番外編:酔いどれの唄
当方は酒に酔っている。己にではない。
当方が映画館で映画を観なくなってから、約一月が経った。
馴染みの映画館が軒並み店を閉め。その動向にさめざめと泣いてから約一月。
当方は先程自転車に飛び乗り酒を買い(酒屋自販機)に向かっていた。
思いつく限りの悪態を付きたい疫病のせいで我々の生活は強制的に変わった。
と言っても、当方に関してはリモートで何とか出来る職業では無く…そこにまつわるあれこれは苦々しい言葉でしか綴れない…けれどそんな事は本位では無い。なので割愛。
当方が己に課した映画部活動報告のレギュレーション。「観た映画全ての感想を書く。観た順番を入れ替えない。飛ばさない。」
感想文を書いていた時、ストックが溜りに溜まって追い込まれた事態も散々あったのに…空っぽで手持ちぶたさになった今、どうにもこうにも落ち着かない。
これはインプット月間だと本を読んでも落ち着かない。ましてや家のテレビで映画なんて観られない。映画はこんなサイズで一人で観るもんじゃない。
因みに、所属する映画部部長から「暇やからおすすめ映画DVDを教えて。」と言われて真面目に答えていたのに、何一つおすすめしたものを借りていなかった事が発覚し冷戦状態の映画部。残念の限り。(当方は決して謝らない。何も悪くないからな)
「もし今映画を観られたら。」多少の不満がある作品やったとしても、映画館で映画を観られた事で当方は泣くかもしれん。というかそうなる。絶対。
色々持て余し、爆発寸前の日常。酒量を減らし気味で安定してきていたはずだったのに。危うい底なし酒飲み生活の再発。
風呂上がり。手持ちの酒ではちょっと足りない。かといって料理酒なんて手を出せない…飲みたい。
半分無意識で。でも止められなくて、初めて夜間に家を飛び出してまで酒を買いに出た。
勢いでいくつか酒を買ったけれど、流石に全部は飲まない…明日も仕事やから…。
ただ。無心で自転車のペダルを漕いでいる時無駄に感じた疾走感。欲しい欲しいもっと欲しい。もっともっと欲しい。
映画を観たいんですがねえ。自宅で旧作観て己を慰めて満足するほど、もの分かりが良いタイプではないんで。足りないままなんですわ。
とはいえ、解禁直ぐには映画館に行けないかもしれない。それでも解禁した時の事を想像しては勝手に胸と目頭を熱くしている。
皆生活が掛かっているから。約束は出来ないんやろうけれど。
当方がやれる事はやるから、お願いですからそこに居てください。絶対に行くから。
当方はねえ。酔っているんですよ。己ではなく酒に。こんな状況はもういい加減にしてもらいたい。
映画を。映画を映画館で観たいなあ…。
(酔った勢いで書いてます。)
追記︙一晩経った今朝。危うく寝坊で遅刻する所でした。
映画部活動報告「娘は戦場で生まれた」
「娘は戦場で生まれた」観ました。
いまだ解決の見えない戦地シリア。
その地で2012年から都市アレッポ陥落までの2016年の間カメラを回した女性、ワアド。
彼女はジャーナリストであり、アレッポに最後まで存在した病院の医師ハムザの妻であり、そして小さな娘サマの母親であった。
「サマ。ママは撮り続けた。この映画はあなたのためよ。」
映画館で見かけた予告編。何だかどえらいドキュメンタリー映画が来るなと、公開初日に鑑賞。
この衝撃をなんと消化すればいいのか分かないまま、時が経ってしまいましたが。
「2020年が明けてから映画館で映画を観た、今のところ最後の作品をいつまでも置いておいてはいけない。」なので。つらつらと書いていきたいと思います。
2011年3月。シリア南部の町で起きた、市民による反政府抗議活動。当時アレッポ大学の大学生であったワアドにとって、それは『自由』を得るための希望に見えた。
ジャーナリスト志望であった彼女は、デモ運動に参加しその様子をスマホで撮影し始める。
しかし。平和を祈る彼女の想いとは裏腹に内戦は激化の一途をたどり。彼女が愛した都市アレッポは次第にアサド政権軍やロシア軍による無差別攻撃にさらされ、昼夜を問わず空爆、破壊された廃墟へと変わっていく。
撮影で知り合った、若き医師ハムザ。廃墟と化していく都市の中に、仲間と共に病院を設立し、治療に当たろうとする姿を追うワアド。二人は恋に落ち、結婚。そして娘のサマ(太陽)が産まれた。
シリア内戦。そこで起きていること。歴史。背景。恥ずかしながら分かっていない事だらけ。当方のモットーとして「知ったかぶりはしない」というのがありますので、そういった社会情勢についてはきちんと語れませんが。
当方の所属する映画部(映画部長と二人)の映画部長が一言。「戦争がクソやという事はひしひしと感じた。」
どうして。どうして。この作品で映し出された映像にその思いが止まらなかった。
何故暮らしていた町が奪われる。大切な人が奪われる。一市民である彼らが、何をしたというのか。(あくまでも市民にカメラが向けられていたので、兵士たちについては当方も不問)
伴侶となったハムザ。彼が仲間と設けた病院。文字通りの野戦病院に、次々と運び込まれる負傷者たち。
ワアドが母親という立場もあってか、子供が映し出される事が多い。それは幼い命が奪われるという痛ましさと泣き叫ぶ家族の姿に、どこかで「もし自分がこの立場になったら…」という心情が付きまっとたからだと思う当方。
「何でなのよ!」子供を失った母親の悲鳴。そしてカメラに向かって叫ぶ。「全部撮りなさい!全部!」。目の前で起きている事は、いつだって自分に起きる事だという…これがアレッポでの現実。まさかこの母親だって、自分の子供を失うなんて思ってもみなかっただろう。
昼夜を問わない無差別攻撃。人の顔が見えないからこそ出来る、空爆という手段。
「病院だから」という配慮など存在するはずもなく。アレッポにあった病院は次々と失われ。最後となってしまったハムザと仲間たちで運営していた病院も被災、転居を余儀なくされた。
この作品は2012年~2016年の4年間を記録しているが、時系列はバラバラで組み立てられている。
