ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「オアシス」

「オアシス」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190424204928j:image

「ああ。これは愛だ。」

 

ひき逃げ事故を起こし服役、そして出所したばかりのジョンドゥ(ソル・ギョング)。家族の元に戻るが、誰も彼との共同生活を望んでおらず、煙たがられていた。

ある日。被害者家族の住むアパートを訪れたジョンドゥは、丁度引っ越し作業を進めていた被害者家族と、アパートに一人取り残されたコンジュ(ムン・ソリ)と出会う。

脳性麻痺からの身体障碍を持つコンジュ。ひき逃げで父親を失った後、兄夫婦と共に生活していたが近づく兄嫁の出産もあり、兄夫婦は障害者助成制度のあるマンションに引っ越し。けれど新居にコンジュは連れて行ってもらえず一人取り残され。食事など最低限の身の廻りの事はコンジュの隣人に世話してもらっていた。

前科三犯の社会不適合者と身体障碍者。世間から隔離された世界で、徐々に惹かれ、愛を育んでいく二人。しかしその姿は誰からも認められず。

そして遂に事件が起きる。

 

「『バーニング劇場版』大ヒット公開記念!イ・チャンドン監督特集決定。」

これにはぜひ乗っからないと。『バーニング劇場版』で案の定イ・チャンドン監督の世界観に魅せられ。「もっと欲しい。もっともっと欲しい。」そんな欲求が溢れる中での『ペパーミント・キャンディ』と『オアシス』劇場公開。

 

「『オアシス』日本公開2004年?15年経っても尚褪せない…と言うかこんな純愛映画を他に知らない。何だかもう…堪らない。」

 

作品鑑賞中、映画館を後にした時、そして今現在も。ジョンドゥとコンジュを思うと涙が出てくる。胸から何かが込み上げて来て「あああ!」と言ってしまう。

 

主人公ジョンドゥ。強姦未遂、暴行、そしてひき逃げと随分穏やかでは無い前科三犯の持ち主。けれど彼を見ている限り、決して暴力・凶暴性は感じなかった。

よく言えば飄々。悪く言えば…周囲への配慮が一切無い、奇行スレスレの行動を繰り返す人物。

何と言うか…社会生活を営む上で必要な協調性が著しく乏しい人間。けれどそこには悪意は無い。驚くほど無邪気で本能に従っている。一言で言えば無神経。そういう風に見える。

 

刑務所から出所したジョンドゥ。なれなれしい話し方、挙動不審。気持ち悪いなあ~と眉をしかめて観ていた当方。(例えば、島豆腐系のでっかい豆腐一丁を手づかみで食べるという不快感。)

これ幸いとジョンドゥと縁を切ろうとしていた家族の望みも空しく。結局小さな自動車整備会社を営む兄の元に転がり込み。折角新しい職も見つけてくれたのに「明日からでも良い?今日はいく所があるから。」嫌いやわ~ほんま嫌いやわ~。と思っていたら。自らが犯したひき逃げ事故の被害者家族宅を訪れたジョンドウ。

おや?と思ったのもつかの間。「寂れたアパートに一人で暮らす脳性麻痺の女性」に対し、どうせ何も出来やしないだろうとレイプしようとするジョンドゥ。

「お前は万死に値する。」これはあかん。絶対にあかん。そう思ったけれど。

まさかの。ジョンドゥの元にコンジュからの電話。「私の事、まだ見れる顔だって言った?」「ねえ。また来て。」

初めこそ最悪。けれど。色んな話をして。二人で出かけて。次第に打ち解けていく二人。楽しい。二人で居ると楽しい。

 

脳性麻痺で発語がたどたどしく、思いが表現出来ず意思疎通がスムーズに取れない。だからと言って、コンジュに感情が無いはずがない。」

 

「彼女には分からない。」「こちらが何を言っているのか分からない。」「今彼女の前で起きている事を理解できないだろう。」

 

コンジュの兄夫妻が。隣人が。そしてこれまで彼女に関わった人の多くが恐らくそう思っていた。だから『ヒト』ではあるけれど、『意思を持たない異形のモノ』として彼女を『扱っていた』。

コンジュにも感情がある。その当たり前の事を。違和感なく、ごく当たり前に受け止めたのがジョンドゥだった。

 

「そもそもコンジュは何処までセルフケアできるんやろう?」「いくら何でも体が不自由な女性を放置しすぎやろう。」「行政の不介入っぷり。そして近隣住民から一切二人で居る所を目撃されない地域。」「これは家族の虐待案件。」ちらちらと余計な事も脳内をちらつきましたが。

 

仕事の合間を縫ってはコンジュの元へ。逢瀬が互いに楽しみで。二人で過ごす時は夢のよう。そんなラブラブなシーンに、ふと差し込まれる『もしも~』の映像。

「これはコンジュの空想。そして希望。」当方はそう解釈。

 

閉ざされたあの部屋で。一人で空想の世界に居た。蝶に囲まれて自由に羽ばたきたい、そう思っていた。

恋をしたい。誰かを堪らなく好きになって、そして相手からも気持ちを寄せられる。そして求め、求められたい。愛し合いたい。

 

ありのままのコンジュをそのまま愛している。そう見えたジョンドゥ。二人っきりの冒険。幾つものエピソードに心が爆発しそうになったけれど。

同じ体験であるけれど。感情をスムーズに伝えられないコンジュの心の中から見えた景色。それは言葉に出来なくとも、ジョンドゥには伝わった。同じ景色を見た。

その彩りと儚さに泣けてくる当方。何だこれは。何なんだこれは。

 

危ない。純度が高すぎて怖い。そう過った時。案の定、最高潮に盛り上がった所からの急転直下。夢の様な日々は続かず。

「何でこんなことになっちまうんだよおおおお。」当方の心に住む藤原竜也が絶叫。

 

『純愛映画』。どうしても当方の貧相な語彙力では、そうとしかこの作品を表現出来ない。

『社旗不適合者と身体障碍者の恋』。けれどそれは決してどちらかが優位に立った感情でも、同情でも無い。

「ただ。二人の男女が出会い、惹かれ、求め合った。」どの恋人同士にも起きる事がジョンドゥとコンジュにも起きた。本当はただそれだけ。なのにどうしてこんなに特別に感じて、胸が苦しいのか。

 

歳を重ねるにつれ忘れていく事。誰かを想うシンプルな感情を交わすにはあまりにも二人は危なっかしくて。理解されなくて。

 

二人で一緒に過ごせない日々があっても。もう恐怖に怯えないようにとジョンドゥが取った行為とそれに返信したコンジュ。

 

「ああ。これは愛だ。」

 

観ている側としては終いには感情がボロボロになりましたが。きっと作品の幕が降りた先の世界では二人は幸せに過ごしている。そう思えたラスト。

 

オアシスにたどり着いた?いや、二人は既にオアシスに居た?

