ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「人数の町」

「人数の町」観ました。
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荒木信二監督初長編作品。

 

借金取りに追われていた蒼山(中村倫也)は、黄色いツナギを着た男性に助けられる。その男は自らを『デュ―ド』と名乗り、蒼山に居場所を用意してやるという。

言われるがまま。夜行バスに揺られて辿り着いたのは『町』だった。

無機質な建物の一室を与えられ。互いを『フェロー』と呼び合う。ツナギを着た『チュ―ター』達に管理され、簡単な労働と引き換えに衣食住が保証される。それどころか、社交場の一つであるプールで簡易なやり取りをすれば、フェロー同士でセックスも出来る。

ネットへの書き込み。他人に成りすましての選挙投票。得体の知れない治験。

何故こういう事をしているのか?そんな事は知らされず、けれど何も考えなければ淡々と日々は過ぎ感覚は麻痺していく。

ある日。町にやって来た新しいフェロー、紅子(石橋静河)。

これまでここに流れついた人々とは全く違う。「行方不明になった妹を探しに来た」。という目的を持って現れた紅子を蒼山は気になっていくが。

 

衣食住が保証され。快楽も容易く手に入り、大した労働をしなくとも生きていける。そんな場所は…果たしてユートピアディストピアか。

 

予告編が面白そうだった。こういう不気味で歪んだ管理社会モノは好物な当方。

 

確かに設定は面白くて。前半はぐいぐい引き込まれていた。

社会的落伍者たちが思わず乗り込んでしまった夜行バス。一応乗る前に『同意書』が用意されていて。そこにはきっとこの『町』の事や、これまでの戸籍や社会生活が奪われる事も書いてあるのだろうに。このバスに乗る人たちはその内容をきちんと読まずにサインしている。

バスから降りて、部屋の鍵とパーカーを渡され。首に『なにか』を打ち込まれ。それでも「何だよこれ!」と誰一人声を上げることなく、ぞろぞろと与えられた部屋に吸い込まれる。

とりあえず熟読せよと言われた『バイブル』も、ほぼ改行の無いだらだらとした文章で、とてもしっかり読む気にもなれない。

けれど。何となく社交場であるプールに向かえば、他のフェローから大体のルールは教えてもらえる。

 

ついだらだら書いてしましたが。

確かにここは文字通り『人数の町』で。個々の意思は必要ない。兎に角数を稼ぎたい所にフェローを使う。

ネットでの商品コメント。選挙の票の取りまとめ。新装開店の飲食店へのステルスマーケティング。テロ。デモ。これらは一体誰の為に行われているのか、自分たちの行動がどういう意味を成すのか。けれどここに流れ着いたフェロー達は誰もそこに言及しない。考えない。だって楽だから。

思いがけず社会風刺的な内容に皮肉を感じた当方でしたが。

 

どうもねえ。後半から話の展開に「ん?」という雑さが出てくる。

「妹とその娘がどうもこの町にいるらしい」。「必ず二人を連れ戻す」。正義感の強い紅子という女性が、はっきりとした意思を持って町にやって来た。

元々社会生活が破たんしていた者ばかりで構成されていたフェロー達。誰も「元居た社会に戻りたい」。なんて思っていない。

紅子の妹は町では女王様の様に振る舞い、今の生活に満足しきっている。

結局。蒼山と紅子と妹の娘モモの三人で『町』からの脱出を試みるが。

 

一切町に馴染むつもりなどない紅子のスタンス。多少は誰かの琴線に触れそうなのに、誰の心にも引っかからない…なのに何故蒼山には引っかかったんだ。

蒼山自身も社会に戻ればまた借金取りに追われる生活なのに。何故リスクを冒してまで紅子とモモを連れて出ていかないといけないんだ。その急な責任感は何処から?

「愛してる!」いや、そりゃあそういう感情じゃないと行動出来ないけれど…でもその言葉に繋がるまでの感情の触れ合いみたいなの…ありましたっけ?唐突過ぎないか?そしてそれに対する紅子の答えも。急展開過ぎる。

 

町に着いた時、首に打ち込まれた『何か』。

町から離れようとすると作動し、体が動けなくなる。その危険信号と言えるメロディの不気味な愛らしさは面白かったけれど。その装置をコントロールできるリモコンのバッテリー時間の曖昧さ。短いんか長いんか、どっちやねん。

 

(後、「夜になったら町は違う姿を見せる(言い回しうろ覚え)」って。見せてもらってませんけれど…)。

 

時間経過が突如「え?さっきまでのシーンからいきなりジャンプしてないか?」という飛び方をする。

 

特殊な管理社会自体が歪をおこして崩壊する展開を想像していたのもあって。思ってもいなかった逃走劇。でもその流れが…雑。

ただ。蒼山と紅子とモモの最終地点はびしっと決まっていて、納得せざるを得ない。

あの小さなコミュニティ。管理されている側だけではない。管理している側も含めて町が成り立っている。用意してくれた『町』はライフスタイルに合わせて立場を変化させながら『フェロー』『チューター』『デュード』の居場所であり続けている。

 

「何かなあ。面白い題材で、どういう話にしたいのかも分かるんやけれど…いかんせん後半の流れに引っかかりを感じてしまうなあ」。

 

色々くすぶる所もありましたが。ただ。あの危険信号のメロディが、ふとした拍子に頭に浮かぶ時がある。何故だか忘れられない。雑味を感じるのに何だか引っかかっている…不思議な作品でした。

映画部活動報告「mid90s ミッドナインティーズ」

「mid90s ミッドナインティーズ」観ました。
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俳優ジョナ・ヒルの半自伝的監督デビュー作品。

 