ワアドの生い立ち。学生時代。ハムザとの馴れ初め。サマの誕生。確かに舞台は戦地シリアで、混乱に満ちた現場が撮られていた。けれどそれが何故淡々と(?)時系列に並べられなかったのか。
「この作品は娘サマに向けられているからだ。」
あくまでも勝手な当方の推測ですが。ワアドはこの作品を世界に見せる以上に娘に見せたかったのだろうと。
あなたのパパが。あなたのママが。どういう場所で知り合って、どうやってあなたが産まれたのか。空爆で亡くなった同僚があなたを取り上げてくれたの。空爆で眠れなかった夜、あなたを皆で抱いた。あなたは皆のサマ(太陽)だったのよ。
激化する現場。いとも簡単に命が奪われてしまう所から、サマだけでも非難させればいいんじゃないか。最後の砦に居続けなくてもいいじゃないか。そう思うけれど…夫婦はとあるチャンス(という言葉が適切かどうか…)の時、本能的に家族でアレッポに残る決断を下した。
「もし同じ時間を与えられたとしても、同じ選択をしたと思うわ。」「何も後悔していない。」
終盤。そう言い切るワアドに、もう何も言えない当方。彼女達夫婦がそういうのなら、一体誰が何を言えるというのか。
時系列を入れ替える事で、ふいに過る「もしも…」を払拭する。あの時の信念、行動は間違っていない。これが私たちの戦い方だと。タラレバなど存在しない。
「ただ…この夫婦が若かったという強みもある気はする。新しい家族が増えた事と現場の状況(アレッポ陥落)から最終判断に至っていたけれど。もっと早い段階で家族を守るためにシリアを出た人たちだって、決して弱虫だとは当方は思わない(勿論作中でワアドはそういう言い方はしていません)。」
年齢。職業。守るべき家族。譲れない信念というものは立派だけれど、何を優先するのかは個人の自由で。避難されるいわれはない。
皆が皆。愛する者や大切なモノを守るために必死に生きている。
とは言え。自分と家族の命の危険を顧みながら、それでも戦場に留まり治療に当たったハムザを初めとする医療従事者、および仲間や家族たちに敬服の意は忘れず。
「今。彼らはきちんと眠れる夜を過ごせているのだろうか。」
少し話がずれていきますが。
映画はあくまでも映画館で観たい。様々な手段はあるけれど、やはり大きなスクリーンで、知らない人や知っている人と同じ世界を共有したい。
この作品は悲しいシーンが多かったけれど。負傷した、臨月の妊婦から産まれた子供が仮死状態から息を吹き返した時。映画館に居た少ない観客からはいちおうに安堵の溜息が漏れ、胸が詰まった。一体感。映画にはそういう力がある。
映画が好きで。映画館で観る映画が好きだけれど、悲しいかなこの作品以降映画館で映画を観る事は出来ない日々が続いている。映画館の規模の大小に関わらず、どの映画館だってこのまま消えて欲しくは無い。
今出来る事の少なさ。けれど動かない事が最善だというもどかしさ。一体何が正解なのかサッパリ分からない中「今はこれがベストだ。」という悔いのない選択をしなければいけない。丁寧に。
図らずも「私は同じ時を繰り返したとしても、同じ選択をする。」「何も後悔していない。」そう言い切ったワアドの様に。
映画でなければ。ワアドが撮った世界だって知る事は出来なかった。
観たい。観たい。色んな世界を観たい。知りたい。けれど。
また映画を安心して観られる日を迎えるために。安心して生活出来る日が迎えられるために。
少しの間。映画館での映画部活動はお休みです。
映画部活動報告「人間の時間」
「人間の時間」観ました。
韓国。キム・ギドク監督作品。
退役した軍艦。そこに乗り合わせた、様々な年齢と職業の人たち。彼らを乗せて海原へ出発したクルーズの旅は、早々から不穏な空気に包まれていた。
そんな中。ある朝突然異次元の世界に辿り着いてしまった一同。
船から降りるわけにも行かない。物資も限られている。極限状態の中、生き残りを掛けた乗客同士の醜い争いが始まって…。
主人公イヴを藤井美菜。アダムをチャン・グンソク。イヴの恋人をオダギリジョー。謎の老人をアン・ソンギ。その他そうそうたるメンバーが演じた。
「世の中は、恐ろしいほど残酷で無情で悲しみに満ちている。(略)自分自身のことを含め、どんなに一生懸命人間を理解しようとしても、混乱するだけでその残酷さを理解することはできない。(略)自然は…人間の悲しみや苦悩の限界を超えたものであり、最終的には自分自身に戻ってくるものだ。私は人間を憎むのをやめるためにこの映画を作った。」
キム・ギドク監督のメッセージより勝手に抜粋。
図らずも。今のご時世を連想せざるをえない。
極限状態に置かれた時、人はどうなってしまうのか。
…という気難しく哲学的な作品なのかと、それなりに構えて観たのですが。
「言いたい事は分かる。分かるんやけれど…ちょっと雑じゃないかな〜。」(小声)
退役した軍艦、という物々しいクルーズ船。そこに乗り合わせた人たち。
「ごめんな。新婚旅行をこんなんに付き合わせて。」「ううん。私も興味あったから。」というマニアックな日本人夫婦(オダギリジョーと藤井美菜)。
「あの有名な政治家じゃないか。」何やら有名らしい政治家とその息子(チャン・グンソク)。
政治家に取り入り、ボディガードを買って出たヤクザたち。
お色気お姉ちゃんたち(関係者以外立ち入り禁止エリアにずかずか入ってきて体を売ってくるエロテロリスト集団。)
おそらく20代位の若い男性集団。賭博好きおっちゃん達。もう一組の男女カップル。
そして、船の床に積もった砂を集める不思議な老人。
エトセトラ。エトセトラ。多種多様な人を乗せた船、という設定。ですが。
初めに感じた違和感。(日本人キャストって結局藤井美菜とオダギリジョーだけで。けれど韓国語と日本語、お互い母国語しか話していないのに通じて会話している、という点は割愛。)
船旅の序盤。何故か乗客たちが甲板に座り込んでいて、渡された弁当を食べている食事シーン。そんな中、甲板の一角ではテーブル席がしつらわれていて、政治家親子はリッチな食事をとっている。「畜生。アイツらだけいいもの食べやがって。」
「何故彼らは我々と同じものを食べないんですか!」政治家親子のテーブルに詰め寄り、給仕していた船長も含め怒鳴り散らすオダギリジョー。
