ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「アシュラ」

「アシュラ」観ました。

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韓国映画祭り。「お嬢さん」「哭声」そして最終作品「アシュラ」
韓国ノアール枠。つまりは暴力映画。しかも全力の。

架空都市「アンナム市」
街の利権を牛耳る市長。都市再開発事業を推進。カリスマ性を持つ市長の裏の顔は何処までもブラックで。その市長の犬である主人公の刑事。刑事でありながら、市長の為に手を汚す日々。そんな市長を引きずり下ろしたい検察官達。そして刑事の舎弟。
主にその4つの人物達が絡み合い。そして破滅へと向かっていく作品。

「この世界に正義など無い」

某日。職場を代表して、某アウェイ施設に一日見学に行く事がありました。
当方の職場で、春から再開する部門がありまして。当方は元々そこを担当していましたので。春から赴任されるトップが今現在在籍している施設に、やり方なんかを見に行くという目的でした。
ただ…当方の住む秘境からその施設は非常に遠く。最早行くまでが小旅行。案の定朝5時起きで。
その見学自体は…非常に学ぶ事も多くあったと思うのですが…(…に含まれる当方の叫び)

「この1日が当方の有給休暇扱い。交通費無し。自腹」

職場から菓子折り持って。勿論先方にはきちんと当方の職場から見学の段取りを付けているのに。当方の有意義な休暇扱い。どう考えたってこれは出張やろう。どんなブラックだよと。

「この世界に正義など無い」

朝早い電車の中で。死んだ目をしながら心の中で繰り返し呟く当方。

前置きが非常に長くなりましたが。そんな某日の当方の唯一の楽しみ。それは「終わったら『アシュラ』を観に行く」ただそれだけでした。

そして。駆け込むように向かった映画館。鑑賞し。

「なんだかもう。突き抜けすぎて清々しさすら感じたよ」薄っすら笑顔の当方。

兎に角、市長が面白すぎる。サイコパスかと。

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勿論リアルに居たら一ミリも笑えないとは思いますが。
もう、絵に描いた様な「悪者」しかも卑怯。狡い。
市長職ってもっと過密スケジュールやと思うし、やるべき仕事も多岐に渡るはずなんですがね。この市長は基本的に「都市再開発関連に取り組む俺!」のアピールか、自身を守る為に存在する取り巻きと遊んでいる時間が多い。

自分のイメージを良くしたい。自分の地位を脅かす奴。面倒な奴は、自分の手を汚さず取り巻きによって粛清。しかし、取り巻きへの愛がある訳でも無く。長年使えてきた者だって、要らなくなったらすぐにポイ。

「でも。そんな市長の行動原理って?」全然分からない。市長が最終的に手に入れたいモノ…富や名声?そういう目的が見えない。
兎に角悪い奴。それの具現化。市長の背景など無し。でも…だからこそ「やっちまえ!」がなんの罪悪感も無く言える相手。

主人公の刑事。病気の妻を持ち。警察を退職し、市長の完全な犬として転職予定やったのに。ちょっとした仕事での不手際から検察に目を付けられ。警察組織から抜けられず。

市長と検察。両方のスパイ状態となってしまい。板挟みの中、泥沼にはまっていく。

この主人公がまた。西島秀俊そっくりの男前なんですが。如何せん暴力映画なんで。話が進むにつれ、ボロボロに傷がついていく。それがまたたまらん。

検察官も。「哭声パパやんか!久しぶり!」と思わず言ってしまいそうですが。全く違うベクトルの演技。そして上島龍平感。(それを言うなら、市長だって哭声の祈祷師なんですがね)

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そして主人公の舎弟。刑事の後輩。
ただただ主人公を兄貴と慕っていたのに。主人公の代わりに市長の犬ポジションにつかされた彼の、あどけない表情から冷酷になっていく様。もうあの時の二人には戻れないのか。

役者がしっかり揃っていて。四つ巴で組み合って。誰が勝つのか。誰が負けるのか。結局は誰も正義などに基づいていないのに。

韓国ノワール。本気過ぎる暴力映画。互いに膝を付き合わせて知的な会話なんて一切なし。今この場で強い奴は誰だ。負けている奴は誰だ。どちらもキメキメな表情とポーズ。そして次の場面ではその上下は容易くひっくり返されて。

毎回毎回どのシーンも面白かったですが。
当方の中で特にこれは!と思ったのが「カーチェイス」と「コップ噛み」

あのカーチェイスシーン。何だかあそこだけこの映画から抜けだしそうな別物感。雨の夜。暗い中の高速道路内でのカーチェイス。結構長尺使って。もうカメラの位置もくるくる変わって。火花。衝突。衝撃。そして爆発。危ない危ない。面白い。

そして「コップ噛み」

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痛えええ。そして。地味にやけれど、目の前でやられたら間違いなく引くし、狂気しか感じない奇行。
あの映画の中で当方が唯一市長と同じ表情をしてしまった瞬間。

そしてあのコップ噛みを皮切りに。怒涛の最終どんちゃん騒ぎへと繋がる訳ですが。

「あれやな『キャビン』」

最後の最後。ドリフターズの「ドーン! チャンチャラランチャチャンチャラランチャ」と賑やかに全員飛び出してきてもみ合う感じ。わちゃわちゃ感。

その中で。愛すべきサイコパス市長のカメレオン演技が光り。哭声パパ検察官の「お願い!そこには跪かないで!!」という悲鳴と。主人公と舎弟の美しいお別れ会。もう盛沢山。お腹一杯。

