ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「音楽」

「音楽」観ました。
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大橋裕之原作漫画『音楽と漫画』のアニメ映画化。

岩井澤健治監督が7年の月日を掛け、40000枚超の作画を全て手書きで製作した。71分。

 

「何だか凄いやつが来るなこれ。」

劇場予告編で観て気になって。「ヴィレッジヴァンガードとかのオサレブックショップで置かれている、サブカル大好きな人たちに支持される系の。」という先入観はありましたが。でもまあ「気になったら、観ない後悔より観る後悔!」という主義ですので。いそいそと映画館に向かった当方。

 

昨今の疫病の関係で「観たくても映画館に行けない。」という方も多く居られると思いますが…「これは映画館で観るべき作品だ。」と大きくない声で叫ぶ当方。(そもそもどんな作品だって、映画は映画館で観るのがベストだとは思いますが。)

 

研二(坂本慎太郎)。朝倉(芹澤興人)。太田(前野朋哉)。三人の不良高校生が。リーダーである研二の「おい。バンド組もうぜ。」の一言でバンドを結成。何も分からない彼らは、学校の音楽室からベース2本とドラムを持ち出し、研二の家で練習を始める。「何か良かったから。」と語感で決めたバンド名『古武術』。練習を重ねるにつれ、バンドが楽しくなってきた三人。

ある日。同じ校内に『古美術』というバンドが存在すると知り、会いに行く三人。そうして知り合った森田(平岩紙)との交流から、ますます音楽の世界にはまり出す太田と朝倉。

「今度、坂本町ロックフェスティバルがあるんだ。参加しない?」森田に誘われ、地元のフェスに参加する事になったが。

 

絵柄もさることながら。ストーリーもすこぶるシンプル。楽器なんて触った事も無かった不良三人組が、思い付きでバンドを組んで。楽しくなっていくという。

 

当方はこの原作漫画を未読なんでアレですが。漫画を読んでいる側の、脳内で再生されていた世界をはるかに超えた映像化だったんだろうなと推測。

「好きすぎる漫画が映画化されると聞くと、期待する半面それよりももっと不安が大きい。」「おかしな感じにならんやろうか。」当方はそう心配する人種で。(実際に残念な結果に終わる事は往々にしてある)因みに、そんな当方にとって最も良かったマンガからの映画化作品は松本大洋の『ピンポン』(2002年/曽利文彦監督)。(松本大洋作品は『青い春』『鉄コン筋クリート』も良かった。)

話が脱線しましたが。要は映画製作をした側の、原作に対する溢れんばかりの愛情。そういうのが伝わってくるのが当方の考える『良い映画化』。(例外もありますが。)

 

原作漫画を読んで感じた世界観を。岩井澤監督が持てるだけの技術と熱量で映画として昇華した。そいう印象。

 

楽器を持って、研二の家に向かう三人。

「いくら何でも、いきなりそんなセッション出来へんやろう~。」「そもそもどうやったら音が出るのか。音程すらも分からんぞ。」本当に楽器に疎い当方の、無粋な茶々は横に置いておいて。

初めてなのに。「せーの」でめいめいが好きに音を出してみたら上手く噛み合った。「俺たち、いいんじゃねえ?」淡々とした口調ながらも、ワクワクしている気持ちが伝わってくる。

 

「似たような名前のバンドが居る。」同じ校内に前から存在していたバンド『古美術』。

 

「というかねえ。森田!…森田よ‼」 
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 「この作品には悪い人は居ません。」研二を敵対視する他校の不良、大場(竹中直人)だって。結局おとぼけで憎めない。誰しもが愛すべきキャラクターだけれど。

 

「でも違う。森田は他とは違う…(震え声)。」

 

初見からぶっちぎりの存在感だった森田。森田から目が離せない…なにこれ、恋ですか?

地味なビジュアル。「絶対に潰される。」と突然現れた不良たちに震えたけれど。

「お前らの曲を聞かせてくれ。」と乞われて歌ったフォークソングがもう…1960年代にタイムスリップかと思う位の渋さ。

そして「俺たちの曲はこんなだ。」と不良たちが奏でた音楽には「ミスター味っ子か!」というほど表現豊かに感動する。

不良と地味系。決して交わるはずが無かった彼らが、音楽を通じて友情を深めていく下り。しかもきちんと互いにリスペクトしている感じ。好感が持てる。

「そして。フォークソング一辺倒かと思いきや。根底に流れるロック魂。堪らん。」

おそらく金持ち。そんな森田の自宅。アンタ、滅茶苦茶音楽好きやんか…。

件のフェスのチラシ配りで見せた、森田の変貌。そして何より、フェス当日のあの森田…(胸熱)。

 

古武術』の三人。練習風景ではベース二人+ドラムという、流石に音楽に疎い当方でも「ドドドみたいなリズムばっかりになってないか。」と思っていたけれど。

最終のフェスで『古美術』が交わった事で生まれた、曲としてのクオリティ。爆上がり。

 

研二の…唐突なあの心変わりは「ん?」と違和感を感じましたし、最後にあの楽器を持ったのも、正直唐突さは否めませんでしたが。

 

「ああでも。結果が良ければいいじゃない。」

そうやって強引にねじ伏せてくる。だって。演奏が最高やったから。

 

フェスのシーン。実際に実写で撮影したモノをアニメーション化したというだけあって、見ごたえのあるライブたち。こんなにシンプルなのに。何だか涙が出てきた当方。

「畜生。これが音楽の力だ。」

 

岡村靖幸がどこかで出演している…ってここか!」岡村ちゃん大好きな当方が。無言で頷いた瞬間。最高やな。

 

奇跡のステージを経て。きっと彼らはこれからも音楽を続ける。

「だって…バンド=女子にモテたい。亜矢(駒井蓮)が居る限り、研二は音楽から足を洗えない。」

 