「いやいやいや。払っているお金が違うんでしょうが。」「このクルーズ船って。乗船料、一律なの?」そもそものシステムに疑問が生じる当方。
「後さあ。この船、食堂フロア無いの?何で皆甲板に出されてんの。」
子供の頃。九州に住む祖父母の家に遊びに行くとき家族で乗った旅客船『さんふらわあ』。
そして。たまたま数年前に海洋自衛隊の一般公開された船を見学した経験。
巨大海洋生物恐怖症なのもあって、船事情は殆ど分からないのですが…それにしても、この退役した軍艦のサイズ感がコンパクト過ぎる。なんというか…遠洋漁業で使う漁船サイズというか。
元々が旅客船では無いので無機質なのは致し方ないとしても…この船は元々どういう船旅を約束していたのか。全く魅力が伝わらない。
そして。途中から「おい。ここ。海じゃないぞ!」という超展開に転じていくんですが。「極限状態に追い込まれた人間が、人間らしさを失っていく様よ…。」という哀しき崩壊ではなく…この船の乗客のモラルはしょっぱなから常軌を逸している。
「おい。若い女だ。」女性とあらば狙われる。カップルで乗り合わせていようが構わない。男性は暴行され、女性はレイプされる。横行する乗客同士の暴力、賭博。
そして「お仕事はどうしたのかね?一体この船は誰が運航を?完全自動操縦か?」と聞きたくなる、少人数でかつ労働していなさそうな船員たち。
銃を所持している者。何故か備蓄されていた手りゅう弾。
そして。船のどういう場所かよく分からん所で、ひたすら植物の種を植え、育てている老人。
「何もかもが治外法権やないか!」警察とまではいかなくとも、警備とかさあ。普通は居るんじゃないの?と思うけれど…この小さなコミュニティを治める者が不在なまま。皆が好き勝手やっている内に、船が異次元に迷い込んでしまったと。
事態を取り仕切ると宣言した政治家。そして始まったのが、ヤクザを脇に従えての恐怖政治。「この船の食糧は俺が管理する!」
「え?食事?」思わずずっこけましたが。兎に角この政治家は食べる事に執着する。自分と息子とヤクザはモリモリ食べて、他の乗客には碌に食事を与えない。体力の低下を感じながらも、乗客の中に渦巻いていく不満。それは何度となく暴動と化していく。
「人間という名の欲望…理性を捨てた時に残るモノは性欲でもなく、食欲と言いたいのか?」何だかしっくりこない当方。唸るばかり。
新婚旅行だったのに。異次元に着く前に夫(オダギリジョー)を失ったイヴ(藤井美菜:以降役名で表記統一します)。
けれど悲観に暮れている場合ではない。不本意ながらも宿してしまった我が子を無事に産み落とさなければ。
とは言え乗客同士の醜い争いには加わりたくない。不思議な老人と行動を共にし、植物を育てるイヴ。そんな彼女に何かと関わってくる、政治家の息子アダム(チャン・グンソク:以降役名で表記…以下同文)。
いやいやいや。何かとじゃない。夫を失った日。政治家にレイプされ、意識を失ったイヴをレイプしたアダムはイヴのお腹に宿った子供の父親の可能性がある。
この作品に於ける、登場人物の相関図。そんなに難しくないんですが。兎に角キャラクターの設定が定まらない。その最たるものがアダムだったと思う当方。
政治家の息子で。一見誠実なのかと思いきや、父親と一緒にモリモリ飲み食いしているし。父親がレイプしたイヴに自分も手出しする鬼畜。かと思えば「君と子供を守る。」と言ってみたり。なのにお腹が空いたら暴走する。もう分けがわからん。
そして。「人間は食べ物が無くなったら、何を食べ始めるのかな~。」という描写がちょっとしつこい。
散々揚げ足を取ってしまいましたが。この作品のベストは、最後のショットがバシッと決まっている所。
「そうやんな。この船ってそういう事やんな。」
極限状態に置かれた時、人はどうなってしまうのか。人間の浅ましさ。それらを覆いつくした、圧倒的な自然の力。
内包するメッセージは非常に力強いのですが。いかんせん…ちょっと雑なきらいが…。
おそらくチャン・グンソク氏をこの目に納めようと、万全の感染対策で来られていたご婦人たちの後ろ姿が切なかったです。
映画部活動報告「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」
「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」観ました。
ゴッサムシティ。ジョーカーと破局し、傷心を癒すべくいつにも増して大暴れしていたハーレイ・クイン。
いつだって好き勝手な事をしていた。なのに誰からも許されてきた。けれどそれは「ジョーカーの彼女だから。」
「ジョーカーと別れた」=「特権階級を失った」。
町中が二人の破局を知った。その途端、かねてからハーレイを憎んでいた連中から一気に手のひら返しを受け、逃げ回る羽目になったハーレイ。そして因縁の悪党、ブラックマスクことローマン・̪シニオスに捕まってしまった。
窮地を脱する為、ローマンから秘密のダイヤを盗んだスリの少女カサンドラを連れてくる事になったハーレイ。ところが。ほぼ同時にローマンがカサンドラに50ドルの懸賞金を掛けた事から、それを見たゴロツキ達もカサンドラを追い始める。
加熱するカサンドラ争奪戦。市警のモントーヤ、ローマンの店で歌う歌姫兼運転手のブラックキャナリーもカサンドラを守るべく参戦。
果てはクロスボウを操る暗殺者ハントレスまで現れて。
昭:いやぁ~これ『ガールズエンパワートメント・ムービー』でしたね~。
和:何故?何故この作品で『当方の心に住む男女キャラ昭(あきら)と和(かず)』の出動?特に男女の心の機微語る部分無いやろうに。
昭:いやいやいや。俺はこの作品で一つだけ言いたい事がある。だからこのスタイルを希望した。
和:それだけ言ってサクッと終わろう~。正直、10日程前盛大に首を寝違えた所から今、首~右肩腕周りに至るまでが痛くて辛いんよ~。痛み止めも飲んだし、早く寝たいんやけれど。
昭:笑止!『同じ人間の心から派生している』んやから俺だって痛いわ!ほら、頑張ろう。布団から退団!
