ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「アメリカン・アニマルズ」

アメリカン・アニマルズ」観ました。
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2004年。アメリカのケンタッキー州トランシルヴァニア大学の図書館で実際に起きた窃盗事件。狙われたのは時価1200万ドル(約12億円)を超える画集『アメリカの鳥//著:ジョン・ジェームズ・オーデュボン』。犯人は同大学に通う大学生4人。

特に変わった所のない。所謂『普通の大学生』の彼らが一体何故そのような犯罪を犯したのか。

 

「おお。これ本人達が出ているのか。」

「これは『真実に基づく話』では無い。『真実』である(言い回しうろ覚え)。」

冒頭のテロップからも。これは映画用に作られた話ではなく実際に起きた事件で。しかも犯人の4人が皆登場して当時の事を語るというドキュメンタリーと、役者達が演じるドラマの2パートから成る。

得てしてそういう作りの作品は『世界のこんな珍事件ありました!』的な再現VTRみたくなってしまいそうだけれど(当方が想像しているのは、夜19時~21時台位のテレビバラエティー番組)…けれどこの作品は圧倒的なハイセンスでコーティングされていたので観た後何だかフワフワしてしまう。

スタイリッシュな何かを観た様な気がする。4人の見たもの、語る事が微妙に違っていて、一体誰の視点で何を主軸として観るべきなのか分からなくなってくる。そんな藪の中案件。

遠足の前日までがワクワクする気持ちのピークで。実際の旅も楽しいけれどあっという間に終わってしまう。ある意味そんな彼らの決行までの日々とグダグダに終わった実際。

観たものの情報量が結構あって。すんなり整理整頓が出来なくて、脳が浮いてしまう。

「けれど。」自身に言い聞かせる当方。「これだけは間違いない。彼らは大学図書館から高価な本を盗み、代償として20代を刑務所で過ごした。どういう言葉を並べようが、彼らは狡猾で間抜けな犯罪者だ。決してヒーローではない。」

 

「どうして彼らはこのような犯罪に走ったのか。」結局これ、といった一つの結論には導かれない。彼らは特別に貧しい訳でも、社会に訴える信念があった訳でもない。言うなれば『たまたま高価な本の存在を知った。』『仲の良い友人に話したら「それ、いただいちゃう?」と盛り上がった。』『勢いで仲間を集めたらますます盛り上がった。』『そして実行した。』という、ノリの四段活用。完全に勢い。

 

しかもメンバーの組み合わせが絶妙に良い。周囲から絵のセンスを認められていて、アーティストになりたい主人公のスペンサー。お調子者で盛り上げ上手、仲間をグイグイ引っ張ていくウォーレン。経理学を専攻していて将来はFBIでキャリアを積みたいエリック。学生でありながら起業家のお金持ちチャールズ。

「金目当てじゃなかった。」「皆をあっと言わせるようなでかい事をしたい。有名になりたかった。」「退屈な日常から抜け出したかった。」「金が要った。」各々バラバラな犯行動機を語るけれど。

 

「いやいやいや。それもまあ…深層心理としてあるんやろうけれども。『皆で計画を立てている時の盛り上がりが楽しかったから。』やろう?」

 

スパイ映画。犯罪映画。フィクションの娯楽作品をお手本にして作戦会議。互いをカラーで呼び合い。変装を考え。手順を練った。そのワクワク感。

 

「でも。実行して初めて知った。これは遊びではなかった。本を奪う為には誰かを傷つけなければいけない。机上の空論では思い付かなかったハプニングの連続。全然上手くいかない。」

ドキュメンタリー・パートの彼らが一応に表情を曇らせ、言葉を詰まらせたお粗末な決行のシーン。ドタバタ。これが現実よなあ…と当方も何度も溜息。

 

仲間内でやっている馬鹿なこと。いつも最高に盛り上がって。だから皆にも教えたくてそのふざけた姿を動画に撮ってインターネットにあげる。けれどその『ふざけた』ははたから見ると『悪ふざけ』でしかない。全然面白くない。寧ろ不快。

倫理観が皆無のその動画はあっという間に世界中に拡散され。結局数多からのバッシング。そして仲間ごと一掃、社会生活を奪われる。そんな若者が後を絶たない現在。

「そういうノリの最たるもの、なのかなあ。」そう感じた当方。

 

面白い事は仲間内でひっそりやっておいてくれ。内輪受けを見せつけられるほどつまんないものは無いんやから、あんた達の中で納めておいてくれ。そしてひとしきり遊んだ後、これは常識ではおかしい事ではないのかという振り返りをして欲しい。そして間違っても仲間以外の人間を巻き込まないでくれよな。そういうのは大抵暴力やから。傷付くから。

世界に爪痕を残すのも、ビックになるのも真っ当な方法を選択してくれ。実際そういう人はちゃんと努力をしているやろう。チンケな犯罪なんて失笑しか出ない。

 

この作品は、起承までハイセンスのコーディネートでサクサク進むけれど。転結のスピード感。仲間内の盛り上がりが実際に決行された時のグダグダ。混乱。そして転がり落ちていく様が痛々しい。

結局20代を棒に振っているし。

 

この作品は彼らをヒーローにしたりしない。というより、何者とも定義をしない。解釈をしない。あくまでも纏まりのない『真実』を羅列して提示しているだけ。そこから何を感じるのかは観た者次第。

そこで重みを持つのが被害者の図書館司書、ベティの言葉。…本当にねえ。あいつら何やってんだか。

 

ところで最後に。本を盗むに当たって、彼らから暴行を受けたベティ。何から何まで気の毒でしたけれど。あのバカがベティの眼鏡を踏んで壊した時。「あ。」と思わず声に出てしまった当方。眼鏡人からしたら万死に値する、そんな怒りが沸いた瞬間でした。

映画部活動報告「僕たちは希望という名の列車に乗った」

「僕たちは希望という名の列車に乗った」観ました。
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「1956年。ベルリンの壁建設5年前の東ドイツ。とある『2分間の黙祷』に依って人生を左右する事になった高校生たち。」「一体彼らに何が起きたのか。」「衝撃の実話。」

 

デートリッヒ・ガーストカ『沈黙する教室』原作。ラース・クラウメ監督作品。

 