確かに「オサレサブカル系の人たちに支持される作品」ではありますが。音楽にも楽器にもバンドにも詳しくなくても大丈夫(詳しいに越したことはなさそうですが)。

「あ。これ、好きやわ。」という思える何かを見つけた高校生のお話。何となくつるんでいた友達が同じ趣味を共有出来る仲間になる。一緒に居たら楽しい。

「彼らにとっては、それが『音楽』だったという話。」

 

微笑ましいし羨ましい、胸が熱くなる。そして圧巻のライブシーン。これはねえ、本当に映画館で…(段々小声でフェードアウト)。
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映画部活動報告「ミッドサマー」

「ミッドサマー」観ました。
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「ようこそ!私たちの祝祭へ!」

 

2018年の長編映画へレディタリー/継承』が高く評価された、アリ・アスター監督の最新作は"フェスティバル・スリラー”。

 

2020年2月21日日本公開。少し経った現在、色んな人が考察を述べている中。

ルーン文字、知らない。北欧の宗教行事や言い伝え、知らない。民俗学、知らない。タペストリーやモチーフ、知らない。」分析すべき教養を何も持たない当方。

TRICK…堤監督の…滅茶苦茶知っている。深夜ドラマからゴールデンへ。有名になって劇場版も公開された。そんなの、初期も初期、山田奈緒子がサスペンダー姿だった頃から知っているぞ。でも山田奈緒子上田次郎出してこの作品茶化すのは反則な気がする。」自主規制。

オズの魔法使いからなら、ちょっと切り込めるかもしれない。」

(両親が共働きだった当方宅。妹と二人で擦り切れるほど繰り返し見た『オズの魔法使』(1939年公開)。全てのシーンを思い出し、歌えるほど記憶している。)

 

「だって。スウェーデン到着後。例のカルト集団が暮らす村、ホルガへと続く道は黄色の花で描かれていた。「オズの魔法使いが住む『エメラルド・シティ』へ向かうには黄色いレンガの道を進めばいい。」つまりはホルガ=オズの国(エメラルド・シティ)やないか。」

 

主人公のダニー、大学生。メンヘラ系女子。妹の自宅での自死に両親も巻き込まれ。(一家心中)一気に家族を失った。

ダニーの恋人クリスチャン。同じく大学生。精神的に依存してくるダニーに息苦しさを感じつつも、突き放す事はしない。別れるでもなく、かといって向き合うでもない。ギクシャクした関係の二人。

そしてクリスチャンの大学の友人、マーク。ジョシュ。ペレ。男友達は気ごころが知れているから楽しい。

友達は口を揃えてクリスチャンに言う。「あんな辛気臭い彼女とはとっとと別れちまえよ。」

けれど。今はダニーの精神的ダメージが余りにも大きすぎる。とても別れを切り出す事なんて出来ない。

スウェーデンからの留学生、ペレの「俺の出身地の村では夏至に珍しい祭りがあるんだ。一緒に来ないか?」というお誘いにノリノリな男たち。どうやらエロが期待できる旅になるらしい。

「男たちだけ。スウェーデンに着いたら早速エロい所に行こうぜ!」

なのに。「一応ダニーにスウェーデン旅行の件、誘ってみる。だって言わないのおかしいだろう?大丈夫、行かないって言うさ。」

クリスチャンのバカ!男たちの声にならない怒号。そして、まさかのダニーが俺たちの旅行に付いてきた!

 

さあそして。スウェーデンへ。奇祭祭りの始まり始まり。という。

 

5月。スウェーデン奥地の秘境、ホルガ(勿論架空の村)。白夜の季節であるそこでは太陽が完全には沈まず、夜が訪れない。一体今はいつなのか?昨日?今日?次第に失っていく日付の感覚。

どこまでも明るいその村に住む人たちは皆、白っぽい服装に身を包み花を纏う。

どこそこに散らばる、意味ありげなモチーフ。タペストリー。美しい花が咲き誇り、村人は皆笑顔で陽気に歌い踊る。

「こんな場所があったのか!」戸惑う一行。ここは楽園か。

けれど。村人らにのみ通じている祝祭を目の当たりにして。次第に不安が隠せなくなってくる一行。笑顔で執り行われる儀式の禍々しく、不気味なこと。

 

目の前で起きている出来事。笑顔の人々。咲き誇る花々。これは果たして現実か幻覚か。自分は今正気なのか、狂気の中なのか。ここは天国なのか地獄なのか。

一体、自分たちは何のためにこの場所に呼ばれたのか。

 

ホルガで執り行われていた、祝祭の儀式。それらを事細かく分析出来るオタク的教養を当方は持ちませんし、ネタバレもアレなんで煙に巻きますが。まあ…「イカれていたな!」という映画部長の一言で代用。

「意外と分かりやすい展開で進んだかなあ~。」と思った当方。村に到着後すぐ見たタペストリーで「ああ。この村の女子は恋をしたらこんな気持ち悪いおまじないで進めるのか~。」と思っていたら…まさに!とか。人生72歳までトークとか。あのテトラポット型ハウスの顛末とか。初見で見た当方の印象を、最後にそうだと答え合わせされる。そういう感じ。人から悪趣味と言われるセンスがアリ・アスター監督と一致していたという事か…。

 

当方の無理やり『オズの魔法使』理論で行くと、主人公ダニー=ドロシー。クリスチャン=弱虫のライオン。ぶっきらぼうでガサツなマーク=脳みそがないカカシ。直ぐにスマホで映像を撮りたがるジョシュ=心がないブリキの木こり。そして彼らをホルガに連れてきたペレ=ドロシーの愛犬トト。になる。

 

「虹の彼方には此処よりもいい所がある。」と夢見ながらも、実際に竜巻に飛ばされてオズの国にやって来たら終始「カンザスに帰りたい。」と言い続けたドロシー。

ダニーだって。暫くはアメリカに帰ると騒いでいたけれど。結局ダニーはドロシーとは真逆の選択をした。

トトはドロシーの愛犬。いつだって一緒。ダニーはクリスチャンと恋人同士だけれど、ダニーの心に寄り添えるのはペレ。「同じ痛みを経験したから分かるんだ。」「ここでは皆で共有して生きていける(言い回しうろ覚え)。僕たちは家族だ。」

