映画部活動報告「JOKER ジョーカー」
「JOKER ジョーカー」観ました。
架空都市ゴッサム・シティ。
市の衛生局がストライキに突入。市の至る所にゴミが積み上げられ、不衛生。
長期化し、希望の兆しが見えない不景気は格差社会を加速させ。人々の精神を荒ませる。治安も悪化。
完全な機能不全に陥ったゴッサム・シティ。人々が新しい変化を望む中、市の最大富豪であるトーマス・ウエインが行き詰った市政を打開すべく、市長選挙への出馬を表明した。
主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)。病気の母親と二人暮らし。精神疾患の他、幼いころ脳に損傷を受け『緊張すると笑いだしてしまう』という発作を持つ。「人を笑わせられる人でありなさい。」と母親から育てられたのもあって、アーサーが目指すのはコメディアン。現在ピエロ派遣会社に所属している。
昼間は派遣先でピエロを演じ。精神科に通院。帰宅後は母親の世話をした後、二人で人気トーク、バラエティテレビ番組『マレー・フランクリン・ショー』を見るのがアーサーの唯一の楽しみ。
がりがりに痩せ、不気味な雰囲気。コメディアンとして致命的な、笑いのセンスの無さ。一生懸命であればあるほど痛々しさと空回り感で場を引かせてしまう。
市の福祉予算が削減され、アーサーが受けていた精神科のカウンセリングと向精神薬の投与が打ち切られた。
派遣先での不始末を雇用主に責められ。同僚から「これで身を守れ」と渡された拳銃のせいでさらに居場所を失った。遂に解雇されたアーサー。
そして一つ目の事件が起こる。
「これが当方の観たかったDC映画だ。」「完璧。」
2019年10月4日金曜日公開。当然の有給休暇取得。初日初回鑑賞。
当方の仕事の開始時間が朝8時30分。この日の鑑賞時間が朝8時40分からの回。
全く休日感など無い朝を迎え。それどころか、前日は興奮しており睡眠不足で参加。けれど一瞬たりとも画面から目と意識を離すことなく。それどころか「終わる?もう終わるちゃう?」なんて。終幕に向かう本編に切なさを感じたりもした。
両親が共働きだったので。いわゆる鍵っ子だった当方と妹。小学校から帰宅し、二人で一緒に見ていたのは地方ローカル局が流していた『バットマン』『ポパイ』『奥様は魔女』。
古き良きアメリカのコメディドラマやアニメたち。本当に食い入る様に見ていた。なのでおのずと当方は『バットマン』贔屓。バットマンと名が付けば映画も大体は見てしまう。
バットマン自体がダークヒーロー。ゴッサム・シティはいつだって治安が悪く荒廃しきっている。悪役もおおむね怪人。ドラマは陽気だったけれど、映画ではコメディ要素は一切排除。加えてDCの社風『陰気』。けれど…だからこそ面白い。当方はそう思っているのに…近年の、MARVELを意識してかの迷走っぷり。イライラし。「スーパーマンをメンバーに入れた時点でパワーバランスが崩壊してまうやんか!」「あんたは金持ちのコスプレ人間やねんから、他のキャラクターとは混ざるな!」「ロビンと組んでペンギンとかキャットウーマンとかジョーカーとわちゃわちゃしときなよ!」
色んなバットマン映画や派生作品があり、その全てを観た訳ではありませんが。当方が何となく感じていること。「ジョーカーが生き生きしているバットマン作品は面白い。」
やっぱり当方も挙げてしまう。2(3)大ジョーカー俳優。
1989年。ティム・バートン監督版『バットマン』のジャック・ニコルソン。
そして記憶に新しい2008年。クリストファー・ノーラン監督版バットマン三部作の中盤『ダークナイト』のヒース・レジャー。
(当方的には1966~68年。テレビ版『バットマン』のジョージ・ロメロも至高)
「役に喰われた」としか言いようの無い死を迎えたのもあって。ヒース・レジャーに至っては最早神格化されている感もあるけれど。
『見た目がピエロ。けたたましい笑い声』『飄々とした佇まい』『時に人なっつこさを見せたりもするけれど、基本的には冷酷で無慈悲。』『どれが本当の彼なのか正体不明。よく喋るけれど、一体真実なのか法螺なのかさっぱり分からない。』そんなサイコパスが。バットマンと敵である怪人が戦う中を高笑いしながら引っ掻き回す。
「ジョーカーが生き生きしているバットマン作品は面白い。」けれど。なかなかジョーカー単体が取り上げられる事は無かった。
そこで満を持しての今作登場。
「どうして彼はジョーカーになったのか。」
不遇のピン芸人。病気の母親と二人暮らしで自身も精神疾患を有する。不景気のあおりを受け、社会保障を打ち切られる。
