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ワタナベ星人の独語時間

所詮は戯言です。

映画部活動報告「ショコラ 君がいて、僕がいる」

「ショコラ 君がいて、僕がいる」観ました。

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20世紀初頭。フランスで初めて誕生した白人と黒人の芸人コンビ。
しがないどさ回りサーカス団で知り合った二人。白人のフィティットと黒人のショコラ。
コンビを組んで、人気が出て。パリの名門サーカス団に引き抜かれ。街でも二人の芸は大当たり。なのに…爆発的な人気を得る中で、徐々に暗転していく二人の関係。
「所詮白人に蹴られて笑いを取っている。白人に媚びた芸だ」「お前は黒人だ」人種差別が根強い時代。
心無い言葉や、同じ黒人からの言葉に揺れ。酒やギャンブルに落ちていくショコラ…。

ショコラをオマール・シー。そしてフィティットをチャップリンの孫、ジェームズ・ティエレが演じた。


「何故元々のタイトル『ショコラ』だけでいかない?!「君たちがいて、僕がいる」みたいな!…チャーリー浜かよ!」
日本語タイトルにありがちな「サブタイトル問題」生粋の吉本文化に慣らされた当方の、必要不可避なツッコミ案件。まあそれは置いておいて。

「何かこの二人。横山やすし・西川きよしを連想させるな…」やっぱり置いておけない当方。

ピエロとしての腕は一流。その他ジャグリング。パントマイム。何でも器用にこなせるけれど「君の芸は古い」とサーカス団から切られそうなフィティット。そんな彼が見初めた「人喰い土人」としてただただ観客を怖がれせていたショコラ。その無限の可能性を信じ、声を掛けた。

「俺たち二人で組んだら面白くなるぜ」

初めは難色を示していたサーカスの団長。半ば無理やり押し切ってコンビで出てみたら…それが大当たり。連日サーカスに二人を見たいと長打の列。でも。

「俺たちはもっと面白くなれる。高見を目指せる」

お笑いに対して、野心と向上心を持つフィティット。何となく付いていくショコラ。そして小さなサーカス団から、パリの有名サーカス団へと活動のステージは上がって。


「何ていうかなあ…。もうこれ仕方ない流れやったんとちゃうかなあ…」

話をぐっと最後まで飛ばして…少しネタバレしてしまいますが。

最後。「俺がどうにかしてあげられたら。二人はもっと高見に行けたのに…」みたいな事を言ってフィティットが泣くシーンがあるんですがね。

「いやいやいや。貴方はベストを尽くしたと思いますよ。誰のせいでもない」背後から、そっとフィティットの肩に手を置きたい当方。


「黒人なんて猿以下だ」「お前たちに人権などない」「醜い」「低俗だという自覚を持て」「怖い」「黒人に知性などない」
最悪な人種差別がしっかりと存在する時代。例え彼らが有名になろうとも、そういう声は何処からか聞こえてくる。元々奴隷出身であったという心の痛む記憶。それ自体は本当に眉をしかめるばかりの当方。ですが。

そこで「なにくそ。俺は芸で皆を見返してやる」というストイックさには向かわないショコラ。

有名になって、お金を手に入れて。調子に乗ってしまうショコラ。高い服を着て。車に乗って。女も来るもの拒まず。そして心の苦しみも、イライラも酒とギャンブルに当ててしまう。そしていつに間にか借金まみれ。(そういえば、売れないサーカス団時代からカードゲームとかしていました)

「あかん。そういう所がやっさんを思わせるんやで」天性のお笑いの才能とセンスを持っているのに。「小さなことからコツコツと」が出来ないショコラ。

対する生真面目なフィティット。技術面は文句なし。でも揺れ動くショコラの気持ちにはじっくり向き合えない。「それよりもっと練習しようぜ」「もっと」「もっと」俺たちもっとやれるぜ。なのになんだお前は。昨日は何処に行っていたんだ。今日は何をしていたんだ。チャラチャラと浮ついている暇があったら、真面目に芸に向き合えよと。

「やかましいおかん」正に。これは中学生男子位の視点から見た「やかましいおかん」
そして案の定反抗する息子。
そんな感じになっていく二人。

二人の間がぎすぎすしていく中。マリーという看護師の女性と出会うショコラ。そして「調子乗ってんじゃねえよ!」と数日投獄(本当にねえ。あれ、何の罪なんですか)された時に知り合った、黒人の思想家。

「本当に純粋すぎるんよなあ…」確かに黒人であるが故に傷つけられた事は沢山あった。でも。彼らからの受け売りの思想に則って得た仕事に。己の身の丈が合わない。そして努力出来ない。結局位一夜漬けの付け焼刃で。ズタズタに終わったショコラ。

華やかなステージから姿を消したショコラ。そしてひっそりと暮らすフィティット。

その二人が再会した夜。フィティットの流した涙。
「俺がどうにかしてあげれていたら…」

そっとフィティットの肩に手を置きながら。 

慰めるなって 背中が黙って言うから 当方も声には出さないで 話しかけてる。(唐突にスマップの名曲:君は君だよ)

時代が悪かった。誰が悪かった。どうしたら良かった。ああすれば。こうすれば。そんなの、もう此処ではいいじゃないかと。

君は君だよ だから誰かの望むように 生きなくていいよ
君は君だよ だから僕には かけがえのない一人なんだよ
君は君だよ 他の誰にも かわりなんてできやしないんだから

