ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ペパーミント・キャンディー」

ペパーミント・キャンディー」観ました。
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「人生は美しいか?」

 

韓国。イ・チャンドン監督作品。1999年公開。

 

春。鉄橋下の中州。中年の男女集団。かつて大学で共に学び遊んだ彼らは、20年振りに思い出の場所にピクニックと称し集まった。そこに現れたキム・ヨンホ(ソル・ギョング)。

ラフな服装の面々に対し、上下スーツと場違いな恰好。加えて大学卒業以来キムと連絡を取っていた仲間は誰一人居らず。まさに『招かれざる客』。面食らう一同。

しかしそこはかつての仲間。「よく来てくれたな」と大人な対応をし、何とか場を取り繕って歓迎してくれた…なのに、次々とその場をぶち壊すキム。

調子っぱずれに大声で歌い、泣き、叫び、暴れ。お手上げになった一同はキムを放置。

気付けば、いつの間にやら鉄橋をつたい、線路に上がっていたキム。

ざわつく一同の様子には我関せず。「帰りたい!」そう叫び、向かって来た電車に手を広げたキム。

 

すると。キムのこれまでの20年の半生が巻き戻されて映し出されていく。

 

2018年本国公開。日本では2019年公開となった『バーニング 劇場版』。あの何とも言えない瑞々しい感性。「これぞ映画らしい映画」。イ・チャンドン監督にすっかりうちのめされた当方。そしてヒットを記念して、約20年ぶりに公開される事になった『ペパーミント・キャンディー』と『オアシス』。

「これは絶対に映画館で観なければ。」そう思いながらもなかなか時間が合いませんでしたが。何とか劇場公開中に観る事が出来ました。

 

鑑賞後。「これはもう…当方の貧相な語彙力では表現不可能。引き出しが無い…。」溜息。

「何なんだこのセンスは。」1999年公開。実質20年の時を経ているのに。全く色あせない。

しいて言えば…『クーリンチェ少年殺人事件』『恐怖分子』等のエドワード・ヤン監督作品を観た時の衝撃に近いのか。あの、他とは全く一線を画す独特の空気感。

 

「そうか。20年前ならば当然元々はフイルム作品。…フイルムという響きが何て似合う作品なんやろう。」

 

1999年。恐らく40代前半のキム。仕事も家族も失った。絶望し、最早生きている意味を見出せない。そうして自分の人生にピリオドを付けようとしている男の、これまでの道のり。

 

別れた妻子に会いに行った、ピクニック3日前。

妻ホンジャ(キム・ヨジン)の不貞を責めた日。

友人と起こした会社が軌道に乗って。新居に仲間達を招いた日。

警察官時代。子供が生まれた日。その時キムは何をしていたのか。

潜入捜査のある夜の出来事。

結婚する前にの妻との関係。初恋の人、スニム(ムン・ソリ)との恋の終わり。

徴兵時代。目の当たりにした広州事件。

 

「一体いつに帰りたいというんやろう…。」

 

ああこれ、巻き戻しなんだなと当方が気付いたのは暫く経ってから。ある場面が映し出された後、決まって電車の走る画が現れる。しかしそれは前に進んでいるんじゃない。横を歩く人や走る子供が前から後ろに動いている。

真正面から向かってくる電車に対峙した時から。キムの人生自体が逆再生されていく。停車駅はキムの半生に於けるターニングポイント。

 

けれど。いつの時代だって、どこかに染みが付いている。しかもそれはキム自身のせい。

 

「きっと彼は、その時自分が置かれている環境を当たり前のものとして受け入れすぎていて。それが際どいバランスで成り立っているという事も、己の努力が必要な事も、気づかなかったんだろうな。」そう思った当方。

 

