映画部活動報告「ジムノペディに乱れる」
「ジムノペディに乱れる」観ました。
日活ロマンポルノ45周年。ロマンポルノ・リブート・プロジェクト企画作品。
「総尺80分前後。10分に1回の濡れ場。製作費は全作品一律。撮影期間一週間。完全オリジナル。ロマンポルノ初監督」を今回のマニフェストに於いて。
1970~1980年代。「10分に1回の濡れ場」をテーマに作られた、伝説の「日活ロマンポルノ」そのリブート企画。
イッツジ―。色んな映画でお見掛けしますが。当方は「空気人形」のあの男性が忘れられず。
正直、当方の属する映画部では苦手意識のある行定監督。ですが…当方はたまらなく板尾創路氏が好きでして。なので、映画部活動10日余りのブランクを経て、リハビリ回として観てきました。
主人公の「先生」かつてベルリン映画祭で何かの賞を撮ったらしい映画監督。でも今はぱっとせず。気の進まない作品を撮らされ。専門学校の講師で生活する日々。そんな彼の一週間を描いた作品。
「当方は。一体何を求めて来たんやろう。そもそも、映画館で求めるエロって一体なんやろう」鑑賞後。もやもやする当方。
1971年~1988年の、日活ロマンポルノ作品を当方は知りません。そもそも生まれていない時があるし。生まれてからも観れる年代では無かったし。ですが。
何だか今では笑ってしまう様な、直接的なタイトルやコンセプト。それらが正にエロであったり、時にはおかしくもあり、もの哀しくもある。そういうレーベルであったという認識であるのですが。
「おそらく、エロコンテンツはインターネットの普及に伴って大きく進化した。情報が容易く、しかも無料でいくらでも手に入るこの現代で。そもそも『恥ずかしい事』『あくまでも個人の趣味嗜好』とされるエロ文化は、一々多くの人と一つの場所で共有するものでは無くなった。個人のニーズに沿った情報を、個人の単位で得られる現代に。この手のエロ映画は衰退の一途を辿る」
なのに…人々は懐かしさと共に、新しい希望を抱いてしまう。
「新しい『日活ロマンポルノ』」
酔った勢いでそれらしい事を書きましたが、じゃあ当方にとってこの作品はどうだったのかと言うと…歯切れが悪く答える感じです。
公開からそれなりに時も経っていますし、ばっさり大筋を書いてしまいますが。(一応筋はあるんですよ。)
落ち目の映画監督。妻は意識不明の寝たきり。かつては志を持って作品に取り組んでいた。でも今は気持ちが付いていかなくて。実際やっている事はやりたくもない事ばかり。お金も無い。地位も無い。愛されるものも、愛する相手も居ない。ただただ今自分を取り巻くものは虚無感。
そんな彼を取り巻く女たち。昔からの腐れ縁。やりたくもない現場の若い女優。専門学校の教え子。
彼女たちと交わりながらも。満たされない心。一体自分は何故こんな事をしているのか…。
「だるい!」一喝。まとめてしまうともう…それしか言えない当方。
後ね…正直。エロが全然当方に嵌らなかったんですね。何と言うか…凄く真っ当すぎて。
『AV人生相談』伝説のネットラジオ。
通勤等、まあまあ長めの移動時間を日々要する当方の耳のお友達、ネットラジオ。
数多のジャンルを嗜む当方が一時聞いていた件のラジオ(現在は配信をお休み中)そのメインパーソナリティーの加藤タニゾー先生のお言葉。
「AVは早送りするな」
「AV早送り封印キャンペーン」を掲げていたこのコンテンツ。きちんと初めから最後まで通して見る事で、新たな興奮材料があったり、悲壮感が無くなったり、兎に角作品全体の奥が深まると何度も何度も訴えておられた。
「エロい何某らの作品を見る時。おそらくそれをチョイスした人間は、己がエキサイト出来るシーン以外には重きが置けない」
それは己の満たしたいものがエロだから。それに付随する茶番は必要ないから。だから、己がエキサイティング出来るシーン以外は早送りで結構。ですが。
「一応、当方が優先順位の上位に挙げて映画館で観ようとしていたのは…所謂茶番のシーンでした」
一応商業映画として映画館で流れる。有名な映画監督。それなりに名の通った役者を使う。そんな時。一人自室で観るようなとんでもエロ映像が流れるなんて、当方も思いませんよ。
AVなら早送りされるシーンがきっちりしていて。そしてちょこちょこと入ってくるエロいシーンがあって。
それがこの時代に「日活ロマンポルノ」として復活される王道作品。
そう…なんですかね?
「男が夢を見てもいいのは30歳までだ」「しっかりしろ」「定職に就け」「つまらない仕事などない」「まずは文句を言わずにベストを尽くせ」「人のせいにするな」「みっともない真似をするな」「そんな小娘にすがるな」「お金に関して…少なくとも入院費に付いては病院に相談してみな」エトセトラエトセトラ。夢見る少女じゃいられない当方の真っ当なご意見炸裂。まあ。野暮なのは承知なので、これ以上は言いませんよ。
もう兎に角「先生」のうだうだがだるい!