 

メンヘラ系女子が大の苦手な当方からしたら、鳥肌モンのダニー。終始ウジウジして、言いたいことありげな表情を見せながらもはっきり言わなくて。なのに「察して構ってよ!」とか「ああもういいですよ。分かってくれなくても。どうせ私なんか。」という気持ちを押し付けてくる。妙に物分かりの良さそうな言い回しをして、なのに明らかに本意じゃない。終始便意を我慢しているみたいな表情。

「うぜええええええええ。」ああもう本当に苦手。こういう奴。

当方からしたら「何がクリスチャン=弱虫のライオンだ!」ダニーから心が離れつつあって、寧ろ鬱陶しくも思っているけれど。どっちつかずな態度を取っているからって弱虫呼ばわりされる覚えなんかない。自分の事を棚に上げて何言ってんだ。

そしてこの作品での「カカシ」と「木こり」の扱いのぞんざいな事よ…。アイツら、とことん人数合わせ要因でしか無かったんやな…。

 

オズの魔法使』で出てきた、ケシの花畑。この作品でも随所で使用されたオクスリたち。

得体の知れない何か…植物由来のオクスリでトリップする。ゆらゆらと揺らめく花々に覆われて夢を見る。思考を鈍らせて、目の前にあるもの、それだけを肌で感じる。何も考えない。

「当方が声を殺して笑った、クリスチャンのセックスシーン。」

近年稀に見るインパクト。心の中で当方大爆笑。クリスチャン凄い。オクスリの力とは言え、あんな状況で。アイツは漢だよ…。

 

"フェスティバル・スリラー”。今回、なんやそれなジャンルを持ち出してきましたが。当方の受けた印象としては「これはコメディ映画だ。」

「とりあえず、アリ・アスター監督が色んなオタク分野に教養のある人物であるという事は分かった。」「1986年生まれかあ~。まだ30代。若い。」

 

スウェーデンの奥地にある、ホルガ(勿論架空の村)。そこで行われる、狂った祝祭。

祭りの目的。それは「村を存続させること」。

小さなコミュニティでの交配ではいずれ血を絶やす。けれど新しい種をよそから持ち込み、新しい花を咲かせれば尽きる事は無い。生贄と言う名の間引きを行う。老いた命は腐る前に土に帰り、新しい命を生む。そうやって、いつまでも強くて美しいオズの国=ホルガを保ち続ける。

そう考えると、あの村の住民の表情にも合点がいく。彼らに悪意は無い。けれど善意も無い。あるのは「これが当たり前だ。」という価値観。つまりは土着信仰。

 

ホルガからやって来たトト=ペレに連れられて。思いがけず居場所を見つけたダニー。感情を皆で共有する事が当然なホルガならば。どんなに大声で泣いても、誰も迷惑だなんて思わない。寧ろ一緒に泣いてくれる。(後。赤と青の刺繍服について。こだわりの意味合いがあるとは思いますが。ダニーが青なのはドロシーの服も青だったのもあるんじゃないかと想像する当方。はい蛇足。)

 

「とりあえず。スウェーデンは怒ってもいい気がするな。」(日本ならば「黄金の国ジパング」と誤解されるやつ)ニヤニヤ笑っていたけれど。

ふと見かけた「脚本を執筆中、恋人との破局を迎えていたアリ・アスター監督は…。」という文章に、思わず表情を一転させた当方。

「え。じゃあこれって…。」

 

映画部活動報告「スピリッツ・オブ・ジ・エア」

「スピリッツ・オブ・ジ・エア」観ました。
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1988年公開。アレックス・プロヤス監督伝説のデビュー作品。

製作に4年半。公開された年のオーストラリア・アカデミー賞で最優秀美術賞、最優秀衣装賞にノミネート。第一回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭では審査員特別賞を受賞。91年に日本の劇場公開が開始されると、レイトショーで12週間のロングランとなった。

しかし、ヒット上映記録を持ちながらもディスク化がなされなかったため、長らく『失われた作品』と呼ばれていた。

今回、監督自身の手によるデジタルリマスター版として再び劇場公開された。

(劇場チラシから所々抜粋)

 

荒廃した砂漠のぽつんと一軒家。そこには、足の不自由な兄フェリックスと妹ベティが二人で暮らしていた。

「この土地から一生離れるな。」今は亡き父親の遺言に固執する妹と、手作りの飛行機でここから飛び立つ事を夢見る兄。

ある日。兄妹の前に、何者かに追われているという男、スミスが現れる。

 

フェリックス。ベティ。スミス。綺麗なまでにこの3人しか登場しない(スミスを追う追っ手?らしき影は時々出てきましたが)。そして物語の構成も非常にシンプル。

「ここを出ていきたい」兄と「ここから離れたくない」妹。そして「早くここから逃げだしたい」逃亡者。

男たちは空を飛んで脱出する方法に希望を抱き燃え上がり。女は一緒に留まれと騒ぎ立てる。

「ねえ。兄の足を見た?空を飛ぶんだって、飛行機を作っては失敗して。落ちた時に足を怪我して歩けなくなったのよ。」「兄は頭がおかしいの。」(言い回しうろ覚え)

 

「製作過程、そして試作品の飛行練習。一々半狂乱。フェリックスは確かにイカれているけれど…ベティよ。アンタはもっとヤバいで。」

ベティを見ていて、終始険しい表情。当方が最も苦手とする『メンヘラ系女子』。それも相当振り切れている。

「大体あんなメイクって。」おっとこれはいかん。人を見た目で判断してはいかん。(なんて言うか…ティム・バートン監督が好きそうな造形。『アリス・イン・ワンダーランド』の赤の女王なんてまさにこれ)

日替わりで変わる、奇抜な衣装。男二人が薄汚れた同じ服をずっと着ているのに対し、随分と…オシャレ(当方なりの気遣い)なベティ。

そういう、いかにもオサレ系女子に支持されそうなベティだけれど。当方はあかん。こういうギャアギャア大声出したり叫んで自分の主張を通そうとする奴はどうもあかん。

 

