ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動映画「パラサイト 半地下の家族」

「パラサイト 半地下の家族」観ました。
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ポン・ジュノ監督、ソン・ガンホ主演。第72回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。

 

韓国。全員失業中のキム一家。貧困層が住む地域にある半地下住居は不衛生極まりなく。そこで両親と長男長女の4人暮らし。

ある日、長男の友人からIT企業の社長令嬢の家庭教師の依頼が舞い込む。フリーターである身分を大学生と偽り、高台にあるパク邸に足を踏み入れた長男。

美しい夫婦と長女長男の4人家族。ハイソで天然な夫婦の隙を見つけては、やれ息子の美術の家庭教師だ、運転手だ、家政婦だと、家族総出でパク家に取り入り寄生していくが。

 

「ネタバレ禁止かあ。というかこれ…どこまでが…。」

 

格差社会問題?裕福な者は高台にある本人たちも構造が把握できないようなお屋敷に住んで、貧しい者はゴキブリやネズミと一緒に地面に体をうずめて生きている。そんな相反する家族を比較した問題作?

「いやいやいや。そんな終始悲哀に満ちた感じでは無かった。」「かといってユーモア一辺倒でもない。」「どうしよう!素性がばれちゃう!というお決まりのハラハラもあり…。」

一応ミステリーに分類されていましたが。ジャンル無制限のエンターテイメント作品。

 

「それにしてもパク邸の感じ…。」当方の脳内に流れてくる、小田和正の歌声「♪時々 遠くを見つめる~」(between the  Word & the heart ー言葉と心ー)

「篤史なら…パク邸に篤史が来たなら。」瞳を閉じる当方。

渡辺篤史の建物探訪』今ではあまりテレビを見ない当方ですが。かつては毎週ビデオ録画までしていた、俳優渡辺篤史による一般人の自宅訪問番組。

1989年4月から開始された30分番組。現在30年超えの長寿番組。

その最大の魅力は渡辺篤史のべた褒めトーク。兎に角褒める。褒めまくる。

確かに出てくる家も施工主拘りまくりの注文住宅なんですが。にしても…「こんなに褒めの引き出しがあるなんて。」ほれぼれするほどの気持ちの良さ。

2006年から番組の放送時間の変更、そして当方の住む地域では地上波で見られなくなったため、すっかりご無沙汰してしまいましたが。

「ネタバレ禁止なら…『ワタナベ星人の建物探訪』で行くか。」そういう茶番も思いつきましたが。「そうなるとキム邸も取り上げないといけない…風間やんわりさんの『あつし渡辺の探訪びより』(アウトロー物件を取り上げるギャグ漫画)テイストになるのか。」やり切れたら面白そうな気もするけれど、何をしたいのか訳が分からなくなりそうなんで。没。軌道修正。

 

閑話休題

 

「当方がこの作品で好きな所の一つは、決してパク家を悪者には描かなかった事だ。」

 

一言で言ってしまうと『無邪気』。裕福ならではの世間ずれした感覚。能天気とも取れる発言は無自覚故。決して相手を不快にさせようだとかいう意図を感じない。

特に『シンプル』と表現された奥様。「おいおい大丈夫か?」思わず「本当に信頼できる人を作りなよ。」と心配になってしまうほどの騙されっぷり。

初めは高校生の娘の家庭教師。なのに。小学生の息子の美術カウンセラー、そして長年使えてくれた家政婦まで変えてしまう。

とは言え。夫も信頼していた運転手を解雇してしまったりと、結局夫婦二人してキム家の侵入に気づかない。

 

「そしてもう一つ。キム家も悪者には描かなかった所だ。」

全員無職で休職中。こいつは金ずるになるぞと目を付けたが最後、パク家に取り入り寄生。その手口は詐欺そのものだけれど。彼らもまた、完全な悪者では無い。

「だって。役割はきちんと果たしているから。」

英語の家庭教師。美術カウンセラー。運転手。家政婦。各々得た仕事は遂行。誰一人「きちんとやって。」などとは言われていなかった。

 

「彼の良い所は距離感をわきまえている所だ(パク氏の発言。言い回しうろ覚え)。」

あくまでも雇用主と従業員。仕事ぶりさえ評価できるものであれば素性は大して気にならないし踏み込まない。その関係性は崩さない。それは互いの家族にとってウィンウィンだったはずなのに。

 

「地下世界が広がった事でな…」もう危険。ネタバレ突破しそうなんであわてて風呂敷を畳んでいきますが。

 

この作品を楽しみにしまくっていた、我々映画部(部長と当方の二人)の感想メール。

「少し期待値を上げ過ぎたせいか、予想の範囲内に収まっちゃった感があった。」

「幼い弟の折角のボーイスカウト設定が。メモるだけじゃなくてさあ。」

そして。当方渾身の叫び。

「無自覚に無神経な夫婦のエロシーンが生々しかった。」

「妹のタバコ吸うシーンの絵面よ!決まり過ぎやろ!」

 

終盤。思いもよらない事象に襲われた後。

『雨降って地固まる』だったはずのパク家と『蟻の穴から堤も崩れる』となってしまったキム家。二つが対峙した時。一体どうなってしまったのか。

 

「最後のあれを希望と捉える人が居るのか…当方は寧ろ…。」

 

溜息。ネタバレを意識し過ぎて空中分解した感じが否めませんが。

ともあれ。この作品を観た後、帰宅した自宅が広くもなく狭くもなく衛生的である事にほっとした当方です。


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(写真は2009年に発売され、購入した番組本。今回実家より回収。)

映画部活動映画「さよならテレビ」

「さよならテレビ」(上映後、阿武野勝彦プロデューサーと圡方宏史監督の舞台挨拶回)観ました。
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「薄っぺらいメディアリテラシーはもういらない。」

東海テレビドキュメンタリー劇場第12弾。カメラを向けたのは自社の報道フロア。

約1年7か月の月日を経て描かれたテレビの自画像。一体テレビの何が描かれたのか。

 

「ああ。これはえらいもん観てもうた…。」

公開日直前。「凄い映画が始まるぞ。」そんな噂が波の様に寄せては引いて…引いてもまた押し寄せてくる。段々と気になってきて。そうなると思い立ったが吉日。製作者の舞台挨拶回に鑑賞しようと映画館に向かいましたが。「こんなに人が⁈座席数どんくらいやったっけ?」上映の約1時間前に到着した当方は案の定立ち見。上映時間109分+舞台挨拶約1時間。濃厚な時間を体験して。未だ賛否両論のどちらでもない場所でぐるぐる回っている状態…ですが。上手い事消化して整理整頓出来る気もしませんので。纏まらないまま「感じた事」を並べていきたいと思います。

(長文な上に内容に踏み込みまくり。いつにも増して取っ散らかった感じになると思います。そしてあくまでも、舞台挨拶の内容は当方の意訳です。先んじてお詫びいたします。)

 

「テレビを見たら手が止まるから。」ずっと昔から、当方宅の朝はラジオだった。

テレビは手が止まる。その点ラジオは耳を傾けながらでも動作を止めずに済む。顔を洗い、朝食を摂り準備する。おなじみの番組進行は時計代わり。

親元を離れた今だって、当方の朝はラジオ。たまに職場や旅行先で朝にテレビを付けても、情報は頭に入ってこない。なのに目が離せない。やるべき事が進まない。

かと言って、当方の家族がテレビ嫌いなわけではない。寧ろ好きだと思う。暇が出来ればテレビを付けて休憩し、皆が集まるとテレビを付ける。そもそも当方の家には「夜21時になると皆テレビの部屋に集まり、コーヒーや紅茶を飲みながら歓談する。」という習慣があった。あまりにも自然だったので、どこの家庭もそうしていると結構な大人になるまで思っていたほど。(22時になると解散。各々そのままテレビを見たり、自室の作業に戻ったり、寝たりする。因みに自室にテレビはない。)

 