1990年代半ば。ロサンゼルスに住む13歳のスティーヴィー。兄イアン、母ダブニーの三人暮らし。

小柄なスティーヴィーは、いつも力でねじ伏せてくる兄に全く歯が立たず。そして母からの愛情が最近では疎ましく思えてきていた。

鬱屈していた日々。そんなある日、街のスケートボード・ショップを訪れたスティーヴィーはそこに入り浸る少年達と知り合う。

カッコいい。どこまでも自由で、スケートボードと一体になって、巧みに操る彼らに憧れを抱くスティーヴィ。

 

スケートボード文化に全く明るくないのですが…」。

 

当方のこれまでの半生で、一度も惹かれた事が無かった。ストリートファッションも、スケートボードも。

分度器を半分にしたような、強く湾曲した人工的な坂をスケートボードで行ったり来たりする。手すりや段差をスケートボードで駆け上り駆け降りる。

そのアクションを見かけた事もそうそう無い。時々道路をスーッとスケートボードで滑っている人を見かける程度で。

なので。スケートボードについては何も語ることは出来ない。出来ないのですが。

 

「なにこれもう止めて!」「エモーショナルに押しつぶされる!」

 

映画館なので、実際には手にタオルを握っていただけ。けれど心の中では、見えない大きめクッションを抱えていた当方はそのクッションを強く握ったり抱き寄せたりたたきつけたり。

 

鑑賞後調べたのですが。ジョナ・ヒル(敬称略)って1983年生まれなんですね。主人公スティーヴィーがジョナ・ヒルの分身なのだとすれば当方はスティーヴィーの兄イアンの世代。

何にしろ「1990年代をテーマに撮る、ほぼ同年代の監督たちが出てきたんだな」。という感想。という事はこれから「ああもうこれ!分かる!」という作品は続々出てくるのだなと。まあこの話は蛇足なのでここいらで止めますが。

 

主人公スティーヴィー。小柄で見た目も子供っぽい。シングルマザーの母親の愛は重くてうざったい。興味ある流行りものを取り入れている兄の持ち物は気になるけれど、いかんせん持ち主である兄がとっつきにくい。終始苛々していて下手をすると殴られる。

ある日。町で目立つ少年達を見かけた。彼らが乗っていたスケートボード。彼らが吸い込まれていったスケートボード・ショップ。

 

スケートボードを初めたけれど、全然上手くならない。

彼らが入り浸る店に行って、何とか仲間に入れた。大人のスケートボードも手に入れた。

文句なしに上手くて。クールでカッコいい。きわどいジョークを口にしながら、飄々とスケートボードを操る彼らが眩しくて。

 

小柄で誰からも子供扱いされる、またはみそっかす。そんなスティーヴィーの目に映った「恰好良いとはこういう事さ」。

 

当方は第一子というポジションなので…この『末っ子』ポジションから見える世界は分からない。なのでどうしても主人スティーヴィーよりも寧ろ兄のイアンに気を取られてしまった…だって。

 

自分の好きなカルチャーに興味を持っている弟が。鬱陶しくて、追い払っても追い払っても付きまとってきていたのに。いつの間にかおっかない連中とつるんで、自分の手の届かない所に行ってしまう。その切なさ。

「恰好良いとはこういう事さ」。その背中は自分であったはずなのに。

 

つまりは。末っ子スティーヴィーが憧れて追いかける対象が、兄からスケートボード集団に移ってしまった。

 

酒、タバコ。イケイケな女子とのいかがわしいパーティ。くたびれ切った中年当方から見たら全てがただ早熟なだけとしか言いようがないけれど。それが堪らなくクールで大人びて見えた。

 

「でもさあ。誰もが恰好良いだけでは居れないよな」。

 

力では敵わない。そう思っていた兄の姿。ソファに二人で横並びで座ったあの時、多分初めて兄がスティーヴィーに語った母の話。

 

うちの息子がとんでもない不良たちと付き合っている。そう憤慨して仲間たちに乗り込んでいった母親。(その親の気持ちが分かり過ぎるほど分かる世代になってしまったけれど)

もう彼らと今までの様に会えないんじゃないか。そう落ち込んでいたスティーヴィーにそっと寄り添ってくれたレイ。彼が語った仲間たちのこと。

 

家が貧しい。家に居たくない。大切な人を失った。皆が変わっていこうとしている中でもがいている。自由気ままにつるんでいると見えて、皆自分の置かれている環境や弱さ、葛藤と折り合いを付けて生きている。ただ俺たちの共通点は「スケートボードを愛している」ということ。でもそれは何よりも強い繋がり。

 

先述の通り、スケートボードについては全くの門外漢なので。「すげええ」とは思うけれどその技術的な点は一切分からない当方。ですが。

道路をただただ蛇行しながら滑っていく彼らに「ああこれは気持ちが良いだろうな」。と目を閉じる。

 

あの頃は永遠に思えた。けれど今思うと一瞬で過ぎ去った1990年代の10代真っ盛り。

こうしたら恰好良いとか恰好悪いとか考えすぎて、結果必死でみっともなくて。余裕なんてない。触るとヒリヒリすることばかり。でも。世界は何処までも開けていた。どこまでもこの板一枚で行くことが出来る。俺たちなら。

 

最後の最後。あの大監督のムービーが流れた時。「これは反則やろ」。何だか泣きたくなって、見えないクッションを抱え込んだ当方。

 

そこから彼らはどうなったんだろうか。おそらく当方と同世代になったであろう彼らは。今何をしているのだろう。

10代の頃、描いていた未来。描けなかった未来。つまんないと思っていた大人になったのか。けれど今の彼らがあのムービーを目にしたら…。

 