和:頼むから、変な茶番は抜きにしてシンプルに進めような…。
昭:主演でかつ今作をプロデュ―スしたマーゴット・ロビー。監督はキャシー・ヤン(元新聞記者)。脚本はクリスティーナ・ホドソン。女性だらけの制作陣。そして主要な登場人物は概ね女性。まさに「女性よ立ち上がれ!」系作品。
和:前作『スーサイド・スクワット』でベッタベタに恋人のジョーカーに依存していたハーレイがまずジョーカーと破局して。終いには町を牛耳る悪党ブラックマスク=ローマンに女性チームで立ち向かう。「男に依存しない。私たちは自分の足で立ち、歩いていく。」っていう…フェミニズム(女性解放思想)、ってやつですか。
昭:でもなあ。「男たちに虐げられてきた」って。かつての同僚男性刑事に手柄を横取りされたモントーヤや、ドSなローマンの下でヒヤヒヤしながら働いていたブラックキャナリーならまだしも。主人公のハーレイ・クインって元々誰にも虐げられていない。
和:恋に落ちたら盲目。っていうだけ。天真爛漫に振舞って、散々人もモノも踏みつけて傷つけて破壊して。それで高笑い。自己顕示欲・承認欲求・自己肯定が軒並み強いし、仲間だと思っていても保身のためなら割と簡単に裏切る。
昭:まあ…ジョーカーがそういうキャラクターやから…『ジョーカーの彼女』というキャラクター設定なら似てくるやろう。
和:元精神科医なんよな。そしてジョーカーは元担当患者。恋に落ちて、自身もこうなった。でもなあ…普段は知性のかけらも感じない。兎に角狂ったハイテンション。そして暴力的。かと思ったら急にリーダーシップを取ろうとする。コロコロ変わって扱いにくい。そんな印象。
昭:話はシンプルなんよな。特権階級を失って、町中から追い回された挙句悪党ローマンに捕まったハーレイが命乞いの為にスリの少女カサンドラを捕獲。カサンドラを付きだせば終いだったのに、懸賞金目当ての連中にハーレイまで追われる羽目になって。そんな中カサンドラを守るべく追いかけてきた、市警モントーヤとカサンドラの顔なじみの歌姫ブラックキャナリー。そしてそもそもカサンドラが終われる原因となったダイヤに関係していた暗殺者ハントレス。
和:初めこそ立場の違いから戦おうとしたけれど。結局「一緒にならない?私たちが手を組んだらローマンに勝てるわ!」最凶女子チーム誕生の瞬間。
昭:何故?なんかもう…凄く無理矢理な展開じゃないか?
和:お⁈それ?一つだけ言いたい事って?
昭:違う違う違う。そこじゃない。…でもさあ。この物語って、全体的にハーレイのナレーションで進行していたやん。それが何ていうか…「しゃべり過ぎ」とは思ったな。
和:説明が多い感じはしたよね。ハーレイが言葉にする事で「そういう状況なんだな」とか「そう思っているんだな。」と確認させるというか。
昭:観ている側の思考を、自然に追いつかせる感じでは無かったかな…。
和:この作品の見どころは、やっぱりアクションなんじゃないですか?当然スタントマンを使っていると思うけれど、それでもハーレイ(マーゴット・ロビー)は結構動けるんやなって思ったし、ブラックキャナリーの足技(最終的な彼女の必殺技は見もの)も惚れ惚れ。暗殺者ハントレスのサマになっている感じ。年配のモントーヤですら良い動きしていた。最終のバイクとローラースケートのカーチェイスなんてお見事やったし。
昭:俺が言いたいのはそこだ。和:え?