そして先生に絡む女たちの「喋りすぎ」感。「昔から…好きだったんだ」みたいな事を行為中喋り続ける女。「先生はいけないんだ」等々喋り続ける女。うるせえ!集中しろよと。何か色々喋りすぎなんだよ。セックスしながら説明するんじゃないよとイラつく当方。
そして、基本的に先生の受け身でありながらただやるだけのセックス。なので、基本的には単調な繰り返し。最早「コント!ジムノペティ―」と言ってもいいくらいの「この曲が流れたら…セックス!」の流れ。
一人、「先生の元嫁の、60万を貰う為好きでもない相手とセックス」というマニアック枠がありましたが…まあこれは当方が嵌らなかっただけなんでしょうが…敢えて言えば「彼女だけとは言わないけれど…カーテン閉めような」としか言えない当方。
あの、メンヘラ学生が一人よがるシーンなんて、先生にシンクロ、又はそれ以上の険しい表情をしてしまった当方。
あんた何やってんだ。て言うか、何かキメているのかと。
本来早送りするパートである茶番が嵌らず。そしてエロも嵌らなかったら。一体何処にどう気持ちを埋めればいいのか。
(ああでも、岡村いずみさんは好きでした。ああいう小柄で巨乳。生意気キャラは大好きです)
何だかぼんやりと観ていたら。突然に畳みかけていく、ラスト10分余り。その唐突な「はっ。これ映画だ」という疾走感。そして幕切れ。
「なんやこれ。どうしたらいいの。この気持ちは何処に持っていったらいいの」置いてきぼり。ですが。
エロコンテンツほど、統一ルールの無いものは無いからな…そして「変態映画部門」を得手とする当方が、この設定とこのラストだけ固定されたらどう話を転がすかな…なんて、後日から脳内で考えたり。
確かに夢のあるコンテンツだなと、だからリブートされるんだなあと気づいた当方。
映画部活動報告「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」
「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」観ました。
ロシアのヴィタリー・マンスキー監督の撮ったドキュメンタリー作品。
その対象は…「北朝鮮の、とある平均的な親子の日常」
2年にも及ぶ、北朝鮮との交渉を経て。「8歳のジンミちゃんとその両親」を撮る事になったが。
両親は事前に聞いていた職業から「変更」。一家はおよそ生活感の無い大きなマンションに居を構えていて。ジンミちゃんの通う学校の様子もおかしい。
何度も会話をやり直しさせられる「出演者たち」
架空の職場仲間。学校の先生。クラスメイト。そしてジンミちゃん一家そのもの。
北朝鮮側の監督によって演出されまくってしまう「ジンミちゃん一家の暮らし」最早それは「ドキュメンタリー映画」としての体を成さず。
そんな北朝鮮側による乗っ取りの毎日。ナチュラルな彼らの暮らしを撮るのは不可能と判断したヴィタリー監督は、その「彼らを演出する北朝鮮側」にカメラの焦点を向ける。
勿論合意なはずがない。完成後。北朝鮮が激怒、ロシアに抗議し、本国ロシアでは上映禁止となった。そんな隠し撮りドキュメンタリー映画作品。
「それは…面白そうやなあ」
興味本位で。難しい事を言うとややこしくなりますから。興味があったので。観に行きました。
結果。「また一層、訳が分からん国やなあという謎が深まった」もやもやが収まらず。
北朝鮮という国のシークレット感。「あの年々髪型が黒電話の受話器みたいになっている、あの人。あれどういう髪型なん」とニュースで見る度突っ込んでしまう当方。割と定期的に精度の悪いロケットを打ち上げるお騒がせ。それを伝える、ニュースキャスター女性の独特なテンション。
ちょっと信じられない位に国民はその受話器ヘアーをリスペクトし。過剰なまでのその敬意の示し方。一々大仰。
でも。ドラえもんの「独裁者スイッチ」のごとく。時々カンに触ってしまうのか…唐突に「粛清」される受話器ヘアーの近くに居る人達。ヤクザ顔負け。
そして。どうやら国民間でかなりの貧富の差があるらしい。何だかギリギリの北の王国。いつ崩壊してもおかしくなさそうなのに…意外と持ちこたえている。
当方は北朝鮮という国に対して、きちんと勉強した訳ではありませんので…正直、こういう印象しか無いのですが。
その国の、平均的な家族を撮るというミッション。
ドキュメンタリー映画とは何ぞやみたいな事を、当方は語る学はありません。沢山観た訳でも無いし。どこかで学んだ訳でも無いし。ですが。
そもそも「北朝鮮でドキュメンタリーを撮る」という事は、元々何を目的としていたんですかね?
勿論当方は北朝鮮に行った事はありませんし、この国の事はテレビなどで見た程度しか知りません。ですが…「北朝鮮という国では、全然自由に振舞えない。常に監視役がぴったり張り付いている。下手な真似をしたら…ひょっとしたら消される」という情報は何となく知っています。
そんな国が、まともにイチ国民の姿を素直に撮らせてくれるものか…?
演出してくるのは予測出来るんじゃないのか。
あくまでも当方の勝手な推測であって。もしかしたらとんちんかんな見方になるかもですが。
「これ。初めから撮ろうとしたのは『北朝鮮の演出』だったんじゃないの?」
先程書いた、当方のぼんやりとした北朝鮮のイメージ。でも。これらの映像を昼休憩でテレビのワイドショーとかで見ている時。「どこまで本当なんだか」と思う当方。
「確かにおかしな国なんだろうけれど。この国民の姿は本当なの?心の底からこういうリアクションじゃないやろう。作ってる。演じてるよ」
ジンミちゃんを撮りたかったのは確か。でも、彼女を撮るとき、北朝鮮はどういう世界観を作って、どう演出するのか。その虚構の世界を演じる者は。そして、演じさせる者の姿は。
ジンミちゃんを通して、本当に撮りたかったもの。
北朝鮮国民という演者と、北朝鮮という演出者。それはもう身に沁みついた国技。でも。実際の演者達が、ふっと『素』を見せる、その瞬間。それを撮りたい。