情緒不安定な妹と二人。いつかはここを飛び出したい。まだ見ぬ場所に行きたい。そう思って、何回も飛行機を作ってきた兄。失敗続き。けれど、思いがけず現れた男に夢の後押しをされる。「行ける。ここから飛び出そう。」(言い回しうろ覚え)

 

スミスが一体何に追われているのか。何をやらかしたのか。全然分かりませんでしたが。まあ…男前なんですわ。

ヤバい兄妹を前にして。若干の不安を感じながらも、何度も何度も飛行訓練を繰り返す。おかしな妹にはヒステリックに当たりちらされるけれど。それでも「いつか飛べるはず」と兄と行動を共にする。

「そもそも、奇抜な出で立ちをした女性にヒステリックに悪意を向けられた時に。その相手にキスして黙らせるって。スミス、アンタどんなスケコマシだよ!」(当方心の声)

 

何度も失敗を繰り返し。次第に完成度が上がってきた手作り飛行機。そして遂に…。

 

「これ。そもそも二人はどうやって生活してたんだ。」「荒野に一軒家って。食事は?水道は?電気は?」「ベティの衣装の出どころは?」そういう事は考えてはいけない。

この作品に生活感や常識を当てはめてはいけない。だってこれは『おとぎ話』だから。

おとぎ話=比喩的に、空想的で現実離れした話。まさにそう。

一つの場所から飛び立ちたいと夢見る者とずっと居続けたい者。相反するのに、二人には切っても切れない絆があり、それ故に留まるしかなくなっている。そこに現れたのは二人にとっての希望であり、絶望。

 

またねえ。映像がもう…言葉にならない美しさ。どこまでも続く大地。地平線を隔てた空が青く、日が沈む時オレンジに染まり、そしてまた蒼い。

そこに佇む、オモチャみたいな一軒家。かつて宗教家だったという父親の影響から、所々キリスト教を連想させるモチーフに彩られ。この家は可愛くもあるけれど、不気味でもある。

「ここが一番。」と離れる事を拒否する妹は最早この家と同化していて、兄をとことん拘束する。

 

「一体スミスって何だったんだろうな。」

兄妹にとって希望であり絶望だった。スミスと行動を共にする事と、スミスに背を向ける事、どちらをとっても兄妹片方しか幸せになれない。

足が不自由という現実に加え、文字通り足かせになっている妹。どちらにせよ自分一人では飛び立てない兄に一縷の希望を見せた…それがスミス。

 

結局兄が下した判断に。「うわあああああ。」と心の中で叫んだ当方。これはあかん。こんなのあかん。もう、そこからは声にならず地団太。

「そして。これは兄が作った、最後の飛行機になったんだろうな。」

 

「『スピリッツ・オブ・ジ・エア』は目の前に立ちはだかる、時には馬鹿げているとさえ思えるような障害物と戦いながらも、夢を実現させようとする者たちの物語である。」アレックス・プロヤス(劇場チラシから抜粋)

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」松尾芭蕉の引用になってしまいましたが。

公開から30年経った今。あの荒野の一軒家を思うけれど…辿り着いたとしても、もう誰も居ない気がする。朽ちて、面影だけを残す家。何があったのかは誰も知らない。

 

シンプルな登場人物とストーリー。けれど映像は何処までも幻想的。いくらでも想像を膨らませる事が出来る。こんなおとぎ話が30年前にあったなんて。

 

ところで。流石に今回のデジタルリマスター版はディスク化されるんでしょうかね。まあ、されなかったらされなかったでまた『失われた作品』となる。残るのは個人の記憶の中のみ。夢か幻か…けれどそれもアリかなと思う当方。実にお似合いですよ。

映画部活動報告「彼らは生きていた」

「彼らは生きていた」観ました。
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2018年。第一次世界大戦終結100周年を記念とした事業として、2018年10月のBFIロンドン映画祭での上映を目的として制作された作品。

イギリス帝国戦争博物館に所蔵されていた、第一次世界大戦中の西部戦線で撮影された膨大なモノクロ映像資料から抜粋し、現代の技術を駆使して3D制作に成功。

退役軍人たちの肉声インタビューや、訛り英語を話せる人間たちからセリフを収集し、ナレーションや兵士の音声を再現。また風や馬の蹄などの音も重ねた。

ピーター・ジャクソン監督作品。

(パンフレットから抜粋)

 

1914年。第一次世界大戦勃発。その当時のイギリス国内風潮。年齢を偽り自ら志願兵となった若者たち。訓練の様子。そして西部戦線へ。

第一次世界大戦を知ったのは、教科書で。物語で。映画で…確かにモノクロの映像も観た事はあった。けれど、粗い解像度とカクカクした動き。音声もマッチしていなくてどことなく素っ頓狂。リアルを切り取っているはずなのに、リアルさを感じない。

今回、ピーター・ジャクソン監督を初め、多くの技術者が各々の分野の全てを駆使して作り上げた…人類初の世界大戦前線のドキュメンタリーが上映される。これは観ておかないと。こんなの観られる機会はそうそう無いぞ。

 

結果から言うと「とんでもないモン観てしまった」。これまで観てきたようなカクカクのモノクロ映像からカラーに切り替わる瞬間。思わず鳥肌。

とは言え。残念ながら当方は映像や音楽の技術者では無いので「これがどれだけ凄いのか」については全く語れないのですが。

 

戦争映画について感想を書く度、同じ事を書いてしまう。けれどやっぱり言いたい。

当方が知りたい事は「その時生きていた人たちはどう感じていたのか」。

特に敗戦国である日本は「あれはいけない事だった」「過ちは二度と繰り返しませんから」「辛い。何も良い事などない」と描きがちで。

戦後に生まれて教育を受けた当方だって、当然そういう思想に落ち着いている。竹やり持って誰かを殺してこいなんて絶対に嫌だし、戦争なんて体験したくない。けれど。

「戦争時代に生きた人たちはどう考えていたのか」「どういう生活を送っていたのか」24時間全てを憎悪に費やしたとは思えない。一体どんな日々を暮らし、戦時中である事をどう感じていたのか。それを知りたい。後付けの倫理観で覆っては、実際が見えなくなる。戦争は愚かな事かもしれないけれど、彼らが愚かであった訳では無い。