昭:序盤のハーレイが追いかけまわされるシーンや、カサンドラを強奪すべく警察に乗り込んでいったシーンとか。そもそも冒頭のジョーカーと別れて荒れていたシーンですら。ハーレイがただのジョーカーの飾りじゃなくて、戦闘力のあるキャラクターだという印象は受けた。アイツは動ける。だからこそあんなやり方は許せない。
和:何?アレですか?あの真っすぐ伸ばしている両足の膝に思いっきり飛び乗るやつ?膝が反対に折れる描写、ぞわぞわしたよな。
昭:違う。金的蹴りだ。和:は。
昭:ハーレイやその他女性たち。あんなに露出の多い恰好で向かってきたところで、男は誰一人彼女達に性的な接触はしなかっただろう。なのに結構あいつら、急所を狙ってくるんだ。卑怯じゃないか。
和:待て待て待て。そんなシーンばかりじゃなかったはず…ってこんな話したくないんやけれど。
昭:俺もだ。だからもう止めるけれどな。何だかとても気になったんだ。
和:怖。一体どういうテンションの口調だよ…。
昭:ちょっと落ち込む事が多いこのご時世。スカっとしたい。そう思って選んだ作品。
和:女性たちが立ち上がって、歩き出す=『ガールズエンパワートメント・ムービー』ちょっと思う所は色々あったけれど。確かに勢いは半端ない。力強い作品やった。
昭:それにしても。今回綺麗なまでにジョーカー不在やったな。
和:バットマンも。そして毎回思うけれど、本当にゴッサムシティって治安が悪い。一体いつになったら安心して暮らせる町になるのか…なったら終わるけれど。
昭:世界観は繋がらないけれど。ゴッサムシティを舞台に『ジョーカー』が来て『ハーレイ・クイン』が来たら…やっぱり次は『バットマン』に登場して欲しい。
和:期待して待ってます。
映画部活動報告「プリズン・サークル」
「プリズン・サークル」観ました。
『島根県あさひ社会促進センター』2008年10月に開設された官(国)民(民間事業)協働の新しい刑務所。犯罪傾向の進んでいない男子受刑者等約2000名が収容されている。
日本には他にもいくつか官民協働型の刑務所が存在するが、ここには独自で行っている更生教育プログラムが存在する。
『TC(Therapeutic Community=回共同体)』欧米で再犯率の低下が立証されているプログラム。受刑者同士が対話し、犯罪の原因を探り、更生を促すといったもの。
撮影交渉から実際に取材開始に至るまでの月日は6年。そして2年間の密着カメラは詐欺、窃盗、傷害致死、強盗傷人などで服役中の4人の若者に焦点を当てて、彼らの変化を追っていく。
坂上香監督。136分のドキュメンタリー作品。
「見てもいいけど入っちゃなんねえ。」
北海道網走刑務所。当方はその博物館に昔行った事がありまして。そこで見かけたフレーズ。
「刑務所にカメラが入る。」
当方は今までの人生で刑務所に入るような事は無かった。(勿論これからも無縁でありたい)周りに前科を持つ人も特に思い当たらない。けれど…ニュース等を見ていて漠然と思う事はある。
「一体犯罪を犯す人はどうしてそうなってしまうのか。」「犯罪を犯したら終いなのか。」「どう向き合っているのか。」
刑務所での暮らし。監視され、時間がきっちりと区切られ、規律正しい生活を余儀なくされる。日中は何らかの作業と少しの運動をし、夜間に少しの自由時間があるのみ。精神的な余白時間は無く、内省するのは個々でやってくれ。何となく想像する受刑者の一日。(勝手なイメージ)
なので。「受刑者同士でのグループワーク?」「自分が犯した罪について⁈」予告編を見て、正直興味深々で観に行ったのですが。
「ああこれ。纏まらない…もやもやする…。」
鑑賞中も相当険しい顔をしていましたが。未だどう落としどころを付けていいのか見えず…取っ散らかった感想文になるだろうという予感。
そして。当方は、心理療法や日本の刑務所の目指している方向性や児童虐待などについて不勉強で…無責任な発言や「そんなの分かっとるわ!」という現場の方が声を出してしまう事も書くと思います。ですが致し方ない。これが率直な感想なので。諸々先んじてお詫びします。
官民協働型の新しい刑務所、島根あさひ社会復帰促進センター(以降センターと表記)。施設の施錠や食事の配膳などは自動化され、受刑者たちは身に着けたICタグと監視カメラで監視されている。勿論刑務官が管理指導している部分もあるが、警備や職業訓練などは民間が担っている。
このセンターの特徴は『TC/回復共同体』という更生に向けた教育プログラムを採用しているところ。
このプログラムは40名しか受けることが出来ないが、その集合体の中でコミュニティ(精神的な絆で結ばれた人間関係)を構築することで社会の中で生きる責任を果たすための考えや行動の仕方を互いに学ぶ。
後付けでこのセンターのホームページなどを見て。「なるほど。そういう事やったのか。」と色々腑に落ちた当方。
先述した『TC』を通じて、『RJ/修復的司法』(犯罪行為につながる思考や感情、背景に繋がる価値観や構えをターゲットにして変化を促進する)と『CBF/認知行動療法』(社会の一貫であるという事を意識して加害行動の責任を引き受ける)を進めて真の改善更生を目指していると。
この作品では主に、4人の若い受刑者を軸にして『TC』の様子が描かれる。
詐欺。窃盗。障害致死。強盗傷人。20代の対象者らが犯した犯罪はどれも赦されたものでは無い。
けれど。対象者らが語ったこれまでの半生は、貧困・シングルマザー問題・親からの虐待・いじめなど、どれもこれもが溜息を付くしかないものばかり。理不尽な暴力。保身に回り、自分を守ってくれなかった親。避難したはずの児童虐待保護施設でのいじめ。エトセトラ。エトセトラ。
4人が4人共、そういった「かつては被害者だった」としか言いようのない子供時代。その告白に終始険しい表情を崩せなかった反面、どうしても拭えなかった当方の気持ち。
それを代弁した、一人の対象者の言葉。
「育ちが悪かったから自分がこうなったとは思われたくない(言い回しうろ覚え)。」