「ドイツが東西に分かれていた時代。ソ連の影響が避けられなかった時代。西は自由を求め変化していく。けれど、世界全体的にも社会主義が破たんしていく中で次第に閉鎖的になっていく東ドイツ。」「でもねえ。そんな東ドイツ中でもアンチソ連的な考え方はあったみたいですよ。」「それはそれは…生き辛かったやろうな。」

(当方の知る、近しい社会科教師(専門は地理)に。この作品を鑑賞後、当時の東西ドイツソ連の関係。社会主義衰退と資本主義について。世界大戦以降の欧州事情等々をかいつまんで教えてもらおうとした当方。始めこそご機嫌で話してくれそうだったのに。「あっ…楽しようとしているな!まずは自分で調べろ!」とつまんない事を言いだし…結果不勉強なまま。知っている知識だけで現在に至りますが。)

 

知らない事を知ったふりして語るのはあかん。そういうポリシーがありますので。「感じた事を正直に。」たどたどしい部分も交えながら感想を書いていきたいと思います。

 

ベルリンの壁』1961年~1989年までドイツのベルリン市内に存在した壁。冷戦下でドイツは東西に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東から西への人口流出が続出。事態を深刻とみた東ドイツは自国の体制を守る為、1961年8月突如東西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離、続いてコンクリートの壁を建設した。

ベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、東西冷戦の象徴でもあったが、1989年秋の東欧革命に伴う東ドイツ国内の混乱の中、11月東ドイツの不用意な発表から国境検問所が無効。やがて壁そのものも撤去された。(ベルリンの壁崩壊):ウィキペディア先生から抜粋。勝手に要約。

 

舞台は1956年の東ドイツ。ベルリンを経由して東西ドイツが行き来できていた時代。

主人公の男子高校生。クルトとテオ。二人は親友。クルトの母方の祖父の墓参りを口実に二人で列車で西ドイツに渡って。勿論墓参りにも行くけれど、二人の目的は映画鑑賞。「トップレス女優が出ているんだぜ!」チケットを持っていなかったけれど、上手く滑り込んだ。そこで二人が見たのは『ハンガリー動乱』。自由とソ連撤退を求め蜂起した市民が大量に死亡したという、劇場ニュース映像。

東ドイツに戻った二人は、クラスメイト達に「自由を求めて行動したハンガリー市民の追悼の為に、授業中に2分間だけ黙祷をしよう。」と呼びかける。

クラスでも中心的な二人からの提案。純粋な気持ちで賛同し黙祷したクラス全体の行動は『社会主義国家に対する反逆』という大事へ解釈され。まさかの当局から調査されるまでに発展する。「一週間以内に首謀者を明らかにせよ。」「明らかにならない場合はクラス全体を閉鎖。卒業試験の権利もはく奪する。」という人民教祖からのお達し。当局から追い詰められていくクラスメイト達。

大切な仲間を密告して、上級学校に進学しエリートの道を選ぶのか。それとも信念を貫く事で進学を諦め、労働者階級の道を選ぶのか。

 

「なんでこんな事になっちまうんだよおおお。」

当方の心に住む藤原竜也が絶叫。何故?何故高校生の彼らが。たった2分の行動でここまで追いつめられなければいけなかったのか。人生をかける判断を迫られたのか。

 

勉強不足の当方は、ここで「だから社会主義ってやつは~」などと語る術を持たないので。以降はただただ感じた事になってしまうのですが。

 

「こうやって高校生たちの思考や発言を押さえつける行為は、かえって上層部に対する疑問や反抗心を生むという事がどうして分からないのだろう。」

「『上層部』というものが。教師であり当局であり、果ては国家であった。つまりは『権力』を持つ相手であった。その権力を行使して徹底的に彼らを追い詰めていく。そうやって追い詰めてくる相手の姿は、元々はただ無邪気にタブーを踏んだだけだった彼等にはどう見えただろう。」

 

クラスメイトたちの立場も各々違う。労働者階級出身のテオ。普段が自由奔放故に当局から目を付けられていたけれど、この黙祷の発起人は、実は市議会議員の御曹司クルトだった。

クルトの母親が西ドイツ出身なのもあって。母方の祖父の墓参りを口実に度々西ドイツに渡っていた二人。そこで目にしていた光景。

東ドイツに居ながらも、クラスメイトパウロ(また良い感じのハリポタ風ビジュアル男子)の叔父宅に。サロンさながらクラスメイト達で集い。西ドイツの放送に触れて。皆で語り合うのが好きだった。

東ドイツでの生活。ここでしっかり勉強し、卒業試験を受け、進学していくつもりだった。大きな顔をしてのさぼっているソ連兵を疎ましく思っても。せいぜい酒場で彼らにピーナツを投げつけてみるだけ。

ここで。この場所で生きていくつもりだった。

 

けれど。ふとした時に「自由の為に行動し散った人達」を知った。彼らの為に祈りたい。皆、こんな人たちが居たんだって。彼らの為に祈らないか?

クラスメイトに向けた、ふんわりとした声かけ。元々はただそれだけ。

 

『一週間以内に首謀者を見つけ、事態を収束させる。』ミッションを遂行すべく、高校生達を心理的に追い込んでいく当局の非道さ。案の定崩れ去った、ある男子生徒にやるせなさで一杯になった当方。

 

「正しい事とはなんだ。」「これは多数決か。皆の意見の総意か。」

真剣な回答が求められる。どんどん引き出されていく思考。超特急で整理、形成されていく信念。思わぬ事態にぐらつく友情。恋愛関係。卑怯者にはなりたくない。けれど守りたいものがある。守りたいもの…けれどそれを死守する事は自身に芽生えた正義に反する。

 

「しかしそれは若さ故の行動でもあると思う。」静かに眼鏡を上げ、語る当方。

「個人では無い。クラス全体で受けている理不尽、という集団意識があるからこそ、心を強靭に保てた。そして驚異的な判断を下した。(所謂スイミーですな。小さな魚が集団になって大きな魚に立ち向かう)」「けれど。こういう判断が出来たのは彼らが高校生だったからだ。何故なら…大人になると守るものが出来るから。」

 

高校生たちの親たち。彼らは体制側の人間として描かれたけれど。ここに守るべきもの=家族が居るから、高校生と同じ判断は出来ないという風に描かれていた。

 

「そりゃあそうだ。『ここで生きていくと覚悟を決めた大人達』と、『これからどう生きていくのかを決められる子供達』とでは立場が違う。」

ただ。それでも。ここに居ながら、子供達にどう後押しが出来るのか。テオの家族に。クルトの母親に。そしてクルトの父親の姿に、涙が出た当方。

 