自分を大切に想ってくれた家族。愛してくれた妻。けれどそれは見慣れた景色の様なもの。特別だなんて思わない。

家に帰れば家のことはしている。俺は働いているんだぞ。それがなんだ、俺に隠れて他の男と寝やがって。お前は家で大人しく俺を待っていればいいんだ。ただ、俺が会社の女の子と浮気しているのは別もんだ。

いつもしみったれた顔しやがって。何だあの食事前のやたら長いお祈りは。

そんな夫から妻が離れていくのは当然。

 

警察官時代。虐待としか言いようの無い、尋問聴取。

笑いながら。人を人とも思わず、殴り、蹴り、水に漬けて。

 

けれど。キムが初めからそういう人間だった訳では無い。

 

巻き戻しが進むにつれ。キムに純度が現れてくる。

 

張り込みで訪れた小さな町。そこは初恋の人スニムが生まれた町だった。切なくて。切なくて涙が止まらなかった夜。

初めて尋問をしろと上司に言われた時。嫌で嫌で仕方が無くて。汚れた手を必要以上に洗った。

汚れた自分ではもうスニムとは向き合えなくて。こんなに想っているのに。もう二人は一緒には居れない。カメラを付き返し、彼女を電車に乗せた日。

広州事件。

 

「でも。しつこいけれどこれは巻き戻しやから。これら一連の出来事に対して結局キムが取捨選択した結果が、一番初めに観たピクニックやから。」

 

『汚れっちまった悲しみに』このフレーズが何度も頭をよぎった当方。

 

何故こうなった。どこで間違えた。どこからならやり直せる。帰りたい。幸せになれる所に。そう言って。キムは叫んだけれど。

 

「キムさんよ。大変厳しい事を言うけれど。人生に於いて逆再生は無い。どんな人生だって自分が選んできた選択が重なりに重なって出来ている。振り返れば、当時は些細な出来事だと思っていても、大きな転機であったと思うものがある。」「でも。その時は気づかないんよな。」「当たり前のことなんて、実は何一つなかった。」

何故当方がそう言えるのか。それは恐らく、この作品が公開されて20年が経っているから。

 

1999年当時。学生だった当方がリアルタイムでこの作品を観たとして、果たして今ほど心うたれたのか。結局たらればなので分かりませんが。若い当方なら「このラストはもしかしたら希望なのかもしれない。本当はまだ何も始まっていなくて。ラストシーンこそがキムのこれからの人生の始まりなのでは。」という解釈があり得る。(これはこれで夢のある解釈)けれど。

 

学生だった当方も、同じく20年の月日を経た。今や中年になりつつある現在。つまりは生きていく希望を失ったキムと同じくらいの年代になった。

 

そんな当方からみたキムの20年は、決して「20代学生のキムが見た白昼夢」だとは落とせない。

 

劇的な半生を送った訳じゃない。未だに何者かになれていない。学生だった当方から見たら、日和って当たり障りのない中年にしか見えないのかもしれない。けれどそれがなんだ。20年もの月日を馬鹿にしてもらっては困る。

小さな積み重ねと。幾つもしでかした失敗と。そりゃあ後悔する事もある。けれどもうどこにも帰れない事は分かっている。

 

『汚れっちまった悲しみに』けれど帰る場所は無い。生きているうちは。

 

あの電車にぶつかった時始まった、キムの巻き戻しの半生。あの20年前のピクニック。あそここそがキムの望んだ終着駅。

「けれどもう、あそこから電車が前に進む事はない。」そう思う当方。

 

「人生は美しいか?」

再びキムが瞼を閉じた時。きっと彼の望んだ最も純度の高い世界は完全に閉じられる。キムを閉じ込めたまま。

 

「またタイトルが『ペパーミント・キャンディー』って。全部含めて恐ろしい程のハイセンス。」

 

ああもう何なんだこの化け物は。こんな作品が20年も前に製作、公開されていたなんて。そう思う反面、当方にとっては公開20年後の今、この歳で出会った事が非常にありがたい。そう感謝する、貴重な作品でした。