ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「エイブのキッチンストーリー」

「エイブのキッチンストーリー」観ました。
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アメリカ。NYブルックリン生まれのエイブ。イスラエル系の母親とパレスチナ系の父を持つ。

両親の関係は良好だけれど、互いの祖父祖母たちが顔を合わせてしまうと文化や宗教の違いから衝突が絶えない。

12歳の誕生日。料理作りが大好きなエイブは自らの誕生日パーティの料理を担当。見るからにおいしそうな食事が出来たのに、結局パーティはいつも通り大人たちの言い争いでぶち壊しになってしまった。

傷心のエイブがインターネットを通じて知った「世界各地の味を掛け合わせて『フュージョン料理』を作るブラジル人シェフ、チコの存在。

町で行われていた『フードフェス』に向かい、チコの料理を食べるエイブ。

「料理を掛けわせることで、人々を結びつけることができる」。

フュージョン料理』を自身の背景と重ねたエイブは、チコが働くレンタルキッチンに押し掛け弟子入り。自分にしか作れない『フュージョン料理』で家族を一つにしようと決意する。

 

当方はねえ。お料理映画が大好きなんですよ。

生来食いしん坊なんで。歳を取った今は昔ほど食べられなくなりましたが、大体のモノは食べられるし、料理を作る事もさして苦にならない。(とはいえ、人様にお出しできるようなモンは作れません。あくまで当方用の豪快な山賊料理。)

しち面倒な理屈を捏ねられると閉口しますが。大抵どの映画でも料理を作っているシーンは好き。飾らない食事が好き。

なので。この作品のような「料理をすることが大好きな少年」「ワクワクしながら料理を作る姿」というのはいつまでも観ていられる。しかも主人公エイブを演じたノア・シュナップのキュートさ。正直85分では全然足りない。もっと欲しいもっともっと欲しい。
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イスラエル系の母親とパレスチナ系の父親。両家の祖父母。イスラム教とユダヤ教。文化の違い。自国に対する思いの違い。結婚したのち無宗教に転じた父親。妻を亡くし、知人の男性と行動を共にしている母方の祖父。

そして。エイブの家族を含め。今はアメリカにて生活している。

「これはエイブ以外にもスポットを当てるべき要素が一杯あるぞ」「盛りすぎやろう」。

両親が結婚した時。「もう15年も前のことなのに」母親はうんざりした声を上げるけれど、まだまだ祖父母たちのわだかまりは解けない。今でもエイブ一家を認めていない。

我が子を愛している。その息子、エイブも可愛い。けれど…我が子の伴侶と一族が気にくわない。

 

「ああもう苛々する。そんなに嫌なら集まらなければいいのに!」

 

序盤。12歳の誕生パーティのレシピを自らコーディネートしたエイブ。微笑ましくて当方ならば多少アレなモノが出たとしても全部食べる(宗教上タブーなモノは除外)。自分の腕を振るって、皆が楽しめる食事を作ってくれた。主役は誕生日のエイブなのに。

両親の心配は的中。結局両家が顔を合わせれば言い争いが始まり、楽しい気分はぶち壊された。最悪な誕生日パーティ。
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「これは。エイブが努力してどうこうする問題じゃないやろう」。「大人たちが悪い」。

真顔の当方。これを言っては実も蓋もないですが…自分たちのいざこざのせいで12歳の少年を苦しめているという自覚が無い。こういう大人の都合は大人同士で解決してくれ。我が我がの一方的なやり取りの応酬。あまりにもエイブへの思いやりに欠け過ぎている。

 

そんな時に知り合った、ブラジル人シェフのチコ。チコが作る、世界各地の料理を組み合わせた『フュージョン料理』という創作料理に魅せられるエイブ。

折しも夏休み。サマースクールとして入学した料理教室のあまりのレベルの低さに、そこに通うフリをしてチコのレンタルキッチンに弟子入り。

初めこそ皿洗いを始めとした雑用係だったけれど。次第に料理を教えてもらえるようになって。チコから料理や味の組み立て方を学ぶエイブ。

 

両家が顔を合わせれば険悪になってしまう祖父母たち。しかし決して元は悪い人たちではない。彼らの食卓で出されるものや食事に対する考え。宗教。文化。

皆が揃うと残念な事になってしまうけれど。個々人の事は尊敬できるし愛している。

「だから。家族の皆が食べられる『フュージョン料理』を作れば。楽しく過ごせるんじゃないか。分かり合えるんじゃないか」。

 

なんていじらしい。どこまでもぶれないエイブのいい子っぷりに胸の締め付けが収まらない当方。

折角盛り上がっていた、チコ道場での秘密のお料理レッスンが両親にばれて取り上げられるなど「まあ…確かに…隠れてこういう事はアカンやろうな」と思う展開もあったけれど。

 

『家族の皆にエイブの作った料理を振舞う会』。満を持して執り行われた、エイブ主催の家族会。渾身のフュージョン料理。

「なのに!なんなんだアンタ達のその態度は!」

 

順を追ってネタバレしていく事は良い事ではない。そう思うので一体この会はどうなったのか。そしてどう家族は向き合ったのか。そこはふんわりさせながら風呂敷を畳んでいこうと思いますが。

 

「12歳の孫が家族を想って作った料理を前に、よくもそんな態度を取れるな」。

「ああもういたたまれない」「ああエイブ!」「エイブが居ない所でそんな…」。

映画館の暗闇の中。マスクの下で何度も何度も溜息を付いた当方。これではあまりにもエイブが不憫。

 

大人たちの関係性はこの家族会を経て、一応温かなものへと変化したのですが…描かれていないだけで、大人たちはエイブにきちんと謝罪をしたのだと思いたい。そしてエイブ不在の間自分たちがどういう会話をしたのか。家族を一つにしたいと努力したエイブに対して誠実な対応をして欲しい。

 

ちょっと視点を変えれば、深刻でややこしい問題が見え隠れしているこの物語がどこまでもポップで明るいのは「料理のシーンが楽しいから」。

 