けれど。一人暮らしをするようになって、当方はぱたりとテレビを見なくなった(お茶時間は今でも健在)。

「ただ流れているから見ていた。」気に入っていた番組もあったけれど「別に見なくても構わない。」と思うようになった。

寧ろ「テレビを見ると手が止まる。」事が嫌になった。

今では職場の昼休憩に流れているニュースやワイドショー。それを弁当を食べながら見る程度。

 

「テレビはもう終わったのか?」

テレビはかつて最強のエンターテイメントだった。「お茶の間の皆さん!」一つのテレビに家族が集い、時にはチャンネル権を争って喧嘩した。学校では「昨日のアレさあ。」と共通の話題になっていた。少なくとも、当方が学生だった頃は。

「手が止まる」事を嫌う当方にとっては動画配信も然りだけれど。YouTubeを始めとしたSNSが溢れかえった昨今、人々の「何を見るのか」という選択肢は莫大に膨れ上がった。数多の『情報』から「見たいもの」を選ぶ。刺激的で、企業やスポンサーに忖度していない、それなりに完成度の高い『情報』を。

ごまんと『アマチュア』が溢れた今。果たして『プロ』はどこで差をつけるのか。

 

この作品の中で、何度も繰り返し説明された「報道の使命」。

1)事件・事故・政治・災害を知らせる。2)困っている人(弱者)を助ける。3)権力を監視する。

最近の当方が自室でテレビを付けた場面。それは大きな地震に遭遇した時や台風が直撃した時だった。避難している状況ならばラジオが強いのかもしれないけれど。今この状況が起きている規模、レベルなどを迅速かつ正確に知る手段はやはりテレビだった。

果たして、困っている人とはどういう人なのか。弱者とは?…逆に強者とは?助けるっていう事は、テレビは強者なのか?

権力を監視する?その目はどういうポジションに置くのか?正義の在り方がしっかりしていないと権力とズブズブの関係になってしまうぞ。

 

東海テレビの報道フロア。朝礼にてドキュメンタリー企画『テレビの今(仮題)』として取材する旨を説明する圡方監督。「一体何を撮りたいんだ。」ふんわりとした企画に戸惑い、半ば笑いながら受け入れた報道スタッフ達だったけれど。実際に取材が始まるとすぐさまカメラとマイクの存在が気になって苛立ち。遂には「取材拒否」をしてきた。

 

「いつもおたくらがやってることじゃないか。どの口がそれ言ってんだ。」当方だってそんな取材を受けた経験はないけれど。テレビに映し出されていた犯罪者、政治家。エトセトラ、エトセトラ。普段相手に向けているカメラが自分たちに向けられた途端、怒りの感情を露わにする報道スタッフ。この冒頭の下りからもう、目が離せない。

話合いの末、1)マイクは机に置かない。2)打ち合わせの撮影は許可を取る。3)放送前に試写を行う。という取り決めをし、撮影再開となった。

この下りは頭に留めておかなければ、と思った当方。なぜなら、ここからの映像は報道スタッフに公開前試写をして「これなら世間に観せても大丈夫だ。」という太鼓判を貰った内容だから。

でもそれはどこまでの裸なのか。

 

以降は4月から始まった夕方のニュース番組が取材の主軸となり。

メインキャスターの福島アナウンサー、記者である澤村さんと渡邊くん。主にこの三人にスポットが当たっていく。

 

福島アナウンサー。穏やかで人当たりの良い、けれど決して冒険はしない慎重派。「分からない事を分からないまま伝える真似はしたくないんです。」「誰かを傷つける様な真似はしたくない。」どうしてそんなに頑ななのか。けれどそこにはかつて会社の信用が失墜した大事故を経ての、彼なりの教訓があった。

 

働き方改革」ひと月の残業時間は100時間以内。法令順守で例外なし。あくまで三六協定を守れという上からのお達し。けれど「視聴率を上げるために全力を尽くせ」。板挟み、矛盾する現場。

「どこも一緒やなあ~(当方の心の声)。」心身の健康維持。それは必然ではあるけれど…やるべき仕事量は減らない。なのに質は落とすな、上を目指せとハッパをかけてくる管理職。

何らかの救済措置が無いと、現状は打破できない。

マンパワー不足を改善するために採用された、制作会社からの派遣社員、渡邊くん。これがまた…(段々小声)悲しいかな、仕事が出来ない。

「人手を埋めたい。今すぐ即戦力を!」そう思って採用したはずなのに。どうにもたどたどしい。ほぼ新人。

「せめてねえ。そのへらへらした感じが無ければ…。」苦々しく顔をしかめる当方。シビアな業界みたいだし、義理人情でどうこうならないんやろうけれど。せめてそのだらしない口元をシャンと閉じて。「人が真剣に話している時に笑ってんじゃねえ!」って思われちゃうよ。けれど。彼は彼で「契約終了にならないよう、成果を出したい」と悩んでいる。

 

新聞畑から転々とし、現在は契約社員として働くベテラン記者澤村さん。企業やスポンサーなどの要望に応える『Z=是非ネタ』を担当する事が多い。しかし、何かとカメラの前で意味深な動きをし「これは何を撮っているんですか?」と問いかける。

共謀罪>か<テロ等準備罪>か。「どちらの言葉で報じるかで政府の言いなりになっているのかが分かるんですよね。」

共謀罪>を問われて裁判中の男性に取材する企画を立ち上げ。実際に取材する澤村さんの姿。『Z』を扱っていた澤村さんも勿論プロの仕事をしている表情だったけれど、「ジャーナリズムってなんだと思いますか?」「いい仕事をして社会に貢献したいんです。」「報道って何なんでしょうね?他社を出し抜く事なんですかね?」齢50手前の男性が語るには青臭い。でも、だからこそ熱く語る澤村さんに惚れてしまう。

 

セシウムさん事件』。2011年8月4日に、東海テレビの情報番組で起きた不適切テロップ事故。

当方はこの事件を知りませんでしたが。妹に聞いたところ「ああ。あれ東海テレビやったんや。」知っている人は知っている。(この返答の怖いのはどこのテレビ局かは重要では無かったところ。)

同年春に発生した東日本大震災。その被災者たちの心情を踏みにじった、あるまじき不祥事。

ローカルエリア放送でありながら、事件は瞬く間にインターネット上に広がり、東海テレビは激しいバッシングに晒された。

「報道の使命が聞いてあきれる。何が『困っている人(弱者)を助ける』だ。」「結局アンタ達は強者の立場から被災者を揶揄して笑っているじゃないか。」

東海テレビでは以降、毎年同日を『放送倫理を考える日』として全社集会を継続している。

「そうか。そういう事があったのか…。」

テレビという存在。元々は報道の使命に上がっていた『権力を監視する』役割。

なのに。テレビはいつの間にか権力を得てしまった。

一体誰の目線に立っているのか。誰の味方なのか。弱いものって一体誰の事だ。強いのは誰だ。テレビは何様だ。

テレビに対する不満と不信感。遂にはテレビも「監視される側」になってしまった。

 

たった109分とは思えない。驚くほどに、話したくなるような引き出しを中途半端に開いていく作品。あれもこれも…そしてそれらしく着地していくのに、何だが胸がもやもやする。すっきりしない。

 

終盤。スポットを当てていた三人が迎えた春。

やっと肩の力が抜けた福島アナウンサーに泣け、苦笑いしながら渡邊くんにエールを送る。なのに。澤村さんがまたもや意味深な表情でカメラに近づいてくる。

「それで結局、何が撮れたんですか?」

そこから怒涛の畳みかけ。衝撃の数分を経ての幕引き。一瞬静まり返った映画館…からの舞台挨拶。

 

ドキュメンタリー:実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など。(デジタル大辞林

取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品。(ウィキペディア

 

当方がかねてからドキュメンタリー作品を観ていて感じる事。「本当の意味でのドキュメンタリー作品ってどういうんやろう?」

カメラを向けられる。それが日常である人物はそうそう居ない。そして自然に振舞える人物も。どうしてもカメラに撮られている自分を意識して誇張した動作、表現…つまりは演じてしまう。自分自身を。