実際に起きた出来事をなぞっているので。最後にテロップで流れた顛末に息を呑んだ当方。ですが。ですが最後に。

 

「今回の作品では社会主義国家というイデオロギーに対峙した高校生たち、という姿を描いた訳やけれどさあ。」最後の最後に一体何が始まるんだという、不穏な物言いを残してしまいますが。

 

「正義の概念は時代背景に依って流動的に変化する。かつてこういう時代があり、こういう判断をした高校生達が居た。実際に居た。けれど。もし彼らがこういう判断をしなかったとしても。後世に生きる我々が是非を問う資格はない。」

「似たような事は当時の東ドイツで幾らでも起きていたんじゃないか。体制に折れた人達も居たはずだ。」

「『正しい事』は変わる。けれど、もし自身が同じ状況に陥ったら。一体何を『正しい事』として判断するのか。」

「恐らくその時自身がベストだと思う判断を下すしかない。けれどその時一体何がベストなのかなんて今の当方には分からない。」「だからと言って。思考を止めて良いという訳では無い。」

「彼らが下した判断が、どんな状況下においてもベストアンサーという訳ではない。これはイチ事例。」「しかし、先人達の取った行動は貴重な引き出しとなる。」

 

一体こういう時。自身ならどう行動するのか。作品を受け止めるだけでなく、考えてみること。今後『こういう事』が絶対起きないとも限らない訳だし。

 

兎も角、先ずは原作『沈黙する教室』を読むべきではないかと。そう思う当方です。

映画部活動報告「12か月の未来図」

「12か月の未来図」観ました。
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フランス。伝統ある名門高校で国語の教鞭を取るベテラン教師フランソワ。

生真面目で堅物。皮肉っぽい口調から、生徒たちにとってはとっつきにくい雰囲気のエリート教師。

そんな彼が、知り合った女性にふと語ってしまった『フランスの学力低下問題について』。

「パリ郊外はレベルが低い。学習困難地域にこそ、ベテランの教員を送るべきだ。」まさかその相手が教育関係者とは露知らず。その発言が注目され。フランソワは一年間、パリ郊外にある中学校に赴任する羽目になった。そこに居たのは移民・貧困・学力低下などの問題を抱えた子供達。

 

「エリート教師が学習困難地域の子供達と過ごす一年…。問題児だらけの崩壊寸前なクラス。始めはギクシャクとした関係だったけれど。いくつかの事件を経て、互いに築き上げられていく信頼関係。「そうか。彼はこんな顔をして笑うんだな。」「苦しい時はきちんと言うんだぞ。」そうやって穏やかで弛緩した日々がやっと訪れたと思ったら…まさかの大事件がクラスの皆を襲う!けれど一致団結し窮地を脱出。最後には纏まって終焉を迎える…そして贈る言葉!」

「どこの金八先生だよ!」そんな盤石のストーリーをどうしても脳内で描いてしまって。公開から暫く二の足を踏んでしまっていましたが。

 

「いやいや。これは胸が熱い。」「正直何となく観たけれど。もうけものだった。観て絶対に損はしない。凄く心に残っている。」先に作品を鑑賞した人たちの、軒並み称賛の声。声。堪らなく気になって。

 

「ああ。これは本当に良い作品に出会えた。」鑑賞後シンプルにそう思えた映画。

 

正直、お話の流れとしてはほぼ先述した『脳内金八先生ストーリー』ではあるんですが。

 

フランソワの人間性が…何と言うか嘘が無かった。父親は大作家で裕福な家庭育ち。かつて自身もこのエリート学校で学び、現在はそこで教鞭を取る。

父親やスノッブな相手に語る口癖は「ここは伝統校だが、昔と比べて学力も生徒の質もレベルがどんどん下がっている。」けれど。

フランソワはただの嫌味な国語教師では無かった。

 

ただの上流階級の視野狭窄エリートなら、今ここで相手にしている高校生を見て「その前の段階の子供が変われば~。」とか思うもんなんですかね?

まあ。だとしてもフランソワが語った『学習困難云々の持論』の意味は元々は違ったんじゃないかと思った当方。

まさかそれが『スラム街と言っても過言では無いような地域に住む移民の子供達』と解釈されるなんて想像もしなかっただろう。当方の勝手な先入観ですが。

まあ。父親のパーティで知り合った女性に、何となくそういう話をしてしまった。その結果、自分自身が実践せざるを得なくなった。

断れなかった。もう…その時点でなんだかフランソワの可愛さ…が見えてくる。

 

元々は熱意を持った教師。子供が嫌いな訳じゃ無い。生真面目だけど、全く融通の利かない人間じゃない。けれど。

 

「ああ。フランソワは『できない子供の気持ち』が理解できないんやな…。」

 

突然の自分語り。当方は学生時代終始、すこぶる勉強のできなかった生徒だったんですが。

国語のみ人より少しましでしたが。後は軒並み駄目。特に算数~数学に関しては絶望的。高校時代の担任教師(数学教師)には終いには「まあ、お前の人生に数学は要らんのやろうから…。」とため息交じりに言われたくらいのていらく。でしたが。

「おい。お前次のテストでは頑張れよ。今回のテスト、2点やったやろ。」

冬。休憩時間。教室のストーブを皆と囲んで暖を取っていた当方に、通りすがりで突然そう話しかけてきた件の担任教師。凍り付く一同(ストーブの前なのにな)。へらへら笑いながらも内心泣きそうになった高校生自分の当方…を思い出した、フランソワのテスト答案の返却の仕方。(本当に傷付くんやぞああいうの)

 

パリ郊外の中学校でも。フランソワは始め自分の授業スタイルを変えなかった。教科書を読み、板書させ、問題を出し添削する。

伝統高校には、ある一定レベルを通過した生徒達が集まっている。教科書を理解出来ないのは生徒の努力が足りないから。(国語なんてセンスの有無で相当左右されると思うけれどな)だから出来ない生徒はこてんぱんにこき下ろす。

 

けれど。この中学校の子供達は違う。学力の差はバラバラ。しかも全体的に低い。何故なら子供達は『できない』に慣れてしまって、意欲を失ってしまっていたから。

 

