ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動映画「さよならテレビ」

「さよならテレビ」(上映後、阿武野勝彦プロデューサーと圡方宏史監督の舞台挨拶回)観ました。
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「薄っぺらいメディアリテラシーはもういらない。」

東海テレビドキュメンタリー劇場第12弾。カメラを向けたのは自社の報道フロア。

約1年7か月の月日を経て描かれたテレビの自画像。一体テレビの何が描かれたのか。

 

「ああ。これはえらいもん観てもうた…。」

公開日直前。「凄い映画が始まるぞ。」そんな噂が波の様に寄せては引いて…引いてもまた押し寄せてくる。段々と気になってきて。そうなると思い立ったが吉日。製作者の舞台挨拶回に鑑賞しようと映画館に向かいましたが。「こんなに人が⁈座席数どんくらいやったっけ?」上映の約1時間前に到着した当方は案の定立ち見。上映時間109分+舞台挨拶約1時間。濃厚な時間を体験して。未だ賛否両論のどちらでもない場所でぐるぐる回っている状態…ですが。上手い事消化して整理整頓出来る気もしませんので。纏まらないまま「感じた事」を並べていきたいと思います。

(長文な上に内容に踏み込みまくり。いつにも増して取っ散らかった感じになると思います。そしてあくまでも、舞台挨拶の内容は当方の意訳です。先んじてお詫びいたします。)

 

「テレビを見たら手が止まるから。」ずっと昔から、当方宅の朝はラジオだった。

テレビは手が止まる。その点ラジオは耳を傾けながらでも動作を止めずに済む。顔を洗い、朝食を摂り準備する。おなじみの番組進行は時計代わり。

親元を離れた今だって、当方の朝はラジオ。たまに職場や旅行先で朝にテレビを付けても、情報は頭に入ってこない。なのに目が離せない。やるべき事が進まない。

かと言って、当方の家族がテレビ嫌いなわけではない。寧ろ好きだと思う。暇が出来ればテレビを付けて休憩し、皆が集まるとテレビを付ける。そもそも当方の家には「夜21時になると皆テレビの部屋に集まり、コーヒーや紅茶を飲みながら歓談する。」という習慣があった。あまりにも自然だったので、どこの家庭もそうしていると結構な大人になるまで思っていたほど。(22時になると解散。各々そのままテレビを見たり、自室の作業に戻ったり、寝たりする。因みに自室にテレビはない。)

 

けれど。一人暮らしをするようになって、当方はぱたりとテレビを見なくなった(お茶時間は今でも健在)。

「ただ流れているから見ていた。」気に入っていた番組もあったけれど「別に見なくても構わない。」と思うようになった。

寧ろ「テレビを見ると手が止まる。」事が嫌になった。

今では職場の昼休憩に流れているニュースやワイドショー。それを弁当を食べながら見る程度。

 

「テレビはもう終わったのか?」

テレビはかつて最強のエンターテイメントだった。「お茶の間の皆さん!」一つのテレビに家族が集い、時にはチャンネル権を争って喧嘩した。学校では「昨日のアレさあ。」と共通の話題になっていた。少なくとも、当方が学生だった頃は。

「手が止まる」事を嫌う当方にとっては動画配信も然りだけれど。YouTubeを始めとしたSNSが溢れかえった昨今、人々の「何を見るのか」という選択肢は莫大に膨れ上がった。数多の『情報』から「見たいもの」を選ぶ。刺激的で、企業やスポンサーに忖度していない、それなりに完成度の高い『情報』を。

ごまんと『アマチュア』が溢れた今。果たして『プロ』はどこで差をつけるのか。

 

この作品の中で、何度も繰り返し説明された「報道の使命」。

1)事件・事故・政治・災害を知らせる。2)困っている人(弱者)を助ける。3)権力を監視する。

最近の当方が自室でテレビを付けた場面。それは大きな地震に遭遇した時や台風が直撃した時だった。避難している状況ならばラジオが強いのかもしれないけれど。今この状況が起きている規模、レベルなどを迅速かつ正確に知る手段はやはりテレビだった。

果たして、困っている人とはどういう人なのか。弱者とは?…逆に強者とは?助けるっていう事は、テレビは強者なのか?

権力を監視する?その目はどういうポジションに置くのか?正義の在り方がしっかりしていないと権力とズブズブの関係になってしまうぞ。

 

東海テレビの報道フロア。朝礼にてドキュメンタリー企画『テレビの今(仮題)』として取材する旨を説明する圡方監督。「一体何を撮りたいんだ。」ふんわりとした企画に戸惑い、半ば笑いながら受け入れた報道スタッフ達だったけれど。実際に取材が始まるとすぐさまカメラとマイクの存在が気になって苛立ち。遂には「取材拒否」をしてきた。

 

「いつもおたくらがやってることじゃないか。どの口がそれ言ってんだ。」当方だってそんな取材を受けた経験はないけれど。テレビに映し出されていた犯罪者、政治家。エトセトラ、エトセトラ。普段相手に向けているカメラが自分たちに向けられた途端、怒りの感情を露わにする報道スタッフ。この冒頭の下りからもう、目が離せない。