「エイブの家庭、結構富裕層。だって12歳の少年が扱うにしては何もかもが本格的な食材ばかり…丸鶏なんてそうそう買えるか!」そもそもエイブが料理をすること自体が必要に迫られていない。チコ達レンタルキッチンの面々が抱える背景とはまた違う。そんな思いも過りましたが。これを言い出すと膨らみ過ぎますので。

 

総じて「美味いもんは美味い」「美味いんは正義」。

どんな複雑でうんざりするような問題に悩んでいても、美味しいものを食べれば気持ちがほころぶ。

「料理を掛けわせることで、人々を結びつけることができる」。

 

85分があっという間。もっと欲しい気もするけれど…ちょうど腹八分目かと。美味しい映画でした。f:id:watanabeseijin:20201215225327j:image

映画部活動報告「Mank/マンク」

「Mank/マンク」観ました。
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 1941年アメリカ公開の映画『市民ケーン』。

オーソン・ウェルズ監督。そして脚本、ハーマン・J・マンキー・ウィッツ。

新聞王ケーンの生涯を、ケーンを追う新聞記者を狂言回しにして描き出した作品。

元々は新聞屋から大富豪へとのし上がり、政治にも進出したケーン。美しい愛人にも恵まれ…しかし結局彼が欲しかったものとは何だったのか。

主人公のケーンは、当時の権力者ウィリアム・ランドルフ・ハーストを連想するに容易く。作品公開にあたり、ハーストに依るあからさまな上映妨害運動が頻発。

しかし世間からの注目によりその年の第14回アカデミー賞に多数ノミネート。結果皮肉にも脚本賞での受賞となった。

その後も英国映画協会でのオールタイムベストとして数回選出されるなど、根強い人気を誇る。

その作品を産んだ脚本家、ハーマン・J・マンキー・ウィッツに焦点を当てた今作。

デヴィット・フィンチャー監督。脚本は父親のジャック・フィンチャーの遺稿。Netflix配信映画。

 

「正直に告白すると、当方は『市民ケーン』未見」。

 

「えっ?!だってこれ‼」間違いない。これは『市民ケーン』鑑賞ありきの映画作品。

余りにも有名。有名すぎて却って「大きいスクリーンで観たい」とかうだうだしている内に未見のままここまで来た。調べれば大まかなあらすじや当時のごたごたも目にする…けれど…言い訳はこれくらいにして。

 

「どうも『Mank/マンク』が面白いらしい」。「デヴィット・フィンチャー監督」。どうにもこうにも気になって。映画館鑑賞に至った当方。

 

どう考えても『市民ケーン』鑑賞ありき。これまでも思うがままに垂れ流してきたこの感想文の中でも、ぶっちぎりの薄っぺらさで駆け抜けていこうかと思う当方。

 

1930年代。『市民ケーン』の脚本を仕上げるべく取り組んでいたマンク。アルコール依存症。怪我からの療養生活を兼ねた半缶詰状態の脚本執筆の日々や、親交の深かった新聞王ハーネストとその妻マリオンとの日々などが描かれていた。

当時もまた、現在とシンクロするかの様に不景気で。そんな中で当方が印象的だったのは「国政選挙活動としての、いわゆるフェイクニュースを映画製作している人たちが作っていた」シーン。

 

「今は~陣営が優勢」「今世の中はこうなっている」皆がリアルタイムの情報源を持っていなかった時代に。貴重な映像は世論を操作するために作られる。

けれど…それは果たして過去の事なのか。現代に生きる我々は本当に沢山ある真実や意見、考えから己の思想を導きだしているのか。

 

浅瀬に居る当方の、何も調べず呟くたわごと。

「今全世界で(割とお手軽なお値段で加入出来て)配信されているNetflixの場で有名監督がこういう作品を輩出している理由は何なのだろう?」

監督父親の遺稿。やりたい題材だった。製作費や会社との折り合い。大手配給会社とのしがらみのなさ。エトセトラ。エトセトラ。多くの条件が重なり生まれた。勿論そうなんでしょうが。

「これが、今社会で起きている事に対して、映画人が声を上げる方法なんだろう」。

何となく。何となくそう思う当方。

 

「一代で成り上がり。富権力を得た男が最後に本当に欲しかったもの」そのもの哀しさを描いたのが『市民ケーン』だったとしたら。

そんな作品を生み出した男が見た時代と。どこかシンクロする今こそとっておきの作品を世に出すべきだと、そう思ったのではないか。

 

ところで。この作品を映画館で観るに当たって、事前に『市民ケーン』を観るという手段…勿論考えましたが。

「そういう付け焼刃で知った様な事、言いたくないな」「もうこれはじっくりいくしかない」。

 

唐突に話が脱線しますが。『不思議の国のアリス』という有名過ぎる作品を生んだ、ルイス・キャロル(チャールズ・ドジスン)。

彼の事を始めて知った中学生の当方が受けた衝撃。けれどそれは「気持ち悪う」では無く。

「こんなに世界中から愛される作品が、元々はたった一人の少女に贈られた物語だった」という極めてシンプルな誕生だったこと。

「ねえ。何かお話聞かせて」そうせがまれて幼いアリス・リデルに語った、思いつきのオリジナルストーリー。それをおこして本にして彼女に贈った。けれどその物語は多くの人の心に残り、世界中で語り継がれている。

 

誰もが知っている作品。これまで鑑賞した多く人の心を揺さぶり、何かを語らずにはいられない。

けれど。その作品が生まれるに至った経緯。そこにはまた別の物語があった。その内情を知った時。今まで見えていた世界が大きく広がっていく。

 

主人公マンクを演じたゲイリー・オールドマンの熱演や「しっかし俳優陣豪華やなあ~」というキャスティング。『市民ケーン』を踏まえたという演出などなど。どう考えてもただのモノクロじゃない。拗らせ拘った、オタク映像作品なのは間違いない。