この作品の序盤。普段はカメラを向けてきた報道スタッフが、撮られる側になると怒りを露わにした。「一体何が撮りたいんだ!」俺たちをどう撮るつもりだ。そして俺たちは何処まで付き合えばいいんだ。どう振舞えばいいんだ。

撮影拒否を食らった後。報道スタッフと話し合い、取材協定を結んでからの撮影再開。つまりは「これなら見せてもいいですよ」という折衷案。

 

「色んなソーシャルメディアに、とって代われらるんじゃないかと戦々恐々している現場の意見は撮らなかったんですか?」「正直ぬるいと思いました。」(言い回しうろ覚え)

上映後の舞台挨拶。鑑賞者との意見交換。色んな興味深いやり取りの中で記憶にあるもの。特に後者は「来ると思っていました!」と圡方監督が興奮した声を上げていた。

この作品には社員が出てこない。福島アナウンサーは東海テレビの社員ではあるが、アナウンサーという立場なのでやや特殊。テレビ制作に携わる社員にこの作品は焦点を当てずに、澤村さんや渡邊くんという外部からの契約社員を取り上げた。

「実は管理職にも話は聞いたんです。でも何ていうか…上手く話すんですね。これは面白くない。」

 

「これはテレビの自画像だ。」制作者が舞台挨拶で何度も口にした言葉。

自画像…。普段映像を扱う媒体の人達が、ドキュメンタリーをあえて画に例える。ありのままではない。恰好良すぎてもいけないし、かと言ってみすぼらしくてもいけない…演出する事ありき。けれどそれは結局「どう面白く見せるか。」に着地するのか…これこそTHEテレビ的思考ではないか。

 

思わず息をのんだラスト数分。当方の勝手な想像ですが…あれがあったからこそ、報道スタッフは世間に見せていいと言ったのではないかと。(確か放送前に見せる約束でしたもんね?)

『テレビの今(仮題)』。カメラは報道フロアだけではなく、同時にドキュメンタリー制作サイドの姿も撮っていた。

「ジャーナリズムって何なんでしょうね。」「報道って…。」けれどそれは鏡の様に製作者サイドにも跳ね返る。「ドキュメンタリーって何なんでしょうね。」

もともと個人が持っていた思想や信条、熱い思い。それを「引き出した」と思うのか、「演出した」と捉えてしまうのか。お話として綺麗に落とすために、登場人物達を分かりやすくキャラクター分けしてフォーマットに落とし込んでいないか。そして…折角綺麗に着地したのに。何故あのシーンを付け足した。(その解答は聞きましたが。流石に書きません。)

 

「この作品がぬるいと言うならば。お近くのテレビ局にこういう作品を撮ってみてはと声を寄せてみたらいい。」「テレビにはもっと意見するべきです。」

確かに、いつだってパイオニアは叩かれる。こんなんじゃない、もっとお前たちは何かを隠しているはずだ。それを見せろ。

「でもなあ。そうやって皆で刺激を求めた結果が、今の『テレビではない媒体がやっていること』なんじゃないのかなあ。」そう過る当方。

 

個人が作る、刺激的で、企業やスポンサーに忖度しない映像。けれどそこには倫理はあるのか。

見たいもの見せたいものを無責任に垂れ流す事は、時に人を傷つけたり不快な気持ちにさせる。

『アマチュア』と『プロ』の違い。見せろ見せろという皆の欲求に、おいそれとは答えない。撮って出しではなく、咀嚼してから、あくまでも公平な視点で冷静に見せる。そういう立ち位置がテレビという存在であると当方は思うけれど。その足元は、ここの所随分不安定でぐらついている。

 

「ああもう本当に纏まらない。」未だどこにも着地出来ず、ぐるぐる回り続けている当方。バター寸前ですが。

「少なくとも、こういった問題提起をテレビ局が挙げた事には意味がある。」「これはドキュメンタリーなのか何なのか…少なくともえらいもん観てもうた。それは間違いない。」

 

『さよならテレビ』テレビはかつて最強のエンターテイメントだった。確かにそんな時代は終わった。当方自身も日常生活にテレビは…今は必要ない。けれどだからと言ってテレビを捨てたりはしない。さよならはしない。

 

「ところで。こういうドキュメンタリー番組がしれっと日曜日の夕方地上波で流れる東海テレビって…。」

恐るべし。そう思うと、見落としているだけでまだテレビは面白い事もしているんだ。捨てたもんじゃないなと舌を巻いた当方。

 

約1年7か月の月日を経て描かれたテレビの自画像。テレビの何が描かれたのか。感じ方は人それぞれ。

 

これはドキュメンタリーという名のエンターテイメントテレビショー。お茶の間の皆さん、必見。

映画部活動映画「エクストリーム・ジョブ」

「エクストリーム・ジョブ」観ました。
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「韓国動員数1600万人突破!歴代興行収入NO1 !ハリウッドリメイク決定!韓国映画史に新たな歴史を刻んだ超話題作!」

エクスクラメーション・マークだらけ。随分な鳴り物入りやな~と思いながらも、予告編を見たら面白そうで。

「どんなもんかな~。」とうがっていたら…まんまとホクホクに揚げられてきました。

 

各々の能力が高く阿吽のチームワーク。昼夜を問わず駆けずり回っているのに、イマイチ日の目を見ない『麻薬捜査班』。遂には実績の無さ故に解体の危機にさらされた。

リーダーであるコ班長は、強行班の班長より麻薬を密輸している国際犯罪組織の情報を知らされる。

メンバーのチャン刑事、マ刑事、ヨンホ、ジュフンと共に犯罪組織のアジトを見張るため、アジトの向かいにあるチキン屋にて張り込む麻薬捜査班。

しかし。その寂れたチキン屋の店主は、客足の伸びなさから店を畳む算段をつけていた。

「最近あんたたちが来た以外には、あの向かいの事務所からしか注文なんか来やしないんだよ!」「向かいの事務所から注文が来るのか!」

班長、断腸の思い。「俺たちはチキン屋をしたくて下見をしていたんだ。」「俺たちは家族なんだ。家族経営だ。」自身の退職金を前借し、チキン屋を引き継ぐ事に成功。

本業がありながら、勢いでチキン屋になった5人。適当な塩梅でやっていこうと思っていたのに…マ刑事の絶対味覚が開花。客からの噂が噂を呼んで、一気に名店チキン屋として名が馳せてしまった。

「俺たちは一体なんだ?刑事か?それともチキン屋か?」

大繁盛の店を日々切り盛りする羽目になった麻薬捜査班。捜査そっちのけで新しい役割に虎視奮闘。

果たして彼らの本業は?麻薬捜査班の運命は?

 

という内容を、非常にテンポよくコミカルに描いていました。

これはもう…好きにならざるを得ない。頭を空っぽにして、全身の力を抜いて観られる作品(褒めています)。

 

「韓国に蔓延る麻薬取引…跋扈する闇組織。」とか「どこの国も縦社会。一生懸命であれば許される時代は終わった。実績の無い奴らは潰される。」とか。そんな物々しい何かなんて皆無。「しっかし韓国刑事モノってこういうチームワーク=俺たち家族、みたいなのが好きやな~。」「韓国と言えば焼肉文化なイメージが強い…と思っていたらやっぱり!チキンに掛けるタレが焼肉のタレ(カルビソース)!」兎に角終始朗らか。

 

本業である、麻薬捜査班としての捜査の一環で始めたチキン屋。器用貧乏であるが故に思いがけず繁盛してしまって。根が真面目だから必死になってしまう。

麻薬捜査班がチキン屋になって名店になってしまって繁盛するまでの勢い。確かに息つく間が無かったのですが。ふと過ってしまう「あれ?結局これどう犯罪組織に絡むの?」。

 

ある日。やっと向かいの事務所からチキンの注文が来た。

色めき立つ麻薬捜査班の面々。(確かに表情と動作がガラッと変わった。)そうして念願の犯罪組織との対面…と思ったら。彼らは引っ越していて、別の人間が住んでいた。

 

