映画部活動報告「アイアムアヒーロー」
「アイアムアヒーロー」観ました。
花沢健吾原作。佐藤信介監督作品。大泉洋主演。有村架純。長澤まさみ出演作品。
つくづく、当方は漫画を読まない人間なんだなあと。この作品も原作未読ですが。
逃げ惑う人々をひたすら追った予告編。ウイリアム・テル序曲に合わせたテンポ良い…正直、上半期の中でも相当そそられる予告だったと思う当方。
まんまと、つられて観に行った訳ですが。
映画に限りませんが。「お話」って、基本的には誰しもが心の中にバランス表を持っていると思うんですよね。
おっと。これは…当方が最近買ったサボテンでした。(寵愛)
人によって項目は違うでしょうが。
「話の面白さ」「登場人物の魅力」「エロ要素」「ミステリー」「アクション」等、項目は違えど、こういったバランス表は心の中に大抵はある訳ですよ。
で。出来ればこういった表の仕組みとして、バランスの良い5角形になるものが基本手には良作扱いとなる訳ですよ。…あくまで基本としては。
ところが…このバランス表の基準が、あくまでも個人に任されている所以。
何故「項目の設定」は個体差があるのか。
はっきり言って「好み」があるからです。
前述した内容とはっきり矛盾しますが。
「このバランス表に上げる5項目」というのは「とある映画を観るに当たって観る視点」が超個人的な5項目に絞られる訳です。
何を延々と話しているのかというと。
「5点のバランスが良い作品は良作。…でも、ある一点が突出して越えてくる作品もまた、個人的には良作になる。下手したら…他の欠点を持ってしても余る、超名作扱いになる事がある」それが映画バランス表。
「アイアムアヒーローは、お話としては未完成。不親切。ご都合主義。…でも。和製ゾンビ作品としては一級品」
35歳。うだつの上がらない主人公「英雄」何故か銃が趣味で、猟銃を合法的に所持してる。
ある日突然日本全土を襲ったパンデミック。
そこに嫌々ながらも巻き込まれる英雄。猟銃片手に。
果たして彼は「英雄」になれるのか。
映画に対して、起承転結とか、カタルシスとか、整合性とか、そういうものを求めるとしたら、この作品は全く答えていない。
確かにヘタレな英雄が立ち上がるまでの流れとか、描いているっちゃあ描いていますがね。でも「だから?」というすっきりしない感じ。
ダブルヒロインの女子二人。虚ろな有村架純の無限のポテンシャルと、如何せん知り合う前のエピソードの少なさ。活躍の中途半端さ。
長澤まさみの安定したさばさばした感じと、深みを持っていそうなキャラクターでありながらあんまり語られないもどかしさ。
でも、それは要らないんですよ。とりあえず、この作品に於いては時間を余計に使う訳にはいかないんで。
この作品に於いて突出している事。
ズバリ「ZQN」描写。
はっきり言ってゾンビなんですが。始めの「テッコ」から始まるワクワク感。(しっかし、こういうときの片瀬那奈の安定感。ZQNは彼女ではなく体の柔らかいアクターであったとは思いますが…綺麗なお姉さんでありながら、演じる幅が広いですよね。良い意味で)
そこから一気に重ねてくるパニック。そして町の崩壊。
「邦画で…しかも東宝という超王手が。こんなに丁寧にゾンビ映画を作っている!!そして…成立した。胸が熱い。」
エグさ、グロさなど全く臆さない当方が、ひたすらえげつない映像を前にしみじみ。
「かつてグロ=大量の血でごまかしてきた。だが。人類は血の詰まった水風船ではない。それをきちんと描いている。過剰な音楽もない。個人を掘り下げてZQNを悲しく表現しない。お涙頂戴にしていない。」
有村架純だって、だらだら背景を描かないんですよ。それで正解。
話の粗?そんなの、どうだっていいんですよ。こちらがゾンビ映画に求める5点バランスに於いて、1番期待しているのは「ゾンビ描写」そこが埋められているのだから。
韓国ロケも功を奏したんでしょうね。あの「延々ZQNを1体ずつ銃で撃つ。または他のアイテムで殺す」というシーンの成立。日本ではロケ出来ないでしょうし。
なのに、あのシーンを嫌いな人からしたら長く、でもキッチリ全部描ききった「日本人の律義さ」感涙。
まあ。いくら何でもお話は中途半端にぶった切れた状態で終了したので。続編ありきなのかとおもいますが。
当方はこのクオリティーでの続編を、心から待っています。