当方は、何だかそんな気がしたんですけれどね。
(じゃなきゃあ…本当に「ああもうイライラする。勝手にチャチャ入れて。こんなん、全然まともなやつ撮れへんやないか。もういっそコイツら撮ったれ」という流れですか?うーん。当て付けがましいなあ…)
テーマはインパクト大ですし、興味もそそられる。でも…内容は正直、お腹一杯で観てしまったら…ちょっと寝てしまいそうな単調な繰り返しでした。
大げさなリアクションと共に語られる、受話器ヘア―へのリスペクト。基本的にはそればっかりで。そこにたまに差し込まれる、演者達のうんざりしたような表情。
何でこんな演出を付けないといけないのか。「うっかり消される」事への恐怖?その消される対象は「自分」?「国」?一体誰に見せるためにこんな事をしているのか。
本来ならば、こんな…演出をする行為はとんだ人権侵害。表現の自由や思想の自由を奪っているのだから。でも…その恐ろしさが、何故か「哀しい」「滑稽」に見えて。演出者の姿にやるせなくなってきて…。
一体この気持ちをどうしたらいいのか。そう思っていた最後に。突然現れるリアル。「ジンミちゃんの涙」
(本当はこの下りが一番熱く語れるんですが…やっぱり…ネタバレはしてはいけないと思いますので…)
「ここまでだらだらと語ってきた嘘話の中で。唯一の真実」
暗闇の映画館で。ぞっとした瞬間。これはあかん。本当にあかん。
映画館を後にしながら。「ジンミちゃんは。あの家族は。…そして北朝鮮の監督は今現在無事に暮らしているのか?」心配になってきた当方。
映画部活動報告「人生フルーツ」
「人生フルーツ」観ました。
愛知県春日井市。高蔵寺ニュータウンの一隅にある雑木林に囲まれた平屋。そこに住む、ある夫婦のドキュメンタリー。
津端修一さん90歳。妻の英子さん87歳。かつて日本住宅公団のエースであった建築家の修一さん。日本にある幾つもの団地や集合住宅等の都市計画に携わり。高蔵寺ニュータウンも「街と自然が共存する」というコンセプトで計画。でも。
おりしも高度経済成長を見せていた1960年代。そんなのんびりとしたコンセプトは実現せず。結局出来たのは「どこが自分の家か見分けが付かない」様な、画一的な団地達。かつてあった木々は切られ。ただ無機質な街が出来てしまった。
修一さんは一線から離れ。その街に土地を買い。自宅を建て。家族と共に、木や野菜、果物の木を植えた。そして50年。
雑木林に囲まれた。その終の棲家で。コツコツと丁寧に暮らしてきた、その夫婦の姿を描いた。そんな作品。
「これは。究極のスローライフ。そして理想のシニアライフだ」
四季折々。庭で取れる野菜や果物。それらの世話をして。大切に頂いて。慎ましく暮らす二人。もう「自称スノッブ」な連中垂涎の憧れ素敵ライフ。でも。
これは、ただの年寄り二人のほのぼの可愛いお話しでは無い。
(まあ…ある意味、スノッブを突き詰めて毎日積み上げた最終形態とは言えますが)
丁度当方が映画鑑賞する前日の「プロフェッショナル仕事の流儀」でも「住宅をリノベーションする」建築家が、近年都市の再生事業にも携わっている事を取り上げていました。
そこでは、当方も良く知っている近くの街が取り上げられていて。つまりは「高度経済成長。ベビーブーム。そんなイケイケな時代にどんどん生み出された集合住宅や団地の老朽化。空き家問題。都市に人口が流れていく中で、どうやって地方の空洞化を解決していくのか」みたいな案件。
そこで件の建築家は「その土地の元々持つ歴史や、地形。それを踏まえた上で街を作らないといけない」という事を言っていて。
恰好良いデザイナーズマンション。はやりの古民家。建売住宅。勿論数多のニーズと価値観がありますし、どれも否定されるいわれは無い。ただ。
「100年後も住みたい家なのか」家は本来使い捨てではない。
その街で生きていく。家は外でどんなにつらい事があっても帰ったらほっとする場所。
大切な、きらきらした場所であるはずで。
恐らく。修一さんは「高蔵寺」という場所で。自然に囲まれて暮らす家族達を思い描いていた。でも。出来上がった街は、自分の思い描いたモノでは無かった。
だから。自分でそこに住んで。木を植えた。近くの学校なども巻き込んで、山にもどんぐりを植えた。そしてそのどんぐりは今大きくなって山を育てている。
一見穏やかに見える、その人の信念と執念。
(下世話な意見ですが…それって、周りに住む「高蔵寺ニュータウンに惹かれて住んだ人達」にはどう映っていたんですかね?)
また妻の英子さんの「寄り添うってこういう事だな」という姿。
「修一さん」「英子さん」と、幾つになっても互いをそう呼び合って。
造り酒屋の一人娘であった英子さんは「夫にはきちんとしたものを食べさせて、きちんとしたものを着せる。夫がきちんとしているという事は、引いては自分もそうなる」という実家での教え通りに行動している。
結婚当初の貧乏な時代も。修一さんにそうは思わせず。奔走し。
歳を取った今でも、地味かもしれないけれど身なりはこざっぱりと整えて。(結構お洒落)
食べ物には気を使い。殆どが手作り。おやつにはケーキを焼いて。その「昨今SNSで上げてくる、女子力自慢の見栄えの良い食べ物」では無い「素朴なお婆ちゃんのケーキ」でもその味は絶対に無敵なはずで。「修一さんが好きだから」と料理にじゃがいもをよく使う。でも「私が唯一嫌いなのはじゃがいも」とあまり食べない。
朝は絶対ご飯という修一さんの朝ごはんを作るけれど。一緒に食べる自分は絶対にパン。
相手を尊敬し、その信条を大切にする。支える。
でも、自分の意見を押し殺さない。曲げられないものは無理に曲げない。
同じ方向を向いて。気持ちや思いが交わる事が多い。だから一緒に居て楽しくて。一緒に居る。でも。
全てが全部、同じ方向を向いている訳が無い。だけどそういうものだと、どこかであっさりと折り合いをつけて。
「彼女は僕の大切なガールフレンドだから」