美しくて危ない。儚いけれど誰にも壊せない。そんな世界。

 

恐ろしい作品を映画館で観られた事に大感謝。

もう言葉が出ないので。これにて幕引きです。

映画部活動報告「ザ・バニシング ―消失―」

「ザ・バニシング―消失―」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190417181945j:image

1988年公開。ジョルジュ・シュナイツアー監督作品。

 

7月。オランダからフランスへドライブ旅行をしていた、レックスとサスキア。

深刻な喧嘩もあったけれど。結局はラブラブ。途中立ち寄ったドライブインで最高潮に盛り上がる二人。なのに。

「飲み物を買ってくる。」そう言って別れたっきり、サスキアは戻ってこなかった。

そして三年。

恋人を忘れられず。最早憑りつかれたように執念を燃やしてサスキアを探し続けるレックス。ポスターを配布。果てはテレビ番組に出演し呼びかけ。

その後、サスキア失踪の真相を知ると匂わせる手紙がレックスの元に届くが。

 

「これまで観たすべての映画の中で最も恐ろしい映画だ。S・キューブリック監督 震撼。」「サイコ・サスペンス映画史上NO.1の傑作!」

強気に出るなあ~。兎に角、S・キューブリック監督が相当お気に入りだった作品なんだなと思い。そして約30年前の作品をなかなか映画館で観られるのは貴重だぞと。すっかりお馴染みになってきた映画館に向かったのですが。

 

「気色悪う。でもこういう作品は大好き!」決して交わる事の無い(物理的に不可能)S・キューブリック監督に駆け寄って、肩を叩いて「分かるで!分かるで!」と騒いで怒られたい。そんな気持ち。

 

最愛の彼女サスキアを、恋愛に於いて最もピークの状態で失った。

「何故?一体サスキアに何が起きた?」「そして今サスキアは何処で何をしている!」血眼になって探し回るレックス。

「いや…お気持ち分かるけれどさあ。何て言うか…ちょっと落ち着こうか、レックス。」

 

思い切り話がズレますが。内田百閒の『ノラや』。ペットロスにまつわるエッセイ。

ふとした縁で内田家に居就いていた野良猫『ノラ』が居なくなった。そうなると居ても経っても居れなくて。探し回るにしても自身も高齢。探し猫の新聞広告、外国人向けの英語で書いたビラを刷る。立派な大先生が「ノラやノラや。」と言って泣く姿…18年猫と暮らした当方には、思わず涙が止まらなかった作品でしたが。特に動物と関わる事が無かった人には恐らく「いい年した大人が…」と呆れ、滑稽だと笑われてしまう。そんな話。

(何故今猫の話を?と思われそうですが。)

 

つまりは「ちょっとレックスやり過ぎちゃうの?」「彼女、自分の意志で姿をくらませたのかもしれないやん。」サスキア失踪直後は同情的だった周囲の人間も「それ。三年も前やろう?もうレックス前に進んでもいいんじゃないの?」と言い出してしまう。それだけの時が経ってしまった。

 

「違う!俺たちはラブラブだったんだぞ!」「確かにその直前深刻な喧嘩をした!けれど仲直りして…あのドライブインでサスキアが自ら姿を消すはずがない!」(というセリフはありませんでしたが)

 

どうしても納得できない。何がどうなったらサスキアが居なくなる?俺は信じない。俺が信じられる答えを見つけるまでは。

 

そんなレックスの姿は、最早周囲の人間にとっては近寄りがたい狂気。

 

けれど。レックスにとって対になる人間が現れた。

 

「犯人よ。君に会いたい。」

 

大学教授のレイモン。結婚し娘が二人。経済的にも恵まれた家庭。そんな不自由のない生活を営む一方で、子供の時から「善と悪について」の実験と考察を行っていた。

 

テレビ画面越しに「君への怒りは無い。兎に角何が起きたのか知りたいんだ。」切々と訴えかけるレックス。その姿を見て、遂に「私はサスキアに何が起きたか知っている」と手紙を送るレイモン。そして二人は対峙する。

 

「フランスに向かう。」あの日の再現。オランダからフランスへ。レイモンの運転する車に乗って。あのドライブインを目指す二人。その車中で淡々と語られるレイモンの半生。

 

内容としては「やりたい事 やったもん勝ち♪」という『100%勇気』のフレーズが延々当方の脳内に流れ続けた感じ。

「もし今このバルコニーから飛び降りたらどうなる?」「もし川で溺れている子供が居たらどうする?」「この睡眠薬はどれくらい効く?」そういう、自身に沸き起こる疑問。それらを実際に実行に移してみたら。一体自分はどういう気持ちになる?

~というレイモンの己に酔いに酔った自分語り。(演出なんでしょうが。レイモンの役者がまた、えらく気取ったわざとらしい演技をするんですよ。)

 

そして。「もし女性を睡眠薬で眠らせて拉致してみたら?」という発想に行きつく。

何度も何度もイメトレを繰り返し。滑稽な失敗も経て。完璧と思われるプランを練り上げた。そして向かったのがあの日。あのドライブインだった。

 

順当にネタバレしいってはいけないと思いますので。ここいらで風呂敷を畳んでいきたいと思いますが。

 

結局は『知りたい男二人の闘い』。

真実を知りたい男と、己の欲望の果てを知りたい男。そんな二人が出会った時。

「知りたい」を餌に。喰うのか。喰われるのか。どっちらが勝つのか。

 

当方は臆病者なので。「確かに恋人に何があったのかは知りたいけれど…。」おっかなくて自ら犯人だと名乗って近づいてくる輩とは絶対に二人っきりにはならない。相手が何と言おうと警察に通報するし、ましてや車には乗らない。(レックスよ。子供の時「知らない人の車に乗ってはいけませんよ」と言われませんでしたか?)そしてそんな得体の知れない相手が差し出してくる『手作りの食べ物』には口を付けない。

 

そして。例え興味が過っても、バルコニーから飛び降りないし、不必要な薬を己に試したりしないし、ましてや人さらいをしようだなんて思わない。

 

『知りたい男二人』レックスとレイモン。サスキアという女性を挟んで被害者と加害者であるけれど。実は二人は表裏一体。『知りたい』という欲求の成れの果て。そんな二人の成れの果て。

 

「レイモンは女性を拉致してどうしたかったのか。そして今。まさにレイモンの新たな実験が行われているんじゃないのか。」

 