「できない。分からない。」「ああまたできなかった。駄目だな。」「どうせまた分からない、できないよ。」「他の人は分かるんだろう。でも自分は何を言ってるのかも分からない。」「自分は駄目な奴だ。」

 

学習のみならず。移民問題。差別。貧困。生活面に於いても『成功体験』に乏しいと思われる子供達。学校が合わないのならば辞める。勉強なんかよりやらなければいけない事はあるんだ。

 

「ならば。貧しい者は学ばなくてもいいのか。そもそも勉強とはなんだ。」

 

散々『否成功体験』を重ねて学習意欲を失っている今目の前に居る子供達にとって、一体何が適切な教材なのか。

国語教師。学年に沿って習得せよという指導要綱は存在する。けれど、それは今手にしている教科書からは学べない。名作から一部切り取った文章から意味合いや文法を学ぶ授業はここの子供達には適していない。

子供達が興味を持てるもの。これまでどんな文章も読んだ事がなかったのに。一体どうなっていくのかワクワクして。そうやってもどかしくページをめくる。本来国語とは先人達が残した文章から学ぶ教科だ。

本だ。本が持つ楽しさを教える。それが自分が選んだ仕事だ。

 

治安の良い場所で何の心配もない経済状況で育った。水準の高い教育を受け、吸収した。それだって何も悪くない。けれどそれが当たり前だった。一方的だったフランソワの視点。

スラム街寸前の町に住む貧困層の子供達を前にした時。身構え、舐められない様に押さえつけた。「こいつも一緒だ。」そういう教師の態度に慣れきっていた子供達は初め、フランソワに心を開かなかった。けれど。

 

フランソワが『ここの子供達がどういう状況に置かれているのか。』を理解した時。子供達の表情とクラスの雰囲気が明らかに変わった。そして『興味が持てる授業』が始まった。

 

(もう一つ自分語り。高校の国語で習った『こころ/夏目漱石』。あれ、教科書では下の一部しか掲載されていないんですが。当方の通った高校の教師は下の部分全てを印刷しそれで授業をしていました。元々の原作を直ぐ様全て読みましたが。あの授業は本当に楽しかった。)

 

そもそもは熱意を持った教師。子供が嫌いな訳じゃ無い。生真面目だけど、全く融通の利かない人間じゃない。彼もまた、人付き合いに於いて不器用故にとっつきにくいと決めつけられやすいだけで。茶目っ気もある。ちょっと惚れっぽい。人間味が…嘘じゃない。

 

同僚教師たちとの関わりも興味深い。「あいつらの半分はクズだ。」と言い放つ数学教師。何度も心を折られながらも、何とか子供達との関わり方を模索する若い女性教師。彼女の相談に乗るにつれ、段々良い感じになっていくフランソワが…憎めくて。

 

「フランスって遠足でヴェルサイユ宮殿とか行くの!」という眼福もありましたが。

そこでまさかの大事件。「何してんだお前!」からの「問題を起こした子供は辞めさせればいいんですか!」と必死に奔走したフランソワに胸が熱くなり。(また良いシーンで過剰な盛り上げ音楽なんかを使わなかったのも好感が持てる。)

 

最後のシーン。「そうか。一年が経ったんだな。」そう思いながら。「これから必死に勉強する。」あの子供が語った目的が余りにも素晴らしくて胸が熱くなった当方。

「きっとその過程で沢山得る事がある。楽しくなるぞ。」

かけがえのない人と出会った。そう子供が思ってくれたなんて。何て教師冥利に尽きるんやろう。

 

確かに盤石のストーリー。けれど決して飛躍しない丁寧な作り。しっかりと問題を定義し一応の解釈を見せる。とは言えお堅い雰囲気は一切無くて。カッコよくいかない、何だかコミカルな部分もある。それは何だか…フランソワの人間性そのもの。嘘が無い。

 

「ああ。これは本当に良い作品に出会えた。」シンプルにそう思えた映画。胸が満ち足りた気分で一杯。先人達に続き諸手を挙げての称賛です。

映画部活動報告「芳華-Youth-」

「芳華-Youth-」観ました。
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1970年代後半。毛沢東死去。文化大革命の終焉。ベトナムとの中越戦争。揺れに揺れていた中国。

軍隊所属の歌劇団。歌や踊りで軍を慰問、時には叱咤激励する役割を担っていた文芸工作団(=文工団)。

美しく、若い団員たち。己の使命を認識し、ベストパフォーマンスを披露する為努力する日々。しかし。激動の変化を遂げていく時代に、彼らもまた翻弄され、変化を強いられていく。

 

かつて文工団に所属していたゲリン・ヤン原作を基に映画化した、フォン・シャオガン監督作品。

 

「激動の時代に翻弄された若者たち。しかしどんな時代であれ。そこには瑞々しい青春があった。」

そんなありがちキャッチフレーズが脳内を駆け巡った当方。確かに。確かにこの作品をそう括ってしまう事は出来る。出来るけれど…それだけでは薄っぺらい。

「というのも。決して文工団の若き男女のキャッキャした青春がどうこう、というだけの話では無かったからだ。」

 

1976年。ダンスの才能を認められて文工団に入団してきたシャオピン、17歳。けれど結局最後まで文工団に馴染めなかった彼女と。品行方正で団員の誰からも愛された人気者、リウ・フォン。

彼らが出会い、共に過ごした日々。思いもよらなかった別れ。再会。この二人に流れた何十年もの歳月を軸に。

美しく、瑞々しい。けれど時にはひどく利己的で打算的。ーそして儚かった。そんな若者たちの。翻弄されながらも己の生き方を選んでいく姿を描いた作品。

 

「あくまでもシャオピンとリウ・フォンが主人公だけれども。視点はそこだけにはとどまらない。文工団に所属する男女青春の日々と。彼らの交差しまくった恋愛模様。」

 

狂言回しがルームメイトのスイツ。ダンサーだけれど、上層部から「お前は味のある文章を書くな。」と認められ。途中、ダンサーとは別に色んな部隊を取材し、軍の機関誌に記事を書く任務を命じられた。

恐らく、その時に文章を書く力が伸ばされ…彼女は時を経て文筆業となった。

そんなスイツの回顧録。そういう様相で展開していたストーリー。

 

「ゲリン・ヤンの原作未読なんで…どこまでその要素が組み込まれたのかは分からないけれど。まあ…何て言うか…一言で言うと…団員、意地悪ですよね(小声)。」

 