公開からまだ数日。順を追って内容を書いていてはアレなんで。ここいらからふんわりさせていきますが。

 

前半から中盤。怒涛の『チキン屋』っぷりを開花させていた麻薬捜査班。元々は、捜査対象にしている犯罪組織のアジトが目の前にあったから。だったけれど。何だかもう全然捜査に集中出来ない。

「うっかり人気が出てしまったから、客足を遠のかせるために値段を上げる。」人気絶頂だった時はそれすらも好感が持たれたけれど。遂に足元をすくわれた。

急転直下。突如世間から叩かれ落ちた途端。まさかの相手から『カモがネギを背負って来た』。

 

中盤以降。本業である『麻薬捜査班』としての彼ら。ここからの巻き返しがまた痛快。「良かった良かった。彼らの本来の仕事が見えないと『麻薬捜査班』としての説得力が無いままになる所やったよ。」「ところで…ここまでやれるんなら強行班って要らないんじゃ…(小声)。」

 

まあ。一見愛すべきボンクラ集団に見える彼らが、実は何でもそこそこ出来るプロフェッショナル集団であったと。そして捜査対象に全力で向かった時の無敵艦隊っぷり。

 

「ああこれ。伏線やったんやなあ~。」「小ネタ回収したぞ。」兎に角話のテンポが非常に軽快。そして…役者たちが上手い。上手すぎる。

 

誰も彼もが、観た事がある手練れ俳優たち。彼らが呼吸を合わせて組み合わされば…そりゃあ気持ちよく身がゆだねられるというもの。

わちゃわちゃしている麻薬捜査班も。下手したら犯罪組織の面々だって。(「お久しぶり!悪女/AKUJO、忘れて無いよ!」)彼らの真顔でふざける演技に終始笑いっぱなし。

 

「はい。思った所に着地しました!」けれどそれが気持ちいい。もう何も考えなくて良い。全身の力を抜いて、笑って。でも映画って娯楽やもの。それが気持ちいい。そりゃあ、この作品愛されるよ。

 

ところで。当方が鑑賞した映画館では、ロビーで唐揚げを売っていて。諸般の事情でその日自宅に直帰しなければならなかった当方は泣く泣く諦め。結局あれが一体どんな味だったのか分からずじまい。気になる所ですが。

「唐揚げに焼肉のタレって…どうなの?」

加齢に伴い胃弱になりつつある当方には魔の食べ物。しかもカロリー爆弾。けれど絶対に酒が進む。間違いない。間違いないけれど。「刻んだネギ多めとごま油を加えたら…。」

当方の胃が瀕死の状態に追い込まれる事必須なのに。脳内の暴走が止まらないです。

2019年 映画部ワタナベアカデミー賞

昭:2019年もあとわずか。やっとここまでたどり着きました。ご挨拶が遅れました。我々プレゼンターの『当方の心に住む男女キャラクター、昭と和(あきらとかず)』です。

和:今年は年内に感想文が終了しないかと思ったね。最終怒涛の駆け込み更新。正直やっつけ感が否めない。

昭:まあまあまあ。そういう事は置いておいて。やってきました、映画部年間総括!

和:現実社会では、たった二人の映画部の年間総括は年内には執り行われないんやけれどな。それにしても…なんで昔は12月29とか30日にやってたんやろう?

昭:部長と当方がお互い実家暮らしだったからだよ!大して家の掃除にも参加していなかったし。ってあかんあかん。こういう調子で進めていたらいつまでたっても始められへんで。仕切り直し!

 

和:映画部ワタナベアカデミー賞。これは年末映画好きあるある『年間ベストランキング』に対し「順位なんて付けられないよ~」という優柔不断さから、ジャンル別ベストを叩き出すという『アカデミー賞方式』を採用しています。

昭:何が優柔不断なんだか。順位どころか、ベストワンを叩き出すんやから。しかも時には複数出てくる事もある。ブレブレ。

和:今回の特別ルールとして、『困った展開になったら「オヨヨ~」で逃げる』を付けへん?オヨヨ~。

昭:『COLD WARあの歌、2つの心』な!…まあ、多用しないように気を付けよう。
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和:今年の劇場鑑賞回数は97回。内旧作は7本(午前十時の映画祭は3本)でした。

昭:うわ。遂に100本を切ったのか。

和:手術。激ヤセ(絶賛リバウンド中)。台風。PC水死。布団との闘い。労働意欲の低下。酒。数多の原因があった事を思うと寧ろよく観た方じゃないかと思うけれど。

昭:加齢に伴う気力と体力の低下…違う違う、そんな話をしたいわけじゃない。オヨヨ~。

和:早!まあおふざけはいいとして。そろそろ本当に始めましょうか。

 

『NO MORE SAKE部門』

マイ・エンジェル CLIMAXクライマックス
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昭:酒でやらかした人をニュースなんかで見るたび身が縮む思いがする。いつか当方もやらかすんじゃないか…そんなダメな酒飲みにとって、涙が出そうになった作品。

和:『マイ・エンジェル』のマルネール(マリオン・コティヤール)。酒癖が悪く、色々緩い。溺愛する娘エリーが居るのにクラブで知り合った男と駆け落ちしてしまう。そして残されたエリーの無意識で危険な自宅での行為。

昭:怖いよなあれ。何だかんだ親の背中を見て育ってしまっているって事やもんな。

和:「もう飲んでいないから!」酒を全部捨てて一新したのに…ちょっとでも心が折れたら酒に戻ってしまう。思い当たる節があり過ぎる。

昭:『CLIMAXクライマックス』酒とドラッグがコンボで決まるとこんな阿鼻叫喚に陥るんやなあ~。震える。

和:ダンサー22人の圧巻のパフォーマンスでまず掴まれて。時間が経過していくにつれ狂気の沙汰になっていく。でも流石ダンサー集団、ダンスそのものは崩れない。まあでもあれだけ全身動かして酒飲んだら、ドラッグ入ってなくても相当酔うよ。

昭:ああもう自制出来ん酒飲みはあかん!そう突きつけられる…俺はねえ『サタンタンゴ』の酒宴に居た、頭にパンを乗せて歩き回る男になりたい!

 

『狂人部門』

 ザ・バニシングー消失ー:大学教授レイモン
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和:「やりたいこと、やったもん勝ち♪」精神。『善と悪について』実験と考察を繰り返してきた半生。

昭:「このバルコニーから落ちたらどうなるんだろう?」「川に少女が落ちたらどうなるんだろう?」数々の実験を経て。「女性を薬で眠らせて車に連れ込んだらどうなるだろう?」

和:頭おかしいって!そんなの想像だけの世界でとどめとけよ~。

昭:興味本位と探求心の成れの果て。しかも飄々と告白。アイツホンマサイコパスですわ。

 

『胸糞映画部門』

岬の兄妹
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和:部門名で誤解されがちやけれど。まあでもこれは…「足に障害のある兄が自閉症の妹に売春させる。」という設定は糞やけれど。でもその実は胸が苦しくなる事ばかり。

昭:妹に売春させている時点で兄として終わっている。でも彼らがどうしてそういう状況に陥っているのか、追いつめられていく様が痛々しい。

和:そんな中で、妹は真実の愛を得た。そう思いたい。そう思ったねえ。

 

『ホラー部門』

ウトヤ島、7月22日
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昭:いや、これホラージャンルでは無いんやけれどね。

和:2011年7月22日。ノルウェーウトヤ島で起きた無差別銃乱射テロ。77人の少年少女が殺された。そんな、実際にあった出来事に遭遇した人たちの証言を基に作られた作品。

昭:発生から収束に至ったまでの72分。同じ時間、同じ銃の数でノンストップ。怖かったな。一気に背中にぞくぞくと寒気が走って、動悸。座席の中で体がせりあがった。こんな感覚は初めて。

 

『変態映画部門』

サタンタンゴ
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和:7時間18分。モノクロ3部作。これは文句なしの変態映画。