「なにこれもう止めて!」「エモーショナルに押しつぶされる!」

映画部活動報告「ソワレ」

「ソワレ」観ました。
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豊原功補小泉今日子らが立ち上げた新世界合同会社の第一回プロデュ―ス作品。

主演、村上虹郎・芋生悠。監督と脚本は外山文治監督。

 

俳優を目指し上京したが一向に芽が出ず。生活していくためにオレオレ詐欺に加担し日銭を稼いでいる岩木翔太(村上虹郎)。

夏。演劇仲間と共に、故郷である和歌山の海の町に帰った翔太。町にある高齢者介護施設で利用者に演劇を教えることが目的の帰郷。そこで彼女と知り合った。

施設で働く若い職員、山下タカラ(芋生悠)。

「ねえ。今日お祭りがあるんでしょう?山下さんも一緒に行かない?」

口数も少なく。黙々と働くタカラに、何となく声を掛けた演劇仲間。来るような返事をしていたのに、時間になってもタカラが現れない。

仲間に促され。タカラを家まで迎えに行った翔太が目にした光景。

それは。刑務所帰りの父親から激しく暴行を受けているタカラの姿だった。

とっさに止めに入った翔太。父親ともみ合いになった結果、翔太を庇ったタカラの手が血に染まった。慌てふためく翔太にタカラが見せた表情と言葉。

とっさにその血まみれの手を掴んで走り出した翔太。

 

「なんで弱い奴だけが損せなアカンねん。傷付くだけの為に生まれてきたんちゃうやん。」

 

ここではないどこかへ。二人なら逃げられる。

これはある意味「かけおち」。そうとも呼べる、二人の逃避行が始まった。

 

「これは芋生悠(敬称略)が良すぎる」。

 

想いを寄せる女子に。良くも悪くも、これでもかと散々振り回され、自分自身の弱さやみっともない所を噛みしめ成長する。そんないたいけな男子を演じる村上虹郎(敬称略)はこれまでも何度か観た事がありましたが。このパターンの中でも、今回の山下タカラ役の芋生悠は飛び抜けていた。

 

「お前…何て顔するんだよ」(当方の心の声)。

 

両親と自分の三人家族。和歌山の田舎で。幼い頃から虐げられていた。

父親から受けていた性的暴行。それが明るみになった高校時代。父親は刑務所に収監された…けれど、母親は自分の元を去り、自分自身も高校を辞めざるをえなかった。

地元の高齢者介護施設に就職。時折襲われるフラッシュバックに苦しみながらも、ひっそりと生きてきた。なのに。

「父親の刑期が終了した」。出所の知らせに震えが止まらない。そして案の定。祭りの日に父親が現れた。

 

見られたくない。こんな姿は誰にも知られたくない。なのに…。

 

おそらく。昔「辛かったね」とタカラに声を掛けてくれた人もいるにはいたとは思うけれど。タカラの言葉を信じてくれない人もいた。何度も何度も話したくない事を言わされた。ただただ傷付いた。もうあんな思いはしたくない。

暴行現場を見られたけれど。乗り込んで守ってくれた。そして手を取って走り出してくれた。

逃げ出したい。こんな現実から逃げ出したい。誰も知っている人なんかいない所。どこか遠くに行きたい。

 

目の前で男から暴行を受けていたタカラ。最近世話になっている介護施設の職員で、そこまで親しくないけれど多分同世代。地味で何だか影があって。仲間に言われたから祭りに誘うために家まで来たけれど。一体なんだこれ。

思わず体が飛び出していた。そりゃあ見て見ぬふりなんか出来るはずがない。けれど、結果は最悪。これはやってしまったぞ。

早い所救急車を呼べば…そう思ったのに、タカラに止められた。その表情。声。言葉。

「お前。何て顔するんだよ」(当方心の声)。

 

誰かの心に残る俳優になりたい。自分は人とは違う、才能があると息巻いて上京した。でも…何もない。今の自分には何もない。それを認めるのが怖くて。逃げ出したかった。

 

タカラと翔太。元々抱える環境や問題は違うけれど。二人に普段から共通していたのは「ここから逃げ出したい」。という願望。

ふいに訪れた出来事を発端に。二人の気持ちが一致した。

 

冷静に考えると「逃げる必要は全くない」としか言いようがない。

確かにタカラの父親に対する傷害事件に発展したけれど。どういう状況でこんな事になったのかは一目瞭然だし、警察も馬鹿ではないはず。

「昔散々話をさせられた」という辛さは心中察するけれど…こんな鬼畜は法で再び裁かれるべきで。二人を追っていた刑事たちもずっと言ってましたがね「逃げる意味がない」んですよ。

結局逃げ回っている内に罪が重くなってしまう。

 

衝動的に傷害事件を起こしてしまったタカラに対し、寧ろ元々小悪党だったのは翔太。

東京では食い扶持を稼ぐという名目でオレオレ詐欺に加担。和歌山でタカラと逃避行する羽目になってからも、セコい窃盗や盗難でしのごうとするし、お金を入手する方法も概ね博打。小者感が半端ない。

 

二人で走り出した出した。駅での翔太は恰好良かったけれど。何日も経つにつれ、「お前のせいやないか。俺は関係なかったやないか」とタカラに当たり散らす。

 

「まあでも。そういうモンなんやろうな。」

 

俺がお前を守る。世界中どこにいたって俺だけは味方で一緒にいる。そんなの、疲れてへとへとになったら言ってられない。

一緒にいる事に腹が立って。顔も見たくないと別れて歩き出しても…でも結局一人は辛い。

二人でいる事を知ってしまったから。もう一人には戻れない。

 