軍お抱えの劇団。皆美目麗しいけれど。仲間意識の強さ故なのか、新入りのシャオピンに対し排他的。彼女の体の特徴をあげつらってとことんいじめる(本当、こういうの最低)。

「シャオピンはダンスの才能を認められて入団…って言うけれどさあ。突出した感じとか、全然分からんかったんよな(小声)。」

天才的なシャオピンに嫉妬して、とかそういう仲間外れじゃない。ただの集団いじめ。程度が低い。けれど。

決して皆と一緒にシャオピンをいじめたりしなかった唯一の人間、リウ・フォン。

一緒にダンスの練習に付き合ってくれた。笑顔で接してくれた。

彼は一人ぼっちだったシャオピンの心を支えてくれた。

 

ここで時代が一つ動く。毛沢東死去。文化大革命は終焉を迎えた。

軍を決起させる。どちらかと言えば雄々しい作品を演じる事が多かった団員たちが初めて聞いた新しい音楽。「こういう歌があるのか。」「これは自分の心にある想いだ。」

 

秘めていた気持ちが決壊してしまった結果。文工団を退団せざるをえなくなったリウ・フォン。そして時代はベトナムとの中越戦争に突入していく。1979年。

 

「そうか。ここで戦争が。」

 

歌劇団。文工団本来の任務を遂行していく中で。疲弊し、脱落していくシャオピン。文工団を離れた彼女が見たものとは。そして戦地でリウ・フォンに待ち受けていた運命とは。

 

時系列に沿ってだらだらネタバレするのも…まとまりが付かなくなりますので。ここいらで風呂敷を畳んでいきますが。

 

「軍隊のお飾り。美しい歌劇団。期待に胸を膨らませて入ったけれど。全然綺麗ではない。そんな閉塞したコミュニティから。一人はふとしたことから転がり落ちた。一人は疲弊しひっそりと離脱した。そんな二人が現場でみた『激動の時代』。」

 

「けれど。歌劇団のメンバーも愚かな世間知らずだったわけではない。薄々感じていた、危うい自分たちの立ち位置。これからどう生きていくのかを早急に選択させられる。自分たちがやってきた事からの即事撤退。夢はもう終わり。」

 

元々音楽やダンスが好きで集まった集団。例え人間関係は閉塞的であっても、共に練習し、軍の同士にパフォーマンスする。それはやりがいのある、かけがえのない日々だった。

そこで先述した脳内フレーズ。「激動の時代に翻弄された若者たち。しかしどんな時代であれ。そこには瑞々しい青春があった。」

 

この作品の映像。光。水。空気。

練習風景。皆でプールではしゃいだ。夜こっそり音楽を聴いた。想いを寄せる相手からもらったトマト。団員たちの交差する恋愛感情。片思いの輪。誰もが振り向いてくれない相手に恋をして。皆でグルグル回っている。

どんなに団員たちが意地悪だ、そう思っても。文工団の彼らのきらびやかな日々が眩しくて。

 

それらと対になるのが恐らく…戦地での爆撃。野戦病院

現実が余りにも悲惨で。けれど立ち止まっている暇など無い。悪夢などと言うのは容易い。夢ならば覚める。

 

正直、135分はあっという間には過ぎなかった。本当に回顧録過ぎて。怒涛ではあるけれどだらだらと語られる雰囲気か否めなかったし、とっ散らかっている。繋がりが雑だなと思う所もあった。けれど。

 

「何なんだ。この映像は。目がくらんで仕方ない。」(また、彼らの圧巻のパフォーマンスよ。)

 

激動の時代を生きた彼らが。各々然るべき場所に収まり。

そして歳を重ねたシャオピンとリウ・フォンの顛末。

 

それならよかった。それでよかった。何だかとんでもないものを観せられた事で頭がぼんやりしながらも、穏やな気持ちで席を離れた当方。
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映画部活動報告「ハイ・ライフ」

「ハイ・ライフ」観ました。
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太陽系を超えた宇宙を進む宇宙船『7』。そこに集められた9人の男女。彼らは皆、死刑や終身刑の宣告を受けた囚人。

 

『"人間の性”にまつわる人体実験』。刑の免除を餌に。女医=ディブス医師の実験に参加した彼ら。しかし、宇宙という閉塞した空間とゴールの見えない日々。次第に彼らは精神の破たんを来していく。

 

フランスの巨匠、クレール・ドゥ二監督作品。

 

予告編が面白そうだったんですね。

「囚人たちの乗った宇宙船。俺たちは社会には不適合だったが、リサイクルされる事になった。」「宇宙で子を生す。」「私たちは地球の資源となる。」

「どうしてこんな事が出来るんだ!正気か!」「私は赤ちゃんなんて産まない!」「ここでは子供なんて育たない!」

終始不穏な画像と音楽。宇宙空間+宇宙船という完全な密室で行われる人体実験という名の人工授精。何故こんな場所で子供を宿し、そして誕生させるのか?そして何故被験者は囚人なのか?一体ここでは何が行われ…何を目的としているのか?

 

~という雰囲気。「これはぞくぞくしちゃうな~。」映画部部員の当方。「得意分野は変態映画部門です。」

『変態映画』。当方の造語ではありますが。これは決して『エロ・グロ』の事ではありません。(…そういうのも嫌いではありませんが。)万人には受けないかもしれないけれど、何だかマニアックな視点に拘りまくって、その作品にしかない異様な世界観を漂わせる…そういう作品が堪らなく好きなんですよ。

という期待を抱えて。映画館に向かったのですが。

 

「あああ。肩透かし食らった…。」

 

どんな作品にも「これは人生でベストの映画だ。」と思う人が居て。でも反面「う~ん…。」と首をかしげる人が居る。どちらに対しても、当方は否定も肯定もしない。何故なら感性というのは千差万別で、あれこれ言われる筋合いは無いから。

色んな受け止め方がある、それを否定してはいけない…って何をグダグダくだを巻いているのかというと、正直「思ってたんと違うかった。」からで。

 

閉鎖的な宇宙空間で行われる人体実験。そこには恋愛感情では繋がっていない、ただ男女という『合わせれば新しい命を誕生させることが出来る』個体が集められた。

男達から強制的に吐き出される精子。それを受精し、受胎する女達。しかし、この宇宙船では胎児が育たない。

一体ディブス医師の目的は何なのか。何故囚人たちが?そして宇宙空間という密室である事の意味は?