 

「まあこれはどう考えてもちゃんと『市民ケーン』を観ないと…」。

どう強がっても苦しい。年貢の納め時。言い訳しないで探しに行かないとな。折角映画人が声を上げてれているんやから。

Netflix映画作品。映画館に流れてくるものは相当自信のあるチョイスで選択しているんでしょうが…レベルが高くて毎度唸ってばかりです。

映画部活動報告「ルクスエテルナ 永遠の光」

「ルクスエテルナ 永遠の光」観ました。
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『注意:本作は光に対して敏感なお客様がご覧になられた場合、光の点滅が続くなど、光感受性反応による諸症状を引き起す可能性のあるシーンが含まれております。ご鑑賞いただく際には予めご注意ください』

 

悪趣味と芸術のスレスレをいく映画監督、ギャスパー・ノエ(当方の決めつけ)。

雪山の施設で。酒と薬物でキマってしまったダンサー集団の阿鼻叫喚の一夜を描いた、前作『CLIMAX クライマックス』の記憶も新しい。そんな監督の最新作はファッションブランド、サンローランのアートプロジェクト作品。

「様々な個性の複雑性を強調しながら、サンローランを想起させるアーティストの視点を通して現代社会を描く」というコンセプトでスタートさせたアートプロジェクト『SELF』(映画館予告チラシからそのまま抜粋)」。

 

「映画館で敢えてポケモンショックを?!」

オサレとも小難しいアートとも無縁。ただただ物珍しさで鑑賞に至った当方。

ポケモンショックとは:1997年にテレビ放映されていたテレビアニメ『ポケットモンスター』の視聴者が光過敏性発作を起こした放送事故・事件)

 

魔女狩りを描いた映画作品の撮影現場。主演女優はシャルロット・ゲンスブール

女優出身の監督ベアトリス・ダルが延々鬱陶しい自分語りを繰り広げるのを皮切りに「これはあかん現場やなあ~」と思わずうなってしまう、混沌とした現場。

ヒステリックな女性監督。歯車がこれっぽっちも噛み合っていないスタッフ。ぞんざいな扱いを受けていることに声を荒げる共演者。監督を引きずり降ろそうとしているプロデューサーと撮影監督。シャルロットを自分の作品に出したくて売り込みに来ている新人監督。報道。「何で部外者がこんなにうろうろしているのよ!」監督が吠えるのもごもっとも。誰もがフラストレーションを抱え、一触即発状態。

いつ誰が爆発してもおかしくないそこで。愛娘からシャルロットへ気になる電話。一体何事か。娘の元に掛けつけたくていても経ってもおれない状態のシャルロットが迎えた『磔のシーン』。

 

お話の中身はこれが全て。

正味51分というショート・ムービーの中で。雪だるま式に膨らんでいくフラストレーションを溜めに溜めて…衝動を爆発させる怒涛のフラッシュシーン。

 

鑑賞した日曜日。未明から緊急で職場に呼ばれて仕事明けだった当方。ほぼ寝ていなかった体に「光に対して敏感な云々~」の文言。一瞬怯んだものの「いやいや。元々今日はこの映画を観る予定だったんだ。試した事はないけれど光感受性反応を体験した事もないし…しっかりご飯さえ食べていれば大丈夫なはずだ」。

そう己に言い聞かせ。映画館のすぐそばのマクドナルドでしっかりダブルチーズバーガーセットを摂取(余談ですが当方はマクドナルドではダブルチーズバーガーセット一択)し鑑賞に挑んだ当方。

 

「これ51分で限界。こんな現場これ以上見せられんの厳しすぎる」「光ィ⁈なんていうかもう…目が痛い!」。

 

嵌る人にはとことん嵌ったらしい今作。実際映画館で当方の後方座席に座っていたカップルは、劇場が明るくなった途端に「うわあ~これめっちゃおもろくない?」「めっちゃ凄い。おもろかった~。IMAXで観たかったくらいやでえ~」と座席で伸びをしながら、若干オーバーさを感じるほどに大絶賛。「具体的にはどういう点が?」という言葉を喉元で何とか飲み込みましたが…刺さる人には堪らんかった様子。

 

こんな書き方をしている所からお察しして頂きたい。当方は…あまり…。

多分『ヒステリックな女性』とか『相手の都合を一切考えずにグイグイ我を押し通してくる輩』とかが本当に苦手なのと。どんどん積み重なってくるストレスフルな現場描写に苛々とフラストレーションを溜めていって…からの爆発した(文字通り)閃光シーンが。けれどそれがどうにもこうにも「うるさい」。

多分ねえ…疲労困憊というコンディションも相まったんだとは思いますよ。「一体何が起きるのかな?オラ、ワクワクすっぞ!」というテンションでは構えていなかったんで。

 

ギャスパー・ノエ監督は敢えてこういう設定にしたんだとは思いますが。女優ベアトリス・ダルが満を持して監督として魔女狩りを描いた映画を撮るにしては絵面がチープ。セット感があり過ぎるし女優たちの服装もやや下品。

「いやいや実際こんなんもんやで!」と言われたらそこまでですが。低予算B級カルト作品感がプンプンする現場。『主演・シャルロット・ゲンスブール』という一点豪華主義で作られようとしていたのか?