まあ。どこまでをスクリーンの前に座る我々に見せるのかは、彼らの自由ですので。ただぼんやりと受け止めて推測しているだけなんですが。
結婚して半世紀以上。スクリーンの前では穏やかな二人の。絶対に簡単な言葉では言い尽くせない色々。それらを越えて今、一見穏やかな姿を見せている。
そして。年齢的に、やっぱりこういう時間は永遠ではないという現実。
津端夫妻の姪っ子。恐らく年齢的には現在もう立派な社会人なのであろう彼女。その姪っ子が幼かった頃に「シルバニアファミリーの家が欲しい」とねだられて。
「プラスチックの家なんて駄目だ」と姪っ子の意見を聞きながら作ったという「シルバニアファミリーの家」その余りの立派さ。丁寧に作られたその大きな家を見た時。何故かどっと涙が出た当方。「これは一生ものやないか」
こんなに。モノや人を大切にして。そんなお爺ちゃん、お婆ちゃんのありがたみが愛おしくて。でもそれを痛いくらいに感じる時。その人は居なくて。
人生の幕引き。誰もがどうなるかなんて分からない。でも、これは…羨ましい。幸せなんじゃないか。
「人生は、長く生きると美しくなる」素晴らしい。
修一さんの。90歳で仕事として関わった九州の精神科施設。いつか機会があれば見てみたいと思いました。
映画部活動報告「ネオン・デーモン」
「ネオン・デーモン」観ました。
N.W.レフン監督。
モデルを目指してロサンゼルスにやって来た15歳の少女。有力なカメラマンやデザイナーに見出だされ。トントン拍子にスターへの階段を登りだそうとする彼女を。引きずり下ろそうとする女たち。けれど。
彼女もまた、ただ者では無かった。
彼女の魅力であった純粋さが。次第に邪悪なモノへと変わっていって。
エル・ファニング主演。
「これは…好き嫌いがはっきりしそうな…」映画鑑賞後。歯切れが悪くなる当方。「予告は凄い良かったんやけれど」
当方ですか…嫌いではないけれど…「昔はこういうの、よく見掛けたなあ~。単館マニアック枠で」という…おいちゃんになった当方にはマッチしない感じというか。
目の前の作品をどうこう言う時に、他の作品を持ち出してくるのは…お行儀の良い事ではありませんが…当方の中での蜷川実花映画的な作品。
「センセーショナルな題材で。極彩色でインパクトを付けて。絵的にも音楽もノリノリなんやけれど。薄っぺらい」
エル・ファニング(長いので勝手ながら以降エルと省略させて頂きます)起用が意外と諸刃の刃なのか。
確かに可愛いし、段々擦れていくいくのも様にはなっていたんですけれど。絵的には。
ちょっと、年齢制限なのか彼女サイドの意向なのか…守られすぎていて、説得力が無い。
「彼女は逸材だ」エルを見た、所謂「えらい大人たち」は軒並みそう言うんですがね。「うん。だってエルやからな」としか言いようがない当方。
あくまでも商品を引き立てる為。マネキン的な要素が第一条件で。個性は邪魔でしかない。そうして画一的になっていくモデルたち。それを目にし過ぎて飽きている「えらい大人たち」そこに現れた、モデル体型のファニーフェイス。いかにも純粋そうな子供。
その実力を見せろと。
あの。「新人なんて撮らない」と言われていたカメラマンとの、最高の撮影体験。「服を脱げ。全部脱げ」(あ~ベタやなあ。そうくると思ったよ)ペイントされ、撮影が開始。と思ったら暗転。「最高だったわ!」頬を上気させてはしゃぎながらスタジオを後にするエル。ちょっと待てと。
勿論、当方はエルの裸なんざ見たくありませんよ。ただ。その「最高だった」撮影現場はどうやったんやと。その気難しいけれど天才なカメラマンは。一体彼女の何を見て、どんな可能性を感じてどう表現したんだと。それをはっきり見せないと。観客には彼女の魅力は伝わらんやろう。
話が前後するんですが。序盤に「恐らくSMショー的なモノを、目を輝かせて見る女たち」みたいなシーンもありましたが。あれも実際のショーに関しては初めに縄で縛られた人が映るだけで。あとはただひたすら顔を見合わせて笑ったり喜ぶ女たちが流れたんですが。あの時から当方の中にもやもやがくすぶり出しましたね。「そのショーの全貌は見せなくて良いけれど。そのショーの凄さは全く伝わってきていないよ!」大体、日本の縄師の方とかはどう思うか…実際見た事無いですけれど。ショーレベルとか、芸術的らしいですし。
つまりは、所謂日本映画でアイドルを使う時にありがちな「朝チュン」(ベットシーンなどでそう匂わせて、だんだんぼやけて暗転。朝になっていて鳥の声で目覚める二人。事後っぽい雰囲気)的な演出が多かったように思ったんですね。
観ている方にはいまいち分からん、イノセントな魅力によって「えらい大人」に気に入られて。モデル界の入り口に立ったエル。これからの驀進していくのであろう、彼女のこれから。
成功体験が。エルの中にあった邪悪な心を引き出していく。
「うん。というか調子乗っちゃったんやね」
「私は知っていた。自分が美しいという事を。これで生きていけると」浅はかだな~。若さって恐ろしい。思っていても言ってはいけないで、それ。聞いてる人によっては癇に障るし。
出る杭は打たれる。
案の定。モデルたちが。そしてあの人が。エルを引きずり下ろそうと、牙を剥いて襲ってくる。そりゃそうやろう。彼女たちはある意味、あの山猫なんやから。
この作品の少女に関しては、邪悪というか…性格の悪さが引き出されていったんやなあとしか見えなかった当方。「純粋な少女が無意識に持つ邪悪とか禍々しいとか。それを表現できていたのは『害虫』『好きだ』時代の宮崎あおいぐらいだよ!」
そこからはもう、どんどんアートで禍々しい絵面の連続。まあ、元々がそういう「美しい映像を眺める」作品だと当方は早めに判断したので。中身がなくともそんなもんだと。あれこれ考えず。
理詰めでストーリーを詰めていったら、この作品のビジュアルが崩れる。だからどちらのバランスを取ったのかという結果で。
まあ。あれですわ。当方の言う『オサレなバーで無音で流れていそうな映像映画』オサレバージャンルの最新作。