せいぜい2,3世代しか変わらない彼らが、今を生きる世代と地続きでないはずが無い。

 

戦争が始まって。「男子たるもの!」といった内容の募兵ポスターがイギリス国中に張られた。「愛国心故!」とかつての軍人たちは再び集い。

そして19歳~35歳が志願兵資格であったが、年齢を偽った十代の若者たちも多く志願した。けれどそれは「周りが志願していたから。自分も行かなければと思った。」「働きたくなかった。」等。異様な興奮状態にあった国の雰囲気に、訳が分からないまま飲み込まれた者も沢山存在した。

彼らは一律に錬兵場へ移動、厳しい訓練の日々が始まる。まだあどけなかった彼らも一か月もすれば立派なイギリス兵。

 

カラー映像に切り替わり。動きも滑らかになって。何よりカメラに向ける彼らの表情に息を呑んでしまう。血が通っている。

歯並びが無茶苦茶なあどけない顔もある。ふと過る真顔。けれど彼らは概ねカメラに笑顔を見せおどけてみせる。隣の兵士と小突き合い。肩を寄せ合う。

 

最前線に送られる。そこは西部戦線。直ぐそこにドイツ軍がいる。

塹壕で監視と穴掘りを交代で行う日々。いつドイツ軍から攻撃されるか分からない緊張状態の中。横穴で倒れるように眠り、紅茶を飲む。目の前には腐敗して片付けられていない死体。不衛生かつ冬場の冷え込みで凍傷を負う者。当方からしたらトラウマレベルの非常事態連発だけれど、これが彼らの日常。

 

退役軍人たちのインタビューが作中のナレーションとなるので。観ている映像に「こういう事があってさあ~」と彼らの説明がついて進行していく仕様。ただ、それを観ていて当方が思ったのは「この人たちは生き残った人たちなんだな。」という事。

カメラを向けられると人は思わず笑顔を見せる。体力的にも精神的にも明らかに過酷な状況で、思わずおどけたり笑顔を見せた兵士たちの一体どれだけが生き残ったのか。

どうすれば生き残れるかなんてルールは無い。偉いとか偉くないとかも、おそらく関係ない。弾に当たれば死ぬ。爆破されれば死ぬ。けれどそれだけではない、ただ沼に落ちたとしても命を落としてしまう。兎に角運が悪ければ死ぬ。

戦場では誰の命も平等に軽く、誰が死んでもおかしくない。けれどそれは何の為に?

 

作中。ドイツ軍兵士を捕虜として捉えた場面があって。けれど言葉が通じるものを介して話をしてみると、憎むべき相手では無かった。ただ互いにひどく疲れていた。それだけ。負傷したイギリス兵を一緒に救護班まで運ぶドイツ兵。友情めいた絵面に「何をしているんだろうな」と思わずにいられない。だって。じゃあ一体何と戦っているのか。

 

突撃の日を迎えた時。これまでの朗らかだった彼らの表情ががらりと変わる。張りつめた緊張感。流れが変わった。息が詰まった後。ただただ溜息。

 

「イギリス帝国戦争博物館に所蔵されている膨大な映像資料。今回は西部戦線を切り取って編集した。けれど、その素材となった映像を撮っていた人…カメラマンはどう思っていたんやろう。誰に、最前線の何を届けたかったんやろう。」

当方は何者でもありませんが…おそらく「目に付いた全てをカメラに収めたかった」んだろうなと。カメラマンならば。記録に残せる立場に居る者ならば。きっとそう思う。

 

「俺たちにとって戦場とはこういう場所だった。」視覚的に理解しやすい映像と退役軍人たちが語った内容。実に頭に入りやすく説得力があった。

「こういう色んな立場の人たちの話を聞きたい。多分もうすぐ聞けなくなる。」そんな考え方は良いとか悪いとかは後からでいい。飾らない体験談を聞きたい。

なぜなら。色んな考え方を知らないと、同じことを繰り返してしまうから。例えば「戦争はいけない事だ」という考えを持つのならば、何を以てダメなのか、答えだけではなく、行きつくまできちんと考えなければならない。

そう思うと、こんな体験が映画館で出来たなんて本当にありがたい。そう思う当方。

 

(後余談ですが。パンフレットが400円だったのも驚き。ワンコインでおつりが来て読み応えもある。これはなかなか。)

 

感情が溢れるまま、纏まりもなく勢いよく書いてしまいましたが。別に気難しく構えなくても、単純に興味深い記録映画として楽しめる。不謹慎ですがちょっとコミカルな部分もある。99分があっという間。

そして最後の一言に「それは確かに無いわ。」と声にならない声で苦笑い。

これは観られる間に映画館で観た方が良いと。本当にそう思う作品。こんなの観られる機会はそうそう無いです。

映画部活動報告「殺人の追憶」

殺人の追憶」観ました。
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2003年公開。ポン・ジュノ監督作品。主演ソン・ガンホ

韓国。1980年代後半に実際に起きた『華城連続殺人事件』。

10~70代の女性10名が強姦殺害された事件。それを基に作られた戯曲。

 

第92回米アカデミー賞で快挙を成したポン・ジュノ監督。『パラサイト 半地下の家族』公開記念としてシネマートで企画・上映された『鬼才 ポン・ジュノの世界!』。

ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』『母なる証明』『スノーピアサー』これら四作品がスクリーンで再上映、というラインナップの中。「有名作品なのに実は観た事が無かった。」という理由から(他は鑑賞済み)。「しかもスクリーンで観られるなんて。」とホクホクしながら映画館へ向かったのですが。