安っぽい現場なのに、高尚な御託をこねて統率の取れない女優上がりの監督。疲弊し苛立つ現場。そこで行われた撮影監督たちの強行突破。「ほら。俺たちが演出してやるから見せてみろよ。火あぶりにされる魔女の姿ってやつをさあ」。

 

「それがこれなんですか?」「これってクラブ的な光と音楽の演出じゃないですか?」「それがこれなんですか?」「シャルロット・ゲンスブールよ。アナタもっと演れるんじゃないの?」「それがこれなんですか?」。

光の世界の中。ただただ脳内で問い続けた当方。そしてひたすら「目が痛い」。

 

疲労困憊。帰宅後泥の様に眠りに落ちた当方。目を閉じるとチカチカ赤と青の光が交差する。脳が痺れている。寝ても覚めても何かが点滅している。一日その感触が取れなかった。

 

まあ、嵌る人にはとことん嵌る作品。光過敏症の方にはポケモンショックを引き起こす可能性がある作品。そして当方にとっては「目と頭が痛くなった」作品。

ところで。実際の撮影現場では光過敏症の人は居なかったんですかね?勿論あのままのフラッシュの強さでは無かったんでしょうけれど…気になる所です。

 

 

映画部活動報告「泣く子はいねぇが」

「泣く子はいねぇが」観ました。
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「こんな俺でも、父親になれますか?」

佐藤快磨監督長編劇場デビュー作品。主演、仲野太賀。吉岡里帆

 

秋田県男鹿半島。たすく(仲野太賀)とことね(吉岡里穂)夫婦に女の子が生まれた。

互いに20代。どこかまだ幼いたすくに疲労し苛立つことね。互いに我が子は可愛いけれどギスギスする二人。

晦日。いつもの仲間に誘われて「直ぐに帰るから」「酒は飲まないから」と約束し恒例の『なまはげ神事』に向かったたすく。

そこで振舞われた酒に泥酔。よりにもよって地元テレビの生中継中に、なまはげのお面と全裸といういで立ちで奇声を上げながら映り込むという奇行に走ってしまった。

2年後。離婚し、東京で一人暮らしをしていたたすくの元に舞い込んできたことねの近況。

居ても経ってもおれずに秋田に帰省したたすく。なんとかことねとの復縁を試みるが。

 

「ああもうアンタそこに正座!」終始説教をかましたくなるような…そんなあかんたれ全開のたすくにじりじりし…なのに最後どうしようもない気持ちがこみあげてくる。そんな作品。

 

「若い夫婦」「子供が生まれたけれど、夫は親の自覚が無くフワフワしていて妻は疲労困憊」「何か協力はしようとしているけれど、最早夫の全てがむかついて仕方ない妻」「存在自体が腹立たしい」「夫はきちんとした職に就いているのかも怪しい」「そんな中、地元の男たちの集いに向かった夫」「直ぐに帰ってくるどころか、テレビに失態を晒す夫」「地元の恥」

もう何の援護射撃も出来ない位散々なたすく。お面を付けていたとはいえ、お茶の間に全裸晒すのは…寧ろそのお面のせいで『なまはげ神事』そのものに泥を塗ってしまった。

 

当方も酒飲みなので…しんどい現実に目を向けたくない時に、いけない方向に酒が進んで羽目を外すのは分からなくはない…なので居たたまれない気分で一杯(裸になった事はないですけれど)になりましたが。

家庭にも地元にも居場所を無くし。東京砂漠へ逃げ込み。誰とも深く付き合わない様にしてきたのに…地元の幼馴染、志波亮介(寛一郎)からことねの近況を聞いて、秋田に戻ってきたたすく。

 

それがもう。「あわよくば」感が隠せていなさすぎて。

 

「お前はさあ」そう言って、呆れて突き放したたすくの兄(山中崇)。彼の言葉に全面同意の当方。「本当に調子がいいよな(そうは言っていない)」。

テレビを通じて自分の裸を晒して。そのせいで地元の伝統ある行事は消滅寸前まで追い込まれた。お前は東京に逃げてそれで済んだかもしれないけれど、地元に残った母親や自分がどんな思いをしてきたか。2年という月日が経って、お前は何となく許されるんじゃないかという気持ちでふらっと帰ってきたのかもしれないけれど。今更誰もお前には謝罪どころか声を発してもらおうとも思っていないんだよ。だからとっとと東京に帰れ。(言い回しうろ覚え)。

 

妻ことね。地元に残り、一人で娘を育ててきた。

今さら現れた、別れた夫。何故今でも私があなたの事を好きだと思っているの?どうして私を助けてくれる相手はあなただけしかいないと思っているの?うぬぼれんじゃない。

 

秋田から東京に逃げた。そうして悶々と過ごしていた時間…それが他の人にとっても同じだったと錯覚してしまう。

今自分にとって必要なパーツを見つけた。ここを埋めれば自分は前に進める。かつて上手くいかなかった事が。こんどは上手くいく。やり直せる。

「そういう、自分本位にしか物事を見れていない所やで」。険しい顔をする当方。

どうして相手も同じだと決めつけているんだ。

 

仲野太賀という役者。引き出しが多く総じて達者な演技をする俳優だという安心感。『たすく』という、どうにもあまちゃんな…けれど憎めないキャラクターは自然過ぎる位に沁みてきていましたが。

「吉岡里穂ってこんな演技が出来る俳優だったのか」。失礼ながらあまり彼女のポテンシャルを理解していなかった当方の目から鱗。「これは良すぎる」。

始め。生まれたばかりの我が子を気にしながらも、ピリピリとした雰囲気と何かと刺さってくる物言いをして、たすくの精神を削ってくることねのリアルさに頷いた当方。

2年後。たすくと再会したことね。たすくの母せつ子(余貴美子)をパチンコ屋でばったり再会した時のことね。そしてたすくときちんと向き合ったことね。

「こんなに良い役者さんだったなんて…(何様だ)」。

 

頼りない夫と別れ、一人で娘を育ててきた。もうそれだけで…誰が何を責めるというのだろう。そう思った当方。

資格を取って職にも就いた。夜も働いた。娘を保育園に預けている間には、息抜きにパチンコをした。だから何だというのか。ことねは逃げていない。

パチンコ屋でばったり再会した元義理の母。何となく二人で外に出て。あの時ことねはせつ子に何を言おうとしたのか…監督の演出の意図を踏み倒した勝手な印象ですが…当方はことねが何かを言おうと口を開いたタイミングで「大丈夫」と畳みかけたせつ子には、優しさと…「言い訳しなさんな」という封じ手を感じた。

