうホンマそういう奴、嫌い。」けれど、パク刑事は決して無能では無い。

 

「俺の目を見ろ。」

相手の目をしっかり見る事で真偽が分かる。それは長年の経験から判断できる所もあるとは思うけれど。いわゆる野生の勘というやつを持ち合わせるパク刑事。

 

対するソ刑事。ソウル市警から派遣された『THEまともな刑事』。連続婦女暴行殺人事件に関連する事項はなんだ、そこからあぶりだされる犯人像は?あくまでも真っ当に捜査を進めたい。なのに一緒に組まされている地元警察は馬鹿馬鹿しい体当たり捜査でうんざりする。

けれど。腐っても鯛。地元警察が引っ張ってきた容疑者もあながち無関係では無かった。焼肉屋の息子、グァンホ。知的障害と手指に麻痺がある彼に、犯行は不可能だと判断されたが。あの無理やりな供述には、実は重要な記憶が隠されていた。

 

「犯人は犯行場所に戻ってくる。」そう睨んで張り込んでいた夜。そこにノコノコ現れた男。(ああいう性癖を持つ人って、現実社会で生きづらいですね…。)

地元の女子高生たちが話してくれた噂話。

雨の日にFMラジオでリクエストされる曲。

そして唯一の生きている被害者。

 

先述の、グァンホに対する自白強要が社会的問題となって。上司が交代。パク、チョ刑事の暴力行為が封じられた。そこで脱落していくチョ刑事。

パク刑事とソ刑事のバディモノになっていくにつれ、真実を導きそうなパーツがポロポロと見えてくる。

 

「うわもう絶対こいつが犯人やん。」そういう所まで話は盛り上がっていくけれど。

事件にのめり込むあまり冷静さを失っていくソ刑事と、逆に冴えてくるパク刑事。この二人の持つ素養や信念が交差する下りとか。上手いな~とゾクゾクしてしまう。

 

実際に起きた事件を基にしている。それがどこまでが事実に即していて、どういう配慮がなされたのか当方には分かりませんし…不謹慎ではありますが、単純にお話として面白かった。

 

粗削りな捜査、けれど自身の『野生の勧』は間違いない。そう自信を持っていたパク刑事だったけれど…もう真実は見えなくなった。分からない。もう刑事は続けられない。

 

事件から何十年も経って。全く違う立場になった時、あの場所で思いもよらない言葉を聞いた。そのパクの表情。どれだけの言葉を含んでいる事か。

 

「ああもう!あのソン・ガンホの表情だけでご飯何杯でも食べられるよ!」

「寧ろ何でこれ観てなかったんだよ当方!」

 

背中をバンバン叩きながら己を責めましたが。まあ…そこは今回スクリーンで観る機会をくれたシネマートに感謝するという事で…。

 

「そして。どういう集合写真だこれ。」

たまたま見つけた、当時のポスター写真。「あの人はどうなったんやろう。」「この人の家庭はどうなったのか。」件の事件で人生を狂わされた面々。パク以外の人たちの未来を想像してはモヤモヤと纏まらない。
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ポン・ジュノ監督作品全てを観た訳じゃないからアレやけれど…今のところマイベストポン・ジュノ監督作品。これからも楽しみです(何様だ)。