多分。時間を巻き戻して、また出会った時からやり直しても二人は同じ流れになる。ショコラは調子に乗って、二人はすれ違って…ショコラは自滅する。もうこれは仕方が無い流れ。時代も誰も悪くない。今この場で誰をどう責めても。それは意味がない。だからそんな事より。

「二人で芸をやっている時。楽しかったな」

苦しくて。喧嘩もして。でも観客の前で芸をして、皆が思いっきり笑った時。最高だった。それでいいじゃないかと。
それでいいじゃないかと。

まあ。時間は本当に心の傷を癒しますから。苦い記憶は薄れていって。楽しかった事がフィティットの心にふんわりと残るでしょう。…そうあって欲しい。そして。

きっと今はあの世で。二人は穏やかに過ごしているんだろうと。そう思う当方。

映画部活動報告「ホームレス ニューヨークと寝た男」

「ホームレス ニューヨークと寝た男」観ました。

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ニューヨーク。マンハッタンの街並みを見下ろすビルの屋上に住むマーク。

現在50代。元モデルのマーク。端正な顔立ち。ジムに通い、体型も維持。シュッとしたスーツ、高そうな靴。スタイリッシュな出で立ち。
ファッションフォトグラファーという華々しい職業。日々ファッションショー通い。その他街角でもモデルやスタイルの良い女性を見かけては写真撮影。
毎日街を闊歩し。写真を撮って。カフェをハシゴして編集し。ジムに通い。夜は仲間内のパーティーに参加。時々映画のエキストラに出たりして小銭を稼いで。

楽しそうな生活を送るマーク。そんな彼の唯一の秘密。「マンハッタンの街並みを見下ろすビルの屋上に住んでいる」=「ホームレス」だという事。

旅行に行くからと、友人から自宅の鍵を預かった。その時勝手に合鍵を作り。その鍵を使って勝手に毎夜そのビルに侵入。屋上まで上がり。そして隣のビルに渡って。屋上の隙間に隠れて暮らすマーク。

なかなか興味深いドキュメンタリー映画が出たなと。予告を見て気になったので観に行ってきました。しかも当方の住む地方での公開初日に。

「人生に於いて『成功する』とは」『豊かさ』とは『家』『自由』とは」そんな事を追及した人の姿から何かを得たいと思って…いたのですが。


「何か思っていたんと違う…」もやもやと劇場を後にし。その後も脳内で反芻を繰り返し…やっぱりそう思う当方。


「恐らく当方は『つまんない大人』になったからだ」だからこういう見方になってしまう。
そんな「つまんねえ話」をお酒片手に語らせて頂きますが。

ドキュメンタリー映画を今年になってから幾つか観ていて思った事。それは「純粋なドキュメンタリー映画というものは存在しないんじゃないか」という事。
乱暴な決めつけですが。
「一つの対象」に対してどこをどう切り取るか。どう見せるつもりなのか。作り手の思惑というものは絶対に存在する。そうでないと、ただのホームビデオだから。(奇跡的なホームビデオという奴もあるのかもしれませんが…例えば長年に於いて追い続ける「テレビのドキュメンタリー」というジャンルはまた違うのかもしれません。大家族モノとか)

つまりは映画でドキュメンタリーとして何かを撮るとき。恐らく作り手は「こういう題材の対象に対して、こうなるんじゃないか」なんて思いながらカメラを向けている。
でも「対象」もまた、ただ撮らせている訳ではない。
その「対象」はどう演じてくるのか。

カメラの前で100%ナチュラルな人間なんて居ない。どこか意識して。カメラ越しの相手に分かりやすいメッセージを送ろうとする。折角の機会なんだからと。ここぞと語られる主義主張。分かりやすい画を見せようとする。でも。

「結局そこには台本も筋書きも無い」

そんな中で。いつまでも自分を取り繕って良いように見せるのは限界が出てくる。そうなるとどんどん素が出ていって。そこで初めて現れる「リアル」
「対象」がそれを見せてくるのを待っているんじゃないかと。だとしたら、まあなんて意地悪なジャンルだと。

「何て分かりにくい話をしてしまったんだ…」持って回った話はもうやめますが。

当方がこの作品に期待していた「マークの主張」それが余りにも不透明で、不安定。

先程までの分かりにくい前振りの。その呈を成さない。何を見せたいのか分からない。そしてマークも言いたい事が初めから定まらない。ただヨタバナシが続く。

イケイケな生活を散々見せた後の「俺の住処」かつての華々しい生活。それを懐かしく噛みしめながらも、今のこの生活に対してのポリシーは余り語られない。(語っていたのかもしれませんが)

「なんて張りぼてなんだ…」つまんない大人当方はそっと眉を顰めるばかり。

見た目を取り繕って。昔見た華やかな世界にしがみつきたくて。ただ楽しい時間を伸ばしたい。それだけ。
見栄を張って、でも現実はぞっとする位惨め。落ちぶれたなんて言いたくない。だから見たくない。