あああ。こういうラストかああ。後頭部に手をやって溜息。気色悪う。でもこういうの、大好き。

 

ところで。大型連休目前の現在、当方が今回得た教訓から二つ。

 

『ラブラブな恋人が居たとして。ドライブ旅行に行くならば、ドライブインで油を売っていないでとっとと現地に向かおう。』『ドライブインでは恋人と一緒に車から降りて、行動を共にしよう。」

 

悲しいかな当方には机上の空論ですが。

しかと心の手帳に書き留め、周囲に発信していきたい所存です。

映画部活動報告「ビューティフル・ボーイ」

「ビューティフル・ボーイ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190416213031j:image

「堕ちていく我が子を。変わらず愛していけるのか。」

 

成績優秀でスポーツ万能。将来有望と目されていた学生のニック。ふとしたきっかけでドラッグに手を出して。「ただの気晴らし。」「すっきりする。」「皆やっている。」「直ぐに止められる。」けれど。次第にのめり込み、抜け出せなくなり…立派な薬物依存者の出来上がり。

心身共に病み。更生施設に入所しては抜け出し、何度も過剰摂取を繰り返し。そんな息子を、時には突き放しながらも支え続けた父親。

実在する親子の8年に及ぶ闘いを映画化。息子ニックをティモシー・シャラメ。父親デヴィットをスティーブ・カレルが演じた。

 

「薬物依存かあ。完全な脱却って難しくない?」

「正直ほぼ無理やな。『今はやっていない』っていう期間がどれだけ続くかっていう話で。」

「ちょっとしたきっかけで直ぐ薬物依存に逆戻り。あの。薬物更生施設ってどうなん?」

「あれなあ~うさん臭いのもあるみたいやし…なかなか全てが上手く訳じゃないみたい…。」

この作品鑑賞後。身近に居る、精神科施設に勤める人物に思わず色々聞いてしまった当方。薬物依存症は根治困難な精神疾患。鑑賞中も唸り、溜息が止まらなかった当方。

 

ライター業の父親デヴィット。息子のニックが幼い頃妻と離婚。デヴィットに引き取られたニック。その後現在の妻カレンと再婚。ほどなく二人の間に二人の子供が生まれた。

とは言っても。決して新しい親子間がギスギスしていた訳では無い。カレンとニックの関係も良好。年の離れた兄弟とも仲良し。

文武両道。気立てが良く、特に問題を起こした事も無い。そんな優等生だったニックが。ちょっとしたきっかけでドラッグに手を出した。「こんなの皆やっている。父さんだって楽しんだことあっただろ?」二人でそっとドラッグを吸って。最高だなと笑った。その程度のはずだった。なのに。ニックはどんどんドラッグから抜け出せなくなっていった。

 

『クリスタル・メス』という(当方は薬物に対しての知識が無いのでこういう表現になりますが)どうやら超ド級の危険覚せい剤。依存性が高く、また脳に与えるダメージも大きく不可逆的。どうやらそんなドラッグに手を出していたニック。

心身共に崩壊していくニック。聡明であったはずの彼の表情は豹変し、何度も施設に入所しては逃亡、のたうち回り、嘘を繰り返し、幼い兄弟のお小遣いをちょろまかし、彼女も道連れに堕とし。(当方が一番痛々しいと思ったのは、幼い弟が「ニックはまたドラッグなの?」とデヴィット夫妻に言った時)

 

「あの子を救う事は誰にも出来ない。」疲れ果てて、思わずそう放ったカレンの言葉に同調。心が折れそうになった事もあったけれど。

 

「会いたい。私のビューティフル・ボーイに。」

決してあきらめない。そうしてニックをサポートし続けたデヴィット。妻カレン、そして前妻ヴィッキー。

 

作品の内容としては『何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ 君の名前声が枯れるまで』という感じ(どういう感じだ)なんで。こまごまとは書きませんが。

 

「兎に角薬物依存は脱却が難しい。完全な克服なんてありえないと言い切っても良いくらいだ。」そう思った当方。そして。

 

「誰もが(出会うきっかけさえあれば)こうなってもおかしくない。」という空恐ろしさ。

 

実在する人物の自伝ベース、それを読んだ訳ではないのであくまでも映画作品からの印象ですが。

幼い頃両親が離婚。そして再婚した。けれど新しい家族との関係性に問題があった様には見えなかった。親から過剰な期待を寄せられて嫌々勉強をしていた訳でも無い。特に強いコンプレックスがあるようにも見えない。『どちらかと言えば優等生』だったニック。けれど彼は無理やり優等生を演じていた訳では無い。

 

なので、当方が『薬物依存者に於けるきっかけステレオタイプ』として想像していた「誰からも愛されていない。」「今の自分の置かれている環境が辛い。」「現実逃避をしたくてドラッグに手を出した。」という風には見えなかった。

 

特別心に闇を抱える人間だけが、ドラッグの世界に足を踏み込む訳では無い。誰でも、出会うきっかけさえあれば…その世界は突然目の前に広がってしまう。

 

「初めて『クリスタル・メス』をやった時。とてつもない高揚感があったんだ。どうしてもそれが忘れられなくて(言い回しうろ覚え)。」

 

そうか。そんなに…でもな。そう怪訝な顔をしてニックを見てしまったのは、当方は実際にドラッグを体験した事が無いから。けれど。もし?もしその味を知ってしまったら?

 

「どう考えても行きつく先が破滅。そうとしか思えないから、ハナから出会わないようにする。ケミカルな高揚感なんて要らない。その味は知らなくていい。」

 

一旦その感覚を知ってしまったら。制御出来る自信なんて無い。だから出会わないようにする…けれどもし。ニックの様に受け入れてしまったら?又はそういう人物が身近に居たら?