ただ。映画が終わった後、若いカップルを目にしてしまい。
「どっちが誘ったんだ。そして今日これから、二人は大丈夫か」思わず心配してしまった当方。
映画部活動報告「人魚姫」
「人魚姫」観ました。
皆が大好き、チャウ・シンチ―監督最新作。
当方が属する、たった二人の映画部の映画部長も大好きでしてね。
「少林サッカー」「西遊記~はじまりのはじまり~」まあまあな熱量で語っておられました。
そして。当方のアンテナの貼り方の老朽化か。(当方的には)唐突に現れた「人魚姫」
当方の居住区からは若干遠い映画館。そこでしか無い上映に。えっちらおっちらと行って参りました。
上映1時間前にして残3席。立ち見も出ていたその劇場で。鑑賞し。
「結論から言うと、最高でした」
映画部部長に報告。動揺する部長。
(映画部部長は、現実での社会的地位が向上した事によって、自由に映画を鑑賞する時間を失いました)
「俺は周星馳が大好きなんだ!」映画部部長からの悲痛な叫びを…まあ。にやにやと受けていた当方ですが。
「我々は、元々は同じ種族のものであった。それが片方は人魚族に。片方は人間となった」
「今もなお。互いに共存できたはずであったのに。人間は進歩と共に邪悪な存在となり、人魚族を迫害するようになった」
なんと。魚類と人類のルーツは一緒であったと。ミトコンドリアレベルならまだしも、もっと近い所まで同じ進化を辿ったとする、人魚と人間。
でも。互いに干渉しなければ…特に関わる事も無い。はずなのに。
自然保護区域にされてきた星羅湾。そこを買収した青年実業家リウ。イルカが居るとされてきたその海の。イルカさえいなければリゾート開拓できると、イルカを除去する特殊な機械を使用。その機械によって傷付いた人魚族はハニートラップを仕掛け。若くて可愛いシャンシャンを使い「リウ暗殺計画」を企てるが。
「ベタベタのギャグ。そして中盤の甘々なラブコメ。でも、環境問題に食い込んだ作品。馬鹿馬鹿しい事が山盛りなのに、何も可笑しくない。最後はまさかの涙が…」
冒頭の秘宝館。あれれ。これいるかな~。という掴み。「もしかして館長、心臓手術してないかね?もう一回体見せて」なのに確認出来ず一転。
「宮迫です」と頬っぺたを叩いていた頃の。若き宮迫に似たリウ。元々は貧しい出で成り上がり。対する、人魚のシャンシャン。その「時間が経つにつれ可愛く見えてくる」一見貧相なヒロイン。
話の序盤。リウはただの怒りっぽい嫌な奴でしかなかった。
でも。投資家ルオランへの当てつけでシャンシャンとデートするリウ。
「あのチキンを食べるデートは、当方の映画キュンデートでも5本の指に入ります」
「(500)日のサマーのイケヤデート」「はじまりのうたのWイヤホンデート」に匹敵する『うれしい!たのしい!だいすき!』デート。
チャチな遊園地の。出店されていたチキンの店。「美味しいから一緒に食べよう」と誘うシャンシャンを馬鹿にしていたリウ。でも食べたら止まらなくて。一緒に山ほど食べて。「俺は昔貧しかった。これは俺がその時食べた味だ」と涙し。腹の底から一緒に歌う「無敵の歌」。吐くまで遊園地のアトラクションに乗って。笑って。
これは確かに恋に落ちる。
どんなにお金を持っても。そのお金では買えない。共通の価値観。一緒に居て楽しいという気持ち。
俗っぽい敵でしかなかったリウの。思いがけない純粋さ。「俺、シャンシャンが好きだ」同じく惹かれていくシャンシャン。
でも。そこで簡単に幸せにはなれない二人。
文字通り、命を脅かされている人魚族。リウは憎むべき存在で、まさか刺客であるシャンシャンが寝返る(恋してしまう)なんて思わない。
シャンシャンが人魚だなんて思いもしないリウ。
「ああ。確かに人魚姫だ」
でも。人魚姫って最後「海の泡となって消えてしまいました」なんですよね。それはちょっと悲しすぎると思いながら。
そこで暗くならないのが、チャウ・シンチー監督。
登場人物で嫌いな者が無かったこの作品で。当方が一番好きであったキャラクター「タコ兄」
「上半身が人で下半身が魚」という仲間の中で一人下半身がタコという、主人公と親族であるはずの無いキャラクター。そこは無粋やし、触れませんが。
「キスした事が無いのか。キスしたら何か感じるはずだ」とシャンシャンの初チュウを奪い。人魚族を先導。シャンシャンのあとを付けたりもして、己が傷ついたり…でも最終的にシャンシャンを救おうとする。
太った勝地涼みたいなタコ兄の。「面白くて一生懸命で優しい姿」当方は大好きでしたし、彼が出てくるシーンは概ね笑いで溢れていました。
(当方がもう一つ思いっきり笑ったのは警察のシーンでした。ちょっと「魚人間」を思わせるところもありましたが。ああいうベタなコントシーンは大好物です)
人魚族がどこかほのぼのとした中で。一切の緩さも見せなかった、人間側。ルオラン。
「好きなタイプ?中国人女性かな」
映画部長のかつての言葉。どういう意味でかと真意を聞けず。勝手に推測している当方ですが…このルオランは映画部部長的にたまらんかったやろうなと思った当方。
この高慢な態度。加えてボディ。そしてボディコン衣装。
代表的なアジア女性共通の、貧相な体では駄目。でも居る。時々居る。この、ある程度しっかりとしたメリハリボディで無いと着こなせない、胸元強調衣装。これが着こなせるアジア女性の。その強引な強さ。ゆるぎない自信。その美貌。
気が強い。自分は安っぽい女じゃないという自負。(当方はこういう輩に対しては「散々弱弱しくいう事を聞いて見みせて…最終的にはねじ伏せる」スタンスで脳内進行しています。余談ですが。)
「日本人で言ったらかたせ梨乃ですか」
何だかおかしな方向に話が行きかけましたが。
主役二人が。ピュアな恋に落ちて。不器用ながらも互いの壁を乗り越えようとするなか。「何甘い事言ってんだ。金だ金」と清々しいまでのブレなさで突っ込んでくる彼女。金の価値は自分の価値。高価なものが価値のあるもので、自分はハイスペック。だから明らかに粗末なものに負けるのは自分の価値を落としてしまう。それは認められない。
