ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「光」

「光」観ました。


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すっかりカンヌ映画祭の常連。河瀬直美監督最新作。

 

映画の音声ガイド製作会社で働く主人公、美佐子。

現在もとある映画作品の音声ガイドを製作中。出来上がった試作品を、実際に視覚障害のあるモニター数名に観て(聴いて)もらい、彼らから率直な感想を受けて。そんな作業を繰り返し、映画館で上映出来る段階まで推敲していく。

その過程の中で。主には気難しい弱視のカメラマン中森雅哉との関わりから。単調な日々の中でくすぶっていた美佐子の気持ちが動き始める。

 

「何故当方がこの作品を観ようと思ったのか…水崎綾女さんが出ているからだ!」

 

特撮にはとんと疎い当方ですので。彼女の特撮時代の御活躍は、残念ながら知りません。ですが。

 

「赤×ピンク」あの衝撃。


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 2014年公開。桜庭一樹原作。坂本浩一監督。まあ…キャットファイトに生きる女性たちが舞台の映画。

 
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あの作品自体は…何だかもう観ている最中から恥ずかしさで一杯になりましたが。

兎に角そこで「ミーコ女王様」を演じた水崎綾女さんがもう…目が離せなくて(エロじゃなくて、良い意味で)それ以降も彼女には注目し続けていました。

 

「そして今回の大作ヒロイン。胸熱」これは観に行かんとあかんなと。

 

そして今回鑑賞し。やっぱり安定の演技力だなと感心し。でもこれからは売れっ子になっちゃうんやろうなあ~と何だか寂しくなっている当方ですが。

 

「この作品の持つテーマの多様性」

「障害者と健常者。その関係性」「人として足りないモノとは何なのか」「してやっている。してもらっている。どちらの言葉もすんなり浮かんでしまう心理」そんなややこしい、あんまり皆が踏み込まないようにしているグレーゾーンに目を向けた作品なんだなあと思いました。

 

まあ、こう羅列しても訳が分かりませんので。ちゃんと書けるのか不安ですが。当方が感じたままにつらつら書いていきたいと思います。

(「障害者」「健常者」という言葉に神経を尖らせる人達が居るのは知っています。ですが当方は今回この表記で進めさせて頂きます。この話をすると長いし、それは本意では無い。そして当方はこの言葉に悪意は全く持っていませんので)

 

当方が普段映画上映時間を確認する時。時々「日本語字幕付き上映」と表示されている回があり、それが聴覚障害がある方達にとって利用しやすい回である事は知っていました。

ですが、視覚障害のある方たちについての映画の楽しみ方は、今まで全く知りませんでした。

どうしても映像というものは、特に「視覚」からの情報が多くを占めていて。もし当方が映像が流れている場所で目を閉じていたとしたら。その内容は殆ど分からない。そう思います。

その見えない世界に。何かしらの情景を浮かび上がらせる。それが音声ガイドなのだとしたら。そんなアシストが出来るなら。それは確かに素晴らしい仕事。…でも。

 

「それは観る(これから『観る』で表現を統一します)相手が望んでいるものにフィットしているのか」

 

映画の元々のテンポ。人物達の会話や動作音。環境や物体の発する音。そこに不自然でない間で音声ガイドを入れる。と言ってもそれは「ナレーション」では無い。

ただ映像の中で起きている事象を羅列してはうるさいだけ。しかもその事象はどう表現すれば観る者達に伝わるのか。その匙加減が分からない。それをモニター達に聞いて刷り合わせていって。これなら分かるかなと訂正すれば「余韻が無い」と言われてしまう。これは難しい。

 

しかも「折角の映画から受け取っている感情を、言葉が駄目にしてしまう」(言い回しうろ覚え)これは泣く。音声ガイドを生業としているなら泣いてしまう言葉。でも。

 

「音声ガイドを付けてくれているのは有難いので…思っても言い出しにくかった」というあるモニターの声に「それを口に出してくれるのは絶対に貴重だ」と思ったり。

 

