ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「泥の河」

「午前十時の映画祭 泥の河」観ました。

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1981年公開。小栗康平監督作品。1977年の宮本輝による、同名小説の映画化。

 

「最早戦後では無い」高度経済成長の兆しを見せ始めた昭和30年代。

大阪安治川(旧淀川の分流。中の島西端~大阪湾)の川沿いでうどん屋(定食屋)を営む板倉夫妻とその一人息子信雄。

物語はその9歳である信雄(ノブちゃん)視点で描かれる。

 

「大阪。戦後十年の大阪…それは観ないとな」

 

当方も一応、同郷の者として押さえておこうと。「何か聞いた事あるけれど、正直観ていない」この作品を、午前十時の映画祭上映の機会を得て。映画館で観る事が出来ました。

 

余談ですが。

「これ。大阪のどこなん?!いくら36年前とは言え、全く思い当たる風景が無いけれど(天神祭りとかのシーンは別として)」映画鑑賞中戸惑う当方。

後で調べて「名古屋市中川運河にて撮影された」の一文に納得した当方。

 

これまた余談ですが。

「東洋のベニス」「水の都」と呼ばれた大阪。豊臣秀吉の都市開発によって一時は15本の堀が作られた大阪は、江戸時代水路に依って運搬や観光が栄えた。

「確かに今でも川には屋形船や観光船、何かを運搬する船が行きかっている。」「天神祭りもお金がある人達は船から花火を見るからなあ」毎日の通勤風景を思う当方。

「まあ。全然綺麗な川では無いけれどな。」

 

そんな河沿いに建つ、お世辞にも綺麗では無い板倉夫妻が営むうどん屋。

昼時には、近くで働く労働者が。夜にはまた彼らの胃袋を満たす。結構繁盛している店。そこの一人息子信雄(ノブちゃん)。

ある日。店の常連のおっちゃんが事故で亡くなる。そのおっちゃんの荷物がまだ往来に残されたままの雨の日。ノブちゃんは「この鉄売れるで」と覗いていた同い年の少年、松本喜一(きっちゃん)と出会う。

ノブちゃんは河を挟んだ向こうに、つい最近現れた船(また絶妙なボロ船)に住んでいるという。

数日後。きっちゃんの船に遊びに行ったノブちゃんは、2つ年上のきっちゃんの姉、銀子(銀子ちゃん)と、扉越しにきっちゃん達の母親と対面する。きっちゃんの母親はノブちゃんに「あんまりここ(船)には来ない方がいい」と釘を刺す。

同じ頃。板倉夫妻は、向かいに泊まる船が『廓船(売春船)』だと客から知らされる。

 

ノブちゃん、きっちゃん、銀子ちゃん。この子役三者の絶妙な演技。

始めこそ「棒読みやなあ~」と思うけれど。次第にこの世界に己が順応するのか、それともこの子供達が上手くなっていくのか。どんどん引き込まれていくんですよね。

特に当方が堪らなくなったのが「銀子ちゃん」。

「こんな11歳…あかん!!」

きっちゃんとは2つしか変わらないのに。何もかも悟ったていの銀子ちゃん。「親父さんは腕の良い船乗りやったみたいやで」でもその父親が死んで。美しい母親が子供二人を養っていくには体を売るしか無かったという事。
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加賀まりこの美しさよ‼)
学校にも行かず、家事全般を自分が全てこなしている事。幼い弟は、今はこの生活がどういうことか分かっていないけれど、いつかは全て理解する事。周りの人たちが自分たち家族をどういう風に見ているのかという事。…誰にも期待してはいけない事。

 