男前でダンディな外見とは裏腹に、マシンガントークでひたすら語り続けるマーク。その内容は自慢。そして自嘲。その虚無感。薄っぺらい。

「僕は彼らとは違うから」「僕は上品なものが好きなんだ」
他の、いかにもなホームレス連中と自分は違うと言い切り。でもどう違うのか当方には分からず。

「でも時々涙が止まらなくなるんだ」不安定すぎる。でもそれ以上は語られず。

「確かにそんな生活は不安でしょうがね」当方の中の、一升瓶片手に持ったおいちゃん当方(イメージ菅原文太)がのっそり語りだしますが。

「どう考えても、あんた甘いわ。いい年して。そうやってキリギリスみたいな生活を続けて…でも実は今でも誰かが見出してくれて、全てが好転すると思っているやろう。俺はこんなはずじゃないと。俺のスペックを見ろよと。巷に溢れるつまんない奴らとは違うんやと」
止まらないおいちゃん当方。

「つまんない奴が。どれだけ頑張ってつまらない人生を送っていると思っている?誰もがつまらない奴が真面目に作った食べ物を食べて、真面目に作ったものに囲まれて生活しているのに。つまらない奴は死んでいるのか?夢が無いとでも?毎日真面目に働いて、大切にするものを守って、へとへとになって眠りに付く姿はつまんないのか?」

カメラを通して見たマークの姿は、恐らく一面的なのでしょうから。言い過ぎなんでしょうが。

マークの葛藤とやらをもっと見たかったと。そう思う当方。

(後、単純な疑問なんですが。この「勝手に合鍵を作られた友人」とはこの映画公開後どうなったんでしょう?他にもう一人勝手に合鍵を作って堂々と家に上がり込んで寛いでいましたけれど。あれ…通報ものやし。どうなったんですか?そして彼の周りの人達との関係性は?)

当方が観た日は公開初日でしたので。マーク本人が登場。挨拶がありました。



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(相変わらずの当方のシャッターセンスの無さよ…)

「この作品を初めてきちんと商業ベースに乗せて、評価してくれたのは日本だから。日本で働けないかという活動をしている」この発言に、先程のおいちゃん当方が過敏に反応。甘やかすなよと。

そして「後で山崎に連れて行ってくれるとの事で、楽しみにしている」とはしゃぐマークにもやもやする当方。
(京都大山崎にあるサントリーウイスキー山崎工場。当方も行った事がありますが、非常に上質な時間を送れる素敵な場所です)

「なんの為にこの都市に来たんだ!日本屈指のスラム街『西成』に連れて行けよ!」

したたか。
まあマークは結局どこででも生きていけるのでしょうけれど。ただ、当方は万が一マークを見かけても声を掛けたくはありません。だって。カメラ越しに言ってきていた。

「次は君の家に泊まりに行くよ!」

絶対に嫌だ。それだけは嫌ですから。

映画部活動報告「エゴン・シーレ 死と乙女」

エゴン・シーレ 死と乙女」観ました。


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オーストリア。28歳の若さでこの世を去った天才画家。エゴン・シーレ
1890~1918年。当時のウイーン世紀末美術史に名を残した一人。
彼の描く裸婦。そのセンセーショナルさは「ポルノ」「幼児性愛者」等の中傷も受けた。
彼の画家として生きた10年ほどを、淡々と描いた作品。

まあ…浅瀬に住む当方は、勿論彼の作品を語るような下地は持ち合わせていません。ましてやエゴン・シーレその人となりなど知る由も無い。

なので。何も考えずに観てしまった後から。慌ててエゴン・シーレについて調べたりした訳ですよ。というのも…。

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「主人公エゴンを演じた『ノア・サーヘドラ』が美しすぎて、まともな解釈が出来ない!」となったから。

エゴン・シーレ。鉄道員の父親は梅毒が頭まで回り、狂人となり死去。
錯乱状態になった父親の手に寄って証券などは燃やされた為、家は貧しかった。
名だたる美術学校に合格し、入学したが中退。4歳年下の妹「ゲルティ」をモデルに、かなりきわどいヌードを描いて画家として生活していくようになる。

(この映画のゲルティ役の女優さんがねえ…安達祐実似なんですよ。基本的には童顔で小柄。でもしっかりとした母親になっていく所も演じられる。
因みに、エゴン役の俳優さんは当方は伊勢谷友介似だなあと思っていました)

正直「これ二人デキてるやろ」としか思えない危ない兄妹。でも妹が自分の友達と付き合いだした事で、キレッキレにキレるエゴン。離れる二人。

そんな時。支援者であったクリムトから、モデルのヴァリを紹介される。瞬く間に恋に落ちる二人。運命の恋。

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二人で居れば。二人ならば。幸せになれるはずだった。なのに。

エゴンは中流家庭のエディットと結婚。ヴァリとは別れてしまう。

そして時が流れ。妊娠中のエディットがスペイン熱で死去。その数日後にエゴンも同じ病でこの世を去った。

というエゴン・シーレの半生を淡々と描いておられました…。


これねえ。エゴンの生み出した作品の凄さとかは別物として…どう考えても「エゴン人でなし」としか思えないんですよ。当方は。

全体的にはっきっりとした追及は避けてしれっと受け流していましたけれど…。

どう考えても妹ゲルティとはデキてたし、色んなモデルとも絡んでいた。あの家出少女の淫行疑惑も、否定はされたけれど…何だか不透明。妹ゲルティには「何が結婚だ。お前未成年やろ!」ってキレてましたけれど…ヴァリだって出会った時は17歳。そして妹と同い年。後に結婚したエディットだって、彼女の姉にもちゃっかり手を出していたというスケベ野郎。なのに。