「うちのバカ息子と別れて一生懸命子育てしているアンタは偉い」。「息抜きをしている、遊んでいるなんて引け目を感じなくていい」。「アンタは私にクドクド言い訳をしなさんな」。「大丈夫」。「アンタは大丈夫」。

 

地元に戻ったけれど。結局定職に就かず、ふらふら日銭を稼ぐたすく。そんなたすくを見放さずに面倒を見てくれる母と憎めぬ幼馴染亮平。けれど誰もかれもがたすくに優しい訳ではない。

言いにくい事をきちんと言ってくれるたすくの兄。そして『なまはげ保存会会長』の夏井さん(柳葉敏郎)。無視せずに怒ってくれる人…彼らがどれだけ辛かっただろうか。

本当にねえ…たすくさんよ。周りを大切にしないとあかんよ。

 

終盤。『覆水盆に返らず』の展開に「そりゃそうやろうな」と思いながらも…またもや巡って来た大晦日の夜。そこでたすくが取った行動に「だからなまはげやったんかああ」と感情が爆発して涙が出た当方。切なくて。無様で。でもたすくにはこれしか方法が無かった。

 

誰の伴侶でも親でもない当方。「いい年して結婚もしていないのはどこかおかしい所があるんやろうな」そう思われる事も(流石に面と向かっては言われませんが)ありますが。当方からしたら「親っていう人間が必ずしも大人だとは限らないんよな」と思う事もしばしば。けれどそう思っている相手が、ひょっと「ああこの人は子供を持つ人だな」という顔を見せる事がある。

何分経験が無いのでアレですが…「子供が生まれたからと言って突然親になる訳ではない」というのは真理だと思う当方。「親になる」そのスピードもまちまち。夫婦ですら。

 

これまで夫婦と娘の三人で同じ時を過ごせなかった。もう一度同じ形でやり直せないか足掻いたけれど…娘の幸せを祈って自分が初めて親として出来る事はこの選択だった。

 

『泣く子はいねぇが』このバカたれが。そう思って腕組みしていたら最後、怒涛の感情の爆発に涙が止まらなくなる。寒い秋田の泣いた赤鬼。良作です。

映画部活動報告「アウェイデイズ」

「アウェイデイズ」観ました。
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1979年、イングランド北西部マージ―サイド州バーケンヘッド。

一年前に母親を亡くした19歳のカーディ。絵描きの夢を諦めて下級公務員として働き、父親と学生の妹モリ―と3人暮らし。そんなカーディの収入はもっぱらクラブ遊び、レコード、サッカー、ライブにつぎ込まれていた。

ある日『Echo&TheBunnymen』のライブで出会ったエルディス。彼は悪名高いギャング集団『パック』の一員だった。

かねてから憧れていた『パック』の一員になりたくて興奮するカーディ。晴れてメンバーになる事が出来たけれど。

 

ピーターストーム、フレッドベリー、ロイスのジーンズ、アディダスのスニーカー。現代のファッション観でも十分に高感度の高い『カジュアル』なスタイル。

(そもそも『カジュアル』とは、形式ばらず、くつろいでいるさま。特に、気軽な服装を指す)。

しかしこれはイングランドで1980年代頃に出来た『Football Casual』スタイル。週末にサッカースタジアムに通う労働者階級のファッションをそう呼んだ。

リヴァプールのサポータたちが、アディダスのスニーカーを手に入れそれを履いてロンドンのチームとの試合に行く。ロンドン子はその姿に感化され真似をした。

 

~とまあ。ざっくり「スポーツブランドで全身を固めて、贔屓にしているサッカーチームの応援に行くというスタイル」が流行ったんだろうなと解釈した当方。

 

この作品の『パック』なるサポーターチーム。

これが一言で言うと『フーリガン=ギャング集団』なんですわ。

チームリーダーのゴッドン。彼だけがやや年配だけれど後は概ね10~20代前半の少年たち。血気盛んで自分たちの置かれている状況に対するフラストレーションにいら立っている。ちょっとでもきっかけがあれば誰かに拳をぶつけたい…物理的に。

一見サッカーサポーターの風貌で。実際にサッカーチームの遠征に付き添ってあちこち行くけれど、実際にそこでやっているのは「地元の強い奴出てこい!」という喧嘩。

しかも。当方が眉をひそめた『パック』のいけない点。「刃物を振り回す奴がいる」。

喧嘩のお作法なんて存じ上げませんがねえ。ヤンキー同士の喧嘩は素手かせいぜい?木刀か竹刀やろう。何にしろ、いきなりポケットからナイフを取り出して向けてくる奴は卑怯の極み。こちらは丸腰なのに。

 

19歳のカーディ。絵描きになりたかったけれど…母親を亡くし、働くしかなかった。

本当は若者らしく遊んでいたかった…結構アフターファイブは充実している様に当方には見えるけれど…そういった中、ライブ会場で出会ったエルディス。

エルディスはカーディが憧れるギャング集団『パック』の一員であると知って。是非とも自分も仲間に入れてくれと頼み込むカーディ。

そうして晴れて『パック』の一員になれたけれど。エルディスは「あまり深入りするんじゃない(言い回しうろ覚え)」と全然乗り気ではない。

 

そもそも血気盛んな『パック』のメンバーの中でも、若干引いた場所に身を置いていたエルディスはやや特殊な存在だった。

憧れの『パック』の一員として認められたくて危険な行為に走っていくカーディ。

 

「終わりなんだろ?俺たちはもうー。」

ああもう。当方の脳内で何度も響く「まだ何も始まっちゃいないぜ」。

 

つまりは。「もうこんな子供じみた騒ぎに興じていられない」と飽きていたエルディスに対し「遅咲きの反抗期全開」で『パック』に飛び込んできたカーディ。

そもそもはライブハウスで知り合った。一緒にレコード店を巡り、ただただ町をぶらついた。何もない…何も見つけようとしていない、ただ閉塞感で押しつぶされそうなこの町を早く出ていきたいと語り合った。