当方がこの作品を観ていて、前提として決して忘れてはいけないと思ったのは「彼らは犯罪者だ。」ということ。「モノや人を傷つけた。」ということ。
本当に嫌な言い方ですが。「貧困層やかつて虐待を受けた人が必ずしも犯罪者になるわけではない。」「そういう家庭環境に育ったとしても、普通に社会生活を営んでいる人はごまんと居る。」
対象者らの生い立ちは確かに辛いけれど、では何をしてもいいわけではない。
「親から愛されなかった。」「叩かれていた。」「怖かった。」では、どこから対象者らは『叩く側。』『傷付ける側。』に回ってしまったのか。いつまでもかつての被害者側に居てはいけない。何故なら今の立場は加害者なのだから。何故こうなってしまったのか。
正直、この『辛かった幼少期』を対象者らが語る時間が多かった様な印象がある当方。そして…「このグループワークにはこういう家庭環境の受刑者しかいないのか?」と思わず穿ってしまうほど…どうもスポットの当てられている対象者に偏りを感じる。
『TC』の様子で少し当てられていた4人以外の受刑者たち。
「国籍が違うから差別を受けていた。」「お山の大将でいつも人を殴っていた。」そして盗癖について罪悪感を感じていなかった対象者が「仕事道具を盗まれたところから自己自暴になって薬物に走った話を聞いた。」と泣いていた、その語った受刑者の話を聞きたい。40人のコミュニティの姿が見たい。小さいけれど社会と模した集団を知りたい。
刑務所の中で。各々犯した罪は違うけれど皆が犯罪者。その中で、とことん自分を丸裸にして。共感したり、それはおかしいんじゃないかと言い合って。そうして人間関係を構築していく姿。それを見たい。
いや。勿論そこにもカメラは向けられている。『自分が犯した犯罪を振り返る』というグループワークで。グループのメンバーが被害者や対象者の彼女になりきって対象者を糾弾した時。「本当に申し訳ない事をした。」と初めて自分の罪を思い知った。
『いい死に方をしたい』という考え方とそんな自分を否定している自分。その葛藤を対話形式でロールプレイする時間。どれもこれもが興味深い。
『TC』のメンバーが語った言葉。「自分の罪はあまり見えないんですよ(言い回しうろ覚え)」けれど。集団の中で。他の誰かが語った言葉。感情。そこに共感したり、反感を感じて意見を交わすことで。己の感情や行動や犯した罪の内容に整理がついていく。
所々挟まれた『出所者たち』の姿。
所謂娑婆の世界で。自分の居場所を見つけられた者。危なっかしい者。出所後も三か月毎に集う彼らに、確かに絆は存在するんだなと思う当方。
案の定。随分取っ散らかった感想。キリが無くなってきたのでそろそろ〆ていこうと思いますが。
「暴力の連鎖を止めよう。」そのフレーズには当方も一点の曇りもありませんが。(『暴力』という言葉を広義にしたら『犯罪』も含まれるのかもしれません。)
当方が観たかったのは『犯罪を犯した人が社会復帰するための取り組み』。刑期を終えたから、時間が経ったから社会に出てくるのではない『新しい更生プログラム』。
『TCを経験した出所者の再犯率は、通常の出所者の再犯率の半分以下。』
「ならばもっと他の刑務所にも導入されるべきという事か?とはいえ誰にでも適応するプログラムではないやろう。犯罪傾向の進度もあるやろうし。「人前で自分の事なんて話したくない」という性格にはまず向かない。そうなるとそもそもこの40人はどうやって選別されているんやろう?」
モヤモヤと纏まらず。センターのホームページを読んだりもして。図らずも日本の刑務所や更生事情について思う当方。
ともあれ。最後に姿を見せてくれた、あの彼の勇気と覚悟にエールを送り。
元対象者ら=彼らが社会で生活している事を祈らんばかりです。
映画部活動報告「PMC ザ・バンカー」
「PMC ザ・バンカー」観ました。
韓国。『テロ・ライブ』のキム・ビョンウ監督作品。
韓国と北朝鮮の軍事境界線。その地下30メートルに広がる巨大地下要塞(バンカー)。そこに集まった民間軍事会社(PMC)の傭兵13人を取りまとめる隊長エイハブ(ハ・ジョンウ)。
「政権交代の危機にある、現大統領の切り札となる北朝鮮の要人を捕獲し安全な場所へ護送せよ。」という依頼をCIAから受けたエイハブ。
韓国特殊部隊の元兵士。除隊後PMCとして作戦成功率100%を誇るエイハブにとって、わずか10分ほどで完了出来るはずのミッション。
しかし。約束の場所に現れたのは要人ではなく『キング』と呼ばれる、北朝鮮の最高指導者だった。
仲間の裏切り。CIAの策略。国家の駆け引き。二転三転し続ける状況の中。本来は敵であるはずの、北朝鮮のエリート医師ユン・ジイ(イ・ソギュン)とタッグを組んで状況を打開していく事になったエイハブ。
果たして彼らは無事にバンカーを脱出することが出来るのか。
「俺が、絶対守る。」
「これは…久しぶりに脳を溶かして流れに身を委ねられる作品が来た。」「アメリカが大統領選挙に於いて朝鮮半島の外交問題を切り札にするかね。彼らはもっと自国の事に夢中やぞ。」早々から突っ込み当方の茶々入れ開始。
北朝鮮の国防大臣を拉致して核施設の詳細を吐かせるため。CIAからの要人捕獲依頼。ミッションを遂行すべく、現地で待機していたPMC。しかし現れたのは、対象者ではなかった。
「キングじゃないか!」北朝鮮の最高指導者が?何のためにここに現れた?亡命?でも待てよ。
「高額の懸賞金を掛けられているキングを捕獲したら。そんな要人案件なんかよりよっぽど外交カードが切れるぜ。」「大統領に恩を売れ。」お前はやれる子だろ、と言わんばかり。テレビ電話の相手、CIA韓国支局長マッケンジー(ジェニファー・イーリー)を煽り、嬉々としてキング捕獲に向かったPMCの面々。
こんなの朝飯前。そう思ったのに。仲間の裏切りに依って窮地に陥れられたエイハブ。銃撃戦を逃れ、何とかキングを連れ出して司令室に戻る事に成功したけれど、仲間の大半はバンカーに残ったまま。