映画を観た後で。当方の前を歩いていたご婦人達が。「まあ…ああいう終わらせ方しかないよね」とため息を付いて。その後ろで薄っすら笑顔の当方。

後、余談ですが。

韓国映画を幾つか観て。「韓国料理が食べたい!」「今食べたい!」と韓国料理欲が高まって…抑えられず。

先日、大阪鶴橋(コリアンタウン)に急きょ行ってきました。

「違う!あれやであの『白米とスープ。後はキムチとナムルとなんか一品料理が銀色の皿に無造作に並んでいる屋台定食』下手したら食べている途中でひっくり返されたりする韓国映画飯!」一応観光客を視野に入れている街なんで…そんな素朴で無造作な定食は存在せず。

ベタにチヂミとかサムゲタンとか食べて、それなりに欲は満たされましたが。

今後とも。韓国映画を楽しみつつ。そこに出てくる料理にも注目し続けるであろう当方です。

映画部活動報告「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」観ました。

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「妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。」
昨年日本公開された「永い言い訳」と同じテーマを扱ったアメリカの作品。

30代のエリートサラリーマンの主人公。美しい妻と二人暮らし。子供はなし。二人の間はマンネリ化してはいるけれど、特に不仲ではない。
ある日。二人の乗った車が事故に遭い。妻は死亡。一人残された主人公…なのに。

「妻が死んでも涙が出ない。妻を想っていたはずなのに。自分は一体妻を愛していたのか」

自身に戸惑い。そんな時。義父からの「心の修理も車の修理も同じ。まずは隅々まで分解して、そして組み立てるんだ(当方意訳)」という言葉に。
身の回りのあらゆるものを解体し始める主人公。しかしそれは「再び組み立てる」事は出来ない、最早破壊行動で。

そうやって物理的に。そして思い出も自身の気持ちも破壊した時。主人公の元に残るものは。

ナイトクローラー」で不気味なギョロ目を演じたジェイク・ギレンホールが。すっかり矛先を変えて。でもやっぱりどこか異常性を持った主人公を好演した。

これねえ。非常に評判が良いんですね。「名作」「共感できる」「しみじみと心に染みわたる」云々。
兎に角、作中に起きている物騒な出来事も。繊細すぎる心情の移り変わりも。柔らかく、柔らかく丁寧に描くんですよ。

つまり…何を言いたいのかと言うと「睡眠不足で。尚且つ食事を取った直後に鑑賞してしまうと、下手したらまったりしすぎて寝る」危ない作品。

寝入ったりはしませんでしたが…正直まったりしてしまった場所もあった事を、初めにお詫びします。絶対に浅い観方しかしていないと。

言い訳は以上なんですが。

絶賛の声が巻き起こる中、どうしてももやもやとしてしまう当方。何故なら、当方は正に「失ったモノを思ってすぐ泣く」「おいおい泣く」という性質があるからですよ。元々から涙もろいし。

この主人公からした義父、義母。そして周りの人間たち。その分かりやすい悲嘆。涙。そして彼らの連帯感。

主人公の、「そこに交われない自分が居る」という違和感。疎外感。それ、決して批判も非難もしません。当方は。ですが。

「そうやってすぐ泣いて。抱き合って痛みを共有しようとする人間だって、決して物事をすぐに受け入れている訳では無い」
プロトタイプを侮っているんじゃないよと。憤る当方。

アメリカの精神科医。『エリザベス・キュブラー・ロス』
彼女の超有名な1969年発表の著書『死ぬ瞬間』そこで語られる「死の受容モデル」所謂、死を告げられた者が辿る5段階の流れ。ざっくりと言うと。
『否認と孤立』なんで自分がこんな事に!もう自分は世界から取り残された。ひとりぼっち。
『怒り』ちくしょう!なんでこんな事になった! 
『取引き』何かをしたらこの現状から逃れられるんじゃないか 
抑うつ』あかん…抗われん
そして『受容』
これは主に「死を告げられた者」が対象とされましたが。「死を告げられたものを持つ家族にも当てはまる」と言われる死の受容モデルなんですね。

どちらかというとこの作品に於ける義父や義母に近い当方。でも。愛する娘を失って、直ぐに抱きしめ合って泣いていたとして。あっさり『受容』まで行きついている訳では無い。ただ…そう見られやすいというだけで。

始め。所謂「妻を失った夫のあるべき姿」を主人公は非常に意識している。つまり、「愛するものを失った時の、人のあるべき姿」というフォーマットを固定しすぎているから混乱するのだと当方は思いました。

エリートサラリーマン。毎日同じ電車に乗って通勤して。会社はそつなく仕事をこなし。素敵な家に帰れば、美人の妻が居て。そんな日常の中から妻が退場した。その時、自分の立ち居振る舞いはこうするベきだと。フォーマットは承知。でも…そんなシステマチックに人の心は付いていかない。

じゃあ自分はどうすればいい?この作り上げた今の自分から。どこまでが本心なのか?そしてどこまでが作り上げた虚像なのか?
どこを削り落とせば、自分の本当の姿が現れる?どれが飾っていた生活?心は?本当の自分は?本当にやりたい事は?