昭:泊まり勤務明けで鑑賞。第一部は睡魔に持っていかれた所もあったけれど、第二部からは完全覚醒。もうそこからは食い入る様に観ていたな。

和:猫のシーンの最悪さ。狂った酒宴のワクワク感。そしてまさかの…初めと最後が輪になって繋がるという。

昭:兎に角歩く歩く。牛も人も、見切れるまで延々歩く様を見せられる。あとアレな、豚足と豆のスープ。あれはしばらく探求したねえ。

 

『なんでこんな事になっちまうんだよおおお部門』

僕たちは希望という名の列車に乗った:エリック
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和:1956年。ベルリンの壁建設5年前のドイツ。西ドイツに憧れていた東ドイツの高校生たち。ある出来事に対して授業の前に2分間の黙とうとしたことで、クラス全体が人生の選択を迫られた。驚愕の実話ベースの作品。

昭:誰も彼もが「おいおいおい…。」というシビアな状況に追い込まれるんやけれど。このエリックに関しては「やめて!もうやめて!」と叫びたくなる。これはひどい。本当にいたたまれなかった。

 

『胸キュンシーン部門』

殺さない彼と死なない彼女:夕暮れの告白シーン
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和:夕日が落ちていく中。ずっと想いを寄せてくれていた撫子ちゃんに八千代君が気持ちを告白するシーン。

昭:田舎の田んぼが広がる光景。正面から対峙して自分の気持ちを告げた八千代君。それを受け止める撫子ちゃん。自然光と風がまた綺麗で…堪らなかったね。

 

『ベストカップル部門』

ゴッズ・オウン・カントリー:ジョニー&ゲオルゲ

マリッジ・ストーリー:チャーリー&ニコール
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和:オヨヨ〜。ベストとは何か。まさかの二組出てしまいました。

昭:仕方ない。今年最後の最後で『マリッジ・ストーリー』観てしまったもん。「別れても 好きな人~♪」かつてはかけがえのない大切な人だった。決して嫌いになった訳じゃない。でももう一緒には居れない。ラブラブな時の幸せさと、それが反転した時の「好きだった所」が仇になる様。

和:『ゴッズ・オウン・カントリー』これぞスパダリ…。ジョニーの我儘をいなして、けれどいけない時はガツンと叱る。ゲオルゲにとことん痺れた。でもジョニーだって頑張ってるんや。頑張っているんやで。

 

韓国映画部門』

工作 黒金星と呼ばれた男
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昭:1992年。「北朝鮮が核開発を行っている。」という情報が浮上。真偽を得る為に、北朝鮮へ送られた工作員パクと外交を取り締まるミョンウン所長の物語。

和:初めはタヌキの化かし合い。相手の手の内を知りたい、けれど工作員と知られたら消されてしまう。互いに丁丁発止の攻防を見せていたけれど。立場は違えど結局「かつては同じ民族だったんだ。分かり合えるはず。手を取り合い高め合おう。」と同じ方向を向いていく。

昭:北朝鮮のミョンウン所長がまた…いぶし銀で…秘めたる熱意。でも茶目っ気もある。もう最後のシーンではずっと脳内で中島みゆきの「テ~ルラ~テ~ルラアアアア~♪」って流れていたよ。胸が熱い。

和:オールジャンル全力の韓国映画。コメディゾンビ。冥界ファンタジー。新たな分野も見せていたけれど。最近増えつつある、結構切り込んだ社会派作品。面白いよね。

 

『ドキュメンタリー部門』

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
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昭:世界最大級の知の殿堂、『ニューヨーク公共図書館』。「図書館はただの大きな本棚ではない。」図書館の在り方とは。税金と寄付金で成り立っているこの図書館の出来る事は。予算をどう生かすのか。

和:ライフステージや環境によって人々が図書館へ求める内容は変わる。果たしてそれにどう答えるのか。けれどそれだけじゃない。受け身だけじゃない。能動的にどう動けるのか。アグレッシブな図書館の取り組み。多方面からの視点がコロコロ変わって、3時間25分があっという間やった。

 

『午前十時の映画祭部門』

時計じかけのオレンジ
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昭:今年は他に観たのが『E.T.』。『ゴッドファーザ』。もう正直どれがベストとか無いにも等しいけれど…「キューブリックって古びないよな~。」という所で。

和:午前十時の映画祭って、確か今年一杯で終了って言ってなかったっけ?色々大変なんやろうけれど、やっぱり古き良き名作がスクリーンで観れるのはありがたいから、続けて欲しいんやけれどな…。

 

『アニメ部門』

スパイダーマン:スパイダーバース
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昭:お話自体は普遍的なんやけれど。映像が飛び抜けていた。「これは確かにアニメじゃないと。」そう思う構図。最後の宇宙空間なんて禍々しくて、若干気分が悪くなりかけたよ。

和:観客の「大好き!」という満場一致の空気感。そういう意味で『えいがのおそ松さん』も印象深かったな。一応六つ子の誰が誰かという予習をした程度で鑑賞。いまだにアニメも見ていないし、声優さんにも全く疎いんやけれど。愛らしい兄弟やった。好きになるの、分かるよ。

 

『俳優部門』

助演女優賞/ブルーアワーにぶっ飛ばす:南果歩(砂田俊子)

助演男優賞/解放区:本山大(引きこもり青年本山)
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昭:「南果歩ってこんなに上手いんかああ!」東京で新進気鋭のCMディレクターとして働く主人公砂田の母親役。茨城の田舎で暮らす、日に焼けた訛りの強い『THE田舎のおばあちゃん』。これ、砂田の実家メンバーが揃いも揃って切なくなる感じなんやれど、その中でも母親が一々堪らんかった。

和:『解放区』。主人公スヤマが新天地大阪釜ヶ崎で一切愛せないクズに成り下がっていくのに対し、引きこもていた本山(テロップではHIROSHI表記)は居場所を見つけていく。ただ何となくスヤマに呼び出されて行き着いただけだったけれど、底辺の暮らしの中から自立していく姿が印象的。

昭:過剰な演出で感情を揺さぶろうとするテレビマン達に吐いた言葉も芯を食っていたな。スヤマはどうなっていくのか分からんけれど、きっと本山はしっかり地面を踏みしめて生きていけると思った。

 

主演女優賞/マリッジ・ストーリー:スカーレット・ヨハンソン(ニコール)

主演男優賞/JOKERジョーカー:ホアキン・フェニックス(ジョーカー)

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和:「現時点でのスカヨハベストちゃう?!」最近のスカヨハってお色気ムンムンのキャラクターを演じたり、露出している事が多かった気がしたから、こういう等身大なキャラクターは新鮮やった。あの弁護士事務所での長回しでのくるくる変わっていく表情は圧巻。あんなに引き出しが多い役者やと思わなかったね。

昭:同じく『マリッジ・ストーリー』からアダム・ドライバーも良かったんやけれどな~。今年の主演男優賞でホアキン・フェニックスは外せないよな。

和:今までにぎやかしだった、ジョーカーの悲哀。精神疾患。貧困。お笑い芸人を目指しているのに、絶望的なセンスの無さ。あの笑い方…そして後ろ姿。あれ、どういう痩せ方してどういう姿勢を取ったら、あんな見ただけで異常やと思える背中になんの?

昭:兎に角積み重なる負の連鎖。耐えて耐えて耐えて…そして爆発するフラストレーション。

和:エンドロールでうっすら泣いたね。「これが観たかったジョーカーだ。」期待と不安を完全に塗り替えて叩きつけてきた作品。ホアキン・フェニックス以外では不可能やったと思う。

 

『監督部門』

イ・チャンドン監督:バーニング劇場版 ペパーミント・キャンディ オアシス
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昭:『バーニング劇場版』を見た時の不思議な感覚。綺麗ごとなんてどこにもない。寧ろ人間らしい小汚い若者を描いているのに、何故かとても澄んでいる。夕暮れの中上半身裸で踊る彼女の儚さ。今一番幸せななのに、目を瞑ったらそれが消えてしまう。今がピークだと悟っている。夢みたい…。何だこれは。そう思っていたら、行きつけの映画館に依る、過去に上映された『ペパーミント・キャンディ』『オアシス』の再演。

どれもこれも初めは「嫌やなあ~」と思うのに。観終わったら「これまで観たイ・チャンドン監督作品で一番好きだ。」と思う。純度の高さよ。

 

『ワタナベアカデミー大賞』

該当作品なし

和:うわあああああ~。嘘やん!