「いやいやいや。それなら尚更、もう逃げんとさあ」。

不毛で。とことん精神が追いつめられる。逃げても逃げても楽にはならない。互いの姿をとことん晒して。のたうち回って。これが望んだ事なのか。

苦しくて苦しくて。それでも二人で逃げた。

 

幸せだった。

 

どうやら二人の逃避行には、こういう司法判断が下ったようだ。

不平等じゃないか?としっくりこない気持ちがあるにはありますが。

最後の最後のエピソードに、胸がつかえておかしな声が出かかった当方。

「ちゃんと。ちゃんと誰かの心に届く俳優やったんやないか」。

 

一緒に居ても居なくても、各々幸せになって欲しい。自然と笑えて、ご飯が美味しくて、穏やかに布団で眠って欲しい。特別じゃなくていい。幸せとはそういうもの。

 

いやあそれにしても芋生悠(敬称略)。とてつもない役者を知った感じです。

映画部活動報告「グッバイ、リチャード!」

「グッバイ、リチャード!」観ました。
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ジョニー・デップ主演。ウェイン・ロバーツ監督作品。

 

大学教授のリチャード。芸術家の妻と素直な娘との何不自由ない暮らし…一転したのは、自身の病の発覚。しかもそれは余命半年の大病であった。

突如宣告されたタイムリミット。「治療を施したところでもって一年」という医師からの説明に「積極的な治療は望まない」と回答したリチャード。

ところが。妻と娘に告白するチャンスを逃した挙句、妻からは長年職場の上司と不倫していたことを告げられた。

「残りの人生は自分の為に謳歌してやる‼」

ちょうど季節は新学期。単位欲しさに自分の担当科目を受講しに来た学生たちを極限まで振り落とし。それでも付いてきた生徒たちにあけすけな物言い。挙句授業中に生徒を引き連れ酒やドラッグを楽しんだ。

初めこそ戸惑っていた学生たち。同僚で親友。そして離れてしまっていたと思った妻と娘。

誰の目も気にしない。自由奔放なリチャードの行動や発言は、次第に周りの人間も動かしていく。

しかし…そんなリチャードの身体を、病魔は確実に蝕んでいた。

 

ハサミ男。白塗り。工場長。海賊。近年特殊でハイテンションな役柄が多かったジョニー・デップ

そんな彼が。久しぶりに『普通の人間』のビジュアルでスクリーンに帰ってきた!しかも今回は『余命180日の大学教授』という役柄で。

 

スクリーンの女性観客の多かったこと。「デップ―大好き!」という熱量に押され気味でアップアップだった当方。

(小声)「いや寧ろ、ガチャガチャとした煩いキャラクターを演じる事の多いデップ―を当方は正直良しとはしていなくて…じゃあ何故今此処に?それは…映画を観たい気持ちと上映時間の都合が上手くはまり込んだのだとしか…)肩身が狭い。

 

『当方はデップー推しではない』という事と『病気設定と一致しない演技等諸々に納得がいかない』。根底にこういったくすぶりがある事から。以降の感想は結構辛辣な内容になってしまうと思います。先んじてお詫び致します。

 

余命180日。つまりは半年と告げられたリチャード。彼のタイムリミットを決めてしまった病気、肺癌。ステージ4。

肺癌の進行度は4段階。つまりリチャードが告げられたステージ4は最終段階。手術適応段階では無く、他の臓器にも転移している状態。

言い切る事は出来ないけれど、正直かなりシビアな状態で主な対症療法は薬物治療のみ。

症状が余り出ない人も居るには居るみたいだけれど…大抵は呼吸苦、全身の痛みやだるさ。食欲不振、顕著な体重減少なんかがある。そういう状態。

 

「の割にはリチャードピンピンし過ぎ。せめてやつれるか痩せるか。声の出し方も変わるぜデップー。」

 

近年コスプレありきのイロモノ俳優枠に居たけれど。やっぱりデップー。身なりを整えきちんとスーツを纏った格好をすれは、色気のある男前が駄々洩れる。

物語の序盤から。余命宣告に動揺し荒れ狂うリチャードも。あけすけで意地悪な物言いで学生たちを振るいに掛けるリチャードも。酒やドラッグでラりっているリチャードも。自身のセクシャルティに悩む娘にアドバイスするリチャードも。

もう物語がどう進んでいこうがひたすらに「カッコええなあデップー」の連続。

病気が進行し。立っておれずに授業中寝そべったりなんかしているシーンもありましたが。概ね最後の最後まで「カッコええなあデップー」。を崩さない。

 

「そもそも呼吸器疾患の末期患者が酸素投与なしであんなにはっきり声を出してスピーチ出来るものなのか」。

終盤。長く務めた職場の同僚や妻なんかを前に「多分滅茶滅茶良い事を言っているのであろうスピーチ」にも、無粋な茶々が脳内を駆け巡って。全然話が頭に入ってこなかった当方。

 

そして。リチャードの異常な達観ぶりへの違和感。

アメリカの精神科医、エリザベス・キュブラー=ロス。

かの人が提唱した『死の受容モデルー5段階モデル』。

人が死を受け入れていく過程を①否認と孤立②怒り③取引き④抑うつ⑤受容と段階づけた。

医師から余命宣告を受けた時の衝動。そこから取った行為は分かる。けれど…そこから受容への段階、早すぎやしないか。「俺の残りの人生は自分の為に謳歌しよう」って。切り替え早い。

家族にすら真実を告げられなかったリチャードが。唯一早い段階で告白した親友が打ちのめされているのに…どこか他人事ですらある。何故「どうせ人は死ぬ」と直ぐに達観できるのか。

 