「ノア・サーヘドラの圧倒的な男前さ。このスペックならば仕方ない。そりゃあこのビジュアルに生まれたら好き放題に生きていくよ。女たらし上等!」

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余りにも彼が美しすぎて。滴る色っぽさ。その半端無い説得力。まあ、仕方ないなエゴン。だってこんなに恰好良いんやもの。


「ちょっと待て。あくまでこれは映画やぞ」帰宅後我に返って「エゴン・シーレ」を検索する当方。本当のエゴンはどうだったのかと。

「何ていうか…川端康成先生系というか…」

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川端康成先生もチャーミングな顔立ちですが。何というか…今回のエゴン像とは全く違う。もう「ホームレス中学生」を小池徹平が演じたのと同じくらい違う。

この映画作品に於いて、ゲルティを演じた(安達祐実似)彼女くらいでしたよ。歳相応に見えたのは。エゴンはどう見ても20代後半~のアラサーにしか見えず。ヴァリも演技力の素晴らしさ云々は別にして、やっぱり17歳~21歳には見えなかった。何だか大人っぽくて。小粋な印象。

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そういう「お洒落フィルター」を少しずつ外して考えてみたら。
感じ方が変わっていく当方。

21歳と17歳のカップル。大学生くらいの若者と十代の女子の恋。意気投合して。二人はいつでも一緒。運命共同体。

当方のイメージする美大系カップルというか…破天荒で、でも壊れやすい芸術家(気取り)の彼氏を支える彼女。
芸術と割り切っている(つもり)だから、彼氏が他の女と絡んでも、表面上ではあっさりと受け流してみせる。私たちは自由。お互いを大切なパートナーだとは思っているけれど、結婚というしきたりには縛られたくない。

ですがね。はたから見てもお似合いなその二人が。何だかよく分からんけれど、いつの間にか破局。そしてその次の相手とあっさり結婚。これはあるある。リアルに見たことがある。

そして時が流れて…「つまんないけれど安定した生活」の中で「あの時…」と懐かしく噛みしめる。そういう恋だったんじゃないかと。

ヴァリのその後。悲しくなるばかりでしたが。

「馬鹿だな…エゴン」

言いたい事は一杯ある。でもエゴンが選んだ人生に、後から他人がたらればで文句を付けてはいけないなと。ぐっと言葉を飲み込んで。

ただ一つ言えること。「やっぱり28年で終える人生は短すぎる」

多くの作品を残したエゴン。でも。家族を得て。新しい命が生まれて。そこからエゴンの円熟した世界がまた開けたのだろうと思うと、本当に悔やまれる。

「また機会があれば。エゴンの絵を見てみよう」そう思った当方。

映画部活動報告「ジムノペディに乱れる」

ジムノペディに乱れる」観ました。


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日活ロマンポルノ45周年。ロマンポルノ・リブート・プロジェクト企画作品。

「総尺80分前後。10分に1回の濡れ場。製作費は全作品一律。撮影期間一週間。完全オリジナル。ロマンポルノ初監督」を今回のマニフェストに於いて。

1970~1980年代。「10分に1回の濡れ場」をテーマに作られた、伝説の「日活ロマンポルノ」そのリブート企画。

「監督行定勲 主演板尾創路

イッツジ―。色んな映画でお見掛けしますが。当方は「空気人形」のあの男性が忘れられず。

正直、当方の属する映画部では苦手意識のある行定監督。ですが…当方はたまらなく板尾創路氏が好きでして。なので、映画部活動10日余りのブランクを経て、リハビリ回として観てきました。

主人公の「先生」かつてベルリン映画祭で何かの賞を撮ったらしい映画監督。でも今はぱっとせず。気の進まない作品を撮らされ。専門学校の講師で生活する日々。そんな彼の一週間を描いた作品。


「当方は。一体何を求めて来たんやろう。そもそも、映画館で求めるエロって一体なんやろう」鑑賞後。もやもやする当方。

1971年~1988年の、日活ロマンポルノ作品を当方は知りません。そもそも生まれていない時があるし。生まれてからも観れる年代では無かったし。ですが。

何だか今では笑ってしまう様な、直接的なタイトルやコンセプト。それらが正にエロであったり、時にはおかしくもあり、もの哀しくもある。そういうレーベルであったという認識であるのですが。

「おそらく、エロコンテンツはインターネットの普及に伴って大きく進化した。情報が容易く、しかも無料でいくらでも手に入るこの現代で。そもそも『恥ずかしい事』『あくまでも個人の趣味嗜好』とされるエロ文化は、一々多くの人と一つの場所で共有するものでは無くなった。個人のニーズに沿った情報を、個人の単位で得られる現代に。この手のエロ映画は衰退の一途を辿る」
なのに…人々は懐かしさと共に、新しい希望を抱いてしまう。

「新しい『日活ロマンポルノ』」

酔った勢いでそれらしい事を書きましたが、じゃあ当方にとってこの作品はどうだったのかと言うと…歯切れが悪く答える感じです。

公開からそれなりに時も経っていますし、ばっさり大筋を書いてしまいますが。(一応筋はあるんですよ。)