対して、このノブちゃんの両親。板倉夫妻の良心。

息子が連れてきた「友達」は向かいの廓船の子供。やっぱり初めは一瞬「アイター」と思ってしまいますよ。正直な所。でも。

「子供は親を選ばれへんからな」「いつでも遊びにおいで」

田村高廣藤田弓子。どちらも最高でしたが、特に父親役の田村高廣。ベストアクト。

歳を取ってから生まれたのもあって。ノブちゃんが可愛くて仕方ない。でも彼は自分の子供だけが大切な親ではない。

祖母が母に語った様に。「子供は皆のもんや。あんたも皆に育てて貰ったやろ」そういう考え方の人物。素晴らしい。

見た目もいかにも汚らしくて。どんな子供か分からない。…でも両親はノブちゃんに「きっちゃん達とは付き合うな」とは言わなかった。家に招いて。ご飯を一緒に食べた。

 

またねえ。きっちゃんが歌うシーンからの。不意にやって来た常連客に傷つけられたきっちゃんに手品をして笑顔を取り戻させる、ノブちゃんの父親
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「そりゃあ、お母ちゃん惚れてまうわ」しみじみノブちゃんに語り掛ける当方。あんた最高の父親を持っているよと。

 

けれど。そんなささやかで幸せな日々は続かなくて。

 

円満に見えた板倉夫妻の過去。そこに揺らいだ一家

 

そして。悪夢の様な『天神祭りの夜』

 

またもや余談ですが。天神祭りを知る当方としては「その店絶対その日忙しいんやから、お父ちゃんも舞鶴とか行ってる場合ちゃうで。猫の手も借りたい騒ぎちゃうの。ノブちゃん遊びには行かせられへんで」と思ってしまいました。

(大阪人にのみ通じる会話:天神祭りって有名な天満の界隈でやる奴とほぼ同日に福島でもやるんですね。こちらはこじんまりとしているみたいですが。「九条に住んでいる子供が天満まで歩いて行くって遠いなあ~。って福島神社?そういえばお母ちゃんも「天満までは行きなや」と言って小遣い渡していたなあと)

 

「ああ。優しい世界では終われなかった…」

 

「夜にはあの船には行きなや」そうやんわり言われていたノブちゃんが『廓船』に行ってしまった夜。そこで見た衝撃。

 

「きっちゃん…」きっちゃんがそういう時、どうやって自分の気持ちを紛らわせていたのか。その「サイコパスかお前」という闇に震える当方。

そして。動揺して駆け出すノブちゃんを見る、銀子ちゃんの表情。

 

「最早戦後ではない」そういう時代だと。皆が前へ前へと向かい始めた時代。

ノブちゃんの父親が何度も言った「絶対戦争から帰ったるんや。生きて帰るんや思うてたけれどな。あのおっちゃん(初めに事故死した常連客)やきっちゃんの親父とかみたいにあっけなく犬死するのんを思うとな。一体俺らは何の為に生き残ったんかと。」

 

言い回しは違いますが。大方こういう事をノブちゃんの父親は何回か口にする。

あの幸せな夜、きっちゃんが歌った軍歌に涙ぐんだ父親

妻に語った「俺はな。信雄がおらんかったらどうしてたか分からんで」(言い回しうろ覚え)

 

「そうやと思う。貴方には家族が居るから。妻が居て、息子が居るから。だから今生きている。」そう思う当方。

一体俺は何だ。俺の人生は何だ。そういう逡巡も構わない。存分にしたらいい。でも。貴方には今、もっと大切にする相手がいる。それが分かっているから、過去ばかりを振り返ってはいられない…正に「最早戦後では無い」。

当時。そうやって気持ちを無理矢理切り換えた大人が沢山居たのではないかと。そう思う当方。

 

ノブちゃんときっちゃんが出会った雨の日。きっちゃんが言った「この河には大きなお化け鯉が居るんやで」

あの鯉の下りは、作中ではあんまり以降触れられていませんでしたが。

一体お化け鯉とはなんだったのか。時代の流れに乗れない人々を飲み込んでしまう、そういうメタ的な存在なのか。それともあの船自体を指すのか。ぼんやり思う当方。

 

河をまた流れて行く、あの船を見ながら。少しでも澄んだ場所へ。お化け鯉などいない場所へと行ってくれと。

 

ノブちゃんの声とは裏腹に「これで良いんや」と言い聞かせる。そんなラストでした。