昭:ちょっとそれについてはノーコメントで。先に進みます。

 

『佳作部門』

ゴッズ・オウン・カントリー バーニング劇場版 JOKERジョーカー(公開順)

和:そういう事かああああ。

昭:どれもが「これは至高やな。」と思ったんやけれど。この中からどれか一つには選べなかった。そしてこれまでの『ワタナベアカデミー大賞作品』って、並べて選んでいないんよな。実際に映画館で観ていて思うねん。「ああこれ、今年のベストやな。」その『降りてくる』感じでは無かった。勿論、この佳作は今年観た中では個人的に突出していたけれどね。

 

ラズベリー部門』

ダンボ
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和:これはもう…お察し下さい。当方の妹が幼い頃に母親から貰ったダンボのぬいぐるみ。以降ディズニーキャラクターで『ダンボ推し』だった妹と当方の、劇場鑑賞後の「コレジャナイ感。」

昭:ディズニーの近年の流行り、何でも実写化。そして社会派メッセージを添付。そういうやり方がダンボには合わなかったんやろうな。

 

和:以上。長々とお疲れ様でした。

昭:お疲れ様でした。思っていたより「オヨヨ~」使わなかったね。

和:正直それどころでは無かったよ。例年に比べて本数的に観ていない割に『~部門』多かったし。

昭:そう思ったら『年間ベストランキング』総括をしている人って凄いな。自分なりのぶれない軸ありきでランキングって。見ていたら確かに凄く個性が出るし。

 

和:初めのあたりで言ってた「加齢に伴う気力と体力の低下」。今年はガクンと来た。休日布団から出ずに過ごした事、数えられない位あったよ。

昭:いざ。勇気をもって布団から退団して映画館に向かったら、それはそれで楽しいんやけれどな。布団との攻防に負けて見逃してしまった作品、それも数えきれないよ。

和:今年も何とかこの映画感想文ブログをルール通りにやり遂げたけれど。心が折れそうになった事、何度もあったね。

昭:心が折れる=終了やからな。「観た作品全ての感想文を書く」「観た順番を入れ替えない」完全なる自己満足の備忘録なのに結構しんどいルール。結局何本も溜め込んでしまって、遅れ遅れ書いていく羽目になる。後あれな。自己満足とは言え、文章が長くなりすぎている。これは本当に検討課題。

 

和:年間総括らしく。来年はどういう年にしたいですか?

昭:「肩の力を抜いてやれることをやる」かなあ。気力も体力もこれから上がる事は無いんやから、せめて使える時間はだらだらせずに大切に使う。映画館で映画を観る事は楽しい。「年間何本観ないと」とか「あれをいつまでに観ないと」とか「絶対に今週中には溜まった感想文を書きあげる」とか。がんじがらめにしている気持ちを緩めたら、本来持っている「映画って楽しいな」に戻れる気がする。

和:とはいっても。この備忘録感想文のルールは変えないよ。

昭:うん。まあ検討課題は明確なんで。ほどほどに頑張ります。

 

和:長らく駄文に付き合ってくれた方。本当にありがとうございました。

昭:色々締まりのない事も書きましたが。一年間、沢山の映画を観れた事は幸せだったと思う。ちょっとガタが来た部分もあったけれど、大病を患った訳でない。身内も含め元気に過ごせた。家もある、布団もある。現実逃避は現実ありきじゃないと成立しない、そう思うと色々あったしんどい出来事も終わりよければすべてよし。下らねえと愚痴りながら、また映画館に向かう、そんな日が来年も続きますように。

和:最後になりましたが、どなた様にとっても良い年でありますように。…良いお年を。

映画部活動報告「マリッジ・ストーリー」

「マリッジ・ストーリー」観ました。
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アダム・ドライバースカーレット・ヨハンソンが夫婦?それはまあ何と豪華な。」

 

劇団の主宰者で舞台演出家のチャーリーと女優のニコール。出会って恋に落ちて。公私を共にし、誰もが認めるベストカップル。結婚して息子を儲けて。家族三人、幸せな日々は続いていく…はずだったのに。

ふとしたボタンの掛け違いから、気持ちがかみ合わなくなってきて。気づけばもうやり直せない所まで来てしまった。

ある一組の夫婦の破局までを描いた作品。

 

「それこそ映画館以外で一つの画面に向き合う事がない。一人暮らしを始めて、もう随分自宅ではテレビを見ていないし、動画配信サービスも利用していない。けれど…Netflixってこんな良質な作品をやっているのか。」

 

冒頭。『相手の好きなところ』を互いに書いてきた手紙。

「ダンスが上手い。周りもつられる。」「父親である事を楽しんでいる。」「子供と全力で遊ぶ。」「贈り物のセンスが良い。」「おしゃれで一緒に居ても恥ずかしくない。」「私の怒りを受け止めてくれて、責めたりしない。」エトセトラ。エトセトラ。

チャーリーからニコールへ。ニコールからチャーリーへ。そこで描かれたのは、笑顔で溢れた魅力的なパートナー。一緒に居たら楽しい。お互いを尊重し、寄り添い高め合える。あれ?でもどうしてこんなラブラブな二人が別れる事に?

「ニコールの好きなところ」「チャーリーの好きなところ」二人が共通して挙げたところ。「負けず嫌いなところ」

 

「この手紙、読みたくない。」

場面が変わって。甘かった二人の関係は過去のものだと知る。カウンセラーからの課題で書いてきた手紙。一応は書いてきたけれど、読み上げる事を頑なに拒否したニコール。「どうして?いい手紙だ。」「いやよ。」「僕のほうだけでも読む。」「いや。」結局この場で手紙が読まれることは無かった。

 

チャーリーが主宰する劇団を離れるニコール。面倒見がよいチャーリーのお陰で劇団の雰囲気は良好。劇団員にとってチャーリーとニコールが別れることは「両親が離婚するくらいショックだぜ。」

LAで生まれ育ち。元々映画女優だったニコール。けれどチャーリーと付き合いだしてNYに移ってからは、ほぼチャーリーの劇団員だった。テレビドラマのオファーをきっかけに、劇団を辞めて息子のヘンリーを連れてLAに戻った。

円満離婚を目指していた二人。けれど。ニコールが仕事仲間から弁護士を紹介された事から、互いに弁護士を立てて離婚協議する事になってしまう。

 

「あのとき同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が 今はもう通わない。」

 

登場人物達の言い回しや表情が…「ああ。今まで見たスカヨハの中で最高なんちゃうこれ。」「アダムド・ライバーってこんなに上手かったっけ?」

長回しの中。役者は同じ場所に留まらず、表情をころころ変えながら動き回る。

弁護士事務所で、チャーリーとの馴れ初めをうっとりと語るニコール。結婚して仕事も順風満帆。幸せなはずなのにふと感じた違和感。それを見過ごすことが出来なくて…その様を語ろうするけれど、喉が詰まって声が出ない。無理に話そうとすると涙が出そう。スカヨハ、圧巻の演技。

そして終盤、まさかのアダム・ドライバーの歌唱力!