義父の語った「修理するためには分解しろ」でも主人公のやっているのは分解では無く解体。最早組み立て不能。身近なものから住処まで。観ていた当方が震える位に、色んなものを破壊していましたが。

「モノを壊すというのは正にメタファーなんよな。どれなら直せるとか直せないじゃない。こうやって余分なモノを破壊していった時に、主人公には何が残るのか。それが主人公なりの受容につながっていく」

妻を失ったことで突然露わになった今の自分。感情が沸かない。何でこんな事になっている。妻を愛していなかったのか。俺は人でなしか。そして破壊。己を削ぎ落とす日々。そして徐々に落ち着いていく、その先に見えるもの。

また。そんな不安定な主人公の傍に居たシングルマザーとその息子。絶妙な親子。
薬物が手放せない。男に常に依存しているシングルマザー。でもそんな彼女と主人公は男女の仲にはならない、あくまでも心の友というスタンスの好ましさ。
「ゲイなんじゃないか」と悩む、引きこもり寸前の息子。(またそんな彼に対するアドバイスが…正直な感じで偽善感が全くない)

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ただひたすら削ぎ落としていく日々で。この親子は柔らかく導いてくれる。
決して主人公が全てを破壊しつくて、無くなってしまわないように。

「雨の日は君に会えない、晴れた日は君を想う」

当方はなかなか素敵な邦題だと思いましたがね。

シンプルな自分になった時。大仰じゃなくていいんだと。「妻と居た日々」それを思い出して。ただそれでいい。他愛もないエピソードの、そのキラキラした感じ。ふっと頬を緩めてしまう、懐かしい…でも絶対に二度とそんな日は戻らない。妻はもう戻らない。

誰かを想うという事。悲しみをどう感じるのかという事。誰とどう共有するのか。共有出来ないのか。誰とも感じ方を比較をする必要は無くて。そして誰の感じ方も否定する意味なんか無くて。

悲しい事、辛い事はいつの間にか時間が解決するけれど…その時間には個人差がある。

ただ。その過程をないがしろにしてはいけない。「自分はこうやって乗り越えるタイプ」と決めつけて、端折ってはいけない。

亡くなった妻を。そしてかつての自分を。丁寧に丁寧に弔って…主人公は前を向いたという解釈で。当方は閉めたいと思います。

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映画部活動報告「愚行録」

「愚行録」観ました。

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貴井徳郎の同名小説を石川慶監督で映画化。

エリートサラリーマン。美人妻。一人娘。理想的な田向一家を襲った、一家殺人事件。犯人は未だ捕まらず、事件は迷宮入り。
事件から一年。雑誌記者田中は再び事件を調べ始める。聞き込みに向かったのは、田向と同じ会社に勤める田向の同期。妻友希恵の大学時代の同級生。友希恵の大学時代の彼氏。田向の大学時代の彼女。
彼らからの話によって浮かび上がる「理想の夫婦」の違った人間性。その闇。

「胸糞悪い…」非常にどんよりとする作品。

人って、こんなにも悪意に満ちているのか。どいつもこいつも嫌な話しか持ってこない。

初めの。田向と同期の渡辺の語った「新人OL山本さん」のエピソードで。「田向最低。そして渡辺もだ」と、彼らの人間性に見切りを付けた当方。
大体、男の語る「俺あいつと酔ってやっちゃったんだけどさ~」には鉄拳制裁を食らわせたい気持ちで一杯になる当方。気分が悪過ぎるし、しかもこいつらに至ってはおそらく「山本さん、エロいで~。すぐヤれる。でも面倒くさい」「マジで?俺もやりたいな~」のノリで。新人の山本さんの恋心をいとも容易くコントロール。田向から渡辺に気持ちを動かして、ちゃっかり頂いて。
二人で口裏合わせて、いかにも「俺らが山本さんに手玉に取られた」という体裁を繕って。そして最悪な事に、もう随分昔のそんな話を、若かった時の苦い過ちでは無くて武勇伝みたいに語る渡辺。

「お前たちは万死に値する」険しい顔でつぶやく当方。

以降も。「夏原さん(友希恵の旧姓)は綺麗で気さくで皆から一目置かれていましたけれど。でも彼女は誰も救わないし、欲しいものを手に入れる為には人を陥れるんですよ。(はっきり言って性格悪いんですよ)」「田向さんはすがすがしい位に利己的で傲慢でした」エトセトラ。エトセトラ。

「誰からも愛されない、田向夫妻。恐ろしい…」誰も良い風に言わない。普通、死んだ人をそんな風に言うもんかね?分別のある大人が。
また。そういう嫌な話をさも被害者面して語る相手達の表情の醜さ。臼田あさ美市川由衣のお見事感。どちらもこれまで見たことが無かったキャラクターを生き生きと演じておられました。

「そんなことしたら、畳の上じゃ死ねへんで!」当方の妹が、ニュースなんかを見ていてよく言う言葉なんですが。

「まあ…そういう過去というか。自分本位故に周りを蹴落として傷付けたりしてきたことのツケが回ってきたという事なのか…因果応報という」

(余談ですが。妹の寿命が尽きる時。もし当方が存命であった場合は、彼女の体の下に畳を敷いてあげる約束をしています)

そして、彼らにインタビューする、雑誌記者の田中。

「何でもう誰もが興味を失った事件を追うんだ」「まあそう言うな。あいつは今違う事で頭を切り替えたいんだ」田中に文句を言う同僚に、上司が諭すように。
田中の妹光子が自分の娘に対する幼児虐待で逮捕されたという現状。何回も接見し。弁護士と話をし。
田中と光子もかつて虐待されていた事と、光子の不安定さから精神鑑定を受ける事になった光子。

一見、そんな自身の現状から目を逸らせる目的で仕事に没頭しているように見える田中。しかし、彼がこの事件に拘るその本当の訳は。田中の抱える現実と、終わったはずの事件。その二つが交差する時。