 

「いやあこれ…ポン・ジュノ監督作品全てを観た訳じゃないからアレやけれど…マイベストポン・ジュノ監督作品かな(今までは『母なる証明』やった)。」

「寧ろなんでこれ観てなかったんだ当方よ!」と背中叩きたくなったくらい。このもやあ~っとした感じ、幕の閉じ方。物凄く当方の好み。堪らん。

 

公開から17年。しかも未解決事件のはずが昨年真犯人が特定された。もう星の数ほどこの作品についての紹介、考察はされているはずで。そんな中しれっと知ったような御託を並べるのは恥ずかしい…なので、さらっと感想を書いて収めようという魂胆で進めますが。

 

1980年代。ソウル郊外の農村で女性の変死体が発見された。地元警察のパク刑事(ソン・ガンホ)は弟分のチョ刑事と捜査に当たるが、第二、第三の類似事件が続くばかりで犯人の手がかりは見つからない。焦る中、恋人ソリュンから聞きつけた噂から焼肉屋の息子グァンホが浮上。

同じ頃、ソウル市警からソ刑事(キム・サンギョン)が派遣された。田舎警察の暴力的な取り調べ、犯人を捏造しようとする姿に軽蔑する態度を隠せないソ刑事。

典型的な体育会系、暴力的なパク刑事と知的で冷静なソ刑事。見えない犯人に振り回され、追いつめられ…次第に己の信念をも奪われんとする刑事たちを描いた作品。

 

2003年公開。「ソン・ガンホ若っか!」当時36歳位ですか?もうパツンパツン。加えてあの貫禄。もう見るからに『THE田舎の暴力刑事』。

汚い警察署館内で、散らばった事務机に足乗っけて。直ぐ大声出して。犯人だと思われる人物が現れたら、弟分のチョ刑事に暴力を振るわせて犯人だと自白させようとする。

「ああもうホンマそういう奴、嫌い。」けれど、パク刑事は決して無能では無い。

 

「俺の目を見ろ。」

相手の目をしっかり見る事で真偽が分かる。それは長年の経験から判断できる所もあるとは思うけれど。いわゆる野生の勘というやつを持ち合わせるパク刑事。

 

対するソ刑事。ソウル市警から派遣された『THEまともな刑事』。連続婦女暴行殺人事件に関連する事項はなんだ、そこからあぶりだされる犯人像は?あくまでも真っ当に捜査を進めたい。なのに一緒に組まされている地元警察は馬鹿馬鹿しい体当たり捜査でうんざりする。

けれど。腐っても鯛。地元警察が引っ張ってきた容疑者もあながち無関係では無かった。焼肉屋の息子、グァンホ。知的障害と手指に麻痺がある彼に、犯行は不可能だと判断されたが。あの無理やりな供述には、実は重要な記憶が隠されていた。

 

「犯人は犯行場所に戻ってくる。」そう睨んで張り込んでいた夜。そこにノコノコ現れた男。(ああいう性癖を持つ人って、現実社会で生きづらいですね…。)

地元の女子高生たちが話してくれた噂話。

雨の日にFMラジオでリクエストされる曲。

そして唯一の生きている被害者。

 

先述の、グァンホに対する自白強要が社会的問題となって。上司が交代。パク、チョ刑事の暴力行為が封じられた。そこで脱落していくチョ刑事。

パク刑事とソ刑事のバディモノになっていくにつれ、真実を導きそうなパーツがポロポロと見えてくる。

 

「うわもう絶対こいつが犯人やん。」そういう所まで話は盛り上がっていくけれど。

事件にのめり込むあまり冷静さを失っていくソ刑事と、逆に冴えてくるパク刑事。この二人の持つ素養や信念が交差する下りとか。上手いな~とゾクゾクしてしまう。

 

実際に起きた事件を基にしている。それがどこまでが事実に即していて、どういう配慮がなされたのか当方には分かりませんし…不謹慎ではありますが、単純にお話として面白かった。

 

粗削りな捜査、けれど自身の『野生の勧』は間違いない。そう自信を持っていたパク刑事だったけれど…もう真実は見えなくなった。分からない。もう刑事は続けられない。

 

事件から何十年も経って。全く違う立場になった時、あの場所で思いもよらない言葉を聞いた。そのパクの表情。どれだけの言葉を含んでいる事か。

 

「ああもう!あのソン・ガンホの表情だけでご飯何杯でも食べられるよ!」

「寧ろ何でこれ観てなかったんだよ当方!」

 

背中をバンバン叩きながら己を責めましたが。まあ…そこは今回スクリーンで観る機会をくれたシネマートに感謝するという事で…。

 

「そして。どういう集合写真だこれ。」

たまたま見つけた、当時のポスター写真。「あの人はどうなったんやろう。」「この人の家庭はどうなったのか。」件の事件で人生を狂わされた面々。パク以外の人たちの未来を想像してはモヤモヤと纏まらない。
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ポン・ジュノ監督作品全てを観た訳じゃないからアレやけれど…今のところマイベストポン・ジュノ監督作品。これからも楽しみです(何様だ)。

映画部活動報告「1917 命をかけた伝令」

「1917 命をかけた伝令」観ました。
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サム・メンデス監督。第92回米アカデミー賞にて『視覚効果賞』『撮影賞』『録音賞』受賞作品。

 

1917年4月。第一次世界大戦中のフランス西部戦線。防衛線を挟んでドイツ軍と連合軍の激しい消耗戦が続いていた。

連合軍が優勢、ドイツ軍は後退しつつある。今ならドイツ軍を追い込めるぞ。

そう読んでいた戦局が、実はドイツ軍の作戦であったと知った上層部。後退しているフリをして、ドイツ軍は兵士の数と武器を増やしている。そうして戦力を蓄えた所で襲い掛かって来るつもりだ。このままでは1600人の仲間がやられてしまう。

エリンモア将軍(コリン・ファース)は若きイギリス人兵士のスコフィード(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)二人を呼び出し、重大な任務を授ける。