 

ニコールの言い分。一言で言うと「チャーリーと居ると個が失われる。」

チャーリーは評価が上がっている。それは一体誰のおかげ?このままでは私は『チャーリーの劇団女優』でしかなくなる。しかもチャーリーは…。

チャーリーも、この恋に終わりが来た事を理解している。なので離婚する事自体には反対していない。ニコールにすがったりはしない。「大した財産は無いけれど、君に渡す。」大切なのは自分の劇団と、一人息子のヘンリー。

 

「互いに離婚する事は承知している。なのに何故あっさり離婚出来ないのか。それは息子のヘンリーを手放したくないから。」

財産?お金?そんなもの、要らない。ただ一つ、望むのはヘンリーとの生活。

 

チャーリーの劇団、夫婦の住居もNYにある。けれど今回ニコールの撮影スケジュールの期間、LAに母子で移住した。LAはニコールにとって古巣。

「なんでNYで弁護士を立てなかったんだ!LAで弁護士を立てられたらLAで弁護士を立てるしかないだろう!」

そういうもんなんですか。まあ、そういうアメリカ事情には疎いんでスルーしてしまいますが。

 

円満離婚を目指していた二人。一緒に居る事は苦痛だけれど、嫌いになった訳じゃない。かつては誰よりも大切な人だった。

なのに。弁護士を挟んだ途端、出来事は誇張、感情は湾曲される。重要視していない財産分与まで生々しく踏み込まれる。おかしい、何を言ってるの。これは本当に相手の思っていることなの。

 

このままでは相手を嫌いになってしまう。好きだと思っていたところも見えなくなってしまう。「ねえ。弁護士のいない所で話をしない?」

そこからはもう…壮大な夫婦喧嘩。

 

本当に思っている事が上手く言えない。自分も相手も感情が高ぶっているから、話を最後まで聞けなくてすぐに声を荒げてしまう。こんなはずじゃなかったのに。

相手を傷つけたい。この人に自分がどれだけ傷つけられたと思っているんだ。傷つく言葉。相手が傷つく言葉。でもそう思って口に出す言葉の刃は己も傷つける。そんな事思っていない。あの幸せだった日々を否定してしまう。違う。こんなの違う。

互いに負けず嫌い。かつては、一方的に爆発するニコールに最後まで付き合って…けれど責めなかったチャーリーが爆発した時。チャーリーは膝から崩れ落ちるしかなかった。

 

「かつて愛し合った二人が別れる。」

そのことで新しい世界が開けたニコールと、心の傷が癒えないチャーリー。

けれど。そこで見つけた、ニコールが頑なに読もうとしなかった手紙。当方の目に涙。

 

Netflix映画のクオリティよ!」驚きが隠せなかった良作。でもこれは…映画館贔屓の当方からしたらスクリーンで観たい。小さな画面じゃ勿体ない。

 

一年を締めくくる作品が、ずんと心に響く夫婦のヒストリー。なのに。

 

『マリッジ・ストーリー』、Netflixの作品ジャンルはコメディドラマ。秀逸。

映画部活動報告「この世界の(さらにいくつもの)片隅に

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」観ました。
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 2016年公開作品『この世界の片隅に』。

こうの̪̪史代の同名漫画を片淵須直監督・脚本、MAPPA制作の長編アニメーション作品。

第二次世界大戦末期の昭和19年。広島から呉にある北條家に嫁いだ18歳のすず。終戦に至るまでの月日を。けれどあくまで「その当時に生きたイチ女性」としての視点で描いた。

watanabeseijin.hatenablog.com

「そうか。あれから三年経ったのか。」

あまりの前評判の良さに惹かれて。前作も公開後早々に観に行った当方。今回も「もし映画館に入れなかったらいかんから。」と公開初日に観に行ってきました。

 

昭和19年に広島から呉に嫁いだ北條すず(旧姓浦野)。彼女を主軸に置いているストーリーである事に変わりはないので。大まかな話の流れは同じ。

のんびりした性格のお嬢さんだった浦野すずが、見ず知らずの(実は幼い頃会っていた)北條周作に求婚され。広島から離れた呉に嫁いできた。

慣れない環境ながらも必死に家事奮闘する日々。幸い義理の両親はいい人で可愛がってくれた。けれど。嫁いだはずの、周作の姉黒木径子が娘の晴美を連れて出戻ってきた事からすずのほんわかした日々は一変する。

元々ちゃきちゃきした性格の径子にしたら、義理妹のトロさは目に余る。ことあるごとにチクチク嫌味を言ってくる径子は苦手だけれど、持ち前のおおらかさでやり過ごしてきたすず。

時代は終戦末期。いよいよ本土決戦間近かと不穏な戦局の中。軍港である呉も、頻繁に敵国戦闘機からの空襲を受ける事が日常化してきていた。

 

前作が129分。今作が168分。おおよそ40分追加された『さらにいくつもの』世界。

それはすずさんの夫北條周作がすずさんと出会う前に関係のあった、遊女白木リンの物語。

 

随分な言い分ですが…当方は正直、すずさんという人物にあまり好感が持てなくて。

「うちはホンマにのんびりしとるから…。」「ホンマになあ。そげな事言われても。うちにはよう分からん。」

のんびりおおらか。おちょっこちょいでお人よし。 そんなドジっ子属性を自覚していて、「ホンマうちは…」と卑下してみせる(無意識)。そんなすずさんを北條家の面々は目じりを下げて可愛がる。けれど…。

「ああもう!しっかりせえや!」そんなすずにビシバシ喝を入れる、義理姉の径子。

径子姉さんは、当方がこの作品の中で最も共感できる人物。

(こういう無意識に自分を卑下してくる人物って、実は全然そう思っていないからな。その上「じゃあこうしたら?」と言った時の、不服そうな表情or何だかんだいう事聞かないパターン、往々にしてある。結構頑固やし。それでこっちが騒いだら、誰かの後ろに回って、助けて~ってリアクションするんよな!なんでいっつもこっちが悪者やねん!腹立つう。)

すずさんに、あざとさまでは感じないけれど…「カマトトぶってんじゃねえ!」という苛立ちは何となく感じる。具現化されてはいないけれど、径子のピリピリしたアタリの強さの根底にそういう感情が過る当方。

(そんなすずさんも、後に決してのんびりおおらかに生きていくわけにはいかない有事が起きるけれど。胸が痛い。)

 

話がずれましたが。今回追加された『白木リン』のエピソード。彼女を通じて見えてくるのは夫、北條周作の人となり。

「そういう時代だった。」と言われれば終いですが。見た事もない相手と生涯を共にする、という近年では考えられない博打。結婚。

「浦野すずが欲しい。」とすずを探し。そして北條家に嫁がせた。大人しい、どちらかと言えば寡黙な周作。けれど決してぶっきらぼうではない。一途にすずを愛し、大切にする、そういう男性。…そういう男性。そういう?

 

「一体北條周作とはどういう男なんだ。」

周作の背景。一体彼はどういう半生を送り、どういう思想を持ち、どう生きていこうとしている人間なんだ。

 

この作品の主人公は北條すずで。あくまでも彼女の一人称で話は進んでいく。戦時中という非常事態でありながらも、どこかほのぼのとした市井の人たちの日常生活。けれど結局日常は戦争によって食い破られる。その様を描いた前作は、どうしても「すずさん目線」が強すぎて、他の人物達に焦点が当たらなかった。

だからこそ。今回『北條周作』というすずさんに最も近い人物の背景を知れる、そう思ったのですが。

 

「まあ…すずさんの一人称目線に変更がないのなら、ここまでなのかな。」

ひょんな偶然から迷い込んでしまった花街。そこで出会った遊女の白木リン。たおやかではかなげ。けれど実は決して弱くない。北條家に居場所がないのではと悩むすずさんには「この世界にそうそう居場所がなくなるなんて事はありゃせんよ。」とびしっと決める。

そんな彼女が、実は夫周作のかつての想い人だったと知って。「うちなんかでは敵わんわ…。」と焦れるすず。

 

「うぜえええええ!言いたいことがあるんなら毎日隣で寝ている周作にぶちまけえ!もう終わった事をグジグジと…なんやねん勝つとか負けるとか!結局周作と結婚してるんはあんたやないかあああ!。」当方の心に住むなんちゃって径子姐さん、大暴れ。

「周作がすずさんにリンさんの事を言わないのは、言わなくていいと思っているから。リンさんへの想いを昇華して、今はすずさんに愛情を注いでいるやんか。」

 

