ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ダンボ」

「ダンボ」観ました。
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大きな耳で空を飛ぶ象、ダンボ。

1941年にディズニーアニメとして製作された作品『ダンボ』(日本では1954年に『空飛ぶゾウ ダンボ』として公開)を、ティム・バートン監督で実写映画化。

 

「ダンボかあ。これは妹と観ないと。」

 

昔々。当方と妹が小学生だった頃。職場の慰安旅行で東京ディズニーランドに行った母親からのお土産。当方がくまのプーさん、そして妹がダンボのぬいぐるみ。

「プーさんは何となく分かる。けれど何故?何故そのマイナーキャラクターチョイス?」何故だったのかは未だに不明。けれど、以降妹のディズニー押しキャラはダンボ。

(とは言え、元々キャラクターモノに何かをつぎ込む習性の無い当方達は、そこからグッズを買いあさるなどした訳ではありませんが。そもそもそんなにディズニーに馴染みが無いし…蛇足ですが、実は当方も妹も未だにディズニーランドに行った事すら無い…。)

 

1941年製作の前作も何となくのうろ覚え。確か家に絵本があった。そういうレベルですが。「ダンボを観るなら妹と。」

そうして無事、公開翌日に妹と観る事が出来たのですが。

 

映画館を後にしながら。ぼそぼそと語り合う当方と妹。

 

「あの…ダンボってああいう話やったっけ?」「ダンボの母親がジャンボで、ダンボが意地悪されて暴れたから隔離されたっていうのはあったと思う。」「ティモシー(ネズミ)おらんかったな。」「ネズミはいたけれど…ああいうんじゃなかったな。」

 

1941年版も今作も舞台が移動式のサーカスという所は同じ。そこでジャンボという象から産まれたダンボ。さぞ可愛いだろうと皆が期待していたのに…産まれてきたのは耳が異常に大きくて不細工な象だった。

特異な見た目ゆえ、仲間の象から虐められるダンボ。怒ったジャンボは仲間に仕返しをするが、サーカス団長の目に留まり『危険な象』として隔離されてしまう。

 

1941年版では、そこからも鬱々とした描写が続く中。ネズミのティモシーと友達になり、紆余曲折あって(我ながら雑)「ダンボが空を飛べる」という事が分かって。最後無事サーカスのショーで成功したダンボは母親と一緒になる事ができた。という流れ。

 

今作も大まかな流れとしては同じですが。流石にそれでは間が持たない。動物はあくまでも動物。歌ったり喋ったりは無し。その代わり人間達の描写をもりもりに盛り込んで膨らませた。

(注意:以降、感想文の内容的にがっつりネタバレ+観た人にしか分からない仕様になっています。)

 

帰還兵ホルト。在籍していたサーカス団への帰宅。しかし、戦争で左手を失った彼は以前やっていた乗馬ショーには復帰出来ず。団長から『象の世話係』を命じられる。腐るけれど。自身が不在の間に、同じく花形スターだった妻はインフルエンザで死亡。娘と息子を育てていく為には、どんな仕事でも引く受けざるを得なくて。

 

コリン・ファレルが二人の子持ちのシングルファーザーかあ。あの『セクシーの権化』が。」(あくまでも当方がそう呼んでいるだけですよ)

 

まあ。このホルト一家とダンボの交流を軸に物語は進行。

「久しぶりに会った父親と子供達のギクシャクした雰囲気。」「ママなら分かってくれたのに、の盤石のセリフ。」「こんな時、母親が居たら…。」からの。子供達とダンボの交流の結果生まれた「ダンボは飛べるの!」

そして観客の前で飛んだダンボ。大盛況となり、生まれたかったサーカス団に忍び寄る影。やり手の大手エンターテイメントテーマパーク社長。

「こんなドサ周りじゃなくて、うちに来ないか。うちに来たら皆衣食住が確保されるぞ。」

そうしてテーマパークに引っ越したサーカス団だったが。

 

映画公開前に配布されていたチラシや、実際に観てきた記憶。それらを何度も反芻するのですが…どうもしっくりこない当方。

 

「この作品のテーマは…おそらく耳の大きなダンボと対に、戦争で片手を失ったホルトを置いている事からも『姿形に囚われるな。悲観するな。その姿であるからこそ出来る事、輝ける事がある』という所やと思うんやけれど。」

 

「1941年版でも母親を追い求めるダンボ、という構図はあった。だからここは動かせない。けれど…。」映画鑑賞後の妹が言った言葉。「時代なんやろうけれど、動物虐待の描写多いよな。だってナイトメアゾーンって…。」

だからこそ最後、団長の「当サーカスの売りは~」という文言に繋がるんやなとは思いましたが。

「妊娠中にサーカス団に売り飛ばされて、挙句産んだ子供を虐められたからやり返したら隔離されたジャンボにとってはサーカスは悪やけれど。ダンボにとっても同じなんやろうか?」確かに嫌な目にも遭ったけれど…「飛べる!!」と分かってからは結構ちやほやされていたじゃないか。ホルト家の皆とも和気あいあいとやってたし。

 

…上手く表現出来る気がしないのですが、どうも当方には「ダンボとジャンボにのみ救済措置が取られている贔屓感。そりゃあ思い入れの強い個体やから仕方ないのかもしれないけれど。サーカスや見世物にされている動物が可哀想、親や自然に戻せと言うのならばあのナイトメアゾーンに居た動物達も、これまでサーカスに居た動物達にも何らかの措置を取れよ!見殺しか!」というモヤモヤ感。

(そもそもジャンボを業者に売り飛ばしたのはサーカス団長じゃ無かったですか?それが回りまわってあのテーマパークに行きついただけで)

 

そしてホルト家の描写。戦争を挟んだ事で変わってしまった家族形態。失ってしまったもの。けれど家族はまた再生される。もっと強くなれる。…という事なんでしょうが。結局は「おい!子供達よ!新しいお母さんが出来たぞ!」という話。

 

「そしてやり手社長。」

やり手社長の事を随分ボロクソに描いていましたが。そりゃああんなに大きなテーマパークを運営しようと思ったら、口車に乗せてスカウトもしてくるんでしょうし、コスト削減の為に不要な人材のリストラも考慮するでしょうよ。(結局あんな事になってしまうし…取り乱しすぎ。あんなの、おかしいやろう)

 

「そしてサーカス団長。」

何故サーカス団員はまた彼の元に戻れるんですか?確かに一か所『救出作戦』に関わっていましたけれど。団長が団長らしい事をしたシーンってありましたか?(しつこいですが。ジャンボを売り飛ばしたのも、サーカス団を身売りしたのも団長ですよね。)

 

元々は『大きな耳で空を飛ぶ象、ダンボ。』というシンプルなストーリー。そこに『姿形に囚われるな。悲観するな。その姿であるからこそ出来る事、輝ける事がある』というテーマを持たせた。それで十分なのに。なんだかもりもりに盛った部分が邪魔してくる。

言いたい事が沢山あったのかもしれないけれど。結果ごちゃついた印象が否めなかった。

 

「とは言っても、ダンボを見世物にした商業施設が共通して迎える結末。そう思うと、ダンボが通った後にはぺんぺん草も生えない。」「凄いなダンボ。疫病神。」

そう言って。思わず笑ってしまった当方と妹。

 

賛否両論激しかった今作。どちらかと言うと当方は『否』に転じてしまいましたが、一つ。

「ダンボが飛ぶシーン。あれは凄かった。何故か涙が…。」

ただでさえ涙脆い当方の。何かが込み上げた瞬間。あそこは圧巻でした。