「明朝までに最前線にたどり着き、陣頭指揮を執っているマッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)に『作戦中止』の命令を届けること。」

最前線にはブレイクの兄も居る。兄を初めとした1600人の仲間の命を救い、イギリスの敗北を回避するべく…二人は走り出した。

 

「驚愕のワンカット作品⁈マジで⁈」

公開より随分前。「戦場の様子を!全編驚異のワンカット!迫力映像でお届け!」といった謳い文句を目にして。「それは凄い事になるぞ~!」と期待値が上がった当方。けれど。アカデミー賞授賞式辺りから「ワンカット風」と但し書きが付き始めて…。

 

実際にこの作品を観て。『時系列が交差しない(発生する出来事の順番に物語は進行する)』『主人公が見た世界以外は登場しない』『場面転換も極力つなぎ目を感じさせないようにする』というレギュレーションを「ワンカット」と表現したんだなと飲み込んだ当方。(でもねえ。その広報の仕方…「嘘・大げさ・紛らわしい!」「JARO日本広告審査機構)に言うジャロ!」案件。)

まあ、このワンカット云々について深追いするのは面倒なんで。すっ飛ばしますが。

 

物語はシンプル。先述した内容がほぼ全てで、件の伝令を仲間に伝えるべく若き兵士が『撤退後の敵基地後』『民家』『同胞との出会い』『廃墟と化した町で』『前線』と進んでいく様が描かれていく。

 

『資格効果賞』『撮影賞』『録音賞』受賞。つまりは「まるで自分もそこに存在しているかのような感覚に陥る。」という作品に仕上がっていた。

不謹慎な例えですが…ロールプレイングゲームに於ける、TPS(三人称視点のシューティングゲーム)様式。それは、主人公の後方視点から見た世界に自身も放り込まれて、一緒に任務を遂行すべく同行している感覚になる映像体験。

「誰もここには居ないはずだ。」「さっきまで応援していた飛行機が…こちらに向かってくる⁉」主人公が今見えているモノが全て。他の情報は無い。だから怖い。緊張感の共有…ここからどうなる?何かが飛び出してこない?爆発したり、襲われたりしない?

 

戦争映画にありがちな(失言)『なんか説教臭い事や良い事を言う奴』『お涙頂戴』のヒューマンドラマは殆ど無し(皆無ではありませんが)。あっても深追いはしない。ただただ今は地獄を突き進め。任務を遂行しろ。

けれど。それこそがリアルだと思う当方。

非常事態。正常な判断が出来ない、そもそも己の倫理観をどう設定したらいいのか分からなくなっているようなご時世で。ただ突きつけられる、「明日の朝までにこの伝令を届けないと1600人が命を落とすし、母国は負けるぞ。」その重さたるや。

兎に角前へ前へ。そこで見たモノは一つ一つ脳裏に焼き付けられる。けれど、その意味を想うのはきっと…ずっと後になってから。

 

サム・メンデス監督の祖父の実体験を基にしているという記事も読みましたし、一応はフィクション作品との括り。果たしてどこまでこういった出来事が実際にあったのか。伝令役とは?勉強不足で分かりませんが。

 

「いくら何でも。1600人の仲間と母国を救う伝令を、若い兵士二人に任せるって…リスク高すぎやしないか?」「前線までは、敵も味方も退去して無人状態の土地が続くからって…でもこの二人に危険が及ぶ事、ありえるやろう?犬死する可能性大。」

どうしても。元々の設定が引っかかって仕方ない当方。「前線とを繋いでいる電話線が切れてしまったから…」他には?他には通信手段無いの?本当に?

 

これまで「いつ爆発してもおかしくないダイナマイトを、おんぼろなトラックに積んで悪道もいい所のジャングルを抜けてお届けする」というミッションが当方最大の『危険なお仕事』(恐怖の報酬/1977年)でしたが。

今回のミッションはそれを超えてくる。だって。だってサブタイトルの『命をかけた伝令』って、その『命』は主人公だけじゃなくて1600人の仲間と母国にも掛かっているから。恐ろしい。

 

鑑賞後に「そうかあれって…」と想いを馳せる。…でもそれは後からで結構。まずは体験を。疑似体験が出来る映像作品を作ったんだから。さあ!「考えるな!感じろ!」。

それがこの作品が放つメッセージ(あくまでも当方の勝手な解釈です)。

映画館で観られる内に。これは確かに、家で観るのは勿体ないです。

映画部活動報告「37セカンズ」

「37セカンズ」観ました。
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「生まれてから。37秒間息をしなかった。」

貴田夢馬(以降ユマ)、23歳。

出生時の低酸素状態から脳性麻痺を患い。手足に不自由があり、電動車いす生活。

現在は、幼馴染で人気漫画家SAYAKAゴーストライター生活。

シングルマザーの母親恭子と二人暮らし。けれど、恭子の過干渉ぶりに最近息苦しさも覚えてきたユマ。

何とか自立したい。そう思って出版社に作品を持ち込むが、女性編集長に「人生経験が足りない者に良い作品はかけない。」「経験を積んで来い」と追い返される。

 

「私に足りないもの?」「私のしたい事?」

「これまで体を理由に出来ないと決めつけてきた事は、本当に出来ない事?」

これは、23歳のユマが一人の女性として成長していく姿を描いた作品。

 

「この作品の凄い所は、主人公ユマを、実際に脳性麻痺で肢体不自由のある佳山明さんが演じた事だ。」

(先んじてお詫びしますが。こういう…所謂センシティブな題材に於いて、配慮すべき言い回しとか失礼な言い方とか。そういうのがあるのは重々承知なんですが。もってまわった言い回しに気を取られ過ぎて、何を言いたいのかが分からなくなりたくないんで。全体的にそういう失礼がある可能性は大いにあると思います。すみません。)

 