落ち目の映画監督。妻は意識不明の寝たきり。かつては志を持って作品に取り組んでいた。でも今は気持ちが付いていかなくて。実際やっている事はやりたくもない事ばかり。お金も無い。地位も無い。愛されるものも、愛する相手も居ない。ただただ今自分を取り巻くものは虚無感。
そんな彼を取り巻く女たち。昔からの腐れ縁。やりたくもない現場の若い女優。専門学校の教え子。
彼女たちと交わりながらも。満たされない心。一体自分は何故こんな事をしているのか…。

「だるい!」一喝。まとめてしまうともう…それしか言えない当方。

後ね…正直。エロが全然当方に嵌らなかったんですね。何と言うか…凄く真っ当すぎて。

『AV人生相談』伝説のネットラジオ
通勤等、まあまあ長めの移動時間を日々要する当方の耳のお友達、ネットラジオ
数多のジャンルを嗜む当方が一時聞いていた件のラジオ(現在は配信をお休み中)そのメインパーソナリティーの加藤タニゾー先生のお言葉。
「AVは早送りするな」
「AV早送り封印キャンペーン」を掲げていたこのコンテンツ。きちんと初めから最後まで通して見る事で、新たな興奮材料があったり、悲壮感が無くなったり、兎に角作品全体の奥が深まると何度も何度も訴えておられた。

「エロい何某らの作品を見る時。おそらくそれをチョイスした人間は、己がエキサイト出来るシーン以外には重きが置けない」

それは己の満たしたいものがエロだから。それに付随する茶番は必要ないから。だから、己がエキサイティング出来るシーン以外は早送りで結構。ですが。

「一応、当方が優先順位の上位に挙げて映画館で観ようとしていたのは…所謂茶番のシーンでした」

一応商業映画として映画館で流れる。有名な映画監督。それなりに名の通った役者を使う。そんな時。一人自室で観るようなとんでもエロ映像が流れるなんて、当方も思いませんよ。

AVなら早送りされるシーンがきっちりしていて。そしてちょこちょこと入ってくるエロいシーンがあって。
それがこの時代に「日活ロマンポルノ」として復活される王道作品。

そう…なんですかね?

「男が夢を見てもいいのは30歳までだ」「しっかりしろ」「定職に就け」「つまらない仕事などない」「まずは文句を言わずにベストを尽くせ」「人のせいにするな」「みっともない真似をするな」「そんな小娘にすがるな」「お金に関して…少なくとも入院費に付いては病院に相談してみな」エトセトラエトセトラ。夢見る少女じゃいられない当方の真っ当なご意見炸裂。まあ。野暮なのは承知なので、これ以上は言いませんよ。

もう兎に角「先生」のうだうだがだるい!

そして先生に絡む女たちの「喋りすぎ」感。「昔から…好きだったんだ」みたいな事を行為中喋り続ける女。「先生はいけないんだ」等々喋り続ける女。うるせえ!集中しろよと。何か色々喋りすぎなんだよ。セックスしながら説明するんじゃないよとイラつく当方。

そして、基本的に先生の受け身でありながらただやるだけのセックス。なので、基本的には単調な繰り返し。最早「コント!ジムノペティ―」と言ってもいいくらいの「この曲が流れたら…セックス!」の流れ。

一人、「先生の元嫁の、60万を貰う為好きでもない相手とセックス」というマニアック枠がありましたが…まあこれは当方が嵌らなかっただけなんでしょうが…敢えて言えば「彼女だけとは言わないけれど…カーテン閉めような」としか言えない当方。

あの、メンヘラ学生が一人よがるシーンなんて、先生にシンクロ、又はそれ以上の険しい表情をしてしまった当方。
あんた何やってんだ。て言うか、何かキメているのかと。

本来早送りするパートである茶番が嵌らず。そしてエロも嵌らなかったら。一体何処にどう気持ちを埋めればいいのか。

(ああでも、岡村いずみさんは好きでした。ああいう小柄で巨乳。生意気キャラは大好きです)

何だかぼんやりと観ていたら。突然に畳みかけていく、ラスト10分余り。その唐突な「はっ。これ映画だ」という疾走感。そして幕切れ。

「なんやこれ。どうしたらいいの。この気持ちは何処に持っていったらいいの」置いてきぼり。ですが。

エロコンテンツほど、統一ルールの無いものは無いからな…そして「変態映画部門」を得手とする当方が、この設定とこのラストだけ固定されたらどう話を転がすかな…なんて、後日から脳内で考えたり。

確かに夢のあるコンテンツだなと、だからリブートされるんだなあと気づいた当方。

映画部活動報告「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」

「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」観ました。

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ロシアのヴィタリー・マンスキー監督の撮ったドキュメンタリー作品。
その対象は…「北朝鮮の、とある平均的な親子の日常」
2年にも及ぶ、北朝鮮との交渉を経て。「8歳のジンミちゃんとその両親」を撮る事になったが。

両親は事前に聞いていた職業から「変更」。一家はおよそ生活感の無い大きなマンションに居を構えていて。ジンミちゃんの通う学校の様子もおかしい。
何度も会話をやり直しさせられる「出演者たち」
架空の職場仲間。学校の先生。クラスメイト。そしてジンミちゃん一家そのもの。
北朝鮮側の監督によって演出されまくってしまう「ジンミちゃん一家の暮らし」最早それは「ドキュメンタリー映画」としての体を成さず。

