ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「教誨師」

教誨師」観ました。
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大杉漣、最初のプロデュース作にして最後の主演作』

 

教誨:教え諭す事。受刑者に対して徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心)の育成を目的として教育する事。

教誨師:受刑者に対して教誨を行う者。

一般教誨:道徳や倫理の講話。刑務官・法務教官などが行う。

宗教教誨:宗教的な講話や宗教行事で、各宗教団体に属する宗教者に依って行われる。

宗教教誨日本国憲法に定める信仰の自由から自由参加である。

教誨師の宗教別割合:多い方から順に、仏教。キリスト教神道。その他新宗教諸派等が続く。

Wikipedia教誨』から抜粋ー

 

主人公の佐伯(大杉漣)。半年前から教誨師に着任したばかりのキリスト教牧師。

彼が担当するのは六人の死刑囚。無言で心を閉ざす鈴木(古館寛治)。人懐っこいヤクザの親分吉田(光石研)。お人好しなホームレス進藤(五頭岳夫)。おしゃべりな関西のおばちゃん野口(烏丸せつこ)。気弱で子供思いの小川(小川登)。自己中心的で屁理屈ばかりを言う高宮(玉置玲央)。

誰も彼もが癖のある人物。途中佐伯自身の背景も語られるが、舞台の大半は『教誨室』。佐伯と六人の彼らとの対話で構成。

 

「凄いシンプルな作品やな…。」

 

それがまず第一印象。だって、114分に渡ってほぼ延々同じ部屋での対話って。これはよっぽどの手練れ俳優を連れてこないと間が持たないですよ。けれど。

この六人の俳優陣、化け物。誰一人遜色無く、己に与えられた人物になりきっていた。

 

六人の死刑囚達。彼らの犯した罪…具体的な罪状は最後まで提示されない。何をして死刑囚になったのか。それは彼らが話す上で、次第に明らかになっていく。「こういう事をしたんやろうな~。」という推測。それがはっきり分かる者も居るけれど。正直よく分からなかった者も居た。

現実社会で起きたあんな事件やこんな事件になぞらえたんだろうなと。自己中心的なアイツ。関西のおばちゃんでリンチと言えば。ストーカー殺人。けれど。ヤクザの親分は何をしたの?布団屋のおっちゃんは何でそこまでの刑になったの?ホームレスのおっちゃんは死刑になるような何をしたの?ーけれど。

 

もしも彼らが初めに画面に映し出された時、『氏名と罪状』がテロップとかで出てしまったら。観ている側はその先入観で彼らを見てしまう。

「ああ。こいつはこういう犯罪を犯したから。だからこんなモノの見方をするんだ。こういう考え方をして、こういう言い方をするんだ。」

そうではなく。あくまでも『教誨師佐伯との対話』を通して「どいう人物なのか」を知って。「その先には犯した罪がある」という広がりを見せたかったんだろうなと思った当方。

 

「どうして六人の死刑囚は教誨師との対話を希望したんやろう。」

 

この作品を観ていて早くから感じていた疑問。後から調べてもやっぱり。『宗教教誨は自由参加である。』

刑務所のあれこれ。受刑者と教誨師の関わり。死刑囚が皆教誨を求めるのか。心理カウンセラー的な役割を最終的に担うのは宗教家なのか。当方には全く門外漢ですし、ピンと来ない。なので頓珍漢な発言かもしれませんが。

教誨師との対話は強制ではないはず。なのに彼らが教誨師と会いたいと思うのは何故やろう?」

人懐っこく佐伯に会う吉田や野口。ただただ後悔を語る小川。彼らは分かる。けれど。

無口でただ座っているだけの鈴木。会えば自己中心的で気分の悪い屁理屈をぶつけてくる高宮。彼らは一体何故、律義に教誨室にやってきて佐伯と向かい合って座る?

死刑囚には強制労働が無いから?ぶっちゃけた話…暇だから?

 

「結局佐伯を求めているから。だろうな。」

 

教誨師というお仕事。これもまた当方には『頭が下がるばかりでよく分からない』のですが。

この作品で定義されていた『受刑者に対して道徳心の育成、心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く人』というのならば。佐伯という牧師は確かに六人の死刑囚にとっての『心の救済』という役目を果たしているんだなと思った当方。

 

分かりやすく佐伯に懐く者と同じくらい、佐伯に盾突き煽る者もまた、佐伯を求めている。「怖い。何故自分がこんな所に居る。自分にはいつ死が訪れる。」死刑囚である彼らが共通して持つ感情。それを受け止めてくれる教誨師佐伯。この思いを、どう表して。どうぶつけて。どう甘えるのか。どうしたら救われるのか。会いたい。

 

朴訥としていたホームレスの進藤。彼が前半に語った「言葉っていうのは難しいなあ。」(言い回しうろ覚え)

例えば「いい匂い」「あたたかい」。それは『言葉』としてあるけれど。何に対してどういうシチュエーションで放ったのかに依って意味は大きく違う。しかも同じ場所に居ても、個人個人で思い浮かべるイメージは違う。

「仕方ない。所詮他人だもの。」そうやって諦めてしまえば。面倒も無い。けれど。

 

敢えてそういう面倒な事を、皆多かれ少なかれやっている。自分の思っている事、感じた事。それを分かって欲しい。相手の思っている事、感じた事も知りたい。そこに共通点があればうれしい。けれど違っていても面白く感じたり。それが視野が広がるという事だから。「言葉は難しい」けれど諦めてはいけない。

 

六人の死刑囚は一体佐伯に何を語りたかったのか。彼らの発していた言葉の意味は何なのか。最後の時。それはどう突きつけられるのか。

 

他にも。死刑制度の是非とか。選民思想とか。再審制度とか。一見シンプルな設定でありながら実は盛りに盛っていた作品。思い返すと頭が痺れますが。

 

最後。『言葉を持つことにした者』を知って。無言で振り返った佐伯=大杉漣

なんだか奇跡的な表情に見えて。

俳優大杉漣。プロデュース作品。もっともっと観たかったけれど。先ずはこの作品をみせてくれてありがとうございました。そう思います。