そしてリチャードの授業風景。

アメリカ文学?について学ぶ講座。初回授業の振り落としの結果残った生徒たちと、授業中にも関わらず酒場に繰り出し。いかにも酔った中年が言いそうな人生観を二三披露したら、自分に色目を使ってきたウエイトレスと勢いでトイレでセックス。

一人一つの文学を割り振り、授業で皆にプレゼンテーションさせる。いかにその物語を理解し周りに伝える事が出来るかを評価する内容だけれど…その過程はスクリーンでは語られない。

発表し終えたばかりの生徒とリチャードとの少しのやり取り。それらを断片的に見せられる内に、彼らの団結は深まっているけれど…実態が無いので「なるほど」と思わせる説得力が無い。

 

あんまりつらつらと上げていくと、ただただ上げ足を取るばかりの感想文になってしまうので。いい加減風呂敷を畳もうかと思いますが。

 

つまりは…余命180日の肺癌患者を描くには、あまりにもスマートに描きすぎてしまったと感じたという印象。

何でこんな事になった。どうすれは良かったんだ。畜生、何故周りの奴らは生きている。若い学生に囲まれて、彼らの生命力とこれから開けている人生。眩しい。セクシャリティがなんだ。誰かを愛せる事は素晴らしい事じゃないか。娘よ、お前はまだまだ若い。妻よ。友よ。愛している。もっと早くに言うべきだった。ありがとう。

粗く書き出すと概ねこういう感情が渦巻いたんだと思いますが。いかんせん、リチャードが「カッコええやんデップー」に飲み込まれ過ぎていた。

 

後はまあ…「脳内の引き出しから補てんしな」。という部分が多かったのかなと。特にリチャードにとって最後になった教え子たちとの授業風景。

 

リチャードが決めた自身の人生の幕引き。そこにも全然納得がいかなかった当方。結局アンタどこまでも個人主義やん。キザったらしい。その美学、ついて行かれへんわあ。

 

終始怪訝な表情で観てしまった当方。まあ…色んな考え方があるのでしょうから…リチャードの生きざまに共感出来る人もいるのだろう。

 

もやぁとしてしまいましたが。最後に。

きちんとスタイリングされたジョニー・デップは何をしても恰好良い。

これだけは文句なしでした。眼福。

映画部活動報告「ブックスマート 卒業前夜のパーティデビュー」

「ブックスマート 卒業前夜のパーティデビュー」観ました。
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主人公のモリ―。史上最年少最高判事就任を目指し、ひたすら猛勉強した高校生活。努力の甲斐もあってイエール大学進学への切符も手にしている。生徒会長の任務を全うし、周りからはとっつきにくい奴だと距離を置かれていたけれど…でも私には何でも分かり会える親友がいる。

親友のエイミー。勤勉でボランティア活動に勤しむエイミーは、高校卒業後コロンビア大学へ入学前にボツワナで女性たちを助けるボランティアに従事する予定。

私たちはくだらない遊びや恋愛にうつつを抜かすクラスメイトを小ばかにしながら、必死に勉学に励んできた…なのに。

高校生生活も終了、明日は卒業式。そんな最後も最後に知った、衝撃の事実。

「馬鹿にしてきたクラスメイトも、有名大学や有名企業に進む」。

私たちは学業に専念したのに⁈

「勉強以外も楽しんだだけよ」。

『トリプルA』皆にそう呼ばれるビッチな女子に言われ、動揺するモリ―。

 

私たちは目標の為に必死に勉強したのに。奴らはくだらない恋愛や、遊びや、パーティに明け暮れていたくせに…なのに輝かしい未来も手に入れようっていうの⁈

 

「つまんないなんて思われたくない…私たちをがり勉だなんて言わせない。私たちはスマートで面白い人間だってことを思い知らせてやらなくちゃ」。

 

生徒会の副会長で人気者のニック。彼が主催するパーティに乗り込んでやる!そこでパーティピープルな連中に一泡吹かせてやる。卒業式前夜にこれまでの失われた時間を取り戻してやる!!

けれど。そもそもパーティに呼ばれていない二人。SNSから、ニックの叔母の家でパーティが行われている事は入手したけれど、肝心の場所が分からない。

 

いやいや、絶対に乗り込んでやる!真面目でイケてないと思われていた高校生活。チャンスは今夜限り。絶対にイケてる奴らに見せつけてやる!私たちが最高にハッピーでイケてる二人組って事を‼

 

「丹力があるよなあ。当方ならそこでわざわざ交流の無かったイケイケ集団に乗り込みには行かんけれどな」。「最終夜は、その唯一無二の親友と大切に過ごすよ」。

思わずこぼれてしまった、当方の呟き。

 

「馬鹿かお前!それを言ったら終わるやないか!」

いやあ。そうなんですがね。でも…スクールカーストの中~下層だった人間の思想ってリアルではそうなんじゃないですかね。

 

学生時代。異性同性関わらず、特別モテた経験も無く。秀でた容姿も才能も努力も無い。けれどひどく何かが劣っていたわけでもない。平凡と言われればそれまでだけれど…価値観の近しい仲間と日々つるんでそれなりに過ごしていた。

「ハタから見たら…」人目を気にする人は何処にでもいたけれど、幾つの時も当方は「人は人」だった。だって、何をどんなに気にしたって己以外の人間にはなれないから。他人と比べるなんて不毛。

 

所謂『リア充』という言葉。それは男女問わず誰にでも好かれて、引っ張りだこな人種だけを指すわけじゃない。例えそれが人から共感されなくとも、己の趣味にどっぷり浸かって暮らしている人種もまた『リア充』である。別にこの双方が交わらなくても。

 

何を出口のない事を延々と書いてしまっているのかというと…多分当方はこの作品で言う『40女』の世代だから。

 

「色々悟りきったテイでクダ巻いているけれど。だから何なの?高校の卒業式前夜なんて一生で一度きりなんですけれど!」

 

私たちはがり勉でつまんない人間じゃない!