とある一日。母親恭子(神野三鈴)に起こされて起床。朝食後バスに揺られてSAYAKAの住むマンションへ向かい、一日作業してから又バスに乗り。バス停には恭子が迎えに来ていて一緒に帰宅。一人では風呂に入れないので、恭子に介助してもらいながら一緒に入浴。夕飯を食べて就寝。概ねそういう日々の繰り返し。

 

母一人子一人の母子家庭。ユマの日常生活は何かと介助が必要。生まれた時からずっとユマの世話が恭子の全て。ユマが恭子の全て。けれど…そういうの、正直最近鬱陶しい。

今日は書店で漫画家SAYAKAのサインイベント。お花を持って顔を出したい。なのに「お母さんも一緒に行く。」「ワンピースなんて、駄目よ。」何の心配をしているの。

やっとの事で恭子を振り切ってイベントに一人で向かったのに、SAYAKAに追い返されて、会場にすら入れなかった。「ねえ。分かってよ。ユマは来ないで。」

SAYAKAの漫画を描いているのは誰だと思っているの。なのに。SAYAKAの担当者に漫画を見てもらったら「真似じゃなくてさあ。」と言われてしまう。

 

求められている。居場所はある。けれどここは私が望む場所ではない。私が私らしく過ごせる場所では…私が私らしく?

 

そこでユマが一念発起して描いた漫画が何故か成人モノ。「そんな今日日エロ本が道に落ちているもんかね…。」そう思わなくもないですが。拾ったエロ本に触発されて、出来上がった作品を出版社に持ち込み。そこの女性編集長に先述の「人生経験云々」の内容を告げられる。

って、もっとあけすけな言い方でしたがね。「あなたセックスした事あんの?」「セックスしてから来て頂戴。」

「セックスって…。」途方に暮れるユマ。

 

ところで。当方が全編通して感じたユマの凄い所。それは「動きだしたら前進あるのみ。」今まで自分には恋なんて出来ないと思っていた。けれど。「やると決めたらやる。」

 

寧ろなんで今まで閉じこもっていたんだ。そう言いたくなるほど積極的に外の世界と関わり始めるユマ。でも…その姿は危なっかしくて。見ていて冷や冷やする。

「頼む!自分を大切にしてくれ!」うわああと居たたまれなくなった、散々だったラブホテルで。ユマは同じく脳性麻痺で肢体不自由の男性クマ(熊篠慶彦)と、風俗嬢舞(渡辺真紀子!彼女が出てきたらもう間違いないな!/当方心の声)に出会う。

 

ユマの周りに居る人物達。その中で当方が特に気になったのが、ユマの母親恭子と風俗嬢舞。二人の(多分同世代設定)女性。

恭子と二人で生きてきた23年。愛され大切にされてきた。それは間違いないけれど、その愛情が重すぎる。このままでは自分は何も出来ない。だって何もさせてくれないから。恭子とは違う世界に踏み出さなければ。そうもがき始めたユマにとってやっと現れた、背中を押してくれる存在。

「障害があるとかないとか。関係なくない?あなた次第でしょう?」「何も変わらないよ。」

危ない所に行くんじゃない。そう言って外の世界を見せなかった恭子に反して、舞は馬鹿笑いをしながら。一緒にショッピングをし、おしゃれをし、アブノーマルな世界にもユマを連れて行ってくれた。

何もかもが新鮮で。そうか。私は自由なんだ。

 

「お母さんは、決して意地悪でユマを閉じ込めた訳ではないよ。」「お母さんは…お母さんやから、こんなにユマを心配しているんやで。」

当方は誰の親でもありませんが。流石に老いたる人生経験から分かる事もある。母親恭子の気持ち。それを思うと胸が痛い。

生まれた時に負った脳の障害から肢体不自由になった娘。

離婚して、シングルマザーで子育て。ただでさえ大変だったろうに。しかもユマは人一倍介助が必要。これまでの恭子の苦労や心情を察したら…涙が出る。

「いつまでも子供扱いして!」「お母さんが何もさせてくれないんじゃないの!」

危ない。ユマが死んじゃう。そう思った場面はこれまでの23年間で沢山あったはず。危険な目に遭わせたくない。ユマが大切だから。

 

この作品の主人公はユマで。あくまでもユマ視点で話は進行するので。

舞と出会った事で変わっていくユマに気づいて、恭子に強引に二人の世界に連れ戻されたユマ。前以上に頑丈な、閉鎖空間という名の家。家と言う名の檻。

そこから強行突破、恭子の元から飛び出して自分探しを進める後半のユマのワールドワイド行動には「何だか急転直下すぎるし、どんどん現実離れしていってる。謎展開かなあ。」と違和感を感じた当方。

(後からHIKARI監督達とのインタビュー記事等を読んだのですが。佳山明さんが実際に双子の姉妹であったり、その健常者の姉がタイで教師をされているんですね。なるほどと思いましたが…でもお話としては唐突さが否めなかった。)

けれど。そんなユマの自分探しの旅の間…日本でユマの安否を案じて涙する恭子の姿。その短いショットに「23年間でこんなに二人が離れた事は無かったんだろうな」と思い至った当方。

 

ユマが自分から自立する?心配なのは当たり前。だって普通じゃない。ユマには障害がある。一人では出来ない事が沢山ある…自分が付いていなければ。そう思っていたけれど。

今どこに居る?自分の手元から離れて…どこかで生きている?

ユマは自分無しでも生きていける?

(これは語られていないし不明ですが。流石に「ユマが今どこでどういう行動をしているのか、けれど安心できる人物が同伴しているから大丈夫ですよ。」という一報は恭子に入れるのが舞サイドの大人としての義務やと当方は思いますよ。)

 

ともあれ。一回りどころか、何周も大きくなったユマが結局「ここが自分の居場所だ」と選んだ場所。その選択にほっと胸を下ろして。

 

「何かびっくりするくらい可愛くなった。」初めと最後では全く違う。ぐっとあか抜けたユマに目を見張る当方。キラキラしちゃって…ああこれは…今なら恋に出会ってしまうよ。

 

「お母さん。心配事が絶えないなあ。でも今度はおおらかにね。」