 

「地球自体が終末期なんですか?何らかの病原菌が蔓延しているとか?宇宙で新人類を増やし、地球に還元させるシステム?それが倫理観に反するから囚人を集めたって事ですか?で。資源ってどういう風に?…レプリカント?移植用臓器?それとも…食料として?」

一体どこの『ブレードランナー』や『わたしをはなさないで』だよと。ありきたりの発想だとお叱りを受けそうですが。どうしても『"人間の性”にまつわる人体実験』とやらの具体的な答えを欲してしまった当方。

 

これが…あんまり…詳細には語られなかった。

ネタバレすべきではない。そう思うので。今回はもうとっとと収束していくつもりなんですが。

 

「どうも全体的に…いくら何でも観ている側に丸投げ過ぎるやろう。という感じが否めなかった。結果、雰囲気オサレ映画になってしまった。そういう印象。」

歯切れの悪い当方。

 

主人公モンテと幼い娘。二人の宇宙船での生活を描きながら。『かつてここ(宇宙船)で起きた事』を回想していくスタイルのストーリー展開。集められた男女が次第に歪んでいく。朽ちていくさま。

 

「というかディブス医師。彼女のインパクトが強すぎる。そのせいで他の全てが霞んでしまった。囚人たちの背景もしかり。そもそもディブス医師の目的すら訳分からんし…。」

 

例の『ボックス』で延々見せられたディブス医師渾身のソロプレイ。あれ、何なんですか。「痛そう…。」でしか無かったし。一応ディブス医師の過去なんかもちらっと語られていましたが。こういう実験をする理由付けにはならん。結局当方には色情狂にしか見えず。

 

ところでこの宇宙船システムは何処が母体でやってる事業なんですか?宇宙船とか使っているという事はNASAが関わっているはずで。そういう巨大組織が本来やりたかった事が、便乗したディブス医師におかしな方向に乗っ取られた…風にも見えない。背景の思惑が分からない。囚人達が誰の何に振り回されているのか分からない。

 

「つまりは。舞台が宇宙空間である事の意味があったのかと。どこか全く分からない場所、で良いんじゃないんですか?ブラックホール云々の下りも結局よく分からんかったし…。一個人の狂った実験に付き合わされる男女なら、そういうコンパクトな空間の方がしっくりくるんじゃないかと。」

 

ただ。散々文句を言ってしまいましたが。これが終始トーンの抑えられた映像であった事と、不穏な音楽=派手な音は流れない環境でしたので。正直所々『睡魔』が襲ってきたことは否めない。つまりは「作中で語られていた事を当方が見落としている可能性」は大いにある。『お前!何観てたんだよ!』案件。ですが。

 

「ちょっと…思ってたんと違ったなあ~。観ている最中にあれ?これは?って突っ込み出したらもう世界観に嵌れない。酔えない…。」

 

ただ。映像の美しさは確か。そういう意味で、オサレなバーで流れていたら素敵なオサレ映画…当方はそう受け取りましたが。

癖が強いので、嵌る人にはとことん真逆の感想になるんだろう。そういう二極化が激しそうな作品だと思いました。

映画部活動報告「ある少年の告白」

「ある少年の告白」観ました。
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同性愛など。性的志向に於いて『ジェンダーアイデンティティー』と呼ばれる人たち。そんな性的マイノリティを対象とした『矯正施設』がアメリカには存在する。

「同性愛は病気だ。」「生まれた時からの同性愛者は居ない。同性愛は後天的であり、ならばその要因を取り除く事で矯正できる。」

多くの専門家から「非科学的。根拠が無い。」と疑問、否定、問題視されていたにも関わらず件の施設運営及び矯正治療は後を絶たず。

2014年。矯正治療経験者から17歳の自殺者が発生。オバマ大統領(当時)から「矯正治療をやめよ。」という声明が発表された。それを受け、一部の州ではこれらの『矯正治療行為』を禁止する法律が成立した。

しかし、未だ34の州ではその法律は整備されておらず。現在までに約70万人が矯正プログラムを受けたと言われている。

(今回の感想文を書くにあたり、『アメリカのジェンダーアイデンティティー矯正施設云々』について当方が調べた内容を要約)

 

2016年。ガラルド・コンリーにて書かれた自伝的小説『BOY ERASED』の映画化。

ジョエル・エドガードン監督。主人公の少年ジャレッドをルーカス・ヘッシズ。ジャレッドの父親をラッセル・クロウ。母親をニコール・キッドマンが演じた。

 

「同性愛は病気だ。」

主人公のジャレッド。大学生。

アメリカの片田舎。一人息子の彼は、牧師の父親と美容師の母親に大切に育てられた。高校時代はバスケットボール部に所属。両親にも公認のチアリーディング部の彼女も居た。誰もがうらやむ輝かしい青春。何の不自由もない生活。けれど。

何かが引っかかる。何が?

魅力的な彼女と二人っきりのデート。彼女を可愛いし好きだとは思うけれど。積極的にスキンシップを図ってくる彼女に対し、どうしてもキス以上の行為が出来なかった。

「結婚するまでお預けなの?」そういうつもりでは無いけれど…結局大学進学も相まって彼女とは破局。心機一転、実家を出て寮での大学生活が始まった。

そこで出会った友人。彼を通じて「自分は男性に好意を持つタイプなんだ。」と自覚。

けれどそれは悲惨な結末を迎え。挙句実家に帰省中、不本意な形で両親に暴露されてしまう。

両親に自分に起きた事を説明し、自身のセクシャリティを告白した時。両親から薦められたのは『ジェンダーアイデンティティー矯正施設でのプログラム参加』だった。

 

「何これ…。」

映画鑑賞中。終始険しい表情が崩せなかった当方。「よくもまあ、こんな非人道的な事が出来たものよ。」「何が自由の国だ。」「訴訟案件。」「そしてよくこんな茶番に付き合えるな。」心中、ありとあらゆる悪態の暴風雨。

 

実家から程遠い施設のある町まで、母親の運転する車で移動。

矯正プログラムを受けている間は二人でホテルに仮住まい。昼間は母の車で矯正施設に通い、夜にはホテルに戻る。

 