まあ…正直、田中兄妹に関しては想定内過ぎて特に驚く事は無かったです。
満島ひかり演じる光子。満島ひかりはすっかり演技派女優。流石の熱演でしたが…何か…何か(小声)光子はちょっと違う感じがする。
夏帆…かな」脳内で夏帆に置き換えてみたら。結構インパクトありますよ。
一から十まで「まあそうなるんでしょうな」の連続。ですが。

「その結び付けは強引すぎる」
何故そこに光子が絡む。無茶すぎる。そしてあの兄妹には指紋が無いのか。日本の警察は無能か。
大風呂敷の畳み方が雑すぎて…おいおいと引いてしまう当方。

結局人間の嫌な所を散々見せられて。救いも無く。どんよりとするばかり。誰も幸せにならない。

ところで。この作品において特記するべきは「映像の美しさ」

石川監督がポーランドにかつて留学されていて。この作品の撮影監督がポーランドの方なんですね。硬質な雰囲気というか。青のトーンが強いというか。雨のシーンの水滴なんか、兎に角綺麗で美しい。全体的にクールで落ち着いていて、日本映画特有の湿度が高い感じがしない。

まあでも。話は相当にどんよりしますが。

「確かに『愚行禄』の看板に偽りなし」でも。

彼らだって、誰かからは愛されていた。
人は見方によって幾らでも多面性に溢れるけれど。妻に。夫に。娘に。妹に。兄に。愛して愛された経験だってある。嫌われ者や人でなしも。誰かにとっては大切な人なのかもしれない。

他人を悪く言う時、己の顔も気持ちも醜いものに変わる。それは嫌だから。当方は嫌だから。誰も救われないし。

何事に於いても。誰に対しても。ただ否定するのではなく。どこか一つでも良い所を見つけようと。何故かそんな事を思った作品でした。

映画部活動報告「哭声/コクソン」

「哭声/コクソン」観ました。

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当方の韓国映画鑑賞作品オールタイムベスト「チェイサー」のナ・ホンジン監督作品。

とある田舎の村。平和で穏やかな村に突如巻き起こる連続猟奇的事件。続けて起きる一家惨殺事件。それはいつも家族の誰かの犯行で。しかし捕まえた時彼らは共通して奇怪な皮膚病に犯され、最早言葉も交わせない狂人となっている。
同じ村に住む警察官の主人公。事件を担当した主人公の耳に入る不穏な噂。「これはよそ者の仕業だ」
少し前に村に越してきた日本人。その怪しい挙動。
半信半疑であった主人公。しかし、主人公の一人娘にも同じ症状が出始めた事で、追い詰められていく主人公。そして主人公と村の人間の疑惑は一気に加速し…。

國村隼が、なにやら韓国で大変な事になっているらしい」昨年末位でしたか。当方の耳にも届き始めた「韓国での國村隼フィーバー案件」
「韓国で名誉ある賞を貰ったらしい」「韓国人は國村隼を見たら、怖いと泣くらしい」何だ何だ。

(「冷たい熱帯魚」のでんでんを思い出しました)

日本映画では足元にも及ばない。本気の「エロ、グロ、バイオレンス」と叩き出す韓国映画で。まさかの、日本を代表する大御所カメレオン俳優國村隼がやってくれたと。「あ~んな隼。こんな隼。そんな隼。みんな隼!」もう…期待値が半端なくて。

「もう~い~くつね~る~と~」と指折り公開を待って。満を持しての「哭声」鑑賞!…後の当方。

「これ…藪の中案件やんか。凄い座りが悪い…」

村で起きている事象はシンプル。「村の者が己の家族を皆殺しにする」「同じ事件が続けて起きる」「犯人は共通して皮膚病に侵され、最早人外」
なのに。村の住民の不安は雪だるま式に暴走。
「どうしてこんな事が続くのか」「こんなの、人間の出来る事ではない」「誰の仕業だ」からの「今まで見たことが無かったあいつ」「あいつが村に来てからおかしな事が始まった」「あいつのせいだ」「あのよそ者のせいだ」そして向けられる『よそ者』への憎悪。

そこで言われる「よそ者」こと「日本人=國村隼

「そりゃああんた、疑われるわ」危ない國村隼、炸裂。

裸に褌スタイルで野山を走り回り。生肉をワイルドに実食。そんな川口探検隊で茶化されかねない國村隼を見せたかと思えば、殺人現場野次馬部隊にはもれなく参加。「YOUは何しに韓国へ?」と聞かれそうな謎の生活スタイル。隼の建物探訪では、渡辺篤史も誉める所を見出だせないようなマニアックルームを所有し。

「そりゃああんた、疑われるわ」やっぱりもう一回言うしか無くなる当方。ですが。

この作品のタチの悪い所は、國村隼を真っすぐ悪者にはしなかった所。

悪意を持って。先入観片手に相手を見たら、もう相手が何者かという実態を見抜く事は出来なくなる。
肉体を持ち、思想を持つ相手を「悪魔だ」とこちらが断定してしまったら。もうその相手は「悪魔」にしかならない。「人間」ではなくなる。

この作品に於いてのキーパーソン「國村隼/よそ者」「祈祷師」「白い服の女」

主人公を初めとする村の人々は、ただただ混乱の中にあって。もう誰も冷静に物事を判断する事は出来ない。兎に角彼らが望むのは物事の収束と自らの家族を守りたい。その一心。だからこそ一刻も早く物事の首謀者を見つけ出したい。その切羽詰った気持ちの向かう暴走。

「しかし…当方が國村隼の立場だったら…」険しい顔で想像する当方。余談ですが。
言葉の通じない国の片田舎で一人住んでいたら。村の男達が猛々しい雰囲気で何度も自宅を壊しに来る。プライベートルームに踏み込まれる。愛犬を殺される。しかも彼らの先頭に立っているのは地元警察官。

「絶望しかない!」誰かを呪う気持ちも、ましてや救う気持ちもしませんよ!当方なら!