モリ―とエイミー。二人っきりで居る時はノリノリで陽気…二人っきりで居る時は。

 

『ハング・オーバー』的な。人生の大きな節目の前日、燃え尽きてしまわんばかりのバカ騒ぎ。けれど最後に過る、ぽたんと落ちる線香花火の儚さ。

これを男子じゃない。女子で体現した気持ちよさ。小気味良い会話のラリー、明るさだけに突き抜けず、かといってしんみりし過ぎる事もない。

 

中盤以降。紆余曲折を経てやっと乗り込めたニックのパーティで。これまで『小憎たらしいと思っていたパーティピープルな連中』にも憎めない感情が湧いてくる。

 

結局。クラスの中での立ち位置こそ違えど、誰もがお互いを『定められたキャラクター』というフィルター越しで決めつけてしまっていたということ。

そのフィルターを取り除いたら、皆随分と素直で純粋な十代(二十歳も居たけれど)だったという…「私たちをつまんないなんて言わせない!」。モリ―とエイミーはそう意気込んできたけれど。彼らもまた「頭の空っぽなパーティピープル」では無かった。

もうそう感じた途端。画面に映る誰もが愛おしくなってしまう。

 

一見空っぽに見える奴らも。真面目で勉強に明け暮れた奴らも。同じ趣味に没頭していた奴らも(ここでは演劇部ですか)。同じ時を自分なりに一生懸命過ごしたのならばいいじゃないか。平素の当方はそう思うけれど。

この作品はそんな彼らを最終的にクロスオーバーさせる。エモーショナル。堪らない。

 

登場人物の中で好きな人。散々既出されていますが『神出鬼没の金持ちジジ』と『痛々しくも愛おしい金持ちジャレッド』。二人の金持ちに心を持っていかれまくっていた当方。ジジは何処にでも順応できる。ジャレッドは…いい奴なんやから幸せになってくれ。頼むから騙されるんじゃないぞ。

 

モリ―とエイミーを突き動かした行動力。その根底にあった恋心の行方。「ああこういう落としどころか…」そう思うけれど、けれどあの二人は何も悪くない。寧ろ良すぎてちょっと泣けてしまった当方。

 

最初から最後までノンストップ。「まさかあのピザ店員…」という回収に思わず笑いながら。モリ―とエイミーの怒涛の高校生活最終夜に酔いしれた当方。

 

あくまで「彼女達らしい」ウェットならない幕引きに流石やなとにやけながらも。

「モリ―とエイミーが四十歳になった時。この夜を思い出してどう思うんやろうな」。ふと目を細める当方。

 

この作品を観ながら「そういえば当方の卒業式と言えば…」と記憶を掘り起こされていた当方。

もう最後だからと。今なら勇気も気力も体力もない一日を過ごした。泣いて、はしゃいで一緒に朝まで仲間で過ごして笑った。もうこうやって皆で会うのは最後かもしれない。最後だから。

でも確かに。全員が揃う事はあれから一度もない。

 

もうあれから何十年も経っているのに。こんなにコミカルな作品を観ているのに。終いには胸が一杯になってしまう。堪らない。

 

すっかりスカした中年になってしまった、かつての少年少女に。これは必見です。

 

映画部活動報告「海辺の映画館/キネマの玉手箱」

「海辺の映画館/キネマの玉手箱」観ました。
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「また見つかった。 何がだ? 永遠」

 

2020年4月10日公開初日。この日大林宣彦監督が亡くなった。

20年ぶりに監督の故郷である広島県尾道市を舞台に撮られた作品。リアルタイムでは無かったけれど、初期の尾道三部作には随分どっぷりと浸かってしまった当方。とはいえ以降の…特に近年の作品には少し足が遠のいていた。けれど、やはり『大林監督と尾道』というフレーズには惹かれて気になっていた作品。

春先のコロナ禍自粛で公開延期になっていたけれどやっと公開。しかも遺作となってしまった今作。

「これは流石に観に行かなければな」。そう思って映画館へ向かったのですが。

(因みに。初めは公開翌日の8月1日に行ったのですが。その日は満員で(昨今の事情で入場制限あり)映画館に入れませんでした)。

 

先んじてお断りしておきますが。当方は好き嫌いがはっきり分かれるであろう大林監督作品に対し、あくまでも好きだというスタンスに位置しています。

大林監督の全ての作品に精通している訳ではありませんが「大林監督ってこういう所あるよな」と思っている部分もあり、その偏った視点で進める所があります。

何故こんなうざったい注釈を置くのかというと…以降の文章は勘違いを生む可能性が大いにあるから…当方が熱く語ろうとすればするほど、その相手を馬鹿にしている様に見えてしまうという…。なので念のため。

 

179分。大体3時間の長尺で、一体何を観せられたのか。

 

当方の行きつけのスーパーの総菜コーナーに最近現れた『ごった煮』。

色んな野菜やら肉やらこんにゃくやらを集めて甘辛く煮たのであろう(買って食べていないのであくまでも想像の味)食べ物。それを想像した当方。

 

大林監督の頭の中にある『映画』『戦争』『愛』『観せる者と観る者』『座っている者と立ち上がる者』『目の前にあるものは絵空事か現実とするか』エトセトラ。エトセトラ。そんな混沌としたテーマを、同じ鍋で一気に煮込んで出してきた。