しかも。軍隊時代に負傷して片足義足であるエイハブの義足が損傷。身動きが取れない挙句、キングも瀕死な状況に陥る。
絶体絶命の状況の中。北朝鮮最高責任者キングが暗殺され、その首謀者がエイハブであるというアメリカのニュース速報を目にしたエイハブ。「一体どういう事だ!」嵌められた⁈
このままでは犬死する。バンカーに残るPMCの仲間を失い、折角連れてきたキングも死なせてしまう。そして自身は暗殺者の汚名を着せられてしまう。そんな事になってたまるか。
そんな時。バンカー内にキングに同行していた北朝鮮の医師ユン・ジイを見つけたエイハブ。奇跡的に発信機でコンタクトが取れたことから、互いに遠隔で己の分野の指示を出し合い、互いの窮地を救っていく。
想定外に内容を綴ってしまった…まあ、結構なトンでも設定なんですが。もう息つく間が無い展開でガンガン進むので、茶々入れは程々にして身を委ねたモン勝ち。
ハ・ジョンウ。色んな韓国映画で見かけるお馴染みの俳優ですが。英語がペラペラなんですね。どの程度ネイティブな発音をされているのかは当方には分かりませんが…国際色豊かそうな傭兵集団をアジア系の彼が取り仕切るには、よっぽどの傭兵スキルと語学力、コミュニケーション力が無いといかんなとは確かに思いましたよ。
(2016年公開『お嬢さん』での藤原伯爵。あの日本語よりは流暢に聞こえた。)
そして、イ・ソンギュン。
直近で言うと『パラサイト』で金持ちのIT企業社長を演じておられた…男前エエ声俳優。
「耳元で万景峰号って言って欲しい!」(完全に語感でのチョイス)もうその声を想像しただけで当方の心にある何かが震える。
今作に於いて、主人公はあくまでも傭兵エイハブなんですが。もうこのユン医師が堪らなく良い。彼が出てきてから、俄然話が面白くなってくる。
「何故ならば。彼はまともだからだ。」
医療監修、雑だけれどまだきちんとしている。素人に心嚢穿刺。心臓マッサージ。輸液ルート確保。輸血投与。そんな事を雑なモニター画面を見て指示出来るユン医師。
「そして対応出来たエイハブよ!韓国特殊部隊ってそんな実技訓練あるの(っていう設定)?それともPMC?後あれな!司令塔にある救急セット、完璧やないか⁈なんで輸血まであるの!凄すぎる!」
保管状態は非常に悪そうですが…「非常事態として、O型は一応どの血液型にも合うから…じゃなくて、キングがO型なんか!あっ。他の血液型バックもある。そっか…そこまでは…。」勢い付きすぎて尻つぼみになってしまった当方。
成功率100%を誇るエイハブの傭兵スキル。残念ながら足を負傷した事でお見せすることは出来ず、司令塔としての活躍に留まり。
現場に取り残されたPMCメンバーとの「~がやられた!」「俺はお前を信じるぜ。」「お前は仲間を大切にする奴だろう。」という友情イチャイチャも、「えっと。そもそもおたく誰でしたっけ。」とついていけない当方。脳内で補完しながら進めるけれど…どうもPMCメンバーのここまでのメモリアルが少なすぎて。
韓国特殊部隊時代。彼が遭遇した「仲間を助ければ自分も死ぬ」という事態。
そこでエイハブが選択した決断。それこそが彼の基本理念。
目の前で起きている事態は二転三転。仲間はどんどん失われているし、自身の立場もおかしな所に追いやられている。どうやらキングに取り付けられている生体モニターからキングの生死が把握できているらしい各国は、たとえ瀕死状態であってもキングの命がある限りは最終決断が下せない。
「医者だから。患者を救うのは当たり前だ。」
誰もが私利私欲に翻弄される中。あくまでも真っすぐで真っ当であったユン医師。折れに折れまくったエイハブの心を何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼んだ。
「ユン医師よ!」胸が熱くなる当方。彼こそは正義。
バンカーからの脱出。けれどまだそこから続く展開に「おいおいおい。もう流石にキング死ぬで。」もう何度目か分からん突っ込みをしてしまった当方。
「キングって心臓悪い設定やったよな。失血したり何回も心停止して、挙句ハイリスク輸血。脳死…少なくとも敗血症にはなりそう…な所にそんな!」
「結局エイハブは何を守ったんだ。」
いや、この着地で良いんですけれど。物語の序盤に彼が守ろうとしたものと最終地点。何だかちぐはぐじゃないか?そう思うのは無粋なのか…。
最後に。序盤でリンゴ食べたりしながら「今日30回目のトイレだ。どうも嫁が妊娠してから尿が近くてな(言い回しうろ覚え)。」という訳の分からん話をしていたエイハブ。「大方前立腺肥大症なんやろうから、泌尿器科に受診しろよ。」そうぼんやり思っていた当方が、どれだけこの非常事態でのエイハブのトイレ事情を心配したことか。
とまあ。散々茶化してしまいましたが。つまりは充分楽しかったということで。
ノンストップサバイバル映画として息つく間もなく展開する、意外とスケールの大きな作品。
身を任せて委ねたら…思いもよらない所に着地出来ます。
映画部活動報告「レ・ミゼラブル」
「レ・ミゼラブル」観ました。
「悪い草も悪い人も居ない 育てる者が悪いのだ」
フランス。レ・ミゼラブルの舞台となった、パリ郊外の都市モンフェルメイユ。しかし現代では移民や低所得者が多く住む危険な犯罪多発地域と化していた。
モンフェルメイユにある警察署。地方から犯罪防止班に配属されたステファンは、同じ班の同僚、クリスとグワダの二人と共にパトロールに繰り出す。
オリエンテーションさながらの紹介を受けて。ステファンは、この町には複数のグループが存在しており、それらが一触即発の雰囲気である事を悟る。
ある日。イッサという少年が起こしたいたずら心から、大きな騒動へ発展。遂には取り返しのつかないうねりへと広がっていく…。
同町で生まれ育ち、現在もそこで暮らすラジ・リ監督。
長年Webドキュメンタリーを手掛け、2006年にはストリート・アーティストJRと共同でプロジェクトを発表。世界中から注目され、活躍の場が広がっていると(劇場チラシから引用)。