話の序盤。ただの臆病者と描かれた主人公。しかし、主人公の一人娘も件の殺人犯達と同じ顛末を辿って行って。その不可逆的な変化に対し、必死で抗おうとする主人公と家族。(しっかし、韓国の子役のポテンシャルの高さよ!)

「悪いものが憑いているから、祈祷して貰おう」

韓国の祈祷って、あんな感じなんですかね?
テンションの高さに目を見張るばかりの当方。(比べて我らが國村隼も謎の護摩行を繰り広げていましたが)当方ならご近所さんへの騒音が気になっておどおどしてしまいますが…庭にもデコレーションして、大騒ぎ。あの祈祷合戦と娘の四転八倒はこの作品の中でもピークの見物でした。

そうして最悪の展開を迎えた。と思いきやの二転三転となって。座りの悪いラストへと突入するしかなくなるのですが。

ナ・ホンジン監督がこの作品の答え合わせを(良くも悪くも)放棄して手放している…と当方は思いますので。もう、個人が各々好き勝手言うしかない。と感想を纏めると。

あっさりとした見方を言うと「あそことあそこが最終的にはグルなのかな」と初めは過りました。ですが。

「結局は『藪の中』だよ…どの視点から見るかであの3人のキーパーソンの役割は変わってしまう。天使か悪魔か。でも誰がどの立場でもおかしくない。そしてその二つしか役割が無いとは思えない。でも。そういう当てモノを追及する話では無くなっている。寧ろあの3人では無くて。見る者の心持ちを訴えているのではないかな…」

主人公を初め。村人たちは家族が壊れていく様を目にして。前例もあるし、家族がどういう顛末を辿るのかは想像出来る。そこから。必死に守りたい。家族を。愛する家族を。その為には何が出来る。

でもその必死さは、却って物事を迷宮入りさせてしまう…。そしてもう戻らない。家族も。平和で穏やかな村も。

目の前にある悲惨な実態。何のせいにすればいいのか分からない。結局解決しない。そして残される「何かのせいにした自分」疲労と虚無感。

得体のしれない、天使だの悪魔だの。そんなのは結局意味がない。


「キノコが犯人という説もある…」真顔で嘯く当方に「キノコ の子の子の子 元気の子!」と楽しく行進していたエリンギ、マイタケ、ブナシメジが驚愕。そんなおどけた犯人像もある。
まあ、重苦しいばかりでは無くて。意外とコミカルな所もあるこの作品。「Z!」と思わず笑ってしまう韓国・ウォー・Zも楽しめたり。

そしてやっぱり。日本では見れない國村隼も見れますし。

今後。日本映画でどんなに穏やかな國村隼を見たとしても、このよそ者=國村隼を思い出すだろう。そんな「哭声/コクソン」でした。

映画部活動報告「ナイスガイズ!」

「ナイスガイズ!」観ました。

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1977年。ロサンゼルス。
妻を亡くしてから、酒に溺れるダメダメな私立探偵のマーチ。13歳の娘と二人暮らし。
かたや示談屋のヒーリー。特に未成年に対する規律を重んじる彼。未成年をたぶらかし、泣かせる悪い奴は許さない…でも、その手段は鉄拳制裁。
アメリアという少女の行方をめぐって、無理矢理ヒーリーにバディを組まされたマーチ。そして何かと付いてくる、マーチの娘ホリー。
どちらもボンクラ。でもスペシャリスト。腕が立つんだか立たないんだか…でも憎めない。寧ろこのバディが段々好きになってくる。
中年二人がキュートな少女に振り回されながら。まさかの巨大な敵と戦う事に…。

「こういう映画が観たかった」

映画館で。しみじみそう繰り返し思う当方。

「何か最近。高尚やったり、泣かせたり、ややこしいトリックやら、派手なアクションや映像。きっちきちの辻褄やら。そういう事に気を取られ過ぎていた。でも…こういうのを求めていた。何にも考えなくていい。でもきっちりと纏まっている。こういう丁度良い映画を」

「ラ・ラ・ランド」で多くの民を泣かせたライアン・ゴズリング。そのチャーミングさ爆発。お馬鹿キャラ全開。

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(この序盤のトイレシーンなんて、ニヤニヤが治まらず)

これ、間違いなく「ラ・ラ・ランド」の後に観ないとあかん映画。じゃないと「セブ何格好付けてんだ」と違う見方をしてしまう羽目になりそうです。

兎に角、ライアン・ゴズリングがキャーキャー騒ぐ。びくびくする。そして不死身。酒にべろべろに酔って、ちょっと女に対してもだらしない。でも。

娘のホリーには頭が上がらない。娘が大好きで。そしてホリーも何だかんだ言いながらダメなパパが大好き。

「何なんだよ。このキュン死しそうなキャラクターと親子設定は…」

そして既に瀕死の当方を仕留めたのは「暴れん坊のラッセル・クロウ

完全に、森のくまさんビジュアルのラッセル・クロウ。拾った白い貝殻渡す優しさがあるのに、逃げろと言ってしまう凶悪さ。(そんな下りはこの作品内にありません。一応)
兎に角強い。成人男性の手首をへし折る、取っ組み合い、殴り合い、銃撃戦も基本的には制覇。なのに、その衝動原理は「正義感」そのちぐはぐさ。