味付けだってさしすせそに収まらない。甘く辛く。エンタメだって盛り込みたいし、大林監督なりの隠し味(当方からしたら全く隠れていないけれど)のポエミーで鼻につくセンチメンタルも盛り込みたい。

泣いて笑って。怒って。騒いで叫んで走り回る。もうどれだけ掬っても取り切れない灰汁だらけの作品。

 

「何で超大御所御大がこんなのを最後に出してくるんだよ…」(あくまでも褒めています)。

 

尾道の海辺にある映画館「瀬戸内キネマ」が閉館を迎えた。最終日を飾ったのは『日本の戦争映画大特集』のオールナイト興行。

そこで映画を観ていた、三人の若い男達。突如発生した閃光と共に、たまたま居合わせただけだった彼らはスクリーンの世界にタイムリープした。

江戸時代末期。新選組。白虎隊。娘子隊。大東亜戦争沖縄戦。広島の原爆投下…。めくるめく変化していく時代の中で各々に現れた運命のヒロイン達。

スクリーンに映し出されるのはあくまでも物語。けれどその世界に入れば、それは現実。

史実では分かっている結末。どれもこれも悲しい流れにしかならない。けれど一生懸命に生きようとするヒロイン達の運命に「どうすれば世界は変えられるのか」と奮闘する男達。

 

「監督はきっとこう言いたいんだ」。「あのシーンのアレはさあ」。なんていちいち考察したり上げ足とったり。そんな気力は当方には皆無。だってもう。179分フルに使って大林監督がぶつけてくるんやもの。

おそらくの。「俺が撮りたかったもの」を余すことなく盛り込んできている。

 

良くも悪くも「くどくどとしつこい」大林監督作品の特徴を存分にこねくり回して。

こんなの、他の監督が作ったら滅多切りにされる。なのに…「もう…仕方ないなあ」と眉を下げてしまう。だってもう…大林監督の真骨頂を最後に全力全開でぶつけてきているから。そうなるともう、無粋な解釈はこちらも放棄して「さあもう今日はひたすら受け止めますよ」と。どこに投げても受け止めるキャッチャーになるしかない。

 

作中の少年が。自作の漫画をフイルムにして。声を掛けたら集まった観客相手に一生懸命に手で回して観せた。これはそんな少年の作品の延長。

 

自分の想いを映像作品にして観せる。その面白さ。観客の表情。けれど誰よりもその雰囲気の中毒性に魅せられたのは少年自身だった。

自身のこれまでの人生。自分のルーツ。生まれた場所や国が歩んできた事。集まった人達に観せたいモノは沢山ある。

時代は繰り返し。しかいいつの世にも戦争があった。

人と人が生活を営む中で。戦争という背景が横たわる時代があった。

圧倒的な理不尽。若くして命を落とすという事。戦争時代の正義、信念。

後付けの倫理観で、今なら何とでも言える。「これは愚かな事なんだ」「命を大切にしろ」。けれど、その時に生きた人はどう思うのか?

スクリーンの中で生きるヒロイン達の現実は、観客の立場からは「かわいそう」でしかないけれど。もし彼女達と触れ合って、心が通じてしまったら?「かわいそう」では済まされない。彼女達に生きて欲しい…できれば自分と共に。

ほうら。もっと観て。これまで起きてきた事を。そして今起きている事を。他人事じゃないんだよ。そして。立ち上がれ。さあ来い。リアルに触れろ。

 

狂ったピアノを弾きながら。大林監督から、映画館の座席に座って観ている我々へのメッセージ。「座ってばっかりじゃなくてさあ!」

 

それにしてもねえ。ごった煮すぎるんですよ。

何でこんなにパワフルなんだろうかと。何で最後までこんなに全力なのかと。不格好すぎて恰好良いやないか。

普通、何事も場数を踏めば多少はスタイリッシュになるんじゃないの。ちょっとはそぎ落とされてさあ。何でずっと盛沢山に盛り込んでんの。

 

ダサい。長い。しつこい。なにこれ。そう思うのに、この作品を振り返って終いには泣けてきた当方。こんなに味の濃い作品は何処までも酒が飲めてしまって。酔ってしまうんですわ。

 

好き嫌いがはっきり分かれる作品。長尺だし、万人にはお勧めは出来ない。正直、当方だってしばらくは観返さなくて良いと思っている。けれど。

 

大林宜彦監督最後の『A MOVIE』。この作品が遺作であるという事。そしてこのタイトルの秀逸さに感服。何もかもがしてやられた感じで…あかんあかん。余りにも味が濃いので胸が焼ける…感傷的になる前に撤収!大林監督…ご馳走様でした。

映画部活動報告「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」

「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」観ました。
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アメリカ南部の片田舎。ある夜、地元の救急病院の前に打ち捨てられていた瀕死の男。

たまたま発見した勤務医の処置の甲斐もなく、逝ってしまった、血まみれの男。

一体彼に何があったのか?

 

(※注意!やんわりネタバレしている感じの内容になっています。お気をつけ下さい)。

 

昭:(仏頂面)はいどうも。当方の心に住む、男女キャラクター「昭と和(あきらとかず)です」。

和:「これは男女を交えた視点で語った方が良いんじゃないか」。そう当方が判断した時に登場する我々。今回も大真面目に切り込んでいきたいと、そう思っています。

昭:何がだ。何を大真面目にだ。お前の魂胆は分かっているんだ。セクハラまがいの追及で俺を窮地に立たせてあざ笑おうという算段だよ。本当に性格が悪い…。

和:まあまあまあ。そういうのは裏方で話し合うとして。そもそも「ディック・ロング」って何なんですか?

