映画部活動報告「娘は戦場で生まれた」
「娘は戦場で生まれた」観ました。
いまだ解決の見えない戦地シリア。
その地で2012年から都市アレッポ陥落までの2016年の間カメラを回した女性、ワアド。
彼女はジャーナリストであり、アレッポに最後まで存在した病院の医師ハムザの妻であり、そして小さな娘サマの母親であった。
「サマ。ママは撮り続けた。この映画はあなたのためよ。」
映画館で見かけた予告編。何だかどえらいドキュメンタリー映画が来るなと、公開初日に鑑賞。
この衝撃をなんと消化すればいいのか分かないまま、時が経ってしまいましたが。
「2020年が明けてから映画館で映画を観た、今のところ最後の作品をいつまでも置いておいてはいけない。」なので。つらつらと書いていきたいと思います。
2011年3月。シリア南部の町で起きた、市民による反政府抗議活動。当時アレッポ大学の大学生であったワアドにとって、それは『自由』を得るための希望に見えた。
ジャーナリスト志望であった彼女は、デモ運動に参加しその様子をスマホで撮影し始める。
しかし。平和を祈る彼女の想いとは裏腹に内戦は激化の一途をたどり。彼女が愛した都市アレッポは次第にアサド政権軍やロシア軍による無差別攻撃にさらされ、昼夜を問わず空爆、破壊された廃墟へと変わっていく。
撮影で知り合った、若き医師ハムザ。廃墟と化していく都市の中に、仲間と共に病院を設立し、治療に当たろうとする姿を追うワアド。二人は恋に落ち、結婚。そして娘のサマ(太陽)が産まれた。
シリア内戦。そこで起きていること。歴史。背景。恥ずかしながら分かっていない事だらけ。当方のモットーとして「知ったかぶりはしない」というのがありますので、そういった社会情勢についてはきちんと語れませんが。
当方の所属する映画部(映画部長と二人)の映画部長が一言。「戦争がクソやという事はひしひしと感じた。」
どうして。どうして。この作品で映し出された映像にその思いが止まらなかった。
何故暮らしていた町が奪われる。大切な人が奪われる。一市民である彼らが、何をしたというのか。(あくまでも市民にカメラが向けられていたので、兵士たちについては当方も不問)
伴侶となったハムザ。彼が仲間と設けた病院。文字通りの野戦病院に、次々と運び込まれる負傷者たち。
ワアドが母親という立場もあってか、子供が映し出される事が多い。それは幼い命が奪われるという痛ましさと泣き叫ぶ家族の姿に、どこかで「もし自分がこの立場になったら…」という心情が付きまっとたからだと思う当方。
「何でなのよ!」子供を失った母親の悲鳴。そしてカメラに向かって叫ぶ。「全部撮りなさい!全部!」。目の前で起きている事は、いつだって自分に起きる事だという…これがアレッポでの現実。まさかこの母親だって、自分の子供を失うなんて思ってもみなかっただろう。
昼夜を問わない無差別攻撃。人の顔が見えないからこそ出来る、空爆という手段。
「病院だから」という配慮など存在するはずもなく。アレッポにあった病院は次々と失われ。最後となってしまったハムザと仲間たちで運営していた病院も被災、転居を余儀なくされた。
この作品は2012年~2016年の4年間を記録しているが、時系列はバラバラで組み立てられている。
ワアドの生い立ち。学生時代。ハムザとの馴れ初め。サマの誕生。確かに舞台は戦地シリアで、混乱に満ちた現場が撮られていた。けれどそれが何故淡々と(?)時系列に並べられなかったのか。
「この作品は娘サマに向けられているからだ。」
あくまでも勝手な当方の推測ですが。ワアドはこの作品を世界に見せる以上に娘に見せたかったのだろうと。
あなたのパパが。あなたのママが。どういう場所で知り合って、どうやってあなたが産まれたのか。空爆で亡くなった同僚があなたを取り上げてくれたの。空爆で眠れなかった夜、あなたを皆で抱いた。あなたは皆のサマ(太陽)だったのよ。
激化する現場。いとも簡単に命が奪われてしまう所から、サマだけでも非難させればいいんじゃないか。最後の砦に居続けなくてもいいじゃないか。そう思うけれど…夫婦はとあるチャンス(という言葉が適切かどうか…)の時、本能的に家族でアレッポに残る決断を下した。
「もし同じ時間を与えられたとしても、同じ選択をしたと思うわ。」「何も後悔していない。」
終盤。そう言い切るワアドに、もう何も言えない当方。彼女達夫婦がそういうのなら、一体誰が何を言えるというのか。
時系列を入れ替える事で、ふいに過る「もしも…」を払拭する。あの時の信念、行動は間違っていない。これが私たちの戦い方だと。タラレバなど存在しない。
「ただ…この夫婦が若かったという強みもある気はする。新しい家族が増えた事と現場の状況(アレッポ陥落)から最終判断に至っていたけれど。もっと早い段階で家族を守るためにシリアを出た人たちだって、決して弱虫だとは当方は思わない(勿論作中でワアドはそういう言い方はしていません)。」
年齢。職業。守るべき家族。譲れない信念というものは立派だけれど、何を優先するのかは個人の自由で。避難されるいわれはない。
皆が皆。愛する者や大切なモノを守るために必死に生きている。
とは言え。自分と家族の命の危険を顧みながら、それでも戦場に留まり治療に当たったハムザを初めとする医療従事者、および仲間や家族たちに敬服の意は忘れず。
「今。彼らはきちんと眠れる夜を過ごせているのだろうか。」
少し話がずれていきますが。
映画はあくまでも映画館で観たい。様々な手段はあるけれど、やはり大きなスクリーンで、知らない人や知っている人と同じ世界を共有したい。
この作品は悲しいシーンが多かったけれど。負傷した、臨月の妊婦から産まれた子供が仮死状態から息を吹き返した時。映画館に居た少ない観客からはいちおうに安堵の溜息が漏れ、胸が詰まった。一体感。映画にはそういう力がある。
映画が好きで。映画館で観る映画が好きだけれど、悲しいかなこの作品以降映画館で映画を観る事は出来ない日々が続いている。映画館の規模の大小に関わらず、どの映画館だってこのまま消えて欲しくは無い。
今出来る事の少なさ。けれど動かない事が最善だというもどかしさ。一体何が正解なのかサッパリ分からない中「今はこれがベストだ。」という悔いのない選択をしなければいけない。丁寧に。
図らずも「私は同じ時を繰り返したとしても、同じ選択をする。」「何も後悔していない。」そう言い切ったワアドの様に。
映画でなければ。ワアドが撮った世界だって知る事は出来なかった。
観たい。観たい。色んな世界を観たい。知りたい。けれど。
また映画を安心して観られる日を迎えるために。安心して生活出来る日が迎えられるために。
少しの間。映画館での映画部活動はお休みです。