その上仕事も辞めさせられた。それどころか…彼にはお笑いのセンスが皆無。
人は此処まで追いつめられるものなのか。震えるほど四面楚歌な状況のアーサー。
耐えに耐えて耐えて。自身がやっと立っていられるだけのテリトリーをも失った。その時、これまで自分が守っていたと思っていたモノの実体が無いと悟った。広げた両手には何も乗っていないと知った時。
アーサーは『ジョーカー(冗談屋)』になった。
お話自体はシンプル。負の連鎖が雪だるま式に加速した結果、アーサーが壊れた…むしろ開放された、という。けれどこの話にぐっと重みとリアリティを付けたのは、間違いなくアーサー役のホアキン・フェニックス。
24キロの減量。そんな役作りも話題でしたが。もう何というか…気持ち悪さがさく裂。
あの後ろ姿。一体どういう背中の丸め方をしてどういう呼吸をしたら、あんなビジュアルになるのか。
突然笑いだしてしまう発作。終始虚ろな表情。一々観ている側に不穏な気持ちを抱かせる。そしてお笑いセンス…。お笑いサロンみたいなのに参加していましたが、アーサーだけが見事に周囲と笑うポイントが違う。そして自身がネタをやっている時の空気。もう全てが痛々しくてやり切れない。
「誰かを笑わせたい」と望むには、あまりにも「笑えない」アーサーのビジュアルとセンス。人がアーサーを笑う時は「笑い者」として笑っている。
アーサーが守っていたモノ。それは病気の母親であり、同じアパートに住んでいる恋人の存在。
結局それらの実体はなんだったのか。解き明かされていく下りがまた辛い。そして「そうか…向精神薬が投薬されていないから…。」というゴッサム・シティの社会背景とその歪がジョーカーを生んでいく一端なんだなとため息をついた当方。
突発的に起きた一つ目の事件。エリートサラリーマン三人を殺害。
意外と罪悪感は無く。むしろ開放感すらあった。でも。だからといってアーサーは加速してジョーカーになった訳では無い。むしろゴッサム・シティがジョーカーの誕生を期待して盛り上がった。
格差社会。時期市長候補大富豪トーマス・ウエインが発した失言もあって、底辺で鬱屈としていた連中が爆発した「金持ちは殺せ。」。
不満を抱えていた彼らは徒党を組み。市は暴徒が溢れかえった。アーサーは彼らの起爆剤。
アーサー自身は坦々と。けれど確実に『その時』に向かっていた。
そして憧れていたマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)のテレビ番組に「本名ではなく『ジョーカー(冗談屋)』として紹介してほしい。」と言って出演する。
直前の階段のシーンから続いて。鳥肌モノだった『マレー・フランクリン・ショー』。
そしてその様子は確実にお茶の間に届けられた。
「このジョーカーは危険だ。」「精神的にまいっている時に観たらやられるぞ。」「真似する奴が居たらどうするんだ。」
どう見ても現在の社会情勢に似通った設定。誰しもが多かれ少なかれ持つ生き辛い要素。「人を見た目で判断してはいけません」という綺麗事。
誰しもが何かしら思い当たる点が過りながら観る作品。一体そのどれに心の起爆ボタンが押されるのか。そしてその程度は。(結局恐れているような大事件は発生していないように思えますけれど。)
「我らがジョーカー!」と混とんの極みまで爆発したゴッサム・シティ。けれど「美しい。」と俯瞰で見るジョーカーはただの導火線であって、決して彼らのこれからの先導者ではない。
元々のジョーカーは見事なまでのピエロ。その道化に皆圧倒されて。感化された者は自身もピエロを演じようとする。もっと禍々しく。もっとエキサイティングに。…ある意味、そのレプリカが、これまで当方が見てきた『ジョーカー』の姿なのかもしれない。だからあいつらは掴み所が無く「どれが本当の彼なのか正体不明」だった。
けれど。おおもとのジョーカーは一人の優しいピエロ。アーサーだった。
余りにも圧倒的な演技だったホアキン・フェニックスに完全に持っていかれていましたが。監督が『ハングオーバー』シリーズ等のトッド・フィリップスだった事にも驚き。完全にコメディ作品の監督だったと思っていたので。『DC』という『陰気』…な社風を傾倒しながらも…けれどそう言われれば確かにどこか飄々とした風も感じる。これが。これが当方が今観たかったDC作品。
蛇足だとは決して思わなかったラストシーン。もう無理に誰かを笑わせようとしなくなって。自由になったジョーカーの姿に。哀しいけれど安堵した気持ちもあって。そして
「どこまでがアーサーの夢なんだろう。」と思いを馳せる。
陳腐な言い方ですが。一言で言うと『傑作』。劇場公開中にまた観に行きます。