「お馬鹿なライアン・ゴズリングと暴れん坊のラッセル・クロウ。二人の獣使いが13歳の少女…至福すぎる」

お話自体は結構込み入っていて。ただ、冒頭の「父親のエロ本を読もうとしていた少年→自宅にアメ車激突→そのエロ女優の登場」の下りに「悪くなるはずが無い」と確信する当方。

その死んだはずのエロ女優について調べていたマーチ。そこに関わっていると思われた「アメリア」という少女。
また別口からアメリアの身を案じてマーチに近づいたヒーリー。
二人で探す事になった「アメリア」
でも、彼女を追うにつれて、とんでもない事態が止めどなく発生。次第に姿を表す、アンタッチャブルすぎる黒幕…。

途中のんびり眠たくなる暇なんて無い、チャキチャキとした展開。
怪しそう…誰が本当の事を言っているのか…なんて観ている側からは殆どなくて、正直に見たまま話は進む。なのに二人が騙されるのもご愛嬌。

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兎に角二人の掛け合いが楽しすぎて…もう、うれしい!楽しい!大好き!
ずっと見ていられる。でも。そんなコメディ要素ばかりでは無い。

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アクション…というか、兎に角物が壊れる壊れる。
車は大破。死体は文字通りパーティー会場をぶち壊し。家は蜂の巣。木は切り倒され。ガラスは割られ。もう行く場所行く場所大惨事の木っ端微塵。しかもおそらくほぼ人力。CGで作らない(多分)。気持ちいい。

そしてアメ車。
どうやら日本車に乗っ取られているらしい、現在のアメリカ車産業。その陰りを見せる寸前の1977年。イケイケで。なのにこいつらは後数年で自然とその席を奪われる。
この作品は、ただの小気味良いバディものでは無い。
往年の70~80年代の映画作品の流れを踏襲しているようで。でも、その時代の後にやってくるアメリカ(と言うか全世界的な)停滞を知っているから。どこか物哀しい気持ちにもなる。

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何時にも増してふんわりとした感想文。だって…ちょっとでも突っ込んだらすぐにネタバレしてしまうから。ただ。

「多分この作品。嫌いな奴は居ない」

先日。仕事を共にした人。
「友達にラ・ラ・ランドを凄く薦められているんですよ。でも気が乗らなくて…」
「そうですか。ラ・ラ・ランドは凄く良い作品ですし、当方も二回観ました。サントラも持っています。とてもお薦めですが…合う合わないがありますね。そんな貴方に」
胸を張って続ける当方。
「ナイスガイズ!お薦めします」
「え?それ一言で言ったら、どんな映画?」
「一言!…一言で言えば、古き良きアメリカ映画かと」

行ってみると言ってくれた件の人物。

是非。既に上映回数が減っていると思いますのでお早めに。

後悔はしないと思いますよ。

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映画部活動報告「お嬢さん」

「お嬢さん」観ました。

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復讐者に憐れみを」「オールド・ボーイ」「親切なクムジャさん」の「復讐三部作」等でお馴染み、パク・チャヌク監督の最新作。

サラ・ウォーターズ作「荊の城」の舞台(イギリス)を、日本統治下の朝鮮に置き換えて。

韓国映画のR18指定。日本映画とは比べ物にならない、本気のエロ・グロ・バイオレンス。今回はエロに思いっきり振り切った作品。
そうなるとやっぱりこちらの方を招聘せざるを得ません…当方の心の男女キャラ。昭(男)と和(女)。さあ、どうぞ。

(和)こんにちは。今日は私和と昭さんで、知のサロンからお届けしたいと思います。
(昭)こんにちは…って俺はホンマに嫌なんや!こういうエロ案件は!俺は知のステージに居たいんや!
(和)この下り、以前の当該ブログ「14の夜」でもさせて頂いたので割愛しても良いですかね。下らない掛け合いに時間を取られたくないんで。一応、あくまでもこの作品に対して淡々と感想を交わしあう内容で進めさせて頂きますんで。そんな、昭さんが心配するような展開にはならないと思いますよ。
(昭)信じられない…全然安心できない…(小声)

(和)日本が朝鮮を統治していた時代。それ、日本からは絶対に持ち出せない設定なんですが。そんな時代に。日本人「藤原伯爵」に成りすました朝鮮人詐欺師にある話を持ち掛けられる主人公のスッキ。5歳で日本から朝鮮に渡って、現在天涯孤独の「秀子お嬢様」。彼女の持つ財産は魅力的。でも、彼女は叔父である上月の元に嫁いでしまう予定。彼女をモノにして結婚し、日本に渡った後適当な所で施設にでも放り込んで、彼女の財産を奪いたい。
でも、今は秀子お嬢さんとは全く面識がない。だからスッキが侍従として秀子お嬢さんに近づいた後、俺を好きになるように細工してくれという内容。
貧乏で。ピカイチのコソ泥。朝鮮人の赤ちゃんを日本人に引き渡すなどの裏稼業を営んでいたスッキは、報酬目当てにその話に飛びついて。
嘘の紹介状片手に、「珠子」として秀子お嬢さんの元に潜り込んでいく。

