ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「楽園」

「楽園」観ました。
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吉田修一『犯罪小説』から『青田Y字路』と『万屋善次郎』を主に抜粋、構成。瀬々敬久監督作品。

 

青田に囲まれたY字路で起きた、少女失踪事件。それから12年。未解決のままだったその場所で再び子供が失踪した。

当時行方不明になった少女と直前まで一緒に居た同級生の湯川紡(杉咲花)。当時もそこで暮らしていた青年、中村崇士(綾野剛)。

住民から当時の犯人ではないかと疑われ、追いつめられていく崇士と、罪悪感を抱えながら生きてきた紡。

そしてY字路のすぐ近隣の限界集落に住む田中善次郎(佐藤浩市)。ふとした事をきっかけに村八分の状態になり、孤立し壊れていく…。

 

「これはこれは…なかなかに救いようのない日本映画が出てきた事よ…。」溜息。

 

日本の村社会。閉鎖的環境。そんな場所で有事が起きたら一体どうなるのか。

 

ある夏の日。帰宅時間を過ぎてもその子は自宅に帰ってこなかった。

村の住民総出の捜索も空しく。その子を見つける事は出来なかった。そして12年。

 

直前まで一緒に居た同級生の紡。今でもこの村で暮らしているけれど。その姿に覇気は無く。常に罪悪感が付きまとう。「どうして私は生きているのか。」「どうして私じゃなかったのか。」

同級生で残っているのはおバカな男子、野上広呂(村上虹郎)一人だけ。他の者はここではないどこかへ出ていった。狭いコミュニティー故に殆どが顔なじみだけれど。特に誰とも深く付き合っている訳じゃない。

村の秋祭り。その練習の帰り。ふとした事から話すようになった中村崇士。フィリピン人の母親と二人暮らし。随分前に越してきたけれど、この村にイマイチ馴染まない青年。けれど崇士と過ごす時間は決して苦痛では無かった。

「ねえ。お祭り一緒に回らない?」そう約束した。その夜。またあのY字路で子供が居なくなった。

「なあ俺思い出したんだ。12年前のあの時…。」子供を捜索すべく集まった住民の一人が口にした発言。それはそこに居合わせた皆を突き動かし、そしてその矛先は崇士に向けられた。

崇士への騒動の中。立ち尽くしていた田中善次郎。若い頃に集落を出て結婚したが、早くに妻と死別。Uターン組として12年前に集落に戻ってきた。年寄りばかりの場所で、何でも屋同然で貢献した善次郎は集落の中で頼りにされてきた。

「この土地は養蜂に向いている。」趣味の延長で取りんだ養蜂から出来た蜂蜜は、地域の産直市場でも評判が良い。

「この何もない集落に人を呼ぶには蜂蜜産業もアリじゃないか?」

寄合いでの提案も手ごたえあり。これはイケるぞと具体的に行動し始めた矢先、集落を取りまとめていた長が亡くなった事で世代交代が起こり。途端に善次郎への風向きが変わった。

 

「本当に田舎の人間は…。」「村社会。」「他にやることが無いから。」「年寄りのいやらしさ。」

崇士と善次郎に、逃げるも間無く畳み込んでくる「人間が持つ悪意」に。険しい表情が隠せませんでしたが。

「確かに分かりやすく憎たらしい奴は居た。けれどそこにのみスポットを当てるべきではない。」「これは多数決の正義の問題だ。」

 

「正しいと思う人、手を挙げて。」

子供のころ。学級会なんかで、何かの議題に対し評決を取る。「AかBか。」それは例えば遠足の行き先や給食の選択メニュー。そんな単純なモノもあったけれど。もっとえげつない議題も存在した。

「この出来事に対してこういう選択をした人が居ました。それを正しいと思う人?」

散々議論、意見を出し尽くした上ならまだしも。往々にしてあった、その場で即回答を求められた「善か悪か。」

そして。その答えが多数決で決定されるという恐怖。しかも…皆で出した答えが常に「正しい」とは限らない。

 

とある田舎で起きた二つの出来事。子供が失踪した事件の犯人だと追いつめられた崇士と、限界集落村八分に遭う善次郎。二人の接点はほぼ無いけれど、二人に共通するなと当方が思った所。

「住民はずっと彼を「よそから来た人だ」と思っていた。」

 

崇士:昔フィリピンから来た女が連れてきた子供。だらしない身なりで何して暮らしてんだか分からないけれど、昼間っから男とチャラチャラして、変なモノ売って。そんな女の息子は、ちゃんと喋れるのかも定かじゃない。おどおどして、暗くて。

 

善次郎:昔ここに住んでいたけれど。早くに出て行ってからのUターン組。最近色々頑張ってくれているんだよな。

 

少なくとも12年はこの土地に暮らしているのに。崇士も善次郎もどこまで行っても「ここのモン」扱いを受けない。その出る杭が。ふとしたきっかけで目に留まってしまう。打たれてしまう。

 

そして打たれた結果。二人とも自我が崩壊し燃えてしまった。その炎は一体誰に向けられ、何をどこまで燃やしたのか。

 

狭いコミュニティで、本人不在で行われた欠席裁判。そこで下された『正義』に依って崩壊せざるを得なかった崇士と善次郎。彼らの救いの無さ。どこまでも救われない話だなともがく中で。当方が一筋の光だと思ったのが、湯川紡と同級生の野上広呂。

 

「分からない。分からない。けれど今無理やり正解を出さなくていい。私は逃げない(言い回しうろ覚え)。」

そう叫んで草むらを歩き回った紡の姿が忘れられず。

そして。ともかく生きている事が全て。そう思わせた広呂の表情。

 

「そうよな。もしかしたらこういう未来だってあるのかもしれない。」その光にすがってしまった当方。

 

「己が所属するコミュニティで。自然に『多数決の正義』を振りかざしていないか。意識せずに力を以てしまう集団心理の中で、どう自我や倫理を保つのか。」そんなややこしい事も考えてしまいましたが。

 

最後に。この話で『楽園』というタイトルを付けた瀬々監督のセンス。皮肉で秀逸で…溜息。脱帽です。