絶対に気が合う。もっと深い話がしたい。趣味のこと、芸術のこと、死生観。今思っていることをとことん話合いたい。

各々抱える問題があるのだろうけれど。そのはけ口を他人への暴力などで発散する連中にはもう辟易していた。そんな時に出会った、親友になりそうな存在。

 

結構即物的にガールハントするカーディに対し、頑なに女子を拒みカーディとの交流を切望するエルディス。そんなエルディスに「きっとゲイなのよ」と決めつける女子。

…まあそういう要素も感じましたが…それよりも何よりも「心を打ち解けられる相手」が欲しくて欲しくて仕方が無かったんだろうな~と思った当方。

 

物語の終盤。「海外の危なっかしいホームパーティ文化」という当方には理解できない現場で起きた悲し過ぎる出来事と『パック』の存続自体が危ぶまれる事件の発生。

「暴力を暴力で返してはならない」「負の連鎖は何も生まない」当方は心の中で大きく叫ぶけれど…カーディはどう行動したのか。そして。

 

アッという間に劇場公開が終了してしまいましたが。一応全てのネタバレはしないようにしたい…なのでふんわり結末を濁してまとめてしまいますが。

 

『自分はどういう人間なのか』永遠に問い続ける己のスタンス。どういう思想の持主なのか。どうやったら自分を保っていけるのか。

前に見えている人や集団に憧れる。そんな思いが若い頃にあった。けれど、実際にそこに身を投じてみたら…それは果たしてなりたかった自分だったか。

苛々していたから大きな声を上げた。誰かに拳をぶつけたらすっきりした。けれど。それは一時だけで。誰かを殴ったその拳は痛かった。

集団から爪弾かれた時に想いを打ち明けられる相手。今なら分かる、何でも話せる。そう思う相手が確かに居たのに。もうどこにも居ない。二度と会えない。

 

「切ない」。

 

あくまで推測ですが。カーディはそのままギャング集団『パック』からは卒業し。公務員を続けるにしても美術の道に進むにしても、おそらくかつて彼らが見向きもしなかった『つまんない大人』として生きていくのだろう。そうして歳を取って、ふとした時に思い出す「そんな頃があったな…」。

けれど「そんな頃」に閉じ込められてもう歳を取らない相手。かけがえのない親友。

 

物語が始まった時から何故がずっと終わりの予感が止まらなくて。何だか寂しくて仕方が無かった。そんな作品。英国での公開2009年から11年。短い劇場公開期間でしたが何とか滑り込み鑑賞出来て良かったです。

映画部活動報告「本気のしるし《劇場版》」

「本気のしるし《劇場版》」観ました。
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「その女、出会ったことが事故だったー」

 

星里もちるの同名漫画を映像化。深田晃司監督作品。

2019年10月からメ~テレ(名古屋テレビ)他で放送されるやいなや賛否両論の大反響を呼んだドラマ。その後劇場版へとディレクターズカット版として再編集。カンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションに選出された(今年5月のカンヌ国際映画祭自体が開催を見送られた)。

10月の映画館上映封切から「今年の邦画最高峰!」「やばいやばいやばい」「これを観ずに何を観る?」といった感想が(当方的に)溢れかえり…約4時間の上映時間とスケジュールの折り合いが付かない日々を送った挙句、当方の生息地域映画館の上映最終日に滑り込む事が出来ました。

 

昭:いやこれ…きつかったな(溜息)。

和:きつかった…232分もの間、一時も主人公男女に感情移入出来なかった。

昭:散々言ってしまっているけれどさあ。メンヘラ系女子、苦手なんですわ。

和:いやいやいや。これヒロインの浮世だけじゃなくて、辻くんも相当アレやからね。

昭:そうやねよなあ…『当方の心に住む男女キャラ、昭と和(あきらとかず)』の男女の立場から語る会話劇は多分成立しない…だって彼らの立場どちらにも立てないもん。

和:まあ…諦めんと。ざっくりあらすじ追ってみよう。

 

昭:花火をメインとした?子供玩具の卸しを扱う会社に勤める辻一路(森崎ウィン)。営業職をそつなくこなし、社内の女性社員二人と二股しつつ淡々と暮らしていた辻。

ある夜、立ち寄ったコンビニで出会った女性。他愛もない会話を二三交わした後、二度度と会うことなどないと思っていたのに。コンビニから帰宅途中、電車の踏切内で車で立ち往生している彼女に再び遭遇。

和:何とか踏み切り事故を回避できたのに…騒ぎを聞きつけてやって来た警察官に対し、辻のせいだと嘘をつくその女性。

昭:はいアウト。

和:早い早い早い。結局直ぐに誤解は解けたけれど。警察とのやり取りが終わった後も「お金が無いんです」と辻に金の無心。何故か(昭:何故だ!)言われるがままに金を渡し。けれどそのまま逃げられない様に彼女の名前と電話番号を確認した。彼女の名前は葉山浮世(土村芳)。

昭:けれど。案の定浮世からの連絡はなし。それどころか浮世がその時乗っていた車のレンタカー会社からレンタル料金の延滞の催促が辻の携帯に再三掛かってくるようになる。

和:何度かは突っぱねたけれど。結局延滞料金を支払い(昭:何故だ!)。そのまま泣き寝入りか?と思っていた矢先、営業帰りにベンチで寝ている浮世に遭遇。

昭:このペースであらすじ追ってたらいつまで経っても終わらんし、精神衛生上悪い…フラストレーションがたまりまくっておかしくなるぞ。

和:~とまあ、最悪の出会い方をした辻くんと浮世なんですがねえ。兎に角浮世がひどいんですわ。

昭:ぱっと目を引くタイプでなく、いかにも弱弱しい。二言目には「すみません」「私のせいなんです」と誤ってくる。一人では危なっかしい。この子は俺が付いていないといけないんじゃないか。

和:やっていけんだよおおおおお。こういう輩の方が男の庇護欲くすぐりながら逞しく生きていけるんだよおおおおお。

昭:でもなあ。浮世の脳内の読めなさは『そういう女性のしたたかさ』では説明出来ない感じがしたぞ。なんていうか…病気?…その場しのぎの嘘も行動もあまりにも突拍子が無さすぎて。正直、浮世に関しては「訳わからん。こいつとは絶対関わるべきじゃない」としか思えなかった。なので…寧ろ怖さを感じたのは浮世を全て受け入れていく辻くん。

 

和:二人が出会うきっかけになった踏切事故。この時点でもうアウトなのに。浮世の為に借金を肩代わりしたり。親しくもない赤の他人の借金120万円とか、普通払う?