「ここで行われている事は一切口外してはならない。」

大体がジャレッドと同世代の男女が集う(一部中年の姿もありましたが)矯正施設で行われていたプログラム内容。もう何だか馬鹿馬鹿しすぎて…書くのもしんどいですが。

入口で携帯電話を初めとする、一切の私物を没収。男女混合でプログラムは施行されるが、決して同性とは接触しない。女子は必ず下着を付ける。トイレに行く時は施設職員が同行する。

家系図を書いて、そこに問題人物がいないかピックアップろ。」という失礼極まりない課題。

「男らしさを学べ!」という唐突なブートキャンプ。最早暴力。

挙句、受講生皆の前で「自分がどうして同性愛に目覚めたか。この施設に来るに至った経緯。」を語らされる。

(これに関しては依存症患者に対する更正プログラムに準じているつもりなんですね。あのシステムもよく分からないんですが。)

 

「なんの羞恥プレイだよ…。」わななく当方。

「大体、同じ指向を持つマイノリティが一か所に集められている時点である意味出会いの場所では無いのか?そして互いの赤裸々な性体験の告白大会。これを聞いて…当方が同じ指向でもし同席していたら…内心興奮する事はあっても、反省はしないな。」

 

「どうして?どうして?」

けれど当方が思うその対象は寧ろ『受講生たち』。

「矯正の見込み無し。」施設からそう判断されてしまえば、隣接する入所施設に送られてしまう。けれど、現時点では所謂『通所』。朝から晩まで施設に居るけれど、夜には家族の元に戻れる。つまりは逃げ出せる。

「どうして逃げない?」この施設で行われている事には何の意味も無い。心身ともに疲弊してくだけなのに。

 

「何故なら…恐らく受講生たちは概ね真面目で。そして愛する家族をがっかりさせたくないと思っているからだ。」

 

この施設で行われている茶番が散々描かれるけれど。その滑稽さをあげつらう事がメインの作品では無いと思った当方。

 

「どうしてジャレッドの父親は同性愛をカミングアウトした息子に矯正施設を薦めたのか。」「息子がレイプ被害に遭ったと告白した時。どうして息子を辛かったなと抱きしめてあげなかったのか。」「聖職者なのに。」

あの父親の宗派。宗教観に疎いので…突っ込んだ事は語れませんが。寧ろ聖職者であるからこそ「ではどうすれば息子は救われるのか。」のポイントをこの父親は大きく誤ってしまった。そう思った当方。

 

「けれど。最も性質が悪いのは、あくまでも『息子を愛しているから』という態度と。それを息子も分かっていたから受け入れるしか無かったという悲劇だ。」

だから。ジャレッドは馬鹿馬鹿しい施設の矯正プログラムにも参加した。そして…おそらくあの施設に居た殆どの受講生の立場も同じようなものだったと推測。だから彼らは施設から逃げ出せなかった。

受講生を拘束していた檻は施設ではなく家族。

 

「頭を使え。ここでの役割を演じろ。」ある受講生がジャレッドに言った言葉。当方もそう思いますがねえ…真面目な受講生が潰れていく様が痛々しい。

 

「いつかお前に家族が出来て。子供が生まれる。その子供を抱く自分の姿が浮かんでしまうと…。」終盤そう語ったジャレッドの父親に。何だか泣きそうになった当方。

「何故なら。それは同性愛者という事とは関係無いからだ。」

 

私情も絡めながら。唐突に爆発しますが。

「誰かを好きになる。誰かを愛し、求め。人生を共にしたいと思う。そんな相手を見つけられない、なかなか人を愛する事が出来ない。そんな人間だってごまんといるこのご時世に。誰かを愛する事が出来るだけで奇跡じゃないか。それを何であんたの息子は性別一つで否定されなければいけないんだ。」

「あんたの息子が、誰かを愛せるのならば。男だろうが女だろうが何だっていいじゃないか。息子がそれで幸せなら。それでいいじゃないか。」

「あんたの手に孫が抱かれようが何だろうが知ったこっちゃない…どうしてそれが子育ての成功パターンなんだ。その思いを押し付けられた子供の気持ちを考えた事があるのか。(異性と結婚しても色んな事情で子供を授かる事が出来ない人だって居る)。親孝行の為に子供を産むんじゃないぞ。」

 

結局『マイノリティである我が子』に対し、受け入れるよりもまず、生じるであろう不具合ばかりを見てしまう。けれどそれを『矯正しよう』とする行為は果たして心からの思いやりなのか。親のエゴなのか。

 

起承転結。遂にジャレッドが爆発し、あらゆるしがらみから飛び出していく姿。「結局穏便に事は進まないのか。」

終盤が若干どたばたとした印象、特に母親の急転直下さは正直否めませんでしたが。

 

「何はともあれ。今現在原作者であるガラルド・コンリー氏がパートナーと幸せに暮らしているという事実が何よりも救われる。」

 

青臭い綺麗ごとだ。そう言われたとしても。『誰がどんな性別の人物を好きになったとしても、当たり前すぎて話題にもならない世界』が来ることを。

滅多に人を好きにならない当方は、陰ながら祈り、応援するばかりです。

映画部活動報告「希望の灯り」

希望の灯り」観ました。
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「1989年。ベルリンの壁崩壊。」「1990年。ドイツ東西統一。」

ドイツの歴史が変わる。それをお茶の間でぼんやりと見ていた記憶。と言っても子供だった当方がその意味を知ったのは随分後だったけれど。

 

旧東ドイツアウトバーン沿いライプツィヒ近郊にある巨大スーパー。

夜間帯勤務で就職したクリスティアン、27歳。『飲料担当』へ配属。

口下手故無口。けれどユニフォームの長袖の下にはしっかりタトゥー。

何だか訳ありな人妻マリオン。配属先の上司、ブルーノ。その他ひと癖もふた癖もある同僚達。クリスティアンの視点を通して見た、スーパーの仲間達を描いた作品。

 

そもそも、こういう巨大スーパーという店舗自体最近まで見なかった…と思う当方。(全国に波及しているイオンは別)

どちらかと言えば、郊外と呼ばれる田舎に住んでいるため『コストコ』も数年前に近くにお目見えしましたが。とは言え家族の中に成長期の子供など不在故、今でもそうそう足を運ぶ事は無い当方。

