ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「スポットライト 世紀のスクープ」

「スポットライト 世紀のスクープ」観ました。

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2001年。実在した新聞記事。

ボストン。グローブ紙に新編集長が就任。「読みたい記事を」という彼が取り上げろと言ったのは地元のカトリック系神父の性犯罪事件。
しかしそれは「何となく皆聞いた事がある」「実は目新しくない」「教会を相手にする手ごわさ」「購買層の半数以上がカトリック教徒」兎に角ややこしい事になる事必須の関わりたくない面倒臭い案件。

結果、グローブ紙の中の「スポットライト」という記事を担当するチームが担当する事に。
元から4人でこつこつと2か月ほどに渡る地味な取材、情報収集の後長期連載をするというスタンス。「面倒だなあ」という上層部、古株の気持ちをよそに仕事に取り掛かるチーム。

しかし。当初は「一神父の性犯罪と組織のもみ消し」から始まったそれは「長年に渡る、神父達の性犯罪と、組織として隠蔽していた教会」というとんでもない闇を引き出してしまう…。

アカデミー作品賞受賞作品。でも…正直地味感は否めない。

(勿論、この闇は大問題ですが)奇抜なキャラクターや設定がある訳ではない。スカッとするラストが待ち受ける訳でも無い。大感動でも無い。むしろ真逆な気持ちになるばかりで…まあ、実話ベースですしね。

でも。地味の力。地味に熱い。

圧倒的な勢力を持つ者。絶対に許されるはずの無い性犯罪と隠蔽。

しかし、それを追っていた彼らはすぐに「決して自分達が無垢な正義の味方では無い」と思い知らされる。

性犯罪の被害者達。そしてこの手の犯罪が起きた時に示談を請け負っていた弁護士。

被害者も。ともすれば加害者に加担した者ですら。新聞記者が動くもっと前に新聞社にアクションを起こしていた。彼らならば。彼らが世間に声を上げれば。そうすればこの連鎖が断ち切られるのではないか。…でも。新聞社はそのアクションを見なかった。見逃したのではない。見なかった。

そして、被害者も。加害者も。疲弊し。新聞やメディアへの期待を辞め…時が流れていた。結局は変わらない現状。


地元に根付いた新聞社。売れる記事は。怒らせていけない相手は。保守に流れ、
マンネリ化する新聞。

しかし、「本来の新聞の仕事とは?」「知る権利と、伝える誠実さは?」
善悪の最終判断は一個人。でも、その情報すら提供していない自分たちは何なのかと。

本腰を入れて取材を進める記者達の姿。そこが淡々と描かれる。憤る記者。対したリーダーの声。「怒りにまかせるな」

読者の心を動かすのは怒りの塊では無い。揺るぎない情報の開示。だからそれを余すこと無く集めろと。

このスタンスが、映画全体にも於かれていたのだと思う当方。

性犯罪は許されない。八百万の神をざっくり信仰する者が多い日本と違い、宗教信仰の根強い人種にとって聖職者はイコール神であって。
そんな神が罪を犯す。…しかも、最も憎むべき(かは個人差がありますが)性犯罪。

誰からも大切にされないと心を痛めた子供。そんな子供に神が気づいてくれた。高揚。でもそれはまやかしで。
孤独に付け込まれ、犯された体と心。…でも。神がそんな事をする訳がない。どうして?いけないのは自分なの?

「俺も子供の時、教会に行ってた。今は行ってないけれど。…でも、歳を取ったらまた行くと思っていたんだ。」もう行けない、という記者の言葉。

ある少数の性犯罪を犯した神父が居たって、勿論全ての神父が悪ではない。宗教や信仰によって救われる人は数多居るし、それが本来の姿。
でも。一点の染みが全体を汚れたモノに見せてしまうことだってある。失ったものは、取返しの付かない無邪気な信頼感。


映画作品でちらっとしか触れられていませんでしたが。当方が気になった点。

カトリック神父は独身者で、性的に抑圧された者が多い」そしていかにも温厚で穏やかな元神父の「いたずらはした。でもレイプはしていない」「心がこもっていないものはいたずらだ」という言葉。

性犯罪は悪。でもそう言い切ってしまうだけではなく。「何故彼らに多いのか」「彼らの性に対する考え方」この根本にがっつり食い込んで欲しかったと思う当方。
そして「性犯罪者(だけではなく、全般的な犯罪者に共通しますが)が終始悪者では無い」という怖さと悲しさ。
「あの人は良い人です」と普段言われたりする人物達の、越えてはいけない所を越えてしまう性。その背景。

まあ。そこまで描いてしまっては、どれだけの尺があっても足りないとは思いますが。


この実在の記事発表から15年。かつての「生存者達」は?
そして、新たな「生存者」が生まれていないよう祈るばかりでした。