昭:あいつはきっと実家の庭から石油が出るとか、働かなくてもいいのに社会を知るために労働して見せている高等遊民なんやろう。小さな卸し会社のアラサー会社員がポンと払える金じゃないよ。

和:そんな小さな会社内で堅物な先輩(石橋けい)と後輩のみっちゃん(福永朱梨)の二股をかけていた辻くん。しかも先輩とは半同棲状態だったのに…浮世の出現によって崩壊していく彼女達との関係。

昭:先輩…主人公二人の意味不明な世界観にフラストレーションが募る中、最も地に足が付いていたキャラクター。生々しくて最高やった。

和:源氏物語でも六条の御息所最推し派としては、嫉妬に燃えて朽ちる年増はご馳走やった…引き際も、その後も恰好良かったな。

昭:不気味な例え。傷ついたみっちゃんの取った行動は、社会人の視点からしたら解雇一択なんやけれど…。辻くんと結ばれなかった事で彼女たちは自分の幸せを見つけていく。彼女達にとって、辻くんは通過点でしかなかった。

和:ていうか、話が進むにつれ仕事しないよね。辻くん。

 

昭:232分という長尺故、2部に分けての上映。一旦休憩を挟んだ時に出た大きな溜息。

和:好きになれないヒロインと振り回されることに快感を感じる主人公。共依存のメンヘラカップルが社会からどんどん堕ちていく行程を見せられている事の苦痛と…何故かもうこうなったら見届けるしかないという不思議な決意。これが作中のヤクザ(北村有起哉)が言ってた「男と女が堕ちていく所を見るのが好きなんですよ(言い回しうろ覚え)」ってやつなんですかね。

 

昭:後半は後半で「おいもう一人メンヘラが増えたぞ」というポケットの中のビスケット現象に叫び出しそうになったけれど…散々大風呂敷広げておいて(体感)最後の20分くらいで意外な畳み方を仕掛けてくる。

和:散々周りを振りまわしてきた浮世がやっと誰かに縋らずに生きていける様になった…けれどそう見せながらずっと辻くんを探し続けていた浮世。

昭:「い~つでもさ~がしているよ。どっかに君の姿を」

和:気持ち悪う。一見まともに社会生活を営んでいるようで、ローラー作戦で辻くんを探している所や、久しぶりの親子の時間なのに辻くんに似た姿を見た途端走り出す所。最後の踏切のシーンも「心底アンタは変わっちゃいないんだよ!」と言いたくなってしまった。

昭:とことん俺ら主人公カップルに手厳しいな…。

 

和:232分のスケールでお届けされた壮大なメロドラマ。好きな人はとことん嵌る。こちとら主人公達に一時も感情移入出来なかったから、フラストレーションが溜まりに溜まった時間もあったけれど…何故か終いには笑えてしまって。とてつもないものを見せられたけれど、しかと見届けた満足感もあって気持ちはぐしゃぐしゃ。疲労困憊。

昭:それにしても、連続テレビドラマで10回放送をリアルタイムで追っていた人達のメンタルよ…だって…見れる?このドラマ。

和:いやいやいや。それは結構です!

昭:二人だけで生きていって欲しい。他人を巻き添えにせず二人だけで…ってこういうカップルは何かとお騒がせし続けるんやろうなあ~。

和:はい考えない考えない。きっと二人は幸せに暮らしましたとさ。見えない所できっと…もう見せてくれなくて結構ですよ!…走って逃げるぞ!

映画部活動報告「罪の声」

「罪の声」観ました。
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35年前に起きた未解決事件。そこで使われた脅迫テープの声の正体は自分だった。

 

1984年~1985年に起きた劇場型犯罪『グリコ・森永事件』をモチーフとした作品。

塩田武士の同名小説の映画化。主演小栗旬星野源。監督土井裕秦。脚本野木亜紀子

 

京都で代々から引き継いだスーツ仕立て屋(テーラー)を営む曽根俊也(星野源)。妻と一人娘の三人暮らし。慎ましくも幸せに暮らしていた俊也は、ふとしたきっかけから自宅納戸に眠っていた手帳と1984と記されているテープを発見する。

何の気なしにテープを再生してみる俊也。それは幼かった頃の自分の声が収められていた微笑ましいテープ…しかし、テープが進むにつれ、その様相はがらりと変化する。そして。

「これは…俺の声だ」。

それは。1984年に日本を震撼させた『ギンザ満堂事件』。劇場型犯罪と呼ばれた、大手食品メーカーを襲撃した一連の事件で使われた脅迫テープだった。

「自分は知らず知らずのうちに犯罪に加担していたのか?」気が気じゃなくて、かつての事件を探る俊也。

時を同じくして。大手新聞社で当たり障りのないエンタメ記事を書いていた新聞記者、阿久津英示(小栗旬)は『ギンザ満堂事件』についての特集を書くように命じられる。

「何で今さら時効も過ぎた事件を」。そう腐るけれど。

「散々犯人に踊らされて社会風潮を煽った責任を取って俺たちは振り返らなあかん(言い回しうろ覚え)」。かつてリアルタイムで事件を追った先輩記者たちに推され。次第に真相を追うべくのめり込んでいく英士。