「こんなにも貴方達に寄り添いたいのに!」そんな言葉は作品にはありませんでしたが。こんなに何回も同じ作品の試作を繰り返して。毎度毎度すっきり終わらない。どうすれば皆に受け入れられる表現が出来るのか。こんなに一生懸命そう思っているのに!その無意識で悪意の一切無い「してやっている」という心理。

そして「こんなに頑張ってくれて。そもそも映画を観る機会を作ってくれているだけでも有難いんだから…」という「してもらっている」という心理。

 

でも。どちらもそこで相手を思って言葉を飲み込んだら。もうその両者には分かり合える時等来ない。どちらも傷つくのは必須でも。自分を分かってもらいたいなら、そして相手を理解したいなら。黙ってはいけない。

 

永瀬正敏演じるカメラマンの中森。有名なカメラマンで。でもどんどん視力を失いつつある。彼は「視覚障害者」でもあるし「ぎりぎり健常者」とも言える。そのバランスの均衡は崩れつつあるけれど。そして何より彼は「表現者」である。

 

もがく美佐子に、毎回辛辣な言葉を投げかけて。随分美佐子を苦しめるけれど。彼は意地悪でそういう態度を取っている訳では無い。

 

「ああ。彼は『表現者』だから。だから『この作品がどう受け止められるのか』『表現者の言いたい世界を伝えられてるのか』が気になっているんだな」当方はそう思いました。

 

健常者だとか。障害者だとか。個々のパーソナルに違いはあっても。人として何かが劣っている訳じゃ無い。

元々作品側の伝えたいメッセージ自体は、如何なる対象に対しても変わらない。(受け取る側がどう捉えるのかは自由ですけれども)でも。作品の持つテーマを。世界を伝えるアシストをする仕事だと。そう謳ってやっているのなら。それは最大限の努力が必要じゃないかと。

 

だから。美佐子が放つ「中森さんは他の皆さんと違って、少し見えているから」「どういう言葉なら分かるとかじゃなくて。見える見えないじゃなくて、それは中森さんの想像力の問題なんじゃないですか」という発言の無神経さには衝撃と嫌悪が隠せず。

 

そして。作品の中で音声ガイドを付けていた映画監督の「貴方にとって映画とは何かね」という言葉に「映画には人を明るくする力があります」(肝心なセリフなのにうろ覚え)といった感じから始まる薄っぺらい美佐子の回答に震える当方。案の定監督は何も語らず。

 

「映画って~」って一言で語れる訳が無い。当方だって何者でもありませんがそれは分かる。確かに元気が出る映画や楽しい映画はある。うって変わって悲しくなる映画や腹が立つ映画…そして寄り添う映画。

 

「でも。何かの世界を感じたくて。それがワクワクするから。楽しくて止められなくて映画館に通ってしまう」当方にとって映画とはそういうもので。

 

この作品に一つ当方が不満だった点。それは「そもそも何故美佐子は音声ガイドの仕事を選んで就いたのか」それがよく分からなかった事。(見落としているなら謝ります)

「映画が好きだから」「(嫌味な意味では無く)献身的な性格から」それとも「何となく就職先がここだった」これって結構美佐子のキャラクター背景として重要じゃないかと思いましたが…映画本編からはよく分かりませんでした。

(もう一つ言うと両親との関わりも中途半端かなあ…いや、言いたい事は分かるんですけれど)

 

ふわふわしていた美佐子が。一つの作品を文字通り皆で作っていく中で。きれいごとでは済まない言葉。感情に揉まれ。そして一緒に足掻く人と肩を並べて。一緒の景色を見て。思いを共有した。

永瀬正敏扮する渾身の中森と。水崎綾女扮する美佐子が何とか着地したラスト。

 

そしてその音声ガイドの映画上映会。

 

「ほうらな。映画館でワクワクして座席に座る人々。この表情。映画の楽しみってこういう事なんやで」

 

どんな人であっても。皆が映画を楽しめる。確かにその作業は困難で苦しいものなんだろうけれども。

 

一番最後の言葉。

それはこの映画そのものでもあったと、当方は思いました。