話合いの末、1)マイクは机に置かない。2)打ち合わせの撮影は許可を取る。3)放送前に試写を行う。という取り決めをし、撮影再開となった。

この下りは頭に留めておかなければ、と思った当方。なぜなら、ここからの映像は報道スタッフに公開前試写をして「これなら世間に観せても大丈夫だ。」という太鼓判を貰った内容だから。

でもそれはどこまでの裸なのか。

 

以降は4月から始まった夕方のニュース番組が取材の主軸となり。

メインキャスターの福島アナウンサー、記者である澤村さんと渡邊くん。主にこの三人にスポットが当たっていく。

 

福島アナウンサー。穏やかで人当たりの良い、けれど決して冒険はしない慎重派。「分からない事を分からないまま伝える真似はしたくないんです。」「誰かを傷つける様な真似はしたくない。」どうしてそんなに頑ななのか。けれどそこにはかつて会社の信用が失墜した大事故を経ての、彼なりの教訓があった。

 

働き方改革」ひと月の残業時間は100時間以内。法令順守で例外なし。あくまで三六協定を守れという上からのお達し。けれど「視聴率を上げるために全力を尽くせ」。板挟み、矛盾する現場。

「どこも一緒やなあ~(当方の心の声)。」心身の健康維持。それは必然ではあるけれど…やるべき仕事量は減らない。なのに質は落とすな、上を目指せとハッパをかけてくる管理職。

何らかの救済措置が無いと、現状は打破できない。

マンパワー不足を改善するために採用された、制作会社からの派遣社員、渡邊くん。これがまた…(段々小声)悲しいかな、仕事が出来ない。

「人手を埋めたい。今すぐ即戦力を!」そう思って採用したはずなのに。どうにもたどたどしい。ほぼ新人。

「せめてねえ。そのへらへらした感じが無ければ…。」苦々しく顔をしかめる当方。シビアな業界みたいだし、義理人情でどうこうならないんやろうけれど。せめてそのだらしない口元をシャンと閉じて。「人が真剣に話している時に笑ってんじゃねえ!」って思われちゃうよ。けれど。彼は彼で「契約終了にならないよう、成果を出したい」と悩んでいる。

 

新聞畑から転々とし、現在は契約社員として働くベテラン記者澤村さん。企業やスポンサーなどの要望に応える『Z=是非ネタ』を担当する事が多い。しかし、何かとカメラの前で意味深な動きをし「これは何を撮っているんですか?」と問いかける。

共謀罪>か<テロ等準備罪>か。「どちらの言葉で報じるかで政府の言いなりになっているのかが分かるんですよね。」

共謀罪>を問われて裁判中の男性に取材する企画を立ち上げ。実際に取材する澤村さんの姿。『Z』を扱っていた澤村さんも勿論プロの仕事をしている表情だったけれど、「ジャーナリズムってなんだと思いますか?」「いい仕事をして社会に貢献したいんです。」「報道って何なんでしょうね?他社を出し抜く事なんですかね?」齢50手前の男性が語るには青臭い。でも、だからこそ熱く語る澤村さんに惚れてしまう。

 

セシウムさん事件』。2011年8月4日に、東海テレビの情報番組で起きた不適切テロップ事故。

当方はこの事件を知りませんでしたが。妹に聞いたところ「ああ。あれ東海テレビやったんや。」知っている人は知っている。(この返答の怖いのはどこのテレビ局かは重要では無かったところ。)

同年春に発生した東日本大震災。その被災者たちの心情を踏みにじった、あるまじき不祥事。

ローカルエリア放送でありながら、事件は瞬く間にインターネット上に広がり、東海テレビは激しいバッシングに晒された。

「報道の使命が聞いてあきれる。何が『困っている人(弱者)を助ける』だ。」「結局アンタ達は強者の立場から被災者を揶揄して笑っているじゃないか。」

東海テレビでは以降、毎年同日を『放送倫理を考える日』として全社集会を継続している。

「そうか。そういう事があったのか…。」

テレビという存在。元々は報道の使命に上がっていた『権力を監視する』役割。

なのに。テレビはいつの間にか権力を得てしまった。

一体誰の目線に立っているのか。誰の味方なのか。弱いものって一体誰の事だ。強いのは誰だ。テレビは何様だ。

テレビに対する不満と不信感。遂にはテレビも「監視される側」になってしまった。

 

たった109分とは思えない。驚くほどに、話したくなるような引き出しを中途半端に開いていく作品。あれもこれも…そしてそれらしく着地していくのに、何だが胸がもやもやする。すっきりしない。

 

終盤。スポットを当てていた三人が迎えた春。

やっと肩の力が抜けた福島アナウンサーに泣け、苦笑いしながら渡邊くんにエールを送る。なのに。澤村さんがまたもや意味深な表情でカメラに近づいてくる。

「それで結局、何が撮れたんですか?」

そこから怒涛の畳みかけ。衝撃の数分を経ての幕引き。一瞬静まり返った映画館…からの舞台挨拶。

 

ドキュメンタリー:実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など。(デジタル大辞林

取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品。(ウィキペディア

 