そんな北朝鮮側による乗っ取りの毎日。ナチュラルな彼らの暮らしを撮るのは不可能と判断したヴィタリー監督は、その「彼らを演出する北朝鮮側」にカメラの焦点を向ける。
勿論合意なはずがない。完成後。北朝鮮が激怒、ロシアに抗議し、本国ロシアでは上映禁止となった。そんな隠し撮りドキュメンタリー映画作品。

「それは…面白そうやなあ」

興味本位で。難しい事を言うとややこしくなりますから。興味があったので。観に行きました。

結果。「また一層、訳が分からん国やなあという謎が深まった」もやもやが収まらず。

北朝鮮という国のシークレット感。「あの年々髪型が黒電話の受話器みたいになっている、あの人。あれどういう髪型なん」とニュースで見る度突っ込んでしまう当方。割と定期的に精度の悪いロケットを打ち上げるお騒がせ。それを伝える、ニュースキャスター女性の独特なテンション。
ちょっと信じられない位に国民はその受話器ヘアーをリスペクトし。過剰なまでのその敬意の示し方。一々大仰。
でも。ドラえもんの「独裁者スイッチ」のごとく。時々カンに触ってしまうのか…唐突に「粛清」される受話器ヘアーの近くに居る人達。ヤクザ顔負け。
そして。どうやら国民間でかなりの貧富の差があるらしい。何だかギリギリの北の王国。いつ崩壊してもおかしくなさそうなのに…意外と持ちこたえている。

当方は北朝鮮という国に対して、きちんと勉強した訳ではありませんので…正直、こういう印象しか無いのですが。

その国の、平均的な家族を撮るというミッション。

ドキュメンタリー映画とは何ぞやみたいな事を、当方は語る学はありません。沢山観た訳でも無いし。どこかで学んだ訳でも無いし。ですが。

そもそも「北朝鮮でドキュメンタリーを撮る」という事は、元々何を目的としていたんですかね?

勿論当方は北朝鮮に行った事はありませんし、この国の事はテレビなどで見た程度しか知りません。ですが…「北朝鮮という国では、全然自由に振舞えない。常に監視役がぴったり張り付いている。下手な真似をしたら…ひょっとしたら消される」という情報は何となく知っています。

そんな国が、まともにイチ国民の姿を素直に撮らせてくれるものか…?

演出してくるのは予測出来るんじゃないのか。

あくまでも当方の勝手な推測であって。もしかしたらとんちんかんな見方になるかもですが。

「これ。初めから撮ろうとしたのは『北朝鮮の演出』だったんじゃないの?」

先程書いた、当方のぼんやりとした北朝鮮のイメージ。でも。これらの映像を昼休憩でテレビのワイドショーとかで見ている時。「どこまで本当なんだか」と思う当方。
「確かにおかしな国なんだろうけれど。この国民の姿は本当なの?心の底からこういうリアクションじゃないやろう。作ってる。演じてるよ」

ジンミちゃんを撮りたかったのは確か。でも、彼女を撮るとき、北朝鮮はどういう世界観を作って、どう演出するのか。その虚構の世界を演じる者は。そして、演じさせる者の姿は。

ジンミちゃんを通して、本当に撮りたかったもの。
北朝鮮国民という演者と、北朝鮮という演出者。それはもう身に沁みついた国技。でも。実際の演者達が、ふっと『素』を見せる、その瞬間。それを撮りたい。

当方は、何だかそんな気がしたんですけれどね。

(じゃなきゃあ…本当に「ああもうイライラする。勝手にチャチャ入れて。こんなん、全然まともなやつ撮れへんやないか。もういっそコイツら撮ったれ」という流れですか?うーん。当て付けがましいなあ…)

テーマはインパクト大ですし、興味もそそられる。でも…内容は正直、お腹一杯で観てしまったら…ちょっと寝てしまいそうな単調な繰り返しでした。

大げさなリアクションと共に語られる、受話器ヘア―へのリスペクト。基本的にはそればっかりで。そこにたまに差し込まれる、演者達のうんざりしたような表情。

何でこんな演出を付けないといけないのか。「うっかり消される」事への恐怖?その消される対象は「自分」?「国」?一体誰に見せるためにこんな事をしているのか。
本来ならば、こんな…演出をする行為はとんだ人権侵害。表現の自由や思想の自由を奪っているのだから。でも…その恐ろしさが、何故か「哀しい」「滑稽」に見えて。演出者の姿にやるせなくなってきて…。

一体この気持ちをどうしたらいいのか。そう思っていた最後に。突然現れるリアル。「ジンミちゃんの涙」
(本当はこの下りが一番熱く語れるんですが…やっぱり…ネタバレはしてはいけないと思いますので…)

「ここまでだらだらと語ってきた嘘話の中で。唯一の真実」

暗闇の映画館で。ぞっとした瞬間。これはあかん。本当にあかん。


映画館を後にしながら。「ジンミちゃんは。あの家族は。…そして北朝鮮の監督は今現在無事に暮らしているのか?」心配になってきた当方。

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映画部活動報告「人生フルーツ」

「人生フルーツ」観ました。

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愛知県春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅にある雑木林に囲まれた平屋。そこに住む、ある夫婦のドキュメンタリー。

津端修一さん90歳。妻の英子さん87歳。かつて日本住宅公団のエースであった建築家の修一さん。日本にある幾つもの団地や集合住宅等の都市計画に携わり。高蔵寺ニュータウンも「街と自然が共存する」というコンセプトで計画。でも。