今作品は第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞。第92回米アカデミー賞国際長編映画賞にも選ばれた。
『レ・ミゼラブル』映画作品も鑑賞しましたし、一応はどういう話か知ってはいる当方。(滅茶苦茶詳しい方がごまんと居られるので…迂闊な説明は致しませんよ。)
「ああ。こういう地域になっているのか。」
犯罪多発地域。アフリカ系移民が多く、言葉に出さなくともやはり「黒人である」「白人である」「余所者が」という意識が互いに存在する。表向きは一市民を装いながら、あわよくば町を牛耳ろうとするきな臭い幾つかのグループの存在。子供たちはたむろって、よからぬ話で盛り上がる。
つまりは、総じて治安が悪い。
「でもなあ。これ、警察官ステファンの視点やから。」
この作品の巧妙だなあと当方が思う所。それは「どの立場の人間にも、正義だと信じて曲げない主張がある。」ということと「相手の主張をゆっくり聞こうとは思っていない。」ということ。そして「誰しもが決して清廉潔白ではない。」こと。
「俺がやっていることは正しい事だ。」町の皆の為にやっているんだ、どの立場の人間も己のスタイルを正当化しているけれど。どれもが危うく嘘くさい。
平和な時は嘘笑いで取り繕って、互いに牽制し合うけれど。いつ化けの皮が剥がれるか分かったものではない。結局は周りをぶちのめしてこの町を牛耳りたい。俺が正義だ。
犯罪防止班の同僚クリス。いかつい黒人が多い地域で、舐められない様に虚勢を張って威張り散らす。いかにも「弱い犬はよく吠える」白人警官。
「夜勤のグループは武装しなければパトロール出来ないんだぞ(言い回しうろ覚え)。」確かに住民に対して恐怖や怒りがあるだろう。この町を守らないといけないという任務と、では誰からかというとこの町の住民であるという腹立たしさ。
~という部分もあるんでしょうが。とりあえずこの作品に於いてのクリスは概ねクズ。
警察官である事を盾に、半ば八つ当たり的に市民に接し。子供たちを追い回し。挙句都合が悪くなれば自身の保身に走り、職業倫理や優先順位を吹っ飛ばす。
「市長」と呼ばれるご意見番。色んな情報に通じていて…結局は地元ギャングを取り仕切るゴロツキ。
ケバブ店店主は元大物ギャング。刑務所から出た後はケバブ店を営みながら、主に子供たち相手に『モスク』を開き、信仰を説いている。(勧誘の仕方が怖い)
丁丁発止の三つ巴。そんなヒリツいた中で起きた『ライオンの子誘拐事件』。
移動サーカスのライオンの子が突然居なくなった。「子供が盗んだんだろう!」怒り心頭で市長の所に怒鳴り込み。大喧嘩に発展していた所に遭遇した犯罪防止班。
町中を捜索する中。確かに町の子供イッサの仕業である事が判明。子供たちと遊んでいたイッサを探し出し、追いかけまわしている内に重大な失態を犯してしまう。
…ここから負の連鎖、怒涛のドミノ倒しが始まるのですが…順を追ってネタバレする訳にはいかないので、ふんわりしながら風呂敷を閉じていく感じにしていきますが。
『昨日今日この町に来たばかりの新任刑事ステファン。』この町に対して、一番まっさらな視点を持つ彼から見て話が進むから、まだ観ている側の正義が固定される。
とんでもない事態が起きた。その時人はどう動くのか。
守るべきものが市民の命ではなく、己の保身になってしまった警察官。これを機に恩を売っておこうとするゴロツキたち。迷える聖職者。
「ところで…ライオンの子はどうなったの?」
まあ。非常にあっさりと解決していましたが。一つの事にあんなに私利私欲が渦巻いてみっともなかった大人たちと比べたら、あのサーカス団がイッサに下したお仕置きの方がよっぽど妥当であったと思う当方。
「悪い事をしたら怒られる。もうするな。」それで充分分かるじゃないか。
(はっきり言って。イッサがやった事はいたずらでは済まないし、子供たちだって大概やったと当方は思います。だからって大人たちのあの仕打ちは無いけれど。)
「大人の姿って、子供はよく見ているもんよな。」
大人は卑怯だ。そう判断した子供たちが下した判断と行動。なんていう目をするんだ。
けれど。大人たちにも事情がある。誰もが皆芯から悪者じゃない…いっそ完全無欠の悪者であれば嫌いになれるのに。
憎たらしい警官クリスも、自宅に帰れば二人の娘を持つ父親。ゴロツキの市長だって、精神疾患?を持つ息子を大切にしている。誰もが誰かを愛し誰かに愛されている存在でもある。
ああいう行動を取ってしまったグワダの「ああもう。どうにでもなれ。」「お前のせいだよ。」という何もかもぶち壊したくなる衝動も、正直共感出来る。やったら終わりだけれど。
二人の同僚を揺るぎ無い正義感で断罪したステファン。けれど個人の持つ正義で人は動かない。正義とは個人の背景でいくらでも変わる。
けれど子供は?
大人なら。例え一触即発の関係であってもどこかで折り合いを付けながら、最後の最後まで破たんを避けようとする。「アイツにはああいう事情があるからな。」
真っすぐに敵と味方の線引きを引いた。白黒を付けてしまった子供たちの怒涛の流れ。
その行動に容赦が無くて。ひたすら眉をしかめ、険しい表情を崩せなかった当方。
「暴力を受けた怒りを暴力で返しては、何も解決出来ない。」
『レ・ミゼラブル。』フランスのモンフェルメイユ。かつてヴィクトル・ユゴーはこの町を舞台に、理不尽な時代を生きた人たちを描いた。彼らの思いは怒涛のうねりとなり、暴動を起こしたけれど…果たしてそれでどれだけの人が幸せになったというのか。
同じ題名を付けて描かれたこの作品が訴えたこと。フランスの地方都市が抱える社会問題。暮らす人たちの鬱屈した思い。ふとしたきっかけで爆発してしまいかねない負の感情。負の連鎖。
けれど。怒りの流れを止められるものとは。
少なくとも暴力では無い。
ステファンが同僚二人を断じた正義。ならば最後に彼は然るべき行動を取ったのだと、そう祈ってやまない当方。
「悪い草も悪い人も居ない 育てる者が悪いのだ」