 

「薬物依存は立派な精神疾患」そう思っている当方。(過度な依存症は薬物に限らず同様と認識)

こんなものに溺れるのは心が弱いからだ。同じことを繰り返すのはお前の弱さだ。がっかりだ。違う。薬物依存は病気。精神力では克服出来ない。

(当方は専門家でも何者でもありませんので。何を偉そうにという発言ですが。)

 

結局何が依存から抜け出せるきっかけなのか、依存症患者に共通した回答なんて無い…例えば人間関係に問題を抱えてドラッグに走ったとして、その関係性が改善されたらドラッグも止める事が出来るのかというと、そんな短絡的な問題では無いと思う当方。

 

「じゃあどうしたらいいの?薬物依存者は勝手に死ねと?」

繊細な問題故おいそれと答えは出ないと思いますが。この作品の出した回答は「まずは周囲が諦めずに寄り添うこと」だと感じた当方。

 

もう手が付けられない。我々には出来る事なんて無い。そもそも誰もニックを救うことなんて出来ない。絶望し、諦めつつあったデヴィット夫婦が参加した『薬物依存患者を持つ家族会(名称うろ覚え)』

そこで語られた、娘を薬物依存で亡くした母親の言葉。「娘はもう生きていても死んでいる様なものでした。」「けれど。娘が死んだ後はもう本当に何も無い。何も無いんです。」(言い回しうろ覚え)

 

お前は弱くない。何回同じ事を繰り返しても信じている。大丈夫。どんな時だって、お前を愛している。

 

ところで。父親デヴィット視点の自伝ベースなので父子に焦点が当たったのは仕方が無いとは思いますが。義母カレンの心中はどうだったのか。そして元妻ヴィッキーは。

幼い我が子を前にニックにばかり気を取られるデヴィット。家族が不在時に実家に侵入。コソ泥さながら荷物を運び出し、家族が帰ってきたからと車で逃げるニックを涙をぬぐいながら車で追ったカレン。「もう無理!」と放った時もあった。

離婚したけれど。デヴィットと同じく、ニックを大切に思っていたヴィッキー。

立場や距離は違うけれど。ニックを見放さずサポートし続けた母親達。

「美しき父と息子の話だけじゃなくて。母の視点ももう少し見たかったかな。」

そこは一点。気になりましたが。

 

最後の『シラフの状態が続いている』という結びに、強い祈りを送った当方。

映画部活動報告「ペパーミント・キャンディー」

ペパーミント・キャンディー」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190412212420j:image

「人生は美しいか?」

 

韓国。イ・チャンドン監督作品。1999年公開。

 

春。鉄橋下の中州。中年の男女集団。かつて大学で共に学び遊んだ彼らは、20年振りに思い出の場所にピクニックと称し集まった。そこに現れたキム・ヨンホ(ソル・ギョング)。

ラフな服装の面々に対し、上下スーツと場違いな恰好。加えて大学卒業以来キムと連絡を取っていた仲間は誰一人居らず。まさに『招かれざる客』。面食らう一同。

しかしそこはかつての仲間。「よく来てくれたな」と大人な対応をし、何とか場を取り繕って歓迎してくれた…なのに、次々とその場をぶち壊すキム。

調子っぱずれに大声で歌い、泣き、叫び、暴れ。お手上げになった一同はキムを放置。

気付けば、いつの間にやら鉄橋をつたい、線路に上がっていたキム。

ざわつく一同の様子には我関せず。「帰りたい!」そう叫び、向かって来た電車に手を広げたキム。

 

すると。キムのこれまでの20年の半生が巻き戻されて映し出されていく。

 

2018年本国公開。日本では2019年公開となった『バーニング 劇場版』。あの何とも言えない瑞々しい感性。「これぞ映画らしい映画」。イ・チャンドン監督にすっかりうちのめされた当方。そしてヒットを記念して、約20年ぶりに公開される事になった『ペパーミント・キャンディー』と『オアシス』。

「これは絶対に映画館で観なければ。」そう思いながらもなかなか時間が合いませんでしたが。何とか劇場公開中に観る事が出来ました。

 

鑑賞後。「これはもう…当方の貧相な語彙力では表現不可能。引き出しが無い…。」溜息。

「何なんだこのセンスは。」1999年公開。実質20年の時を経ているのに。全く色あせない。

しいて言えば…『クーリンチェ少年殺人事件』『恐怖分子』等のエドワード・ヤン監督作品を観た時の衝撃に近いのか。あの、他とは全く一線を画す独特の空気感。

 

「そうか。20年前ならば当然元々はフイルム作品。…フイルムという響きが何て似合う作品なんやろう。」

 

1999年。恐らく40代前半のキム。仕事も家族も失った。絶望し、最早生きている意味を見出せない。そうして自分の人生にピリオドを付けようとしている男の、これまでの道のり。

 

別れた妻子に会いに行った、ピクニック3日前。

妻ホンジャ(キム・ヨジン)の不貞を責めた日。

友人と起こした会社が軌道に乗って。新居に仲間達を招いた日。

警察官時代。子供が生まれた日。その時キムは何をしていたのか。

潜入捜査のある夜の出来事。

結婚する前にの妻との関係。初恋の人、スニム(ムン・ソリ)との恋の終わり。

徴兵時代。目の当たりにした広州事件。

 

「一体いつに帰りたいというんやろう…。」

 

ああこれ、巻き戻しなんだなと当方が気付いたのは暫く経ってから。ある場面が映し出された後、決まって電車の走る画が現れる。しかしそれは前に進んでいるんじゃない。横を歩く人や走る子供が前から後ろに動いている。

真正面から向かってくる電車に対峙した時から。キムの人生自体が逆再生されていく。停車駅はキムの半生に於けるターニングポイント。

 

けれど。いつの時代だって、どこかに染みが付いている。しかもそれはキム自身のせい。

 

「きっと彼は、その時自分が置かれている環境を当たり前のものとして受け入れすぎていて。それが際どいバランスで成り立っているという事も、己の努力が必要な事も、気づかなかったんだろうな。」そう思った当方。

 

自分を大切に想ってくれた家族。愛してくれた妻。けれどそれは見慣れた景色の様なもの。特別だなんて思わない。

家に帰れば家のことはしている。俺は働いているんだぞ。それがなんだ、俺に隠れて他の男と寝やがって。お前は家で大人しく俺を待っていればいいんだ。ただ、俺が会社の女の子と浮気しているのは別もんだ。

いつもしみったれた顔しやがって。何だあの食事前のやたら長いお祈りは。

そんな夫から妻が離れていくのは当然。

 

警察官時代。虐待としか言いようの無い、尋問聴取。

笑いながら。人を人とも思わず、殴り、蹴り、水に漬けて。

 

けれど。キムが初めからそういう人間だった訳では無い。

 

巻き戻しが進むにつれ。キムに純度が現れてくる。

 

張り込みで訪れた小さな町。そこは初恋の人スニムが生まれた町だった。切なくて。切なくて涙が止まらなかった夜。

初めて尋問をしろと上司に言われた時。嫌で嫌で仕方が無くて。汚れた手を必要以上に洗った。

汚れた自分ではもうスニムとは向き合えなくて。こんなに想っているのに。もう二人は一緒には居れない。カメラを付き返し、彼女を電車に乗せた日。

広州事件。

 

「でも。しつこいけれどこれは巻き戻しやから。これら一連の出来事に対して結局キムが取捨選択した結果が、一番初めに観たピクニックやから。」

 

『汚れっちまった悲しみに』このフレーズが何度も頭をよぎった当方。

 