昭:お前。しょっぱなから俺を潰す気か!手元のデバイスで調べろよ。…まあ、言うならば『トリック』の上田次郎阿部寛)が言われていたそれだよ。

和:う~ん。作中でも言われていたけれど。亡くなった男性の名前はリチャードなんですよね。そのニックネームが何故「ディック」なのか…。

昭:それこそ作中で言ってたでしょうが。「奥さんに聞きなさいよ」。

 

和:ジーク、アール、ディック。いい年した男性3人はバンド仲間で長年の付き合い。その日の夜もジーク宅のガレージで練習。そのまま盛り上がり、酒やドラッグを煽りながらバカ騒ぎをしていた。

昭:オープニング映像が、そのバカ騒ぎなんやけれど。まあ楽しそうなんよな。

和:なのに。急転直下。ジークとアールが血相を変えて車を運転する映像に切り替わる。車の後部座席に横たわる血まみれのディック。

昭:取り乱しながらも、何とか救急病院までたどり着いた。なのにディックを道路に投げ出しそそくさを逃げ出す二人。一体何事か。

和:きっと職員の誰かが直ぐにディックを見つけてくれる。何らかの処置をしてくれてディックは助かる。これは3人にとって笑い話になる。そう思っていたのに…。

 

昭:これ。実際に起きた事件が基になった、って書いてあったぞ。

和:ネタバレも何もなあ…私からしたら「アホやなあ」の一言なんやけれど。

昭:結構な事をしでかしてるんやけれどな。ジークとアールの無責任さとか、罪の軽さとか…どうかと思うけれど…それらを凌駕するお粗末さよ。

和:我々二人で呆れていても前に進まんので。まあ…いい年した男3人が、羽目を外した挙句に取り返しのつかない結果になってしまった。けれどその内容は言いたくない。だから瀕死の状態に陥った仲間を病院の前に捨てた。折角の楽しかった夜が台無し。

昭:新しい朝が来た。希望の朝だ。そう思ったけれど…目の前には昨夜の大惨事の痕跡だらけ。何も知らない妻と娘はいつも通りに接してくるけれど。いつどこでボロが出るか分かったもんじゃない。

和:いつどこでって。もうボロボロでしたよ。初めからずっと。ひどすぎるくらい。

昭:車で娘の学校への送迎を頼まれたけれど。後部座席は血まみれ。慌ててシーツで隠したけれど、そこに座った娘の背部は血でべっとり。

和:挙句。車の処理に困ったジークとアールは車を沼に捨てようとするけれど、沼が思っていたよりも浅くて沈まなかったり。もうそんなのばっかり。気持ちだけは焦ってその場を取り繕うとして嘘をつくけれど、それが直ぐにばれるようなものばかり。

 

昭:地元警察官二人が良い味出していたね。女性警官で、一人は高齢で。一人はでぶっちょの同性愛者。

和:大して切れ者には見えない二人組。ディックの死因を救急医から知らされ衝撃を受けながら。淡々と捜査を進めていく結果、辿り着いた真実。って言っても、別に推理を働かせた結果二人に辿りついたんじゃない。

昭:血まみれで処理に困って沼に捨てた車について、妻に「車を盗まれた」と嘘をついたら警察に盗難届を出された。小さな町の小さな警察署。殺人事件を捜査中の二人組が、そのままジーク宅に自動車盗難について事情を聴きにやって来た。もう、飛んで火に入る…って奴。

和:脳内で『軟式globe』のKOIKEとパークマンサー(お手元のデバイスで調べてください)がずっと歌っている。「アホだな~」「そうだよアホだよ~」。

 

昭:ところで。警察と言えば、流石にディックの妻にはもっと早くに連絡がいくんじゃないの?初めは身元不明だったとしても、小さな町ぽいし直ぐに素性は知れるやろう。

和:それは終盤のジーク、妻、ディックの妻、警察官の修羅場をやりたかったからでしょうが。無粋な事を言いなさんなよ。

昭:いや。分かるんやけれど…違和感が…後なんで共犯のアールはお咎め無し状態なのかも…(徐々に小声)。

 

和:アホな男たちのやらかした顛末。挙句一人が命を落とした。残された二人はどうにかごまかせないかと四苦八苦するけれど、浅はか過ぎて直ぐにボロが出てしまう。

昭:分からんでもないけれどな。いくつになっても羽目を外してはっちゃけたい時があるねん。それを後になって正気な連中に責められても…なんとも説明出来んもんやねん。

和:え。じゃあ昭さんはこの天下一武道会に興味があるって事ですか?

昭:お前の隠語チョイス、ドラゴンボール好きの人々から殺られるぞ。異種交流…直腸破裂及び人工肛門造設まったなしの行為なんて怖すぎる…いやいや、色んな嗜好の人が居るから一概に否定も出来ないけれど…でも本当に『ディック・ロングが何故死んだのか?』の真相がもう…こんなの確かに言いたくない。文字通り「墓場まで持っていく」案件。

和:妻の衝撃も半端なかったよ。

昭:いや、俺は正直「顔芸がうるさい」って思ってしまった。

 

和:日本公開2017年の『スイス・アーミー・マン』。その年の『ワタナベアカデミー賞』で最優秀賞を贈った。二人のダニエルから成る『ダニエルズ監督』。今回はその一人、ダニエル・シャイナート監督作品。

昭:『スイス・アーミー・マン』が余りにも好きすぎたんで今作の期待値が振り切れ過ぎていた…でも全身の力を抜いて笑える作品で、これはこれで楽しかったな。

和:一言で言うと「アホやなあ~」。後はまあ…馬には罪は無いから…馬は責めてやらんといて欲しい。

昭:いや寧ろ馬は攻め…お前…言うか!!俺は絶対に言わんからな!!