(昭)日本人云々という設定が多いのもあって、全編に渡って日本語がよく使われるんやけれども…正直「日本人」という設定であるはずの「秀子」も「上月」も。そして日本人「藤原伯爵」と名乗っている彼も。皆日本語がたどたどしいんよな。
(和)そりゃあ、これ日本の役者で出来る者なんて居ないよ…と言いながら。世代を全く無視したとして、誰がどの役にフィットすると思いますか?…じゃあ私から!『珠子』池脇千鶴。又は安藤玉枝。
(昭)ええ。唐突。大体、珠子は日本人に置き換えなくてもええやん…『藤原伯爵』斎藤工
(和)斎藤工…近年のエロ担当でありながら、コミカルな演技も出来そう…『上月』岸谷五朗。又は香川照之
(昭)後『秀子お嬢さん』しかおらんやん…これ…難しすぎる…ちょっと後にして貰っていいかな。この当てもので延々やってもあれやし…。

(和)この作品は3部構成で成り立っているんですよ。
(昭)原作未読なのもあって、完全に1部はそのまま追っていた。だから最後「ええ?」ってなったな。どういうことかと。
(和)その説明がなされるのが2部。でも、そこで安心出来ない。寧ろ一回鮮やかに引っかかったから疑ってしまう。「一体誰が本当の事を言っているのか」「誰を騙そうとしているのか」…ちょっとちぐはぐな所もあるけれど…まあ…それは言わんとく。
(昭)そこで地味に効いてくるのが秀子お嬢さんが出会った時に言った「絶対に嘘を付かないで」(細かい言い回し失念)なんやけれどもな。でもあのお嬢さんが隠している案件の方が凄まじいけれど…。
(和)そして怒涛の3部。1部、2部の「あれ?」と思いながらも受け流した小さな事に全て背景が付けたされていく。そして話はまさかの「愛」につき動かされていく。このプランは一体誰の為のものであったのか。これで自由を手に入れられるのは誰なのか。
(昭)そう言ったら何か感動モノやけれど…やっぱり全体的にコミカルなんよな。
(和)それははっきり言って、エロが突き抜けすぎているからですよ。
(昭)うわ来た。

(和)我々が日本人だから?他の言語や文化を知らないから?この作品で描かれるエロは多分…「男性目線の性癖の馬鹿馬鹿しさ=コミカル」と「女性目線の性業の深さ=大切なもの以外には徹底的に冷酷」という二つなのかと感じたな。
(昭)確かに。この作品のセンセーショナルな点である、過激なエロ描写。それは「隠語をばんばん言わせたり、変な朗読会やらの男の欲望」と「互いを確かめて、大切になっていく女同士の交わり」という全く相反するモノだったな。
(和)男たちの欲望に合わせて。おかしな事をし続けていた日々。でも。そこから抜け出すときに。まさか見つけ出す、本当の愛。
(昭)あの本編から。まさかのこのまともなこの展開。

(和)ところで。ああいうエロ朗読会って。実際にワクワクするものなんですか?
(昭)やめろよ!昔飲み会でも初対面の男性に「同性間でも引く性癖」聞いていたけれど。あの時言われたやん「数多の性癖が存在しているから、どれもこれも仕方ない」って。性癖ってもう分からないんだよ。
(和)昔お笑いの集いみたいなので「エロ小説を朗読してみる」みたいなの聞いてしまった事があったけれど。よっぽど集中して世界に入らないといけないんでしょうか。ただただ引いてしまった事がありました。そして、幼い子供に隠語を大声で言わせる事は面白いんかなあ?
(昭)止めて!止めて下さい…。
(和)ただ。隠語の破壊力。特に日本語の隠語って単純で。一気に笑いに踏み切れる感じ。凄いと思ったな。
(昭)こういう展開が怖かった…だからこのコントには参加したくなかった…。
(和)女子の絡み。しっかりしていたけれど…。
(昭)(深呼吸)「アデル、ブルーは熱い色」の時も思ったけれど。女子の絡みを映画で綺麗に撮ろうと思ったら、肌の質感が必要なんよな。特に今回はアジア人特有の肌のキメ細かさ。肌がしっとりとした感じ。全体的な湿度が高い感じ。頬が上気した感じ。生々しいようで、どこか完全に作られている。男性側の性欲が完全に張りぼてで笑いに落とし込まれたから尚更、彼女達の性は綺麗でじっとりして…でも説得力を持っていったんだよ。
(和)おいおい知のステージどこ行った。
(昭)男なんて所詮(ピー:当方の配慮)(ピー:当方の配慮)言ってワクワクする程度なんだよ。結局俺たちは(ピー:当方の配慮)が守れたって安心しながら死んでいくようなもんなんだよ。
(和)おいおい。何も分からないよ。
(昭)俺は初めてあの金属鈴が出てきた時も。あの紐が出てきた時も。何となく用途が分かっていたんだよ。(紐は太すぎるけれど)。嫌な予感しかしなかったんだよ。なのに女同士で結託して愛をはぐくんで。男はただの馬鹿って。馬鹿って。女って。女って。
(和)何だ何だ。もう…分かったから。訳分からんけれど…分かったから。

(昭)後あれな!俺の考えた『秀子お嬢さん』高橋マリ子
(和)うわ。本格的マニアック美少女が来た。

非常に二人が頑張ってくれた所で。話を切りますが。
この「日本人なら~」は想像すると楽しい反面、やっぱり日本人ではこの作品は作れそうにありません。

おかしな展開も、おかしなあれこれも沢山。歪で。パク・チャヌク監督作品としても飛び出した感じもある。でも。

何だか下手したらややこしい事を言われそうなこの作品。
公開してくれて、(一部の国では公開されなかったみたいですし)鑑賞出来た事を有難く。
そして、面白いものが観れたなと思いました。