何故こうなった。どこで間違えた。どこからならやり直せる。帰りたい。幸せになれる所に。そう言って。キムは叫んだけれど。

 

「キムさんよ。大変厳しい事を言うけれど。人生に於いて逆再生は無い。どんな人生だって自分が選んできた選択が重なりに重なって出来ている。振り返れば、当時は些細な出来事だと思っていても、大きな転機であったと思うものがある。」「でも。その時は気づかないんよな。」「当たり前のことなんて、実は何一つなかった。」

何故当方がそう言えるのか。それは恐らく、この作品が公開されて20年が経っているから。

 

1999年当時。学生だった当方がリアルタイムでこの作品を観たとして、果たして今ほど心うたれたのか。結局たらればなので分かりませんが。若い当方なら「このラストはもしかしたら希望なのかもしれない。本当はまだ何も始まっていなくて。ラストシーンこそがキムのこれからの人生の始まりなのでは。」という解釈があり得る。(これはこれで夢のある解釈)けれど。

 

学生だった当方も、同じく20年の月日を経た。今や中年になりつつある現在。つまりは生きていく希望を失ったキムと同じくらいの年代になった。

 

そんな当方からみたキムの20年は、決して「20代学生のキムが見た白昼夢」だとは落とせない。

 

劇的な半生を送った訳じゃない。未だに何者かになれていない。学生だった当方から見たら、日和って当たり障りのない中年にしか見えないのかもしれない。けれどそれがなんだ。20年もの月日を馬鹿にしてもらっては困る。

小さな積み重ねと。幾つもしでかした失敗と。そりゃあ後悔する事もある。けれどもうどこにも帰れない事は分かっている。

 

『汚れっちまった悲しみに』けれど帰る場所は無い。生きているうちは。

 

あの電車にぶつかった時始まった、キムの巻き戻しの半生。あの20年前のピクニック。あそここそがキムの望んだ終着駅。

「けれどもう、あそこから電車が前に進む事はない。」そう思う当方。

 

「人生は美しいか?」

再びキムが瞼を閉じた時。きっと彼の望んだ最も純度の高い世界は完全に閉じられる。キムを閉じ込めたまま。

 

「またタイトルが『ペパーミント・キャンディー』って。全部含めて恐ろしい程のハイセンス。」

 

ああもう何なんだこの化け物は。こんな作品が20年も前に製作、公開されていたなんて。そう思う反面、当方にとっては公開20年後の今、この歳で出会った事が非常にありがたい。そう感謝する、貴重な作品でした。

映画部活動報告「ショーン・オブ・ザ・デッド」

ショーン・オブ・ザ・デッド」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190403192507j:image

2004年公開のイギリスゾンビ映画

エドガー・ライト監督。エドガー・ライト&サイモン・ペグ脚本。サイモン・ペグ主演。

 

ロンドン。家電量販店勤務の冴えないショーン。29歳。

彼女のリズとは付き合って数年。最近ではリズとの結婚も考えているのに。リズは何だか御立腹気味。

原因は、ショーンが一緒に暮らす親友エドの存在。

働いているショーンに比べ、ほぼ無職。(たまにヤクを売ったりして小遣い稼ぎをしている)一日中食っちゃ寝。またはゲーム。ブクブク太って、怠惰の極み。なのにショーンとは昔からの腐れ縁。いつも二人でつるんで行動。

ショーンとリズのデートはいつもパブ『ウインチェスター』。そしてそこにはいつだってエドが居る。

「私は一体何なの⁉」「ずっとこのままなの⁉」キレるリズに対し、翌日に二人っきりのレストランデートを提案するショーン。なのに。

結局デートはお流れ。リズに振られてしまった。

落ち込むショーンをお馴染みのパブに連れ出すエド。散々くだを巻いて。帰宅後も二人で大騒ぎ。そして寝落ち。案の定二日酔いで目覚めた朝。

そこはゾンビたちが跋扈する世界と化していた。

 

昭:2004年イギリス公開、大ヒット。にも拘わらず日本ではDVDスルーされて15年。やっと劇場公開される日が来た!

和:こんなに有名な作品なのに、そう言えばDVD観た事無いな~と思って鑑賞した訳やけれど。って何故私たちが召喚?

 

女性から見たらバカみたい。そんな男同士の友情にやきもきする女性の立場。男友達と彼女は全然違うのに…分かってもらえない、という男性の諦め。一見頼りないのに有事にカッコよい所を見せられてキュンとする気持ち。そういうのを男女の立場から語ってもらおうと。当方の心に住む男女キャラ『昭と和(あきらとかず)』を登場させてみました。

 

和:いやいやいや。それは無理。だって私そういうキャラクターちゃうもん。「私と何か(何かには仕事とか友人とかはたまた身内が当てはまる)どっちが大事なの⁉」とか言わんタイプやもん。

昭:知ってる。同じ人間の心から派生してるんやから、そんな思考が無いのは知ってるけどな…やってもらおうか。後、たまにはこの寸劇回が無いとマンネリ化してしまうから。

和:知らんがな!ニヤニヤして…憎たらしい。

 

昭:しかしこれ、本当に楽しい映画やった。

和:ゾンビ映画に精通している訳じゃないけれど。王道のゆっくり近づいてくる系。噛まれたら感染しいつの間にやらゾンビ化。でも頭を潰せばTHE END。

昭:最近の走れる奴とかじゃないし、なにより「何故彼らはゾンビ化したのか。そして果たして残された人類の定めは?」とかの深刻さが無い。「何故だか知らんけれどいつの間にか町の皆ががゾンビ化してた!」「取りあえず逃げろ!」「あれ?今車で何か轢いた…ゾンビか。ならいいや!」みたいなカラっとした世界観。

和:あくまでコメディ。なのに…ラブやヒューマン要素も織り込んでいて、その匙加減のセンスが良い。

 

昭:冴えない主人公。家電量販店の販売員だけれど特にやる気も無い。故に職場でも学生バイトに馬鹿にされて。でも別に良い。だって、自分には安定した関係の彼女も、自宅に帰れば何の気も置けない親友だっているから。

和:(深呼吸)でもだからって、いつだってそいつが付いてくるのってどうなの?今だってデートなんですけど!貴方にとっては家族同然の存在かもしれないけれど、私にとってはただの邪魔者。二人でラブラブな時を過ごしたいのに!

 

昭:(小声)…よく頑張ったな。和:うるさい!

 

昭:でもさあ。彼女の事、勿論大好きで大切なんやけれど。男友達で親友ってのはまた全然違う次元で大切なの。女の人って直ぐに気持ちランキング総合一位になりたくて男を責めてくるけれどさあ。こっちの『好き』にはタスク分けがあるの。『彼女』『親友』『家族』後は人によって『仕事』とか『趣味』とか。

和:その『親友』のタスク、レベル酷すぎない?それに「タスク分けしてる」って言うけれど、結構私の所まで来てる…タスク統合されてない?