また。環境破壊案件を説明する白人男性。日本人。都合の悪い事は外国人に説明させ。表面的な悪役ポジションからは逃げながら。結局自分にとって害となるものは自分で駆遂しようと躍起になる彼女。でもその姿は。皮肉にも、美しく滑稽で。
悲しいかな。最後は人間による人魚族への攻撃が始まる。
結構な勢い。
「お婆ちゃん。最高スペックを持つ貴方はもっと早く覚醒してくださいよ!」巨大海洋生物恐怖症の当方鳥肌のシーンでしたし、何だか色んな意味で泣けましたが。
穏やかなラスト。「なるほどあの秘宝館も無意味では無いんだな」と呟く当方。
後ね…この作品に対しての大きな不満なんですが。
「何故パンフレットを作っていない!!!」
巨大海洋生物に対する不安はありながらも。一応はチェック…したくても「この作品のパンフレットは作られておりません」
映画館が香港映画を幾つか上映していましたのでね。「3本観たらプレスシートプレゼント」とかやっていたんですが。如何せん、遠いのもあっておいそれと3本観れないんですよ。(そして後日で日程調整していたらプレゼントが終了したんですよ)
公開記念Tシャツとか。シールとか。そんなのは勿論要りませんが…パンフレットからの製作秘話とか知りたかったです。
兎も角。悶える映画部部長だけではなく。
「単純に面白いし、すっきりするし。ラブ的にも満足するから」遠くても観に行って欲しい。
当方からの。しれっとした、重要な案内でした。
映画部活動報告「NERVE /ナーヴ 世界で一番危険なゲーム」
「NERVE/ナーヴ 世界で一番危険なゲーム」観ました。
裏オンラインゲーム。試されるのは度胸(NERVE)。
入会したらまず選ぶのは、自分は「挑戦者」か「視聴者」か。
「挑戦者」にミッションを課せるのは、無責任な見ず知らずの「視聴者」。その無茶なミッションを無事クリアしたら賞金が発生し、オンラインバンキングを介して実際のお金が口座に入金される。
ただし条件が。「挑戦者は自身のデヴァイスでそのミッションを撮影すること」「失敗か棄権の場合、それまでの賞金は没収される」「NERVEの事は警察に言ってはならない」
主人公のヴィ―。地味で引っ込み思案な女子高生。イケイケの友達シドニーのお節介と挑発に乗って、教えられた度胸試しサイト「NERVE」に登録する。しかも挑戦者で。たった一回のつもりでチャレンジした「見知らぬ相手と5秒キス」好きな小説を読んでいた青年イアンにチュウしたヴィー。これで終わるはずだったが。相手のイアンも同じく「挑戦者」で。
加速する二人。二人でチャレンジするミッションの数々。一気に恋に落ちていく二人。
そんな中。度を越したミッションに破たんしていく「挑戦者」達…。
「エマ・ロバーツか。あの『なんちゃって家族』の」
「なんちゃって家族」は思わず購入してしまった当方お気に入りのおバカなコメディー映画。あのエマ・ロバーツは凄くキュートでした。そりゃあ、観るしかないなと。
「昨今の調子に乗ったユーチューバー」
当方のYouTube運用は、専らこの映画感想文を書く時等に「作業用BGM」という音楽を流しているのが大半。後は映画予告等を時々見る位ですか。まあ殆ど映像を見る為には使用していないのですが。
ですが。時々ニュースで取り上げられる「行き過ぎた画像を上げようとする輩」
定期的に見掛ける所をみると「無茶な事にトライする姿」というのはどこかで需要のあるコンテンツなんですかね?
素面の時はあくまでも無害な小市民を演じる当方ですので。「人様に迷惑や心配を掛けてまでやる無茶が芸術だという輩」に何言ってんだと思っているんですが。例えば「ダム建設に反対だから、ダムに夜中忍び込んで切り取り線を描く」「高層ビルを命綱なしで上る。又は降りる。渡る」それを実際に自慢する者が目の前にいたらフンと鼻をならしてしまうと思います。
ーまあ、それはスケールが大きすぎるので。ここでの話とは比較できませんが。
ニュースで取り上げられる「おバカな奴」大半が「営業妨害系」
売り物の食べ物を粗末にする。真面目に働く人の邪魔をする。
そして「犯罪系」
明らかに法を犯すような事態なのに「面白いと思った」「すっきりした」と自らの犯罪をインターネットに晒す馬鹿。しかも顔や、時には実名も込みで。
「NERVE」でのチャレンジ。何かもう…ピンキリすぎて。
ヴィーとイアン。あの二人に課せられた、初めの頃のミッション。そのベタベタな甘い「未来日記」
出会いは突然のキス。二人でバイクに乗って街へ繰り出す。高級店で高価な服を試着する。(そして服が盗まれる)下着姿で店から飛び出す。ご褒美にその高価な服がプレゼントされる。
何これ。一体誰が操作してるの。
かと思えば。ヴィーの友達シドニーに対する、下品なミッション。「チアダンス中、皆に生尻を見せる」「人前でおならする」何この差。
「挑戦者」がステージを進めるにつれ増えていく「視聴者数」
そして課せられるミッションは無謀なものへと加速していく。
お話しがピークに盛り上がったのはあれですかね。ヴィーとイアンに課せられた「目隠しして、バイクで二人乗り96キロ」
目隠ししてバイクに乗るなんて事自体が無謀すぎるのに…。そして最高潮に盛り上がる二人とお話…でも。
何これ。一体誰が操作してるの。
初めから。もやもやと湧き出していたその疑問が。どんどん膨らんでいく当方。
「視聴者」は高額な課金をさせられる。その資金で「挑戦者」に賞金が支払われ、このサイトは運営されている。
ネット上に流出している個人情報を吸収し。ネットバンキングという事は個人の銀行口座まで把握して。
相当なπのある利用者のそれらを管理。
そして「~をしたら~ドル」というミッションのピンポイントさ。タイミング。「挑戦者」はいつでも「視聴者」からの指示待ちだとして、人気が出れば出る程そのリクエストは増えて煩雑になっていくはず。でもその中から一つを選び出しているのだとしたら…一体誰が?