 

どうやら自分と同じく声を使われていた子供は他に二人いるらしい。彼らは今、一体どうしているのか。どんな半生を送ってきたのか。

謎だらけの未解決事件。脅迫は何度も繰り返されたのに、結局犯人は一度もその金を手にする事が無かった。一体この事件はなんの目的で誰が起こしたのか。

子供たちの行方を追う俊也と事件そのものを追う英士。

二人が交差し、その先に見えた真実は…。

 

原作未読。正直「今をときめく…」俳優二人が主演に据えられている事から…キャッキャした内容なのかと…そう思ってしまいましたが。

「ところがどっこい。エンタメ性充分ながら、思いがけず硬派な仕上がり。何より脚本が上手い」。

 

『グリコ・森永事件』

1984~1985年に起きた未解決劇場型事件。一部上場企業グリコの社長誘拐事件を発端とし、以降丸大食品、森永製菓、ハウス食品不二家駿河屋と日本の大手食品メーカー達の食品安全が狙われた。

かい人21面相』と名乗る犯人からの度重なる脅迫と挑発。怪文書が送られた新聞社などの報道で事態は世間に広報された。

お菓子に劇薬混入をするとの脅迫などと引き換えに時に要求された大金。その受け渡し現場で度々見かけられた『キツネ目の男』。けれど決め手には欠けたため逮捕には至らず。

「実行犯は7人いる」と言われたが、一体何を企んでの犯行なのかサッパリ分からぬまま。1895年8月17日、犯人を取り逃がしたとされた滋賀県警の本部長が退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺。その日に犯人と思われる人物からの終息宣言が出された。以降犯人からの行動は認められていない。(終息宣言を受け報告に向かったハウス社長が乗った日本航空123便が墜落事故という不幸も追記)。

一連の事件は主に大阪を始めとした関西圏で発生。当時130万人の警察官が動員された。

 

~というのが作品鑑賞後、当方付け焼き刃な『グリコ・森永事件』情報収集概要ですが。

事件当時の1984~1985年。まさに主人公の一人俊也とほぼ同年代の当方。

グリコ・森永事件を知ってはいるけれど、理解出来る年齢では無かった。

当方が覚えているのは『グリコ』のキャラメルをよく買ってもらっていたこと。ハート形のキャラメルよりも『グリコのおまけ』と呼ばれていたささやかなオモチャが楽しみだったこと。『男の子用』『女の子用』(呼び名はうろ覚え)どちらもまんべんなく買ってもらっては、水色の洗面器にためこんでそれで妹と遊んでいたこと。

小学生の時。クラスメイトの男子が「俺のお父さんな、キツネ目の男に似てるって警察官に呼ばれた事があった」と言っていたこと。

当方にとって、子供の頃の『グリコの思い出』と言われればそれくらい。後は…生息地なんで道頓堀のグリコの看板はおなじみ。それぐらいですか。

 

今回この作品を観てから改めてこの事件について調べて…かなり丁寧に事件をなぞり、考察された作品であった事に感心し…そして事件発生から35年以上経っているからこそこういった視点で描かれるんだろうなと思った当方。

 

当時この事件に翻弄され、まさしく人生が変わってしまった人たち。彼らからすれば「何をのんきな」と苛々する発言である事は自覚していますが。

こういった『劇場型犯罪』だとか『未解決事件』だとかは、得てして人の心を踊らせてしまう部分がある。この『グリコ・森永事件』しかり『3億円事件』しかり。未解決及び犯人が大金を得ずに終わった事件をモチーフとした創作作品はいかに多い事か。

けれど。結局は本物の未解決事件であるが故『犯人からのファイナルアンサー』を得る事は出来ない。いつだって「多分こういう事だ」の製作者の解釈で締めくくられ…やむを得ないけれどどこかすっきりしまいまま、物語の幕は降りる。

 

この作品もまた、「この事件の真相はこういう事だ」という真相は提示される。それは正直…当方的には「それは身勝手過ぎる」「弱い」と思えて説得力に欠けたけれど…。

 

しかし、これまでと違うのは『事件に使われた子供』を追う内容が絡められていた所。もし新聞記者英士だけの視点で事件が描かれてしまうと、それはお馴染みの『報道する者の義務』とか『正義』という空々しい傲慢さで終わってしまう。けれど一転して俊也の視点のみで終わると、これもごくごく一部の人たちだけが知るポエムになってしまう。

 

まあ。俊也の「あの事件で子供の声が使われたでしょう。あれ、自分なんです」。この持ち札の無敵さ。正直「警察でもないただの人にこんなに喋るもんかな?昨今個人情報云々言われてますけれど」と思う所は大いにありましたけれど。

 


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「宇野ちん!宇野ちん!」

当方の激押し俳優宇野祥平さん。今回予習をせず、ただ「宇野祥平さんが相当いいいらしい」とだけ聞いていたので。一体どこの悪モンで出てくるのかと思っていましたがここで…当方の中で鳴りやまない「宇野ちん!コール」。胸が熱い。

『罪の声』というタイトルの秀逸さもしかり。

もし『声の罪』だったら全く違う。彼らは何の主体性も無く巻き込まれた。

重大犯罪に関わってしまった子供たち。彼らの声に罪はない…なのに業を背負ってしまった。

あのテープさえ見つからなければ何も気づかずにいられた。そんな平凡な半生だった。けれど…知ってしまった。そして。同じだと思っていた子供たちはこうやって時を経ていた。知ってしまったから背負う事になってしまった。

やるせない。

 

この作品が『グリコ・森永事件』を丁寧に振り返っている上で描きだされたフィクションである事に感服しつつ。

という事は…実際に当時声を使われた子供がこの世に存在することの恐怖。

 

頼むから。(10代の少女は多分忘れていないのだろうけれど)幼さ故に何も覚えておらず、今のほほんと中年として生きていて欲しい。

そう思います。