昭:っていう男女の平行線思考。しかも何とか彼女の機嫌を取ろうと二人っきりでのデートを企画したのに。色んな弊害に依って実現ならず。

和:結局貴方にとって私ってその程度の存在なのよ!もういい!さよなら!

 

昭:そんな時。慰めてくれるのは親友なんよな。

和:ショーンの親友エド。ショーンの家に居候している、日がなだらだら怠惰に過ごすどうしようもないデブのニート。昔から一緒で。くっついてゲームをして。映画を観て。音楽を聴いて。ずっと一緒に居ても全く疲れない。阿吽の呼吸でウィットの効いた会話の出来る奴。例え落ち込んだって、とことん付き合ってくれる。だってそんなのお互い様だろ…って、最高やん!エドめっちゃ最高!

昭:おっとブレ始めたぞ!気を付けろ!

和:彼女に振られたからって朝方まで大騒ぎ。そして目覚めたら世界は変わっていた。…本当はその前から違和感は描かれていたけれど。二人が実感したのはここから。

昭:実はもう一人ルームメイトが存在するんよな。仲良く無いけれど。そいつとか。ショーン行きつけのスーパーの店員とか。普段会う人たちがことごとくゾンビ化。そしていよいよ自宅の敷地にゾンビが侵入。

和:あの撃退するシーンの堪らん馬鹿馬鹿しさ。

昭:自宅にバリケード張ってゾンビの侵入を防いだら良いのに。まさかの「近くに住む自分の母親と彼女を迎えに行って(ここまではまとも)、馴染みのパブに避難しよう」というおバカ作戦。「パブのドアや建物は頑丈だから」って。

 

和:優柔不断で周りに流されてばっかり。冒険だってしない。だからいつも同じ場所に同じメンバーで集まって同じことを繰り返すデート。そんな恋人にうんざりしていた。本当に嫌いになった訳じゃ無い。自分がすねたって彼を困らせるだけ。分かっていたけれど…ってモヤモヤしていた時。突然の有事。そんな時に別れたはずの彼が私を助けにやってきた!!

昭:だから言ったでしょうが。タスク分けしてるって。母親も彼女も。ちゃんと親友と助けに来たよ。

 

~我ながら一体何を延々と書いているのか分からなくなってきましたので。ちょっと端折って風呂敷を畳んでいきたいと思いますが。

 

和:っていうセンチメンタルが根底にありながらも、基本コメディでサクサク展開。

昭:母親も重要なタスクやったね。自分が12歳の時に今の父親と再婚。母親の事は好きだけれど、厳格でとっつきにくい義父とはギクシャクした関係。今回の有事を受けて母親に連絡した所、どうやら義父はゾンビに噛まれており、ゾンビ化は時間の問題。

和:「よし!じゃあ殺そうぜ!」というエドの発想!…ほんまエドの奴…好き。

 

昭:この作品は、主要メンバーだからってご都合主義で生き残ったりしない。潔い。

和:基本コメディ。でも最後は何だか切なくて…あんなタスク消去って…。

昭:男って。男って、はたから見たら馬鹿みたいでも、いざという時には恰好付けたい生き物なの。

和:寒い…ギブミーブランケット!もう茶番は限界。

 

ギブアップで寸劇終了。ここいらで感想文も足早にまとめていきたいと思いますが。

 

 

あくまでもコメディゾンビ映画でありながら、ラブとヒューマン要素のバランスが絶妙。締めるべき所はしっかり締めて。でも暗くなり過ぎない。そしてお話の落としどころがまた最高。無理が無く、ショーンとリズ、エドにとってのベストアンサーに収まっている。

 

「そりゃあゾンビ映画好きがこぞって褒めてくる訳ですわ。」

ありきたりですが。「これを15年の時を経て映画館で観られた喜び。」DVDでは勿体ない。ありがたい。そして。

 

「ああ。こういう馬鹿をやれる親友が欲しい。というかエドが欲しい。」

 

エドを求めてやまない当方。一緒に朝まで歌いたいし、レコード投げもやりたいです。

映画部活動報告「レゴ(R)ムービー2」

「レゴ(R)ムービー2」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190403192425j:image

2014年『レゴ ムービー』。全編レゴ、という世界観に惹かれ。と言うよりもそれ以上の情報は無く。

「子供向けのオモチャ映画かな~。」なんて気楽な気持ちで向かった映画館。まさかの「うわあああ~何これ。やるやないかあああ~。」衝撃のクオリティーと『神の世界』の種明かし。舐めて掛かったら完全にしてやられた前作…から5年。

 

「うわ。続編て。」

前作の評判は概ね高評。けれど結局マニアック枠な印象…これは早めに映画館で観ておかないと。そう思い。泊まり勤務明けの朝から観に行ってきました。

 

平日の朝一という事もあって、ぽつぽつと席を埋める『(当方も含め)一体何のお仕事をしているんだという大人達』に混ざって。一人本物のキッズの姿を後方に確認。身が引き締まった当方。(だって…。本来の対象年齢である彼の評価、気になるじゃないですか。)

 

エンドロールも含め、最後まで観た当方の感想としては「これは大人向け映画だ」。

 

『おしごと大王』からの危機を脱したブロックシティ。(前作の下りをこまごまと説明しませんよ。)これで平穏な日々が取り戻せた…と思いきや。

間髪入れずブロックシティを襲来してきた宇宙人達。「一緒にあ~そ~ぼ!」幼い口調だけれど行動は荒く。何回追い返しても、戻ってきては手当たり次第に街を破壊。ブロックシティはすっかり荒廃し、仲間達の心も荒んでいった。

「いつ奴らが来るか分からない。」「街が死んでいく。」「このままでは俺たちは皆殺しにされる。」マッド・マックスか北斗の拳さながらの世紀末感。武装する仲間達…の中、一人のんきで純粋なままのエメット(主人公:工事現場作業員)。

周囲と同様、得体の知れない敵に対しピリピリするエメットの彼女、ルーシー。なのに「二人で住む家を作ったんだ!見て見て!」とはしゃぐエメット。「こんな砂漠に目立つ一軒家作っちゃ駄目!」案の定、直後に襲来してきた宇宙船に襲われる二人…と仲間達。

何とか皆で避難場所に逃げ切れた。と思いきや。あっさり宇宙人も侵入。

宇宙人はメイヘムと名乗り。「私の星、シスター星雲の女王、クイーンの結婚式に招待したい。」と話し始める。一体何を言っているんだと混乱する一同から、強制的に数人をチョイスし宇宙船に拉致。すぐさま飛び立った。