「NERVE」の事は警察に言ってはいけない。
作中。余りにも過激化していくそのミッションに。警察に助けを求めるシーンがあったのですが。(すみません。ネタバレです)
国家権力をも押さえつける、その組織って一体何なんだ。
顔出しで。堂々とネットに溢れる犯罪映像。そんなの、通報しなくても普通は警察から嗅ぎつけてくるし…一斉摘発やろうに。
お話の中盤まではノリノリで話は展開していたのですが…どうも大風呂敷を広げた割に回収出来ていない。
当方もおおざっぱな人間なんで。がんじがらめなレギュレーションの説明までは望みませんけれど…ちょっと…放り出しすぎかなあと…。
「というか『決勝戦』ってなんだ。そんな話あったっけ?」
広げすぎた風呂敷を畳む為の。唐突な頂上決戦。そしてまさかの青すぎるヴィーのメッセージ。
「散々そのルールに則って遊んだあんたが。どの口が言うかね。そんなJUSTICE(正義)存在しないよ!」立ち上がる当方(心の中で)
まあ…強引…確かにああするしか無かったのかとも思いますが…。
途中までは勢いで連れてきたんやけれどな…もうちょっと理詰めで話を詰められる人間が居たら…。
若干肩透かし。不完全燃焼で帰宅した当方…。
映画部活動報告「14の夜」
「14の夜」観ました。
足立紳監督作品。
1987年夏。14歳。中学三年生。
田舎に住む、何の変哲もない14歳が。
誰もが通った、愛すべき…でも絶対に戻りたくないその時の。たった一日の出来事。
胸を痛め。そして顔を覆って。笑った…馬鹿らしくていとおしい作品。
さあ、それを。当方の心の中の男女昭和キャラ、昭(男)と和(女)に存分に語って貰いたいと思います。
(昭)あかんあかん。断らせて貰う!
(和)えええ?なんやの。
(昭)俺はこの映画感想文に於ける男女キャラコントの、クールで知的なポジションやから。この作品で何も語れる事が無いよ!だからあかん。
(和)よく自分で自分の事、そんな風に言えるな。この作品に付いては、あんたの男子視点が無いとどうにもならへんやん。
(昭)俺は…。1980年代のノスタルジーとか、どうしようもない中学生時代とかは熱く語れるんやけれどな‼如何せん、ピュアな世界に居たから…エロい案件に関しては…。
(和)はい。つまりは非常に共感が出来たという事ですね。ぐだぐだうるさいから、昭さんは黙っておいて結構。和が淡々と進めます。
ただ。一つだけ取り決めを。我々の居住地域では「おっぱい」は口に出すのが恥ずかしい言語なんで、以降「乳」に統一させて頂きます。
(昭)意義なし。
(和)1987年。主人公を含む、田舎のボンクラ中学生4人組。その中のタカシを軸に。タカシのある夏の一日を追った作品。
(昭)俺らはこの年代より一つくらい後の世代なんで…ドンピシャとはいかなかったけれど。まあ。あの年頃のどんづまり感はよく分かったな。
(和)結局喋るんやね。…後ねえ。今のこの年頃と1980年代のタカシたちが絶対的に違うのは「携帯電話やインターネットが無かった」という事やと思う。
(昭)全くだよ。例えば、主人公が「俺らは何の目的も無い。人間としても中の下なんじゃないか」みたいな事を序盤で言ってたけれど。あれって所謂あの年頃のモラトリアムというか。「同じ年頃でもっと活躍している者」や「目的を持っている者」が輝かしくて。自分も何か優れた点や他人から一目置かれる何かを持っているはずなんやけれども「それ」が何か分からない。勝手に光る何かがピンポイントに見つかると思ってる。それさえ手に入れたら一気に「輝ける何かを持つ者」の仲間になれると思ってる。違うんよな。本当は何でも手当たり次第にやってみたら良いのに、それは怖くて。結局何もしていない自分がもどかしくて。自分の矛盾にイライラして。しかも自分の気持ちだけでも持て余してイライラしてるのに、そんな時に限って親は何かと絡んでくるし。その親を改めて見たらまた…何か冴えない、ぱっとしない大人なんよな。もしかしたら…結局自分もこうなるんじゃないかという不安。でまたイラついて。爆発しそうで。でもそういう気持ちを、多くの同じ年頃の奴が共有してるって今なら分かるし。「そう思っているのは自分だけじゃない!」という安心感。兎に角何に於いても情報量のπが昔とは全く違う。
(和)何をだらだらとまとまりのない…自分に酔っているな。私が言いたいのは「エロに対するピュアさと馬鹿馬鹿しさ」ですよ。だって今なら例え中学生でもインターネットを介してエロ情報は幾らでも入手出来るやん。あの鉄板の「道端に落ちている湿ったエロ本」からの。「よくしまる今日子」「おかしな都市伝説」そういうの。ああいうのって、今でもあるのかな?
(昭)俺を知のステージから引きずり下ろすなよ!知らないよ!今現在中学生じゃないし、道とかパトロールしていないし!
