ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」

「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190703181757j:image

ニューヨーク公共図書館(NYPL)。19世紀初頭のボザール様式建築の本館と92の分館からなる、世界最大級の『知の殿堂』。

幾多の分野に於いて世界有数のコレクションを誇り、また多くの作家や画家を育ててきた。そんな歴史はあるが、決して敷居の高い場所では無い。常にニューヨーク市民の生活に密着した存在でもある。

「図書館はただの大きな本棚では無い。」そんなNYPLの取り組み、活動…今の時代に図書館とはどうあるべきか。そしてこれからは。ドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマンが撮った、3時間25分の超大作。

 

「図書館かあ。一体いつが最後に行った時やろう。」

最近はめっきり腰を据えて読書に没頭する事が無くなりましたが。当方は元来相当なジャンキー読書家で。と言っても映画と一緒。基本的には気になれば何でも、というスタンス故ジャンルは不問で読んでいました。しかも速読。大抵の文庫本は二時間くらいで読んでしまう。(恐らく活字中毒。まだ風呂場に読み物を持ち込まなかった頃から、湯船に浸かりながら手当たり次第入浴剤やら洗剤やらの文言を読んでいました。)

 

市立図書館。というものは当方の住む地方都市にも当然ありますが。残念ながら自宅からは遠く。近くのコミュニティーセンターやらに小さな分館図書館や自習室があった。

 

まだ幼かった頃(未就学~小学校低学年くらい?)。妹と通った記憶。

バーバーパパ。ミッフィー。だるまどんシリーズ等々。定番の絵本を読みつくし。

ある土砂降りの雷雨の日(夕立だったのか?)。図書館から傘一つで、くっついて震えながらの帰り道(雨宿りしてから帰りなよ)。突如目の前に落ちた閃光と怒号。あの落雷の恐怖から。しばらく図書館からは足が遠のいた。

小中学校は学内の図書室の本を殆ど読みつくした。

 

高校生。帰宅途中の自習室に寄ってみたけれど。そこは文字通り『自習室』で。誰も背後の本棚には見向きもせず。物音一つ立てようものなら死刑!という雰囲気に耐えられず、二度と足を踏み入れなかった。(そのコミュニティーセンターの一階フロアが丁度いい感じにくつろげる空間だったので、そこで飲み物を買ってよく『踊る大捜査線』の再放送を見てから帰宅していた。)

 

社会人になってから。他の市が所有する、大きな市立図書館に一時通った。「ああ。ほっぺん先生シリーズがこんなに沢山。」「これ、今は絶版なんよな。」そういう楽しみもあったけれど。如何せん、やはりわざわざ電車を乗り継いで通うのはしんどかった。借りても返しに行くのが難儀。そして正直…本が全体的にボロボロすぎた。

 

「それから早…10年位?」

そう振り返って思ったのは、ライフステージに応じて図書館に対して求めるものは変わるのだなという事。ただひたすら新しい世界を見つける場所。静けさに身を委ねる場所。知識を求める場所。そして穏やかにこれまでの世界を読み返す場所。

何となく。図書館というものに対して、色んな人達のニーズを受け入れるおおらかな場所だという認識があった当方。いやいやいや。

 

「図書館はただの大きな本棚では無い。」

目から鱗。こんなアグレッシブな活動をしている図書館があったなんて。

「図書館の在り方は。」「市民の税金と寄付金で成り立っているこの図書館が出来る事は。」

子供達への読み聞かせ。最早学童保育じゃないかという放課後自習教室。

作家、音楽家有識者を招いての講演会。と思えば就職説明会。はたまた専門書コーナーでのワークショップ。

由緒ある巨大図書館。観光名所でもある。なのにそこに胡坐をかいていない。ただ受動的に『来てくれるのを待つ』のではない。「知りたい事がある。NYPLなら分かるかな。」「興味が持てるイベントがある。だから行ってみようか。」足を向けさせる。その企画力。

そして各部署の担当者達のプレゼンテーション能力の高さよ。「私が担当している、ここの資料は100年かけて集められたものだ。」誇りを持っているんだな、と感じる流暢な喋り。

 

本館だけでは無い。分館の在り方も興味深い。

中国系コミュニティにある分館では、そこに応じた図書ラインナップ。そして中国語が話せるスタッフが、まだ来て日にちの浅そうな利用者相手にパソコン教室。

黒人が多く住むコミュニティ。どんなに平等な世の中になったと言われても、やはり差別は今も尚存在している。けれど学校で使用している教科書にはそんな事実はのっていない。「でも。この図書館には本当の歴史が記された本がきちんと残されている。」「このコミュニティにこの図書館がある事には大きな意義があるんだ。」

 

作中何度も映される、NYPL幹部者会議の模様。「どうやって軍資金(税金と寄付金)を得るか。どんな活動を企画すれば、その金は生きてくるのか。」「公共の図書館が出来る事って何だ。」

「この町には約3万人のインターネット難民が居る。」(言い回しうろ覚え)昨今目まぐるしい勢いのデジタル革命に取り残されている人たちに何が出来るのか。そしてその革命に乗っかっている人たちにはどう対応出来るのか。

 

電子書籍は便利だ。けれど我々が今紙媒体で所有しておかなければ、10年後見つける事が出来なくなる本がある。」(言い回しうろ覚え)

「ベストセラーはどうにかなるんだ。そうじゃなくて…。」「研究書に予算を割いた方が寄付金は集まる。けれど本当に皆が読みたいのは…。」

 

「図書館はただの大きな本棚では無い。」けれど「大きな本棚としての役割は大前提。」

どんなに多様性のある活動を企画実行しようと。本来図書館は皆が本を求めてくる場所。

『100年掛けて集めた資料』は今後も積み重なっていく。そうならなければいけない。

 

「何だかんだ言って。図書館って利用タダやからなあ~。」

利用する側の最大の魅力であり、図書館側の最大のアピールポイントであり…おそらく図書館運営最大の弱点でもある。

少ない軍資金からいかに蔵書を増やせるか。一体世間ではどういう本が求められているのか。時代として残さなければいけない本とは何か。そして紙媒体一択から電子書籍という選択肢が増えた昨今。今後益々インターネットで情報は収集出来ていくと思われる中で。どういう形態で蔵書バランスを取ればいいのか。

 

「でも。あの点字本の読み方教室とかも大切やと思うんよな。」そっと呟く当方。紙や電子だけじゃない。本の形態はそれだけじゃない。どんな人にだって、求めれば本の世界は広がっている。

当然分かっている。きちんと見逃さずに、その間口にはNYPLが居る。

 

3時間25分の長尺。途中トイレ休憩があったりもしたけれど。怒涛の畳みかけに眠たくなる暇もなく。ひたすら圧倒され続けた当方。

 

ところで。当方馴染みの地元図書館と、遠くにある大きい図書館。ふと気になって取り組みについて調べたりしましたが。『子供への読み聞かせ会』『あなたの好きそうな本を探します』う~ん。やっぱりなと思う反面、「そりゃあ世界でもトップクラスの規模とネームバリューと軍資金を持つNYPLと比べるなよ!」という声が聞こえてきそう。そりゃそうだ。

 

アグレッシブな図書館の姿に、希望を感じながらも。

おそらく…子が居ない当方が図書館通いを再開するのは随分先。『定年後』とかになりそうだなと思う次第。(せめて自宅近くに無いと…。)