ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「フェアウェル」

「フェアウェル」観ました。
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『親族総出でついた、優しい嘘』

 

アメリカ。NYで一人暮らしのビリー・ワン(オークワフィナ)。物書きを目指すけれど一向に芽が出ず。生活はぎりぎり。

ある日。両親から、日本に住むいとこのハオハオが中国長春で結婚式を挙げると知らされたビリー。「まだ付き合ったばかりじゃなかった?デキちゃったの?」そうはやし立てるけれど。両親の表情は暗く、しかもビリーは結婚式に参加するなと釘を刺される。

理解できずに父親を問い詰めると…中国長春に住む祖母のナイナイが肺癌で余命3か月である事と、直ぐに感情を顔に出してしまうビリーは中国に行くべきではないと告げられた。

暫くして。ハオハオの結婚式の為、25年ぶりに長春に親族が集まった。そこに強引に合流したビリー。

「癌そのものではなく、癌に侵されている恐怖が人を殺してしまう」。ナイナイに告知しないように接する親族と、「真実を告げるべきだ」。と対抗するビリー。

西洋と東洋の思想の違い。家族の在り方や死生観をぶつけ合う彼らは…。

 

「監督のルル・ワンの実体験に基づいた話」

 

おそらくこの作品の感想はやや厳しい内容になる。けれど、当方は…この作品を決して否定はしていません。

ルル・ワン監督が実際に体験した事が基盤となったこの作品。主人公のビリー=ルル・ワン監督なのだろうと思いますし、彼女がこういった場面で見たものやそこで受けた感情が率直に描かれた内容なのだと感じた当方。

物語は得てして誰かの視点で成り立つ。なのでこれはこれで「分からなくはない」のですが。ならば当方もまた、正直に感想を書いてみたいと思います。

 

人が生を終える。身内以外のその時に立ちあった事は何度もありました。

今はそういう現場には居ないので、古い話になりますが。「普段関わっていない家族ほど大きく悲観する」という印象を持った事は複数あります。

亡くなった方に常に寄り添っていた人。その人は大抵、よく頑張ったなと静かに故人を撫でさすっている。

 

中国とアメリカ。距離的に会う事がままならない祖母と孫娘。互いに好意的でしょっちゅう連絡を取り合って。その仲の良さを当方は何も否定しない。否定しないから…だから貴方も否定はしてはいけない。大好きな祖母が住む国の考え方。彼らの死生観を。

 

アメリカではこんなの違法よ」「どうして自分の体の状態を正しく教えてあげないの」。

体調不良を自覚し受診した病院で。「肺癌の末期で治療は難しく予後3か月」けれどそう医師から告知されたのはナイナイの妹、リトルナイナイ。

本人には「良性の腫瘍だって」と告げ。親族に連絡し、何とか自然に一同がナイナイに会えるようにとハオハオの結婚式が急遽決定した(ハオハオと彼女のアイコはぎこちないながらもちゃんと恋人同士。良かった)。

 

「ナイナイに本当の事を言うのは誰も喜ばない」

 

「中国ではこうだ」。「東洋ってやつの死生観はな」。そういう事情は流石に詳しくないので。ナイナイの息子(ビリーの父親と叔父)がやや感傷的にそう言うのも「そうですか」と無機質に聞き流してしまった当方。

 

25年ぶりに集まった連中が。次々勝手な事を言う。「癌だと告知しないのが本人の為だ」「これが中国のやり方だ」「そんなのアメリカでは人権侵害だ」。

 

彼らを見て呟く当方。

「ナイナイは一体どうしたいんだ」。

 

当方が唯一聞くに値すると思った親族。ナイナイのそばにずっと居たナイナイの妹、リトルナイナイ。そして同居している男性、ミスター・リー。

ナイナイと生活を共にして。そしてこれからも彼らがナイナイに寄り添う。リトルナイナイの語った言葉。「ナイナイならこうすると思うわ。何故なら彼女は~」。

 

これが彼女にとってベストアンサーだと主張し合うのは不毛。そもそも自分以外の人生においてベストなどという定義はない。それを決めるのは当人だけ。

 

「子供の頃。中国を出て、両親しか知り合いの居ないアメリカで過ごすのはとても不安だった」「その間に住んでいた家も無くなっていた」「離れている間にナイナイも居なくなってしまう。もうそんなのは嫌。中国でナイナイと一緒に暮らす」。

終盤。そういって親に泣きついていたビリーに「それは…貴方が今、アメリカでの生活が上手くいっていないから」。「それはナイナイの余生の為ではなくて、あなたの逃げでしょう」。ひどく厳しい言葉が浮かんだ当方。

当方は誰の親でもありませんが。未来ある自身の子や孫が、夢や希望を捨てて、朽ちていく自分に寄り添う事を望む親は…いないのではないか。

 

これはあくまでも推測ですが。肺癌の末期の患者がいつまでも「これは良性の腫瘍のせいで、風邪が長引いているようなもんだ」とは思わないのではないか。

どれほど家族や医療者が嘘をついたとしても、どこかで本人は分かっているのではないか。

嘘をつき、そして騙されているフリをする。それが優しさである…正直な所、当方もそうは思いたくないけれど。

 

不器用で言葉足らず。そんないとこ、ハオハオが終盤ひたすら泣き続けた結婚披露宴。一生に一度しかない結婚式に付加価値を付けられて。それでも何も言わずにきちんと宴を上げた。彼の優しさよ。

 

「あくまでもこれはハオハオとアイコの結婚式で。だから25年ぶりに家族が揃った。」

結局親族でつきとおした嘘。あくまで推測ですが…ナイナイも含めて。

 

終盤の別れのシーン。

田舎のおばあちゃん。幼かった頃の、家族で帰省した最終日。出発する車を泣きながら追ってきたおばあちゃんを思い出し、一気に涙腺崩壊した当方。

 

ところで。最後の最後のシーンに「そうか…」と思いながらも当方が思ったこと。

 

この作品が生まれる実体験は少なくとも6年以上前。中国の医療現場の実体は知りませんが…その時ルル・ワン監督が感じた死生観は今でも中国で続いているのかは分からない。

日本も同じようにかつては『告知』という決定権が家族に委ねられていたケースは往々にしてあった。けれど今は…本人にダイレクトに告知するケースが多い。

昨今挙げられているように「もし自分に大病が見つかったらどうしたいか」「どういう最後を迎えたいか」という話は時々…大げさでなくていいからしておいた方がいいのだと思う。そうすれば、こういった時の感情の揺さぶりは少し緩和される。もっと有意義に時間が使える…かもしれない。

その人にとってより良い人生は、本人にしか判断出来ない。

本人の体調が悪い時に周りが動揺してかき乱すのは、おそらく気づかれるし負担になる。それこそ「誰も喜ばない」。

 

若かったビリー=ルル・ワン監督が実際に感じた事。けれどこれは歳を重ね、人間関係が変化し大切な人の存在や家族形態の変化を経ると、全く違う側面も見えてくるだろう。そう思う当方。

かつて否定した考えが全く違って響いてくる。けれどこれはどれも悪い事ではない。

繰り返すがベストアンサーはない。

 

悪いものは気をためこんで「はあっ!」と吹き飛ばす。

随分モダモダしたけれど。誰もがナイナイを想って集まって、一緒に嘘をつけたのならば。茶番では無くそれは確かに優しい嘘だった。

そして夢を抱いた場所にまた散り散りに戻って、各々の場所で咲けばいい。心はどうやら通じているようだと確認できた。それは嘘じゃない。

 

フェアウェル=さようなら。