(和)(無視)道端に落ちてるエロ本って、つまりは燃やそうとした残骸って事?(昭)それは違う。(和)早。食い気味での即答。
(昭)数多のケースを知っている訳じゃ無いけれどな…あれはエロ本を買う事の出来る大人から、少年達へのプレゼントなんやと思う。そしてその少年が大人になった時、自分もプレゼントを道端に捨てる…。
(和)「捨てる」って言ってしまってるやん。大体、濡れてる紙ってくっ付いて破れたりしてめくられないんちゃうの
(昭)それが大人からのメッセージなんだよ!「エロは容易く手に入らないぞ」っていう。しかも道端とかに捨ててあるって事は綺麗じゃないやん。そんな気持ち悪い物体を。でも己のリビドーに負けて触ってしまう敗北感。しかも誰かに見られるリスクもある。そういうのがごたまぜになって、異常にドキドキするんよ。後あれな。「よくしまる~」さんは当時でもそういう人とかは居たみたいやけれど。そういう有名人とかアイドルのパロディって、いつの世もあるもんなの。ただ「よくしまる~」は呼ぶ時絶対に「薬師丸ひろ子」のイントネーションな。
(和)おいおい知のステージどこ行った。
(昭)「よくしまる今日子」というAV女優が、町に一つしかないビデオ屋にサイン会に来る。しかも日付を越えたら乳を吸わせてくれる。そんなの、絶対に無いのに…でも、ありそうな中学生のガセネタやし。でも「じゃあ行ってみようぜ」という話の持って生き方は、本当に絶妙やと思ったな。だって、そんな噂に結局は振り回されるって。まさに「道端のエロ本」の延長やもん。
(和)またあのビデオ屋。あの色あせたVHSが並ぶ様。痺れたわあ~あれ、今なら一日居たい。というかあそこで働いて、あの小さなTVで延々ビデオ見ていたい。
(昭)ビデオ1本借りるのにそんな値段がしたのか。とか。正直蔦屋のお膝元やから、今も昔もああいうビデオ屋では借りた事が無かったな。
(和)そこで4人で1本借りて。仲間の家で見るって。良いなあ。まあ彼らはエロ寄りの作品やったけれど。ビデオ屋から仲間の家に向かう途中でばったり会う同級生のヤンキーも。別に大人から見たら可愛いもんやけれど。
(昭)1980年台のヤンキーって、最早ブームやったんやなあ。ビーバップとかの影響もあったけれど。あの当時のヤンキー伝説って無茶がありすぎて半分以上の武勇伝は都市伝説かと思っているよ。
(和)人を殴る為に鞄に鉄板を入れていた話とか、盗んだバイクで走り出した話とか。根性焼きとか。実際にやっていた人から話を聞いた時も笑いが止まらんかったよな。
(昭)本当に笑いすぎて、最後ちょっとキレてたやんか。まあでもあの最後に現れたバイク集団が所謂「ヤンキー」なら、チャリンコで走り回ってる中学生なんて普通の奴らと大差無いよな。
(和)あの、主人公タカシの隣に住んでいて。ヤンキーとつるんでる彼女。可愛かったね。
(昭)あの幼馴染は良すぎるやろう~。あの乳も最高。そりゃあ毎日あんな恰好で近くをウロチョロされたら乳を触れせろと思うし。中学でこそぐれてるけれど。まあ何だかんだ結局地元に居座ったりするんよな。まあ…主人公とどうこうっていうのはこの先も無いと思うけれどな。
(和)まあでも。中学生って、所詮「乳触らせろ」程度なんやね。
(昭)あのボンクラ中学生4人組。良いバランスやったなあ。
(和)ジャルジャル顔の主人公タカシは勿論良かったけれど。ミツルがもう…たまらんかったよ。
(昭)あいつ…一体あの夜の後、どうなってしまうんやろうな。あれ真面目に考えたら…もう少なくともあのメンバーとは一緒には居れんよ。
(和)彼が受けた、彼の父親からのダメージが…タカシとは比較にならない。そしてあの歳でああいう性癖を見せてしまった辛さ。でも。なんでやろう。ミツルの不幸が映画中では一々おかしすぎて。公園のシーンなんて笑いが実際に起きていたからね。
(昭)いつか笑えたらいいけどな。あいつ…多分相当面倒くさい人生を送る事になるよ。
(和)タカシの父親と言えば。今回の光石研は「恰好悪い」に完全に振り切っていたね。
(昭)「紀子の食卓」みたいな飛び方もしてくれたり。ベタベタにいい人やったり。何をやらせてもきっちり仕上げてきはる。今回はもう…あの「姉が彼氏を連れてくる」という父親の中でもビックイベントを盛大にぶち壊して。あの流れは痛々しいけれど最高やった。
(和)あそこまでのタカシは、何に対してもすっきりしなくて。でも言いたい事が言葉にならなくて。モヤモヤして。だから話も停滞気味やったけれど。でもあそこでブチ切れて飛び出して。そこからの疾走感。でもその根底にあるのは「突き抜けた馬鹿馬鹿しさ」
(昭)結局そうなんよな。うじうじ動かなくても、もやは晴れない。どうせあの年頃の沸き起こる色んな感情なんて、スマートに整理出来る訳が無いんやから。うわああって叫んで走り出したらいいんやと思う。おっかないヤンキーだって、衝動原理は一緒。で、転んだり泣いたり。恰好悪い事なんて山ほど経験して。
(和)そうして大人になるんやね。
(昭)この作品の舞台が。1980年台で。田舎で。中学生男子という愛すべき馬鹿で。とがったヒロインも一応存在して…プールのシーンとか、畑の道を歩くところとか。何か「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」も連想してしまって。最後には凄くノスタルジックな気持ちになったな。
(和)「14歳」を過ぎてしまった我々にしたら。痛い事もみっともない事も一杯あった。そんな時代の記憶を。その恰好悪い様を思い出させてくれて…なのに。それもひっくるめて愛おしいと思った作品やったな。
(昭)全くだよ…まあ、大体語れたんじゃないの。という事で俺はまた知のステージに戻らせて貰うよ。
お疲れ様でした。
と言っても。「昭」も「和」も当方の心の中のキャラクターですから。またいつか出てきてもらいますよ。
どんな人が観ても何かしらの引っ掛かりを。記憶の中をふっと何かがかすめるんじゃないかと思った作品。
後は…リアルな14歳に観てみて欲しいと思う当方です。