当方がかねてからドキュメンタリー作品を観ていて感じる事。「本当の意味でのドキュメンタリー作品ってどういうんやろう?」

カメラを向けられる。それが日常である人物はそうそう居ない。そして自然に振舞える人物も。どうしてもカメラに撮られている自分を意識して誇張した動作、表現…つまりは演じてしまう。自分自身を。

この作品の序盤。普段はカメラを向けてきた報道スタッフが、撮られる側になると怒りを露わにした。「一体何が撮りたいんだ!」俺たちをどう撮るつもりだ。そして俺たちは何処まで付き合えばいいんだ。どう振舞えばいいんだ。

撮影拒否を食らった後。報道スタッフと話し合い、取材協定を結んでからの撮影再開。つまりは「これなら見せてもいいですよ」という折衷案。

 

「色んなソーシャルメディアに、とって代われらるんじゃないかと戦々恐々している現場の意見は撮らなかったんですか?」「正直ぬるいと思いました。」(言い回しうろ覚え)

上映後の舞台挨拶。鑑賞者との意見交換。色んな興味深いやり取りの中で記憶にあるもの。特に後者は「来ると思っていました!」と圡方監督が興奮した声を上げていた。

この作品には社員が出てこない。福島アナウンサーは東海テレビの社員ではあるが、アナウンサーという立場なのでやや特殊。テレビ制作に携わる社員にこの作品は焦点を当てずに、澤村さんや渡邊くんという外部からの契約社員を取り上げた。

「実は管理職にも話は聞いたんです。でも何ていうか…上手く話すんですね。これは面白くない。」

 

「これはテレビの自画像だ。」制作者が舞台挨拶で何度も口にした言葉。

自画像…。普段映像を扱う媒体の人達が、ドキュメンタリーをあえて画に例える。ありのままではない。恰好良すぎてもいけないし、かと言ってみすぼらしくてもいけない…演出する事ありき。けれどそれは結局「どう面白く見せるか。」に着地するのか…これこそTHEテレビ的思考ではないか。

 

思わず息をのんだラスト数分。当方の勝手な想像ですが…あれがあったからこそ、報道スタッフは世間に見せていいと言ったのではないかと。(確か放送前に見せる約束でしたもんね?)

『テレビの今(仮題)』。カメラは報道フロアだけではなく、同時にドキュメンタリー制作サイドの姿も撮っていた。

「ジャーナリズムって何なんでしょうね。」「報道って…。」けれどそれは鏡の様に製作者サイドにも跳ね返る。「ドキュメンタリーって何なんでしょうね。」

もともと個人が持っていた思想や信条、熱い思い。それを「引き出した」と思うのか、「演出した」と捉えてしまうのか。お話として綺麗に落とすために、登場人物達を分かりやすくキャラクター分けしてフォーマットに落とし込んでいないか。そして…折角綺麗に着地したのに。何故あのシーンを付け足した。(その解答は聞きましたが。流石に書きません。)

 

「この作品がぬるいと言うならば。お近くのテレビ局にこういう作品を撮ってみてはと声を寄せてみたらいい。」「テレビにはもっと意見するべきです。」

確かに、いつだってパイオニアは叩かれる。こんなんじゃない、もっとお前たちは何かを隠しているはずだ。それを見せろ。

「でもなあ。そうやって皆で刺激を求めた結果が、今の『テレビではない媒体がやっていること』なんじゃないのかなあ。」そう過る当方。

 

個人が作る、刺激的で、企業やスポンサーに忖度しない映像。けれどそこには倫理はあるのか。

見たいもの見せたいものを無責任に垂れ流す事は、時に人を傷つけたり不快な気持ちにさせる。

『アマチュア』と『プロ』の違い。見せろ見せろという皆の欲求に、おいそれとは答えない。撮って出しではなく、咀嚼してから、あくまでも公平な視点で冷静に見せる。そういう立ち位置がテレビという存在であると当方は思うけれど。その足元は、ここの所随分不安定でぐらついている。

 

「ああもう本当に纏まらない。」未だどこにも着地出来ず、ぐるぐる回り続けている当方。バター寸前ですが。

「少なくとも、こういった問題提起をテレビ局が挙げた事には意味がある。」「これはドキュメンタリーなのか何なのか…少なくともえらいもん観てもうた。それは間違いない。」

 

『さよならテレビ』テレビはかつて最強のエンターテイメントだった。確かにそんな時代は終わった。当方自身も日常生活にテレビは…今は必要ない。けれどだからと言ってテレビを捨てたりはしない。さよならはしない。

 

「ところで。こういうドキュメンタリー番組がしれっと日曜日の夕方地上波で流れる東海テレビって…。」

恐るべし。そう思うと、見落としているだけでまだテレビは面白い事もしているんだ。捨てたもんじゃないなと舌を巻いた当方。

 

約1年7か月の月日を経て描かれたテレビの自画像。テレビの何が描かれたのか。感じ方は人それぞれ。

 

これはドキュメンタリーという名のエンターテイメントテレビショー。お茶の間の皆さん、必見。