かといって、白木リンの物語が蛇足だとは思わない当方。

貧しさ故に親に売られた少女。性を売って…体一つで生きていかなければいけない。チヤホヤされるばかりじゃない、心身共に疲弊する事も多い。けれどそんな場所でもここが居場所だと、誇りをもってしなやかに生きていこうとする女性。そんな白木リンの真価を見定めて、守っていこうとしたのが北條周作。

「そういう熱さを持った周作が、次にゆるふふわすずさんに行くことの方が信じられんけどな…(当方心の声)。」

 

まあ。総じて振り返ってみると「ああ。これは18歳で知らない家族に嫁いできたすずさんが、色んな出来事を通じて大人になっていく話なんだな。」と着地した当方。

 

初恋というのか、腐れ縁というのか。そんな幼馴染もいたけれど。ある日見知らぬ男性に求婚されて結婚した。結婚してから知った、彼の事。

「私と一緒になる前に一世一代の恋をしていた。」焦れたけれど…相手の女性と関わる事で、どんな場所でも生き抜く強さを知った。

戦時中という非常事態。まして呉、広島という…厳しい破壊を受けた場所。無慈悲に奪われたもの。

あまりにそれは大きすぎて…すずだけではなく、径子姐さんも、そして北條家にも影を落とした。

「うちはなんも知らんままでいたかった!」けれど。

どんなにどん底だと思っても、それでも人は前に進める。

 

約40分の追加シーンを加えての焼きまわし作品。はっきり言うとそういう内容ですが。

『北條すず』という人物がもっとあぶりだされた。彼女は第二次世界大戦末期に生きた人で、決して戦争と切り離しては語れない。けれど彼女の人生イコール戦争ではない。戦争は彼女の人生の通過点。

 

戦争で何かを得た人は少ない。誰もが何かを失った。すずさんも。そしてすずさんの周りの人たちも、広義として無傷の人はいない。命を失った者も居る。

けれど。生き残ったすずさんが。周作が。径子姐さんが。家族たちが。彼らはこれからどう生きていくのか。どう生きたのか。

 

この世界の片隅に』『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。戦争が終わってから、再び灯された家々の灯りに希望を感じて。

再び会えた彼らの『これからの世界』に。想いを馳せていきたいと。そう思います。

映画部活動報告「カツベン!」

「カツベン!」観ました。
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かつて映画には『無声映画(=サイレント)』という時代があった。

しかし日本では無声映画という時代はなかった。

なぜなら『活動弁士』という存在があったから。(言い回しうろ覚え)

 

活動弁士(通称カツベン)。

約100年前。活動映画と呼ばれた時代。スクリーンの動きにを見ながら楽士は音楽を奏で。それらに合わせて弁士が語りや説明を行う事で、観客を映画の世界に誘っていた。

個性豊かな弁士の語りに観客達は魅了され。下手をすると出演俳優よりよほど人気があった。

 

これは、幼い頃活動写真小屋で観た活動弁士に憧れ。弁士になると夢見た少年が大人になって、映画の世界に飛び込んですったもんだする話。

 

Shall we ダンス?』『それでもボクはやってない』など。有名作品を幾つも生み出した周防正行監督の。5年ぶりの新作。

 

「最近は割と落ち着いた作品を作っているような印象があった。そう思うと…『シコふんじゃった』(1992年)を彷彿とさせる軽快さ。」(あくまでも個人の感想です。)

 

沢山は知りませんが。海外の『サイレント映画にまつわる話』は大抵「これからは発声映画(トーキー)だ。」に追いやられていく様を描いていて。かつてのサイレント映画スターの悲哀、みたいな印象があったのですが。

「これからは俺たちみたいな存在は要らなくなる。」

確かに作中そんなセリフもあるにはあったけれど…そういう湿っぽい要素はかする程度。

 

「かつて映画に…カツベンに憧れた少年が大人になって。流れ着いた活動写真小屋。雑用係として働き出し…遂にカツベンとして日の目を見た!」「けれどそこに行き着くまでに泥棒稼業の片棒を担いでいた過去があった事から、きな臭い奴らに追いかけ回される。」「活動小屋の一癖も二癖もある面々。館主夫婦。映写技師。楽士達。そして個性が強く、互いに馴染もうとはしない弁士達。そこで再会した、かつて憧れていた有名弁士。その成れの果て。」「幼い時分に活動小屋で一緒に活動映画を見た少女との再会。」

こういった要素を、あくまでもコミカルに。「笑いあり!涙あり!」のドタバタ劇に仕上げた。

 

主人公の染谷俊太郎を演じた成田凌

どこか愛嬌もある男前なビジュアル故に、これまで所謂スケコマシなキャラクターが多かったように思う彼。

クラスではイケてるグループ。おしゃれで、常に彼女が居て、彼に恋する女子も数多。誰にでもフランク…かと思えば時々濡れた子犬の目で女子達を翻弄する。まあ総じて言えば薄っぺらい。

そんなチャラチャラした役が多かった(あくまでも個人の印象です。)彼が、殻を破った感があった、がむしゃらでどんくさい俊太郎像。

 

子供の頃。活動弁士に憧れて、見様見真似で練習した。その甲斐あって大人になった今、弁士らしい事が出来る様になったけれど…所詮は偽物。

巡業して、先々で活動映画を流す。けれどそれは泥棒達の作業をめくらます為の時間稼ぎ。

そんな生活はもう嫌だと逃げ出して、流れ着いた『青木館』。

 

(これ…同じような事を繰り返して書いているな…そう気づいたので。サクサク行こうと思いますが。)

 

どんくさくて、けれど真面目な、初心で一生懸命な主人公を取り囲む曲者達。この構図で相手が手練俳優達…加えて演出するのはベテラン監督。となればもう安心安定の寸劇の積み重ね。「こうなるんやろうな〜。」「ここで誰々の登場ですよ!」「はいこれ来た!」『かつての初恋相手との再会』という淡いラブストーリーも、概ね脳内で組み立てたパズル通りに物事は進んで行く。

 

鑑賞後振り返って思う事。「まさにあの映画小屋で観ている観客達と同じ顔をしていたなあ〜。」

分かりやすいドタバタ劇。「笑いあり!涙あり!」(…涙?)。確かに終始ニヤニヤとし、心の中で突っ込んでいた。

元々のサイレント映画作品に、過剰なまでの彩りを添えて観客の感情を揺さぶっていた活動弁士

映画そのものに発声が付いている今。弁士は付いていないけれど、観客は同じく笑い、泣いている。

 

「どんなにつまらない作品でも、俺が映画を面白くしているんだ。」脂が乗っているスター弁士茂木(高良健吾)と、「俺たちはもういらなくなる。」と悟っている、かつての有名弁士山岡(永瀬正敏)。

同じ小屋に務める同僚弁士二人の明暗。けれど結局、行き着く先は…同じ場所。

…ここを掘り下げたら締まりに締まった作品になったと思いますが。「あくまでもこれはコメディなんで!」と舵を切ってしまった。

 

終盤。青木館絶体絶命のピンチ…からの俊太郎一世一代の活動弁士作品。そのオリジナリティと技術に「ほおお〜。」とは思ったけれど。『ニュー・シネマ・パラダイス』を連想せざるを得なかった当方。あれは…至高なシーンなんで…似たやつ来てしまうと…ちょっと…。

後一つ。どさくに紛れてさらっと。最後のチェイスシーン、要りませんって。

 

予告編が楽しそうで。実際に本編を観てみたら確かに上手いしテンポも良い。けれど本当に予告編通り過ぎた。「笑いあり。涙あり。」

 

「ここからなんよな。青木館が。そして全国の活動映画小屋がどういう道を辿って行ったのか。先を見据えていた山岡と。見えていなかった弁士達はどうなったのか。」

 

それ、知りたかったなあ〜。そう思うと、作品は楽しかったのにちょっと切ない。

 

そして。今回コメディに振ってきた周防監督は、次回何を撮るのだろうと。

次回作に期待です(何様だ)。