映画部活動報告「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」観ました。

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「夢を見ていた」

ロサンゼルス。女優をめざすミアと大好きなジャズの店を持ちたいセバスチャン(セブ)。
冬に出会って。春に再会。恋に落ちて。楽しかった夏。でも。互いの夢に向かっていく時。すれ違っていく秋。そして冬…。

往年のミュージカル映画を彷彿とさせ。正直、話だって目新しいテーマじゃない。なのに。なのに何故こんなに当方の心のやらかい所を締め付けるのか。

(昭)これは本当はR指定作品なんよな。それもR30位。話に嵌る嵌らんは、結局は個人差の問題やけれど。これはまだ自分自身がいくらでも選択出来て可能性に満ち溢れまくっている世代にはあんまり…な作品やと思う。でも…歳を重ねた者からしたら…もう堪らんくて。涙が。今も涙が。

おっと。当方の心の男女キャラクター昭(男)と和(女)の昭が。待ちきれず飛び出してきましたが。
…まあ、この体で今回は進めていきたいと思います。(因みに、ネタバレになる所は幾つも出てくると思います。先にお詫び致します)

(和)シェルブールの雨傘。ライムライト。そういうのを想像したなあ。何て言うか…覆水盆に返らず。と言うか。
(昭)あの時ああしていたらどうなったのか。そう思う事って、多かれ少なかれ誰にでもある。でも結局「あの時」「こう」選択をして、だから今の自分がある。「ああしていたら」は無いんよな。存在しない。分かっている。でも…。
(和)凄く言いたいことが決まりきっているんやろうけれど。ちょっと不親切すぎるから、他の事も話していいかな。
(昭)どうぞどうぞ。俺は胸に押し寄せる甘い奴とかを噛みしめておくから。

(和)(無視)あのオープニング。最高やったね。
(昭)あれな!何かが始まる感が半端無かった!お話事体には絡んでこないけれど。自分の映画鑑賞史上トップクラスのオープニングやったと思う。
(和)あのオープニングとその次のパーティーのミュージカルシーン。あの二つは独立してるように感じた。いかにもなミュージカルシーン。その華やかさ。衣装も基本原色で鮮やかやし、見ていて楽しくなる。

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それが、二人が出会ってからはちょっとずつ変わってくる。坂で踊る奴は素敵。天文台の奴なんて甘々。でも、話が進んでいくにつれて衣装もナチュラルな感じに変わっていく。最後のミアの歌なんて何も飾っていなかったし。
(昭)そして、あの問題のシーンが来る訳ね。
(和)先を急ぐなあ。まあ、あのシーンが興冷めやった、蛇足やったという声は多いからなあ。
(昭)確かに「そこは言わんでも。自分で想像したいんで」と思うのも分かる。バラエティー番組でCM明けにまた一から説明されるムカつきみたいな?でも…滅茶苦茶泣けたけどな。自分は。
(和)初めは明るくて楽しいミュージカル。でもそれは楽しいだけの絵空事で。話が進むにつれて、二人の世界が変わっていく。夢が絵空事でなくなっていく時、音楽はトーンを落として…寄り添うものになっていく。だから切なく終わってもいいんやけれど。でも言いたかったんちゃうかな「これはミュージカル映画だ」って。
(昭)どういう事?
(和)あの賛否両論のシーンは所謂「たられば」やけれど。「夢」が現実になった時、二人で生きていくという事が「夢」になったんよな。その叶わなかった方の「夢」を「いかにもなミュージカルシーン」で表してみたら。あのシーンが茶番にしか見えなかったとしたら、それは狙い通りなんやと思う。茶番なんやから。そういう所に二人は来たんやから。切ないけれど。
後は、単純にこれまでのミュージカル映画へのオマージュと賛辞とセットリストなんやと思うけれど。

(昭)「運命の人」という言葉の意味。同じ夢では無いけれど、志をもつ男女が出会って。惹かれて。自然と恋に落ちる。でも…この二人にとっての「運命の人」は「夢に向かう後押しをしてくれる人」やったんよな。
(和)それは恋とは両立しない。
(昭)何で両立しないんだよ!畜生!そういうの、引きずっちゃうんだよ!
(和)そして女は先に進んでしまうんですよ。すみませんね。

(昭)ミアが窓から見ていた景色。それは歳を重ねると共に変わっていく。
(和)初めはふわふわした、漠然とした夢。そこから飛び出して、もがいて。傷付いて。諦めようとして。また窓の内側に閉じこもろうとした。でも。
(昭)自分で言ってたからな。「情熱があれば人は動く」って。それを自らに差し戻した相手。そして新しい窓の前まで一緒に来てくれた。それがセブ。

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(昭)でも。自分はその窓の向こうで手を振って。男ってなあ…センチメンタルなんだよ。そしてその思いだけでずっと生きていけるんだよ。

何だか取り留めが無くなってきましたので。ここら辺で纏めてしまいますが。

公開後。既に2回鑑賞してしまった当方。観る者によって非常に意見の割れる作品だと思いますが。
「こんなに、王道のミュージカル映画を引き継いだ新しいミュージカル映画の存在は貴重」
強くお薦めします。そして。

アカデミー賞作品賞は残念でしたが。デイミアン・チャゼル監督の今後の作品を楽しみにしています。

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