おりしも高度経済成長を見せていた1960年代。そんなのんびりとしたコンセプトは実現せず。結局出来たのは「どこが自分の家か見分けが付かない」様な、画一的な団地達。かつてあった木々は切られ。ただ無機質な街が出来てしまった。

修一さんは一線から離れ。その街に土地を買い。自宅を建て。家族と共に、木や野菜、果物の木を植えた。そして50年。

雑木林に囲まれた。その終の棲家で。コツコツと丁寧に暮らしてきた、その夫婦の姿を描いた。そんな作品。

「これは。究極のスローライフ。そして理想のシニアライフだ」

四季折々。庭で取れる野菜や果物。それらの世話をして。大切に頂いて。慎ましく暮らす二人。もう「自称スノッブ」な連中垂涎の憧れ素敵ライフ。でも。

これは、ただの年寄り二人のほのぼの可愛いお話しでは無い。

(まあ…ある意味、スノッブを突き詰めて毎日積み上げた最終形態とは言えますが)


丁度当方が映画鑑賞する前日の「プロフェッショナル仕事の流儀」でも「住宅をリノベーションする」建築家が、近年都市の再生事業にも携わっている事を取り上げていました。
そこでは、当方も良く知っている近くの街が取り上げられていて。つまりは「高度経済成長。ベビーブーム。そんなイケイケな時代にどんどん生み出された集合住宅や団地の老朽化。空き家問題。都市に人口が流れていく中で、どうやって地方の空洞化を解決していくのか」みたいな案件。
そこで件の建築家は「その土地の元々持つ歴史や、地形。それを踏まえた上で街を作らないといけない」という事を言っていて。

恰好良いデザイナーズマンション。はやりの古民家。建売住宅。勿論数多のニーズと価値観がありますし、どれも否定されるいわれは無い。ただ。

「100年後も住みたい家なのか」家は本来使い捨てではない。
その街で生きていく。家は外でどんなにつらい事があっても帰ったらほっとする場所。
大切な、きらきらした場所であるはずで。


恐らく。修一さんは「高蔵寺」という場所で。自然に囲まれて暮らす家族達を思い描いていた。でも。出来上がった街は、自分の思い描いたモノでは無かった。

だから。自分でそこに住んで。木を植えた。近くの学校なども巻き込んで、山にもどんぐりを植えた。そしてそのどんぐりは今大きくなって山を育てている。

一見穏やかに見える、その人の信念と執念。

(下世話な意見ですが…それって、周りに住む「高蔵寺ニュータウンに惹かれて住んだ人達」にはどう映っていたんですかね?)

また妻の英子さんの「寄り添うってこういう事だな」という姿。

「修一さん」「英子さん」と、幾つになっても互いをそう呼び合って。
造り酒屋の一人娘であった英子さんは「夫にはきちんとしたものを食べさせて、きちんとしたものを着せる。夫がきちんとしているという事は、引いては自分もそうなる」という実家での教え通りに行動している。
結婚当初の貧乏な時代も。修一さんにそうは思わせず。奔走し。
歳を取った今でも、地味かもしれないけれど身なりはこざっぱりと整えて。(結構お洒落)
食べ物には気を使い。殆どが手作り。おやつにはケーキを焼いて。その「昨今SNSで上げてくる、女子力自慢の見栄えの良い食べ物」では無い「素朴なお婆ちゃんのケーキ」でもその味は絶対に無敵なはずで。「修一さんが好きだから」と料理にじゃがいもをよく使う。でも「私が唯一嫌いなのはじゃがいも」とあまり食べない。
朝は絶対ご飯という修一さんの朝ごはんを作るけれど。一緒に食べる自分は絶対にパン。

相手を尊敬し、その信条を大切にする。支える。
でも、自分の意見を押し殺さない。曲げられないものは無理に曲げない。

同じ方向を向いて。気持ちや思いが交わる事が多い。だから一緒に居て楽しくて。一緒に居る。でも。
全てが全部、同じ方向を向いている訳が無い。だけどそういうものだと、どこかであっさりと折り合いをつけて。

「彼女は僕の大切なガールフレンドだから」

まあ。どこまでをスクリーンの前に座る我々に見せるのかは、彼らの自由ですので。ただぼんやりと受け止めて推測しているだけなんですが。

結婚して半世紀以上。スクリーンの前では穏やかな二人の。絶対に簡単な言葉では言い尽くせない色々。それらを越えて今、一見穏やかな姿を見せている。

そして。年齢的に、やっぱりこういう時間は永遠ではないという現実。


津端夫妻の姪っ子。恐らく年齢的には現在もう立派な社会人なのであろう彼女。その姪っ子が幼かった頃に「シルバニアファミリーの家が欲しい」とねだられて。
「プラスチックの家なんて駄目だ」と姪っ子の意見を聞きながら作ったという「シルバニアファミリーの家」その余りの立派さ。丁寧に作られたその大きな家を見た時。何故かどっと涙が出た当方。「これは一生ものやないか」

