ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「菊とギロチン」

菊とギロチン」観ました。
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瀬々敬久監督作品。189分。

大正末期。関東大震災の頃。実在した女相撲と、大阪発祥のアナーキー集団「ギロチン社」との出会いと交流を描いた作品。

 

瀬々監督が『女相撲』と『ギロチン社』をテーマに練った構想30年の渾身の作品云々。

「こいつは重たい奴が来るぞ」と腹を括ったつもりでしたが。想像以上にヘビー級の作品でした。

 

女相撲』。確か女人禁制のはずの日本の国技『相撲』に於いて。実際に『女相撲』という興行が存在していたという事に唸った当方。山形県発祥。(全てがそうでも無かっただろうけれど。)裸に褌巻いて、みたいなお色気おふざけ集団ではなく。あくまでも大真面目に女同士で相撲を取っていた。

「土俵に女を上げると神様が怒る」その言葉を逆手に取って。彼女らの興行は『雨ごい』として農村地域で人気があり。日本全国を廻っていた。

 

「強くなりたい」「強くなれば何かが変わる」

この物語で描かれた『女相撲玉岩興行』の面々。しかし彼女らはただの見世物として相撲を取っていた訳では無かった。

主人公の新人力士『花菊』(木竜麻生)は田舎で愛が無く結婚し、夫の暴力から逃げ出して入門した。同じように夫から逃げた者、置屋から逃げ出した朝鮮籍の女性等、個人個人の背景は複雑で。共通しているのは「かつて虐げられていた女達」だったという事。

そんな彼女達の「強くなれば」の切実さ。

 

同じ頃。大阪で活動していたアナキスト集団『ギロチン社』。

「社会を変えたい。自由で誰もが平等だと思える社会にしたい」と夢だけは大層だけれど結局は口先だけで。金持ちにたかりに行っては得た金で女や博打につぎ込んでいた。

そんな彼らもオイタが過ぎて(と言うか人殺してますからな)一斉摘発。からがら逃げたギロチン者のリーダー中濱鐵(東出昌大)と古田大次郎寛一郎)。

そこで初めて見た『女相撲』。

 

境遇も立場も全く違う。なのに。互いに惹かれていく彼ら。男達の持っていた、小難しい思想。机上の空論は彼女達の存在に依って次第に血の通ったものとなっていく。

「自由な世界で生きたい」これこそが彼らの共通認識。

 

大体そういう感じの事を、非常に丁寧に描いておられました。

 

当方は哀しくつまらない大人ですので。こういう『アナーキー』を気取る連中にふんと笑ってしまう所があり…「心身共に健康な成人でありながら定職にも就かず。金持ちや親兄弟の脛を齧っていながら…何が社会にモノ申すだ。」「やる事(学業や勤労)を全うしてから偉そうな事を言え」と思ってしまうんですよ。ですので。実在したという『ギロチン社』の事を調べもせずにうがった見方をしてはいけないのは重々承知では居りつつも『お子様』としか思えなくて。

 

けれど。そんな彼らが出会った『女相撲玉岩興行』。

初めこそ「おっぱいポロリしてんじゃねえの」なんて。イロモノ扱いで見に行ったけれど。

思った以上に迫力のある取り組み。盛り上がる会場。引き込まれ。

「俺たちは文筆業だ。取材させてくれ。」始めはそういって強引に彼女達の所に押しかけた。そこから次第に知っていった、彼女達の背景。

 

「これは『弱い人達』の話だ…」

 

女達は暴力を受けていた。それは配偶者あったり恋人であったり。相手は余りにも身勝手。「あいつは俺のもんだ」「だから何をしても良いんだ」そして余りにも彼女達を『モノ扱い』し過ぎていた。

加えて『日本人じゃないから』という暴力。「災いが起きたのはあいつらのせいだ」「あいつらが集団で何かを企んでいる」いわれのない言いがかりが、今暮らしている国も、生まれた国も愛せなくなってしまう。では一体自分は今何人なのか。アイデンティティの崩壊。

しかし。彼女達は甘んじてその状況を受け入れていた訳じゃない。

「強くあれば」

たまたま女相撲を見た。その時感じた衝撃。「強くなりたい」それは腕力としてだけの問題では無く。

兎に角変わりたい。今の自分から変わりたい。

 

その気持ちは『ギロチン社』の残党中濱と古田も同じ。だから猛烈に惹かれた。

 

とは言え。一見暴力を振るっている側もまた、一概に悪と叩ききる事は出来ず。

例えば玉岩興行の力士、十勝川韓英恵)に集団リンチを加えた自警団の面々。

戦争があった。ロシアに行った。お国の為。そう信じて。けれどそれは何度も何度も言い聞かせなければ、自我が崩壊寸前の地獄だった。

戦争当時。どうして俺はここにいる?ここで何をしている?沸き起こる疑問は「お国の為だから」というフレーズで覆わなければ気が狂いそうだった。けれど。ここにいる。戦地にいる。その方がまし。まし?戦地が?なぜなら『お国』で小作農をしている方が辛かった。なのに。

戦争が終わって帰ってみたら。『お国』には居場所がない。俺たちは一体何をしてきたんだ。「お国の為」に。

そこで目に付くイロモノ興行。そこに在籍する、朝鮮人。何だこれ。

 

当然いわれのない暴力に正当性なんて無い。けれど。全体に流れる『弱い人達』の抱える悲しみ。何故暴力が生まれるのかという背景。けれど。

 

決して『弱い人達』全てがやられっぱなしな訳では無い。

どうすれば『強く』なれるのか。『強さ』とは何か。

 

如何せん189分の大作。登場人物もエピソードも多く。全体が混沌としていますので観ているだけであわあわ。正直とても消化しきれませんでしたが。

 

「後単純に俳優陣が充実しすぎやろ。」

川瀬陽太宇野祥平。渋川清彦。「ありがとうございまっす!!」と大声で敬礼しても良い位の当方の『脇役三つ巴』勢ぞろいの布陣。その他もうれしくなっちゃう面々が参加。それだけでお腹一杯胸いっぱい。

 

平成が終わろうとしている今。この混沌とした大正時代後期の。飾らなくて、みっともなくて、けれど一生懸命に生きようとした若者達の話を。

こんなに泥臭く叩きつけた瀬々監督と。そしてこの作品を世に出そうとした人たちの熱意を感じながら。

 

すんなりスマートな解釈を今は出せませんが。こうやって心に受けたヘビー級の衝撃と、その正体を。これからゆっくり紐解いていきたいと思います。