その中にルーシーやバットマンも入っていた事ことからも、後を追うエメット。

 

果たしてシスター星とは一体どういう所なのか。エメットは無事ルーシーや仲間達を救う事が出来るのか。そして宇宙人の真の目的は?
f:id:watanabeseijin:20190407223842j:image

 

~という掴みでしたが。

 

勿論、レゴを一々組み立てて一コマずつ撮影、なんて昔のNHK教育15分番組みたいな手間を掛けている訳じゃ無いとは分かっていますが。それでもこの『全編(一部実写あり)レゴ』という絵面のスペシャル感。そのクオリティの高さだけでも十分心は満たされる。

けれど。前作から共通してレゴ ムービーの凄い所はビジュアルだけでは無い。

 

「全編レゴの世界。レゴのキャラクター達でわちゃわちゃ繰り広げられる茶番…では無い。このキャラクター達の背後にある『神の世界』。それを見せた事で話はぐんと広がりを見せた。」

 

どう書いたら上手く収まるのか。ずっと考えていましたが。やっぱり『レゴ ムービー』の続編となるとあのネタバレが回避出来ない。ずばり『神の世界』の存在。

(すみませんがネタバレしていきます。)

 

…つまりは。まさかの実写パートの存在。とあるレゴ大好き親子の自宅作業場で作られていた、巨大レゴの世界。それこそが『ブロックシティ』。

前作ではそこを巡る、父親と息子の葛藤が描かれた。そして今作では幼い妹が加わった。

 

前作を観て。その足で思わず『レゴ基本セット:青いバケツ』を購入した当方。

(そして暫く遊んで気付いたのは「当方は立体での思考が出来ないタイプだ」という再確認。そういえば幼少期の当方は紙に絵を描く事は好きだったけれど、工作系の作業が殆ど出来なかった…そして実家押入れに収納。現在に至る。)

 
f:id:watanabeseijin:20190407223057j:image

『5才から』という謳い文句の通り、どのパーツも小さくて細かい。これ以上の御託はレゴマイスター及び精通者から怒られそうなのでフェードアウトしますが…前作『レゴ ムービー』での世界観はこの規格のサイズで統一されていたと推定。最後に宇宙人が襲来してくるまでは。

 

「あ~そ~ぼ!」

ロックシティに現れた宇宙人のビジュアル。それは『レゴ基本セット:赤いバケツ』。


f:id:watanabeseijin:20190407223155j:image

『3才から』という、パーツの大きなシリーズ。(今回調べて知ったのですが、現在はこの『青いバケツ』『赤いバケツ』というシリーズ展開はしていないんですね。)

f:id:watanabeseijin:20190407223856j:image

宇宙の向こう。ルーシーやバットマンが連れてこられたシスター星雲。そこではミュージカル好きな『わがまま女王/クイーン』が彼らを待ち受けていた。

 

「クイーンの結婚式…ってここから相手を見つけるの!そしてバットマンなの⁉」

f:id:watanabeseijin:20190407223948j:image

このシリーズに於いてかなり美味しい役回りのバットマン。正義の味方ではあるけれど、ひねくれもので天邪鬼で寂しがりや。そんな癖の強いバットマンと、いかにも悪役にしか見えないクイーン。そんな二人が出会って速攻結婚?果たして二人はどうなるのか。

 

「何なの?こいつらは一体何を企んでいるの?」誰もかれも皆、底抜けに楽しそう。そんなシスター星雲の面々が信じられないルーシー。f:id:watanabeseijin:20190407223933j:image

「私たちは悪者では無い。」「楽しく一緒に過ごしましょう。」キラキラした連中にそう言われれば言われる程猜疑心は深まっていく。

 

一方。仲間達を助けるべく宇宙に飛び出したエメットもまた、新しい出会いを果たしていた。

 

どうしても前作で『神の世界』の存在を知ってしまったので。あの家族が背景になっているとは頭の隅にずっとあったのですが。にしても「また上手い事重ねたなあ~。」という今作。

 

つまりは「どう折り合いを付けて共存するか」。

純粋な気持ちで自分を求めてくる相手を、先ずは信じろと。「何故?」「何か企んでいるのか?」「嫌だ!」「やられる前にやっちまえ!」では相手の姿も歪んで見えてしまう。そして次第に相手もその歪んだ形に己を当て嵌めてしまう。

 

そして。誰も信じなくなった時…自分ではない自分が生まれてしまう。

 

登場人物が多いこの作品で。やっぱり主人公であり救世主なのはエメット。『底抜けに明るい正直者」彼の存在はブロックシティもシスター星雲も神の世界も…そしてエメット自身も救った。

 

結構しっかりとした話の展開をするのに。このテンポとセンス。「え?これDC映画なんですか?」というキャラクター達。そして会話もシーンも「洋画好きなら堪らんやつ」だらけ。もうこれは駄目。どう見ても「大人向け映画」。

 

そして「90分遅刻してもエンドロールが見れたら幸せ!」「この映画を作ったサイコーの仲間を紹介するぜ!」という満面の笑みで見続けたエンドロール。

 

映画館の明かりが着いた時。後ろから「長い!」というキッズの悲鳴が聞こえて、思わず心の中で「仕方ないぞ少年!これは表示されていないけれどR指定モノ(エロ・グロなし)と言っても過言では無かったからな!」とバットマンの声で答えた当方。

 

ところで。映画を観てから数日経っているのに。未だにあの歌が頭にこびりついているんですが…。恐ろしい限りです。

映画部活動報告「ダンボ」

「ダンボ」観ました。
f:id:watanabeseijin:20190402210947j:image

大きな耳で空を飛ぶ象、ダンボ。

1941年にディズニーアニメとして製作された作品『ダンボ』(日本では1954年に『空飛ぶゾウ ダンボ』として公開)を、ティム・バートン監督で実写映画化。

 

「ダンボかあ。これは妹と観ないと。」

 

昔々。当方と妹が小学生だった頃。職場の慰安旅行で東京ディズニーランドに行った母親からのお土産。当方がくまのプーさん、そして妹がダンボのぬいぐるみ。

「プーさんは何となく分かる。けれど何故?何故そのマイナーキャラクターチョイス?」何故だったのかは未だに不明。けれど、以降妹のディズニー押しキャラはダンボ。

(とは言え、元々キャラクターモノに何かをつぎ込む習性の無い当方達は、そこからグッズを買いあさるなどした訳ではありませんが。そもそもそんなにディズニーに馴染みが無いし…蛇足ですが、実は当方も妹も未だにディズニーランドに行った事すら無い…。)