こんなに。モノや人を大切にして。そんなお爺ちゃん、お婆ちゃんのありがたみが愛おしくて。でもそれを痛いくらいに感じる時。その人は居なくて。


人生の幕引き。誰もがどうなるかなんて分からない。でも、これは…羨ましい。幸せなんじゃないか。


「人生は、長く生きると美しくなる」素晴らしい。

修一さんの。90歳で仕事として関わった九州の精神科施設。いつか機会があれば見てみたいと思いました。

映画部活動報告「ネオン・デーモン」

「ネオン・デーモン」観ました。

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N.W.レフン監督。

モデルを目指してロサンゼルスにやって来た15歳の少女。有力なカメラマンやデザイナーに見出だされ。トントン拍子にスターへの階段を登りだそうとする彼女を。引きずり下ろそうとする女たち。けれど。
彼女もまた、ただ者では無かった。
彼女の魅力であった純粋さが。次第に邪悪なモノへと変わっていって。

エル・ファニング主演。

「これは…好き嫌いがはっきりしそうな…」映画鑑賞後。歯切れが悪くなる当方。「予告は凄い良かったんやけれど」

当方ですか…嫌いではないけれど…「昔はこういうの、よく見掛けたなあ~。単館マニアック枠で」という…おいちゃんになった当方にはマッチしない感じというか。

目の前の作品をどうこう言う時に、他の作品を持ち出してくるのは…お行儀の良い事ではありませんが…当方の中での蜷川実花映画的な作品。

「センセーショナルな題材で。極彩色でインパクトを付けて。絵的にも音楽もノリノリなんやけれど。薄っぺらい」

エル・ファニング(長いので勝手ながら以降エルと省略させて頂きます)起用が意外と諸刃の刃なのか。

確かに可愛いし、段々擦れていくいくのも様にはなっていたんですけれど。絵的には。
ちょっと、年齢制限なのか彼女サイドの意向なのか…守られすぎていて、説得力が無い。

「彼女は逸材だ」エルを見た、所謂「えらい大人たち」は軒並みそう言うんですがね。「うん。だってエルやからな」としか言いようがない当方。

あくまでも商品を引き立てる為。マネキン的な要素が第一条件で。個性は邪魔でしかない。そうして画一的になっていくモデルたち。それを目にし過ぎて飽きている「えらい大人たち」そこに現れた、モデル体型のファニーフェイス。いかにも純粋そうな子供。

その実力を見せろと。

あの。「新人なんて撮らない」と言われていたカメラマンとの、最高の撮影体験。「服を脱げ。全部脱げ」(あ~ベタやなあ。そうくると思ったよ)ペイントされ、撮影が開始。と思ったら暗転。「最高だったわ!」頬を上気させてはしゃぎながらスタジオを後にするエル。ちょっと待てと。

勿論、当方はエルの裸なんざ見たくありませんよ。ただ。その「最高だった」撮影現場はどうやったんやと。その気難しいけれど天才なカメラマンは。一体彼女の何を見て、どんな可能性を感じてどう表現したんだと。それをはっきり見せないと。観客には彼女の魅力は伝わらんやろう。

話が前後するんですが。序盤に「恐らくSMショー的なモノを、目を輝かせて見る女たち」みたいなシーンもありましたが。あれも実際のショーに関しては初めに縄で縛られた人が映るだけで。あとはただひたすら顔を見合わせて笑ったり喜ぶ女たちが流れたんですが。あの時から当方の中にもやもやがくすぶり出しましたね。「そのショーの全貌は見せなくて良いけれど。そのショーの凄さは全く伝わってきていないよ!」大体、日本の縄師の方とかはどう思うか…実際見た事無いですけれど。ショーレベルとか、芸術的らしいですし。

つまりは、所謂日本映画でアイドルを使う時にありがちな「朝チュン」(ベットシーンなどでそう匂わせて、だんだんぼやけて暗転。朝になっていて鳥の声で目覚める二人。事後っぽい雰囲気)的な演出が多かったように思ったんですね。

観ている方にはいまいち分からん、イノセントな魅力によって「えらい大人」に気に入られて。モデル界の入り口に立ったエル。これからの驀進していくのであろう、彼女のこれから。

成功体験が。エルの中にあった邪悪な心を引き出していく。

「うん。というか調子乗っちゃったんやね」
「私は知っていた。自分が美しいという事を。これで生きていけると」浅はかだな~。若さって恐ろしい。思っていても言ってはいけないで、それ。聞いてる人によっては癇に障るし。

出る杭は打たれる。

案の定。モデルたちが。そしてあの人が。エルを引きずり下ろそうと、牙を剥いて襲ってくる。そりゃそうやろう。彼女たちはある意味、あの山猫なんやから。

この作品の少女に関しては、邪悪というか…性格の悪さが引き出されていったんやなあとしか見えなかった当方。「純粋な少女が無意識に持つ邪悪とか禍々しいとか。それを表現できていたのは『害虫』『好きだ』時代の宮崎あおいぐらいだよ!」

そこからはもう、どんどんアートで禍々しい絵面の連続。まあ、元々がそういう「美しい映像を眺める」作品だと当方は早めに判断したので。中身がなくともそんなもんだと。あれこれ考えず。

理詰めでストーリーを詰めていったら、この作品のビジュアルが崩れる。だからどちらのバランスを取ったのかという結果で。

まあ。あれですわ。当方の言う『オサレなバーで無音で流れていそうな映像映画』オサレバージャンルの最新作。

ただ。映画が終わった後、若いカップルを目にしてしまい。

「どっちが誘ったんだ。そして今日これから、二人は大丈夫か」思わず心配してしまった当方。

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