「映画部活動報告 きみはいい子」
「きみはいい子」観ました。
ある町に於ける、子供達の姿を描く。
「どんな子供も、無条件に愛されるはず」というレギュレーションの厳しさ。
ある者は、自分とは違う幼い自意識に思わず手を挙げ。そんな自分への自己嫌悪で押し潰されそうになっていて。
ある者は未熟な己の視点から「ややこしい保護者の世界と目の前のリアル」に揉まれ。
ある者は、周りとは違うわが子に疲弊して。
ある者は、誰と比べる事もなく目の前の少年を受け入れられて。
大人って、子供の視点から見たら、正しくて、ドンと構えていて、揺るがなくて。
…なはずなのに。そんな大人達の一杯一杯な姿。
でも、そんな大人以上に切羽詰った子供の姿。
母親に叩かれる少女。
一生懸命家計を支える母親。その反面「新しいお父さん」に「夕方17時まで家には帰ってくるな」と言われる少年。
愛されているんやろうけれども、何だか過剰な「わが子は愛しているけれども、他人の事など目に入らない母親」
当方は、(独身)貴族の会に属していましてね。…やっぱり、想像の域は超えないし、「育児」「仕事」「専業主婦の時間の使い方」「社会、及び精神的保障」等は、「朝までどころか、果てしない、いつかの朝まで生テレビ」で討論出来る位のテーマだとは思いますけれども。
ただ…大人達に対して、一つ間違いない事。
「誰もが皆子供であった。」
泣きながら子供を叩く親も、子供を放り出す大人も、過剰なご意見を寄せる大人も。
ぼんやりとした世界にうつろう大人も。皆、かつては子供だった。
皆が誰かに苦しめられたとしても、愛された経験もあって。その大小や感じ方や状況は千差万別やけれども。
絶対に、生まれて一度も誰にも抱かれない子供は居ない。どんな境遇でも。
でも、意識して抱かれる経験は、誰もがそんなにある訳ではない。
そして、年を取れば取る程、そんな経験は無くなっていく。
高良健吾扮する、先生の出した「宿題」。
あの答えを語るシーンは、突然のドキュメンタリー調で。憎たらしいどんちゃん騒ぎを起こしていた子供達も、はにかみながら、憎まれ口を叩きながらも、非常に子供らしい顔をするんですよ。
でも、「多くの者の心を柔らかくする行動が、誰かを傷付ける」事はあって。
「一度に沢山の子供を見ているんですよ!」と叫んだ高良健吾はやっぱり未熟で。
例えば。「悩みがあるなら俺に言えよな!」と、受ける気持ちがある方がどんなに胸襟を開こうとも、言われた方には「相談する自由」があるんですよ。
誰に、どういう形でどこまで心を開くのか。そんなの、強制されて言う事じゃない。
何があっても、結局家族という力は強く。
「自分は、親から愛されていない。」「自分は、子供を愛せない。」
ひいては己の存在価値を揺るがす問題。
倫理的に己の人間性を疑われる問題。
そんな事、おいそれと言えるかと。どれだけの勇気がいるのかと。
苦しむ登場人物達を受け止める存在。それは地域のぼんやりしつつあるおばあちゃんであったり。おおざっぱでありそうで、繊細な主婦であったり。
「孤立している、子育て中の主婦」を救うのは、行政や地域社会。お金だけでは無くて。そういう「近くに居て、寄り添ってくれる誰か」という存在もあるのだろうな~と思いました。
まさしく「力を抜きなさい」と、抱きしめて、「大丈夫」と、背中をさすって、撫でてくれる存在。
そうしてやさしくされて丸くなった気持ちは、誰も傷付けない。
…でも、抱きしめてくれる誰かを見つけられないとしたら?
ネタバレになりますが。
最後に走る高良健吾に「それこそは一人で行ってはいけない!」とリアルの世界から叫んでしまいました。