 

1941年製作の前作も何となくのうろ覚え。確か家に絵本があった。そういうレベルですが。「ダンボを観るなら妹と。」

そうして無事、公開翌日に妹と観る事が出来たのですが。

 

映画館を後にしながら。ぼそぼそと語り合う当方と妹。

 

「あの…ダンボってああいう話やったっけ?」「ダンボの母親がジャンボで、ダンボが意地悪されて暴れたから隔離されたっていうのはあったと思う。」「ティモシー(ネズミ)おらんかったな。」「ネズミはいたけれど…ああいうんじゃなかったな。」

 

1941年版も今作も舞台が移動式のサーカスという所は同じ。そこでジャンボという象から産まれたダンボ。さぞ可愛いだろうと皆が期待していたのに…産まれてきたのは耳が異常に大きくて不細工な象だった。

特異な見た目ゆえ、仲間の象から虐められるダンボ。怒ったジャンボは仲間に仕返しをするが、サーカス団長の目に留まり『危険な象』として隔離されてしまう。

 

1941年版では、そこからも鬱々とした描写が続く中。ネズミのティモシーと友達になり、紆余曲折あって(我ながら雑)「ダンボが空を飛べる」という事が分かって。最後無事サーカスのショーで成功したダンボは母親と一緒になる事ができた。という流れ。

 

今作も大まかな流れとしては同じですが。流石にそれでは間が持たない。動物はあくまでも動物。歌ったり喋ったりは無し。その代わり人間達の描写をもりもりに盛り込んで膨らませた。

(注意:以降、感想文の内容的にがっつりネタバレ+観た人にしか分からない仕様になっています。)

 

帰還兵ホルト。在籍していたサーカス団への帰宅。しかし、戦争で左手を失った彼は以前やっていた乗馬ショーには復帰出来ず。団長から『象の世話係』を命じられる。腐るけれど。自身が不在の間に、同じく花形スターだった妻はインフルエンザで死亡。娘と息子を育てていく為には、どんな仕事でも引く受けざるを得なくて。

 

コリン・ファレルが二人の子持ちのシングルファーザーかあ。あの『セクシーの権化』が。」(あくまでも当方がそう呼んでいるだけですよ)

 

まあ。このホルト一家とダンボの交流を軸に物語は進行。

「久しぶりに会った父親と子供達のギクシャクした雰囲気。」「ママなら分かってくれたのに、の盤石のセリフ。」「こんな時、母親が居たら…。」からの。子供達とダンボの交流の結果生まれた「ダンボは飛べるの!」

そして観客の前で飛んだダンボ。大盛況となり、生まれたかったサーカス団に忍び寄る影。やり手の大手エンターテイメントテーマパーク社長。

「こんなドサ周りじゃなくて、うちに来ないか。うちに来たら皆衣食住が確保されるぞ。」

そうしてテーマパークに引っ越したサーカス団だったが。

 

映画公開前に配布されていたチラシや、実際に観てきた記憶。それらを何度も反芻するのですが…どうもしっくりこない当方。

 

「この作品のテーマは…おそらく耳の大きなダンボと対に、戦争で片手を失ったホルトを置いている事からも『姿形に囚われるな。悲観するな。その姿であるからこそ出来る事、輝ける事がある』という所やと思うんやけれど。」

 

「1941年版でも母親を追い求めるダンボ、という構図はあった。だからここは動かせない。けれど…。」映画鑑賞後の妹が言った言葉。「時代なんやろうけれど、動物虐待の描写多いよな。だってナイトメアゾーンって…。」

だからこそ最後、団長の「当サーカスの売りは~」という文言に繋がるんやなとは思いましたが。

「妊娠中にサーカス団に売り飛ばされて、挙句産んだ子供を虐められたからやり返したら隔離されたジャンボにとってはサーカスは悪やけれど。ダンボにとっても同じなんやろうか?」確かに嫌な目にも遭ったけれど…「飛べる!!」と分かってからは結構ちやほやされていたじゃないか。ホルト家の皆とも和気あいあいとやってたし。

 

…上手く表現出来る気がしないのですが、どうも当方には「ダンボとジャンボにのみ救済措置が取られている贔屓感。そりゃあ思い入れの強い個体やから仕方ないのかもしれないけれど。サーカスや見世物にされている動物が可哀想、親や自然に戻せと言うのならばあのナイトメアゾーンに居た動物達も、これまでサーカスに居た動物達にも何らかの措置を取れよ!見殺しか!」というモヤモヤ感。

(そもそもジャンボを業者に売り飛ばしたのはサーカス団長じゃ無かったですか?それが回りまわってあのテーマパークに行きついただけで)

 

そしてホルト家の描写。戦争を挟んだ事で変わってしまった家族形態。失ってしまったもの。けれど家族はまた再生される。もっと強くなれる。…という事なんでしょうが。結局は「おい!子供達よ!新しいお母さんが出来たぞ!」という話。

 

「そしてやり手社長。」

やり手社長の事を随分ボロクソに描いていましたが。そりゃああんなに大きなテーマパークを運営しようと思ったら、口車に乗せてスカウトもしてくるんでしょうし、コスト削減の為に不要な人材のリストラも考慮するでしょうよ。(結局あんな事になってしまうし…取り乱しすぎ。あんなの、おかしいやろう)

 

「そしてサーカス団長。」

何故サーカス団員はまた彼の元に戻れるんですか?確かに一か所『救出作戦』に関わっていましたけれど。団長が団長らしい事をしたシーンってありましたか?(しつこいですが。ジャンボを売り飛ばしたのも、サーカス団を身売りしたのも団長ですよね。)

 

元々は『大きな耳で空を飛ぶ象、ダンボ。』というシンプルなストーリー。そこに『姿形に囚われるな。悲観するな。その姿であるからこそ出来る事、輝ける事がある』というテーマを持たせた。それで十分なのに。なんだかもりもりに盛った部分が邪魔してくる。

言いたい事が沢山あったのかもしれないけれど。結果ごちゃついた印象が否めなかった。

 

「とは言っても、ダンボを見世物にした商業施設が共通して迎える結末。そう思うと、ダンボが通った後にはぺんぺん草も生えない。」「凄いなダンボ。疫病神。」

そう言って。思わず笑ってしまった当方と妹。

 

賛否両論激しかった今作。どちらかと言うと当方は『否』に転じてしまいましたが、一つ。

「ダンボが飛ぶシーン。あれは凄かった。何故か涙が…。」

ただでさえ涙脆い当方の。何かが込み上げた瞬間。あそこは圧巻でした。