「初めてコストコに母親と行った時。勝手が分からな過ぎて右往左往するばかりで殆ど何も買えなかった。」

初めて外資系スーパーに行った時に当方が思った事。それは「照明が白すぎるし、陳列の仕方が倉庫過ぎて、食べ物が美味しそうに見えない。」

外資系スーパーを通じて、改めて身近な小売店やこじんまりとしたスーパーに愛着を感じた当方。って何の話をしているのか。

 

話が思いっきりずれました。閑話休題

 

ともあれ、そんな巨大スーパー内の『飲料担当』に配属されたクリスティアン

「俺の後釜を連れてきたな。」(言い回しうろ覚え)初対面でそう言ってきた、担当部署の責任者ブルーノ、54歳。

このスーパーの中では古参。東西統一前はトラックに乗りあちこちへ荷物を運んでいた。けれど。東西統一後会社は無くなり…その跡地にこのスーパーが出来た。

かつての仲間達数人でスーパーに再就職。以来ずっと勤めている。

別にサボっている訳じゃ無い。けれど『ほどほどに』手を抜きながら、のらりくらりと働いているブルーノ。

なんだかんだクリスティアンの世話を焼いてくれる、父親みたいな同僚。

 

そして、クリスティアンが一目ぼれした『お菓子担当』のマリオン。

休憩室でほぼ必ずと言っていい程遭遇する女性。口下手で無口なクリスティアンにものおじせずに話しかけてきた。一気に恋に落ちるクリスティアン

会えば笑顔で話しかけてくれる。二人で居たら楽しい。けれど、そんなマリオンは実は人妻。しかもブルーノ曰く「あまり旦那が彼女を大切にしないんだ。」。

 

「職場に気になる女性が居て。そんなにうるさくない、話を親身に聞いてくれる上司が居て。賞味期限切れ廃棄物を「見つかったらクビだぞ。」と経営者から言われながらも、皆公然の秘密とばかりに堂々と食べている。クリスマスには終業後そのゴミ捨て場を囲んで(流石に廃棄物では無いでしょうが)皆でクリスマスパーティ。楽しそうやなあ~。」

「働きやすい職場です。」求人広告にそう書いたとしてもJAROに通報されそうにない、そんな和気あいあいとした仲間達…に見えた当方。

 

「それは何故か。スーパーでの具体的な仕事内容は殆ど描かれていないからだ。クリスティアンの飲料担当としての仕事=フォークリフトを自由に操作出来る事。とにかくフォークリフトの描写多し。」

 

これは『国際フォークリフト協会』(あるのか?)から協賛されても良い。それくらいのフォークリフト映画。

 

「専門家じゃ無いから適当な事を言うけれど。日本のスーパーって、基本的に目の高さ~少し上位までしか棚の高さが無いし、成人ならほぼ自力で手を伸ばして商品を取る事が出来る。在庫は殆どがバックヤード。つまりはあんなに(フォークリフトで取らなければならないような)高い所に商品の在庫を積んだりしない。落ちたら危ないからだ。」

「大体、ダースとかで箱詰めされている様な飲料水(例えば500㎖のビール缶×24本だとしても…缶そのものの重さを抜いても12㎏。しかも記憶では、木箱でビンだったような…。)をはるか頭上に配置しているスーパー。新人がフォークリフトで下ろそうものなら途中で「おい!もうここからは俺に代われ!」とかベテランに言われるような技術が必要。危ない…危なすぎる。」

「そもそも客が買い物をしている店内で、フォークリフトに乗った従業員がうろうろしている…。いつか子供を轢いてしまいそうな気がするけれど。」

「そこまで広い店内ならば、いっそバックヤードをしっかり確保して、そんな高い所に重い在庫商品を置かなくても良いようにしたらいいのに。」

 

もういっそ海外のスーパー事情を知りたくなってきた。画面にフォークリフトが映る度、何だか全く本編とは違う事が延々気になってしまった当方。

 

この作品がフォークリフト描写に結構な時間を割いた様に。当方もまたフォークリフトの話を延々としてしましたが。

 

何度も何度もユニフォームに袖を通すシーンを繰り返したクリスティアン。『これはお客様から見たあなたの姿です。』更衣室の鏡に書いてあるフレーズ。長袖ユニフォームでギリギリ隠れる、うなじと腕にあるタトゥー。クリスティアンのやんちゃ時代の名残。誰かと積極的につながりたくない。でも何だか寂しい。時々昔の仲間と遊んでしまう。あいつらだって本当は悪い奴らじゃないんだ。皆寂しいんだ。

クリスティアンの想い人、マリオン。

初めから何だかウマが合った。良い雰囲気。きっと好意は伝わっている。けれど彼女は結婚している。でも…マリオンだって自分の事を好いてくれているんじゃないかな?そう思った途端、「私が辛いのが全部自分のせいだってうぬぼれないでよ!(言い回しうろ覚え)」突き放され。距離を置かれ。…でもまた結局スーパーに戻ってくるマリオン。

ずっと一緒に居てくれる。見守ってくれる。そう思っていたブルーノが一人で下した選択。

 

「ブルーノがそんな事を思っていたなんて。」

クリスティアン以上にショックを受け、打ちひしがれるトラック時代からの仲間達。

 

「どうしてずっと何も変わらないと思っていたんだろう。」そう思う当方。

毎日出勤して同じ仲間と同じような仕事。代り映えの無い日々。でもそれは決して永遠では無い。実に危ういバランスの上に成り立っていた。

一緒にクダを巻いて、馬鹿をして。でもそんな仲間には、誰ものぞく事が出来なかった、ぞっとするほど暗い沼があった。

 

「その梱包されていた紐は何かに使えるから取っておけ。」

 

昔を懐かしむ思い。今収まっている場所は余りにも地味。こんな所に自分は骨をうずめるのか、そう思う時もある…でも一方でこの場所が心地よいと思っている自分も居る。この場所が愛おしくなってきている。それならそれでいいじゃないか。

 

ともすればうつらうつらと夢の中に連れて行かれそうな、静かな作品なのですが。

引いては押し寄せる。そんな繰り返しをしていた波が、終盤思いがけないうねりを見せた後、また穏やかに凪いでいく…そこには確かに何かの灯りが見えた。そんな気がした心地良い終わり。

 

そして。「今後何か資格取得をせねばならない事態があれば、フォークリフトも考慮したい。」(当方の職種に一切不要)

当方にまさかのフォークリフト熱を持たせた、貴重なフォークリフト映画でもありました。